「ルネ・クルヴェル」の版間の差分
Bellcricket (会話 | 投稿記録) 削除依頼対処済み |
m bot: 解消済み仮リンクリテラチュールを内部リンクに置き換えます |
||
(他の1人の利用者による、間の2版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox 作家 |
|||
{{複数の問題 |
|||
| name = ルネ・クルヴェル<br>René Crevel |
|||
| 出典の明記 = 2019年9月 |
|||
| image = René Crevel, Nouvelles littéraires, 21 septembre 1929.jpg |
|||
| 特筆性 = 2019年9月 |
|||
| |
| image_size = |
||
| caption = ルネ・クルヴェル、1929年 |
|||
| 独自研究 = 2019年9月 |
|||
| birth_date = {{生年月日と年齢|1900|08|10|no}} |
|||
| 要改訳 = 2019年9月 |
|||
| birth_place = {{FRA}}、[[パリ]] |
|||
| 孤立 = 2019年9月 |
|||
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1900|08|10|1935|06|18}} |
|||
| Wikify = 2019年9月 |
|||
| death_place = {{FRA}}、[[パリ]] |
|||
| resting_place = {{仮リンク|モンルージュ墓地|fr|Cimetière de Montrouge}} |
|||
| occupation = [[詩人]]、[[作家]] |
|||
| language = [[フランス語]] |
|||
| education = |
|||
| alma_mater = {{仮リンク|リセ・ジャンソン=ド=サイイ|fr|Lycée Janson-de-Sailly}}<br>[[パリ大学|ソルボンヌ大学]] |
|||
| period = |
|||
| genre = [[詩]]、[[随筆]]、[[評論]] |
|||
| subject = |
|||
| movement = [[ダダイスム]]、[[シュルレアリスム]] |
|||
| debut_works = 『迂回路』 |
|||
| notable_works = 『ぼくの肉体とぼく』、『困難な死』、『おまえたちは狂人か』 |
|||
| influences = <!--影響を受けた作家名--> |
|||
| influenced = <!--影響を与えた作家名--> |
|||
| signature = <!--署名・サイン--> |
|||
}} |
}} |
||
[[ファイル:René_Crevel,_Nouvelles_littéraires,_18_décembre_1926.jpg|サムネイル|261x261ピクセル|ルネ・クルヴェル(1926) ]] |
|||
'''ルネ・クルヴェル'''('''René Crevel'''、{{IPA-fr|kʁəvɛl|lang}} ; [[1900年]][[8月10日]] - [[1935年]][[6月18日]])は[[フランス]]の作家、詩人。[[ダダイスム]]、[[シュルレアリスム]]に参加。 |
|||
'''ルネ・クルヴェル'''(René Crevel、[[1900年]][[8月10日]] - [[1935年]][[6月18日]])は[[フランス]]の[[詩人]]、[[作家]]。[[ダダイスム|ダダイスト]]、[[シュルレアリスム|シュルレアリスト]]。[[催眠]]実験などシュルレアリスムの活動において重要な役割を果たす一方、1927年に[[フランス共産党]]に入党し、1932年3月に[[国際革命作家同盟]]のフランス支部として結成された{{仮リンク|革命作家芸術家協会|fr|Association des écrivains et artistes révolutionnaires}}の反[[植民地主義]]、[[反戦運動|反戦]]、[[反ファシズム]]の運動に参加した。左傾化したシュルレアリストが最終的に[[共産主義]]者と決裂した後も、最後まで両者の連携のために尽力した。 |
|||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
ルネ・クルヴェルは[[パリ]]でブルジョア階級の家族に生まれ、カトリックの教育を受けた。父親はクルヴェルが14歳のときに自殺した<ref name=":0" />。[[ソルボンヌ大学]]で文学と法律を学ぶ。[[アンドレ・ブルトン]]と出会い、1921年に[[シュルレアリスム]]に参加。1927年に[[フランス共産党]]に入党、1933年に除名された<ref name=":0">{{Cite web|title=CREVEL René - Maitron|url=http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article107446|website=maitron-en-ligne.univ-paris1.fr|accessdate=2019-09-24}}</ref>。 |
|||
=== 背景・教育 === |
|||
1925年に小説『ぼくの肉体とぼく』を発表。 1926年に[[結核]]と診断され、たびたびサナトリウムに滞在して手術や薬物治療を受けた。アンドレ・ブルトンに忠実であり続けた彼は、共産主義者とシュルレアリストの連携に尽力<ref name="newcriterion.com">Renee Winegarten, "The golden boy of Surrealism: On René Crevel", ''The New Criterion'', February 1987, {{Cite web|url=http://www.newcriterion.com/articles.cfm/The-golden-boy-of-Surrealism-6134|title=Archived copy|accessdate=2013-12-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303224405/http://www.newcriterion.com/articles.cfm/The-golden-boy-of-Surrealism-6134|archivedate=3 March 2016}}</ref>。 |
|||
ルネ・クルヴェルは1900年8月10日、[[パリ]][[10区 (パリ)|10区]]{{仮リンク|サン=ドニ門|fr|Porte Saint-Denis}}に近い{{仮リンク|エシキエ通り|fr|Rue de l'Échiquier}}に生まれた。父ウジェーヌ・ポール・クルヴェルは[[楽譜]]の印刷屋で、主に大衆歌謡の楽譜を印刷していたが、1914年に[[自殺]]した。動機は不明であった。最も理解を示した最も敬愛する父の死を目撃した14歳のルネは、生涯にわたって深い[[トラウマ]]、自殺に対する強迫観念を抱くことになった<ref name=":0">{{Cite journal|author=Simon Harel|year=2000|date=|title=René Crevel|url=https://www.erudit.org/fr/revues/nb/2000-n79-nb1118575/20837ac/|journal=Nuit blanche|volume=|issue=79|page=|pages=21–24|language=fr|issn=0823-2490}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=TVYUfu7wlj0|title=Une Vie, une œuvre : René Crevel (1900-1935)|accessdate=2020-03-22|publisher=Rien ne veut rien dire / France Culture|date=1999-12-26|language=fr}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=CREVEL René|url=https://maitron.fr/spip.php?article107446|website=maitron.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Maitron|author=Nicole Racine|date=2010-11-04}}</ref>。彼は後に『ぼくの肉体とぼく』に、父の自殺は、彼の「フォルマシオン([[教育]])と[[デフォルメ|デフォルマシオン]]」にとって「後のどのような[[愛]]や[[憎しみ]]の試練をも超えるものであった」と書いている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|title=RENÉ CREVEL|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/rene-crevel/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-03-22|language=fr-FR|publisher=|author=Barbara Cassin}}</ref>。 |
|||
クルヴェルは[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]・[[カトリック教会|カトリック]]の教育を受けた。彼はその狭量さと陰鬱さ、さらには[[家族]]、[[権力]]、[[軍隊]]、教会といったブルジョワ・カトリック社会の価値観を批判し、共産主義に傾倒することになる<ref name=":1" />。 |
|||
1935年6月18日、{{仮リンク|第1回文化擁護国際作家会議|fr|Premier congrès international des écrivains pour la défense de la culture|label=}}開催の直前にガス自殺した<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=知識人の時代 ― バレス/ジッド/サルトル|date=|year=2007|publisher=[[紀伊國屋書店]]|author=[[ミシェル・ヴィノック]]|translator=[[塚原史]]、[[立花英裕]]、築山和也、久保昭博}}</ref>。直前にブルトンが[[イリヤ・エレンブルグ]]と対立し、同会議から除名された。 [[サルバドール・ダリ]]によると、「シュルレアリスムの中で唯一の真面目な共産主義者」だったクルヴェルは他の代表にシュルレアリストの除名を取り消すよう説得しようとしたが、無駄であったという<ref>{{Cite book|last=Crevel|first=René|title=Le Clavecin de Diderot|date=1932|publisher=Éditions Surréalistes|location=Paris|page=161, "Afterword"}}</ref>。また、この頃、[[結核]]を再発していることを知ったという(Claude Courtot <ref>{{Cite book|last=Crevel|first=René|title=Le Clavecin de Diderot|date=1932|publisher=Éditions Surréalistes|location=Paris|page=162, "Afterword"}}</ref> )。彼は「''私の身体を火葬にしてください。嫌悪していますから''」と書き残していた<ref name=":1" />''。'' |
|||
