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「藤原通任」の版間の差分

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| 氏族 = [[藤原北家]]小一条流
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| 父母 = 父:[[藤原済時]]、母:[[源延光]]の娘
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| 兄弟 = [[藤原為任|為任]]、相任、[[藤原子|娍子]]、'''通任'''、念覚、宗覚、平維叙?<ref name="aa">『[[尊卑分脈]]』より。</ref>、[[敦道親王]]妃<br>養兄弟:''[[藤原実方|実方]]''
| 妻 = [[藤原永頼]]の娘<br>[[藤原尊子 (藤原道兼女)|藤原尊子]]([[藤原道兼]]の娘)
| 妻 = [[藤原永頼]]の娘<br>[[藤原尊子 (藤原道兼女)|藤原尊子]]([[藤原道兼]]の娘)
| 子 = [[藤原師成|師成]]
| 子 = [[藤原師成|師成]]
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[寛和]]2年([[986年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。[[侍従]]や[[兵衛府|左兵衛佐]]・[[近衛府|右近衛少将]]等の武官を務め、この間の[[正暦]]6年([[995年]])[[従四位|従四位下]]に叙せられる。[[長徳]]2年([[996年]])[[春宮坊|春宮権亮]]に任ぜられ、姉・[[藤原せい子|娍子]]が春宮妃として入内していた[[皇太子]]・居貞親王(のちの[[三条天皇]])に仕える一方、[[馬寮|右馬頭]]・[[讃岐国#国司|讃岐権守]]を歴任する。
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[[寛弘]]8年([[1011年]])6月の三条天皇の即位と同時に[[蔵人頭]]に任ぜられると、同年12月[[従四位|従四位上]]・[[参議]]に叙任されて、先任の頭で[[弁官|右大弁]]を兼ねていた[[源道方]]を越えて[[公卿]]に昇格する。さらに翌寛弘9年([[1012年]])正月には前春宮権亮の功労として一挙に三階昇進して[[従三位]]に叙される等、三条朝に入ると急速に昇進を果たす。同年4月には姉・[[藤原子|娍子]]が三条天皇の[[皇后]]に立てられる事となり、通任は皇后の弟として立后の儀式に参加する。しかし、[[左大臣]]・[[藤原道長]]の妨害により、当時30人近くいた公卿の内で儀式が行われる[[内裏]]に集まったのは、通任の他に[[藤原実資]]・[[藤原隆家]]・[[藤原懐平]]の3名だけという有様だった。また、[[長和]]2年([[1013年]])に娍子が[[御所]]に参内した際に、通任がその仕切を行った事から、三条天皇から藤原道長に対して通任の[[正三位]]への昇叙が働きかけられた。しかし道長は、元来娍子の庇護者は兄弟の[[藤原為任|為任]]であり、通任はその代理をしたに過ぎない、と指摘して天皇の姿勢を批判し<ref>『[[御堂関白記]]』長和2年3月20日条</ref>、通任の昇進は沙汰止みとなった。同年9月に娍子所生の[[当子内親王]]が[[斎宮]]に選定され、翌長和3年([[1014年]])10月に[[伊勢神宮|伊勢]]に下る際、通任は随従の長奉送使を務めるが、昼間の移動中は御輿の近くに侍らず、夜はまた頓宮の近くに侍らずといった有様で、その奉仕ぶりが非常に怠慢であったとの批判を受けている<ref>『小右記』長和3年10月6日</ref>。


