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「岡田八千代」の版間の差分

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1885年(明治18年)、建が没し、母子は[[東京市]][[麹町区]]富士見町(現・[[千代田区]]富士見)へ移った。繁く芝居に連れられた。[[麹町幼稚園]]を終えると<ref name="kindaiengeki">『小山内薫 近代演劇を拓く』 [[小山内富子]] 著、慶應義塾大学出版会、2005年2月、p.53</ref>、1887年富士見尋常高等小学校(現・千代田区立富士見小学校)<ref name="kindaiengeki"/>、1895年共立女子職業学校(現・[[学校法人共立女子学園]])へ進み、[[成女学園中学校・成女高等学校|成女学校]]専科へ転じて、1902年(19歳)に卒業した。
1885年(明治18年)、建が没し、母子は[[東京市]][[麹町区]]富士見町(現・[[千代田区]]富士見)へ移った。繁く芝居に連れられた。[[麹町幼稚園]]を終えると<ref name="kindaiengeki">『小山内薫 近代演劇を拓く』 [[小山内富子]] 著、慶應義塾大学出版会、2005年2月、p.53</ref>、1887年富士見尋常高等小学校(現・千代田区立富士見小学校)<ref name="kindaiengeki"/>、1895年共立女子職業学校(現・[[学校法人共立女子学園]])へ進み、[[成女学園中学校・成女高等学校|成女学校]]専科へ転じて、1902年(19歳)に卒業した。


文学・演劇に打ち込む兄を尊敬していた。美貌の妹は、薫の友人らの気になる存在だった。卒業の年、『[[明星 (文芸誌)|明星]]』誌に小品『めぐりあひ』を、『婦人界』誌に小説『おくつき』を発表した。[[森外]]の弟[[三木竹二]]に認められ、彼の『歌舞伎』誌に劇評も書いた。
文学・演劇に打ち込む兄を尊敬していた。美貌の妹は、薫の友人らの気になる存在だった。卒業の年、『[[明星 (文芸誌)|明星]]』誌に小品『めぐりあひ』を、『婦人界』誌に小説『おくつき』を発表した。[[森外]]の弟[[三木竹二]]に認められ、彼の『歌舞伎』誌に劇評も書いた。


1906年(明治39年)(23歳)の年末、森鴎外の世話で画家の[[岡田三郎助]]と結婚し、渋谷区伊達町(現・渋谷区恵比寿三丁目)に新世帯を構えた。文筆活動が結婚で滞ることはなかった。1911年、[[平塚らいてう]]らの[[青鞜社]]の顧問となり、[[青鞜]]誌にも書くようになった。1903年 - 1915年の雑誌への掲載は、年に4 - 10件に及んでいる<ref>福谷幸子編:『岡田八千代年譜』(「『明治女流文学集二』、筑摩書房 明治文学全集82(1965)」の巻末)</ref>。
1906年(明治39年)(23歳)の年末、森鴎外の世話で画家の[[岡田三郎助]]と結婚し、渋谷区伊達町(現・渋谷区恵比寿三丁目)に新世帯を構えた。文筆活動が結婚で滞ることはなかった。1911年、[[平塚らいてう]]らの[[青鞜社]]の顧問となり、[[青鞜]]誌にも書くようになった。1903年 - 1915年の雑誌への掲載は、年に4 - 10件に及んでいる<ref>福谷幸子編:『岡田八千代年譜』(「『明治女流文学集二』、筑摩書房 明治文学全集82(1965)」の巻末)</ref>。

2020年6月18日 (木) 10:54時点における版

岡田 八千代
(おかだ やちよ)
誕生 1883年12月3日
広島市大手町
死没 1962年2月10日78歳
東京渋谷区
墓地 青山霊園
職業 作家
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1902年 - 1962年
ジャンル 小説・戯曲・劇評・随筆
代表作 『新緑』(小説)
『黄楊の櫛』(戯曲)
『若き日の小山内薫』(随筆)
デビュー作 『めぐりあひ』
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岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年明治16年)12月3日 - 1962年昭和37年)2月10日)は、明治 - 昭和期の小説家劇作家、劇評家。芹影(きんえい)、芹影女、伊達虫子などの筆名を用いた。小山内薫は実兄にあたる。

『岡田八千代と夫 三郎助』 パリ

生涯

広島市大手町に生まれた。小山内建と錞との間の末娘だった。旧津軽藩士の建は、広島鎮台病院院長を勤めていた。錞は、江戸旗本小栗信の長女である。5子の上2人は夭折し、次女は事故で病身となり、次男の小山内薫と八千代とが育った。

1885年(明治18年)、建が没し、母子は東京市麹町区富士見町(現・千代田区富士見)へ移った。繁く芝居に連れられた。麹町幼稚園を終えると[1]、1887年富士見尋常高等小学校(現・千代田区立富士見小学校)[1]、1895年共立女子職業学校(現・学校法人共立女子学園)へ進み、成女学校専科へ転じて、1902年(19歳)に卒業した。

文学・演劇に打ち込む兄を尊敬していた。美貌の妹は、薫の友人らの気になる存在だった。卒業の年、『明星』誌に小品『めぐりあひ』を、『婦人界』誌に小説『おくつき』を発表した。森鷗外の弟三木竹二に認められ、彼の『歌舞伎』誌に劇評も書いた。