大規模な[[グランゼコール準備級]]があることで知られる{{仮リンク|リセ・ジャンソン=ド=サイイ|fr|Lycée Janson-de-Sailly}}に学び、在籍中に後の映画監督{{仮リンク|マルク・アレグレ|fr|Marc Allégret}}と知り合った。1917年にフランス語の作文で特別賞を得て[[ソルボンヌ大学]]に入学。[[文学]]と[[法学]]を専攻し、[[百科全書派]]の[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]に関する[[博士]]論文を執筆し始めた。ディドロに関する研究は、1932年にシュルレアリスム出版社から『ディドロのクラヴサン』として刊行された。 |
|||
1925年に刊行された『シュルレアリスム革命』第2号で、クルヴェルは、「自殺の理由として愛、恐怖、梅毒などを挙げるけれど、それは違う。・・・自殺をする人は、あまりにも激しい感情に襲われたときに、これに打ち勝たなければならないという、ほとんど誰もが持っている臆病さ・卑怯さをまったく持ち合わせていないのだ。・・・この真実の感情があるからこそ、おそらく最も正しく最終的な解決策として自殺を選ぶのだ」と書いている<ref>{{Cite web|title=René Crevel|url=https://republique-des-lettres.com/crevel-9782824901770.php|website=republique-des-lettres.com|accessdate=2019-09-24|language=fr|publisher=}}</ref>。 |
|||
=== ダダイスム === |
|||
1921年に[[徴兵制度|徴兵]]され、服役中に作家[[マルセル・アルラン]]、{{仮リンク|ジャック・バロン|fr|Jacques Baron}}、{{仮リンク|マックス・モリーズ|fr|Max Morise}}、{{仮リンク|ジョルジュ・ランブール|fr|Georges Limbour}}、{{仮リンク|ロジェ・ヴィトラック|fr|Roger Vitrac}}と出会い、月刊雑誌『アヴァンチュール([[s:fr:Aventure (revue)|''Aventure'']]、冒険)』を創刊し、主幹を務めた。わずか3号で翌1922年に終刊となったが、[[アンドレ・ブルトン]]、[[ルイ・アラゴン]]、[[トリスタン・ツァラ]]、[[ジャン・コクトー]]らも寄稿した<ref>{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientbookline/service/reference.asp?output=PORTAL&INSTANCE=INCIPIO&DOCBASE=CGPP&DOCID=0467664|title=Aventure (REVUE) / René Crevel, gérant|accessdate=2020-03-22|publisher=Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref>。 {{Wikisourcelang|fr|Aventure (revue)|Aventure}}クルヴェルは引き続きブルトン、ツァラを中心とするダダイスムの運動に参加した。後にシュルレアリスムの運動を率いることになるブルトンらはすでに1919年にこの運動の最初の試みである[[自動記述]]を行い、この結果をブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『[[リテラチュール]](文学)』に「磁場」として発表していた<ref>邦訳:『磁場』[[阿部良雄]]訳『アンドレ・ブルトン集成(第3巻)』([[人文書院]]、1970年)所収。</ref>。1922年9月にクルヴェルはシュルレアリスムのもう一つの重要な試みである催眠実験を提案した。クルヴェルのほか、[[バンジャマン・ペレ]]と[[ロベール・デスノス]]が被験者になり、他の参加者(ブルトン、[[ポール・エリュアール]]、[[マックス・エルンスト]]、マックス・モリーズ、[[フランシス・ピカビア]])が催眠状態にある彼らに質問した。クルヴェルの回答は[[口頭弁論]]のようなものであった。目覚めたとき、クルヴェルは語ったことについて何も覚えていなかった。テーブルをひっかくようなしぐさをしたことを指摘すると、書きたい気持ちの現れかもしれないと言った。この催眠実験は「霊媒の登場」として『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号(1922年11月)に掲載された<ref>{{Cite web|title=Litterature Nouvelle Serie N°5-6, Aragon, Breton, Soupault|url=http://melusine-surrealisme.fr/site/Litterature/litt_NS_5-6.htm|website=melusine-surrealisme.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Mélusine (Cahiers du Centre de recherche sur le surréalisme de Paris III)|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 6 (New Series)|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/6ns/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-03-22|publisher=University of Iowa|language=fr}}</ref><ref>アンドレ・ブルトン著「霊媒の登場」[[巖谷國士|巌谷國士]]訳『[[現代詩手帖]]』(第14巻第8号、8-18頁、1971年8月、思潮社)、および『アンドレ・ブルトン集成6』「失われた足跡」(人文書院、1974年) 所収。</ref>。だが、この後、催眠実験を繰り返しているうちに、クルヴェルは催眠状態で自殺を企てるようになり、デスノスは[[ナイフ]]を持って参加者に襲いかかるなど自他ともに危険な状況になり、実験を打ち切らざるを得なくなった<ref>{{Cite journal|和書|author=泉谷安規|month=8|year=2010|title=アンドレ・ブルトン『通定器』における夢の記述の一読解の試み(I)|journal=人文社会論叢(人文科学篇)|volume=24|page=|pages=1-24|publisher=[[弘前大学]]人文学部}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Jenny Laurent|year=1988|date=|title=Les aventures de l'automatisme|url=https://www.persee.fr/doc/litt_0047-4800_1988_num_72_4_1463|journal=Littérature|volume=72|issue=4|page=|pages=3–11|language=fr|doi=10.3406/litt.1988.1463}}</ref>。 |
|||
一方、すでに1921年頃からダダイスムの運動内部においてブルトンとツァラの対立が露わになっていた。クルヴェルは{{仮リンク|ピエール・ド・マッソ|fr|Pierre de Massot}}らとともにむしろツァラ派であった。決裂が決定的なものとなったのは、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」においてであった。ツァラの演劇『ガス心臓』が上演されたこの夕べには、ブルトン派(エリュアール、アラゴン、ペレ、デスノス)も参加していた。第1部の最後にマッソが既存の文学・芸術的価値をすべて破壊するという趣旨の宣言を読み上げた。ところが、マッソが「[[アンドレ・ジッド|ジッド]]は死んだ、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]は死んだ」という箇所を読んだとき、ピカソの友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンが舞台に飛び上がってマッソに殴りかかった。エリュアールはツァラとクルヴェルに平手打ちを食らわせた。挙句は[[警察]]を呼ぶ騒ぎになり、[[パリ警視庁]]の命令で第2部の上演は取り消しとなった<ref>{{Cite web|title=Ca barbe, dada !|url=https://www.odyssee-culture.com/book/dada-ne-signifie-rien/ca-barbe-dada|website=www.odyssee-culture.com|accessdate=2020-03-22|publisher=L'Odyssée - Un équipement culturel de l'Agglo du Pays de Dreux|language=fr}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=塚原史|year=2018|title=トリスタン・ツァラの知られざる軌跡 : ダダから「実験夢」へ : 『種子と表皮』を読み解くために|url=http://id.ndl.go.jp/bib/029642670|journal=人文論集|volume=57|page=|pages=226-180|publisher=[[早稲田大学]]法学会}}</ref><ref>{{Cite web|title=THEATRE. Grâce à Sylvain Dhomme, redécouverte à Paris de «Coeur à gaz», une pièce du Roumain Dada Tristan Tzara, dont les personnages (Nez, oeil ou Bouche) oeuvrent avec brio dans l'absurde et le non-sens. Le Dada de Tzara repart bon pied bon oeil. Coeur à gaz, de Tristan Tzara, m.s. Sylvain Dhomme, du 27 au 31 mai, 21 heures, à Confluences, 190, boulevard de Charonne, Paris.|url=https://next.liberation.fr/culture/1996/05/24/theatre-grace-a-sylvain-dhomme-redecouverte-a-paris-de-coeur-a-gaz-une-piece-du-roumain-dada-tristan_170831|website=Libération.fr|date=1996-05-24|accessdate=2020-03-22|language=fr|publisher=|author=Jean-Pierre Thibaudat}}</ref>。ダダイスムもシュルレアリスムも既存の[[社会秩序|秩序]]や[[価値]]を破壊するという点では共通する運動であったが、根本的に、すべてを無意味とするダダイストと、従来無意味とされてきた[[無意識]]や[[夢]]に新たな価値を見出し、これを表現しようとしたシュルレアリストは思想的に対立し<ref>{{Cite journal|author=Carassus Émilien|year=1985|date=|title=De quelques surréalistes et du «Procès Barrés» Lettres inédites de Louis Aragon et de Pierre Drieu la Rochelle à Maurice Barrés|url=https://www.persee.fr/doc/litts_0563-9751_1985_num_13_1_1370|journal=Littératures|volume=13|issue=1|page=|pages=151–168|language=fr|doi=10.3406/litts.1985.1370}}</ref>、以後、ダダと決裂したシュルレアリストの活動が本格的に開始されることになった。 |
|||
