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父の佐藤弥六([[1842年]] - [[1923年]])は、幕末に[[福沢諭吉]]の塾([[慶應義塾]])で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』、『陸奥評話』、『津軽のしるべ』などの著書も著し、[[森鷗外]]の作品「[[渋江抽斎]]」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。 |
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[[1890年]](明治23年)[[東奥義塾]]を中退、青森県尋常中学校(現[[青森県立弘前高等学校|弘前高校]])に入学。[[1893年]](明治26年)、遠縁に当たる[[陸羯南]]を頼って上京、翌[[1894年]](明治27年)、[[日本新聞社]]に入社。[[正岡子規]]の勧めで俳句を始める。[[1895年]](明治28年)、病により帰郷、東奥日報社に入社、小説、俳句などで活躍。[[1896年]](明治29年)、東北日報社、翌[[1897年]](明治30年)には河北新報社の主筆となる。[[1900年]](明治33年)、[[報知新聞社]]に入社し[[大隈重信]]に重用される。記者活動の他に俳人として活躍。[[アレクサンドル・デュマ・ペール|大デュマ]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]などの翻訳も手がける。 |
2020年6月18日 (木) 10:25時点における版
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年(明治7年)7月6日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、日本の劇作家、小説家、俳人。
人物
本人の意に反して執筆することとなった「少年小説」の分野で、昭和初期に圧倒的な支持を受け、「少年小説の第一人者」として知られる。作詞家で詩人のサトウハチロー、小説家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の大垣肇の父。3人とも母は異なり、肇は愛人の子供であり、同居はしていない。弟子に佐藤惣之助と、独自の日本文化論を提唱した福士幸次郎の、2人の詩人がいる。福士は紅緑の食客で、紅緑の家庭内の事件のたびにその収拾に奔走した。
晩年の紅緑は、少年たちに理想を説く小説を書き続けたが、皮肉にも、別居していた肇以外の、長男ハチローをはじめとする4人の息子たちは、すべて道楽者の不良青少年となった。ハチローは詩人として成功したが、他の3人は、乱脈な生活を続けた破綻者となり、破滅的な死を迎えた。紅緑は生涯、彼らの借金の尻拭いをし続けた。その有様は、娘・愛子の小説『血脈』に描かれている。
略歴
1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生。本名洽六。
父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』、『陸奥評話』、『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。
1890年(明治23年)東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(現弘前高校)に入学。1893年(明治26年)、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京、翌1894年(明治27年)、日本新聞社に入社。正岡子規の勧めで俳句を始める。1895年(明治28年)、病により帰郷、東奥日報社に入社、小説、俳句などで活躍。1896年(明治29年)、東北日報社、翌1897年(明治30年)には河北新報社の主筆となる。1900年(明治33年)、報知新聞社に入社し大隈重信に重用される。記者活動の他に俳人として活躍。大デュマ、ヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳も手がける。
