リューリク・ロスチスラヴィチ (ペレムィシュリ公)
リューリク・ロスチスラヴィチ(ロシア語: Рюрик Ростиславич、? - 1092年)は、トムタラカニ公ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの長男である[1]。弟にはヴォロダリ・ヴァシリコがいる。ペレムィシュリ公:1084年 - 1092年。
生涯
[編集]父のロスチスラフがトムタラカニ(ru)で死亡した後、母はハンガリーへと去り、リューリクら兄弟はルーシに残された[1]。クニャージ・イズゴイ(領土や継承権のない公)となったリューリクは兄弟たちと共にヴォルィーニ公(ウラジーミル・ヴォリンスキー公)ヤロポルクの元に身を寄せた。1084年、ヤロポルクが不在となった隙を突いて、リューリク兄弟は一旦チェルヴェンの諸都市へ向かい、軍隊を集めてヴォルィーニに帰還し、ウラジーミル・ヴォリンスキーを占領した。一方、キエフ大公フセヴォロドはヴォルィーニ公ヤロポルクのために、自身の子のウラジーミル・モノマフを長とする軍隊を派遣した。
この後、キエフ大公フセヴォロドとヴォルィーニ公ヤロポルクは対立し、フセヴォロドは、ドニエプル川下流のオレシエ(ru)(水上交易路・ヴァリャーグからギリシアへの道の途上)を襲撃していたイズゴイ・クニャージのダヴィドに、ヴォルィーニの都市の1つであるドロゴブージュを与えた。また、ヤロポルクはポーランドに逃亡し、ウラジーミル・モノマフが、同じくヴォルィーニの都市の1つであるルーツクを占領した。1084年にリューリクら3兄弟はヴォルィーニを与えられ[2]、分割して統治した。リューリクはペレムィシュリ公となった。1087年に和平条約が締結され、ヤロポルクがヴォルィーニを取り戻すが、同年、ヤロポルクはズヴェニゴロドへの遠征途上で殺害された。誰がヤロポルクの殺害を指示したのかは不明である[3]。ヤロポルク殺人犯がリューリク領のペレムィシュリへ逃走したことから、リューリクが殺害の黒幕であるという推測は成り立つが、しかしこの直後の段階では、リューリクは直接的には何ら利益を得ていないという指摘もある[3]。
リューリクは1092年に死亡した。リューリクには子はいなかったため、リューリク領はヴァシリコ・ヴォロダリの2人の弟が相続した。彼らの領有権は、1097年のリューベチ諸公会議でも承認されることになる[4]。
出典
[編集]- ^ a b РЮРИК РОСТИСЛАВИЧ // Советская историческая энциклопедия
- ^ М. Погодин ГАЛИЦКОЕ КНЯЖЕСТВО // ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА
- ^ a b М. Погодин ВЛАДИМИРО-ВОЛЫНСКОЕ КНЯЖЕСТВО // ДРЕВНЯЯ РУССКАЯ ИСТОРИЯ ДО МОНГОЛЬСКОГО ИГА
- ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p278
参考文献
[編集]- 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。