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国内政策では一貫して強硬策を主張し<ref>[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>、[[1989年]]5月20日に[[中国中央テレビ]]で李鵬は[[戒厳令]]を公布し<ref name=bbc201907/>、その後[[第二次天安門事件]]が起きた。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は民主化学生運動を動乱と認定する。その意向は同年4月26日付『人民日報』社説である「[[旗幟鮮明に動乱に反対せよ]]」に反映されていた。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小ばかにした態度に終始した。李鵬は「'''北京屠夫'''」(北京の虐殺者)「'''六四屠夫'''」(天安門事件の虐殺者)と非難された<ref name=bbc201907>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/49083679|title=中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ|work=|agency=[[BBC]]|date=2019-07-24|accessdate=2019-08-06}}</ref>。 |
国内政策では一貫して強硬策を主張し<ref>[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>、[[1989年]]5月20日に[[中国中央テレビ]]で李鵬は[[戒厳令]]を公布し<ref name=bbc201907/>、その後[[第二次天安門事件]]が起きた。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は民主化学生運動を動乱と認定する。その意向は同年4月26日付『人民日報』社説である「[[旗幟鮮明に動乱に反対せよ]]」に反映されていた。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小ばかにした態度に終始した。李鵬は「'''北京屠夫'''」(北京の虐殺者)「'''六四屠夫'''」(天安門事件の虐殺者)と非難された<ref name=bbc201907>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/49083679|title=中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ|work=|agency=[[BBC]]|date=2019-07-24|accessdate=2019-08-06}}</ref>。 |
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天安門事件によって趙紫陽総書記と[[胡啓立]]政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち[[八大元老]]は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はなく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された[[江沢民]](当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。天安門事件以降、経済の自由化にも消極的な李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、[[1992年]]の旧正月に[[広東省]]や[[ |
天安門事件によって趙紫陽総書記と[[胡啓立]]政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち[[八大元老]]は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はなく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された[[江沢民]](当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。天安門事件以降、経済の自由化にも消極的な李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、[[1992年]]の旧正月に[[広東省]]や[[深圳市]]などの[[経済特区]]を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った([[南巡講話]])。これ以降、改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。 |
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政局および政策の転換により、[[1993年]]の任期をもって総理を退任し、経済通の[[朱鎔基]]が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は[[曽慶紅]]([[2003年]]、[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]就任)と同率の12.5%(反対210票)に達した。 |
政局および政策の転換により、[[1993年]]の任期をもって総理を退任し、経済通の[[朱鎔基]]が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は[[曽慶紅]]([[2003年]]、[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]就任)と同率の12.5%(反対210票)に達した。 |
2020年6月20日 (土) 09:05時点における版
李 鵬 李 鹏 Li Peng | |
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生年月日 | 1928年10月20日 |
出生地 | 中華民国、上海市 |
没年月日 | 2019年7月22日(90歳没) |
死没地 | 中華人民共和国、北京市 |
所属政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 朱琳 |
親族 | 周恩来(養父) |
