「プランバナン寺院群」の版間の差分
編集の要約なし |
m →寺苑・祠堂群: ce |
||
(5人の利用者による、間の15版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{ |
{{coord|7|45|8|S|110|29|30|E|region:ID_type:landmark|display=title}} |
||
{{世界遺産概要表 |
{{世界遺産概要表 |
||
|site_img = |
|site_img = ファイル:Prambanan Complex 1.jpg |
||
|site_img_capt = |
|site_img_capt = {{Infobox mapframe|zoom=10|frame-width=275|type=point}} |
||
|site_img_width =275px |
|site_img_width =275px |
||
|ja_name = プランバナン寺院群 |
|ja_name = プランバナン寺院群 |
||
8行目: | 8行目: | ||
|fr_name = Ensemble de Prambanan |
|fr_name = Ensemble de Prambanan |
||
|country = インドネシア |
|country = インドネシア |
||
|criterion_c = (1),(4) |
|area = |
||
|criterion_c = (1), (4) |
|||
|rg_year = 1991年 |
|rg_year = 1991年 |
||
|ex_rg_year = |
|ex_rg_year = |
||
| |
|Danger = |
||
|remarks = |
|||
|url_no = 642 |
|url_no = 642 |
||
|map_img = |
|map_img = |
||
|map_img_width = |
|map_img_width = |
||
|locmapin = Indonesia Java#Indonesia |
|||
|}} |
|||
|longitude = 110.491667 |
|||
'''プランバナン寺院群'''(プランバナンじいんぐん、Candi Prambanan)は、[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]中部にある[[ヒンドゥー教]]の遺跡で、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)の一つ。 |
|||
|latitude = -7.752222 |
|||
}} |
|||
'''プランバナン寺院群'''(プランバナンじいんぐん、{{lang-en-short|Prambanan Temple Compounds}})は、[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]中部にある[[9世紀]]の[[ヒンドゥー教]]寺院のプランバナン寺院(チャンディ・プランバナン、{{lang-jv|ꦕꦤ꧀ꦝꦶꦥꦿꦩ꧀ꦧꦤꦤ꧀}}, ''Candhi Prambanan''、{{lang-id-short|Candi Prambanan}})、別名ロロ・ジョングラン寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン、{{lang-jv|ꦫꦫꦗꦺꦴꦁꦒꦿꦁ}}、{{lang-id-short|Candi Roro Jonggrang〈Candi Rara Jonggrang〉}})を中心とした遺跡群である。地区村名であるプランバナンは、[[ジョグジャカルタ特別州]]の州都[[ジョグジャカルタ市]]の東約17[[キロメートル]] (11[[マイル|mi]]) の<ref>{{Cite web |url=https://www.visitindonesia.jp/enjoy/information/04.html |year=2014 |title=見る - プランバナン |website=Visit Indonesia |publisher=[[インドネシア|インドネシア共和国]]観光省 |accessdate=2020-02-09}}</ref>[[中部ジャワ州]]との境界に位置する<ref name=dohosha_384>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、384頁</ref><ref name=unesco>{{Cite web |url=http://whc.unesco.org/en/list/642 |title=Prambanan Temple Compounds |work=World Heritage List |publisher=[[UNESCO]] [[世界遺産センター|World Heritage Centre]] |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
{{仮リンク|ヒンドゥー教寺院|en|Hindu temple}}と[[仏教]]寺院からなるプランバナン寺院群は、[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ、UNESCO)の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録されており<ref name=unesco />、これらの寺院遺跡は[[インドネシア語]]および[[ジャワ語]]で{{仮リンク|チャンディ|en|Candi of Indonesia}} (''Candi'') として知られる。その中心となるプランバナン寺院はインドネシア最大のヒンドゥー教寺院である<ref name=dohosha_384 /><ref name=Ito_16>[[#Ito|伊東 (2007)]]、16頁</ref>。 |
|||
==概要== |
|||
寺院群のうち中心的存在であるプラバナン寺院は[[古マタラム王国]]のバリトゥン王(在位898年~910年)による建立と言われる。古マタラムの王宮もこのあたりにあったと考えられているが、伝染病が流行り10世紀ごろ遷都した。のちの[[1549年]]の地震で遺跡のほとんどが崩壊した。しばらく忘れ去られていたが、[[1937年]]から遺産の修復作業が行われている。プランバナン寺院群は[[ヒンドゥー教]]の遺跡としては[[インドネシア]]最大級で、仏教遺跡の[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]と共にジャワの建築の最高作の一つとされる。 |
|||
プランバナン寺院は、創造神[[ブラフマー]]、維持神[[ヴィシュヌ]]、破壊神[[シヴァ]]の三大神を[[三神一体]]とするトリムルティ(Trimurti〈トリムールティ、{{lang-sa-short|''Trimūrti''}}〉<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、298頁</ref>)に捧げられ、{{仮リンク|ヒンドゥー教建築|en|Hindu architecture}}における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体のなかにそびえ立つ、高さ47[[メートル]] (154[[フィート|ft]]) の中央の祠堂建築により特徴づけられる<ref name=Ito_16 /><ref name=nhk_129>[[#nhk|鈴木 「中部ジャワの遺跡」『NHK美の回廊をゆく 2』 (1991)]]、129頁</ref>。 |
|||
==ジャワ島中部地震による影響と修復作業== |
|||
2006年5月27日に起きた[[ジャワ島中部地震]]で甚大な被害を受けた。地震発生の約2か月後、インドネシア政府の要請で日本から調査団が派遣された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/07_hakusho/kakomi/kakomi07.html 外務省文化無償資金協力]</ref>。 |
|||
== プランバナン寺院 == |
|||
2007年1月から修復作業が開始され、日本の第二次調査団が同年2月に派遣、同年3月には、日本は「草の根文化無償資金協力」にてプランバナン遺跡修復専門機関のジョクジャカルタ特別州考古学局に対し、文化財修復機材を購入するための資金を供与した<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/07_hakusho/kakomi/kakomi07.html 外務省文化無償資金協力]</ref>。 |
|||
[[ファイル:Yogyakarta Indonesia Prambanan-temple-complex-02.jpg|thumb|270px|プランバナン寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン)]] |
|||
寺院群のなかで中心的構造物であるプラバナン寺院は、[[古マタラム王国]]({{仮リンク|サンジャヤ王統|en|Sanjaya dynasty}}<ref>[[#iwanami1|深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、301頁</ref>、[[8世紀|8]]-[[10世紀]]初頭<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、406頁</ref>)の時代に建立された。その後、[[16世紀]]の大地震で多くが崩壊し<ref name=Uekita_21>[[#Uekita|上北 (2016)]]、21頁</ref>、その存在はほとんど忘れ去られていたが、再発見の後、[[19世紀]]には発掘が始まり、[[20世紀]]になると遺跡の修復作業が開始された。このプランバナン寺院はインドネシア最大級であり、仏教遺跡の[[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール寺院]]とともにジャワ建築の最高作の1つとされる<ref name=heibonsha_392>[[#heibonsha|『新版 東南アジアを知る事典』 (2008)]]、392頁</ref>。 |
|||
=== 歴史 === |
|||
2009年6月現在、チャンディ・ナンディとチャンディ・ガルーダの修復がようやく完了したのみで、全体の修復については目処すら立っていない。 |
|||
==== 創建 ==== |
|||
[[ファイル:Shivagrha Inscription.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|シワグルハ碑文|en|Shivagrha inscription}}(西暦856年)]] |
|||
プラバナン寺院は、古代ジャワ最大のヒンドゥー教寺院であり、碑文によると当初の建造物は9世紀中頃に完成した<ref name=heibonsha_392 />。ただし着工された年代については諸説あり、プラバナン寺院を完成させた王{{仮リンク|ダクサ|id|Mpu Daksa}}([[913年|913]]-[[915年]]頃<ref name=dohosha_407>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、407頁</ref>)<ref name=textbook>{{Cite book |和書 |author=イ・ワヤン・バドリカ |translator=[[石井和子]]監訳、桾沢英雄、田中正臣、菅原由美、山本肇 |title=インドネシアの歴史 - インドネシア高校歴史教科書 |origyear=2000 |year=2008 |publisher=明石書店 |series=世界の教科書シリーズ |isbn=978-4-7503-2842-3 |page=38}}</ref>または王{{仮リンク|バリトゥン|en|Balitung}}([[898年|898]]-[[910年]]頃<ref name=dohosha_407 />)によるという説のほか、王{{仮リンク|ラカイ・ピカタン|en|Rakai Pikatan}}([[842年]]頃-[[856年]]<ref name=dohosha_407 /><ref name=Dumarçay_11>[[#Dumarçay|デュマルセ (1996)]]、11頁</ref>)の時代とする新説があり<ref name=dohosha_384 />、[[835年|835]]-856年ともいわれる<ref>[[#Dumarçay|デュマルセ (1996)]]、94頁</ref>。刻文史料の解釈により、おそらくサンジャヤ王統は第2代王{{仮リンク|ラカイ・パナンカラン|en|Rakai Panangkaran}}([[760年|760]]-[[780年]]頃<ref name=Dumarçay_11 />)の時代より、仏教の[[シャイレーンドラ朝]]の支配のもとにあったが、この時代に第6代王ピカタンが<ref>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、94頁</ref>、戦いによってジャワの支配権を回復したとされる<ref name=iwanami1_298-299>[[#iwanami1|深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、298-299頁</ref>。この巨大なヒンドゥー教寺院の建設は、マタラムの王室が[[大乗仏教]]からヒンドゥー教(ヒンドゥー・マタラム)に移行したことを意味する。さらに着工の年代は8世紀末までさかのぼるとする説もあり<ref name=heibonsha_392 />、プラバナン寺院は、仏教のシャイレーンドラ朝のボロブドゥール寺院やプランバナンに近い{{仮リンク|セウ寺院|en|Sewu}}(チャンディ・セウ、{{lang-id-short|Candi Sewu}})と同年代に、ヒンドゥー教のサンジャヤ王統により造営されたともいわれている<ref name=heibonsha_392 />。 |
|||
西暦856年の{{仮リンク|シワグルハ碑文|en|Shivagrha inscription}}<ref name=iwanami1_298-299 />({{lang-id-short|Prasasti Siwagrha}})によると<ref>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、221頁</ref>、この寺院はシヴァ(シワ、{{lang-id-short|Siwa}})に捧げられ、当初は'''シワグルハ'''({{lang-id-short|Siwagrha}}、{{lang-sa-short|''Shiva-grha''}}、「シヴァの家」)または'''シワラヤ'''({{lang-id-short|Siwalaya}}、{{lang-sa-short|''Shiva-laya''}}、「シヴァの地」)と称された<ref>Shivagrha Inscription, [[w:National Museum of Indonesia|National Museum of Indonesia]]</ref>。この碑文によれば、プラバナン寺院付近の川の流路を変える工事が、寺院の建設のうちに着手された<ref name=dohosha_385>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、385頁</ref>。{{仮リンク|オパック川|en|Opak River}}として知られるこの川は、今日、プランバナン寺院の西側を南北に流れるが<ref name=dohosha_385 />、かつての川は、より東の寺苑内を流れていたものと考えられる<ref name=heibonsha_393>[[#heibonsha|『新版 東南アジアを知る事典』 (2008)]]、393頁</ref>。この造成において、プラバナン寺院の外壁の南北軸に流れる川はせき止められ、かつての川の流路は寺院拡張による広い敷地を設けるために埋め慣らされて、小祠堂のプルワラ({{lang-id-short|Perwara}})が並ぶ寺苑となった。 |
|||
== 登録基準 == |
|||
{{世界遺産基準|1|4}} |
|||
[[Image:Main shrine of Prambanan temples.JPG|thumb|主の寺院]] |
|||
プランバナン寺院の主祠堂中央の聖室({{仮リンク|ガルバグリハ|en| Garbhagriha}}〈''Garbhagriha''〉)に安置されるシヴァ像は、王ピカタンの肖像であるとされ<ref name=Iguchi_237>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、237頁</ref>、王の遺骨が台座の9メートル下に納められたといわれるほか<ref name=Ito_16 />、像は王バリトゥンをかたどるもので、王の死後、自身を神格化する肖像としての役割を果たしたともされる<ref>Soetarno, Drs. R. second edition (2002). ''Aneka Candi Kuno di Indonesia'' (Ancient Temples in Indonesia), pp. 16. Dahara Prize. Semarang. {{ISBN|979-501-098-0}}.</ref><ref name=Ariswara_11-12・48>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 11-12 48</ref>。 |
|||
==周辺の寺院== |
|||
*チャンディ・プランバナン(チャンディ・ロロ・ジョングラン) |
|||
*:[[ファイル:prambanan90_4.jpg|320px|Candi Lolo Jonggrang]] |
|||
**チャンディ・シヴァ |
|||
**:[[ファイル:siva90_4.jpg|160x160px|シヴァ神殿]] |
|||
**チャンディ・ブラフマー |
|||
**チャンディ・ヴィシュヌ |
|||
**:[[ファイル:vishnu09_4.jpg|160x160px|ヴィシュヌ神殿]] |
|||
**チャンディ・ナンディ |
|||
**:[[ファイル:nandi90_4_1.jpg|160px|ナンディ堂]] [[ファイル:nandi90_4_2.jpg|160px|ナンディ堂回廊]] [[ファイル:nandi90_4_3.jpg|160px|ナンディ堂回廊]] [[ファイル:nandi90_4_4.jpg|160px|ナンディ像]] [[ファイル:nandi90_4_5.jpg|160x160px|ナンディ堂の仏像]] [[ファイル:nandi90_4_6.jpg|160x160px|ナンディ堂の仏像]] [[ファイル:nandi90_4_7.jpg|160x160px|ナンディ堂レリーフ]] [[ファイル:nandi90_4_8.jpg|160x160px|ナンディ堂レリーフ]] |
|||
**チャンディ・ハンサ |
|||
**:[[ファイル:hansa90_4.jpg|160x160px|ハンサ神殿]] |
|||
**チャンディ・ガルーダ |
|||
**:[[ファイル:garuda90_4.jpg|160x160px|ガルーダ堂]] |
|||
**チャンディ・アピット |
|||
**チャンディ・クチル |
|||
寺苑は、王ダクサや{{仮リンク|トゥロドン|en|Tulodong}}([[919年|919]]-[[921年]]頃<ref name=dohosha_407 />)など歴代のマタラム王により拡張され、主要な祠堂の周囲に何百基もの小祠堂が追加された。そびえ立つ中央の主祠堂は高さ47メートルであり、広大な周壁に囲まれる240基の構造物からなる寺院複合体において、トリムルティのシヴァ祠堂(チャンディ・シワ、尼: Candi Siwa)は、当時、最も高く壮大なものであった。プランバナン寺院はマタラム王国の王室寺院としての役割を果たし、宗教儀式や供犠のほとんどはここで行われた。王国の最盛期には、寺院の外壁内に何百人もの[[バラモン]]が弟子とともに住んでいたと推定されている。古マタラム王国の都の位置は不明であるが<ref name=dohosha_407 /><ref>[[#Ito|伊東 (2007)]]、15頁</ref>、都の中心地およびマタラムの王宮({{仮リンク|クラトン (インドネシア)|en|Kraton (Indonesia)|label=クラトン}}<ref>[[#iwanami1|深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、290頁</ref>)は、およそ{{仮リンク|ケウ平原|en|Kewu Plain}}(プランバナン平野<ref name=dohosha_442>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、442頁</ref>)辺りであったと考えられており、平野部に突き出た{{仮リンク|ラトゥボコ|en|Ratu Boko}}({{lang-id-short|Ratu Boko〈Ratu Baka〉}})の丘に残るボコ遺跡({{lang-id-short|Candi Boko}})が<ref name=dohosha_442 />、9世紀後半<ref name=dohosha_407 />頃の王宮の跡であるとされる<ref name=heibonsha_392 />。 |
|||
===その他=== |
|||
*チャンディ・セウ (Candi Sewu) |
|||
*:[[ファイル:Sewu09_4.jpg|160x160px|Candi Sewu]] [[ファイル:sewu09_42.jpg|160x160px|Candi Sewu 仏像]] [[ファイル:sewu09_43.jpg|160x160px|Candi Sewu レリーフ]] [[ファイル:sewu_mandara09_4.jpg|160x160px|Candi Sewu 曼陀羅レリーフ]] [[ファイル:sewu09_44.jpg|160x160px|Candi Sewu 天井を見るとピラミッド状]] |
|||
*チャンディ・アス (Candi Asu) |
|||
*:チャンディ・セウの守護寺院、チャンディ・セウの東約300m。 |
|||
*:[[ファイル:prambanan_asu09_4.jpg|160x160px|Candi Asu]] |
|||
*チャンディ・ブブラ (Candi Bubrah) |
|||
*:チャンディ・セウの守護寺院、チャンディ・セウの南約300m。 |
|||
*:[[ファイル:bubrah09_4.jpg|160x160px|Candi bubrah]] |
|||
*チャンディ・クロン (Candi Kulon) |
|||
*:チャンディ・セウの守護寺院、チャンディ・セウの西約300mにあった。 |
|||
*チャンディ・ロル (Candi Lor) |
|||
*:チャンディ・セウの守護寺院、チャンディ・セウの北約300mにあった。 |
|||
*チャンディ・ラムバン (Candi Lumbung) |
|||
*:[[ファイル:lunbung09_4.jpg|160x160px|Candi lunbung]] |
|||
*チャンディ・プラオサン・ロウ (Candi Plaosan Lor) |
|||
*:[[ファイル:plaosan_lor09_4.jpg|160x160px|Candi Plaosan Lor]] |
|||
*チャンディ・プラオサン・キダル (Candi Plaosan Kidul) |
|||
*:[[ファイル:plao_kidul09_4.jpg|160x160px|Candi Plaosan Kidul]] |
|||
*トロゴ |
|||
*クルラク |
|||
*カラン |
|||
*チャンディ・クドゥラン (Candi Kedulan) |
|||
