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「三重県護国神社」の版間の差分

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やがて大東亜戦争が始まり戦局が厳しくなると、その二対の狛犬は[[物資]]となるべく戦争に[[召集]]されたが、戦地で傷つき、その後、[[疎開]]先で「阿」と「阿」だけが[[終戦]]を迎えたようである。
やがて大東亜戦争が始まり戦局が厳しくなると、その二対の狛犬は[[物資]]となるべく戦争に[[召集]]されたが、戦地で傷つき、その後、[[疎開]]先で「阿」と「阿」だけが[[終戦]]を迎えたようである。
昭和三十二年の三重縣護國神社御造営に際し、その「阿」と「阿」の狛犬を一対として、[[桑名市]]の鍋吉鋳造所の鋳物師 伊藤軍市郎氏より当神社に奉納された。<br />
昭和三十二年の三重縣護國神社御造営に際し、その「阿」と「阿」の狛犬を一対として、[[桑名市]]の鍋吉鋳造所の鋳物師 伊藤軍市郎氏より当神社に奉納された。
*'''阿吽の狛犬'''[[File:三重県護国神社狛犬.jpg|thumb|右|鳥居前の狛犬|150px]]<br />阿吽の狛犬は明治四十二年十月に三重縣會議員より奉献されたものである。
*'''阿吽の狛犬'''[[File:三重県護国神社狛犬.jpg|thumb|右|鳥居前の狛犬|150px]]<br />阿吽の狛犬は明治四十二年十月に三重縣會議員より奉献されたものである。


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 表:天皇陛下皇后陛下御親拜記念 <br /> 裏:昭和五十年十月二十七日當三重縣護國神社に行幸啓あらせられ親しく御拜を賜った <br />   この榮光を永く傳えるべく記念の碑を建立する <br />   昭和五十一年十月二十一日
 表:天皇陛下皇后陛下御親拜記念 <br /> 裏:昭和五十年十月二十七日當三重縣護國神社に行幸啓あらせられ親しく御拜を賜った <br />   この榮光を永く傳えるべく記念の碑を建立する <br />   昭和五十一年十月二十一日


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*'''母の象'''
*'''母の象'''
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 表:先の戦争でこんなに多くの尊い人命が失われました。われわれはこの皆さんに応えるため、世界の恒久平和と繁栄に努めることを誓います。お父さん、安らかにお眠りください。<br />   終戦50周年記念 平成7年5月建立 三重県遺族会青壮年部
 表:先の戦争でこんなに多くの尊い人命が失われました。われわれはこの皆さんに応えるため、世界の恒久平和と繁栄に努めることを誓います。お父さん、安らかにお眠りください。<br />   終戦50周年記念 平成7年5月建立 三重県遺族会青壮年部


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*'''歩兵第百五十一聯隊慰霊碑'''[[File:三重県護国神社慰霊碑.jpg|thumb|右|歩兵第百五十一聯隊慰霊碑|150px]]<br /> 表:慰霊 歩兵第五十一聯隊 <br /> 裏:聯隊は明治三十八年創建、[[樺太]]等に出兵、爾後神都鎭護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。然るに大正十四年五月、軍縮により廢止せらる。 昭和十三年七月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第十五師團の隷下に入り同年八月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戰に參加、赫々たる武勲を収む。 大東亞戰急を告ぐるや、昭和十八年八月[[ビルマ]]に轉進、[[インパール作戦|インパール作戰]]に加はり眞に特攻精神を發揮す。昭和二十年八月十五日大命により終戰。此の間軍旗の下盡忠報国祖國繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戰友は實に四千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎭魂の碑となす 昭和五十一年四月 歩兵第五十一聯隊(祭第七三七〇部隊)生存者一同
*'''歩兵第百五十一聯隊慰霊碑'''[[File:三重県護国神社慰霊碑.jpg|thumb|右|歩兵第百五十一聯隊慰霊碑|150px]]<br /> 表:慰霊 歩兵第五十一聯隊 <br /> 裏:聯隊は明治三十八年創建、[[樺太]]等に出兵、爾後神都鎭護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。然るに大正十四年五月、軍縮により廢止せらる。 昭和十三年七月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第十五師團の隷下に入り同年八月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戰に參加、赫々たる武勲を収む。 大東亞戰急を告ぐるや、昭和十八年八月[[ビルマ]]に轉進、[[インパール作戦|インパール作戰]]に加はり眞に特攻精神を發揮す。昭和二十年八月十五日大命により終戰。此の間軍旗の下盡忠報国祖國繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戰友は實に四千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎭魂の碑となす 昭和五十一年四月 歩兵第五十一聯隊(祭第七三七〇部隊)生存者一同
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*'''歩兵第五十一聯隊慰霊碑'''<br /> 表:歩兵第百五十一聯隊戦没者慰霊碑<br />  三重県知事 [[田川亮三]]謹書<br / > 裏:慰霊碑銘
*'''歩兵第五十一聯隊慰霊碑'''<br /> 表:歩兵第百五十一聯隊戦没者慰霊碑<br />  三重県知事 [[田川亮三]]謹書<br /> 裏:慰霊碑銘


