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'''昭子女王'''(しょうしじょおう/あきこじょおう、?-[[正暦]]5年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[994年]][[8月16日]]))は、[[平安時代]]中期の[[皇族]]。[[醍醐天皇]]の皇子[[有明親王]]の次女。別名・'''能子'''。『[[大鏡]]』には[[元平親王]]の娘と記されているが、誤伝とみられる<ref>関口『平安時代史事典』</ref>。[[関白]][[藤原兼通]]の[[正室]]。 |
'''昭子女王'''(しょうしじょおう/あきこじょおう、?-[[正暦]]5年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[994年]][[8月16日]]))は、[[平安時代]]中期の[[皇族]]。[[醍醐天皇]]の皇子[[有明親王]]の次女。別名・'''能子'''。『[[大鏡]]』には[[元平親王]]の娘と記されているが、誤伝とみられる<ref>関口『平安時代史事典』</ref>。[[関白]][[藤原兼通]]の[[正室]]。 |
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2020年7月3日 (金) 06:21時点における版
昭子女王(しょうしじょおう/あきこじょおう、?-正暦5年7月7日(994年8月16日))は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の皇子有明親王の次女。別名・能子。『大鏡』には元平親王の娘と記されているが、誤伝とみられる[1]。関白藤原兼通の正室。
藤原兼通と結婚して、藤原媓子(円融天皇中宮)・藤原朝光らを生む。媓子が中宮になったのを受け、天延元年(973年)10月に無位から一気に正三位に叙せられた。この叙位は后の母は内裏に参上して后や所生の皇子女を補助するケースもあったためにそれに相応しい位階が授けられたと考えられている[2]。天延2年(974年)、村上天皇の皇女選子内親王が着裳の儀を行った際には、昭子が内親王の裳腰を結び、兼通の別の妻の1人で典侍でもあった大江皎子が内親王の理髪を行っており、それぞれ正二位と従四位下に叙せられている(『親信卿記』天延2年11月11日条)。これは選子内親王が生母である藤原安子の没後、安子の兄である兼通夫妻によって育てられたことによる[3]。正暦5年(994年)に病没した。
脚注
- ^ 関口『平安時代史事典』
- ^ 東海林亜矢子「摂関期の后母-源倫子を中心に」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年)
- ^ 栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年)
参考文献
- 関口力「昭子女王」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7)
- 芳賀登 他 監修『日本女性人名事典』、日本図書センター、1998年、P549「昭子女王」