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護持院という大寺院があったのが、享保二年に小石川馬場辺から出た火に延焼。焼失した後の焼け跡は、[[火除け地]]となり、護持院ヶ原と呼ばれた<ref>『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『東京名所図絵』129頁、「近世広場の成立・展開II」17頁。</ref>。跡地は、江戸時代を通じて建物を建てず、空地として残した。おそらく江戸城に対する火除地の機能をもたせたと思われている。またほかに将軍の放鷹の場とされていて、空地を一番二番三番四番と分けて、数条の堀をほっていた。一番原は[[文化 (元号)|文化]]十四年より[[本多忠升]]の屋敷となったが、他は幕末まで残っていた。放鷹は冬にされ、二月から八月までは、周辺の人たちに開放された。「神田橋外一ッ橋外、明地之近辺屋敷屋鋪ノ妻子、延気二罷出候儀、二月中旬ヨヅ八月中旬迄ハ勝手次第、出ヅ可キ候。此外町人等モ妻子召連、延気二参候ハ苦シカラズ候。」と『憲教類典』(享保八年)に達せられている。武家屋敷の中にあったこととて、まず武家の妻子を対象とし、町民も遊んでも苦しくないという形となっている。[[明治維新]]後は、[[学習院]]、[[開成学校]]などの校舎がこの地に建造された<ref>『東京名所図絵』129頁</ref>。『[[武江年表]]』の[[明治]]三年の項によると、「錦町の西には一番より三番までの火除明地あり。昔、護持院のありし跡にて、毎春近傍の者はここに遊観し、児輩は摘草などして戯れしが、この頃追々に御用に付き、建物御設あり、華族方学習院、開成所等も此所なり」と書かれている。 |
護持院という大寺院があったのが、享保二年に小石川馬場辺から出た火に延焼。焼失した後の焼け跡は、[[火除け地]]となり、護持院ヶ原と呼ばれた<ref>『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『東京名所図絵』129頁、「近世広場の成立・展開II」17頁。</ref>。跡地は、江戸時代を通じて建物を建てず、空地として残した。おそらく江戸城に対する火除地の機能をもたせたと思われている。またほかに将軍の放鷹の場とされていて、空地を一番二番三番四番と分けて、数条の堀をほっていた。一番原は[[文化 (元号)|文化]]十四年より[[本多忠升]]の屋敷となったが、他は幕末まで残っていた。放鷹は冬にされ、二月から八月までは、周辺の人たちに開放された。「神田橋外一ッ橋外、明地之近辺屋敷屋鋪ノ妻子、延気二罷出候儀、二月中旬ヨヅ八月中旬迄ハ勝手次第、出ヅ可キ候。此外町人等モ妻子召連、延気二参候ハ苦シカラズ候。」と『憲教類典』(享保八年)に達せられている。武家屋敷の中にあったこととて、まず武家の妻子を対象とし、町民も遊んでも苦しくないという形となっている。[[明治維新]]後は、[[学習院]]、[[開成学校]]などの校舎がこの地に建造された<ref>『東京名所図絵』129頁</ref>。『[[武江年表]]』の[[明治]]三年の項によると、「錦町の西には一番より三番までの火除明地あり。昔、護持院のありし跡にて、毎春近傍の者はここに遊観し、児輩は摘草などして戯れしが、この頃追々に御用に付き、建物御設あり、華族方学習院、開成所等も此所なり」と書かれている。 |
2020年6月18日 (木) 11:40時点における版
護持院(ごじいん)は江戸の神田橋外(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺院[1]。奈良県桜井市の長谷寺の一派であった[2]。
概要
元禄元年(1688年)、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉が湯島にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称したことに始まる[3]。
享保2年(1717年)、火災により焼失し、音羽護国寺の境内に移された[4]。
護持院ヶ原
江戸城の北、平川門と竹橋の対岸にあった護持院ヶ原は、市民の遊観所として使われていた。
また、森鷗外「護持院原の敵討」の舞台としても知られる。
護持院という大寺院があったのが、享保二年に小石川馬場辺から出た火に延焼。焼失した後の焼け跡は、火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた[5]。跡地は、江戸時代を通じて建物を建てず、空地として残した。おそらく江戸城に対する火除地の機能をもたせたと思われている。またほかに将軍の放鷹の場とされていて、空地を一番二番三番四番と分けて、数条の堀をほっていた。一番原は文化十四年より本多忠升の屋敷となったが、他は幕末まで残っていた。放鷹は冬にされ、二月から八月までは、周辺の人たちに開放された。「神田橋外一ッ橋外、明地之近辺屋敷屋鋪ノ妻子、延気二罷出候儀、二月中旬ヨヅ八月中旬迄ハ勝手次第、出ヅ可キ候。此外町人等モ妻子召連、延気二参候ハ苦シカラズ候。」と『憲教類典』(享保八年)に達せられている。武家屋敷の中にあったこととて、まず武家の妻子を対象とし、町民も遊んでも苦しくないという形となっている。明治維新後は、学習院、開成学校などの校舎がこの地に建造された[6]。『武江年表』の明治三年の項によると、「錦町の西には一番より三番までの火除明地あり。昔、護持院のありし跡にて、毎春近傍の者はここに遊観し、児輩は摘草などして戯れしが、この頃追々に御用に付き、建物御設あり、華族方学習院、開成所等も此所なり」と書かれている。
享保年間から幕末まで遊観所として、士民に親しまれてきた護持院ヶ原も、明治政府によって建物の敷地になってしまった。このことはちょうど品川の御殿山が享保年間から名所として開放された遊観所(公園)でありつづけながら、明治政府によってつぶされてしまったのと同じ状況であった。
護持院ヶ原は面積も広くて、『東京案内』によると神田錦町一丁目、二丁目、三丁目、一橋通町を占めていた。文化十四年に一番原が屋敷になるまでは、日比谷公園よりかなり広い地域を占めていた。四番原すなわち後の一橋通町にできたのが、高等商業学校、現在の一橋大学である。なお近くの神田川の土手に柳を植えたのは、吉宗だと伝えられるが、柳原堤として市民に親しまれてきた河岸緑地であった。『江戸名所図会』に柳の土手下で武士たちが的を射ている矢場の状況が描かれている。この土手は明治まで確保されていたところ、明治四年土手の床店を取り払い、柳を伐り倒して道路をひろげた。これも明治になって、都市緑地・遊観所がつぶされた一例である。
注釈
- ^ 『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『東京名所図絵』119頁。
- ^ 『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『東京名所図絵』119頁。
- ^ 『日本国誌資料叢書 武蔵』966-967頁、「近世初期の知足院」878頁。
- ^ 『日本国誌資料叢書 武蔵』966-967頁、『東京名所図絵』119頁。
- ^ 『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『東京名所図絵』129頁、「近世広場の成立・展開II」17頁。
- ^ 『東京名所図絵』129頁
参考文献
- 中野了随『東京名所図絵』(小川尚栄堂,明23)
- 太田亮『日本国誌資料叢書 武蔵』(磯部甲陽堂,大正14)
- 坂本正仁「近世初期の知足院」印度學佛教學研究24巻2号878-880頁
- 渡辺達三「近世広場の成立・展開II 火除地広場の成立と展開 (I)」 造園雑誌36巻1号13-22頁