1905年(明治38年)、記者生活を止め、俳句研究会を起こす。小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品により注目を浴び、1908年(明治41年)、創作集『榾(ほだ)』を刊行。
1906年(明治39年)から1914年(大正3年)まで、新派の本郷座の座付作者を勤める。
1912年(大正元年)に小説『霧』、翌1913年(大正2年)に『谷底』をはじめ新聞連載小説を発表。1915年(大正4年)、劇団新日本劇の顧問。女優の横田シナ(後、三笠万里子と改名)を見初める。1918年(大正7年)、妻・はるとの別居などを経て、1922年(大正11年)、万里子と結婚。1923年(大正12年)、映画研究のため渡欧、翌1924年(大正13年)東亜キネマの所長に就任する(1925年(大正14年)退任)。
妻・三笠万里子を女優として売り出そうと、劇団活動を行うが、「紅緑にとりいって主役の座を得た」との悪評により、成果は思わしくなかった。万里子は、妊娠・出産により女優を断念する。
1919年(大正8年)から1927年(昭和2年)にかけて新聞雑誌に連載小説『大盗伝』(1921年・大正10年)「荊の冠」(1922年・大正11年)『富士に題す』(1927年・昭和2年)を書き、大衆小説の人気作家となる。
1925年(大正14年)ごろ、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)甲子園の自宅を「少年倶楽部」編集長の加藤謙一が訪問して、連載小説の寄稿を依頼した[1]。佐藤は「洟垂れ小僧向けに書けるか」と激怒し、諦めた加藤が去り際に「佐藤先生ならよい読み物を書いてもらえると思って来たのだが」と口にすると「考えてみる」と翻意、加藤の帰京後しばらく経ってから電話で連載受諾を返答した[1]。この結果1927年(昭和2年)から少年小説『あゝ玉杯に花うけて』を連載し好評を博し、挿絵画家高畠華宵の寄稿拒否で低迷していた「少年倶楽部」の部数を大きく伸張させた[1]。その後も『少年讃歌』、『英雄行進曲』などを書き、同誌の黄金期を築いた。また、加藤謙一に漫画の掲載を進言し、田河水泡の『のらくろ』が生まれることになる[2]。
「少年倶楽部」と同じ大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「キング」などにも多くの連載小説がある。『少年連盟』はジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』の翻案である。
1949年(昭和24年)6月3日、老衰のため東京都世田谷区上馬の自宅で永眠。享年75。戒名は好学院殿創文紅緑居士[3]。
著書
- 従軍記者決死隊(新声社 1901年11月)
- 滑稽俳句集(内外出版協会ほか 1901年)
- 俳句小史(内外出版協会 1902年4月)
- 芭蕉論稿(金港堂書籍 1903年)
- 俳諧紅緑子(有朋館 1904年3月)
- 蕪村俳句評釈(俳句入門叢書)(大学館 1904年3月)
- 俳句作法(東京国民書院 1906年1月)
- 古句新註(読売新聞社 1906年3月)
- あん火(服部書店 1908年2月)
- 嘘(服部書院 1908年4月)
- 地蔵子(服部書店 1908年3月)
- 死人(服部書店 1908年3月)
- 榾(服部書店 1908年4月)
- 紅緑日記(読売新聞日就社 1908年2月)
- 桜田門外雪の曙(大盛堂 1910年8月)
- 都俳句(三森幹雄共編 清華堂ほか 1910年1月)
- 侠艶録(新潮社 1912年1月)
- 礎 武士道皷吹新派浪花節(金尾文淵堂 1913年)
- 潮(新潮社 1913年)
- 赤い玉(東京国民書院 1913年)
- 雲乃響(新潮社 1913年)
- 十七の頃(鳳鳴社 1914年)
- 嵐(菊屋出版部 1914年)
- 紅緑脚本集(池田喜江 1914年)
- 光の巷(菊屋出版部 1915年)
- 鳩の家(菊屋出版部 1915年)
- 虎公(菊屋出版部 1916年)
- 母と子(菊屋出版部 1916年)
- 日の出る国(菊屋出版部 1917年)
- 桜の家(至誠堂 1917年-1918年)