在任期間 | 1998年3月16日 - 2003年3月15日 |
国家主席 | 江沢民 |
第4代国務院総理 | |
内閣 | 李鵬内閣 |
在任期間 |
1988年4月9日 - 1998年3月17日 1987年11月24日 - 1988年4月9日まで国務院総理代行 |
国家主席 |
楊尚昆 江沢民 |
国務院副総理 | |
内閣 | 趙紫陽内閣 |
在任期間 | 1983年6月20日 - 1988年4月9日 |
国家主席 | 李先念 |
初代国家教育委員会主任 | |
内閣 | 趙紫陽内閣 |
在任期間 | 1985年6月18日 - 1988年4月9日 |
内閣 | 趙紫陽内閣 |
在任期間 | 1981年3月 - 1982年3月 |
李 鵬 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 李鵬 |
簡体字: | 李鹏 |
拼音: | Lĭ Péng |
和名表記: | り ほう |
発音転記: | リー・ポン |
李 鵬(り ほう、リー・ポン、原名:李 遠芃、1928年10月20日 - 2019年7月22日[1])は、中華人民共和国の政治家。国務院総理(首相)、全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)、中国共産党中央政治局常務委員などを務めた。
経歴
生い立ち
李鵬の父の李碩勛(zh:李硕勋)は中国共産党初期の指導者であったが、国民党に処刑されたといわれる。初代国務院総理の周恩来・鄧穎超夫妻は子供に恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。李鵬は建国の元老である養父母を後ろ盾としたため、太子党の先駆けともされる[2]。
テクノクラート
1945年11月、中国共産党に入党する。1948年から1955年までソ連に留学し、モスクワ科学動力学院で水力エンジニアリングを学ぶ。帰国後、エンジニアとして東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事した。1966年からは華北電管局所属の北京供電局に異動。1979年、電力部に移った。
1979年から1983年にかけて、電力工業部副部長(次官)、電力工業部長(大臣)、水利電力部副部長を歴任してテクノクラートとして活動した。1982年9月の第12回党大会で中央委員に選出された。
国務院総理へ
1983年6月に国務院副総理となる。1985年の第12期党中央委員会第5回全体会議(第12期5中全会)で政治局委員、中央書記処書記に選出する。同年6月、国家教育委員会主任(大臣級)に就任した。
1987年11月の第13期1中全会で党総書記に就任した趙紫陽の後継として、国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。1988年4月9日、正式に国務院総理に就任。
経済政策は引き続き趙紫陽が主管していたが、鄧小平が推進した価格改革によってハイパーインフレが発生し、趙紫陽は経済政策の転換を迫られた。李鵬は趙紫陽に替わって経済政策の実権を握り、1988年9月末の第13期3中全会で党指導部は経済改革をトーン・ダウンし、「調整・引き締め」を行うことを決定した[3]。ただし、李鵬も総理就任の活動報告で、価格改革の必要性を訴えていた。
画像外部リンク | |
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男性と戦車の接近場面を拡大した画像(ジェフ・ワイドナー撮影) |
国内政策では一貫して強硬策を主張し[4]、1989年5月20日に中国中央テレビで李鵬は戒厳令を公布し[5]、その後第二次天安門事件が起きた。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は民主化学生運動を動乱と認定する。その意向は同年4月26日付『人民日報』社説である「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」に反映されていた。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも小ばかにした態度に終始した。李鵬は「北京屠夫」(北京の虐殺者)「六四屠夫」(天安門事件の虐殺者)と非難された[5]。
天安門事件によって趙紫陽総書記と胡啓立政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち八大元老は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はなく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された江沢民(当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。天安門事件以降、経済の自由化にも消極的な李鵬ら保守派の影響力が強まり、改革開放路線は停滞すると、政局安定のために保守派と妥協していた鄧小平もついに業を煮やし、1992年の旧正月に広東省や深圳市などの経済特区を突如訪れ、改革開放路線の推進・加速を訴える談話を発表して回った(南巡講話)。これ以降、改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。
政局および政策の転換により、1993年の任期をもって総理を退任し、経済通の朱鎔基が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は曽慶紅(2003年、国家副主席就任)と同率の12.5%(反対210票)に達した。
1994年、国内の大反対を押し切って、三峡ダムの着工を強行。家族に電力会社関係者が多く、批判を集めた。
1996年、日本について、オーストラリア首相であったポール・キーティングが訪中した時に、「日本は40年後には消えるかもしれない[6]」あるいは「30年もしたら日本は大体つぶれるだろう[7]」といった内容の発言をしたとされている。
1997年、チャールズ皇太子と江沢民国家主席やトニー・ブレア首相らとともに香港返還の式典に出席した[8]。
総理退任後
李鵬は1998年3月、朱鎔基に総理の座を譲り、全人代常務委員長に就任した。2002年4月に全人代常務委員長として訪日し、日中間の友好関係の構築について発言した[9]。2003年に退任し、政界から引退した。
2008年2月5日、脳梗塞を起こし北京301医院に搬送された。半年後の9月25日、高速鉄道「和諧号」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。2009年3月に開かれた全人代にも出席した。 一方で、2009年11月にカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えた[10]。