*:[[ファイル:kedulan09_4.jpg|160x160px|Candi kedulan]] |
|||
*チャンディ・サンビサリ (Candi Sambisari) |
|||
*:[[ファイル:sambisari09_4.jpg|160x160px|Candi sambisari]] |
|||
*チャンディ・ボゲム |
|||
*チャンディ・サリ (Candi Sari) |
|||
*:[[ファイル:sari09_4.jpg|160x160px|Candi sari]] |
|||
*チャンディ・カラサン (Candi Kalasan) |
|||
*:[[ファイル:kalasan09_4.jpg|160x160px|Candi kalasan]] |
|||
*チャンディ・ガラサオ |
|||
*チャンディ・グリムビヤンガン |
|||
*ランドゥ・グンティン |
|||
*チャンディ・クブラク |
|||
*チャンディ・ノゴサリ |
|||
*チャンディ・アバン (Candi Abang) |
|||
*:[[ファイル:abang09_4.jpg|160x160px|Candi abang]] [[ファイル:abang09_4_1.jpg|x120px|Candi abang]] |
|||
*Goa Sentono |
|||
*:[[ファイル:abang09_4_2.jpg|160x160px]] [[ファイル:abang09_4_3.jpg|160x160px|左、詳細]] [[ファイル:abang09_4_4.jpg|160x160px|中、詳細]] [[ファイル:abang09_4_5.jpg|160x160px|右、詳細]] |
|||
*チャンディ・ソジワン (Candi Sujiwan) |
|||
*:かつてはCandi Kebondalem(チャンディ ケボンダレム)と称されていた。 |
|||
*:[[ファイル:sajiwari09_4.jpg|160x160px|Candi sajiwari]] |
|||
*チャンディ・カロンガン (Candi Kalongan) |
|||
*:チャンディ ソジワンの南側80mに位置。ソジワンと南北一対のコンプレックスをなしていた。 |
|||
*:[[ファイル:sajiwari09_42.jpg|160x160px|Candi Kalongan]] |
|||
*クラトン(王宮) |
|||
*チャンディ・ロトゥボコ (Candi Ratu Boko) |
|||
*チャンディ・ンガリク |
|||
*スムベル・ワトゥ (Situs Watugudig) |
|||
*:[[ファイル:watu09_4.jpg|160x160px|Candi watu]] |
|||
*チャンディ・ミリ (Candi Miri) |
|||
*:[[ファイル:miri09_4.jpg|160x160px|Candi miri]] |
|||
*チャンディ・ダワンサリ |
|||
*シトゥス・キキス |
|||
*チャンディ・イジョ (Candi Ijo) |
|||
*:[[ファイル:prambanan_ijo09_4.jpg|160x160px|Candi ijo]] |
|||
*チャンディ・バロン (Candi Barong) |
|||
*:[[ファイル:barong09_4.jpg|160x160px|Candi barong]] |
|||
*チャンディ・バニュニボ (Candi Banyunibo) |
|||
*:[[ファイル:banyunibo09_4.jpg|160x160px|Candi banyunibo]] |
|||
*チャンディ・ティンジョン |
|||
*チャンディ・スマランガ |
|||
*グポロ |
|||
*シトゥス・プンクルク |
|||
*チャンディ・シンゴ |
|||
*チャンディ・クラピャク |
|||
== |
==== 荒廃 ==== |
||
[[ファイル:Hindu Temple in Java, Indonesia.jpg|thumb|upright|朝霧のプランバナン寺院(1870年)]] |
|||
10世紀前半の<ref name=iwanami2_141>[[#iwanami2|青山亨 「東ジャワの統一王権王権」、『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、141頁</ref>[[928年|928]]-[[929年]]頃に、都はイシャナ朝([[クディリ王国|クディリ朝]])を創設した{{仮リンク|ムプ・シンドク|en|Mpu Sindok}}(929-[[948年]]頃<ref name=dohosha_407 />)により[[東ジャワ州|東ジャワ]]に移された<ref name=Iguchi_7・245-247>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、7・245-247頁</ref>。その遷都の理由には諸説あるが<ref name=iwanami2_141 />、[[中部ジャワ州|中部ジャワ]]のプランバナンの北に位置する[[ムラピ山]]の噴火や宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられている<ref name=Iguchi_7・245-247 />。それによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していった。 |
|||
寺院群は[[1600年]]頃([[1549年]]<ref name=Kiyonaga>{{Cite journal |和書 |author=清永洋平 |date=2007-06-20 |title=インドネシア・プランバナン遺跡群の地震被害 |journal=奈良文化財研究所紀要 |pages=8-9 |publisher=[[奈良文化財研究所]] |issn=13471589 |url=https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/614/1/BA67898227_2007_008_009.pdf |format=PDF |accessdate=2020-02-13}}</ref>)の大地震により崩壊した<ref name=dohosha_384 />。寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなかったが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元の[[ジャワ人]]に知られていた。その遺構や彫像は、{{仮リンク|ロロ・ジョングラン伝説|en|Roro Jonggrang}}の主題や発想の源となった。周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していなかった。それにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えた。その王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意<ref>{{Cite book |和書 |author=吉村作治 |authorlink=吉村作治 |title=東南アジアの華 アンコール・ボロブドゥール |year=1999 |publisher=[[平凡社]] |series=吉村作治の文明探検 5 |isbn=4-582-63165-7 |page=57}}</ref>)の伝説によると、これらの寺院はバンドゥン・ボンドウォソ<ref name=Iguchi_237 /> (Bandung Bondowoso) のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたといわれる。 |
|||
==== 再発見 ==== |
|||
[[ファイル:Prambanan 1895.jpg|thumb|再発見されたプランバナン寺院の遺構(1895年)]] |
|||
プランバナン寺院の存在は、[[1733年]]<ref name=Kiyonaga />、[[オランダ東インド会社]]({{lang-nl|Verenigde Oost-Indische Compagnie}}、略称: VOC)のロンス (Cornelius Antonie Lons) により初めて報告された<ref name=iguchi_234>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、234頁</ref><ref>{{Cite book |last=Jordaan |first=Roy |title=The Lost Gatekeeper Statues of Candi Prambanan: A Glimpse of the VOC Beginnings of Javanese Archaeology |date=2013-09 |url=https://iseas.edu.sg/images/pdf/nsc_working_paper_series_14.pdf |format=PDF |publisher=Nalanda-Sriwijaya Centre |series=NSC Working Paper No. 14 |pages=2-4}}</ref>。[[1755年]]の[[マタラム王国]](新マタラム王国)分割の後<ref name=dohosha_407 />、寺院の遺構とオパック川は、ジョグジャカルタと[[スラカルタ]](ソロ)の王家の境域を画定するために用いられ、ジョグジャカルタと中部ジャワ間の現在の境界として選定された。 |
|||
プランバナン寺院は、[[19世紀]]初頭に国際的に注目されるようになった。[[1811年]]、短い[[オランダ領東インド]]のイギリスの占領時代に、[[トーマス・ラッフルズ|スタンフォード・ラッフルズ]]のもと、調査員であった{{仮リンク|コリン・マッケンジー|en|Colin Mackenzie}}がたまたま寺院に行き当たった。次いでラッフルズは遺跡の全面調査を命じている。その後、ラッフルズは、『{{仮リンク|ジャワ誌|en|The History of Java}}』(“''The History of Java''”、1817年)<ref>{{Cite book |和書 |author=信夫清三郎 |authorlink=信夫清三郎 |title=ラッフルズ伝 - イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会 |origyear=1943 |year=1968 |publisher=平凡社 |series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] 123 |isbn4-582-80123-4 |page=244}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=坪井祐司 |title=ラッフルズ - 海の東南アジア世界と「近代」 |year=2019 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界史リブレット 人 68 |isbn=978-4-634-35068-7 |page=78}}</ref>において、「それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え、多量のさまざまの種類の樹木や草で覆われている。現在の荒廃した状態において、これらの尊い建物の正確な計画図あるいはもとの配置とか大きさ、また数や形を得ることは非常に困難である」と記している<ref>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、195・234頁</ref>。 |
|||
それらは数十年にわたって放置されたままであった。[[オランダ人]]居住者は装飾品として彫刻を持ち去り、また土地の住人らは建設資材にその礎石を使用していた<ref>[[#Narumi,Koura|鳴海、小浦 (2008)]]、10頁</ref>。[[1885年]]より{{仮リンク|ヤン・ウィレム・アイゼルマン|nl|Jan Willem IJzerman|label=アイゼルマン}} (Jan Willem IJzerman) が[[考古学]]的調査を開始したが<ref name=iguchi_234 />、その緩慢な発掘により略奪を容易にした。 |
|||
==== 修復 ==== |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Badende en wassende mensen in een rivier bij de Candi Lara Jonggrang oftewel het Prambanan tempelcomplex TMnr 20026902.jpg|thumb|オパック川とシヴァ祠堂修復後のプランバナン寺院(1971年)]] |
|||
20世紀になって、ファン・エルプ (Theodoor van Erp) やドゥ・ハーン (De Haan) らによる研究がなされた<ref name=iguchi_234 />。[[1918年]]にオランダ植民地政府はシヴァ祠堂の修復に着手し<ref name=heibonsha_393 />、[[1930年]]には相応の修復が開始され<ref name=dohosha_384 />、[[1937年]]よりオランダ領東インド考古局のもとで着工された本格的な修復工事は、その後、[[大東亜戦争]]による[[1943年|1943]]-[[1945年]]の[[日本]]の軍政期を経て継続された<ref name=Uekita_21 /><ref name=iguchi_234 />。中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、[[スカルノ]]大統領就任後の[[1953年]]になって完成した<ref name=dohosha_384 /><ref name=iguchi_234 />。もとの石積みの多くは盗まれ、遠方の建築地で再利用されていたことから、修復はかなり妨げられた。インドネシア政府は寺院複合体の規模を考慮し、もとの石積みの少なくとも75[[パーセント]]が利用できる場合のみ寺院遺跡を再構するという決定をした。 |
|||
政府により、[[1977年|1977]]-[[1987年]]にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ〈ブラーマ〉、{{lang-id-short|Candi Brahma}})が修復され、[[1982年|1982]]-[[1991年]]にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ、{{lang-id-short|Candi Wishnu}})が修復された<ref name=Uekita_21 />。その後、1991-[[1993年]]にかけて、[[ヴァーハナ]]({{lang-id-short|Wahana}})のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ、{{lang-id-short|Candi Nandi}})、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ、{{lang-id-short|Candi Garuda}}〈チャンディ・A<ref name=dohosha_384 />〉)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ、{{lang-id-short|Candi Hamsa}}〈チャンディ・B<ref name=dohosha_384 />〉)が修復された<ref>[[#Uekita|上北 (2016)]]、22頁</ref>。修復の取り組みは今日もなお続いている。しかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみである。 |
|||
[[1990年代]]初頭、政府は寺院の近くにできた市場を移転させ、[[遺跡|史跡]]公園として周囲の村落や水田を再開発した。公園は、南の幹線道路(ジョグジャカルタ-ソロ〈スラカンタ〉)からプランバナン寺院複合体の全体、{{仮リンク|ルンブン寺院|en|Lumbung}}(チャンディ・ルンブン、{{lang-id-short|Candi Lumbung}})や{{仮リンク|ブブラ寺院|id|Candi Bubrah}}(チャンディ・ブブラ、{{lang-id-short|Candi Bubrah}})の遺跡、さらに北側のセウ寺院を取り囲む広い地域におよんでいる。そして1991年、プランバナン寺院群として国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された<ref name=unesco />。[[1992年]]にインドネシア政府は「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社<ref>[[#Segawa|瀬川 (2007)]]、159頁</ref>」(“[[:id:Taman Wisata Candi Borobudur, Prambanan, dan Ratu Boko|PT Taman Wisata Candi Borobudur, Prambanan, dan Ratu Boko]]”)という[[国有企業|国有]][[有限責任]]企業 (ペルセロ、[[:id:Persero|Persero]]) を設立した。この事業体は、インドネシアにおいて人気の高い観光名所であるボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコとその周辺地域の公園を管理する機関である。 |
|||
[[ファイル:Prambanan c 09N8032.jpg|thumb|upright|2006年5月の地震による修復作業(2009年)]] |
|||
[[2006年]]5月27日に起きた[[ジャワ島中部地震]]においては、プランバナンも甚大な被害を受けた<ref name=heibonsha_393 /><ref>[[#Segawa|瀬川 (2007)]]、149頁</ref>。寺院複合体は構造的に大きく損なわれることはなかったが<ref>[[#Narumi,Koura|鳴海、小浦 (2008)]]、12頁</ref><ref>{{Cite news |title=進む寺院の再建 未解明の建造物も |newspaper=[[w:The Daily Jakarta Shimbun|じゃかるた新聞]] |date=2019-03-23 |author=宮崎衛夫 |url=https://www.jakartashimbun.com/free/detail/46894.html |publisher=PT. Bina Komunika Asiatama |accessdate=2020-02-09}}</ref>、祠堂の小塔部の落下および石積みの亀裂や歪みなどの損傷が多く認められ<ref name=heibonsha_393 />、彫刻を含む大きな破片が地面に散乱していた<ref name=indahnesia>{{Cite web |url=http://blog.indahnesia.com/entry/200605281340/world_famous_temple_complex_damaged_in_quake.php |title=World famous temple complex damaged in quake |date=2006-03-28 |website=Discover Indonesia Online |publisher=indahnesia.com |accessdate=2020-02-09}}</ref>。数週間後のうちに訪問者の苑内への入場は再開されたが、寺院の祠堂などは損傷部位の安全性が確保されるまで閉鎖された<ref>[[#Segawa|瀬川 (2007)]]、160頁</ref>。 |
|||
地震発生よりおよそ2か月後には、インドネシア政府の要請により日本からの調査団が派遣された<ref name=hakusyo>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/07_hakusho/kakomi/kakomi07.html |title=世界遺産・プランバナン遺跡の修復に対する支援(インドネシア) |date=2018-03-09 |work=政府開発援助 (ODA) 白書 2007年版 日本の国際協力 |publisher=[[外務省]] |accessdate=2020-02-09}}</ref>。日本の第2次調査団が派遣された[[2007年]]<ref name=hakusyo />より修復作業が開始され<ref>{{Cite web |url=http://borobudurpark.com/en/restoration-prambanan-due-post-earthquake-2006/ |title=Restoration of Prambanan due Post-Earthquake 2006 |date=2017-11-21 |work=Articles |publisher=PT. Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko |accessdate=2020-02-09}}</ref>、同年3月には、プランバナン遺跡の修復専門機関であるジョクジャカルタ特別州考古学局に対し、日本からも修復機材を購入するための補助資金が供与された<ref name=hakusyo />。 |
|||
[[2009年]]1月にはナンディ祠堂の修復が完了した |
|||
<ref>{{Cite web |url= https://nasional.kompas.com/read/2009/01/07/01490165/pemasangan.batu.kemuncak.tandai.purnapugar.candi.nandi |title= Pemasangan Batu Kemuncak Tandai Purnapugar Candi Nandi |date=2009-01-07 |website=Kompas.com |language=id |accessdate=2020-02-16}}</ref>。その後、[[2012年]]に「中部ジャワ{{仮リンク|古代遺物保存局 (インドネシア)|jv|Balai Pelestarian Peninggalan Purbakala|label=古代遺物保存局}}」 (''Balai Pelestarian Peninggalan Purbakala Jawa Tengah'' 〈BP3〉、{{lang-en-short|Central Java Heritage Preservation Authority}}) は、プランバナンおよび周辺地域を保護区とするように提案した。挙げられた地域は、プランバナン、ラトゥボコ、[[カラサン寺院|カラサン]]、[[サリ寺院|サリ]]、{{仮リンク|プラオサン寺院|en|Plaosan|label=プラオサン}}など地域の主要な寺院がある{{仮リンク|スレマン県|en|Sleman Regency}}と{{仮リンク|クラテン県|en|Klaten Regency}}にまたがる30平方キロメートルのケウ平原(プランバナン平野)に位置する。この保護区においては、多くの新たな建造物、特に複数階建ての建築物をなくすよう求められた<ref>{{cite news |title=Prambanan Diusulkan Jadi "Perdikan" |newspaper=[[w:Kompas|Kompas]] |date=2012-04-18 |url=http://regional.kompas.com/read/2012/04/18/03081485/Prambanan.Diusulkan.Jadi.Perdikan. |publisher=[[w:Kompas Gramedia Group|Kompas Gramedia]] |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
