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「椋梨藤太」の版間の差分

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[[小早川氏]]庶流で、[[小早川隆景]]死後に[[毛利氏]]家臣となった[[椋梨氏]]の[[分家]]出身。家格は遠近附士で禄高は49石であった。[[嘉永]]3年([[1851年]])に密用方から政務座役に抜擢され、[[長州藩]]の重役になる。長州藩校、[[明倫館]]に深く関わっている。[[幕末]]の長州藩において、[[中川宇右衛門]]とともに保守佐幕派(俗論派)の代表的人物であった。長州藩の改革派(のち、[[長州正義派|正義派]])の[[村田清風]]・[[周布政之助]]・[[木戸孝允|桂小五郎]]らの陣営と藩内の主導権争いを繰り広げた。嘉永6年(1853年)に政務座役を辞任させられ、周布政之助に実権を奪われるが、安政2年([[1855年]])に再び実権を掌握した。安政5年([[1858年]])、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]代官に転じ、[[万延]]元年([[1860年]])までつとめた。
[[小早川氏]]庶流で、[[小早川隆景]]死後に[[毛利氏]]家臣となった[[椋梨氏]]の[[分家]]出身。家格は遠近附士で禄高は49石であった。[[嘉永]]3年([[1851年]])に密用方から政務座役に抜擢され、[[長州藩]]の重役になる。長州藩校、[[明倫館]]に深く関わっている。[[幕末]]の長州藩において、[[中川宇右衛門]]とともに保守佐幕派(俗論派)の代表的人物であった。長州藩の改革派(のち、[[長州正義派|正義派]])の[[村田清風]]・[[周布政之助]]・[[木戸孝允|桂小五郎]]らの陣営と藩内の主導権争いを繰り広げた。嘉永6年(1853年)に政務座役を辞任させられ、周布政之助に実権を奪われるが、安政2年([[1855年]])に再び実権を掌握した。安政5年([[1858年]])、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]代官に転じ、[[万延]]元年([[1860年]])までつとめた。


元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]])[[禁門の変]]で暴走した正義派の壊滅後、同月から始まる[[長州征討|第一征長]]後では幕府への恭順を訴え、周布政之助を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ解散令を出し、[[益田親施]]・[[福原元たけ|福原元僴]]・[[国司親相]]三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。そして政敵である周布を自害へと追い込み、正義派の面々を大量に処刑していった。
元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]])[[禁門の変]]で暴走した正義派の壊滅後、同月から始まる[[長州征討|第一征長]]後では幕府への恭順を訴え、周布政之助を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ解散令を出し、[[益田親施]]・[[福原元僴]]・[[国司親相]]三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。そして政敵である周布を自害へと追い込み、正義派の面々を大量に処刑していった。


しかし、この粛清に危機感を募らせた[[高杉晋作]]・[[伊藤博文|伊藤俊輔]]らが[[元治]]元年[[12月15日_(旧暦)|12月15日]]([[1865年]][[1月12日]])に[[功山寺]]で決起([[功山寺挙兵]])、諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865年)1月の[[絵堂の戦い]]によって形勢は逆転、但馬に潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、武備恭順・[[尊王論|尊王]]・破約攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨藤太は失脚、同年2月に[[岩国藩|岩国藩主]]・[[吉川経健]]を頼って逃亡した。
しかし、この粛清に危機感を募らせた[[高杉晋作]]・[[伊藤博文|伊藤俊輔]]らが[[元治]]元年[[12月15日_(旧暦)|12月15日]]([[1865年]][[1月12日]])に[[功山寺]]で決起([[功山寺挙兵]])、諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865年)1月の[[絵堂の戦い]]によって形勢は逆転、但馬に潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、武備恭順・[[尊王論|尊王]]・破約攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨藤太は失脚、同年2月に[[岩国藩|岩国藩主]]・[[吉川経健]]を頼って逃亡した。

2020年7月5日 (日) 05:22時点における版

 
椋梨藤太
時代 江戸時代後期 - 末期
生誕 文化2年(1805年
死没 慶応元年閏5月28日1865年7月20日
別名 椋梨景治
戒名 法名 遁翁自楽居士
墓所 山口県萩市江向の福源山徳隣寺
主君 毛利斉熙斉元斉広敬親
長州藩政務座
氏族 桓武平氏良文流椋梨氏
中井栄次郎(萩藩大組中井治郎右衛門養子)
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椋梨 藤太(むくなし とうた)は、日本の武士長州藩士。長門国に生まれた。は景治。

来歴

小早川氏庶流で、小早川隆景死後に毛利氏家臣となった椋梨氏分家出身。家格は遠近附士で禄高は49石であった。嘉永3年(1851年)に密用方から政務座役に抜擢され、長州藩の重役になる。長州藩校、明倫館に深く関わっている。幕末の長州藩において、中川宇右衛門とともに保守佐幕派(俗論派)の代表的人物であった。長州藩の改革派(のち、正義派)の村田清風周布政之助桂小五郎らの陣営と藩内の主導権争いを繰り広げた。嘉永6年(1853年)に政務座役を辞任させられ、周布政之助に実権を奪われるが、安政2年(1855年)に再び実権を掌握した。安政5年(1858年)、熊毛郡代官に転じ、万延元年(1860年)までつとめた。

元治元年7月19日1864年8月20日禁門の変で暴走した正義派の壊滅後、同月から始まる第一征長後では幕府への恭順を訴え、周布政之助を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ解散令を出し、益田親施福原元僴国司親相三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。そして政敵である周布を自害へと追い込み、正義派の面々を大量に処刑していった。

しかし、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作伊藤俊輔らが元治元年12月15日1865年1月12日)に功山寺で決起(功山寺挙兵)、諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865年)1月の絵堂の戦いによって形勢は逆転、但馬に潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨藤太は失脚、同年2月に岩国藩主吉川経健を頼って逃亡した。

椋梨藤太は逃亡したものの、海が荒れたため行き先を変更さざるを得なくなり、最終的には津和野藩領内で捕らえられた。そして5月、息子の中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑された。

討幕派側の取調べの際に、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願しており、「斬首」の形で死んだのは椋梨のみであった。ただし、実際には同時期に中川宇右衛門も切腹させられているほか、小倉五右衛門岡本吉之進もその際に自決している。

登場作品

関連項目