ツァラ派であったクルヴェルは、1924年のブルトンの「[[第一宣言|シュルレアリスム宣言]]」および機関誌『[[シュルレアリスム革命]]』の創刊には参加せず、それどころか、シュルレアリスム宣言の2週間前に、[[チューリッヒ]]でツァラと親しかった詩人{{仮リンク|イヴァン・ゴル|fr|Yvan Goll}}が創刊した『シュルレアリスム』誌に参加してブルトンとの対立を際立たせることになった。『シュルレアリスム』誌創刊号には、[[ギヨーム・アポリネール]]、マルセル・アルラン、{{仮リンク|ピエール・アルベール=ビロ|fr|Pierre Albert-Birot}}、ピエール・ルヴェルディ、{{仮リンク|ポール・デルメ|fr|Paul Delmet}}のほか、[[キュビスム]]の[[画家]][[ロベール・ドローネー]]らも寄稿していたが<ref>{{Cite web|title=Surréalisme (1924)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?pg=1924|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-03-22|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>、「シュルレアリスム」という言葉の使用をめぐってブルトンとゴルの間に対立が生じ、結局、ゴルは『シュルレアリスム』誌を撤回せざるを得なくなった<ref>{{Cite news|title=Le "Manifeste" de Breton|url=https://www.lemonde.fr/economie/article/2008/01/26/le-manifeste-de-breton_1003919_3234.html|date=2008-01-26|accessdate=2020-03-22|language=fr|newspaper=Le Monde|author=Roxana Azimi}}</ref>。 {{Wikisourcelang|fr|Le Disque Vert|Le Disque Vert}}クルヴェルは以後、文芸雑誌{{仮リンク|ヌーヴェル・リテラチュール|fr|Les Nouvelles littéraires}}の編集事務局を務め、『ディスク・ヴェール(''Le Disque vert''、緑の円盤)』誌(1922年創刊、1955年終刊)<ref>{{Cite web|title=Le Disque Vert (1923-1925) (2e période)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=3602|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-03-22|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>、『フイユ・リーブル(''Les Feuilles libres''、ルーズリーフ)』誌(1918-1928)<ref>{{Cite web|url=https://www.edition-originale.com/fr/litterature/editions-originales/collectif-les-feuilles-libres-n43-de-la-7eme-1926-56990|title=Les feuilles libres N°43 de la 7ème année|accessdate=2020-03-22|publisher=|website=Edition-Originale.com|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Les Feuilles Libres (1922-1928) (2e série)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=906|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-03-22|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>、『欧州評論(''La Revue européenne'')』誌(第1シリーズ:1923-1926)<ref>{{Cite web|title=La Revue Européenne (1923-1926) (1ère série)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=1778|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-03-22|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>、『モンパルナス(''Montparnasse'')』誌(1922-1926)<ref>{{Cite web|title=(REVUE) MONTPARNASSE Collectif|url=http://www.librairiethalie.be/|website=Librairie Thalie|accessdate=2020-03-22|language=fr|publisher=}}</ref>などに詩や評論を寄稿した。評論は「[[マックス・ジャコブ]]の日常的神秘性」、「ありがとう、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]」、「衛生学的錬金術の[[ジークムント・フロイト|フロイト]]」(いずれも『ディスク・ヴェール』誌掲載)など、シュルレアリストと思想的基盤を共有するものであった。 |
|||
=== シュルレアリスム === |
|||
『シュルレアリスム革命』誌第2号の自殺に関する対談(質疑応答)に参加したのを機に、再びブルトンらと活動を共にするようになり、同誌に寄稿するほか、シュルレアリスムの小冊子にも参加した。たとえば、[[アントナン・アルトー]]が執筆した「宣言」(1925年1月27日)は、「シュルレアリスムは新しい表現方法やより安易な表現方法ではなく、詩の[[形而上学]]でもない。シュルレアリスムは[[精神]]および精神に関わるものの完全な解放である。シュルレアリスムは詩形式ではなく、精神の叫びである」と訴える一種のシュルレアリスム宣言である。これには『シュルレアリスム革命』誌の主な寄稿者全員が署名している<ref>{{Cite web|url=https://www.andrebreton.fr/work/56600100114080|title=Déclaration du 27 janvier 1925|accessdate=2020-03-22|publisher=|website=andrebreton.fr|author=Antonin Artaud|language=fr}}</ref>。同じ年に配布された[[ポール・クローデル]]宛の公開状の署名者も同様である。これは、当時、[[駐日フランス大使館|駐日フランス大使]]であったクローデルが『{{仮リンク|コメディア (新聞)|fr|Comœdia (journal)|label=コメディア}}』紙の質問に答えて、「シュルレアリストの文学活動は真の意味での創造をもたらすものではなく、〈[[男色]]的な意味しかもたない〉」と批判したことに対する抗議文であり、「われわれは全力をあげて、[[革命]]、[[戦争]]、[[植民地]]の反乱などが、この西欧文明をやがて根絶することを望んでいる。あなたは[[東洋]]までこの[[文明]]の害虫を防ぎに行くが、われわれはこの文明の破壊を精神にとってもっとも受け入れやすい事態として呼び求めているのである。… われわれにとっては調和も偉大な芸術も存在しないであろう。すでにはるか以前から美の理念は硬直しているのだ。… われわれにとって救いはどこにも存在しない」と、クローデルの[[外交官]]としての立場やカトリック信仰を批判しながら、シュルレアリストの思想的立場を明確に表明している<ref>{{Cite journal|和書|author=山路昭|year=|date=1981-01-31|title=ドリュ・ラ・ロシェルとその20年代|url=http://hdl.handle.net/10291/12109|journal=明治大学教養論集|volume=145|page=4|publisher=[[明治大学]]|issn=0389-6005}}</ref>。 |
|||
この頃にはまた、[[アンリ・バルビュス]]が1919年に発表した『クラルテ』<ref>アンリ・バルビュス『クラルテ』([[小牧近江]]、[[佐々木孝丸]]共訳、叢文閣、1923年) 参照。</ref>を契機として[[共産主義]]知識人らが起こした国際的な反戦平和運動の機関誌『クラルテ』<ref>{{Cite web|title=クラルテ|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%86-485843|website=コトバンク|accessdate=2020-03-22|language=ja|publisher=}}</ref>の編集委員とシュルレアリストとの間に協力関係が生まれ、シュルレアリストが『クラルテ』誌に寄稿し始めた。とりわけ、[[第3次リーフ戦争|リーフ戦争]]でフランスが1925年7月に[[リーフ共和国]]に[[宣戦布告]]して[[モロッコ]]に侵攻すると、バルビュスが反戦を呼びかけ、これに賛同したシュルレアリストと『クラルテ』誌の共産主義者が「まず革命を、そして常に革命を」と題するリーフ戦争反対声明に共同署名し、この声明文がまずは共産党の機関紙『[[リュマニテ]]』紙に、次いで10月15日に『クラルテ』誌と『シュルレアリスム革命』誌第5号に同時に掲載された<ref>{{Cite web|title=La Révolution surréaliste, N°5, 15 octobre 1925|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5845102r.item|website=Gallica|date=1925-10-15|accessdate=2020-03-22|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France}}</ref><ref>{{Cite web|title=LA RÉVOLUTION SURRÉALISTE N°5, 15 OCTOBRE 1925|url=http://melusine-surrealisme.fr/site/Revolution_surrealiste/Revol_surr_5.htm|website=melusine-surrealisme.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Mélusine (le Centre de Recherches sur le Surréalisme de Paris III)}}</ref>。 |
|||