[[2014年]]2月14日、ボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコなど、ジョグジャカルタおよび中部ジャワの主な観光名所は、前夜に噴火したジョグジャカルタの東方約200キロメートルに位置する東ジャワの[[ケルート山]]の火山灰により、深刻な影響を受けて閉鎖された<ref>{{Cite web |url=http://cempaka-tourist.blogspot.com/2014/02/borobudur-other-sites-closed-after.html?m=1 |title=Borobudur, Other Sites, Closed After Mount Kelud Eruption |date=2014-02-14 |website=Cempaka Culture and Tourism |accessdate=2020-02-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.otoa.com/news_detail.php?code=26116 |title=インドネシア ジョグジャカルタ / 「クルド山」の噴火に伴う影響 |date=2014-02-14 |work=海外旅行現地情報 |publisher=[[日本海外ツアーオペレーター協会]] (OTOA) |accessdate=2020-02-09}}</ref>。その後、ボロブドゥールは2月26日より、プランバナン、ラトゥボコなどの訪問も28日には再開された<ref>{{Cite web |url=http://www.travelvision.jp/special/detail.php?id=60685 |title=インドネシア・ジョグジャカルタ、「クルド山」の噴火に伴う影響 - 続報 |date=2014-02-27 |website=トラベルビジョン |accessdate=2020-02-09}}</ref>。その4年前の[[2010年]]、ボロブドゥールに影響を与えたムラピ山の噴火における火山灰においては<ref>{{Cite news |title=「山が怒っている」 噴火続くインドネシア・ムラピ山 |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |date=2010-11-05 |url=http://www.asahi.com/eco/TKY201011040523.html |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2020-02-09}}</ref>、風や降灰の方向が西向きであったため、プランバナンは影響を免れていた。 |
|||
==== 催事・式典 ==== |
|||
[[ファイル:Ramayana dance performance at Prambanan Temple 2.jpg|thumb|プランバナン寺院を背景とした野外劇場の[[ラーマヤナ]]舞踏公演]] |
|||
[[ファイル:Panggung Terbuka Roro Jonggrang (1961).jpg|thumb|プランバナン野外舞台のラーマーヤナ舞踏初演(1961年)]] |
|||
プランバナンは、インドネシアにおいて最も訪問される観光名所の1つである。オパック川を渡った寺院西側の屋外(ラーマヤナ野外劇場)および屋内(トリムルティ屋内劇場)の舞台は、伝統的な[[叙事詩]]『[[ラーマーヤナ]]』の舞踏を上演するために建設された。ラーマヤナ野外劇場は[[乾季]](5-10月)に使用され、[[雨季]](11-4月)にはトリムルティ屋内劇場において上演される。このラーマーヤナの[[ジャワ舞踊]]{{仮リンク|ワヤン・オラン|id|Wayang wong}}(Wayang orang、ワヤン・ウォン〈[[w:Wayang wong|Wayang wong]]〉)は、何世紀にもわたるジャワ宮廷の舞踏であり<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、462頁</ref>、プランバナンでは、[[1960年代]]より満月の夜ごとに上演されてきた。以来、プランバナンはインドネシアにおける主要な考古学的、文化的観光名所となっている。 |
|||
1990年代に主要な祠堂が再建されると、プランバナンはジャワのヒンドゥー教の礼拝や儀式の主要な宗教的中心地として再興していった。[[バリ島]]およびジョグジャカルタや中部ジャワにおけるジャワ島のヒンドゥー教[[共同体]]は、{{仮リンク|ガルンガン|en|Galungan}} (Galungan)、タウール・クサンガ (Tawur Kesanga)、[[ニュピ]] (Nyepi) など、毎年執り行なう祝祭をプランバナンにおいて復活させた<ref>{{Cite web |url=http://arkeologijawa.com/index.php?action=news.detail&id_news=27&judul=Selamat%20Hari%20Raya%20Galungan,%20Nyepi%20Tahun%20Baru%20Saka%201931%20dan%20Kuningan.&lang=id |title=Selamat Hari Raya Galungan, Nyepi Tahun Baru Saka 1931 dan Kuningan. |work=Berita |publisher=Arkeologi Jawa.com |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
[[2019年]]11月9日から12日にかけて、本寺院の苑内で盛大なアビシェーカ(''[[w:Abhiṣeka|Abhiṣeka]]''、[[灌頂]])という宗教的儀式が催された。このヒンドゥー教の儀式は、プランバナン寺院が創建されたシワグルハ碑文の856年から、1163年の時を経て初めて開催された<ref>{{Cite web |url=https://www.thejakartapostimages.com/images/view/41261 |title=Upacara Abhiseka di Candi Prambanan Yogyakarta |website=The Jakarta Post images |publisher=PT. Niskala Media Tenggara |accessdate=2020-02-09}}</ref>。アビシェーカの式典は、寺院を祓い、清め、浄化することを意図したものであり、このようにプランバナン寺院は、単に考古学や観光の場所ではなく、ヒンドゥー教の宗教活動の拠点としての当初の機能の回復を示している<ref>{{Cite web |url=http://www.bumn.go.id/borobudur/berita/1-Abhiseka-Prambanan |title=Abhiseka Prambanan |date=2019-11-05 |website=www.bumn.go.id |work=PT. Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko |publisher=[[w:Ministry of State Owned Enterprises (Indonesia)|Badan Usaha Milik Negara Republik Indonesia]] |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。このアビシェーカの式典により、{{仮リンク|インドネシアのヒンドゥー教|en|Hinduism in Indonesia}}においては、寺院内を再び[[聖別]]し、プランバナン寺院の霊力復興の節目を迎えたと捉えられている<ref>{{Cite web |url=https://bali.tribunnews.com/2019/11/13/pertama-kali-sejak-tahun-856-masehi-umat-hindu-gelar-upacara-abhiseka-di-candi-prambanan |title=Pertama Kali Sejak Tahun 856 Masehi, Umat Hindu Gelar Upacara Abhiseka di Candi Prambanan |date=2019-11-13 |website=Tribun-Bali |publisher=bali.tribunnews.com |language=id |access-date=2019-12-04}}</ref>。 |
|||
=== 寺苑・祠堂群 === |
|||
[[ファイル:Prambanan Temple Compound Map en.svg|thumb|270px|プランバナン寺院複合体の中苑・内苑図<br />配置はヒンドゥー教の[[マンダラ]]に通じる(実際の内苑祠堂群はやや北寄りに配置されている<ref name=dohosha_384 /><ref name=heibonsha_393 />)]] |
|||
[[ファイル:Prambanan90 4.jpg|thumb|270px|プランバナン寺院の北側から見た内苑<br/>右:トリムルティ祠堂 左:ヴァーハナ祠堂 <br />中央:アピット祠堂]] |
|||
かつてプランバナン寺院には240基の祠堂が立ち並んでいた<ref>{{cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%B3-126682 |title=プランバナン |website=[[コトバンク]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; プランバナン寺院複合体の祠堂群 |
|||
* '''トリムルティ(三神一体)祠堂''' : 3基 - シヴァ(中央)、ヴィシュヌ(北)、ブラフマー(南)の三大神に捧げられた3基の主要な祠堂<ref name=Uekita_17>[[#Uekita|上北 (2016)]]、17頁</ref>。 |
|||
* '''ヴァーハナ祠堂''' : 3基 - 各神のヴァーハナ(乗り物)である[[ナンディン|ナンディ]](中央)、[[ガルダ|ガルーダ]] (北)、[[ハンサ]](南)に捧げられた三大神の祠堂の前にある3基の祠堂<ref name=Uekita_17 />。 |
|||
* '''アピット祠堂''' : 2基 - トリムルティの祠堂とヴァーハナの祠堂の列の間に位置する内苑北側と南側にある2基の小祠堂。 |
|||
* '''クリル祠堂''' : 4基 - 内苑の主要な四方の塔門([[ゴープラム|ゴープラ]]、{{lang-id-short|Gapura}})のすぐ内側の主軸上にある4基の小祠堂。 |
|||
* '''パトック祠堂''' : 4基 - 内苑の四隅にある4基の小祠堂。 |
|||
* '''プルワラ祠堂''' : 224基 - 内苑を囲む同心の方形の4列に配置された数百基もの小祠堂<ref name=Uekita_17 />。内列から外列に向けて小祠堂は、44基、52基、60基、68基を数える。 |
|||
プランバナン寺院複合体は、ロロ・ジョングランの有名な伝説にちなんで名付けられたロロ・ジョングラン複合体としても知られる。この[[シヴァ派]]寺院群には、大小240基の祠堂があった。現在、内苑にある8基の主要な祠堂および8基の小祠堂はすべて修復されているが、かつてあった224基のプルワラ小祠堂(チャンディ・プルワラ、{{lang-id-short|Candi Perwara}})は、そのうち3基が修復されているのみであり、大部分は崩壊して散在した石材だけが残る<ref name=Iguchi_235>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、235頁</ref>。 |
|||
プランバナン寺院複合体は3重の寺苑により構成され、最初に外苑、次に数百基の小祠堂のある中苑、そして最後に主要な祠堂8基および小祠堂8基などがある最も神聖な内苑がある。プランバナンのヒンドゥー寺院複合体は、この全部で3重の寺苑を含めて正方形の配置に基づき、それぞれの寺苑は4つの塔門(ゴープラ)により通じる四方の周壁に囲まれている。外苑は、長大な周壁に囲まれた大空間である。もともと一辺およそ390メートルあった最も外側の周壁は、北東方向にずれ、約10数度傾いて配置されていた<ref name=dohosha_385 /><ref name=heibonsha_393 />。しかし、南の門を除いて、この囲い地にあったほとんどは今日に残っていない<ref name=BorobudurTV>{{Cite web |url=http://www.borobudur.tv/prambanan_01.htm |title=Prambanan: A Brief Architectural Summary |accessdate=2011-10-31 |work=The Temples of Central Java |publisher=Borobudur TV |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030509075141/http://www.borobudur.tv/prambanan_01.htm | url-status=dead |archivedate=2003-05-09}}</ref>。その外苑のかつての機能は不明であるが、そこは聖地であり僧院(アシュラム、''[[w:Ashram|Ashram]]'')があったとも考えられる。しかし、寺院複合体の二次的構造物は有機素材で造られていたため、その遺構は残存しない。 |
|||
==== シヴァ祠堂 ==== |
|||
[[ファイル:Candi Shiva, Prambanan 1068.jpg|thumb|upright|プランバナン寺院の[[シヴァ]]に捧げられた中央の主祠堂]] |
|||
一辺110メートルである内苑<ref name=heibonsha_392 /><ref name=dohosha_385 />と中央祠堂群は、3つの寺苑のなかで最も神聖であり、そこは四方の基点それぞれに石門を持つ正方形の石壁に囲まれた方形の基壇となる。この最も神聖な寺苑は、8基の主要祠堂などにより構成されている。トリムルティ(三神一体)と称される3基の主要祠堂は、創造神ブラフマー、維持(救済)神ヴィシュヌ、破壊(再生)神シヴァ<ref>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、95-96頁</ref>の三大神に捧げられている。 |
|||
シヴァ祠堂(チャンディ・シワ)は、全高47メートル、幅34メートル四方で<ref name=nhk_129 /><ref name=Iguchi_235 />、プランバナンのロロ・ジョングラン寺院複合体のなかで最大であり、最も高い建造物である。正面の階段は東側に位置し<ref name=Iguchi_237 />、この祠堂の基壇にある幅2メートルの回廊の[[手すり子|欄干]](欄楯〈らんじゅん〉<ref name=Aoyama_60>[[#Aoyama|青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)]]、60頁</ref>)ならびに5段の角塔それぞれの頂部には、塔形飾り<ref name=heibonsha1999>{{Cite book |和書 |editor=[[石井米雄]]、[[高谷好一]]、前田成文、土屋健治、[[池端雪浦]](監修) |title=東南アジアを知る事典 |origyear=1986 |edition=新訂増補 |year=1999 |publisher=[[平凡社]] |isbn=4-582-12621-9 |page=269}}</ref>(宝冠、ラトナ<ref name=dohosha_385 />、{{lang-sa-short|''rátna''}})が施されている<ref name=Iguchi_235 />。また、シヴァ祠堂の回廊は、欄干内壁に刻まれた『ラーマーヤナ』の物語を伝える<ref>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、238頁</ref>[[レリーフ|浅浮彫り]]の装飾によって囲まれている<ref name=heibonsha1999 />。その物語を順序通りにたどるには、東側より入り、右饒(うにょう〈プラダクシナ、''pradakshina''〉) つまり右回り(時計回り)に{{仮リンク|周行|en|circumambulation}}していく。この『ラーマーヤナ』の浮彫り(レリーフ)は、ブラフマー祠堂の回廊の欄干に続いている<ref name=dohosha_385 /><ref>[[#Aoyama|青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)]]、64頁</ref>。 |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Mahadewa in de Lara Djonggrang hindoe-tempel te Prambanan TMnr 60033679.jpg|thumb|left|upright|主室に安置されるシヴァ・マハーデーヴァ像]] |
|||
[[ファイル:Durga Loro Jonggrang copy.jpg|thumb|upright|北の側室の[[ドゥルガー|ドゥルガ・マヒサスラマルダニ]]像]] |
|||
シヴァ祠堂は中央に位置し、祠堂内には四方の側室4室と、中央部にある主室1室からなる5つの部屋がある。東正面の側室からは、高さ3メートルの最高神シヴァ・マハーデーヴァ(シワ・マハデワ、{{lang-id-short|Siwa Mahadewa}})像を安置するプランバナン最大の祠堂中央の主室に通じている<ref name=dohosha_385 />。この像には、冠にある頭蓋骨と鎌(三日月)、額の第三の目など、シヴァの属性ないしシンボル (''Lakçana'') があり、また、4本の腕には、シヴァを象徴する[[数珠]]、[[はたき]]、[[三叉槍]]([[トリシューラ]])などを持つ。このシヴァのマハーデーヴァ(「偉大な神」の意<ref name=shinchosha_96>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、96頁</ref>)として描写された像は、王バリトゥンをシヴァの生まれ変わりとして神格化したものであったともされる<ref name=Ariswara_11-12・48 />。シヴァ・マハーデーヴァ像は、台座の北側に蛇[[ナーガ]]の彫刻が施された{{仮リンク|ヨニ|en|Yoni}}の台座にある<ref name=dohosha_385 />[[ハス]]([[スイレン属|スイレン]])の上に立っている<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_prambanan_8 |year=2014 |title=Candi Prambanan |website=Kepustakaan Candi |publisher=[[w:National Library of Indonesia|Perpustakaan Nasional Republik Indonesia]] |language=id |accessdate=2020-02-13}}</ref>。 |
|||
そのほか3つの側室には、それぞれシヴァと関係の深いヒンドゥー教の神像があり、南の側室に聖仙([[リシ]])[[アガスティヤ]](または{{仮リンク|バターラ・グル|en|Batara Guru}}〈シヴァの化身〉とも<ref name=dohosha_385 />)、西の側室に[[ガネーシャ]](シヴァの息子)、北の側室には女神[[ドゥルガー]](シヴァの妻)像が安置されている<ref name=shinchosha_96・98>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、96・98頁</ref>。ドゥルガ・マヒサスラマルダニ(Durga Mahisasuramardani<!--脚注資料による-->〈マヒシャースラマルディニー、「マヒシャ・アスラを殺す者」の意<ref name=shinchosha_96 />〉)像は、魔王マヒシャが取り憑いた牛を負かして背上に立つドゥルガーが描写される<ref name=shinchosha_96 />。このドゥルガー像は、王女ロロ・ジャングランのジャワ伝説に由来するロロ・ジャングラン像とも呼ばれる<ref>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 12 19 48</ref>。 |
|||
==== ブラフマー祠堂とヴィシュヌ祠堂 ==== |
|||
[[ファイル:Brahma temple Prambanan 2017-08-02 (5).jpg|thumb|left|upright|南側のブラフマー祠堂]] |
|||
[[ファイル:Candi Wisnu prambanan.jpg|thumb|upright|北側のヴィシュヌ祠堂]] |
|||
他の2基の主要な祠堂は、シヴァ祠堂の南側にあるブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ)と北側にあるヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ)である。どちらの祠堂もシヴァ祠堂と同じく東向きであり<ref name=Hatmadji>{{Cite book |author=Tri Hatmadji |title=Pelapukan Batu Candi Siwa Prambanan dan Upaya Penanganannya |url=https://books.google.co.jp/books?id=pjWlCgAAQBAJ&pg=PR2&lpg=PR2&dq=979-97657-1-4&source=bl&ots=C-2JHfQXhY&sig=ACfU3U2pwgqIISR7qN3mSdfTbNqzgfJBYw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjjzreSqPXmAhVLEXAKHb9nCkwQ6AEwAXoECAoQAQ#v=onepage&q&f=false |accessdate=2020-02-09 |year=2004 |publisher=Balai Pelestarian |location=Yogyakarta |language=id |isbn=979-97657-1-4 |page=22}}</ref>、それぞれの尊い神に捧げられた大きな部屋が唯一祠堂内にあり、ブラフマー祠堂にはブラフマー像が安置され、ヴィシュヌ祠堂内にはヴィシュヌ像が安置される<ref>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], p. 32</ref>。ブラフマー祠堂およびヴィシュヌ祠堂はそれぞれ高さ33メートル<ref>[[#Aoyama|青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)]]、58-59頁</ref>、幅20メートル四方である<ref name=Kak_22>[[#Kak|Kak (2011)]], p. 22</ref>。 |
|||
==== ヴァーハナ祠堂 ==== |
|||
3基の主要祠堂の前にある他の3基の祠堂は、それぞれの神のヴァーハナ(乗り物)である、 |
|||
シヴァの牡牛ナンディ、ブラフマーの白い聖鳥ハンサ、ヴィシュヌの神鳥ガルーダに捧げられている。 |
|||
{{triple image|right|Nandi90 4 4.jpg|210|Prambanan Java273.jpg|114|Nandi90 4 5.jpg|67|ナンディ祠堂内の像<br />左:[[ナンディン|ナンディ]]像 中央:{{仮リンク|チャンドラ (神)|en|Chandra|label=チャンドラ}}像 右:[[スーリヤ]]像}} |
|||