   歩兵第百五十一聯隊(安第一〇〇二二部隊)は 昭和十六年九月三重県久居町に新設され 昭和十八年十一月動員下令 昭和十九年三月ビルマ国へ出動した
   歩兵第百五十一聯隊(安第一〇〇二二部隊)は 昭和十六年九月三重県久居町に新設され 昭和十八年十一月動員下令 昭和十九年三月ビルマ国へ出動した

2020年5月29日 (金) 00:00時点における版

三重県護国神社
140405 Mieken-gokoku-jinja Tsu MIe pref Japan02s3
所在地 三重県津市広明町387
位置 北緯34度43分58秒 東経136度30分31秒 / 北緯34.73278度 東経136.50861度 / 34.73278; 136.50861
主祭神 国事殉難者
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
創建 明治2年(1869年)
例祭 4月21日22日
10月21日22日
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三重県護国神社(みえけんごこくじんじゃ)は、三重県津市にある神社護国神社)である。
禁門の変戊辰戦争から第二次世界大戦までの三重県関係の戦歿者6万3百余柱を祀る。また、三重県の守り神、子供の神様として篤い崇敬を集める。
神紋は桜紋であり、靖国神社、護国神社の多くは神紋に桜を用いている。

神紋である桜を施した御朱印帳

刊行物に『三重護国』があり、春夏秋の年3回発行されている。創刊は昭和35年10月である。創刊号は16頁にも及び、三重県知事田中覚、三重県議会議長小久保久吉、、津市長角永清、三重県町村会長西浦清乃助、神社本庁総理佐々木行忠、神宮大宮司坊城俊良、靖国神社筑波藤麿、三重県遺族会会長斎藤昇らが寄稿している。

歴史

三重県護国神社の歴史は明治2年(1869年)、第11代津藩主であった藤堂高猷が、戊辰戦争で戦死した藩士の霊を祀る小祠を津八幡宮の境内に建て、「表忠社」と称したのに始まる。
明治7年3月17日の内務省達乙第22號によって官祭となり、翌明治8年10月13日に出された内務省達乙第132號によって招魂社となった[1]
内務省達乙第22號の内容は「戊申己巳之際従軍殉國ノ者戦没ノ地及其他各所ニ於テ舊藩主或ハ人民共私設致シ候招魂場ノ儀ハ永ク忠士ノ魂魄ヲ御吊慰被為在候御趣意ヲ以テ自今其所在ノ地税ヲ免シ祭祀幷修繕共一切官費支給可致旨被仰出候ニ付此旨相達候事」であり、祭祀や修繕にかかる費用には官費を支給すると明記されている。
また、翌年出された内務省達乙第百132號の内容には「各管内ニ設置有之招魂社ノ儀従前其所在ノ地名等種々ノ社號ヲ附シ來候向モ有之候處自今種々ノ社號ハ都テ相廢シ一般招魂社ト相唱候様可致此旨相達候事」とあり、三重県のみならず東京都(当時の東京府)を除く全ての招魂社の名称を統一した。明治34年には「招魂社墳墓ニ官祭官修ノ文字ヲ冠スルノ件」によって官祭招魂社と改称。
その後、明治41年1月11日に郡市長会に於いて移転改築の決議がなされ、遷座の準備が始まる。
翌年の明治42年4月17日には改築移転の件について内務大臣の許可を受け、同月29日に地鎮祭を行い、同年6月10日に上棟際、9月17日に新殿祭、18日午後7時より正遷宮式を行い、翌19日午後7時より新祭神合祀祭を行った。
昭和14年(1939年)3月15日の内務省令第12号「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」により三重縣護國神社に改称した。

