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「藤原元子」の版間の差分

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生涯: 一条院の后妃の仲
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元子はその後しばらく内裏には入らず、ようやく翌長保元年([[999年]])9月7日に一条院の天皇のもとに参入したが、再び長保2年(1000年)には堀河院に戻っている。長保3年([[1001年]])2月には同母兄重家が突然出家するということが起こっている。寛弘3年([[1006年]])2月25日に再び[[東三条殿|東三条院]]の天皇のもとに参入したが未明には退出した。その後、元子は実家である堀河院で生活している。寛弘8年([[1011年]])6月22日、一条天皇は一条院において崩御した。
元子はその後しばらく内裏には入らず、ようやく翌長保元年([[999年]])9月7日に一条院の天皇のもとに参入したが、再び長保2年(1000年)には堀河院に戻っている。長保3年([[1001年]])2月には同母兄重家が突然出家するということが起こっている。寛弘3年([[1006年]])2月25日に再び[[東三条殿|東三条院]]の天皇のもとに参入したが未明には退出した。その後、元子は実家である堀河院で生活している。寛弘8年([[1011年]])6月22日、一条天皇は一条院において崩御した。


一条天皇の死後、[[為平親王]]の次男である[[源頼定]]と通じた。父である顕光が元子と一緒にいる頼定を見つけたことで発覚、顕光は激怒し、元子の髪を切り出家させてしまった。その後も元子と頼定の関係は続いたため、ついに顕光が「いづちもいづちもおはしね」(どこへでも出ていけ)といい、元子は実誓律師の車宿(くるまやどり、車を入れるための建物)に移った。頼定との間には二女が生まれた。[[寛仁]]2年([[1018年]])に元子は堀河院に戻ったが、翌年、妹で小一条院妃であった延子が死去した際、再び堀河院を出ている。翌寛仁4年([[1020年]])には堀河院に戻り、頼定もここに住んだが、頼定は同年6月11日に死去し、元子は出家した。元子は義絶されたのちに堀河院の継承権を主張し、上東門院彰子の支持を取り付けたため、顕光は従わざるを得なかった。その後の元子については不明であるが、娘の一人は[[後朱雀天皇]]の[[中宮]]である[[藤原げん子|嫄子女王]]([[敦康親王]]女、[[藤原頼通]]養女)の御匣殿別当となった。
一条天皇の死後、[[為平親王]]の次男である[[源頼定]]と通じた。父である顕光が元子と一緒にいる頼定を見つけたことで発覚、顕光は激怒し、元子の髪を切り出家させてしまった。その後も元子と頼定の関係は続いたため、ついに顕光が「いづちもいづちもおはしね」(どこへでも出ていけ)といい、元子は実誓律師の車宿(くるまやどり、車を入れるための建物)に移った。頼定との間には二女が生まれた。[[寛仁]]2年([[1018年]])に元子は堀河院に戻ったが、翌年、妹で小一条院妃であった延子が死去した際、再び堀河院を出ている。翌寛仁4年([[1020年]])には堀河院に戻り、頼定もここに住んだが、頼定は同年6月11日に死去し、元子は出家した。元子は義絶されたのちに堀河院の継承権を主張し、上東門院彰子の支持を取り付けたため、顕光は従わざるを得なかった。その後の元子については不明であるが、娘の一人は[[後朱雀天皇]]の[[中宮]]である[[藤原子|嫄子女王]]([[敦康親王]]女、[[藤原頼通]]養女)の御匣殿別当となった。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年6月26日 (金) 10:53時点における版

藤原 元子(ふじわら の げんし(もとこ)、生没年不詳)は平安時代中期、左大臣藤原顕光の長女。母は盛子内親王村上天皇皇女)。一条天皇女御承香殿女御といわれた。同母兄妹に重家延子小一条院妃)がいる。

生涯

長徳2年(996年)11月14日一条天皇に入内、同年12月2日女御宣下を受ける。長保2年(1000年)8月20日従三位寛弘2年(1005年)1月13日従二位に叙される。

長徳3年(997年)10月、懐妊の兆候が見られたため、同年暮れに堀河院へ退出。このとき退出の一行が弘徽殿の細殿を通るのを、弘徽殿女御である藤原義子藤原公季の娘)の女房達が群がり、御簾越しに見物していた。元子の女童がこれを見て、「簾のみ孕みたるか」(女御は懐妊せず、簾のみが膨らんでいる)と言って嘲弄した。弘徽殿の女房達はこれを聞き、悔しい思いをしたという。しかし翌長徳4年(998年)6月、体内から水のみが出てきただけでこの妊娠は終わった。

元子はその後しばらく内裏には入らず、ようやく翌長保元年(999年)9月7日に一条院の天皇のもとに参入したが、再び長保2年(1000年)には堀河院に戻っている。長保3年(1001年)2月には同母兄重家が突然出家するということが起こっている。寛弘3年(1006年)2月25日に再び東三条院の天皇のもとに参入したが未明には退出した。その後、元子は実家である堀河院で生活している。寛弘8年(1011年)6月22日、一条天皇は一条院において崩御した。

一条天皇の死後、為平親王の次男である源頼定と通じた。父である顕光が元子と一緒にいる頼定を見つけたことで発覚、顕光は激怒し、元子の髪を切り出家させてしまった。その後も元子と頼定の関係は続いたため、ついに顕光が「いづちもいづちもおはしね」(どこへでも出ていけ)といい、元子は実誓律師の車宿(くるまやどり、車を入れるための建物)に移った。頼定との間には二女が生まれた。寛仁2年(1018年)に元子は堀河院に戻ったが、翌年、妹で小一条院妃であった延子が死去した際、再び堀河院を出ている。翌寛仁4年(1020年)には堀河院に戻り、頼定もここに住んだが、頼定は同年6月11日に死去し、元子は出家した。元子は義絶されたのちに堀河院の継承権を主張し、上東門院彰子の支持を取り付けたため、顕光は従わざるを得なかった。その後の元子については不明であるが、娘の一人は後朱雀天皇中宮である嫄子女王敦康親王女、藤原頼通養女)の御匣殿別当となった。

参考文献

  • 角田文衛『承香殿の女御』中央公論社(中公新書)、1963年