- 孔雀草(至誠堂書店 1917年-1918年)
- 黄金(玄文社 1919年)
- 春の流(講談社 1919年)
- 夕千鳥(樋口隆文館 1919年)
- 咲く花散る花(樋口隆文館 1919年)
- 乳房(ニコニコ倶楽部 1920年)
- 結婚前後(日本評論社 1920年)
- 微笑(玄文社 1920年)
- 何処まで(日本評論社 1921年)
- ワンワン物語(博文館 1922年)
- 美しき人々(玄文社 1922年)
- 大慈大悲(玄文社出版部 1922年)
- 荊の冠(毎夕社出版部 1923年)
- 大盗伝 青春篇、愛恋篇、争闘篇(東京毎夕新聞社 1922年-1923年)
- 楽園の扉(大日本雄弁会 1926年)
- 幸福物語(大日本雄弁会 1926年)
- 第一歩(大日本雄弁会 1927年)
- あゝ玉杯に花うけて(大日本雄弁会講談社 1928年)、講談社少年倶楽部文庫 1975年
- 戯曲キリスト(新潮社 1928年)
- 東西婦人観(大日本雄弁会講談社 1928年)
- 町の人々(大日本雄弁会講談社 1928年)
- 桜田門外血染の雪 井伊大老と水戸浪士(三水社出版部 1928年)
- 紅顔美談(大日本雄辯會講談社 1929年3月)
- 毬の行方(大日本雄辯會講談社 1929年3月)
- 少年讃歌(大日本雄弁会講談社 1930年)、少年倶楽部文庫 1975年
- 朝の雲雀 (大日本雄弁会講談社 1930年)
- 麗人(新潮社 1930年)
- 富士に題す(大日本雄弁会講談社 1930年)
- 野に叫ぶもの(新潮社 1931年)
- 一直線(講談社 1931年)
- 夾竹桃の花咲けば(大日本雄弁会講談社 1931年)
- 新たに芽ぐむもの(新潮社 1932年)
- 麗はしき母(大日本雄弁会講談社 1933年)
- 少年聯盟(大日本雄辯會講談社 1933年3月)、少年倶楽部文庫 1976年
- 英雄行進曲(大日本雄弁会講談社 1935年)
- 絹の泥靴 昭和長篇小説全集 第11巻(新潮社 1935年)
- あの山越えて(大日本雄辯會講談社 1936年5月)
- 英雄行進曲 出世篇(大日本雄辯會講談社 1936年12月)
- 手に手をとつて(大日本雄辯會講談社 1937年7月)
- 黒將軍快々譚(大日本雄辯會講談社 1938年2月)、少年倶楽部文庫 1976年
- 街の太陽(講談社 1939年)
- 美しき港(大日本雄弁会講談社 1939年)
- 花咲く丘へ(大日本雄辯會講談社 1939年1月)
- 滿潮(大日本雄辯會講談社 1940年5月)
- 英雄群像(博文館 1942年)
- 朝日の如く(大衆文芸社 1942年11月)
- 花紅柳緑(六人社 1943年)
- 緑の天使(ポプラ社 1948年)
- 少年行進曲(まひる書房(少年少女文庫撰) 1948年)
- 節操の境界線(東方社 1948年)
- 紅緑句集(大日本雄弁会講談社 1950年)
- 十五少年漂流記(ジュール・ヴェルヌ ポプラ社 1950年)
没後刊行
- 佐藤紅緑全集(全2巻 講談社 1967年)
- 夾竹桃の花咲けば(国書刊行会 1984年)、挿画田中良
- あゝ玉杯に花うけて(国書刊行会「熱血少年文学館」 1985年)、挿画斎藤五百枝
- 少年小説大系第16巻 佐藤紅緑集(三一書房 1992年12月)、紀田順一郎・根本正義編
- ああ玉杯に花うけて/少年賛歌(講談社文庫大衆文学館 1997年)
- 佐藤紅緑全集(全18巻 日本図書センター 2000年)、復刻版
- 明治翻訳文学全集 翻訳家編18 森皚峰・佐藤紅緑集(大空社 2003年7月)
- ああ玉杯に花うけて 少年倶楽部名作選(講談社文芸文庫 2014年)
- 毒盃(論創社 2017年)、町田久次校訂(未刊行作品)
参考文献
- 佐藤愛子『花はくれない-小説・佐藤紅緑』講談社文庫 1976年
- 佐藤愛子『血脈』文藝春秋 2001年
- 復本一郎『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』岩波書店 2002年
佐藤紅緑を演じた俳優
- 岡本健一(『明治・青春グラフィティ 獅子が吼える』、東北放送、1997年4月12日)
- 緒形拳(『血脈』、テレビ東京、2003年)
- 原田芳雄(『ハチロー〜母の詩、父の詩〜』、NHK、2005年1月 - 3月)