ファイル:三重県護国神社の拝殿.jpg
昭和十五年当時の拜殿


第二次世界大戦後「三重神社」に改称していたが、日本が主権を回復した昭和28年に元の社名に復した。
昭和20年の空襲で本殿・神饌所以外の建物を焼失した。
昭和32年に本殿も含めて新たに社殿を造営した。
昭和35年10月に合祀概了奉告臨時大祭を斎行した。臨時大祭に先立って同年8月26日午前9時30分より宮内庁一階講堂にて宮内庁長官から全国護国神社宮司へ幣帛料の伝達が行われた。
昭和57年に御造営事業が始まり、起工奉告祭を3月19日に行い、仮殿迂座祭(儀式殿から本殿へ移す)を同月23日、御造営工事協力会安全祈願祭を5月12日、御造営工事地鎮祭を6月6日、仮殿遷座祭を10月28日に斎行した。
昭和58年には本殿の改修工事、社務所の新築工事を完工し、3月17日午後7時に本殿遷座祭を斎行した。
令和元年には御創祀150年を迎え、社務所屋根の葺き替え工事、駐車場整備工事などの記念事業工事を完工した。

『東宮行啓記』に見えたる官祭招魂社時代

明治45年刊行「東宮行啓記」

現在地へ遷座して間もない明治43年に東宮(後の大正天皇)より幣帛料を賜っている。『東宮行啓記』によると東宮は明治43年11月12日から5日間に亘って三重県を行啓された。その2日目である11月13日に御使を別格官幣社であった結城神社と官祭招魂社へ差遣し、幣饌を薦められた。以下は『東宮行啓記』第2章第7節御使差遣からの引用である。

 「御使は午後二時官祭招魂社に著せらる社司拜迎し拜殿に於て神饌を授けらる社司神殿に昇り之を奠供し御使は階下に進み玉串を獻して拜禮あり畢て退出午後三時歸還せられたり(原文ママ)」

『三重縣史上編』に見えたる官祭招魂社時代

大正七年刊行「三重縣史上編」

明治の御一新によって神社や仏閣は大きく整理され、その余波は瞬く間に全国に広がった。三重県もその例外ではなく、抜本的変革を余儀なくされる状況であった事が本書に記されているが、その中でも招魂社の設立については大きく取り上げている。以下はその一部を引用したものである。

 「維新當時の神佛二教の變革は前項記するが如き大動揺を來したる中に在りて佛教は非常なる打撃を蒙りたりと雖も神教は國体上の關係より勢威を有するに至れるものあり、本縣に在りても自然信仰を增加し來れるは無論にして、縣官に在りては明治二年十一月伊勢國安濃郡津八幡町八幡神社境内に一社を建て、明治元年攝州高濱の役及び動燃函館の戰に戦歿する者三十七名の靈を以て、之を神に祀り名けて表忠社と云ひ、年々八月廿日を以て神式の祭典を行ふことに定め、後明治六年五月三日該招魂場(別に表忠碑あり阿拜郡上野農人町字社垣内にあり共に戊辰己巳東征戦死者三十七人の靈を祀る所なり、表忠社は津藩の築造、彰忠碑は同藩士渡邊德等の創立に係る)の地名を陸軍省に稟し、(彰忠碑は同年三月三十日 同省六年三月三日に因る)七年五月三十一日、又其祭祀及修繕費を錄して内務省に進達せしが(彰忠碑は六月廿五日 同省七年乙第二十二號達に因る)八年に至り經費を定め毎歳金四拾四圓廿五銭を以て額とす(彰忠碑は經費を付せず)同年八月二十日十三等出仕小野實光を遣し、神官と共に祭典を行はしむ、(九年に至り縣官の發遣を止め、祭典は毎歳此日を以て神官に於て行はしむ)るに至れり」