長和5年([[1016年]])三条天皇の退位・[[後一条天皇]]の即位に伴い、娍子所生の[[敦明親王]]が立太子し、通任は皇太子の[[外戚|外叔父]]となるとともに春宮権大夫を兼ねる。しかし、翌[[寛仁]]元年([[1017年]])三条上皇の崩御後間もなく、道長の強い圧力を受けて敦明親王は皇太子を辞退してしまった。[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])に正三位に昇進したのち、[[美作国#国司|美作守]]・[[播磨国#国司|播磨権守]]・美作権守と地方官を兼帯して、[[長元]]8年([[1035年]])権中納言に至る。[[長暦]]3年([[1039年]])6月薨去。享年66。最終官位は正三位権中納言。
長和5年([[1016年]])三条天皇の退位・[[後一条天皇]]の即位に伴い、娍子所生の[[敦明親王]]が立太子し、通任は皇太子の[[外戚|外叔父]]となるとともに春宮権大夫を兼ねる。しかし、翌[[寛仁]]元年([[1017年]])三条上皇の崩御後間もなく、道長の強い圧力を受けて敦明親王は皇太子を辞退してしまった。[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])に正三位に昇進したのち、[[美作国#国司|美作守]]・[[播磨国#国司|播磨権守]]・美作権守と地方官を兼帯して、[[長元]]8年([[1035年]])権中納言に至る。[[長暦]]3年([[1039年]])6月薨去。享年66。最終官位は正三位権中納言。

2020年7月3日 (金) 06:19時点における版

 
藤原通任
時代 平安時代中期
生誕 天延2年(974年
死没 長暦3年(1039年)6月
官位 正三位権中納言
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家小一条流
父母 父:藤原済時、母:源延光の娘
兄弟 為任、相任、娍子通任、念覚、宗覚、平維叙?[1]敦道親王
養兄弟:実方
藤原永頼の娘
藤原尊子藤原道兼の娘)
師成
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藤原 通任(ふじわら の みちとう)は、平安時代中期の公卿藤原北家小一条流、大納言藤原済時の子。官位正三位権中納言

経歴

寛和2年(986年従五位下叙爵侍従左兵衛佐右近衛少将等の武官を務め、この間の正暦6年(995年従四位下に叙せられる。長徳2年(996年春宮権亮に任ぜられ、姉・娍子が春宮妃として入内していた皇太子・居貞親王(のちの三条天皇)に仕える一方、右馬頭讃岐権守を歴任する。

寛弘8年(1011年)6月の三条天皇の即位と同時に蔵人頭に任ぜられると、同年12月従四位上参議に叙任されて、先任の頭で右大弁を兼ねていた源道方を越えて公卿に昇格する。さらに翌寛弘9年(1012年)正月には前春宮権亮の功労として一挙に三階昇進して従三位に叙される等、三条朝に入ると急速に昇進を果たす。同年4月には姉・娍子が三条天皇の皇后に立てられる事となり、通任は皇后の弟として立后の儀式に参加する。しかし、左大臣藤原道長の妨害により、当時30人近くいた公卿の内で儀式が行われる内裏に集まったのは、通任の他に藤原実資藤原隆家藤原懐平の3名だけという有様だった。また、長和2年(1013年)に娍子が御所に参内した際に、通任がその仕切を行った事から、三条天皇から藤原道長に対して通任の正三位への昇叙が働きかけられた。しかし道長は、元来娍子の庇護者は兄弟の為任であり、通任はその代理をしたに過ぎない、と指摘して天皇の姿勢を批判し[2]、通任の昇進は沙汰止みとなった。同年9月に娍子所生の当子内親王斎宮に選定され、翌長和3年(1014年)10月に伊勢に下る際、通任は随従の長奉送使を務めるが、昼間の移動中は御輿の近くに侍らず、夜はまた頓宮の近くに侍らずといった有様で、その奉仕ぶりが非常に怠慢であったとの批判を受けている[3]

長和5年(1016年)三条天皇の退位・後一条天皇の即位に伴い、娍子所生の敦明親王が立太子し、通任は皇太子の外叔父となるとともに春宮権大夫を兼ねる。しかし、翌寛仁元年(1017年)三条上皇の崩御後間もなく、道長の強い圧力を受けて敦明親王は皇太子を辞退してしまった。治安3年(1023年)に正三位に昇進したのち、美作守播磨権守・美作権守と地方官を兼帯して、長元8年(1035年)権中納言に至る。長暦3年(1039年)6月薨去。享年66。最終官位は正三位権中納言。

官歴

系譜

脚注

  1. ^ 尊卑分脈』より。
  2. ^ 御堂関白記』長和2年3月20日条
  3. ^ 『小右記』長和3年10月6日
  4. ^ 『公卿補任』
  5. ^ 尊卑分脈

出典