コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「リューリク・ロスチスラヴィチ (ペレムィシュリ公)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
4行目: 4行目:
父のロスチスラフがトムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された<ref name="Сиэ"></ref>。[[イズゴイ|クニャージ・イズゴイ]](領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共に[[ヴォルィーニ公]](ウラジーミル・ヴォリンスキー公)[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の元に身を寄せた。[[1084年]]、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦[[チェルヴェンの諸都市]]へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ウラジーミル・ヴォリンスキー]]を占領した。一方、[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]はヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子の[[ウラジーミル・モノマフ]]を長とする軍隊を派遣した。
父のロスチスラフがトムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された<ref name="Сиэ"></ref>。[[イズゴイ|クニャージ・イズゴイ]](領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共に[[ヴォルィーニ公]](ウラジーミル・ヴォリンスキー公)[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の元に身を寄せた。[[1084年]]、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦[[チェルヴェンの諸都市]]へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ウラジーミル・ヴォリンスキー]]を占領した。一方、[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]はヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子の[[ウラジーミル・モノマフ]]を長とする軍隊を派遣した。


この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、[[ドニエプル川]]下流のオレシエ[[:ru:Олешье|(ru)]](水上交易路・[[ヴァリャーグからギリシへの道]]の途上)を襲撃していたイズゴイ・クニャージの[[ダヴィド・イーゴレヴィチ|ダヴィド]]に、ヴォルィーニの都市の1つである[[ドロホブージ (リウネ州)|ドロゴブージュ]]を与えた。また、ヤロポルクはポーランドに逃亡し、ウラジーミル・モノマフが、同じくヴォルィーニの都市の1つである[[ルーツィク|ルーツク]]を占領した。[[1084年]]にリューリクら3兄弟はヴォルィーニを与えられ<ref>М. Погодин [http://oldhat.ru/pogodin/25.htm ГАЛИЦКОЕ КНЯЖЕСТВО] // [http://oldhat.ru/pogodin/menu.htm ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА]</ref>、分割して統治した。リューリクはペレムィシュリ公となった。[[1087年]]に和平条約が締結され、ヤロポルクがヴォルィーニを取り戻すが、同年、ヤロポルクは[[ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)|ズヴェニゴロド]]への遠征途上で殺害された。誰がヤロポルクの殺害を指示したのかは不明である<ref name="М. Погодин,В-ВК">М. Погодин [http://oldhat.ru/pogodin/24.htm ВЛАДИМИРО-ВОЛЫНСКОЕ КНЯЖЕСТВО] // [http://oldhat.ru/pogodin/menu.htm ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА]</ref>。ヤロポルク殺人犯がリューリク領の[[プシェムィシル|ペレムィシュリ]]へ逃走したことから、リューリクが殺害の黒幕であるという推測は成り立つが、しかしこの直後の段階では、リューリクは直接的には何ら利益を得ていないという指摘もある<ref name="М. Погодин,В-ВК"></ref>。
この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、[[ドニエプル川]]下流のオレシエ[[:ru:Олешье|(ru)]](水上交易路・[[ヴァリャーグからギリシへの道]]の途上)を襲撃していたイズゴイ・クニャージの[[ダヴィド・イーゴレヴィチ|ダヴィド]]に、ヴォルィーニの都市の1つである[[ドロホブージ (リウネ州)|ドロゴブージュ]]を与えた。また、ヤロポルクはポーランドに逃亡し、ウラジーミル・モノマフが、同じくヴォルィーニの都市の1つである[[ルーツィク|ルーツク]]を占領した。[[1084年]]にリューリクら3兄弟はヴォルィーニを与えられ<ref>М. Погодин [http://oldhat.ru/pogodin/25.htm ГАЛИЦКОЕ КНЯЖЕСТВО] // [http://oldhat.ru/pogodin/menu.htm ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА]</ref>、分割して統治した。リューリクはペレムィシュリ公となった。[[1087年]]に和平条約が締結され、ヤロポルクがヴォルィーニを取り戻すが、同年、ヤロポルクは[[ズヴェヌィーホロド (リヴィウ州)|ズヴェニゴロド]]への遠征途上で殺害された。誰がヤロポルクの殺害を指示したのかは不明である<ref name="М. Погодин,В-ВК">М. Погодин [http://oldhat.ru/pogodin/24.htm ВЛАДИМИРО-ВОЛЫНСКОЕ КНЯЖЕСТВО] // [http://oldhat.ru/pogodin/menu.htm ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА]</ref>。ヤロポルク殺人犯がリューリク領の[[プシェムィシル|ペレムィシュリ]]へ逃走したことから、リューリクが殺害の黒幕であるという推測は成り立つが、しかしこの直後の段階では、リューリクは直接的には何ら利益を得ていないという指摘もある<ref name="М. Погодин,В-ВК"></ref>。


リューリクは[[1092年]]に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]でも承認されることになる<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』p278</ref>。
リューリクは[[1092年]]に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]でも承認されることになる<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』p278</ref>。

2020年6月26日 (金) 23:13時点における最新版

リューリク・ロスチスラヴィチロシア語: Рюрик Ростиславич、? - 1092年)は、トムタラカニ公ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの長男である[1]。弟にはヴォロダリヴァシリコがいる。ペレムィシュリ公:1084年 - 1092年。

生涯

[編集]

父のロスチスラフがトムタラカニ(ru)で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された[1]クニャージ・イズゴイ(領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共にヴォルィーニ公(ウラジーミル・ヴォリンスキー公)ヤロポルクの元に身を寄せた。1084年、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦チェルヴェンの諸都市へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、ウラジーミル・ヴォリンスキーを占領した。一方、キエフ大公フセヴォロドはヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子のウラジーミル・モノマフを長とする軍隊を派遣した。

この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、ドニエプル川下流のオレシエ(ru)(水上交易路・ヴァリャーグからギリシアへの道の途上)を襲撃していたイズゴイ・クニャージのダヴィドに、ヴォルィーニの都市の1つであるドロゴブージュを与えた。また、ヤロポルクはポーランドに逃亡し、ウラジーミル・モノマフが、同じくヴォルィーニの都市の1つであるルーツクを占領した。1084年にリューリクら3兄弟はヴォルィーニを与えられ[2]、分割して統治した。リューリクはペレムィシュリ公となった。1087年に和平条約が締結され、ヤロポルクがヴォルィーニを取り戻すが、同年、ヤロポルクはズヴェニゴロドへの遠征途上で殺害された。誰がヤロポルクの殺害を指示したのかは不明である[3]。ヤロポルク殺人犯がリューリク領のペレムィシュリへ逃走したことから、リューリクが殺害の黒幕であるという推測は成り立つが、しかしこの直後の段階では、リューリクは直接的には何ら利益を得ていないという指摘もある[3]

リューリクは1092年に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、1097年リューベチ諸公会議でも承認されることになる[4]

出典

[編集]
  1. ^ a b РЮРИК РОСТИСЛАВИЧ // Советская историческая энциклопедия
  2. ^ М. Погодин ГАЛИЦКОЕ КНЯЖЕСТВО // ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА
  3. ^ a b М. Погодин ВЛАДИМИРО-ВОЛЫНСКОЕ КНЯЖЕСТВО // ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА
  4. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p278

参考文献

[編集]