『シュルレアリスム革命』誌はこれまで{{仮リンク|ピエール・ナヴィル|fr|Pierre Naville}}とバンジャマン・ペレが共同で編集していたが、この第5号からブルトンが一人で編集長を務めることになり、1927年にアラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレ、クルヴェルはフランス共産党に入党した。以後、シュルレアリスムの左傾化に伴って、脱会する者、ブルトンに除名される者が少なくなかった。『シュルレアリスム革命』誌は、新たにルネ・シャール、{{仮リンク|カミーユ・ゲーマンス|fr|Camille Goemans}}、[[ルイス・ブニュエル]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[ルネ・マグリット]]、{{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|fr|Georges Sadoul}}、{{仮リンク|ジャック・リゴー|fr|Jacques Rigaut}}、フランシス・ピカビアらが参加し、ブルトンの「シュルレアリスム[[第二宣言]]」が掲載された1929年12月の第12号をもって終刊となり、翌1930年7月に後続誌『{{仮リンク|革命に奉仕するシュルレアリスム|fr|Le Surréalisme au service de la révolution}}』が創刊された(1933年6月の第6号をもって終刊)<ref>{{Cite web|title=Le Surréalisme au service de la révolution|url=https://data.bnf.fr/fr/34381252/le_surrealisme_au_service_de_la_revolution/|website=data.bnf.fr|accessdate=2020-03-12|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref><ref name=":22">{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientbookline/service/reference.asp?output=PORTAL&INSTANCE=INCIPIO&DOCBASE=CGPP&DOCID=0467898|title=Le Surréalisme au service de la révolution (REVUE) / dir. André Breton ; gérant Paul Eluard|accessdate=2020-03-12|publisher=Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=《革命に奉仕するシュルレアリスム》|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AB%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%80%8B-1288501|website=コトバンク|accessdate=2020-03-22|language=ja|publisher=}}</ref>。 |
|||
=== 反帝国主義、反戦、反ファシズムの運動 === |
|||
クルヴェルは「シュルレアリスム第二宣言」以降ブルトンを支持し続ける一方、ブルトン以上に積極的に共産党の活動、特に反帝国主義、反戦・反ファシズムの運動に参加した。1931年5月から11月まで{{仮リンク|ポルト・ドレ|fr|Porte Dorée|label=}}宮で{{仮リンク|植民地博覧会|fr|Exposition colonial internationale|label=}}が開催されたときに、共産党がこれに抗議して「植民地の真実」と題する「反帝国主義博覧会」を開催すると、これと連動して共産党員5人を中心とするシュルレアリストが「植民地博覧会へ行ってはならない」と訴える[[小冊子]]を配布した<ref>{{Cite web|title=L'Exposition coloniale de 1931 : mythe républicain ou mythe impérial (Charles-Robert Ageron) - études-coloniales|url=http://etudescoloniales.canalblog.com/archives/2006/08/25/2840733.html|website=études-coloniales|date=2006-08-25|accessdate=2020-03-22|language=fr|publisher=Études Coloniales}}</ref><ref>{{Cite web|title=Ne visitez pas l'exposition coloniale (ARCHIVES) : tract / André Breton, Paul Eluard, Benjamin Péret, Georges Sadoul, Pierre Unik, André Thirion, René Crevel, Aragon, René Char, Maxime Alexandre, Yves tanguy, Georges Malkine|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientBookline/service/reference.asp?INSTANCE=INCIPIO&OUTPUT=PORTAL&DOCID=0466422&DOCBASE=CGPP|website=bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Centre Pompidou - Bibliothèque Kandinsky|language=fr}}</ref>。一方、1932年3月に国際革命作家同盟のフランス支部「革命作家芸術家協会」が結成され、8月にはにバルビュスとロマン・ロランが呼びかけ、[[アムステルダム]]で開催された反帝国主義戦争国際会議、およびこの会議に参加した知識人がパリの[[サル・プレイエル]]を拠点とする反ファシズム労働者運動に合流して結成した反戦・[[反ファシズム]]の{{仮リンク|アムステルダム=プレイエル運動|fr|Mouvement Amsterdam-Pleyel|label=}}へとつながっていった。ここでも中心的な役割を果たしたのは共産党であったが、一方で、クルヴェル、シャール、ブルトン、エリュアール、ペレは、「反戦のための動員は平和ではない」とするパンフレットを配布し、[[ナチズム]]の脅威を前にしてもなお、非戦を貫こうとする[[平和主義]]者を批判した<ref>{{Cite web|title=ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent.|url=http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article24290|website=maitron-en-ligne.univ-paris1.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Maitron|language=fr}}</ref>。さらに、[[1933年]]1月30日に[[ヒトラー内閣]]が成立すると、革命作家芸術家協会が、[[コミンテルン|共産主義インターナショナル]]の指示を受けて、これに抗議する運動を起こした。クルヴェルはエリュアールとともにこの運動に参加し、3月21日の[[反ナチ運動|反ナチズム]]を訴えるデモを支持した<ref name=":2">{{Cite journal|author=Henri Béhar, Pascaline Mourier-Casile|year=1994|title=L’EUROPE SURRÉALISTE, Contributions au colloque de Strasbourg|journal=Mélusine|volume=|issue=14|page=|pages=41-42|publisher=Éditions L’Age d’Homme|location=Paris|language=fr}}</ref>。 |
|||
=== シュルレアリスムと共産主義の決裂 === |
|||
翌1934年には[[1934年2月6日の危機]]を受けて3月5日に[[反ファシズム知識人監視委員会]]が結成された。これにはクルヴェル、ブルトン、ペレらが名を連ねているが、この頃にはシュルレアリストと共産党員との決裂が決定的なものとなり、シュルレアリストはもはや共産党主導の運動に積極的に関わっていない。契機となったのは、1931年に『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に掲載されたダリの絵《夢想》が『リュマニテ』紙で[[ポルノグラフィ|ポルノ]]的であると批判されたこと、さらに、1933年の同誌上で[[哲学者]][[フェルディナン・アルキエ]]が共産主義を「[[ソビエト連邦|ソ連]]から吹いてくる組織的な低能化の風」と批判したことであった。この結果、同年、アルキエを支持したブルトンとエリュアールが革命作家芸術家協会から除名され、次いで共産党からも除名されることになった<ref name=":2" />。クルヴェルはブルトンを支持して共産党を離党したが、数か月後には再び入党し、党の活動、特に革命作家芸術家協会の活動、反ファシズムの運動、[[レフ・トロツキー]]のフランスからの追放に反対する運動、1933年3月3日に逮捕された[[ドイツ共産党]]の[[エルンスト・テールマン]]およびドイツの反ファシストの釈放を求める運動、ドイツからの[[亡命]]者を支援する活動などに参加した<ref name=":1" />。 |
|||
[[ファイル:René Crevel, Nouvelles littéraires, 3 juin 1933.jpg|左|サムネイル|199x199ピクセル|ルネ・クルヴェル、1933年]] |
|||
また、1933年にアラゴンが編集事務局を務めていた革命作家芸術家協会の機関誌『{{仮リンク|コミューン (雑誌)|fr|Commune (revue)|label=コミューン}}』など共産党の機関誌や共産党系の雑誌に寄稿し、アラゴンが事務局長を務める文化会館(革命作家芸術家協会以外の人民戦線の様々な文化団体が参加)でソ連の未公開の[[映画]]を紹介したり、革命作家芸術家協会の写真部門が主催した会議で「糾弾する写真」と題する講演を行ったりした。文化会館の主催でドイツの反ナチズムの写真家[[ジョン・ハートフィールド]]の展覧会が行われたときには絵画に関する講演を行い、この原稿も『コミューン』誌に掲載された<ref name=":1" />。とはいえ、クルヴェルはアラゴンのように[[社会主義リアリズム]]に傾倒することはなかった。アラゴンは1930年に[[ハルキウ|ハリコフ]]で開催された国際革命作家同盟の大会(ハリコフ会議)にシュルレアリストを代表して参加したことを機に左傾化し(アラゴン事件)、シュルレアリストらから批判され、運動を離れて共産党員として活動していたが<ref>{{Cite web|title=ARAGON Louis|url=https://maitron.fr/spip.php?article10173|website=maitron.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Maitron|author=Nicole Racine|language=fr|date=2019-11-25}}</ref>、最後までシュルレアリストと共産主義者の連帯を願っていたクルヴェルは、それだけに一層苦しい状況に追い込まれた<ref name=":1" />。 |
|||
=== 葛藤 === |
|||
そのうえ、1926年に[[肺結核]]を患ってからしばしば[[サナトリウム]]に滞在し、[[治療]]や[[手術]]を受けていた。療養中にドイツの作家[[トーマス・マン]]の息子で同じく作家の[[クラウス・マン]]や作家[[カール・シュテルンハイム]]の娘でシュテルンハイムや[[クラウス・マン]]の[[演劇]]の[[舞台芸術]]・衣装を手がけていた{{仮リンク|モプサ・シュテルンハイム|de|Mopsa Sternheim}}と出会った。モプサと彼女の愛人でシュルレアリスムの画家の{{仮リンク|ルドルフ・カール・フォン・リッパー|de|Rudolph Carl von Ripper|label=}}のもとに身を寄せていた時期には、カール・フォン・リッパーが入手した[[麻薬]]を使っていた。没後60年以上経ってから刊行された『モプサ宛の書簡』には、「麻薬や[[酒]]や悪徳。これらはすべて自己欺瞞に使うものであって、大嫌いだ。全身全霊、真っ向から人生に飛び込まなければならない。複雑な性的・心理的問題は嫌になる。こういうのは麻薬と同じで恐ろしい空虚を覆い隠すものであって、欺瞞だからだ」と、生きる意志の強さと葛藤が伺われる<ref>{{Cite web|title=Crevel crève-coeur. Une correspondance passionnée avec la fille de Carl Sternheim, où l'écrivain surréaliste pousse l'élégance jusqu'à trouver des bonheurs dans son malheur. René Crevel, Lettres à Mopsa, Textes établis et présentés par Michel Carassou. Paris Méditerranée, 166 pp., 110 F.|url=https://next.liberation.fr/livres/1997/02/27/crevel-creve-coeur-une-correspondance-passionnee-avec-la-fille-de-carl-sternheim-ou-l-ecrivain-surre_195679|website=Libération.fr|date=1997-02-27|accessdate=2020-03-22|language=fr|publisher=|author=Mathieu Lindon}}</ref>。 |