さらに続けて現在地への移転、祭神数、当時の様子についても触れている。

 「明治四十二年、地を現在の偕樂公園下に移し、荘嚴なる社殿を造營して英靈を此處に遷し奉り、爾來中秋九月官祭により恒例祭典を執行し、陣歿者の英靈を祀ると共に、祭典當日には各遺族を招待して神酒直會を頒ち、又別に境内に表忠舘を設け、戰歿者の遺物を蒐集陳列して一般参拜者の縦覧に供する事にせり、始め同社に合祀する者戊申役に於ける戰死者三十七名なりしが、其後日淸、日露両役に於ける戰死者の外に臺灣蕃匪事件の犠牲者、近くは大正三年の役に於ける戰没者等を合祀し、更に元治元年の事變に陣歿せし古勇士の靈を迎へ奉りて、現今三千三百〇二名の多きに達せり、内譯左の如し  戊申役 三十七、元治元年事變 三、西南役 三百四十六、二十七八年役 三百〇一、三十七八年役 二千五百八十三、大正三年役 十、臺灣蕃匪事件 十 現在同社の有する基本金壹萬貮千四拾八圓、其多くは縣より下附されたるものにして、年々の祭典費用は各郡市に於ける醵出金を以て之れに充て、祭典に奉仕する神官も各郡市に割當て之を行ふ事とせり、祭典當日には五十一聯隊の全部並に各學校生徒の参拜多く、津市に於ける年中行事の一として殷賑を呈するを常とせり(原文ママ)」

文中に「戊申役」とあるが、これは戊辰役の誤りであろう。この記述を見ると、祭日には学校の生徒などが多く集まり、盛況であった様が伺える。また、国難を凌ぐごとに合祀、慰霊を行い祭神数も次第に増えていったようである。

『三重縣神社誌』に見えたる官祭招魂社時代

大正八年刊行「三重縣神社誌」

大正8年に三重県全域の神社の詳細を記した『三重縣神社誌』が全四巻で発行された。発行者は三重縣神職會である。当神社は第一巻の22頁から23頁にかけて記述がある。以下はその内容である。

官祭招魂社     津市大字下部田字北羽所千三百九十五番ノ三外二十六筆
 一祭神
 明治維新前後三重縣出身殉國者
一由緒
 明治六年己巳年十一月舊津藩主藤堂高献安濃郡八幡町八幡神社の境内に小祠を建て戊辰の役官軍に從ひ戦死したる藩士の靈を祀り表中社と稱したりしか明治七年三月官祭に列せられ同八年十月招魂社と改稱す其後明治十四年西南の役に於ける本縣下出身戦死者を東京靖国神社に合祀せられたるも遺族の多くは遠隔の地にある同神社に参拜すること能はさるを憂へ明治十九年許可を受け本社に合祀し明治三十四年六月官祭招魂社と改稱す同三十五年明治三十七八年戰役及明治三十三年清國事件に於ける死歿者合祀の許可を受け明治四十二年津市大字下部田に移築し同時に明治三十七八年戰役及韓國是徒鎭壓事件死歿者を合祀す明治四十三年十一月十三日
聖上陛下東宮に在しゝ時本縣御駐輦の際東宮侍從田内三吉を差遣あらせられ幣饌料を献らる明治四十四年五月 昭憲皇太后神宮御参拜の際幣饌料御下賜あらせらる同年七月朝鮮暴徒鎭壓並臺灣土匪又は生蕃討伐に從事し死歿せる者を合祀し大正四年七月日獨戰爭並に臺灣蕃匪討伐事件及元治元年京都御所に於て戰死したる桑名藩士を合祀せり(原文ママ)
一建築物
 本殿 神明造檜皮葺 拜殿 玉垣 神饌所 社務所 表忠館 手水屋形 鳥居二基 灯籠六基 狛犬二基
一境内 二千四百坪
一祭日
 例祭 四月二十日
一基本財産
 金壹萬千参百圓 三重縣農工債券

由緒冒頭に「明治六年」とあるが、後の干支が「己巳年」であるから明治二年の誤りであろう。藤堂高猷の名が「藤堂高献」となっているが、史料によっては「高献」の字を使っていることもあるようである。また、明治四十二年のところに「是徒鎭壓事件」とあるが、これは「暴徒鎭壓」の誤りであろう。