{{triple image|right|Yogyakarta Indonesia Prambanan-temple-complex-08.jpg|130|Prambanan-single-temple.jpg|126|Hansa90 4.jpg|135|ヴァーハナ祠堂<br/>左(北):ガルーダ祠堂 中央:ナンディ祠堂 右(南):ハンサ祠堂}} |
|||
シヴァ祠堂の正面にあるナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ)には、ナンディ({{lang-id-short|Nandi}}「牡牛」)の像が安置されている。次いで他の彫像として、月神{{仮リンク|チャンドラ (神)|en|Chandra|label=チャンドラ}}({{lang-id-short|Candra}})の像、太陽神[[スーリヤ]](スルヤ、{{lang-id-short|Surya}})の像もある。チャンドラ像は10頭の馬に引かれた馬車の上に立ち、スーリヤ像もまた7頭の馬に引かれた馬車の上に立っている<ref>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 21 26 50</ref>。 |
|||
ヴィシュヌ祠堂の前には、ガルーダ(ガルダ、{{lang-id-short|Garuda}}、「[[鷲]]」)に捧げられた祠堂がある<ref name=Hatmadji />。このガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ)にガルーダ像がないことからチャンディ・A とも称されるが<ref name=dohosha_384 />、おそらくはガルーダの像が安置されていたものと考えられる<ref name=Ariswara_30・50 />。ガルーダはインドネシアを守護する神鳥として重要な役割を担い、[[インドネシアの国章]]に描かれるほか<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、118頁</ref>、[[ガルーダ・インドネシア航空]]の名称にも用いられている。 |
|||
ブラフマー祠堂の向かいには、ハンサ(アンサ、{{lang-id-short|Angsa}}、「[[ガチョウ]]〈白鳥〉」)の祠堂(チャンディ・ハンサ)がある<ref name=Hatmadji />。ガルーダ祠堂と同様、この祠堂内にも像がないためチャンディ・B とも称されるが<ref name=dohosha_384 />、かつてはここにも尊いガチョウ(白鳥)の像があったと考えられる<ref name=Ariswara_30・50>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 30 50</ref>。 |
|||
==== アピット祠堂 ==== |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM De Candi Lara Jonggrang oftewel het Prambanan tempelcomplex TMnr 20026909.jpg|thumb|upright|アピット祠堂]] |
|||
主要祠堂とそれらのヴァーハナの祠堂が並んだ列の間に、2基のアピット祠堂(チャンディ・アピット)が北側と南側にある。アピット (''Apit'') はジャワ語で「挟む」の意で、それは内苑を囲む南北の側面の位置に2基の祠堂があることによる<ref name=Ariswara_31・50>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 31 50</ref>。アピット祠堂の内室には今日何も認められず、これらのアピット祠堂がいずれの神に捧げられたものかなどは明らかではない<ref name=Ariswara_31・50 />。しかし、外壁南側のアピット祠堂の浅浮彫りの調査によれば、女神、おそらくはブラフマーの配偶神 (''Shakti'') [[サラスヴァティー]]が描かれている。プランバナン寺院における{{仮リンク|ヒンドゥー教の神々|en|Hindu deities|label=ヒンドゥー教の諸神}}建造物としてこれを捉えた場合、南側のアピット祠堂はサラスヴァティーに捧げられ、北側のアピット祠堂は[[ラクシュミー]]に捧げられたという可能性も考えられる。 |
|||
==== クリル祠堂とパトック祠堂 ==== |
|||
内苑にはこれら8基の主な祠堂のほかに、より小型の祠堂が8基ある。四方位にある内苑入口には4基のクリル祠堂(チャンディ・クリル、{{lang-id-short|Candi Kelir}})があり<ref name=Hatmadji />、クリル (''Kelir'') はジャワ語で「仕切り」({{lang-en-short|“screen”}})の意で、塔門(ゴープラ)の四方の入口からの進入を阻む構造物に該当する。また、内苑の四隅には4基のパトック祠堂(チャンディ・パトック、{{lang-id-short|Candi Patok}}〈スドゥ祠堂、チャンディ・スドゥ<ref name=dohosha_384 />、{{lang-id-short|Candi Sudut}}〉)がある<ref name=Hatmadji />。パトック (''Patok'') はジャワ語で「[[杭]]」({{lang-en-short|“peg”}})の意であり、内苑の四隅にあたる祠堂の位置による。 |
|||
==== プルワラ祠堂 ==== |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM De Candi Lara Jonggrang oftewel het Prambanan tempelcomplex TMnr 20026907.jpg|thumb|upright|修復されたプルワラ祠堂]] |
|||
内苑の周壁とその周囲の中苑の周壁は、いずれも東西南北の四方位を向いている。中苑の周壁は一辺222メートルであり<ref name=dohosha_385 /><ref name=heibonsha_393 />、44基、52基、60基、68基の4列からなるプルワラ小祠堂があった中苑が、壇上の内苑を囲んでいる。プルワラ小祠堂は、それぞれ高さ14メートル<ref name=dohosha_385 />、基部の幅は6メートル四方で<ref name=BorobudurTV /><ref>[[#Kak|Kak (2011)]], p. 21</ref>、合計224基の構造物があった<ref name=dohosha_385 /><ref name=heibonsha_393 />。4列それぞれの角にある16基の小祠堂は外側双方に向いているが、残る208基は外側正面の1方向に向いている<ref name=BorobudurTV />。 |
|||
中苑は4列に配置された224基のプルワラ小祠堂により構成されるが、これら数多くの祠堂はその一部が修復されたのみであり、ほとんどはいまだに崩壊したままである。これらの同心状に配置された祠堂列群は<ref name=Kak_22 />、それぞれ同様の意匠で構築されており、各列は中央に向かってわずかに高くなっている。これらのプルワラ祠堂(チャンディ・プルワラ)と呼ばれる小祠堂は、守護ないし補完祠堂であり、主要な祠堂に付加された構造物である。これらは王族や村落の有力者らが奉献したものであり<ref name=heibonsha1999 />、帰服のしるしとして王に捧げられたと考えられる。また一部では、プルワラ祠堂は中央祠堂群の周りに4列に配置されていることから、4階層の[[カースト]]と関係があるとして、中央祠堂群に最も近い列には僧侶(バラモン)のみが接することができ、ほかの3列はそれぞれ王族、武人および庶民などのためにあったともいわれるが、一方では、プルワラ祠堂の4列はこれら4階層のカーストとはまったく関係なく、そこは単に僧侶の瞑想の場所あるいは信者の礼拝の場所として構築されたものとも考えられている。 |
|||
=== 構造 === |
|||
[[ファイル:Prambanan Architectural Model.jpg|thumb|プランバナン寺院の建築模型]] |
|||
[[ファイル:Prambanan Cross Section Shiva.svg|thumb|シヴァ祠堂の断面図]] |
|||
プランバナン寺院の建築様式は、[[ヴァーストゥ・シャーストラ]]に基づいた典型的な[[ヒンドゥー建築]]の伝統に従っている。寺院設計は、[[マンダラ]]における寺院の平面配置と、同じくヒンドゥー教寺院に典型的な高くそびえ立つ尖塔を包含している。プランバナン寺院はもともとシワグルハと称され、シヴァ神に捧げられていた。寺院はヒンドゥー教の神々の住むシヴァの家であり聖なる山であるメール山([[須弥山]])を模して設計されている<ref name=Kak_22 />。寺院複合体のすべては、{{仮リンク|ヒンドゥー教の宇宙論|en|Hindu cosmology}}<ref>[[#Kak|Kak (2011)]], p. 26</ref>およびロカ ([[w:Loka|Loka]]) の界層によりヒンドゥー教の世界を形成している。 |
|||
ボロブドゥール寺院と同様に、プランバナン寺院もまた不浄な領域から最も神聖な領域に至る寺域の階層が認められる。ヒンドゥー教と仏教の概念にはそれぞれ独自の用語があるが、その概念は本質的に同じである。複合的な寺苑の構成(水平方向)および祠堂の構造(垂直方向)は、次の3つの領域([[三界]])より構成される<ref name=candikanesia>{{Cite web |url=https://candikanesia.com/sejarah-candi-prambanan/ |title=Sejarah Candi Prambanan, Legenda Cinta Roro Jonggrang |website=Candikanesia |language=id |access-date=2019-12-04}}</ref>。 |
|||
* '''ブルロカ'''([[w:Bhuloka|Bhurloka]]、仏教: カーマダートゥ<ref name=dohosha_401>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、401頁</ref>〈{{lang-sa-short|''[[w:Desire realm|kāma-dhātu]]''}}〉「欲界」<ref name=tridhatu>{{cite web |url=https://kotobank.jp/word/tri-dh%C4%81tu-1256438 |title=tri‐dhātu |website=コトバンク |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2020-02-09}}</ref>)は、人の最低領域であり、人間も動物も悪霊も同様にある。ここでは人間はまだ淫欲、欲望、不浄な生き方に縛られている。外苑ならびに各祠堂の基壇(下層〈{{lang-en-short|Foot}}〉)部が、ブルロカの領域を象徴している<ref name=candikanesia />。 |
|||
* '''ブヴァルロカ'''([[w:Bhuvarloka|Bhuvarloka]]、仏教: ルーパダートゥ<ref name=dohosha_401 />〈{{lang-sa-short|''[[w:Rupajhana|rūpa-dhātu]]''}}〉「色界」<ref name=tridhatu />)は、聖人の中間領域であり、聖仙(リシ)、行者、神人が占める場所。ここで人は真理の光を見始める。中苑<ref name=candikanesia />および各祠堂の壁体({{lang-en-short|Body}})部が、ブヴァルロカの領域を象徴している。 |
|||
* '''スヴァロカ'''([[w:Svarloka|Svarloka]]、仏教: アルーバダートゥ<ref name=dohosha_401 />〈{{lang-sa-short|''[[w:Arupajhana|ārūpa-dhātu]]''}}〉「無色界」<ref name=tridhatu />)は、神の最高かつ神聖な領域であり、''svargaloka'' とも称される。内苑ならびに各祠堂の屋蓋(屋根〈{{lang-en-short|Head}}〉)部が、スヴァロカの領域を象徴する。プランバナン寺院の屋蓋は、ラトナ(塔形飾り)により装飾されている。このプランバナンの宝冠の形状は、ダイヤモンドを表す[[金剛杵|バジュラ]]〈{{lang-sa-short|''vajra''}}<ref>{{cite web |url=https://kotobank.jp/word/vajra-1257271 |title=vajra |website=コトバンク |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2020-02-09}}</ref>)の形を変えたものである。古代ジャワの寺院建築において、ヒンドゥー教寺院のラトナは、仏教の[[仏塔]](ストゥーパ、{{lang-sa-short|[[w:Stupa|Stūpa]]}})に相当するものとして、寺院の[[小尖塔]]に施された。 |
|||
19世紀末、シヴァ祠堂の中央下部より四角い石棺 (''pripih'') を納めた縦穴({{lang-en-short|Well}})が発見された。主祠堂の中心軸の床下5.75メートルより発見されたこの石棺の下には、炭や焼けた動物の骨などが混じった土が堆積していた。そこからは[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]](''baruna''、「海の神」)と[[パルヴァタ]](''parwwata''、「山の神」)が記された小さな金板が見つかっている。石棺の大きさは41センチメートル四方、錐体形の蓋を含めた高さは55センチメートルであり、方形の各面には文字が刻まれていた。石棺には、銅板のうちに木炭、灰殻を含んだ土が堆積し、そこから[[硬貨]]20枚、[[宝石|宝玉]]9個、ガラス玉、[[貝殻]]、[[金箔]]片12枚(長方形のもの7枚、亀・蛇ナーガ・ハスの花〈または ラフレシアの一種パドマ ''[[w:Rafflesia patma|Rafflesia patma]]''〉・祭壇・卵形にかたどったもの5枚)が見つかっている<ref>{{Cite book |author=Anna A. Slaczka |title=Temple Consecration Rituals in Ancient India: Text and Archaeology |url=https://books.google.co.jp/books?id=9LznwzyNE18C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false |accessdate=2020-02-09 |year=2007 |publisher=[[w:Brill Publishers|Brill]] |location=Leiden・Boston |isbn=9789004158436 |pages=313-314}}</ref> |
|||
=== 浮彫り === |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Reliëf op de aan Shiva gewijde tempel op de Candi Lara Jonggrang oftewel het Prambanan tempelcomplex TMnr 10016191.jpg|thumb|『ラーマーヤナ』の浮彫り<br />[[ラーヴァナ]]に誘拐される[[シーター]]を禿鷹の[[ジャターユ]](左)が救おうとする場面<ref>[[#Aoyama|青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)]]、67-68・76頁</ref>]] |
|||
;『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』 |
|||
: 主要祠堂は、ヒンドゥー教の叙事詩『ラーマーヤナ』および『[[マハーバーラタ]]』の物語を伝える浮彫り(レリーフ)により装飾されている。物語の浮彫りの壁面は、3基の祠堂の回廊の欄干内壁に沿って刻まれている。 |
|||
: 欄干の壁面の説話は、左から右に描写される。物語は東の入口に始まり、参拝者は左に向けて祠堂の回廊を時計回りに周回する。これは聖所を右手にしながら時計回りに移動する巡礼者の周行の儀礼である右饒(プラダクシナ)に従っている。ラーマーヤナの物語は、シヴァ祠堂の欄干より始まり、ブラフマー祠堂まで続く。また、ヴィシュヌ祠堂の欄干には、マハーバーラタの物語を描いた浮彫りの壁面がある<ref name=dohosha_385 /><ref name=Aoyama_60 />。 |
|||
: ラーマーヤナの浮彫りには、[[ラーマ]]の妻[[シーター]]が[[ラーヴァナ]]に誘拐された物語の描写などが見られる。[[ヴァナラ]](猿)の王[[スグリーヴァ]]や[[ハヌマーン]]は一軍を率いてラーマを助け、シーターを救出する。この物語は、照らされたプランバナン寺院複合体の西側にあるラーマヤナ野外劇場などで演じられるラーマヤナ舞踏においても示されている<ref name=Borobudurpark>{{Citation |title=Prambanan |url=http://borobudurpark.com/wp-content/uploads/2019/07/BROCHURE-PRAMBANAN-in-JAPAN.pdf |format=PDF |publisher=Borobudurpark.com |language=ja}}</ref>。 |
|||
; 壁面の彫像 |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Reliëfs op de Candi Lara Jonggrang oftewel het Prambanan tempelcomplex TMnr 10030057.jpg|thumb|[[シンハ]](獅子)の両側にあるカルパタルの樹と一対のキンナラ([[緊那羅]])]] |
|||
: 説話の壁面を隔てて回廊沿いの祠堂壁には、{{仮リンク|デヴァター|en|devata}}(神像)や賢者バラモン(ブラフミン、{{lang-sa-short|brahmin}})の彫像や浮彫りが装飾されている。方位の護世神[[ローカパーラ]]の彫像はシヴァ祠堂に見られ<ref>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、102頁</ref>、[[ヴェーダ]]を編纂した賢者バラモンはブラフマー祠堂壁に刻まれている。ヴィシュヌ祠堂にはデヴァターの男神像と両側に2体の[[アプサラス]]像の見られる彫像がある。 |
|||
: これらの祠堂の外壁下面には、カルパタルの樹({{仮リンク|カルパヴリクシャ|en|Kalpavriksha}}、如意樹)を描いた2面に挟まれた[[シンハ]](獅子)の彫像などが連なり、狭い隙間に装飾されている。ヒンドゥー教や仏教の信仰により願いを叶えるこれらの聖木の両側には、キンナラ([[緊那羅]])、もしくは鳥、鹿、羊、猿、馬、象などの一対の動物が描かれる。カルパタルの樹とその間にあるシンハの構図の様式は、プランバナン寺院祠堂群において典型的なものとされる。 |
|||
<gallery widths="160"> |
|||
ファイル:Candi Prambanan - 022 Lokapala, Siva Temple (12042469003).jpg|[[ローカパーラ]]の彫像<br />(シヴァ祠堂) |
|||
ファイル:Devata and Apsaras Prambanan 10.jpg|{{仮リンク|デヴァター|en|devata}}の男神像と両側の[[アプサラス]]像<br />(ヴィシュヌ祠堂) |
|||
</gallery> |
|||
== ロロ・ジョングラン伝説 == |
|||
{{main|{{仮リンク|ロロ・ジョングラン伝説|en|Roro Jonggrang}}}} |
|||
[[ファイル:Sewu09 4.jpg|thumb|{{仮リンク|セウ寺院|en|Sewu}}<br />(左:主祠堂 右:アピット祠堂)<br />ロロ・ジョングラン伝説にまつわる「千仏寺」<ref name=shinchosha_87>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、87頁</ref>(千の寺院<ref name=Dumarçay_86>[[#Dumarçay|デュマルセ (1996)]]、86頁</ref>)として知られる]] |
|||
ロロ・ジョングランの有名な伝説は、ラトゥボコの王宮の遺跡、主祠堂の北の側室にあるドゥルガー像の由来、および近隣のセウ寺院複合体の由緒に結び付けられる。この伝説には多くの異説があるが<ref>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、248頁</ref>、一般に知られるものは、王プラブ・ボコ(Prabu Boko〈Prabu Baka〉)の娘である王女ロロ・ジョングランを見初めたバンドゥン・ボンドウォソについての物語である。バンドゥン・ボンドウォソは王女に結婚を申し入れるが、王女は、王ボコを殺害して王国を支配するバンドゥン・ボンドウォソとの結婚を拒んだ。しかし、バンドゥンは婚姻をかたくなに迫り、結婚に応じることを余儀なくされたロロ・ジョングランは、ある不可能な条件をバンドゥンに持ちかけた。それはたった一晩で千の寺院(神像)を造らねばならないというものだった。バンドゥンは思案すると多くの地の精霊を呼び起こし、これらの精霊の助けを得て999の寺院の建立をなし遂げた。バンドゥンが条件を完遂しようとした時、王女は王宮の侍女を起こして村の女に米を打ち始めるように命令し、寺院の東に火をつけて、バンドゥンや精霊に日が昇ろうとしているように思わせようと図った。それを夜明けの光や音としてだまされた雄鶏が鳴き始めると、精霊は地に逃げ去った。バンドゥンはその企てに激怒し、仕返しにロロ・ジョングランに呪いをかけて石に変えてしまった<ref name=shinchosha_96 /><ref>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、248-251頁</ref>。王女は最後の千番目の像として最も美しい石像となった。伝承によると、精霊によって造られ未完成となった千番目の寺院は、近隣にあるセウ寺院であるとされる(セウ〈''Sewu''〉はジャワ語で「千」の意<ref name=shinchosha_87 />)。王女はプランバナン寺院のシヴァ祠堂の北の側室にあるドゥルガーの像とされ<ref>[[#Iguchi|井口 (2013)]]、251頁</ref>、その像は、ロロ・ジョングランまたは「痩身の処女」として知られている<ref name=shinchosha_96・98 />。 |
|||
== プランバナン周辺の主な寺院・遺跡 == |
|||
[[ファイル:Prambanan Plain Map en.svg|thumb|270px|{{仮リンク|ケウ平原|en|Kewu Plain}}(プランバナン平野)の主な寺院・遺跡 |
|||
---- |
|||
<div style="fontsize:90%;"> |
|||
{{legend|#ffffff|ヒンドゥー教寺院}} |
|||
1. プランバナン寺院複合体<br />12. {{仮リンク|バロン寺院|en|Barong Temple}}<br />13. {{仮リンク|イジョ寺院|en|Ijo Temple}}<br />14. {{仮リンク|クドゥラン寺院|en|Kedulan}}<br />15. {{仮リンク|モランガン寺院|id|Candi Morangan}}<br />16. {{仮リンク|サンビサリ寺院|en|Sambisari}}<br />17. {{仮リンク|ゲバン寺院|en|Gebang}}<br />18. {{仮リンク|キンプラン寺院|en|Kimpulan}}(Pustakasala) |
