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[[白河天皇]]の御世である[[永保]]4年([[1084年]])[[蔵人]]に補され、[[天皇]]に近侍する。翌年[[衛門府|右衛門権少尉]]に任ぜられ、[[寛治]]2年([[1088年]])[[従五位|従五位下]]・[[淡路国#国司|淡路守]]に叙任される。 |
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白河天皇の譲位した[[応徳]]2年11月([[1087年]]1月)に[[院司|院判代官]]に補任されており、[[院近臣]]的な立場として活躍したと思われる。寛治4年([[1090年]])従五位上、さらに[[正五位|正五位下]]に進み、寛治5年([[1091年]])[[甲斐国#国司|甲斐守]]に遷る。寛治8年([[1094年]])[[従四位|従四位下]]に叙され、上皇の寵愛した[[ |
白河天皇の譲位した[[応徳]]2年11月([[1087年]]1月)に[[院司|院判代官]]に補任されており、[[院近臣]]的な立場として活躍したと思われる。寛治4年([[1090年]])従五位上、さらに[[正五位|正五位下]]に進み、寛治5年([[1091年]])[[甲斐国#国司|甲斐守]]に遷る。寛治8年([[1094年]])[[従四位|従四位下]]に叙され、上皇の寵愛した[[媞子内親王]](郁芳門院)の[[昇殿]]を聴される。[[嘉保]]3年([[1096年]])従四位上、[[康和]]2年([[1100年]])さらに正四位下に進むなど急速に昇進した。この間の[[承徳]]元年12月([[1098年]]1月)に路頭で流人[[源仲宗]]の郎等・[[藤原則忠]]に刃傷される<ref>『[[中右記]]』[[承徳]]元年12月17日条による。『[[本朝世紀]]』では件の事件が起きたのは[[承徳]]2年([[1098年]])2月としている。</ref><ref>藤原則忠は'''忠則'''とも表記される。</ref>。 |
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康和5年([[1103年]])白河上皇の[[尊勝寺]]の造宮費を寄進した功として武蔵守に任ぜられる。しかし、半年後の8月13日の夕方に卒去。最終官位は正四位下行武蔵守<ref>『[[本朝世紀]]』[[康和]]5年8月14日条</ref>。 |
康和5年([[1103年]])白河上皇の[[尊勝寺]]の造宮費を寄進した功として武蔵守に任ぜられる。しかし、半年後の8月13日の夕方に卒去。最終官位は正四位下行武蔵守<ref>『[[本朝世紀]]』[[康和]]5年8月14日条</ref>。 |
2020年6月26日 (金) 23:29時点における版
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 康和5年8月13日(1103年9月16日) |
別名 | 正字:行實 |
官位 | 正四位下・武蔵守 |
主君 | 白河天皇 |
氏族 | 藤原北家良世流 |
父母 | 父:藤原行房、母:高階経重娘 |
兄弟 | 行実、邦宗、佐実、藤原宗忠室 |
妻 | 源頼綱娘 |
子 |
行佐、俊恒、邦佐、忠行、応実、 藤原宗能室、女子 |
藤原 行実(ふじわら の ゆきざね)は、平安時代後期の貴族。藤原北家良世流、美濃守・藤原行房の長男。官位は正四位下・武蔵守。
経歴
白河天皇の御世である永保4年(1084年)蔵人に補され、天皇に近侍する。翌年右衛門権少尉に任ぜられ、寛治2年(1088年)従五位下・淡路守に叙任される。
白河天皇の譲位した応徳2年11月(1087年1月)に院判代官に補任されており、院近臣的な立場として活躍したと思われる。寛治4年(1090年)従五位上、さらに正五位下に進み、寛治5年(1091年)甲斐守に遷る。寛治8年(1094年)従四位下に叙され、上皇の寵愛した媞子内親王(郁芳門院)の昇殿を聴される。嘉保3年(1096年)従四位上、康和2年(1100年)さらに正四位下に進むなど急速に昇進した。この間の承徳元年12月(1098年1月)に路頭で流人源仲宗の郎等・藤原則忠に刃傷される[1][2]。
康和5年(1103年)白河上皇の尊勝寺の造宮費を寄進した功として武蔵守に任ぜられる。しかし、半年後の8月13日の夕方に卒去。最終官位は正四位下行武蔵守[3]。
官歴
※以下、註釈がないものは『本朝世紀』の記載に従う。
- 永保4年(1084年)正月11日:蔵人所雑色を以て蔵人に補す。
- 応徳2年(1085年)2月15日:右衛門権少尉に任ず。
- 応徳3年(1086年)2月3日:検非違使宣旨を蒙る。11月:院判代官と為す。
- 寛治2年(1088年)正月19日:従五位下に叙す。正月25日:淡路守と為す(白河上皇御給)。
- 寛治4年(1090年)正月5日:従五位上を授く。4月20日:正五位下に叙す。
- 寛治5年(1091年)8月6日:甲斐守に遷任す。
- 寛治8年(1094年)2月22日:従四位下を授く。3月19日:郁芳門院昇殿[4]。
- 嘉保3年(1096年)正月11日:従四位上を授く。
- 康和2年(1100年)6月19日:正四位下を授く。
- 康和5年(1103年)2月29日:武蔵守に任ず(依造尊勝寺之功)。8月13日:卒去。