|||
=== 文化擁護国際作家会議 === |
|||
1935年6月21日から25日までパリで{{仮リンク|第1回文化擁護国際作家会議|fr|Premier congrès international des écrivains pour la défense de la culture}}が開催された。ファシズムから文化を守ることを目的としたこの会議はアラゴンが事務局を務め、フランスの[[アンドレ・マルロー]]、[[アンドレ・ジッド]]、アンリ・バルビュス、[[ロマン・ロラン]]、[[ジャン・ゲーノ]]、[[ポール・ニザン]]ら、ソ連の[[イリヤ・エレンブルグ]]、[[イサーク・バーベリ]]、[[マクシム・ゴーリキー]]ら、ドイツの[[ハインリヒ・マン]]、[[ベルトルト・ブレヒト]]、[[アンナ・ゼーガース]]、英国の[[オルダス・ハクスリー]]、[[E・M・フォースター]]、[[ジョージ・バーナード・ショー]]らをはじめとし、世界38か国から230人の作家が参加した<ref>{{Cite book|title=L'effroyable vérité: Communisme, un siècle de tragédies et de complicités|date=|year=2020|publisher=L'artilleur|author=Bruno Riondel|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=文化擁護国際作家会議|url=https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%93%81%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1409892|website=コトバンク|accessdate=2020-03-22|language=ja|publisher=}}</ref>。シュルレアリストと共産主義者の対立というこれまでの経緯から、この会議へのシュルレアリストの参加については批判があったが、最終的には参加が認められた。ところが、ソ連代表のエレンブルグがシュルレアリストを「腐りかけて食べ頃になった[[ジビエ]]」と表現し、[[女衒]]や[[ジゴロ]]扱いしたことに腹を立てたブルトンがエレンブルグを殴り、シュルレアリスト全員の参加が取り消されることになった<ref>{{Cite book|title=Intelligentsia entre France et Russie, archives inédites du XXe siècle exposition|date=|year=2018|publisher=École nationale supérieure des beaux-arts de Paris|author=|editor=Véronique Jobert, Lorraine de Meaux|language=fr}}</ref><ref name=":1" />。これは、シュルレアリストと共産主義者の連携を常に模索していたクルヴェルには耐え難いことであり、主催者側にこのような決定を取り消すよう必死に訴えたが、エレンブルグは一歩も譲らなかった<ref name=":1" />。そのうえ、主催者会議が行われた6月17日(開会日の4日前)、クルヴェルは、検査の結果、結核が悪化したのを知った。一層絶望を深めた彼は、夜、自殺を図り、34歳の若さで死去した。この死に衝撃を受けた主催者らは、エリュアールがブルトンの代理として会議に参加し、最終日の最後にブルトンの演説原稿を読むことのみ許可した<ref>{{Cite web|title=ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent.|url=https://maitron.fr/spip.php?article24290|website=maitron.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Maitron|language=fr|date=2012-03-10}}</ref>。 |
|||
[[ファイル:Tombe René Crevel, Cimetière de Montrouge.jpg|サムネイル|モンルージュ墓地のルネ・クルヴェルの墓(家墓)]] |
|||
6月22日に追悼式が行われ、クルヴェルが『コミューン』誌に発表した講演原稿「個人と社会」が読み上げられた。 |
|||
{{仮リンク|モンルージュ墓地|fr|Cimetière de Montrouge}}に眠る<ref>{{Cite web|title=CREVEL René (1900-1935)|url=https://www.landrucimetieres.fr/spip/spip.php?article1188|website=www.landrucimetieres.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Cimetières de France et d'ailleurs|language=fr}}</ref>。 |
|||
クルヴェルの死に深く心を痛めたルネ・シャールは数年後に、以来、クルヴェルの作品を読むことができなくなったとし、「彼はそのあまりにも美しい性格を最も多く、しかも真っ先に他人に与えた男だ。彼は共有するのでなく、自ら与えるばかりであった」と述懐している<ref name=":02">{{Cite web|title=René Char|url=https://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/René_Char/112762|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-03-22|language=fr|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref>。 |
|||
== 著書 == |
== 著書 == |
||
[[ファイル:Crevel_-_Paul_Klee,_1930.djvu|サムネイル|261x261ピクセル|ルネ・クルヴェル著『[[パウル・クレー]]』 ]] |
[[ファイル:Crevel_-_Paul_Klee,_1930.djvu|サムネイル|261x261ピクセル|ルネ・クルヴェルの著書『[[パウル・クレー]]』(1930年) ]]初版のみ示す。 |
||
* 『迂回路』''Détours'', Gallimard, Nouvelle Revue Française (NRF), 1924 |
|||
* 1924 : ''Détours'' |
|||
* 『ぼくの肉体とぼく』''Mon corps et moi'', Éditions du Sagittaire/Simon Kra, 1925 |
|||
* 1925 : ''Mon corps et moi -''『ぼくの肉体とぼく』[[三好郁朗]]訳、雪華社、1985年。 |
|||
** 『ぼくの肉体とぼく』[[三好郁朗]]訳、雪華社、1985年。 |
|||
* 1926 : ''La Mort difficile'' |
|||
* 『困難な死』''La Mort difficile'', Éditions du Sagittaire/Simon Kra, 1926 |
|||
* 1927 : ''Babylone'' |
|||
* 『バビロン』''Babylone'', Éditions du Sagittaire/Simon Kra, 1927 |
|||
* 1928 : ''L'Esprit contre la raison'' |
|||
* 『理性に反抗する精神』''L'Esprit contre la raison'', Les Cahiers du Sud, 1928 |
|||
* 1929 : ''Êtes-vous fous ? -''『おまえたちは狂人か』鈴木大悟訳、風濤社(シュルレアリスムの本棚)、2016年。 |
|||
* 『おまえたちは狂人か』''Êtes-vous fous ?'', Gallimard, NRF, 1929 |
|||
* 1930 : ''Renée Sintenis'' |
|||
** 『おまえたちは狂人か』鈴木大悟訳、風濤社(シュルレアリスムの本棚)2016年。 |
|||
* 1930 : ''Paul Klee'' |
|||
* 『{{仮リンク|レネー・シンテニス|de|Renée Sintenis}}』Gallimard, NRF, 1930 |
|||
* 1931 : ''Dalí ou l'anti-obscurantisme'' |
|||
* 『パウル・クレー』''Paul Klee'', Gallimard, NRF, 1930 |
|||
* 1932 : ''Le Clavecin de Diderot'' |
|||
* 『ダリ、あるいは反蒙昧主義』''Dalí ou l'anti-obscurantisme'', Éditions surréalistes, 1931 |
|||
* 1933 : ''Les Pieds dans le plat'' |
|||
* 『ディドロのクラヴサン』''Le Clavecin de Diderot'', Éditions surréalistes, 1932 |
|||
* 1934 : ''Le Roman cassé et derniers écrits'' |
|||
* 『皿に突っ込んだ足』''Les Pieds dans le plat'', Éditions du Sagittaire, 1932 |
|||
* 『壊れた小説』''Le Roman cassé'', Éditions Pauvert, 1989 |
|||
* 『モプサ宛の書簡』''Lettres à Mopsa'', Éditions Paris-Méditerranée, 1997 |
|||
* 『雄弁、それだけでは不十分』''Elle ne suffit pas l'éloquence'', Éditions Les Hauts-Fonds, 2010 |
|||
* 『未刊の書籍、テクスト』''Les Inédits. Lettres, textes'', Le Seuil, 2013 |
|||
* 『アラベル宛の書簡、他のテクスト』''Lettre pour Arabelle et autres textes'', Éditions Marguerite Waknine, 2013 |
|||
* 『全集』''Œuvres complètes'', Éditions du Sandre, 2014(全2巻) |
|||
* 『思慮分別は難しくない』''La sagesse n'est pas difficile'', Éditions de la Nerthe, 2016(書簡) |
|||
== |
== 脚注 == |
||
{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
||
== |
== 関連文献 == |
||
* 鈴木大悟『ルネ・クルヴェル ― ちりぢりの生』[[水声社]](シュルレアリスムの25時)2011年 |
|||
*[http://psychanalyse-paris.com/Notes-en-vue-d-une-psycho.html René Crevel, Notes en vue d’une psycho-dialectique] |