|||
{{legend|#ffdd00|仏教寺院}} |
|||
2. {{仮リンク|ルンブン寺院|en|Lumbung}}<br />3. {{仮リンク|ブブラ寺院|id|Candi Bubrah}}<br />4. {{仮リンク|セウ寺院|en|Sewu|label=セウ寺院群}}<br />5. 北{{仮リンク|プラオサン寺院|en|Plaosan}}<br />6. 南プラオサン寺院<br />7. [[カラサン寺院]]<br />8. [[サリ寺院]]<br />9. {{仮リンク|サジワン寺院|en|Sojiwan}}<br />10. {{仮リンク|ラトゥボコ|en|Ratu Boko}}遺跡<br />11. {{仮リンク|バニュニボ寺院|en|Banyunibo}}</div>]] |
|||
ケウ平原(プランバナン平野)は、北部のムラピ火山の南斜面と南部の{{仮リンク|グヌン・セウ|en|Gunung Sewu}}の山岳地帯との間に広がり、現在のジョグジャカルタ特別州と中部ジャワのクラテン県の境界付近にまたがる。この一帯は考古学的に豊かな地域であり、古マタラム王国につながるヒンドゥー教・仏教様式の寺院群が点在する<ref>{{Cite book |author=Carlos Ramirez-Faria |title=Concise Encyclopeida of World History |url=https://books.google.co.jp/books?id=gGKsS-9h4BYC&printsec=frontcover&dq=Concise+Encyclopeida+Of+World+History&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi9uLyipc3nAhXwGaYKHfdXAw4Q6AEIKDAA#v=onepage&q&f=false |accessdate=2020-02-13 |year=2007 |publisher=[[w:Atlantic Books|Atlantic]] |isbn=978-81-269-0775-5}}</ref>。プランバナン寺院複合体(ロロ・ジョングラン寺院)のほか、ケウ平原のプランバナン周辺の渓谷や丘には、インドネシア最古のいくつかの{{仮リンク|インドネシアの宗教建築遺跡|en|Candi of Indonesia|label=仏教寺院など}}がある。点在する寺院遺跡はおよそ30を数えるとされる<ref name=heibonsha1999 />。 |
|||
プランバナン寺院とともに、あまり離れていない北側には、ルンブン寺院、ブブラ寺院、セウ寺院およびガナ寺院(アスゥ寺院)がプランバナン史跡公園内にあり、1991年、これらの寺院群がユネスコの世界遺産に登録された<ref name=unesco /><ref name=Kiyonaga />。さらに東にはプラオサン寺院がある。西側にはカラサン寺院やサリ寺院があり、さらに西には{{仮リンク|サンビサリ寺院|en|Sambisari}}がある。また、南側には高台のラトゥボコ遺跡群などがある。互いにわずか数百メートル離れた場所に点在する考古学的遺跡が見られることは、この地域が重要な宗教的、政治的かつ都の中心地であったことを示唆している。 |
|||
=== プランバナン北側 === |
|||
[[ファイル:Candi Sewu main stupa, 23 November 2013.jpg|thumb|upright|セウ寺院の主祠堂]] |
|||
; {{仮リンク|ルンブン寺院|en|Lumbung}}(チャンディ・ルンブン、{{lang-id-short|Candi Lumbung}}) |
|||
: 仏教寺院。セウ寺院よりそれほど遠くない位置にある<ref name=Ariswara_34・51>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 34 51</ref>。主祠堂とそれを取り囲む16基の小祠堂(プルワラ祠堂)からなる<ref>[[#Degroot|Degroot (2009)]] p. 169</ref><ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-jawa_tengah-candi_lumbung |year=2014 |title=Candi Lumbung |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|ブブラ寺院|id|Candi Bubrah}}(チャンディ・ブブラ、{{lang-id-short|Candi Bubrah}}) |
|||
: 仏教寺院。プランバナン寺院(ロロ・ジョングラン寺院)の北約1キロメートルに位置する<ref name=TribunJogja>{{Cite web |url=http://jogja.tribunnews.com/2017/12/15/candi-bubrah-kini-cantik-rehab-4-tahun-habis-rp-1313-m |title=Candi Bubrah Kini Cantik, Rehab 4 Tahun Habis Rp 13,13 M |date=2017-12-15 |website=[[:id:Tribun Jogja|Tribun Jogja]] |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。ブブラ〈''Bubrah''〉はジャワ語で「壊れた」の意であり、かつての状態によるともされるが<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-jawa_tengah-candi_bubrah |year=2014 |title=Candi Bubrah |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>、[[2013年|2013]]-[[2017年]]に調査および修復がなされた<ref name=TribunJogja />。 |
|||
; {{仮リンク|セウ寺院|en|Sewu}}(チャンディ・セウ、{{lang-id-short|Candi Sewu}}) |
|||
: 仏教寺院。プランバナン寺院の北約1.5キロメートルに位置する<ref>[[#Takasugi|高杉 (2001)]]、336頁</ref>。プランバナン寺院より古く、8世紀末<ref name=dohosha_253>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、253頁</ref>、サンジャヤ王統の第2代王ラカイ・パナンカランの時代のものといわれ、発見された{{仮リンク|マンジュスリグラ碑文|en|Manjusrigrha inscription}}(「mañjuśrīgŗha〈文殊師利祠堂〉」刻文<ref>{{Cite journal |和書 |author=石井和子 |year=1992 |title=ボロブドゥールと『初会金剛頂経』 - シャイレーンドラ朝密教受容の一考察 |journal=東南アジア - 歴史と文化 |issue=2 |pages=3-29 |publisher=東南アジア学会 |doi=10.5512/sea.1992.3 |naid=130003704271 |url=https://doi.org/10.5512/sea.1992.3 |accessdate=2020-02-13}}</ref>)により[[792年]]に完成したとされる<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-jawa_tengah-candi_sewu |year=2014 |title=Candi Sewu |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-13}}</ref>。中央の主要祠堂は240基もの小祠堂に取り囲まれ<ref name=shinchosha_87 /><ref name=Dumarçay_86 />、その規模はインドネシアの仏教寺院としてボロブドゥール寺院に次いで大きい<ref name=dohosha_253 />。 |
|||
: セウ寺院の東約300メートルには、仏教寺院のガナ寺院(チャンディ・ガナ、{{lang-id-short|Candi Gana}}〈チャンディ・アスゥ、{{lang-id-short|Candi Asu}}〉)の基部の遺構が残存する<ref>[[#Degroot|Degroot (2009)]] p. 228</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|プラオサン寺院|en|Plaosan}}(チャンディ・プラオサン、{{lang-id-short|Candi Plaosan}}) |
|||
: 仏教寺院複合体<ref name=nhk_129 />。セウ寺院の東約1.5キロメートルに位置する<ref name=plaosan>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-jawa_tengah-candi_plaosan |year=2014 |title=Candi Prambanan |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-18}}</ref>。9世紀中頃、仏教のシャイレーンドラ朝の王女で、ヒンドゥー教の古マタラム王国(サンジャヤ王統)に嫁いだ王妃のために王ラカイ・ピカタンにより建立された<ref name=Ariswara_34・51 /><ref>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、91・94頁</ref>。北プラオサン寺院(チャンディ・プラオサン・ロル<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、273頁</ref>、{{lang-id-short|Candi Plaosan Lor}}〈''Lor'' はジャワ語で「北」の意 〉)と南プラオサン寺院(チャンディ・プラオサン・キドゥル、{{lang-id-short|Candi Plaosan Kidul}}〈''Kidul'' はジャワ語で「南」の意 〉)の2つの主要寺院があり<ref name=plaosan />、小祠堂や紡錘形を持つ[[仏塔]](ストゥーパ)などが配列されている<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、381頁</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|モランガン寺院|id|Candi Morangan}}(チャンディ・モランガン、{{lang-id-short|Candi Morangan}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。ジョグジャカルタより約24キロメートルの距離にある。9-10世紀のものとされるこの寺院遺跡は、現在深さ2.5メートルにあり、[[1884年]]に発見された当初は、ムラピ山の火山活動の影響により半ば埋没していた<ref>{{Cite web |url=https://travel.kompas.com/read/2019/01/16/140404527/candi-morangan-reruntuhan-masa-lalu-di-selatan-merapi?page=all |title=Candi Morangan, Reruntuhan Masa Lalu di Selatan Merapi |date=2019-01-16 |website=Kompas.com |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
<gallery widths="160"> |
|||
ファイル:Main temple, Lumbung, 23 November 2013 (2).jpg|ルンブン寺院の主祠堂 |
|||
ファイル:Candi Bubrah 2019 corner crop.jpg|修復されたブブラ寺院 |
|||
ファイル:Candi Plaosan Lor (North Plaosan Temple) from Klaten, Central Java, Indonesia 05.jpg|北プラオサン寺院 |
|||
ファイル:Reruntuhan Candi Morangan.jpg|モランガン寺院の遺構 |
|||
</gallery> |
|||
=== プランバナン南側 === |
|||
[[ファイル:Sajiwan main.JPG|thumb|サジワン寺院の主祠堂]] |
|||
[[ファイル:Kraton Ratu Boko (Ratu Boko Temple) in Yogyakarta, Indonesia 13.jpg|thumb|ラトゥボコ丘の門]] |
|||
; {{仮リンク|サジワン寺院|en|Sojiwan}}(チャンディ・サジワン、{{lang-id-short|Candi Sojiwan}}) |
|||
: 仏教寺院。プランバナン寺院の南<ref name=Ariswara_35・51>[[#Ariswara|Ariswara (1994)]], pp. 35 51</ref>(南東)約2キロメートルに位置する。基壇には物語として教えを説く浮彫りや動物寓話で装飾されている<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-jawa_tengah-candi_sajiwan_56 |year=2014 |title=Candi Sajiwan |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。サジワン寺院の名は、王ラカイ・ピカタンの妻ラクリヤン・サンジワナ(Rjakriyan Sanjiwana〈別名{{仮リンク|プラモダワルダニ|en|Pramodhawardhani|label=スリ・プラモダワルダニ}}<!--脚注資料による-->〉)に由来すると伝えられる<ref name=Ariswara_35・51 />。 |
|||
: サジワン寺院の南約80メートルにあるカロンガン寺院(チャンディ・カロンガン、{{lang-id-short|Candi Kalongan}})は、サジワンと南北一対の複合体をなしていた<ref>[[#Degroot|Degroot (2009)]] pp. 243-244</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|ラトゥボコ|en|Ratu Boko}}({{lang-id-short|Ratu Boko〈Ratu Baka〉}}) |
|||
: [[凝灰岩]]質の丘陵<ref name=dohosha_442>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、442頁</ref>。史跡公園の南約2キロメートルにある<ref name=Takasugi_338>[[#Takasugi|高杉 (2001)]]、338頁</ref>。丘の上には8-9世紀頃に建立されたと考えられる<ref name=Takasugi_338 />王宮(クラトン)があったとされ、門、{{仮リンク|プンドポ|en|Pendhapa}}({{lang-id-short|Pendopo}})<ref name=dohosha_442 />、城壁、堀のほか、小祠堂、沐浴場などのラトゥボコ遺跡が認められる<ref>{{Cite web |url=http://jalanx2.info/item/ratu-boko/ |title=ラトゥ・ボコ遺跡 |website=Jalan2 |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|バニュニボ寺院|en|Banyunibo}}(チャンディ・バニュニボ、{{lang-id-short|Candi Banyunibo}}) |
|||
: 仏教寺院。バロン寺院より約200メートルの距離にある。屋蓋の上部に仏塔を持つ主祠堂が復元されている<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_banyuniba |year=2014 |title=Candi Banyuniba |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|バロン寺院|en|Barong Temple}}(チャンディ・バロン、{{lang-id-short|Candi Barong}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。丘陵の斜面に位置する。碑文の解釈により9世紀に建立されたものと考えられている。段丘状の3段の寺苑がある<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_barong |year=2014 |title=Candi Barong |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|イジョ寺院|en|Ijo Temple}}(チャンディ・イジョ、{{lang-id-short|Candi Ijo}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。ラトゥボコ遺跡の南側の丘に位置する。10-[[11世紀]]に建立されたと考えられ、修復された主祠堂内にヨニが残存する<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_ijo |year=2014 |title=Candi Ijo |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
: これらラトゥボコ周辺の寺院遺跡よりさらに南側の村{{仮リンク|ジョゴティルト|id|Jogotirto, Berbah, Sleman}}に位置する丘の上に、ヒンドゥー教寺院の{{仮リンク|アバン寺院|id|Candi Abang}}(チャンディ・アバン、{{lang-id-short|Candi Abang}})の[[赤煉瓦]]による遺構が認められる<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_abang_55 |year=2014 |title=Candi Abang |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
<gallery widths="160"> |
|||
ファイル:The main temple of Banyunibo.jpg|バニュニボ寺院の主祠堂 |
|||
ファイル:Barong09 4.jpg|バロン寺院 |
|||
ファイル:Main temple at Candi Ijo, Sleman, Yogyakarta, 2014-05-31.jpg|イジョ寺院の主祠堂 |
|||
ファイル:Abang09 4 1.jpg|アバン寺院の丘 |
|||
</gallery> |
|||
=== プランバナン西側 === |
|||
[[ファイル:Candi Kalasan, Java 1122.jpg|thumb|カラサン寺院]] |
|||
[[ファイル:sari09_4.jpg|thumb|サリ寺院]] |
|||
; [[カラサン寺院]](チャンディ・カラサン、{{lang-id-short|Candi Kalasan}}) |
|||
: 仏教寺院。プランバナン寺院の南西約2キロメートルに位置する<ref>[[#Takasugi|高杉 (2001)]]、332頁</ref>。この村で発見された{{仮リンク|カラサン碑文|en|Kalasan inscription}}により<ref name=shinchosha_86>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、86頁</ref>、778年にシャイレーンドラ朝と古マタラム王国(サンジャヤ王統)の両王家により建立されたことが知られる。現在に見られる祠堂は9世紀中頃に増築されたもので<ref>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、115頁</ref>、精細に彫られた鬼面{{仮リンク|カーラ (サンスクリット)|en|Kaal|label=カーラ}}などの浮彫りにより装飾されている<ref name=shinchosha_86 />。 |
|||
; [[サリ寺院]](チャンディ・サリ、{{lang-id-short|Candi Sari}}) |
|||
: 仏教寺院。カラサン寺院のすぐ北側に位置する<ref>[[#shinchosha|伊東 (1992)]]、86-87頁</ref>。カラサン寺院と同じく8世紀の王ラカイ・パナンカランの時代に建立されたと考えられる<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_sari |year=2014 |title=Candi Sari |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-13}}</ref>。[[僧院]]([[僧房]]、または[[経蔵]]<ref name=nhk_128>[[#nhk|鈴木 「中部ジャワの遺跡」『NHK美の回廊をゆく 2』 (1991)]]、128頁</ref>)であったとされるほか<ref name=dohosha_189>[[#dohosha|『インドネシアの事典』 (1991)]]、189頁</ref>、仏像を礼拝するためにあったともいわれる<ref>[[#Dumarçay|デュマルセ (1996)]]、89頁</ref>。上部に仏塔(ストゥーパ)飾りが3列に並び<ref name=nhk_128 />、その下に各3室が並ぶ2段の階層がある<ref name=dohosha_189 />。 |
|||
; {{仮リンク|クドゥラン寺院|en|Kedulan}}(チャンディ・クドゥラン、{{lang-id-short|Candi Kedulan}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。カラサン寺院の約3キロメートルに位置する。1993年に砂鉱夫によって地下4メートルより発見された。主祠堂の基部が認められるが、いまだ副次的な祠堂などは完全に発掘されていない<ref>{{cite web |url=https://www.yogyes.com/id/yogyakarta-tourism-object/candi/kedulan/ |title=CANDI KEDULAN Teka-Teki Bendungan Kuno di Dekatnya |date=2018-08-31 |publisher=yogyes.com |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|サンビサリ寺院|en|Sambisari}}(チャンディ・サンビサリ、{{lang-id-short|Candi Sambisari}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。プランバナン史跡公園の南西約10キロメートル<ref>[[#Takasugi|高杉 (2001)]]、340頁</ref>、ジョグジャカルタの東12キロメートルに位置する。9世紀前半とされる寺院。[[1966年]]に発見された当初、寺院は地下6.5メートルに埋没していた。主祠堂内にはリンガとヨニがあり、その外壁にはドゥルガー、ガネーシャ、アガスティヤの像が見られる<ref>{{Cite web |url=http://jalanx2.info/item/candi-sambisari/ |title=サンビサリ寺院遺跡 |website=Jalan2 |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|ゲバン寺院|en|Gebang}}(チャンディ・ゲバン、{{lang-id-short|Candi Gebang}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。ジョグジャカルタ郊外約11キロメートルに位置する。[[1936年]]に寺院の一部であったガネーシャ像が発見され、1937-[[1939年]]に寺院の発掘と修復がなされた。寺院構造により[[730年|730]]-[[800年]]に構築されたと考えられる。ガネーシャ像のほか、屋蓋部分に特徴的な装飾が認められる<ref>{{cite web |url=https://candi.perpusnas.go.id/temples/deskripsi-yogyakarta-candi_gebang |year=2014 |title=Candi Gebang |website=Kepustakaan Candi |publisher=Perpustakaan Nasional Republik Indonesia |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 |
