「リューリク・ロスチスラヴィチ (ペレムィシュリ公)」の版間の差分
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父のロスチスラフがトムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された<ref name="Сиэ"></ref>。[[イズゴイ|クニャージ・イズゴイ]](領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共に[[ヴォルィーニ公]](ウラジーミル・ヴォリンスキー公)[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の元に身を寄せた。[[1084年]]、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦[[チェルヴェンの諸都市]]へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ウラジーミル・ヴォリンスキー]]を占領した。一方、[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]はヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子の[[ウラジーミル・モノマフ]]を長とする軍隊を派遣した。 |
父のロスチスラフがトムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された<ref name="Сиэ"></ref>。[[イズゴイ|クニャージ・イズゴイ]](領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共に[[ヴォルィーニ公]](ウラジーミル・ヴォリンスキー公)[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の元に身を寄せた。[[1084年]]、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦[[チェルヴェンの諸都市]]へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ウラジーミル・ヴォリンスキー]]を占領した。一方、[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]はヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子の[[ウラジーミル・モノマフ]]を長とする軍隊を派遣した。 |
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この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、[[ドニエプル川]]下流のオレシエ[[:ru:Олешье|(ru)]](水上交易路・[[ヴァリャーグからギリシ |
この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、[[ドニエプル川]]下流のオレシエ[[:ru:Олешье|(ru)]](水上交易路・[[ヴァリャーグからギリシアへの道]]の途上)を襲撃していたイズゴイ・クニャージの[[ダヴィド・イーゴレヴィチ|ダヴィド]]に、ヴォルィーニの都市の1つである[[ドロホブージ (リウネ州)|ドロゴブージュ]]を与えた。また、ヤロポルクはポーランドに逃亡し、ウラジーミル・モノマフが、同じくヴォルィーニの都市の1つである[[ルーツィク|ルーツク]]を占領した。[[1084年]]にリューリクら3兄弟はヴォルィーニを与えられ<ref>М. Погодин [http://oldhat.ru/pogodin/25.htm ГАЛИЦКОЕ КНЯЖЕСТВО] // [http://oldhat.ru/pogodin/menu.htm ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА]</ref>、分割して統治した。リューリクはペレムィシュリ公となった。[[1087年]]に和平条約が締結され、ヤロポルクがヴォルィーニを取り戻すが、同年、ヤロポルクは[[ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)|ズヴェニゴロド]]への遠征途上で殺害された。誰がヤロポルクの殺害を指示したのかは不明である<ref name="М. Погодин,В-ВК">М. Погодин [http://oldhat.ru/pogodin/24.htm ВЛАДИМИРО-ВОЛЫНСКОЕ КНЯЖЕСТВО] // [http://oldhat.ru/pogodin/menu.htm ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА]</ref>。ヤロポルク殺人犯がリューリク領の[[プシェムィシル|ペレムィシュリ]]へ逃走したことから、リューリクが殺害の黒幕であるという推測は成り立つが、しかしこの直後の段階では、リューリクは直接的には何ら利益を得ていないという指摘もある<ref name="М. Погодин,В-ВК"></ref>。 |
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リューリクは[[1092年]]に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]でも承認されることになる<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』p278</ref>。 |
リューリクは[[1092年]]に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]でも承認されることになる<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』p278</ref>。 |
2020年6月26日 (金) 23:13時点における最新版
リューリク・ロスチスラヴィチ(ロシア語: Рюрик Ростиславич、? - 1092年)は、トムタラカニ公ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの長男である[1]。弟にはヴォロダリ・ヴァシリコがいる。ペレムィシュリ公:1084年 - 1092年。
生涯
[編集]父のロスチスラフがトムタラカニ(ru)で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された[1]。クニャージ・イズゴイ(領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共にヴォルィーニ公(ウラジーミル・ヴォリンスキー公)ヤロポルクの元に身を寄せた。1084年、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦チェルヴェンの諸都市へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、ウラジーミル・ヴォリンスキーを占領した。一方、キエフ大公フセヴォロドはヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子のウラジーミル・モノマフを長とする軍隊を派遣した。
この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、ドニエプル川下流のオレシエ(ru)(水上交易路・ヴァリャーグからギリシアへの道の途上)を襲撃していたイズゴイ・クニャージのダヴィドに、ヴォルィーニの都市の1つであるドロゴブージュを与えた。また、ヤロポルクはポーランドに逃亡し、ウラジーミル・モノマフが、同じくヴォルィーニの都市の1つであるルーツクを占領した。1084年にリューリクら3兄弟はヴォルィーニを与えられ[2]、分割して統治した。リューリクはペレムィシュリ公となった。1087年に和平条約が締結され、ヤロポルクがヴォルィーニを取り戻すが、同年、ヤロポルクはズヴェニゴロドへの遠征途上で殺害された。誰がヤロポルクの殺害を指示したのかは不明である[3]。ヤロポルク殺人犯がリューリク領のペレムィシュリへ逃走したことから、リューリクが殺害の黒幕であるという推測は成り立つが、しかしこの直後の段階では、リューリクは直接的には何ら利益を得ていないという指摘もある[3]。
リューリクは1092年に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、1097年のリューベチ諸公会議でも承認されることになる[4]。
出典
[編集]- ^ a b РЮРИК РОСТИСЛАВИЧ // Советская историческая энциклопедия
- ^ М. Погодин ГАЛИЦКОЕ КНЯЖЕСТВО // ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА
- ^ a b М. Погодин ВЛАДИМИРО-ВОЛЫНСКОЕ КНЯЖЕСТВО // ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА
- ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p278
参考文献
[編集]- 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。