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「洞院実泰」の版間の差分

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*[[正応]]2年([[1289年]])1月14日、[[従二位]]に昇叙。
*[[正応]]2年([[1289年]])1月14日、[[従二位]]に昇叙。
*正応3年([[1290年]])7月27日、皇后宮権大夫を大夫に転じる。
*正応3年([[1290年]])7月27日、皇后宮権大夫を大夫に転じる。
*正応4年([[1291年]])1月6日、[[正二位]]に昇叙。同年7月29日、[[中納言]]に転正。同年8月12日、[[皇后]]が女院([[れい子内親王|遊義門院]])となったために皇后宮大夫を止める。
*正応4年([[1291年]])1月6日、[[正二位]]に昇叙。同年7月29日、[[中納言]]に転正。同年8月12日、[[皇后]]が女院([[子内親王|遊義門院]])となったために皇后宮大夫を止める。
*正応5年([[1292年]])5月15日、[[大納言|権大納言]]に昇進。
*正応5年([[1292年]])5月15日、[[大納言|権大納言]]に昇進。
*[[永仁]]6年([[1298年]])8月10日、[[春宮坊|春宮権大夫]]を兼ね、同月25日には大嘗会検校に補される。
*[[永仁]]6年([[1298年]])8月10日、[[春宮坊|春宮権大夫]]を兼ね、同月25日には大嘗会検校に補される。

2020年6月26日 (金) 23:36時点における版

 
洞院実泰
時代 鎌倉時代後期
生誕 文永6年(1269年
死没 嘉暦2年8月15日1327年9月1日
改名 実泰→寂元(法名)
別名 洞院左大臣、後山本左府
官位 従一位左大臣
主君 後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院公守、母:平親継
兄弟 実泰正親町実明、賢助、桓守、良守、成助、公厳、覚深、成澄、済助、
三条実重室、女子
小倉公雄娘・季子高倉永康娘・康子、藤原兼頼[1]
公賢、慈厳、公敏、守子、公泰実守
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洞院 実泰(とういん さねやす)は、鎌倉時代後期の公卿太政大臣洞院公守の長男。官位従一位左大臣洞院左大臣または後山本左府と号す。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

『徒然草』第83段の逸話

徒然草』第83段に実泰は登場する。太政大臣になれるのに敢えて左大臣止まりを選んだという西園寺公衡に関心して、自身も太政大臣への昇進を望まなかった、というのである。何事も上り詰めるのは良くない、と2人の左大臣を例に兼好は関心しているのである。しかし、この2人の左大臣が太政大臣への昇進を自ら望まなかったというのは彼らの本心であったであろうか。本郷和人の言うように、西園寺家がどちらかというと持明院統派であり、公衡はしばしば大覚寺統と衝突したために太政大臣に昇進できなかったとすれば少々事情は異なってくるのである。後宇多天皇とは従兄弟同士、後二条天皇の母西華門院基子ともいとことなる実泰は大覚寺統派という見方もあるようだが、一方で京極派歌人としての側面も見られ、『玉葉和歌集』には「左大将実泰」として和歌が入首している。

系譜

脚注

  1. ^ 園太暦』巻1所収「洞院系図」は、名を為頼または兼親に作る。何れが正しいのかは不明。
  2. ^ 従三位内蔵頭

参考文献

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 弘安7年(1284年)に実泰が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「洞院実泰」および「洞院公守」の項。
  • 新訂『徒然草』 西尾実・安良岡康作校注、岩波文庫
  • 玉葉和歌集』 次田香澄校訂 岩波文庫
  • 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』 東京大学出版会
  • 本郷和人「西園寺氏再考」『日本歴史』634号
  • 本郷和人「外戚としての西園寺氏」『ぐんしょ』51
  • 岡野友彦『中世久我家と久我家領荘園』 続群書類従完成会
先代
洞院公守
洞院家
3代
次代
洞院公賢