|||
; {{仮リンク|キンプラン寺院|en|Kimpulan}}(チャンディ・キンプラン、{{lang-id-short|Candi Kimpulan}}) |
|||
: ヒンドゥー教寺院。ジョグジャカルタにある[[インドネシア・イスラム大学]]中央図書館の敷地内に位置する。2009年に地下2.1メートルより発見され<ref>{{cite web |url=https://www.yogyes.com/id/yogyakarta-tourism-object/candi/kimpulan/ |title=CANDI KIMPULAN Candi yang Rinci di Perguruan Tinggi UII |date=2018-10-24 |website=Yogyes.com |language=id |accessdate=2020-02-09}}</ref>、主祠堂と副祠堂の基部などが発掘されている<ref>[[#Degroot|Degroot (2009)]] p. 427</ref>。 |
|||
<gallery widths="160"> |
|||
ファイル:2019 Kedulan panorama Pj DSC 6162min.jpg|クドゥラン寺院 |
|||
ファイル:Candi Sambisari main temple 2013-11-28 03.jpg|サンビサリ寺院の主祠堂 |
|||
ファイル:Gebang Temple, west-south-west view 02.jpg|ゲバン寺院 |
|||
ファイル:Pustakasala 1.jpg|キンプラン寺院の発掘<br />(2010年2月) |
|||
</gallery> |
|||
== 登録基準 == |
|||
{{世界遺産基準|1|4}} |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{Reflist|2}} |
|||
<references /> |
|||
== |
== 参考文献 == |
||
* {{Cite book |和書 |editor=[[石井米雄]]監修 |title=インドネシアの事典 |year=1991 |publisher=[[同朋舎|同朋舎出版]] |series=東南アジアを知るシリーズ |isbn=4-8104-0851-5 |ref=dohosha}} |
|||
*[[インドネシアの世界遺産]] |
|||
* {{Cite book |和書 |author=NHK取材班ほか |title=NHK美の回廊をゆく 東南アジア至宝の旅 2 |year=1991 |publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]] |isbn=4-14-009156-8 |ref=nhk}} |
|||
*[[世界遺産の一覧 (アジア)]] |
|||
* {{Cite book |和書 |author=伊東照司 |coauthor=田枝幹宏 |title=ボロブドール遺跡めぐり |year=1992 |publisher=[[新潮社]] |series=とんぼの本 |isbn=4-10-602006-8 |ref=shinchosha}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=ジャック・デュマルセ (Jacques Dumarçay) |translator=藤木良明 |editor=[[西村幸夫]]監修 |title=ボロブドゥール |origyear=1978, 1991〈改訂版〉 |year=1996 |publisher=学芸出版社 |isbn=4-7615-2147-3 |ref=Dumarçay}} |
|||
* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 1 原史東南アジア世界 |year=2001 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-011061-6 |ref=iwanami1}} |
|||
* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 2 東南アジア古代国家の成立と展開 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011062-4 |ref=iwanami2}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=高杉等 |year=2001 |title=東南アジアの遺跡を歩く |publisher=[[めこん]] |isbn=4-8396-0144-5 |ref=Takasugi}} |
|||
* {{Cite journal |和書 |author=瀬川真平 |date=2007-10 |title=震災害後の遺産観光 - ジャワ島中部地域の調査から |journal=立命館大学人文科学研究所紀要 |issue=89 |pages=149-168 |publisher=[[立命館大学]]人文科学研究所 |url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no89_06.pdf |format=PDF |ref=Segawa}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=伊東照司 |title=東南アジア美術史 |year=2007 |publisher=[[雄山閣]] |isbn=978-4-639-02006-6 |ref=Ito}} |
|||
* {{Cite book |和書 |editor=[[桃木至朗]](代表) |title=新版 東南アジアを知る事典 |year=2008 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4-582-12638-9 |ref=heibonsha}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author1=鳴海邦碩 |author2=小浦久子 |authorlink1=鳴海邦碩 ||title=失われた風景を求めて - 災害の復興、そして景観 |year=2008 |publisher=[[大阪大学出版会]] |isbn=978-4-87259-239-9 |ref=Narumi,Koura}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=井口正俊 |title=ジャワ探求 - 南の国の歴史と文化 |year=2013 |publisher=丸善プラネット |isbn=978-4-86345-174-2 |ref=Iguchi}} |
|||
* {{Cite book |和書 |editor=吉野ゆり子、八尾師誠、千葉敏之編 |title=画像史料論 世界史の読み方 |year=2014 |publisher=[[東京外国語大学出版会]]|isbn=978-4-904575-32-1 |ref=Aoyama}} |
|||
* {{Cite journal |和書 |author=上北恭史 |date=2016-11 |title=プランバナン遺跡の修理と国際協力(インドネシア)|journal=世界遺産学研究 |volume=2 |pages=16-26 |publisher=[[筑波大学]]世界遺産専攻 |issn=2189-4728 |url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=39727&file_id=17&file_no=1 |format=PDF |ref=Uekita}} |
|||
* {{Cite book |author=Ariswara |others=Lenah Matius (English translation), Budi Lestari et Gilles Guerard (Translation franςaise), シータ・ダマヤンティ(翻訳) |title=Prambanan |origyear=1990 |edition=4th |year=1994 |publisher=PT Intermasa |location=Jakarta |isbn=979-8114-57-4 |ref=Ariswara}} |
|||
* {{Cite book |author=Véronique Degroot |title=Candi, Space and Landscape |url=https://books.google.co.jp/books?id=u2HzduME8OcC&printsec=frontcover&dq=Candi,+Space+and+Landscape:+A+Study+on+the+Distribution,+Orientation+and&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiojcDdqLznAhXnyosBHVScCYQQ6AEIKDAA#v=onepage&q&f=false |accessdate=2020-02-09 |year=2009 |publisher=Sidestone Press |isbn=978-90-8890-039-6 |ref=Degroot}} |
|||
* {{Citation |author=Subhash Kak |authorlink=w:Subhash Kak|Subhash Kak |title=Space and order in Prambanan |url=http://www.hinduwisdom.info/prambanan_chapter.pdf |format=PDF |ref=Kak}}. In {{Cite book |editor=Manju Shree |title=From Beyond The Eastern Horizon: Essays In Honour Of Professor Lokesh Chandra |year=2011 |publisher=[[w:Aditya Prakashan|Aditya Prakashan]] |location=Delhi |isbn=978-8177421095}} |
|||
== |
== 関連項目 == |
||
* [[インドネシアの世界遺産]] |
|||
* [[世界遺産の一覧 (アジア)]] |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{Commonscat|Prambanan}} |
{{Commonscat|Prambanan}} |
||
* {{Citation |url=https://web.archive.org/web/20151008070755/http://borobudurpark.com/the-prambanan-temple/ |title=The Prambanan Temple |publisher=PT Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko}} |
|||
*[http://ko1-w.hp.infoseek.co.jp/indonesia/pramban.html ロロ・ジョングラン] |
|||
* {{Citation |url=https://artsandculture.google.com/partner/pt-taman-wisata-candi-borobudur-prambanan-dan-ratu-boko |title=PT. Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko |work=Google Arts & Culture}} |
|||
*[http://yakkumcraftjapan.web.fc2.com/Prambanan.html プランバナン・コンプレックス] |
|||
* {{Citation |url=https://www.youtube.com/watch?v=_onpsWOkhq0 |title=Prambanan Temple Compounds (UNESCO/NHK) |work=[[YouTube]]}} |
|||
{{インドネシアの世界遺産}} |
|||
{{indonesia-stub}} |
{{indonesia-stub}} |
||
{{インドネシアの世界遺産}} |
|||
{{Hinduism2}} |
{{Hinduism2}} |
||
{{Authority control}} |
{{Authority control}} |
||
{{DEFAULTSORT:ふらんはなんしいんくん}} |
|||
{{デフォルトソート:ふらんはなんしいんくん}} |
|||
[[Category:ヒンドゥー教の遺跡]] |
[[Category:ヒンドゥー教の遺跡]] |
||
[[Category:インドネシアの世界遺産]] |
[[Category:インドネシアの世界遺産]] |
2020年2月28日 (金) 09:30時点における版
座標: 南緯7度45分8秒 東経110度29分30秒 / 南緯7.75222度 東経110.49167度
| |||
---|---|---|---|
英名 | Prambanan Temple Compounds | ||
仏名 | Ensemble de Prambanan | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (1), (4) | ||
登録年 | 1991年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
プランバナン寺院群(プランバナンじいんぐん、英: Prambanan Temple Compounds)は、インドネシアのジャワ島中部にある9世紀のヒンドゥー教寺院のプランバナン寺院(チャンディ・プランバナン、ジャワ語: ꦕꦤ꧀ꦝꦶꦥꦿꦩ꧀ꦧꦤꦤ꧀, Candhi Prambanan、尼: Candi Prambanan)、別名ロロ・ジョングラン寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン、ジャワ語: ꦫꦫꦗꦺꦴꦁꦒꦿꦁ、尼: Candi Roro Jonggrang〈Candi Rara Jonggrang〉)を中心とした遺跡群である。地区村名であるプランバナンは、ジョグジャカルタ特別州の州都ジョグジャカルタ市の東約17キロメートル (11mi) の[1]中部ジャワ州との境界に位置する[2][3]。
ヒンドゥー教寺院と仏教寺院からなるプランバナン寺院群は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されており[3]、これらの寺院遺跡はインドネシア語およびジャワ語でチャンディ (Candi) として知られる。その中心となるプランバナン寺院はインドネシア最大のヒンドゥー教寺院である[2][4]。
プランバナン寺院は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの三大神を三神一体とするトリムルティ(Trimurti〈トリムールティ、梵: Trimūrti〉[5])に捧げられ、ヒンドゥー教建築における高いピラミッド状の尖塔と各祠堂による一大複合体のなかにそびえ立つ、高さ47メートル (154ft) の中央の祠堂建築により特徴づけられる[4][6]。
プランバナン寺院
寺院群のなかで中心的構造物であるプラバナン寺院は、古マタラム王国(サンジャヤ王統[7]、8-10世紀初頭[8])の時代に建立された。その後、16世紀の大地震で多くが崩壊し[9]、その存在はほとんど忘れ去られていたが、再発見の後、19世紀には発掘が始まり、20世紀になると遺跡の修復作業が開始された。このプランバナン寺院はインドネシア最大級であり、仏教遺跡のボロブドゥール寺院とともにジャワ建築の最高作の1つとされる[10]。
歴史
創建
プラバナン寺院は、古代ジャワ最大のヒンドゥー教寺院であり、碑文によると当初の建造物は9世紀中頃に完成した[10]。ただし着工された年代については諸説あり、プラバナン寺院を完成させた王ダクサ(913-915年頃[11])[12]または王バリトゥン(898-910年頃[11])によるという説のほか、王ラカイ・ピカタン(842年頃-856年[11][13])の時代とする新説があり[2]、835-856年ともいわれる[14]。刻文史料の解釈により、おそらくサンジャヤ王統は第2代王ラカイ・パナンカラン(760-780年頃[13])の時代より、仏教のシャイレーンドラ朝の支配のもとにあったが、この時代に第6代王ピカタンが[15]、戦いによってジャワの支配権を回復したとされる[16]。この巨大なヒンドゥー教寺院の建設は、マタラムの王室が大乗仏教からヒンドゥー教(ヒンドゥー・マタラム)に移行したことを意味する。さらに着工の年代は8世紀末までさかのぼるとする説もあり[10]、プラバナン寺院は、仏教のシャイレーンドラ朝のボロブドゥール寺院やプランバナンに近いセウ寺院(チャンディ・セウ、尼: Candi Sewu)と同年代に、ヒンドゥー教のサンジャヤ王統により造営されたともいわれている[10]。
西暦856年のシワグルハ碑文[16](尼: Prasasti Siwagrha)によると[17]、この寺院はシヴァ(シワ、尼: Siwa)に捧げられ、当初はシワグルハ(尼: Siwagrha、梵: Shiva-grha、「シヴァの家」)またはシワラヤ(尼: Siwalaya、梵: Shiva-laya、「シヴァの地」)と称された[18]。この碑文によれば、プラバナン寺院付近の川の流路を変える工事が、寺院の建設のうちに着手された[19]。オパック川として知られるこの川は、今日、プランバナン寺院の西側を南北に流れるが[19]、かつての川は、より東の寺苑内を流れていたものと考えられる[20]。この造成において、プラバナン寺院の外壁の南北軸に流れる川はせき止められ、かつての川の流路は寺院拡張による広い敷地を設けるために埋め慣らされて、小祠堂のプルワラ(尼: Perwara)が並ぶ寺苑となった。
プランバナン寺院の主祠堂中央の聖室(ガルバグリハ〈Garbhagriha〉)に安置されるシヴァ像は、王ピカタンの肖像であるとされ[21]、王の遺骨が台座の9メートル下に納められたといわれるほか[4]、像は王バリトゥンをかたどるもので、王の死後、自身を神格化する肖像としての役割を果たしたともされる[22][23]。
寺苑は、王ダクサやトゥロドン(919-921年頃[11])など歴代のマタラム王により拡張され、主要な祠堂の周囲に何百基もの小祠堂が追加された。そびえ立つ中央の主祠堂は高さ47メートルであり、広大な周壁に囲まれる240基の構造物からなる寺院複合体において、トリムルティのシヴァ祠堂(チャンディ・シワ、尼: Candi Siwa)は、当時、最も高く壮大なものであった。プランバナン寺院はマタラム王国の王室寺院としての役割を果たし、宗教儀式や供犠のほとんどはここで行われた。王国の最盛期には、寺院の外壁内に何百人ものバラモンが弟子とともに住んでいたと推定されている。古マタラム王国の都の位置は不明であるが[11][24]、都の中心地およびマタラムの王宮(クラトン[25])は、およそケウ平原(プランバナン平野[26])辺りであったと考えられており、平野部に突き出たラトゥボコ(尼: Ratu Boko〈Ratu Baka〉)の丘に残るボコ遺跡(尼: Candi Boko)が[26]、9世紀後半[11]頃の王宮の跡であるとされる[10]。
荒廃
10世紀前半の[27]928-929年頃に、都はイシャナ朝(クディリ朝)を創設したムプ・シンドク(929-948年頃[11])により東ジャワに移された[28]。その遷都の理由には諸説あるが[27]、中部ジャワのプランバナンの北に位置するムラピ山の噴火や宗教的対立などにより東遷におよんだものと考えられている[28]。それによりプランバナン寺院群の衰退がもたらされ、寺院はやがて見捨てられ荒廃していった。
寺院群は1600年頃(1549年[29])の大地震により崩壊した[2]。寺院はもはや崇拝における中心的要地ではなかったが、一帯に点在する遺構がなおも認められ、後世の地元のジャワ人に知られていた。その遺構や彫像は、ロロ・ジョングラン伝説の主題や発想の源となった。周囲のジャワの村民は、正式に再発見される以前より寺院の遺構について知っていたが、それらがいつの王朝の支配期のものか、いずれの王がその記念碑的建造を命じたかなどの歴史的背景については認識していなかった。それにより地元の住人は、大男と呪われた王女の神話を取り入れて、寺院の由緒を説く物語や伝説を創作し、プランバナン寺院およびセウ寺院に見事な由緒を与えた。その王女ロロ・ジョングラン(「痩身の処女」の意[30])の伝説によると、これらの寺院はバンドゥン・ボンドウォソ[21] (Bandung Bondowoso) のもと、多くの精霊により一夜のうちに建造されたといわれる。
再発見
プランバナン寺院の存在は、1733年[29]、オランダ東インド会社(オランダ語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称: VOC)のロンス (Cornelius Antonie Lons) により初めて報告された[31][32]。1755年のマタラム王国(新マタラム王国)分割の後[11]、寺院の遺構とオパック川は、ジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の王家の境域を画定するために用いられ、ジョグジャカルタと中部ジャワ間の現在の境界として選定された。
プランバナン寺院は、19世紀初頭に国際的に注目されるようになった。1811年、短いオランダ領東インドのイギリスの占領時代に、スタンフォード・ラッフルズのもと、調査員であったコリン・マッケンジーがたまたま寺院に行き当たった。次いでラッフルズは遺跡の全面調査を命じている。その後、ラッフルズは、『ジャワ誌』(“The History of Java”、1817年)[33][34]において、「それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え、多量のさまざまの種類の樹木や草で覆われている。現在の荒廃した状態において、これらの尊い建物の正確な計画図あるいはもとの配置とか大きさ、また数や形を得ることは非常に困難である」と記している[35]。
それらは数十年にわたって放置されたままであった。オランダ人居住者は装飾品として彫刻を持ち去り、また土地の住人らは建設資材にその礎石を使用していた[36]。1885年よりアイゼルマン (Jan Willem IJzerman) が考古学的調査を開始したが[31]、その緩慢な発掘により略奪を容易にした。
修復