2010年6月、李鵬自身が第二次天安門事件勃発直前の動向についてまとめた手記が、香港にある新世紀出版社から出版されるとの報道があった。この手記は2004年に書き上げられたものの、党政治局によって発行禁止とされたために香港での出版となったが、直前になって版権を理由に出版が差し止められた。なお、同書はアメリカで出版にこぎつけているが、香港版と内容が同一であるかについては確認が取れていない。
重病説も取り沙汰されたが、89歳の誕生日を2日後に控えた2017年10月18日の中国共産党第十九回全国代表大会開幕式に姿を見せた[11]。2019年7月22日午後11時11分、北京で90歳で死去[12]。
子女
長男の李小鵬は太子党の一員で、元山西省の省長、現在は交通運輸部の部長である。
娘の李小琳は中国電力国際発展有限公司会長を務めた人物で、「中国電力界の女王」の異名をとった。2016年に暴露されたパナマ文書では、タックス・ヘイヴンのイギリス領ヴァージン諸島に会社を所有していたとされている[13]。
年譜
- 1928年 中華民国上海市に生まれる(原籍:四川省成都市)
- 1941年 - 1955年 延安中学、延安自然化学院、張家口工業専門学校、北京工業学院、モスクワ動力学院 卒業
- 1945年 中国共産党入党
- 1948年 - 1955年 ソ連モスクワ動力学院留学
- 1955年 豊満発電工場副工場長、東北電業管理局
- 1966年 北京供電局党委代理書記、革命委員会主任、北京電業管理局長
- 1979年 - 1983年 電力工業部副部長、部長、水利電力部副部長などを歴任
- 1983年 国務院副総理
- 1985年 政治局委員、中央書記処書記(第12期5中全会)、国家教育委員会主任
- 1987年 政治局常務委員(第13期1中全会)
- 1988年 国務院総理、国家経済体制改革委員会主任
- 1998年 第9期全人代常務委員長
- 2003年 全人代常務委員長退任
「元宵」事件
『人民日報』海外版1990年3月20日号に、アメリカ合衆国への中国人留学生の作として、以下の七言律詩が掲載された。
東風拂面催桃李
鷂鷹舒翅展鵬程
玉盤照海下熱涙
遊子登台思故國
休負平生報國志
人民育我勝萬金
憤起直追振華夏
且待神洲遍地春
そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬が辞めれば民の憤りは収まる)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民育我勝萬金」の列は、「人民有我勝萬金」と誤って紹介されることがある。
中文版李鹏下台嵌字诗も参照。
脚注
- ^ “李鹏同志逝世-新华网”. www.xinhuanet.com (2019年7月23日). 2019年7月23日閲覧。
- ^ “李鵬元首相死去 「太子党」はしり、世襲の根深さ象徴”. 日本経済新聞. (2019年7月23日) 2019年10月11日閲覧。
- ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、282ページ。
- ^ [ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]
- ^ a b “中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ”. BBC. (2019年7月24日) 2019年8月6日閲覧。
- ^ 参議院議員笠原潤一は「米国人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上からいっても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点からいえば、時々は米中はぎすぎすしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見てもわかるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことからいって非常に関係が深いわけですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう」と米中日の関係を話したうえで、次のように報告している。「この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。そのときに、オーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかといいますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は四十年後にはなくなってしまうかもわからぬと、そう言ったというんです。これはうそじゃありません、これはほかの先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されているわけです、ある意味では。」参議院 (1996年11月8日). “参議院会議録情報 第134回国会 国際問題に関する調査会 第2号”. 2007年9月4日閲覧。
- ^ 衆議院 (1998年5月9日). “衆議院会議録情報 第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号”. 2007年9月4日閲覧。
- ^ “Beijing reminds the world Hong Kong is a part of China by recreating the city's 1997 handover ceremony in a Hollywood-style blockbuster” (英語). デイリー・メール (2019年8月22日). 2019年8月27日閲覧。
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ “江沢民、胡錦濤氏ら長老の面々…衰え隠せず”. 産経新聞. (2017年10月18日) 2017年10月18日閲覧。
- ^ “中国の李鵬元首相が死去=天安門事件で戒厳令布告、90歳”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2019年7月23日) 2019年7月23日閲覧。
- ^ “李鵬・元首相の娘、租税回避地に会社…香港紙”. 読売新聞. (2016年5月4日) 2016年5月7日閲覧。
関連項目
外部リンク
中華人民共和国
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