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== 経歴 ==
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=== 修学時代 ===
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1874年(明治7年)9月[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]英語科に入学、後[[東京大学予備門]]に吸収されたが、1878年(明治11年)3月第二級在籍時、慢性胃病のため予備門を退学した<ref>増田(1987) p.28</ref>。
1874年(明治7年)9月[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]英語科に入学、後[[東京大学予備門]]に吸収されたが、1878年(明治11年)3月第二級在籍時、慢性胃病のため予備門を退学した<ref>増田(1987) p.28</ref>。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[谷小波]]『我が五十年』、東亜堂、1920年。
* [[谷小波]]『我が五十年』、東亜堂、1920年。
* 郷男爵記念会編『男爵[[郷誠之助]]君伝』、郷男爵記念会、1943年。
* 郷男爵記念会編『男爵[[郷誠之助]]君伝』、郷男爵記念会、1943年。
* 竹谷為次郎編『[[王子電気軌道]]株式会社二十五年史』、王子電気軌道、1935年。
* 竹谷為次郎編『[[王子電気軌道]]株式会社二十五年史』、王子電気軌道、1935年。

2020年7月3日 (金) 06:21時点における版

長松 篤棐
ながまつ あつすけ
生年月日 元治元年4月15日1864年5月20日
出生地 周防国吉敷郡矢原村
山口県山口市矢原648番地[1]
没年月日 1941年昭和16年)4月16日
死没地 東京府東京市赤坂区青山南町五丁目80番地[2]
東京都港区南青山三丁目10番南側付近)
出身校 東京大学理学科選科中退
ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク卒業
前職 学習院大学教授
現職 東京火災保険役員
所属政党木曜会、清交倶楽部[3]公正会[4]
称号 正三位勲二等男爵[5]Doctoris Philosophiae
配偶者 長松菅子
親族 長松幹貴族院勅選議員

当選回数 3
在任期間 1904年(明治37年)7月10日 - 1925年(大正14年)7月9日

日本の旗 貴族院男爵議員
選挙区 1
在任期間 1927年(昭和2年)11月12日 - 1932年(昭和7年)7月9日
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長松 篤棐(ながまつ あつすけ)は、戦前日本植物学者実業家政治家ドイツで植物学を学び、帰国後学習院大学教授を務めたが、間もなく非職を命じられて東京火災保険(現損害保険ジャパン)取締役に転身し、社長に上り詰める一方、男爵継承以降長きに渡り貴族院議員を務めた。

経歴

修学時代

元治元年(1864年)4月15日、周防国吉敷郡矢原村に長州藩長松幹の子として生まれた。明治2年(1869年)父幹は太政官に任じられており、これに従い上京したと思われる[6]。平河学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業[7]

1874年(明治7年)9月東京外国語学校英語科に入学、後東京大学予備門に吸収されたが、1878年(明治11年)3月第二級在籍時、慢性胃病のため予備門を退学した[8]

1880年(明治13年)9月学習院英学科後期四級に入学し[9]大久保忠礼徳大寺公弘山口弘達山崎治敏を同級生とするも、1881年(明治14年)1月退学する[10]

1881年(明治14年)3月、京都府知事槇村正直を頼って京都府京都中学前期二級に入学したが、都落ちによる劣等感から、郷誠之助烏丸千佳之助[注 1]等を悪友として遊び歩く生活を送った[11][12]。10月静岡県中学高等二級に転校した[13]

植物学研究

1882年(明治15年)東京大学理学科選科に試験を経て入学し[14]矢田部良吉松村任三大久保三郎に植物学を学んだ[15]

1884年(明治17年)2月東京大学を中退し、3月日本発、6月ヴュルツブルクに到着し、ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルクに入学[16]ユリウス・フォン・ザックス植物生理学を学び、「葉緑体の作用に就て」を発表、1886年(明治19年)7月7日試験に合格し、論文刊行に伴いDoctoris Philosophaeを取得した[17]

論文執筆後旅に出て、8月5日ミュンヘンを訪れ、森鷗外とフィンステルワルデル珈琲店を訪れ、13日賢者ナータンを観劇した[18]

1887年(明治20年)6月帰国し[19]、6月14日、飯島魁に代わって学習院教授に就任し[20]、麹町区一番町54番地の米倉一平名義の土地に住んだ[21]。しかし、1890年(明治23年)8月12日学制改革に伴い非職となり、1893年(明治26年)8月9日依願退職した[22]

東京火災保険

1893年(明治26年)11月12日、東京火災保険評議委員をしていた義父米倉一平の斡旋で、取締役として入社した[23]。1911年(明治44年)1月24日常務取締役、7月26日取締役副社長、1931年(昭和6年)7月13日取締役社長となり、7月31日評議委員[24]