20世紀になって、ファン・エルプ (Theodoor van Erp) やドゥ・ハーン (De Haan) らによる研究がなされた[31]。1918年にオランダ植民地政府はシヴァ祠堂の修復に着手し[20]、1930年には相応の修復が開始され[2]、1937年よりオランダ領東インド考古局のもとで着工された本格的な修復工事は、その後、大東亜戦争による1943-1945年の日本の軍政期を経て継続された[9][31]。中央のシヴァ祠堂の修復は、インドネシアが独立し、スカルノ大統領就任後の1953年になって完成した[2][31]。もとの石積みの多くは盗まれ、遠方の建築地で再利用されていたことから、修復はかなり妨げられた。インドネシア政府は寺院複合体の規模を考慮し、もとの石積みの少なくとも75パーセントが利用できる場合のみ寺院遺跡を再構するという決定をした。
政府により、1977-1987年にブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ〈ブラーマ〉、尼: Candi Brahma)が修復され、1982-1991年にヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ、尼: Candi Wishnu)が修復された[9]。その後、1991-1993年にかけて、ヴァーハナ(尼: Wahana)のナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ、尼: Candi Nandi)、ガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ、尼: Candi Garuda〈チャンディ・A[2]〉)、ハンサ祠堂(チャンディ・ハンサ、尼: Candi Hamsa〈チャンディ・B[2]〉)が修復された[37]。修復の取り組みは今日もなお続いている。しかし、現在もほとんどの小祠堂はそれらの基礎が認められるのみである。
1990年代初頭、政府は寺院の近くにできた市場を移転させ、史跡公園として周囲の村落や水田を再開発した。公園は、南の幹線道路(ジョグジャカルタ-ソロ〈スラカンタ〉)からプランバナン寺院複合体の全体、ルンブン寺院(チャンディ・ルンブン、尼: Candi Lumbung)やブブラ寺院(チャンディ・ブブラ、尼: Candi Bubrah)の遺跡、さらに北側のセウ寺院を取り囲む広い地域におよんでいる。そして1991年、プランバナン寺院群として国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された[3]。1992年にインドネシア政府は「ボロブドゥール・プランバナン・ラトゥボコ遺跡観光公園有限会社[38]」(“PT Taman Wisata Candi Borobudur, Prambanan, dan Ratu Boko”)という国有有限責任企業 (ペルセロ、Persero) を設立した。この事業体は、インドネシアにおいて人気の高い観光名所であるボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコとその周辺地域の公園を管理する機関である。
2006年5月27日に起きたジャワ島中部地震においては、プランバナンも甚大な被害を受けた[20][39]。寺院複合体は構造的に大きく損なわれることはなかったが[40][41]、祠堂の小塔部の落下および石積みの亀裂や歪みなどの損傷が多く認められ[20]、彫刻を含む大きな破片が地面に散乱していた[42]。数週間後のうちに訪問者の苑内への入場は再開されたが、寺院の祠堂などは損傷部位の安全性が確保されるまで閉鎖された[43]。
地震発生よりおよそ2か月後には、インドネシア政府の要請により日本からの調査団が派遣された[44]。日本の第2次調査団が派遣された2007年[44]より修復作業が開始され[45]、同年3月には、プランバナン遺跡の修復専門機関であるジョクジャカルタ特別州考古学局に対し、日本からも修復機材を購入するための補助資金が供与された[44]。
2009年1月にはナンディ祠堂の修復が完了した [46]。その後、2012年に「中部ジャワ古代遺物保存局」 (Balai Pelestarian Peninggalan Purbakala Jawa Tengah 〈BP3〉、英: Central Java Heritage Preservation Authority) は、プランバナンおよび周辺地域を保護区とするように提案した。挙げられた地域は、プランバナン、ラトゥボコ、カラサン、サリ、プラオサンなど地域の主要な寺院があるスレマン県とクラテン県にまたがる30平方キロメートルのケウ平原(プランバナン平野)に位置する。この保護区においては、多くの新たな建造物、特に複数階建ての建築物をなくすよう求められた[47]。
2014年2月14日、ボロブドゥール、プランバナン、ラトゥボコなど、ジョグジャカルタおよび中部ジャワの主な観光名所は、前夜に噴火したジョグジャカルタの東方約200キロメートルに位置する東ジャワのケルート山の火山灰により、深刻な影響を受けて閉鎖された[48][49]。その後、ボロブドゥールは2月26日より、プランバナン、ラトゥボコなどの訪問も28日には再開された[50]。その4年前の2010年、ボロブドゥールに影響を与えたムラピ山の噴火における火山灰においては[51]、風や降灰の方向が西向きであったため、プランバナンは影響を免れていた。
催事・式典
プランバナンは、インドネシアにおいて最も訪問される観光名所の1つである。オパック川を渡った寺院西側の屋外(ラーマヤナ野外劇場)および屋内(トリムルティ屋内劇場)の舞台は、伝統的な叙事詩『ラーマーヤナ』の舞踏を上演するために建設された。ラーマヤナ野外劇場は乾季(5-10月)に使用され、雨季(11-4月)にはトリムルティ屋内劇場において上演される。このラーマーヤナのジャワ舞踊ワヤン・オラン(Wayang orang、ワヤン・ウォン〈Wayang wong〉)は、何世紀にもわたるジャワ宮廷の舞踏であり[52]、プランバナンでは、1960年代より満月の夜ごとに上演されてきた。以来、プランバナンはインドネシアにおける主要な考古学的、文化的観光名所となっている。
1990年代に主要な祠堂が再建されると、プランバナンはジャワのヒンドゥー教の礼拝や儀式の主要な宗教的中心地として再興していった。バリ島およびジョグジャカルタや中部ジャワにおけるジャワ島のヒンドゥー教共同体は、ガルンガン (Galungan)、タウール・クサンガ (Tawur Kesanga)、ニュピ (Nyepi) など、毎年執り行なう祝祭をプランバナンにおいて復活させた[53]。
2019年11月9日から12日にかけて、本寺院の苑内で盛大なアビシェーカ(Abhiṣeka、灌頂)という宗教的儀式が催された。このヒンドゥー教の儀式は、プランバナン寺院が創建されたシワグルハ碑文の856年から、1163年の時を経て初めて開催された[54]。アビシェーカの式典は、寺院を祓い、清め、浄化することを意図したものであり、このようにプランバナン寺院は、単に考古学や観光の場所ではなく、ヒンドゥー教の宗教活動の拠点としての当初の機能の回復を示している[55]。このアビシェーカの式典により、インドネシアのヒンドゥー教においては、寺院内を再び聖別し、プランバナン寺院の霊力復興の節目を迎えたと捉えられている[56]。
寺苑・祠堂群
かつてプランバナン寺院には240基の祠堂が立ち並んでいた[57]。
- プランバナン寺院複合体の祠堂群
- トリムルティ(三神一体)祠堂 : 3基 - シヴァ(中央)、ヴィシュヌ(北)、ブラフマー(南)の三大神に捧げられた3基の主要な祠堂[58]。
- ヴァーハナ祠堂 : 3基 - 各神のヴァーハナ(乗り物)であるナンディ(中央)、ガルーダ (北)、ハンサ(南)に捧げられた三大神の祠堂の前にある3基の祠堂[58]。
- アピット祠堂 : 2基 - トリムルティの祠堂とヴァーハナの祠堂の列の間に位置する内苑北側と南側にある2基の小祠堂。
- クリル祠堂 : 4基 - 内苑の主要な四方の塔門(ゴープラ、尼: Gapura)のすぐ内側の主軸上にある4基の小祠堂。
- パトック祠堂 : 4基 - 内苑の四隅にある4基の小祠堂。
- プルワラ祠堂 : 224基 - 内苑を囲む同心の方形の4列に配置された数百基もの小祠堂[58]。内列から外列に向けて小祠堂は、44基、52基、60基、68基を数える。
プランバナン寺院複合体は、ロロ・ジョングランの有名な伝説にちなんで名付けられたロロ・ジョングラン複合体としても知られる。このシヴァ派寺院群には、大小240基の祠堂があった。現在、内苑にある8基の主要な祠堂および8基の小祠堂はすべて修復されているが、かつてあった224基のプルワラ小祠堂(チャンディ・プルワラ、尼: Candi Perwara)は、そのうち3基が修復されているのみであり、大部分は崩壊して散在した石材だけが残る[59]。
プランバナン寺院複合体は3重の寺苑により構成され、最初に外苑、次に数百基の小祠堂のある中苑、そして最後に主要な祠堂8基および小祠堂8基などがある最も神聖な内苑がある。プランバナンのヒンドゥー寺院複合体は、この全部で3重の寺苑を含めて正方形の配置に基づき、それぞれの寺苑は4つの塔門(ゴープラ)により通じる四方の周壁に囲まれている。外苑は、長大な周壁に囲まれた大空間である。もともと一辺およそ390メートルあった最も外側の周壁は、北東方向にずれ、約10数度傾いて配置されていた[19][20]。しかし、南の門を除いて、この囲い地にあったほとんどは今日に残っていない[60]。その外苑のかつての機能は不明であるが、そこは聖地であり僧院(アシュラム、Ashram)があったとも考えられる。しかし、寺院複合体の二次的構造物は有機素材で造られていたため、その遺構は残存しない。
シヴァ祠堂
一辺110メートルである内苑[10][19]と中央祠堂群は、3つの寺苑のなかで最も神聖であり、そこは四方の基点それぞれに石門を持つ正方形の石壁に囲まれた方形の基壇となる。この最も神聖な寺苑は、8基の主要祠堂などにより構成されている。トリムルティ(三神一体)と称される3基の主要祠堂は、創造神ブラフマー、維持(救済)神ヴィシュヌ、破壊(再生)神シヴァ[61]の三大神に捧げられている。
シヴァ祠堂(チャンディ・シワ)は、全高47メートル、幅34メートル四方で[6][59]、プランバナンのロロ・ジョングラン寺院複合体のなかで最大であり、最も高い建造物である。正面の階段は東側に位置し[21]、この祠堂の基壇にある幅2メートルの回廊の欄干(欄楯〈らんじゅん〉[62])ならびに5段の角塔それぞれの頂部には、塔形飾り[63](宝冠、ラトナ[19]、梵: rátna)が施されている[59]。また、シヴァ祠堂の回廊は、欄干内壁に刻まれた『ラーマーヤナ』の物語を伝える[64]浅浮彫りの装飾によって囲まれている[63]。その物語を順序通りにたどるには、東側より入り、右饒(うにょう〈プラダクシナ、pradakshina〉) つまり右回り(時計回り)に周行していく。この『ラーマーヤナ』の浮彫り(レリーフ)は、ブラフマー祠堂の回廊の欄干に続いている[19][65]。
シヴァ祠堂は中央に位置し、祠堂内には四方の側室4室と、中央部にある主室1室からなる5つの部屋がある。東正面の側室からは、高さ3メートルの最高神シヴァ・マハーデーヴァ(シワ・マハデワ、尼: Siwa Mahadewa)像を安置するプランバナン最大の祠堂中央の主室に通じている[19]。この像には、冠にある頭蓋骨と鎌(三日月)、額の第三の目など、シヴァの属性ないしシンボル (Lakçana) があり、また、4本の腕には、シヴァを象徴する数珠、はたき、三叉槍(トリシューラ)などを持つ。このシヴァのマハーデーヴァ(「偉大な神」の意[66])として描写された像は、王バリトゥンをシヴァの生まれ変わりとして神格化したものであったともされる[23]。シヴァ・マハーデーヴァ像は、台座の北側に蛇ナーガの彫刻が施されたヨニの台座にある[19]ハス(スイレン)の上に立っている[67]。
そのほか3つの側室には、それぞれシヴァと関係の深いヒンドゥー教の神像があり、南の側室に聖仙(リシ)アガスティヤ(またはバターラ・グル〈シヴァの化身〉とも[19])、西の側室にガネーシャ(シヴァの息子)、北の側室には女神ドゥルガー(シヴァの妻)像が安置されている[68]。ドゥルガ・マヒサスラマルダニ(Durga Mahisasuramardani〈マヒシャースラマルディニー、「マヒシャ・アスラを殺す者」の意[66]〉)像は、魔王マヒシャが取り憑いた牛を負かして背上に立つドゥルガーが描写される[66]。このドゥルガー像は、王女ロロ・ジャングランのジャワ伝説に由来するロロ・ジャングラン像とも呼ばれる[69]。
ブラフマー祠堂とヴィシュヌ祠堂
他の2基の主要な祠堂は、シヴァ祠堂の南側にあるブラフマー祠堂(チャンディ・ブラフマ)と北側にあるヴィシュヌ祠堂(チャンディ・ウィスヌ)である。どちらの祠堂もシヴァ祠堂と同じく東向きであり[70]、それぞれの尊い神に捧げられた大きな部屋が唯一祠堂内にあり、ブラフマー祠堂にはブラフマー像が安置され、ヴィシュヌ祠堂内にはヴィシュヌ像が安置される[71]。ブラフマー祠堂およびヴィシュヌ祠堂はそれぞれ高さ33メートル[72]、幅20メートル四方である[73]。
ヴァーハナ祠堂
3基の主要祠堂の前にある他の3基の祠堂は、それぞれの神のヴァーハナ(乗り物)である、 シヴァの牡牛ナンディ、ブラフマーの白い聖鳥ハンサ、ヴィシュヌの神鳥ガルーダに捧げられている。
シヴァ祠堂の正面にあるナンディ祠堂(チャンディ・ナンディ)には、ナンディ(尼: Nandi「牡牛」)の像が安置されている。次いで他の彫像として、月神チャンドラ(尼: Candra)の像、太陽神スーリヤ(スルヤ、尼: Surya)の像もある。チャンドラ像は10頭の馬に引かれた馬車の上に立ち、スーリヤ像もまた7頭の馬に引かれた馬車の上に立っている[74]。
ヴィシュヌ祠堂の前には、ガルーダ(ガルダ、尼: Garuda、「鷲」)に捧げられた祠堂がある[70]。このガルーダ祠堂(チャンディ・ガルーダ)にガルーダ像がないことからチャンディ・A とも称されるが[2]、おそらくはガルーダの像が安置されていたものと考えられる[75]。ガルーダはインドネシアを守護する神鳥として重要な役割を担い、インドネシアの国章に描かれるほか[76]、ガルーダ・インドネシア航空の名称にも用いられている。
ブラフマー祠堂の向かいには、ハンサ(アンサ、尼: Angsa、「ガチョウ〈白鳥〉」)の祠堂(チャンディ・ハンサ)がある[70]。ガルーダ祠堂と同様、この祠堂内にも像がないためチャンディ・B とも称されるが[2]、かつてはここにも尊いガチョウ(白鳥)の像があったと考えられる[75]。
アピット祠堂
主要祠堂とそれらのヴァーハナの祠堂が並んだ列の間に、2基のアピット祠堂(チャンディ・アピット)が北側と南側にある。アピット (Apit) はジャワ語で「挟む」の意で、それは内苑を囲む南北の側面の位置に2基の祠堂があることによる[77]。アピット祠堂の内室には今日何も認められず、これらのアピット祠堂がいずれの神に捧げられたものかなどは明らかではない[77]。しかし、外壁南側のアピット祠堂の浅浮彫りの調査によれば、女神、おそらくはブラフマーの配偶神 (Shakti) サラスヴァティーが描かれている。プランバナン寺院におけるヒンドゥー教の諸神建造物としてこれを捉えた場合、南側のアピット祠堂はサラスヴァティーに捧げられ、北側のアピット祠堂はラクシュミーに捧げられたという可能性も考えられる。
クリル祠堂とパトック祠堂
内苑にはこれら8基の主な祠堂のほかに、より小型の祠堂が8基ある。四方位にある内苑入口には4基のクリル祠堂(チャンディ・クリル、尼: Candi Kelir)があり[70]、クリル (Kelir) はジャワ語で「仕切り」(英: “screen”)の意で、塔門(ゴープラ)の四方の入口からの進入を阻む構造物に該当する。また、内苑の四隅には4基のパトック祠堂(チャンディ・パトック、尼: Candi Patok〈スドゥ祠堂、チャンディ・スドゥ[2]、尼: Candi Sudut〉)がある[70]。パトック (Patok) はジャワ語で「杭」(英: “peg”)の意であり、内苑の四隅にあたる祠堂の位置による。
プルワラ祠堂
内苑の周壁とその周囲の中苑の周壁は、いずれも東西南北の四方位を向いている。中苑の周壁は一辺222メートルであり[19][20]、44基、52基、60基、68基の4列からなるプルワラ小祠堂があった中苑が、壇上の内苑を囲んでいる。プルワラ小祠堂は、それぞれ高さ14メートル[19]、基部の幅は6メートル四方で[60][78]、合計224基の構造物があった[19][20]。4列それぞれの角にある16基の小祠堂は外側双方に向いているが、残る208基は外側正面の1方向に向いている[60]。
中苑は4列に配置された224基のプルワラ小祠堂により構成されるが、これら数多くの祠堂はその一部が修復されたのみであり、ほとんどはいまだに崩壊したままである。これらの同心状に配置された祠堂列群は[73]、それぞれ同様の意匠で構築されており、各列は中央に向かってわずかに高くなっている。これらのプルワラ祠堂(チャンディ・プルワラ)と呼ばれる小祠堂は、守護ないし補完祠堂であり、主要な祠堂に付加された構造物である。これらは王族や村落の有力者らが奉献したものであり[63]、帰服のしるしとして王に捧げられたと考えられる。また一部では、プルワラ祠堂は中央祠堂群の周りに4列に配置されていることから、4階層のカーストと関係があるとして、中央祠堂群に最も近い列には僧侶(バラモン)のみが接することができ、ほかの3列はそれぞれ王族、武人および庶民などのためにあったともいわれるが、一方では、プルワラ祠堂の4列はこれら4階層のカーストとはまったく関係なく、そこは単に僧侶の瞑想の場所あるいは信者の礼拝の場所として構築されたものとも考えられている。
構造
プランバナン寺院の建築様式は、ヴァーストゥ・シャーストラに基づいた典型的なヒンドゥー建築の伝統に従っている。寺院設計は、マンダラにおける寺院の平面配置と、同じくヒンドゥー教寺院に典型的な高くそびえ立つ尖塔を包含している。プランバナン寺院はもともとシワグルハと称され、シヴァ神に捧げられていた。寺院はヒンドゥー教の神々の住むシヴァの家であり聖なる山であるメール山(須弥山)を模して設計されている[73]。寺院複合体のすべては、ヒンドゥー教の宇宙論[79]およびロカ (Loka) の界層によりヒンドゥー教の世界を形成している。
ボロブドゥール寺院と同様に、プランバナン寺院もまた不浄な領域から最も神聖な領域に至る寺域の階層が認められる。ヒンドゥー教と仏教の概念にはそれぞれ独自の用語があるが、その概念は本質的に同じである。複合的な寺苑の構成(水平方向)および祠堂の構造(垂直方向)は、次の3つの領域(三界)より構成される[80]。
- ブルロカ(Bhurloka、仏教: カーマダートゥ[81]〈梵: kāma-dhātu〉「欲界」[82])は、人の最低領域であり、人間も動物も悪霊も同様にある。ここでは人間はまだ淫欲、欲望、不浄な生き方に縛られている。外苑ならびに各祠堂の基壇(下層〈英: Foot〉)部が、ブルロカの領域を象徴している[80]。
- ブヴァルロカ(Bhuvarloka、仏教: ルーパダートゥ[81]〈梵: rūpa-dhātu〉「色界」[82])は、聖人の中間領域であり、聖仙(リシ)、行者、神人が占める場所。ここで人は真理の光を見始める。中苑[80]および各祠堂の壁体(英: Body)部が、ブヴァルロカの領域を象徴している。
- スヴァロカ(Svarloka、仏教: アルーバダートゥ[81]〈梵: ārūpa-dhātu〉「無色界」[82])は、神の最高かつ神聖な領域であり、svargaloka とも称される。内苑ならびに各祠堂の屋蓋(屋根〈英: Head〉)部が、スヴァロカの領域を象徴する。プランバナン寺院の屋蓋は、ラトナ(塔形飾り)により装飾されている。このプランバナンの宝冠の形状は、ダイヤモンドを表すバジュラ〈梵: vajra[83])の形を変えたものである。古代ジャワの寺院建築において、ヒンドゥー教寺院のラトナは、仏教の仏塔(ストゥーパ、梵: Stūpa)に相当するものとして、寺院の小尖塔に施された。
19世紀末、シヴァ祠堂の中央下部より四角い石棺 (pripih) を納めた縦穴(英: Well)が発見された。主祠堂の中心軸の床下5.75メートルより発見されたこの石棺の下には、炭や焼けた動物の骨などが混じった土が堆積していた。そこからはヴァルナ(baruna、「海の神」)とパルヴァタ(parwwata、「山の神」)が記された小さな金板が見つかっている。石棺の大きさは41センチメートル四方、錐体形の蓋を含めた高さは55センチメートルであり、方形の各面には文字が刻まれていた。石棺には、銅板のうちに木炭、灰殻を含んだ土が堆積し、そこから硬貨20枚、宝玉9個、ガラス玉、貝殻、金箔片12枚(長方形のもの7枚、亀・蛇ナーガ・ハスの花〈または ラフレシアの一種パドマ Rafflesia patma〉・祭壇・卵形にかたどったもの5枚)が見つかっている[84]
浮彫り
- 『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』
- 主要祠堂は、ヒンドゥー教の叙事詩『ラーマーヤナ』および『マハーバーラタ』の物語を伝える浮彫り(レリーフ)により装飾されている。物語の浮彫りの壁面は、3基の祠堂の回廊の欄干内壁に沿って刻まれている。
- 欄干の壁面の説話は、左から右に描写される。物語は東の入口に始まり、参拝者は左に向けて祠堂の回廊を時計回りに周回する。これは聖所を右手にしながら時計回りに移動する巡礼者の周行の儀礼である右饒(プラダクシナ)に従っている。ラーマーヤナの物語は、シヴァ祠堂の欄干より始まり、ブラフマー祠堂まで続く。また、ヴィシュヌ祠堂の欄干には、マハーバーラタの物語を描いた浮彫りの壁面がある[19][62]。
- ラーマーヤナの浮彫りには、ラーマの妻シーターがラーヴァナに誘拐された物語の描写などが見られる。ヴァナラ(猿)の王スグリーヴァやハヌマーンは一軍を率いてラーマを助け、シーターを救出する。この物語は、照らされたプランバナン寺院複合体の西側にあるラーマヤナ野外劇場などで演じられるラーマヤナ舞踏においても示されている[86]。
- 壁面の彫像
- 説話の壁面を隔てて回廊沿いの祠堂壁には、デヴァター(神像)や賢者バラモン(ブラフミン、梵: brahmin)の彫像や浮彫りが装飾されている。方位の護世神ローカパーラの彫像はシヴァ祠堂に見られ[87]、ヴェーダを編纂した賢者バラモンはブラフマー祠堂壁に刻まれている。ヴィシュヌ祠堂にはデヴァターの男神像と両側に2体のアプサラス像の見られる彫像がある。
- これらの祠堂の外壁下面には、カルパタルの樹(カルパヴリクシャ、如意樹)を描いた2面に挟まれたシンハ(獅子)の彫像などが連なり、狭い隙間に装飾されている。ヒンドゥー教や仏教の信仰により願いを叶えるこれらの聖木の両側には、キンナラ(緊那羅)、もしくは鳥、鹿、羊、猿、馬、象などの一対の動物が描かれる。カルパタルの樹とその間にあるシンハの構図の様式は、プランバナン寺院祠堂群において典型的なものとされる。
-
ローカパーラの彫像
(シヴァ祠堂)
ロロ・ジョングラン伝説
ロロ・ジョングランの有名な伝説は、ラトゥボコの王宮の遺跡、主祠堂の北の側室にあるドゥルガー像の由来、および近隣のセウ寺院複合体の由緒に結び付けられる。この伝説には多くの異説があるが[90]、一般に知られるものは、王プラブ・ボコ(Prabu Boko〈Prabu Baka〉)の娘である王女ロロ・ジョングランを見初めたバンドゥン・ボンドウォソについての物語である。バンドゥン・ボンドウォソは王女に結婚を申し入れるが、王女は、王ボコを殺害して王国を支配するバンドゥン・ボンドウォソとの結婚を拒んだ。しかし、バンドゥンは婚姻をかたくなに迫り、結婚に応じることを余儀なくされたロロ・ジョングランは、ある不可能な条件をバンドゥンに持ちかけた。それはたった一晩で千の寺院(神像)を造らねばならないというものだった。バンドゥンは思案すると多くの地の精霊を呼び起こし、これらの精霊の助けを得て999の寺院の建立をなし遂げた。バンドゥンが条件を完遂しようとした時、王女は王宮の侍女を起こして村の女に米を打ち始めるように命令し、寺院の東に火をつけて、バンドゥンや精霊に日が昇ろうとしているように思わせようと図った。それを夜明けの光や音としてだまされた雄鶏が鳴き始めると、精霊は地に逃げ去った。バンドゥンはその企てに激怒し、仕返しにロロ・ジョングランに呪いをかけて石に変えてしまった[66][91]。王女は最後の千番目の像として最も美しい石像となった。伝承によると、精霊によって造られ未完成となった千番目の寺院は、近隣にあるセウ寺院であるとされる(セウ〈Sewu〉はジャワ語で「千」の意[88])。王女はプランバナン寺院のシヴァ祠堂の北の側室にあるドゥルガーの像とされ[92]、その像は、ロロ・ジョングランまたは「痩身の処女」として知られている[68]。
