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* 1892年(明治25年)相馬事件の際には、[[相馬誠胤]]([[陸奥国|陸奥]][[相馬中村藩|中村藩]]6万石第13代藩主)の死因に疑義がもたれたため[[青山墓地]]に葬られた遺骸を掘り起こし、胃部、心臓部などの局部を解剖。
* 1892年(明治25年)相馬事件の際には、[[相馬誠胤]]([[陸奥国|陸奥]][[相馬中村藩|中村藩]]6万石第13代藩主)の死因に疑義がもたれたため[[青山墓地]]に葬られた遺骸を掘り起こし、胃部、心臓部などの局部を解剖。
* 1904年(明治37年)[[日本赤十字社]]三重支部山田病院(山田赤十字病院、三重県[[度会郡]][[四郷村 (三重県度会郡)|四郷村]])初代院長。
* 1904年(明治37年)[[日本赤十字社]]三重支部山田病院(山田赤十字病院、三重県[[度会郡]][[四郷村 (三重県度会郡)|四郷村]])初代院長。
* 東大医学部で[[森外]]や、詩人[[野川隆]]の父の野川二郎と同期であった。また、[[北里柴三郎]]らとも親交があった。
* 東大医学部で[[森外]]や、詩人[[野川隆]]の父の野川二郎と同期であった。また、[[北里柴三郎]]らとも親交があった。


== 栄典 ==
== 栄典 ==

2020年6月18日 (木) 10:48時点における版

1888年プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と[1]。前列左より河本重次郎山根正次田口和美片山國嘉石黑忠悳隈川宗雄尾澤主一[2]。中列左から森林太郎、1人おいて中濱東一郎、1人おいて島田武次、谷口謙瀬川昌耆北里柴三郎、江口[2]。後列左から濱田玄達加藤照麿、北川乙次郎[2]

江口 襄(えぐち のぼる)は、栃木県烏山町出身の医師陸軍二等軍医正。作家江口渙の父。

栄典

脚注

  1. ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
  2. ^ a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、242頁。(ページ番号記載なし)
  3. ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
  4. ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。