また、1911年(明治44年)1月31日神国生命社長[25]、1919年(大正8年)11月24日生命保険会社協会取締役[26]、その他同じ系列にあった帝国海上保険取締役社長、東洋火災取締役社長、太平火災取締役、第一火災取締役、東京報知機取締役社長等も兼任した[27]

1913年(大正2年)4月16日から10月まで王子電気軌道取締役社長[28]

1920年(大正9年)4月欧米を視察し、ロンドンに代理店を設けた[29]

貴族院議員

1903年(明治36年)父が死去したため、7月24日男爵の地位を継ぎ[30]、1904年(明治37年)7月10日貴族院男爵議員に当選した[4]。当初木曜会にあったが、1910年(明治43年)2月清交倶楽部に移った[31]

1905年(明治38年)2月、日本興業銀行法中改正法律案、1909年(明治42年)3月砂鉱法案、1911年(明治44年)2月予算委員会登記手続について発言を行う[4]

1911年(明治44年)7月10日任期満了、同日再選[4]。1916年(大正5年)2月簡易生命保険法案、1918年(大正7年)3月有価証券割賦販売業法案について質疑を行う[4]

1918年(大正7年)7月9日任期満了し、7月16日再選[4]。1919年(大正8年)2月、予算委員会で耕地整理特許局、米の供給等について質問した[4]

1925年(大正14年)7月9日任期満了、1927年(昭和2年)11月12日補欠選挙に当選した[4]。1932年(昭和7年)7月9日任期満了。

1941年(昭和16年)風邪をこじらせて肺炎を併発し、4月16日午前7時30分死去した[32]

栄典

著書

  • "Beiträge zur Kenntnis der Chlorophyllfunktion," Becker's Universitäts-Buchdruckerei, 1886
  • 『植物学』文学社、明治23年9月NDLJP:832423

親族

脚注

注釈

  1. ^ 増田(1987) p.42では烏丸千佳之助を烏丸光亨と推測しているが、光亨の幼名は亨二郎である(『平成新修旧華族家系大成』上巻、453頁)。光亨の異母弟に千佳之二(南部光臣)がおり、年齢も光亨より一カ月弱年少で年も近く、烏丸千佳之助は烏丸千佳之二、後の南部光臣であると思われる。

出典

  1. ^ 増田(1987) p.10
  2. ^ 増田(1987) p.175
  3. ^ 増田(1987) p.185
  4. ^ a b c d e f g h 帝国議会会議録検索システム
  5. ^ 官報. 1941年04月18日
  6. ^ 増田(1987) p.18
  7. ^ 巖谷小波『〈おとぎばなし〉をつくった巌谷小波 我が五十年』ゆまに書房 1998 p.223
  8. ^ 増田(1987) p.28
  9. ^ 増田(1987) p.35
  10. ^ 増田(1987) p.34
  11. ^ 郷男爵記念会(1943) p.124-125 NDLJP:1043410/87
  12. ^ 増田(1987) p.40-42
  13. ^ 増田(1987) p.44
  14. ^ 増田(1987) p.47
  15. ^ 増田(1987) p.50-51
  16. ^ 増田(1987) p.60
  17. ^ 増田(1987) p.83
  18. ^ 森鴎外『独逸日記』
  19. ^ 増田(1987) p.109
  20. ^ 増田(1987) p.110
  21. ^ 増田(1987) p.181
  22. ^ 増田(1987) p.139-140
  23. ^ 増田(1987) p.150
  24. ^ 東京火災保険(1938) 附録p.4
  25. ^ 保険銀行時報社(1933) 附録p.18
  26. ^ 東京火災保険(1938) p.327
  27. ^ 増田(1987) p.168-169
  28. ^ 竹谷(1935) p.14
  29. ^ 増田(1987) p.169
  30. ^ 『官報』第6019号、1903年7月25日。
  31. ^ 増田(1987) p.185
  32. ^ 増田(1987) p.197
  33. ^ 『官報』第1866号「叙任及辞令」1918年10月22日。
  34. ^ 増田(1987) p.12
  35. ^ 増田(1987) p.21
  36. ^ 増田(1987) p.19
  37. ^ 増田(1987) p.20
  38. ^ 増田(1987) p.150
  39. ^ 増田(1987) p.200
  40. ^ 増田(1987) p.151
  41. ^ 増田(1987) p.197-198

参考文献

  • 巖谷小波『我が五十年』、東亜堂、1920年。
  • 郷男爵記念会編『男爵郷誠之助君伝』、郷男爵記念会、1943年。
  • 竹谷為次郎編『王子電気軌道株式会社二十五年史』、王子電気軌道、1935年。
  • 東京火災保険編『東京火災保険株式会社五十年誌』、東京火災保険、1938年。
  • 保険銀行時報社『本邦生命保険業史』、保険銀行時報社、1933年。
  • 増田芳雄『忘れられた植物学者 長松篤棐の華麗な転身』中公新書、1987年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位
先代
長松幹
男爵
長松(幹)家第2代
1903年 - 1941年
次代
長松太郎