|||
*[http://psychanalyse-paris.com/Freud-de-l-Alchimiste-a-l.html René Crevel, Freud de l’Alchimiste à l’Hygiéniste] |
|||
* {{Find a Grave|12381253}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[ダダイスム]] |
|||
* [[シュルレアリスム]] |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{Commonscat}} |
|||
{{Wikisourcelang|fr|Auteur:René Crevel}} |
|||
{{Wikiquotelang|fr|René Crevel}} |
|||
* [http://melusine-surrealisme.fr/site/CrevelMenuTextes.htm Textes de René Crevel] - Mélusine (le Centre de Recherches sur le Surréalisme de Paris III)- ルネ・クルヴェルの電子書籍 - パリ第3大学シュルレアリスム研究所 |
|||
* [http://psychanalyse-paris.com/Notes-en-vue-d-une-psycho.html René Crevel, Notes en vue d’une psycho-dialectique] - revue Le SASDLR (« Le Surréalisme au service de la révolution »), no 5, mai 1933. |
|||
* [http://psychanalyse-paris.com/Freud-de-l-Alchimiste-a-l.html René Crevel, Freud de l’Alchimiste à l’Hygiéniste] - revue Le Disque Vert, 2e année, 3e série, no 1, 1924. |
|||
*Nicole Racine (2010), [https://maitron.fr/spip.php?article107446 CREVEL René], ''Maitron''. |
|||
*Barbara Cassin, [https://www.universalis.fr/encyclopedie/rene-crevel/ CREVEL RENÉ (1900-1935)], ''Encyclopædia Universalis''. |
|||
{{シュルレアリスム}} |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{デフォルトソート:くれうえる るね}} |
{{デフォルトソート:くれうえる るね}} |
||
[[Category:20世紀フランスの詩人]] |
|||
[[Category:フランスのシュルレアリスト著作家]] |
[[Category:フランスのシュルレアリスト著作家]] |
||
[[Category:自殺した人物]] |
|||
[[Category:パリ出身の人物]] |
[[Category:パリ出身の人物]] |
||
[[Category:1900年生]] |
[[Category:1900年生]] |
2020年4月11日 (土) 16:14時点における版
ルネ・クルヴェル René Crevel | |
---|---|
ルネ・クルヴェル、1929年 | |
誕生 |
1900年8月10日 フランス、パリ |
死没 |
1935年6月18日(34歳没) フランス、パリ |
墓地 | モンルージュ墓地 |
職業 | 詩人、作家 |
言語 | フランス語 |
最終学歴 |
リセ・ジャンソン=ド=サイイ ソルボンヌ大学 |
ジャンル | 詩、随筆、評論 |
文学活動 | ダダイスム、シュルレアリスム |
代表作 | 『ぼくの肉体とぼく』、『困難な死』、『おまえたちは狂人か』 |
デビュー作 | 『迂回路』 |
ウィキポータル 文学 |
ルネ・クルヴェル(René Crevel、1900年8月10日 - 1935年6月18日)はフランスの詩人、作家。ダダイスト、シュルレアリスト。催眠実験などシュルレアリスムの活動において重要な役割を果たす一方、1927年にフランス共産党に入党し、1932年3月に国際革命作家同盟のフランス支部として結成された革命作家芸術家協会の反植民地主義、反戦、反ファシズムの運動に参加した。左傾化したシュルレアリストが最終的に共産主義者と決裂した後も、最後まで両者の連携のために尽力した。
生涯
背景・教育
ルネ・クルヴェルは1900年8月10日、パリ10区サン=ドニ門に近いエシキエ通りに生まれた。父ウジェーヌ・ポール・クルヴェルは楽譜の印刷屋で、主に大衆歌謡の楽譜を印刷していたが、1914年に自殺した。動機は不明であった。最も理解を示した最も敬愛する父の死を目撃した14歳のルネは、生涯にわたって深いトラウマ、自殺に対する強迫観念を抱くことになった[1][2][3]。彼は後に『ぼくの肉体とぼく』に、父の自殺は、彼の「フォルマシオン(教育)とデフォルマシオン」にとって「後のどのような愛や憎しみの試練をも超えるものであった」と書いている[1][4]。
クルヴェルはブルジョワ・カトリックの教育を受けた。彼はその狭量さと陰鬱さ、さらには家族、権力、軍隊、教会といったブルジョワ・カトリック社会の価値観を批判し、共産主義に傾倒することになる[3]。
大規模なグランゼコール準備級があることで知られるリセ・ジャンソン=ド=サイイに学び、在籍中に後の映画監督マルク・アレグレと知り合った。1917年にフランス語の作文で特別賞を得てソルボンヌ大学に入学。文学と法学を専攻し、百科全書派のディドロに関する博士論文を執筆し始めた。ディドロに関する研究は、1932年にシュルレアリスム出版社から『ディドロのクラヴサン』として刊行された。
ダダイスム
1921年に徴兵され、服役中に作家マルセル・アルラン、ジャック・バロン、マックス・モリーズ、ジョルジュ・ランブール、ロジェ・ヴィトラックと出会い、月刊雑誌『アヴァンチュール(Aventure、冒険)』を創刊し、主幹を務めた。わずか3号で翌1922年に終刊となったが、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、トリスタン・ツァラ、ジャン・コクトーらも寄稿した[5]。
クルヴェルは引き続きブルトン、ツァラを中心とするダダイスムの運動に参加した。後にシュルレアリスムの運動を率いることになるブルトンらはすでに1919年にこの運動の最初の試みである自動記述を行い、この結果をブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『リテラチュール(文学)』に「磁場」として発表していた[6]。1922年9月にクルヴェルはシュルレアリスムのもう一つの重要な試みである催眠実験を提案した。クルヴェルのほか、バンジャマン・ペレとロベール・デスノスが被験者になり、他の参加者(ブルトン、ポール・エリュアール、マックス・エルンスト、マックス・モリーズ、フランシス・ピカビア)が催眠状態にある彼らに質問した。クルヴェルの回答は口頭弁論のようなものであった。目覚めたとき、クルヴェルは語ったことについて何も覚えていなかった。テーブルをひっかくようなしぐさをしたことを指摘すると、書きたい気持ちの現れかもしれないと言った。この催眠実験は「霊媒の登場」として『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号(1922年11月)に掲載された[7][8][9]。だが、この後、催眠実験を繰り返しているうちに、クルヴェルは催眠状態で自殺を企てるようになり、デスノスはナイフを持って参加者に襲いかかるなど自他ともに危険な状況になり、実験を打ち切らざるを得なくなった[10][11]。
一方、すでに1921年頃からダダイスムの運動内部においてブルトンとツァラの対立が露わになっていた。クルヴェルはピエール・ド・マッソらとともにむしろツァラ派であった。決裂が決定的なものとなったのは、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」においてであった。ツァラの演劇『ガス心臓』が上演されたこの夕べには、ブルトン派(エリュアール、アラゴン、ペレ、デスノス)も参加していた。第1部の最後にマッソが既存の文学・芸術的価値をすべて破壊するという趣旨の宣言を読み上げた。ところが、マッソが「ジッドは死んだ、ピカソは死んだ」という箇所を読んだとき、ピカソの友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンが舞台に飛び上がってマッソに殴りかかった。エリュアールはツァラとクルヴェルに平手打ちを食らわせた。挙句は警察を呼ぶ騒ぎになり、パリ警視庁の命令で第2部の上演は取り消しとなった[12][13][14]。ダダイスムもシュルレアリスムも既存の秩序や価値を破壊するという点では共通する運動であったが、根本的に、すべてを無意味とするダダイストと、従来無意味とされてきた無意識や夢に新たな価値を見出し、これを表現しようとしたシュルレアリストは思想的に対立し[15]、以後、ダダと決裂したシュルレアリストの活動が本格的に開始されることになった。
ツァラ派であったクルヴェルは、1924年のブルトンの「シュルレアリスム宣言」および機関誌『シュルレアリスム革命』の創刊には参加せず、それどころか、シュルレアリスム宣言の2週間前に、チューリッヒでツァラと親しかった詩人イヴァン・ゴルが創刊した『シュルレアリスム』誌に参加してブルトンとの対立を際立たせることになった。『シュルレアリスム』誌創刊号には、ギヨーム・アポリネール、マルセル・アルラン、ピエール・アルベール=ビロ、ピエール・ルヴェルディ、ポール・デルメのほか、キュビスムの画家ロベール・ドローネーらも寄稿していたが[16]、「シュルレアリスム」という言葉の使用をめぐってブルトンとゴルの間に対立が生じ、結局、ゴルは『シュルレアリスム』誌を撤回せざるを得なくなった[17]。
クルヴェルは以後、文芸雑誌ヌーヴェル・リテラチュールの編集事務局を務め、『ディスク・ヴェール(Le Disque vert、緑の円盤)』誌(1922年創刊、1955年終刊)[18]、『フイユ・リーブル(Les Feuilles libres、ルーズリーフ)』誌(1918-1928)[19][20]、『欧州評論(La Revue européenne)』誌(第1シリーズ:1923-1926)[21]、『モンパルナス(Montparnasse)』誌(1922-1926)[22]などに詩や評論を寄稿した。評論は「マックス・ジャコブの日常的神秘性」、「ありがとう、ジョルジョ・デ・キリコ」、「衛生学的錬金術のフロイト」(いずれも『ディスク・ヴェール』誌掲載)など、シュルレアリストと思想的基盤を共有するものであった。
シュルレアリスム
『シュルレアリスム革命』誌第2号の自殺に関する対談(質疑応答)に参加したのを機に、再びブルトンらと活動を共にするようになり、同誌に寄稿するほか、シュルレアリスムの小冊子にも参加した。たとえば、アントナン・アルトーが執筆した「宣言」(1925年1月27日)は、「シュルレアリスムは新しい表現方法やより安易な表現方法ではなく、詩の形而上学でもない。シュルレアリスムは精神および精神に関わるものの完全な解放である。シュルレアリスムは詩形式ではなく、精神の叫びである」と訴える一種のシュルレアリスム宣言である。これには『シュルレアリスム革命』誌の主な寄稿者全員が署名している[23]。同じ年に配布されたポール・クローデル宛の公開状の署名者も同様である。これは、当時、駐日フランス大使であったクローデルが『コメディア』紙の質問に答えて、「シュルレアリストの文学活動は真の意味での創造をもたらすものではなく、〈男色的な意味しかもたない〉」と批判したことに対する抗議文であり、「われわれは全力をあげて、革命、戦争、植民地の反乱などが、この西欧文明をやがて根絶することを望んでいる。あなたは東洋までこの文明の害虫を防ぎに行くが、われわれはこの文明の破壊を精神にとってもっとも受け入れやすい事態として呼び求めているのである。… われわれにとっては調和も偉大な芸術も存在しないであろう。すでにはるか以前から美の理念は硬直しているのだ。… われわれにとって救いはどこにも存在しない」と、クローデルの外交官としての立場やカトリック信仰を批判しながら、シュルレアリストの思想的立場を明確に表明している[24]。