1906年(明治39年)(23歳)の年末、森鴎外の世話で画家の岡田三郎助と結婚し、渋谷区伊達町(現・渋谷区恵比寿三丁目)に新世帯を構えた。文筆活動が結婚で滞ることはなかった。1911年、平塚らいてうらの青鞜社の顧問となり、青鞜誌にも書くようになった。1903年 - 1915年の雑誌への掲載は、年に4 - 10件に及んでいる[2]

三郎助が八千代をモデルにした『縫ひとり』(1914年)や『支那絹の前』(1920年)は評判を呼んだが、不和となり、1926年、八千代は家を出た。別居生活は三郎助が亡くなるまで続いた。

演劇の評論ばかりでなく、新派歌舞伎の公演にも関わった。1922年(大正11年)、河合武雄二代目市川猿之助に頼まれて『芽生座』を興し、彼等の学齢期の子らのおさらい会を1926年まで4回公演した。子らの成長後は児童劇団に転身し、1930年まで5回公演した[3]

1923年(40歳)、親友の長谷川時雨に誘われ、2人で『女人藝術』を創刊したが、関東大震災のため2号で終わった。

1930年に『芽生座』を解散したのは、和解した三郎助とパリへ渡るためだったが、彼の地でまた割れ、八千代だけ1934年(51歳)まで滞まった。子は持たなかった。薫は1928年に急逝していた。

帰国後の1935年(昭和10年)(52歳)、新派の若手俳優らの未明座を組織して、1939年まで5回公演した。

1939年(昭和14年)夫の三郎助が没し、伊達町の家へ戻った。1940年から、長谷川時雨の『輝ク会』を手伝い、翌年、日本海軍将兵の慰問に中国中南部を回った。

敗戦後の1948年(昭和23年)(65歳)、『日本女流劇作家会』を作って会報『アカンサス』に『芝居の思い出』などを載せ、同会の『女流戯曲選集』、『現代女流戯曲選集』を監修した。また、ラジオドラマを書く、ラジオ放送する、劇を演出する、本に解説を書くなどもした。

1962年早春、インフルエンザ肺炎のために没した。青山霊園 の夫の傍らに眠っている。

単書

入れ子は、上の行の単書の、最近と思われる重版・再版である。

  • 『門の草』(短編集)(花の枝、曲者、いさご路、騙平太、花好み、争、下り藤、入相、茶の花、棕梠、朝あけ、月見草、秋のけはひ、寒月、初髷、王母珠、おはじき、継母、門の草)、如山堂(1906年)
  • 『新緑 上』(長編小説)、堺屋石割書店(1907)
  • 『新緑 下』(長編小説)、(金尾文淵堂)
  • 『黄橙』(小説)、春陽堂(1908)
  • 『恐怖』(長編小説)、水野書店(1909)
  • 『絵具箱』(小説集)(絵具箱、三日、同居人、お島、五月雨の頃、賊、九段坂下より、眠、相模屋、しがらみ草紙、習作戯曲の第一、黄楊の櫛)、籾山書店(1912)
    • 『絵具箱、三日、お島』は、「明治女流文学集(二)、筑摩書房 明治文学全集82(1965)」に収録
    • 『しがらみ草紙』は、「現代女流戯曲選集1956年版、ひまわり社(1956)」に収録
  • 『かをり』(小説)、「青鞜小説集1、東雲堂(1913)」の中
  • 『八千代集』(小説集)(紅雀、お伊勢、夢子、假裝、青い帽子、横町の光氏、堂島裏、雨、鷹の夢、餘計者、うつぎ、灯、駒鳥、指輪)、須原啓興社(1917)
  • 『忘れられた人形』、「新日本国民文学全集17、国民図書(1929)」の中
    • 「日本児童劇全集3、小学館 (1961)」に収録
  • 『若き日の小山内薫』、古今書院(1940)
  • 『青春』(オイゲン・チリコフ著の訳書)、時代社(1941)
  • 『白蘭』(随筆集)、大元社、(1943)
  • 『替へ扇』(舞踊劇)、「女流戯曲選集、ひまわり社(1954)」の中

出典

  • 野田宇太郎:『岡田八千代』(「小田切進編:『日本近代文学大事典 机上版』、講談社(1984)」の一項)
  • 大笹吉雄:『日本現代演劇史 明治大正篇』、白水社(1985)
  • 大笹吉雄:『日本現代演劇史 昭和戦中篇Ⅱ』、白水社(1994)
  • 戸板康二:『岡田八千代の兄』(「泣きどころ人物誌、文春文庫(1987)」の中の一篇)
  • 井上理恵:「岡田八千代の著作年譜」『吉備国際大学社会学部研究紀要 15』(2005)

岡田八千代を演じた人物

  • 高橋由美子:『美の巨人たち』(テレビ東京:2014年11月15日放送分)

『縫ひとり』 『支那絹の前』 の成立とその影響について、ミニドラマを交え解説。

脚注

  1. ^ a b 『小山内薫 近代演劇を拓く』 小山内富子 著、慶應義塾大学出版会、2005年2月、p.53
  2. ^ 福谷幸子編:『岡田八千代年譜』(「『明治女流文学集二』、筑摩書房 明治文学全集82(1965)」の巻末)
  3. ^ 富田博之:『日本児童演劇史』、東京書籍(1976)p.165 - 172

外部リンク