歴代宮司

歴代宮司一覧
名前 肩書 任期
初代 石上秀賢 受持神官 明治2年11月

至大正12年8月

二代 松島薫 受持神官 自大正12年8月

至昭和8年12月

三代 石上清治 受持神官 自昭和8年12月

至昭和18年12月

四代 冨士磐根 社司 自昭和18年12月

至昭和21年11月

五代 仲公 宮司 自昭和21年11月

至昭和29年9月

六代 林栄治 宮司 自昭和29年9月

至昭和47年5月

七代 宇治土公貞幹 宮司 自昭和47年7月

至平成11年3月

八代 原光夫 宮司 自平成11年3月

至平成29年3月

九代 中野雅史 宮司 自平成29年4月

至平成31年3月

十代 原光夫 宮司代務者

宮司

自平成31年4月

文化財

三重県護国神社は県の有形文化財「刀 銘(表)濃州御勝山住藤原永貞 (裏)萬延元年庚申八月吉日 於洞津鍛山田栄徳君佩刀松井治一郎」を所有している。刃長71.0㎝、反り1.7㎝、目釘穴1個。鎬造りで重ね厚く、庵棟で樋掻き通し、添え樋がある。鍛えは小杢目で、刃文は大乱れ、茎は生茎、栗尻、やすり勝手下りで、白鞘入りの拵えである。
刀匠の藤原永貞は松井治一郎といい、文化6(1809)年に美濃国不破郡垂井(現在の岐阜県)で生まれている。先祖が伊勢から東本願寺の別格の寺院である平尾御坊附人として岐阜へ移住したもので、同寺と同派の寺が津及び田丸にあるため、当地での鍛刀が多くある。
本刀は、永貞が伊勢に滞在していたおりに作刀したもので、伊勢打ちの傑作といえる。

年間祭事・行事

1月1日 歳旦祭
1月15日 どんど焼き
2月11日 紀元祭
2月17日 祈年祭
2月23日 天長祭
3月3日 おひなまつり
春分の日 春分祭
4月21・22日 春季例祭
4月29日 昭和祭
5月5日 子供武者参り
6月30日 夏越大祓式
7月23日 万灯みたま祭

みたま祭に掲げられる提灯

7月24日 式年みたま祭
7月25日 万灯みたま祭
8月15日 終戦の日 英霊感謝祭
秋分の日 秋分祭
10月21・22日 秋季例祭
11月3日 明治祭
11月15日 七五三
11月23日 新嘗祭
12月31日 年越大祓式・除夜祭
※毎月1日・15日 月次祭※随時 御祭神慰霊祭

狛犬

  • 阿阿の狛犬
    口を開けた狛犬

    一般的な狛犬は、左右一方が口を開いた「阿」、一方が口を閉じた「吽」が一対として神社に置かれている のがほとんどですが、三重縣護國神社の青銅製の狛犬は、左右とも「阿」「阿」と口を開けている。なぜ左右とも口を開けているのか、詳しいことは判っていないが、この狛犬が当神社に奉納された時に書かれた「狛犬由来記」などを手掛かりに想像すると、もともとこの狛犬は、「阿」「吽」二対が存在していたのではと考えられる。「狛犬由来記」の本文は以下の通りである。

 此の青銅狛犬は大東亜戦に應召せるも
 疎開先にて終戦となり
 無傷のまま鍋吉工場に復員せり
 今回護国神社造営に際志
 英霊奉護の御使として卒先奉納さる
 寔に奇特の至りにて其の敬神篤志永く後昆に可傳
 昭和三十二年十月造営竣工記念
 三重縣護國神社 宮司 林榮治 記

やがて大東亜戦争が始まり戦局が厳しくなると、その二対の狛犬は物資となるべく戦争に召集されたが、戦地で傷つき、その後、疎開先で「阿」と「阿」だけが終戦を迎えたようである。 昭和三十二年の三重縣護國神社御造営に際し、その「阿」と「阿」の狛犬を一対として、桑名市の鍋吉鋳造所の鋳物師 伊藤軍市郎氏より当神社に奉納された。