この頃にはまた、アンリ・バルビュスが1919年に発表した『クラルテ』[25]を契機として共産主義知識人らが起こした国際的な反戦平和運動の機関誌『クラルテ』[26]の編集委員とシュルレアリストとの間に協力関係が生まれ、シュルレアリストが『クラルテ』誌に寄稿し始めた。とりわけ、リーフ戦争でフランスが1925年7月にリーフ共和国に宣戦布告してモロッコに侵攻すると、バルビュスが反戦を呼びかけ、これに賛同したシュルレアリストと『クラルテ』誌の共産主義者が「まず革命を、そして常に革命を」と題するリーフ戦争反対声明に共同署名し、この声明文がまずは共産党の機関紙『リュマニテ』紙に、次いで10月15日に『クラルテ』誌と『シュルレアリスム革命』誌第5号に同時に掲載された[27][28]。
『シュルレアリスム革命』誌はこれまでピエール・ナヴィルとバンジャマン・ペレが共同で編集していたが、この第5号からブルトンが一人で編集長を務めることになり、1927年にアラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレ、クルヴェルはフランス共産党に入党した。以後、シュルレアリスムの左傾化に伴って、脱会する者、ブルトンに除名される者が少なくなかった。『シュルレアリスム革命』誌は、新たにルネ・シャール、カミーユ・ゲーマンス、ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、ジョルジュ・サドゥール、ジャック・リゴー、フランシス・ピカビアらが参加し、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」が掲載された1929年12月の第12号をもって終刊となり、翌1930年7月に後続誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』が創刊された(1933年6月の第6号をもって終刊)[29][30][31]。
反帝国主義、反戦、反ファシズムの運動
クルヴェルは「シュルレアリスム第二宣言」以降ブルトンを支持し続ける一方、ブルトン以上に積極的に共産党の活動、特に反帝国主義、反戦・反ファシズムの運動に参加した。1931年5月から11月までポルト・ドレ宮で植民地博覧会が開催されたときに、共産党がこれに抗議して「植民地の真実」と題する「反帝国主義博覧会」を開催すると、これと連動して共産党員5人を中心とするシュルレアリストが「植民地博覧会へ行ってはならない」と訴える小冊子を配布した[32][33]。一方、1932年3月に国際革命作家同盟のフランス支部「革命作家芸術家協会」が結成され、8月にはにバルビュスとロマン・ロランが呼びかけ、アムステルダムで開催された反帝国主義戦争国際会議、およびこの会議に参加した知識人がパリのサル・プレイエルを拠点とする反ファシズム労働者運動に合流して結成した反戦・反ファシズムのアムステルダム=プレイエル運動へとつながっていった。ここでも中心的な役割を果たしたのは共産党であったが、一方で、クルヴェル、シャール、ブルトン、エリュアール、ペレは、「反戦のための動員は平和ではない」とするパンフレットを配布し、ナチズムの脅威を前にしてもなお、非戦を貫こうとする平和主義者を批判した[34]。さらに、1933年1月30日にヒトラー内閣が成立すると、革命作家芸術家協会が、共産主義インターナショナルの指示を受けて、これに抗議する運動を起こした。クルヴェルはエリュアールとともにこの運動に参加し、3月21日の反ナチズムを訴えるデモを支持した[35]。
シュルレアリスムと共産主義の決裂
翌1934年には1934年2月6日の危機を受けて3月5日に反ファシズム知識人監視委員会が結成された。これにはクルヴェル、ブルトン、ペレらが名を連ねているが、この頃にはシュルレアリストと共産党員との決裂が決定的なものとなり、シュルレアリストはもはや共産党主導の運動に積極的に関わっていない。契機となったのは、1931年に『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に掲載されたダリの絵《夢想》が『リュマニテ』紙でポルノ的であると批判されたこと、さらに、1933年の同誌上で哲学者フェルディナン・アルキエが共産主義を「ソ連から吹いてくる組織的な低能化の風」と批判したことであった。この結果、同年、アルキエを支持したブルトンとエリュアールが革命作家芸術家協会から除名され、次いで共産党からも除名されることになった[35]。クルヴェルはブルトンを支持して共産党を離党したが、数か月後には再び入党し、党の活動、特に革命作家芸術家協会の活動、反ファシズムの運動、レフ・トロツキーのフランスからの追放に反対する運動、1933年3月3日に逮捕されたドイツ共産党のエルンスト・テールマンおよびドイツの反ファシストの釈放を求める運動、ドイツからの亡命者を支援する活動などに参加した[3]。
また、1933年にアラゴンが編集事務局を務めていた革命作家芸術家協会の機関誌『コミューン』など共産党の機関誌や共産党系の雑誌に寄稿し、アラゴンが事務局長を務める文化会館(革命作家芸術家協会以外の人民戦線の様々な文化団体が参加)でソ連の未公開の映画を紹介したり、革命作家芸術家協会の写真部門が主催した会議で「糾弾する写真」と題する講演を行ったりした。文化会館の主催でドイツの反ナチズムの写真家ジョン・ハートフィールドの展覧会が行われたときには絵画に関する講演を行い、この原稿も『コミューン』誌に掲載された[3]。とはいえ、クルヴェルはアラゴンのように社会主義リアリズムに傾倒することはなかった。アラゴンは1930年にハリコフで開催された国際革命作家同盟の大会(ハリコフ会議)にシュルレアリストを代表して参加したことを機に左傾化し(アラゴン事件)、シュルレアリストらから批判され、運動を離れて共産党員として活動していたが[36]、最後までシュルレアリストと共産主義者の連帯を願っていたクルヴェルは、それだけに一層苦しい状況に追い込まれた[3]。
葛藤
そのうえ、1926年に肺結核を患ってからしばしばサナトリウムに滞在し、治療や手術を受けていた。療養中にドイツの作家トーマス・マンの息子で同じく作家のクラウス・マンや作家カール・シュテルンハイムの娘でシュテルンハイムやクラウス・マンの演劇の舞台芸術・衣装を手がけていたモプサ・シュテルンハイムと出会った。モプサと彼女の愛人でシュルレアリスムの画家のルドルフ・カール・フォン・リッパーのもとに身を寄せていた時期には、カール・フォン・リッパーが入手した麻薬を使っていた。没後60年以上経ってから刊行された『モプサ宛の書簡』には、「麻薬や酒や悪徳。これらはすべて自己欺瞞に使うものであって、大嫌いだ。全身全霊、真っ向から人生に飛び込まなければならない。複雑な性的・心理的問題は嫌になる。こういうのは麻薬と同じで恐ろしい空虚を覆い隠すものであって、欺瞞だからだ」と、生きる意志の強さと葛藤が伺われる[37]。
文化擁護国際作家会議
1935年6月21日から25日までパリで第1回文化擁護国際作家会議が開催された。ファシズムから文化を守ることを目的としたこの会議はアラゴンが事務局を務め、フランスのアンドレ・マルロー、アンドレ・ジッド、アンリ・バルビュス、ロマン・ロラン、ジャン・ゲーノ、ポール・ニザンら、ソ連のイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、マクシム・ゴーリキーら、ドイツのハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、英国のオルダス・ハクスリー、E・M・フォースター、ジョージ・バーナード・ショーらをはじめとし、世界38か国から230人の作家が参加した[38][39]。シュルレアリストと共産主義者の対立というこれまでの経緯から、この会議へのシュルレアリストの参加については批判があったが、最終的には参加が認められた。ところが、ソ連代表のエレンブルグがシュルレアリストを「腐りかけて食べ頃になったジビエ」と表現し、女衒やジゴロ扱いしたことに腹を立てたブルトンがエレンブルグを殴り、シュルレアリスト全員の参加が取り消されることになった[40][3]。これは、シュルレアリストと共産主義者の連携を常に模索していたクルヴェルには耐え難いことであり、主催者側にこのような決定を取り消すよう必死に訴えたが、エレンブルグは一歩も譲らなかった[3]。そのうえ、主催者会議が行われた6月17日(開会日の4日前)、クルヴェルは、検査の結果、結核が悪化したのを知った。一層絶望を深めた彼は、夜、自殺を図り、34歳の若さで死去した。この死に衝撃を受けた主催者らは、エリュアールがブルトンの代理として会議に参加し、最終日の最後にブルトンの演説原稿を読むことのみ許可した[41]。
6月22日に追悼式が行われ、クルヴェルが『コミューン』誌に発表した講演原稿「個人と社会」が読み上げられた。
クルヴェルの死に深く心を痛めたルネ・シャールは数年後に、以来、クルヴェルの作品を読むことができなくなったとし、「彼はそのあまりにも美しい性格を最も多く、しかも真っ先に他人に与えた男だ。彼は共有するのでなく、自ら与えるばかりであった」と述懐している[43]。
著書
初版のみ示す。
- 『迂回路』Détours, Gallimard, Nouvelle Revue Française (NRF), 1924
- 『ぼくの肉体とぼく』Mon corps et moi, Éditions du Sagittaire/Simon Kra, 1925
- 『ぼくの肉体とぼく』三好郁朗訳、雪華社、1985年。
- 『困難な死』La Mort difficile, Éditions du Sagittaire/Simon Kra, 1926
- 『バビロン』Babylone, Éditions du Sagittaire/Simon Kra, 1927
- 『理性に反抗する精神』L'Esprit contre la raison, Les Cahiers du Sud, 1928
- 『おまえたちは狂人か』Êtes-vous fous ?, Gallimard, NRF, 1929
- 『おまえたちは狂人か』鈴木大悟訳、風濤社(シュルレアリスムの本棚)2016年。
- 『レネー・シンテニス』Gallimard, NRF, 1930
- 『パウル・クレー』Paul Klee, Gallimard, NRF, 1930
- 『ダリ、あるいは反蒙昧主義』Dalí ou l'anti-obscurantisme, Éditions surréalistes, 1931
- 『ディドロのクラヴサン』Le Clavecin de Diderot, Éditions surréalistes, 1932
- 『皿に突っ込んだ足』Les Pieds dans le plat, Éditions du Sagittaire, 1932
- 『壊れた小説』Le Roman cassé, Éditions Pauvert, 1989
- 『モプサ宛の書簡』Lettres à Mopsa, Éditions Paris-Méditerranée, 1997
- 『雄弁、それだけでは不十分』Elle ne suffit pas l'éloquence, Éditions Les Hauts-Fonds, 2010
- 『未刊の書籍、テクスト』Les Inédits. Lettres, textes, Le Seuil, 2013
- 『アラベル宛の書簡、他のテクスト』Lettre pour Arabelle et autres textes, Éditions Marguerite Waknine, 2013
- 『全集』Œuvres complètes, Éditions du Sandre, 2014(全2巻)
- 『思慮分別は難しくない』La sagesse n'est pas difficile, Éditions de la Nerthe, 2016(書簡)
脚注
- ^ a b Simon Harel (2000). “René Crevel” (フランス語). Nuit blanche (79): 21–24. ISSN 0823-2490 .
