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**三男:[[有馬則如]] - 長十郎、側室金児氏の所生。享保3年(1718年)5月5日、10歳で死去 |
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*生母不明の子女 |
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**女子:梅渓院 - [[稲葉菫通]]正室 |
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2020年7月5日 (日) 05:25時点における版
有馬則維像(篠山神社蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 延宝2年3月3日(1674年4月8日) |
死没 | 元文3年4月1日(1738年5月19日) |
別名 | 虎之助、兵庫(通称)、嗺翁(法号) |
諡号 | 梅厳公 |
戒名 | 梅巌院殿嗺翁道秀大居士 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従四位下、玄蕃頭、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 筑後久留米藩主 |
氏族 | 石野氏→摂津有馬氏 |
父母 |
石野則員、小笠原長真娘 有馬則故、有馬頼旨 |
兄弟 | 石野範種、柴田勝定室、則維ら |
妻 |
谷衛広娘・市 金児氏、小林氏 |
子 |
則矩、大次郎、則如、梅渓院、頼徸、 則恵、浄心院、成仙院 美代 |
有馬 則維(ありま のりふさ)は、筑後久留米藩の第6代藩主。久留米藩有馬家7代。
生涯
延宝2年(1674年)、旗本石野則員の五男として生まれる。石野氏・有馬氏はともに赤松氏の庶流であり、久留米有馬家の祖・有馬則頼の娘は石野氏満(赤松氏満)に嫁いでいる。則維は氏満の玄孫であり、有馬則頼の外来孫にあたる。
貞享元年(1684年)、旗本・有馬則故(御使番3500石。則頼の孫)の養子となる。元禄5年(1692年)10月28日、第5代将軍・徳川綱吉に御目見する。
宝永3年(1706年)4月、久留米藩主・有馬頼旨の末期養子となり、5月2日に正式に遺領を継承する。当初、久留米藩有馬家では則維の次男・大二郎を養嗣子に迎えることを考えていたものの、幕府の指示により則維に改めたようである。宝永3年(1706年)12月19日、従四位下玄蕃頭に叙任する。後に侍従に任官する。正徳3年(1713年)4月12日、初めてお国入りする許可を得る。
藩主となってからは改革に努めた。当時の藩は財政が悪化しており、則維は役人の整理や実力による官吏の登用や倹約によって財政を立て直そうとした。また、家老の合議体制を弱め、藩主の実権を強化した。
享保14年(1729年)7月6日、隠居して四男の頼徸に家督を譲る。元文3年(1738年)4月1日死去、享年65。
系譜
- 父:石野則員
- 母:小笠原長真の娘
- 養父:有馬則故(1635-1713)、有馬頼旨(1685-1706)
- 正室:市 - 谷衛広の娘
- 長男:有馬則矩 - 幼名は岩松、正室の所生。宝永5年(1708年)7月7日、8歳で死去
- 次男:大次郎 - 正室の所生。宝永5年(1708年)11月23日、7歳で死去
- 側室:金児氏
- 三男:有馬則如 - 長十郎、側室金児氏の所生。享保3年(1718年)5月5日、10歳で死去
- 室:小林氏
- 四男:有馬頼徸(1714-1783)
- 生母不明の子女
- 養子
脚注
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
- 藩史大事典 九州編 (雄山閣 藤野保、木村礎著)など