  • 阿吽の狛犬
    鳥居前の狛犬

    阿吽の狛犬は明治四十二年十月に三重縣會議員より奉献されたものである。

境内石碑・慰霊碑

  • 社号
    三重縣護國神社の社号碑

 表:三重縣護國神社
 裏:奉獻 昭和三十二年十月御造營記念改刻建立 萬古陶磁器工業協同組合

 表:百度石
 裏:奉納 昭和五十八年吉日 樋尾吉男外九十九名

 表:天皇陛下皇后陛下御親拜記念
 裏:昭和五十年十月二十七日當三重縣護國神社に行幸啓あらせられ親しく御拜を賜った
   この榮光を永く傳えるべく記念の碑を建立する
   昭和五十一年十月二十一日


  • 母の象

 表:強くきびしくやさしかった母おかげで今私たちがあるお母さんありがとう
   この像は先の大戦で幼くして父を失った県下の遺児達が戦後の母の労苦に感謝して偉大な母の姿を永遠に讃えると共に惨めだったその深い悲しみをくり返すことのないようにと世界の恒久平和を祈って建立致しました
   昭和五十年十二月 三重県遺族会青壮年部

   

  • 大東亜戦争における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図

 表:先の戦争でこんなに多くの尊い人命が失われました。われわれはこの皆さんに応えるため、世界の恒久平和と繁栄に努めることを誓います。お父さん、安らかにお眠りください。
   終戦50周年記念 平成7年5月建立 三重県遺族会青壮年部


  • 歩兵第百五十一聯隊慰霊碑
    歩兵第百五十一聯隊慰霊碑

     表:慰霊 歩兵第五十一聯隊
     裏:聯隊は明治三十八年創建、樺太等に出兵、爾後神都鎭護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。然るに大正十四年五月、軍縮により廢止せらる。 昭和十三年七月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第十五師團の隷下に入り同年八月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戰に參加、赫々たる武勲を収む。 大東亞戰急を告ぐるや、昭和十八年八月ビルマに轉進、インパール作戰に加はり眞に特攻精神を發揮す。昭和二十年八月十五日大命により終戰。此の間軍旗の下盡忠報国祖國繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戰友は實に四千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎭魂の碑となす 昭和五十一年四月 歩兵第五十一聯隊(祭第七三七〇部隊)生存者一同


  • 歩兵第百三十三聯隊慰霊碑
    歩兵第百三十三聯隊戦没者慰霊碑

     表:歩兵百三十三聯隊 戦没者慰霊碑
     裏:慰霊碑銘

   歩兵第百三十三聯隊(嵐第六二一四部隊)は支那事変に際し昭和十三年五月久居町の屯營において編成 第百十六師團に属して同六月中國に出征し第十三軍に隷す 当初浙江省杭州府附近にいで安徽省銅陵県附近を戡定駐屯し楊子江警備に任じつつ江南江北に轉戦幾十度に及ぶ 特に十三年秋 武漢攻略戦には遠く漢陽に進撃し 十四年冬 敵十数個師による冬季大攻戦を迎えては之を陣前に撃摧 十五年四月春季皖南作戦には挺進して霊峰九華山の天嶮を突破 敵主力を補捉 榮の感状に輝き 十七年夏 浙贛作戦には浙江省衢州城外西北陣地帯を一擧に席捲 軍の衢州攻陥に轉じ常德殲滅作戦に参加 輻輳する水濠を連続突破して湖南省常德県城攻略に任じ力戦死鬪七晝夜 遂に之を完全占領し再度の感状に浴す

  十九年夏 大陸の精鋭三十六萬 湘桂打通に動くや勇躍ます汨水を血流と化してその堅陣を突破し湘潭を奪い湘郷に敵を圧し更に長駆衡陽県城攻略の主攻に任ず 蓋し衡陽攻略は湘桂作戦成否の焦点たり 七月一日クロ高地攻撃の初動より八月七日敵主陣地岳屏西方エビ高地を奪取して守備軍の死命を制するまで終始全軍の先陣に立ち白兵をもって奪取せる堅壘十数個 遂に敵牙城を抜く 感状三度燦として偉勲を讃う

   爾後第二十軍に属して寶慶附近を警備し 二十年春 湘西作戦起るや勇進して芷江敵航空基地全面に迫りたるも五月命により反轉 寶慶附近陣地に死守玉碎を期しつつ 八月 終戦の大詔を拝するに至る

