コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「藤原行実」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
28行目: 28行目:
[[白河天皇]]の御世である[[永保]]4年([[1084年]])[[蔵人]]に補され、[[天皇]]に近侍する。翌年[[衛門府|右衛門権少尉]]に任ぜられ、[[寛治]]2年([[1088年]])[[従五位|従五位下]]・[[淡路国#国司|淡路守]]に叙任される。
[[白河天皇]]の御世である[[永保]]4年([[1084年]])[[蔵人]]に補され、[[天皇]]に近侍する。翌年[[衛門府|右衛門権少尉]]に任ぜられ、[[寛治]]2年([[1088年]])[[従五位|従五位下]]・[[淡路国#国司|淡路守]]に叙任される。


白河天皇の譲位した[[応徳]]2年11月([[1087年]]1月)に[[院司|院判代官]]に補任されており、[[院近臣]]的な立場として活躍したと思われる。寛治4年([[1090年]])従五位上、さらに[[正五位|正五位下]]に進み、寛治5年([[1091年]])[[甲斐国#国司|甲斐守]]に遷る。寛治8年([[1094年]])[[従四位|従四位下]]に叙され、上皇の寵愛した[[てい子内親王|媞子内親王]](郁芳門院)の[[昇殿]]を聴される。[[嘉保]]3年([[1096年]])従四位上、[[康和]]2年([[1100年]])さらに正四位下に進むなど急速に昇進した。この間の[[承徳]]元年12月([[1098年]]1月)に路頭で流人[[源仲宗]]の郎等・[[藤原則忠]]に刃傷される<ref>『[[中右記]]』[[承徳]]元年12月17日条による。『[[本朝世紀]]』では件の事件が起きたのは[[承徳]]2年([[1098年]])2月としている。</ref><ref>藤原則忠は'''忠則'''とも表記される。</ref>。
白河天皇の譲位した[[応徳]]2年11月([[1087年]]1月)に[[院司|院判代官]]に補任されており、[[院近臣]]的な立場として活躍したと思われる。寛治4年([[1090年]])従五位上、さらに[[正五位|正五位下]]に進み、寛治5年([[1091年]])[[甲斐国#国司|甲斐守]]に遷る。寛治8年([[1094年]])[[従四位|従四位下]]に叙され、上皇の寵愛した[[媞子内親王]](郁芳門院)の[[昇殿]]を聴される。[[嘉保]]3年([[1096年]])従四位上、[[康和]]2年([[1100年]])さらに正四位下に進むなど急速に昇進した。この間の[[承徳]]元年12月([[1098年]]1月)に路頭で流人[[源仲宗]]の郎等・[[藤原則忠]]に刃傷される<ref>『[[中右記]]』[[承徳]]元年12月17日条による。『[[本朝世紀]]』では件の事件が起きたのは[[承徳]]2年([[1098年]])2月としている。</ref><ref>藤原則忠は'''忠則'''とも表記される。</ref>。


康和5年([[1103年]])白河上皇の[[尊勝寺]]の造宮費を寄進した功として武蔵守に任ぜられる。しかし、半年後の8月13日の夕方に卒去。最終官位は正四位下行武蔵守<ref>『[[本朝世紀]]』[[康和]]5年8月14日条</ref>。
康和5年([[1103年]])白河上皇の[[尊勝寺]]の造宮費を寄進した功として武蔵守に任ぜられる。しかし、半年後の8月13日の夕方に卒去。最終官位は正四位下行武蔵守<ref>『[[本朝世紀]]』[[康和]]5年8月14日条</ref>。

2020年6月26日 (金) 23:29時点における版

 
藤原行実
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 康和5年8月13日1103年9月16日
別名 正字:行實
官位 正四位下武蔵守
主君 白河天皇
氏族 藤原北家良世
父母 父:藤原行房、母:高階経重
兄弟 行実邦宗佐実藤原宗忠
源頼綱
行佐俊恒邦佐忠行、応実、
藤原宗能室、女子
テンプレートを表示

藤原 行実(ふじわら の ゆきざね)は、平安時代後期の貴族藤原北家良世流、美濃守藤原行房の長男。官位正四位下武蔵守

経歴

白河天皇の御世である永保4年(1084年蔵人に補され、天皇に近侍する。翌年右衛門権少尉に任ぜられ、寛治2年(1088年従五位下淡路守に叙任される。

白河天皇の譲位した応徳2年11月(1087年1月)に院判代官に補任されており、院近臣的な立場として活躍したと思われる。寛治4年(1090年)従五位上、さらに正五位下に進み、寛治5年(1091年甲斐守に遷る。寛治8年(1094年従四位下に叙され、上皇の寵愛した媞子内親王(郁芳門院)の昇殿を聴される。嘉保3年(1096年)従四位上、康和2年(1100年)さらに正四位下に進むなど急速に昇進した。この間の承徳元年12月(1098年1月)に路頭で流人源仲宗の郎等・藤原則忠に刃傷される[1][2]

康和5年(1103年)白河上皇の尊勝寺の造宮費を寄進した功として武蔵守に任ぜられる。しかし、半年後の8月13日の夕方に卒去。最終官位は正四位下行武蔵守[3]

官歴

※以下、註釈がないものは『本朝世紀』の記載に従う。

  • 永保4年(1084年)正月11日:蔵人所雑色を以て蔵人に補す。
  • 応徳2年(1085年)2月15日:右衛門権少尉に任ず。
  • 応徳3年(1086年)2月3日:検非違使宣旨を蒙る。11月:院判代官と為す。
  • 寛治2年(1088年)正月19日:従五位下に叙す。正月25日:淡路守と為す(白河上皇御給)。
  • 寛治4年(1090年)正月5日:従五位上を授く。4月20日:正五位下に叙す。
  • 寛治5年(1091年)8月6日:甲斐守に遷任す。
  • 寛治8年(1094年)2月22日:従四位下を授く。3月19日:郁芳門院昇殿[4]
  • 嘉保3年(1096年)正月11日:従四位上を授く。
  • 康和2年(1100年)6月19日:正四位下を授く。
  • 康和5年(1103年)2月29日:武蔵守に任ず(依造尊勝寺之功)。8月13日:卒去。

系譜

脚注

  1. ^ 中右記承徳元年12月17日条による。『本朝世紀』では件の事件が起きたのは承徳2年(1098年)2月としている。
  2. ^ 藤原則忠は忠則とも表記される。
  3. ^ 本朝世紀康和5年8月14日条
  4. ^ 中右記寛治8年3月19日条
  5. ^ 中右記嘉保3年4月16日条