- ^ “Une Vie, une œuvre : René Crevel (1900-1935)” (フランス語). Rien ne veut rien dire / France Culture (1999年12月26日). 2020年3月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g Nicole Racine (2010年11月4日). “CREVEL René”. maitron.fr. Maitron. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Barbara Cassin. “RENÉ CREVEL” (フランス語). Encyclopædia Universalis. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Aventure (REVUE) / René Crevel, gérant” (フランス語). Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou. 2020年3月22日閲覧。
- ^ 邦訳:『磁場』阿部良雄訳『アンドレ・ブルトン集成(第3巻)』(人文書院、1970年)所収。
- ^ “Litterature Nouvelle Serie N°5-6, Aragon, Breton, Soupault” (フランス語). melusine-surrealisme.fr. Mélusine (Cahiers du Centre de recherche sur le surréalisme de Paris III). 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Littérature No. 6 (New Series)” (フランス語). sdrc.lib.uiowa.edu. University of Iowa. 2020年3月22日閲覧。
- ^ アンドレ・ブルトン著「霊媒の登場」巌谷國士訳『現代詩手帖』(第14巻第8号、8-18頁、1971年8月、思潮社)、および『アンドレ・ブルトン集成6』「失われた足跡」(人文書院、1974年) 所収。
- ^ 泉谷安規「アンドレ・ブルトン『通定器』における夢の記述の一読解の試み(I)」『人文社会論叢(人文科学篇)』第24巻、弘前大学人文学部、2010年8月、1-24頁。
- ^ Jenny Laurent (1988). “Les aventures de l'automatisme” (フランス語). Littérature 72 (4): 3–11. doi:10.3406/litt.1988.1463 .
- ^ “Ca barbe, dada !” (フランス語). www.odyssee-culture.com. L'Odyssée - Un équipement culturel de l'Agglo du Pays de Dreux. 2020年3月22日閲覧。
- ^ 塚原史「トリスタン・ツァラの知られざる軌跡 : ダダから「実験夢」へ : 『種子と表皮』を読み解くために」『人文論集』第57巻、早稲田大学法学会、2018年、226-180頁。
- ^ Jean-Pierre Thibaudat (1996年5月24日). “THEATRE. Grâce à Sylvain Dhomme, redécouverte à Paris de «Coeur à gaz», une pièce du Roumain Dada Tristan Tzara, dont les personnages (Nez, oeil ou Bouche) oeuvrent avec brio dans l'absurde et le non-sens. Le Dada de Tzara repart bon pied bon oeil. Coeur à gaz, de Tristan Tzara, m.s. Sylvain Dhomme, du 27 au 31 mai, 21 heures, à Confluences, 190, boulevard de Charonne, Paris.” (フランス語). Libération.fr. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Carassus Émilien (1985). “De quelques surréalistes et du «Procès Barrés» Lettres inédites de Louis Aragon et de Pierre Drieu la Rochelle à Maurice Barrés” (フランス語). Littératures 13 (1): 151–168. doi:10.3406/litts.1985.1370 .
- ^ “Surréalisme (1924)” (フランス語). www.revues-litteraires.com. Revues littéraires. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Roxana Azimi (2008年1月26日). “Le "Manifeste" de Breton” (フランス語). Le Monde 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Le Disque Vert (1923-1925) (2e période)” (フランス語). www.revues-litteraires.com. Revues littéraires. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Les feuilles libres N°43 de la 7ème année” (フランス語). Edition-Originale.com. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Les Feuilles Libres (1922-1928) (2e série)” (フランス語). www.revues-litteraires.com. Revues littéraires. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “La Revue Européenne (1923-1926) (1ère série)” (フランス語). www.revues-litteraires.com. Revues littéraires. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “(REVUE) MONTPARNASSE Collectif” (フランス語). Librairie Thalie. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Antonin Artaud. “Déclaration du 27 janvier 1925” (フランス語). andrebreton.fr. 2020年3月22日閲覧。
- ^ 山路昭「ドリュ・ラ・ロシェルとその20年代」『明治大学教養論集』第145巻、明治大学、1981年1月31日、4頁、ISSN 0389-6005。
- ^ アンリ・バルビュス『クラルテ』(小牧近江、佐々木孝丸共訳、叢文閣、1923年) 参照。
- ^ “クラルテ”. コトバンク. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “La Révolution surréaliste, N°5, 15 octobre 1925” (フランス語). Gallica. Bibliothèque nationale de France (1925年10月15日). 2020年3月22日閲覧。
- ^ “LA RÉVOLUTION SURRÉALISTE N°5, 15 OCTOBRE 1925”. melusine-surrealisme.fr. Mélusine (le Centre de Recherches sur le Surréalisme de Paris III). 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Le Surréalisme au service de la révolution” (フランス語). data.bnf.fr. Bibliothèque nationale de France. 2020年3月12日閲覧。
- ^ “Le Surréalisme au service de la révolution (REVUE) / dir. André Breton ; gérant Paul Eluard” (フランス語). Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou. 2020年3月12日閲覧。
- ^ “《革命に奉仕するシュルレアリスム》”. コトバンク. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “L'Exposition coloniale de 1931 : mythe républicain ou mythe impérial (Charles-Robert Ageron) - études-coloniales” (フランス語). études-coloniales. Études Coloniales (2006年8月25日). 2020年3月22日閲覧。
- ^ “Ne visitez pas l'exposition coloniale (ARCHIVES) : tract / André Breton, Paul Eluard, Benjamin Péret, Georges Sadoul, Pierre Unik, André Thirion, René Crevel, Aragon, René Char, Maxime Alexandre, Yves tanguy, Georges Malkine” (フランス語). bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr. Centre Pompidou - Bibliothèque Kandinsky. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent.” (フランス語). maitron-en-ligne.univ-paris1.fr. Maitron. 2020年3月22日閲覧。
- ^ a b Henri Béhar, Pascaline Mourier-Casile (1994). “L’EUROPE SURRÉALISTE, Contributions au colloque de Strasbourg” (フランス語). Mélusine (Paris: Éditions L’Age d’Homme) (14): 41-42.
- ^ Nicole Racine (2019年11月25日). “ARAGON Louis” (フランス語). maitron.fr. Maitron. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Mathieu Lindon (1997年2月27日). “Crevel crève-coeur. Une correspondance passionnée avec la fille de Carl Sternheim, où l'écrivain surréaliste pousse l'élégance jusqu'à trouver des bonheurs dans son malheur. René Crevel, Lettres à Mopsa, Textes établis et présentés par Michel Carassou. Paris Méditerranée, 166 pp., 110 F.” (フランス語). Libération.fr. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Bruno Riondel (2020) (フランス語). L'effroyable vérité: Communisme, un siècle de tragédies et de complicités. L'artilleur
- ^ “文化擁護国際作家会議”. コトバンク. 2020年3月22日閲覧。
- ^ Véronique Jobert, Lorraine de Meaux, ed (2018) (フランス語). Intelligentsia entre France et Russie, archives inédites du XXe siècle exposition. École nationale supérieure des beaux-arts de Paris
- ^ “ÉLUARD Paul (GRINDEL Eugène, Émile, Paul dit) Pseudonymes : Didier Desroches, Brun, Jean du Haut, Maurice Hervent.” (フランス語). maitron.fr. Maitron (2012年3月10日). 2020年3月22日閲覧。
- ^ “CREVEL René (1900-1935)” (フランス語). www.landrucimetieres.fr. Cimetières de France et d'ailleurs. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “René Char” (フランス語). www.larousse.fr. Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne. 2020年3月22日閲覧。
関連文献
- 鈴木大悟『ルネ・クルヴェル ― ちりぢりの生』水声社(シュルレアリスムの25時)2011年
関連項目
外部リンク
- Textes de René Crevel - Mélusine (le Centre de Recherches sur le Surréalisme de Paris III)- ルネ・クルヴェルの電子書籍 - パリ第3大学シュルレアリスム研究所
- René Crevel, Notes en vue d’une psycho-dialectique - revue Le SASDLR (« Le Surréalisme au service de la révolution »), no 5, mai 1933.
- René Crevel, Freud de l’Alchimiste à l’Hygiéniste - revue Le Disque Vert, 2e année, 3e série, no 1, 1924.
- Nicole Racine (2010), CREVEL René, Maitron.
- Barbara Cassin, CREVEL RENÉ (1900-1935), Encyclopædia Universalis.