   聯隊の戦陣に在ること八年に及び この間 鋒鏑疫癘に斃れたる戦友四千五百余柱を数う

   新生日本既に三十年 ここに慰霊碑を建て 祖國の安危に挺身 民族の榮光に殉じたる戦没戦友の遺烈を偲び 在天の英霊永しえに安らかならんことを祈る

   昭和五十一年四月

   一三三会建之

  • 歩兵第五十一聯隊慰霊碑
     表:歩兵第百五十一聯隊戦没者慰霊碑
      三重県知事 田川亮三謹書
     裏:慰霊碑銘

   歩兵第百五十一聯隊(安第一〇〇二二部隊)は 昭和十六年九月三重県久居町に新設され 昭和十八年十一月動員下令 昭和十九年三月ビルマ国へ出動した

   聯隊主力はインド国インパール攻略戦に 第一大隊は北ビルマ戦線に五月より参加した

   時あたかもビルマは雨期に入り 山中にて食糧その他の補給も無く 栄養失調と過労により身体は衰弱し マラリヤ 下痢等に悩みながらも勇戦奮闘した 十一月よりオークトウ マンダレー タウンタ付近の戦闘に参加し 優秀な装備の敵と交戦 戦場は惨烈苛酷をきわめた その後各地を転戦し 昭和二十年六月より雨期の泥沼の如きシツタン河口に於て 必死の攻防戦を展開中 八月終戦の大詔を拝するに至った

   風土の異なる遠き辺境に於いて 戦陣にあること一年五か月 この間連合軍 悪疫との戦に斃れたる戦友は二千九百余柱を数える 誠に痛恨の極みである

   ここに慰霊碑を建立し 祖国に殉じたる戦友の遺烈を偲び その功績を顕彰する 在天の英霊願わくは永久に安らかならんことを

   昭和五十五年十月

   歩兵第百五十一聯隊戦友会建之

  • 近衛兵第一聯隊碑
     表:近衛兵第一聯隊碑 平成21年4月建之 三重県近歩一会

石玉垣

三重縣護国神社の石玉垣

境内の一部外周には玉垣がめぐらされており、これは昭和六十年十月に完成したものである。石玉垣の碑文は以下の通りである。
 終戦四十周年にあたり玉垣の整備を計画し森田清氏の篤志により森田基金を主体として本事業を完成した
 昭和六十年十月二十一日
  宮司宇治土公貞幹
  責任役員西口喜太郎
   仝 松岡千明
   仝 乾 英夫
   仝 長谷公秀
   仝 宇野誠一
   仝 山本三千男

伊勢の神宮との関係

三重縣護国神社の大鳥居

三重県護国神社の本殿は伊勢神宮外宮の「東宝殿」を第59回式年遷宮時に賜り移築され、昭和32年に造営復興されたものである。また、境内にある儀式殿も外宮の四丈殿を下賜されたものである。正面の大鳥居も外宮から下賜されたものであると伝えられるが資料が確認されていない。

周辺

地図

交通

車:津インターより約5分
JR・近鉄・バス:津駅西口より歩いて約5分

脚注

  1. ^ 津市史談教案・三重県地誌教案8コマ目”. 国立国会図書館. 2020年5月11日閲覧。

関係団体

  • 三重縣護國神社奉賛会 昭和61年1月発足
    • 初代会長 山下正夫(第68代三重県議会議長)
    • 二代会長 野中林兵衛(第73代三重県議会議長)
    • 三代会長 乙部一巳(第87代三重県議会議長)
    • 四代会長 西場信行(第92代三重県議会議長)
  • 神社本庁
    • 初代統理 長谷外余男
    • 三代統理 鷹司信輔
    • 四代統理 佐々木行忠
    • 五代統理 細川護貞
    • 六代統理 東園基文
    • 七代統理 久邇邦昭
    • 八代統理 北白川道久
    • 九代統理 鷹司尚武
  • 神道政治連盟
  • 日本会議
  • 英霊にこたえる会
  • 三重県遺族会
    • 初代会長 青山新七郎
    • 二代会長 水谷喜郎
    • 三代会長 川井嘉蔵
    • 四代会長 渕田五郎
    • 五代会長 齋藤昇
    • 六代会長 田村元
    • 七代会長 谷嘉昭
    • 八代会長 齋藤十郎
    • 九代会長 田村憲久

外部リンク