プランバナン周辺の主な寺院・遺跡
ケウ平原(プランバナン平野)は、北部のムラピ火山の南斜面と南部のグヌン・セウの山岳地帯との間に広がり、現在のジョグジャカルタ特別州と中部ジャワのクラテン県の境界付近にまたがる。この一帯は考古学的に豊かな地域であり、古マタラム王国につながるヒンドゥー教・仏教様式の寺院群が点在する[93]。プランバナン寺院複合体(ロロ・ジョングラン寺院)のほか、ケウ平原のプランバナン周辺の渓谷や丘には、インドネシア最古のいくつかの仏教寺院などがある。点在する寺院遺跡はおよそ30を数えるとされる[63]。
プランバナン寺院とともに、あまり離れていない北側には、ルンブン寺院、ブブラ寺院、セウ寺院およびガナ寺院(アスゥ寺院)がプランバナン史跡公園内にあり、1991年、これらの寺院群がユネスコの世界遺産に登録された[3][29]。さらに東にはプラオサン寺院がある。西側にはカラサン寺院やサリ寺院があり、さらに西にはサンビサリ寺院がある。また、南側には高台のラトゥボコ遺跡群などがある。互いにわずか数百メートル離れた場所に点在する考古学的遺跡が見られることは、この地域が重要な宗教的、政治的かつ都の中心地であったことを示唆している。
プランバナン北側
- ルンブン寺院(チャンディ・ルンブン、尼: Candi Lumbung)
- 仏教寺院。セウ寺院よりそれほど遠くない位置にある[94]。主祠堂とそれを取り囲む16基の小祠堂(プルワラ祠堂)からなる[95][96]。
- ブブラ寺院(チャンディ・ブブラ、尼: Candi Bubrah)
- 仏教寺院。プランバナン寺院(ロロ・ジョングラン寺院)の北約1キロメートルに位置する[97]。ブブラ〈Bubrah〉はジャワ語で「壊れた」の意であり、かつての状態によるともされるが[98]、2013-2017年に調査および修復がなされた[97]。
- セウ寺院(チャンディ・セウ、尼: Candi Sewu)
- 仏教寺院。プランバナン寺院の北約1.5キロメートルに位置する[99]。プランバナン寺院より古く、8世紀末[100]、サンジャヤ王統の第2代王ラカイ・パナンカランの時代のものといわれ、発見されたマンジュスリグラ碑文(「mañjuśrīgŗha〈文殊師利祠堂〉」刻文[101])により792年に完成したとされる[102]。中央の主要祠堂は240基もの小祠堂に取り囲まれ[88][89]、その規模はインドネシアの仏教寺院としてボロブドゥール寺院に次いで大きい[100]。
- セウ寺院の東約300メートルには、仏教寺院のガナ寺院(チャンディ・ガナ、尼: Candi Gana〈チャンディ・アスゥ、尼: Candi Asu〉)の基部の遺構が残存する[103]。
- プラオサン寺院(チャンディ・プラオサン、尼: Candi Plaosan)
- 仏教寺院複合体[6]。セウ寺院の東約1.5キロメートルに位置する[104]。9世紀中頃、仏教のシャイレーンドラ朝の王女で、ヒンドゥー教の古マタラム王国(サンジャヤ王統)に嫁いだ王妃のために王ラカイ・ピカタンにより建立された[94][105]。北プラオサン寺院(チャンディ・プラオサン・ロル[106]、尼: Candi Plaosan Lor〈Lor はジャワ語で「北」の意 〉)と南プラオサン寺院(チャンディ・プラオサン・キドゥル、尼: Candi Plaosan Kidul〈Kidul はジャワ語で「南」の意 〉)の2つの主要寺院があり[104]、小祠堂や紡錘形を持つ仏塔(ストゥーパ)などが配列されている[107]。
- モランガン寺院(チャンディ・モランガン、尼: Candi Morangan)
- ヒンドゥー教寺院。ジョグジャカルタより約24キロメートルの距離にある。9-10世紀のものとされるこの寺院遺跡は、現在深さ2.5メートルにあり、1884年に発見された当初は、ムラピ山の火山活動の影響により半ば埋没していた[108]。
-
ルンブン寺院の主祠堂
-
修復されたブブラ寺院
-
北プラオサン寺院
-
モランガン寺院の遺構
プランバナン南側
- サジワン寺院(チャンディ・サジワン、尼: Candi Sojiwan)
- 仏教寺院。プランバナン寺院の南[109](南東)約2キロメートルに位置する。基壇には物語として教えを説く浮彫りや動物寓話で装飾されている[110]。サジワン寺院の名は、王ラカイ・ピカタンの妻ラクリヤン・サンジワナ(Rjakriyan Sanjiwana〈別名スリ・プラモダワルダニ〉)に由来すると伝えられる[109]。
- サジワン寺院の南約80メートルにあるカロンガン寺院(チャンディ・カロンガン、尼: Candi Kalongan)は、サジワンと南北一対の複合体をなしていた[111]。
- ラトゥボコ(尼: Ratu Boko〈Ratu Baka〉)
- 凝灰岩質の丘陵[26]。史跡公園の南約2キロメートルにある[112]。丘の上には8-9世紀頃に建立されたと考えられる[112]王宮(クラトン)があったとされ、門、プンドポ(尼: Pendopo)[26]、城壁、堀のほか、小祠堂、沐浴場などのラトゥボコ遺跡が認められる[113]。
- バニュニボ寺院(チャンディ・バニュニボ、尼: Candi Banyunibo)
- 仏教寺院。バロン寺院より約200メートルの距離にある。屋蓋の上部に仏塔を持つ主祠堂が復元されている[114]。
- バロン寺院(チャンディ・バロン、尼: Candi Barong)
- ヒンドゥー教寺院。丘陵の斜面に位置する。碑文の解釈により9世紀に建立されたものと考えられている。段丘状の3段の寺苑がある[115]。
- イジョ寺院(チャンディ・イジョ、尼: Candi Ijo)
- ヒンドゥー教寺院。ラトゥボコ遺跡の南側の丘に位置する。10-11世紀に建立されたと考えられ、修復された主祠堂内にヨニが残存する[116]。
- これらラトゥボコ周辺の寺院遺跡よりさらに南側の村ジョゴティルトに位置する丘の上に、ヒンドゥー教寺院のアバン寺院(チャンディ・アバン、尼: Candi Abang)の赤煉瓦による遺構が認められる[117]。
-
バニュニボ寺院の主祠堂
-
バロン寺院
-
イジョ寺院の主祠堂
-
アバン寺院の丘
プランバナン西側
- カラサン寺院(チャンディ・カラサン、尼: Candi Kalasan)
- 仏教寺院。プランバナン寺院の南西約2キロメートルに位置する[118]。この村で発見されたカラサン碑文により[119]、778年にシャイレーンドラ朝と古マタラム王国(サンジャヤ王統)の両王家により建立されたことが知られる。現在に見られる祠堂は9世紀中頃に増築されたもので[120]、精細に彫られた鬼面カーラなどの浮彫りにより装飾されている[119]。
- サリ寺院(チャンディ・サリ、尼: Candi Sari)
- 仏教寺院。カラサン寺院のすぐ北側に位置する[121]。カラサン寺院と同じく8世紀の王ラカイ・パナンカランの時代に建立されたと考えられる[122]。僧院(僧房、または経蔵[123])であったとされるほか[124]、仏像を礼拝するためにあったともいわれる[125]。上部に仏塔(ストゥーパ)飾りが3列に並び[123]、その下に各3室が並ぶ2段の階層がある[124]。
- クドゥラン寺院(チャンディ・クドゥラン、尼: Candi Kedulan)
- ヒンドゥー教寺院。カラサン寺院の約3キロメートルに位置する。1993年に砂鉱夫によって地下4メートルより発見された。主祠堂の基部が認められるが、いまだ副次的な祠堂などは完全に発掘されていない[126]。
- サンビサリ寺院(チャンディ・サンビサリ、尼: Candi Sambisari)
- ヒンドゥー教寺院。プランバナン史跡公園の南西約10キロメートル[127]、ジョグジャカルタの東12キロメートルに位置する。9世紀前半とされる寺院。1966年に発見された当初、寺院は地下6.5メートルに埋没していた。主祠堂内にはリンガとヨニがあり、その外壁にはドゥルガー、ガネーシャ、アガスティヤの像が見られる[128]。
- ゲバン寺院(チャンディ・ゲバン、尼: Candi Gebang)
- ヒンドゥー教寺院。ジョグジャカルタ郊外約11キロメートルに位置する。1936年に寺院の一部であったガネーシャ像が発見され、1937-1939年に寺院の発掘と修復がなされた。寺院構造により730-800年に構築されたと考えられる。ガネーシャ像のほか、屋蓋部分に特徴的な装飾が認められる[129]。
- キンプラン寺院(チャンディ・キンプラン、尼: Candi Kimpulan)
- ヒンドゥー教寺院。ジョグジャカルタにあるインドネシア・イスラム大学中央図書館の敷地内に位置する。2009年に地下2.1メートルより発見され[130]、主祠堂と副祠堂の基部などが発掘されている[131]。
-
クドゥラン寺院
-
サンビサリ寺院の主祠堂
-
ゲバン寺院
-
キンプラン寺院の発掘
(2010年2月)
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
脚注
- ^ “見る - プランバナン”. Visit Indonesia. インドネシア共和国観光省 (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『インドネシアの事典』 (1991)、384頁
- ^ a b c d “Prambanan Temple Compounds”. World Heritage List. UNESCO World Heritage Centre. 2020年2月9日閲覧。
- ^ a b c 伊東 (2007)、16頁
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、298頁
- ^ a b c 鈴木 「中部ジャワの遺跡」『NHK美の回廊をゆく 2』 (1991)、129頁
- ^ 深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)、301頁
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、406頁
- ^ a b c 上北 (2016)、21頁
- ^ a b c d e f 『新版 東南アジアを知る事典』 (2008)、392頁
- ^ a b c d e f g h 『インドネシアの事典』 (1991)、407頁
- ^ イ・ワヤン・バドリカ 著、石井和子監訳、桾沢英雄、田中正臣、菅原由美、山本肇 訳『インドネシアの歴史 - インドネシア高校歴史教科書』明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2008年(原著2000年)、38頁。ISBN 978-4-7503-2842-3。
- ^ a b デュマルセ (1996)、11頁
- ^ デュマルセ (1996)、94頁
- ^ 伊東 (1992)、94頁
- ^ a b 深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)、298-299頁
- ^ 井口 (2013)、221頁
- ^ Shivagrha Inscription, National Museum of Indonesia
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『インドネシアの事典』 (1991)、385頁
- ^ a b c d e f g h 『新版 東南アジアを知る事典』 (2008)、393頁
- ^ a b c 井口 (2013)、237頁
- ^ Soetarno, Drs. R. second edition (2002). Aneka Candi Kuno di Indonesia (Ancient Temples in Indonesia), pp. 16. Dahara Prize. Semarang. ISBN 979-501-098-0.
- ^ a b Ariswara (1994), pp. 11-12 48
- ^ 伊東 (2007)、15頁
- ^ 深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)、290頁
- ^ a b c d 『インドネシアの事典』 (1991)、442頁
- ^ a b 青山亨 「東ジャワの統一王権王権」、『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)、141頁
- ^ a b 井口 (2013)、7・245-247頁
- ^ a b c 清永洋平「インドネシア・プランバナン遺跡群の地震被害」(PDF)『奈良文化財研究所紀要』、奈良文化財研究所、2007年6月20日、8-9頁、ISSN 13471589、2020年2月13日閲覧。
- ^ 吉村作治『東南アジアの華 アンコール・ボロブドゥール』平凡社〈吉村作治の文明探検 5〉、1999年、57頁。ISBN 4-582-63165-7。
- ^ a b c d e 井口 (2013)、234頁
- ^ Jordaan, Roy (2013-09) (PDF). The Lost Gatekeeper Statues of Candi Prambanan: A Glimpse of the VOC Beginnings of Javanese Archaeology. NSC Working Paper No. 14. Nalanda-Sriwijaya Centre. pp. 2-4
- ^ 信夫清三郎『ラッフルズ伝 - イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』平凡社〈東洋文庫 123〉、1968年(原著1943年)、244頁。
- ^ 坪井祐司『ラッフルズ - 海の東南アジア世界と「近代」』山川出版社〈世界史リブレット 人 68〉、2019年、78頁。ISBN 978-4-634-35068-7。
- ^ 井口 (2013)、195・234頁
- ^ 鳴海、小浦 (2008)、10頁
- ^ 上北 (2016)、22頁
- ^ 瀬川 (2007)、159頁
- ^ 瀬川 (2007)、149頁
- ^ 鳴海、小浦 (2008)、12頁
- ^ 宮崎衛夫 (2019年3月23日). “進む寺院の再建 未解明の建造物も”. じゃかるた新聞 (PT. Bina Komunika Asiatama) 2020年2月9日閲覧。
- ^ “World famous temple complex damaged in quake”. Discover Indonesia Online. indahnesia.com (2006年3月28日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ 瀬川 (2007)、160頁
- ^ a b c “世界遺産・プランバナン遺跡の修復に対する支援(インドネシア)”. 政府開発援助 (ODA) 白書 2007年版 日本の国際協力. 外務省 (2018年3月9日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Restoration of Prambanan due Post-Earthquake 2006”. Articles. PT. Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko (2017年11月21日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Pemasangan Batu Kemuncak Tandai Purnapugar Candi Nandi” (インドネシア語). Kompas.com (2009年1月7日). 2020年2月16日閲覧。
- ^ “Prambanan Diusulkan Jadi "Perdikan"” (インドネシア語). Kompas (Kompas Gramedia). (2012年4月18日) 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Borobudur, Other Sites, Closed After Mount Kelud Eruption”. Cempaka Culture and Tourism (2014年2月14日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “インドネシア ジョグジャカルタ / 「クルド山」の噴火に伴う影響”. 海外旅行現地情報. 日本海外ツアーオペレーター協会 (OTOA) (2014年2月14日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “インドネシア・ジョグジャカルタ、「クルド山」の噴火に伴う影響 - 続報”. トラベルビジョン (2014年2月27日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “「山が怒っている」 噴火続くインドネシア・ムラピ山”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2010年11月5日) 2020年2月9日閲覧。
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、462頁
- ^ “Selamat Hari Raya Galungan, Nyepi Tahun Baru Saka 1931 dan Kuningan.” (インドネシア語). Berita. Arkeologi Jawa.com. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Upacara Abhiseka di Candi Prambanan Yogyakarta”. The Jakarta Post images. PT. Niskala Media Tenggara. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Abhiseka Prambanan” (インドネシア語). www.bumn.go.id. PT. Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko. Badan Usaha Milik Negara Republik Indonesia (2019年11月5日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Pertama Kali Sejak Tahun 856 Masehi, Umat Hindu Gelar Upacara Abhiseka di Candi Prambanan” (インドネシア語). Tribun-Bali. bali.tribunnews.com (2019年11月13日). 2019年12月4日閲覧。
- ^ “プランバナン”. コトバンク. 朝日新聞社. 2020年2月9日閲覧。
- ^ a b c 上北 (2016)、17頁
- ^ a b c 井口 (2013)、235頁
- ^ a b c “Prambanan: A Brief Architectural Summary”. The Temples of Central Java. Borobudur TV. 2003年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月31日閲覧。
- ^ 伊東 (1992)、95-96頁
- ^ a b 青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)、60頁
- ^ a b c d 石井米雄、高谷好一、前田成文、土屋健治、池端雪浦(監修) 編『東南アジアを知る事典』(新訂増補)平凡社、1999年(原著1986年)、269頁。ISBN 4-582-12621-9。
- ^ 井口 (2013)、238頁
- ^ 青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)、64頁
- ^ a b c d 伊東 (1992)、96頁
- ^ “Candi Prambanan” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月13日閲覧。
- ^ a b 伊東 (1992)、96・98頁
- ^ Ariswara (1994), pp. 12 19 48
- ^ a b c d e Tri Hatmadji (2004) (インドネシア語). Pelapukan Batu Candi Siwa Prambanan dan Upaya Penanganannya. Yogyakarta: Balai Pelestarian. p. 22. ISBN 979-97657-1-4 2020年2月9日閲覧。
- ^ Ariswara (1994), p. 32
- ^ 青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)、58-59頁
- ^ a b c Kak (2011), p. 22
- ^ Ariswara (1994), pp. 21 26 50
- ^ a b Ariswara (1994), pp. 30 50
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、118頁
- ^ a b Ariswara (1994), pp. 31 50
- ^ Kak (2011), p. 21
- ^ Kak (2011), p. 26
- ^ a b c “Sejarah Candi Prambanan, Legenda Cinta Roro Jonggrang” (インドネシア語). Candikanesia. 2019年12月4日閲覧。
- ^ a b c 『インドネシアの事典』 (1991)、401頁
- ^ a b c “tri‐dhātu”. コトバンク. 朝日新聞社. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “vajra”. コトバンク. 朝日新聞社. 2020年2月9日閲覧。
- ^ Anna A. Slaczka (2007). Temple Consecration Rituals in Ancient India: Text and Archaeology. Leiden・Boston: Brill. pp. 313-314. ISBN 9789004158436 2020年2月9日閲覧。
- ^ 青山亨「プランバナン寺院シヴァ堂のラーマーヤナ浮彫」、『画像史料論 世界史の読み方』 (2014)、67-68・76頁
- ^ 『Prambanan』(PDF)Borobudurpark.com 。
- ^ 伊東 (1992)、102頁
- ^ a b c 伊東 (1992)、87頁
- ^ a b デュマルセ (1996)、86頁
- ^ 井口 (2013)、248頁
- ^ 井口 (2013)、248-251頁
- ^ 井口 (2013)、251頁
- ^ Carlos Ramirez-Faria (2007). Concise Encyclopeida of World History. Atlantic. ISBN 978-81-269-0775-5 2020年2月13日閲覧。
- ^ a b Ariswara (1994), pp. 34 51
- ^ Degroot (2009) p. 169
- ^ “Candi Lumbung” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ a b “Candi Bubrah Kini Cantik, Rehab 4 Tahun Habis Rp 13,13 M” (インドネシア語). Tribun Jogja (2017年12月15日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Candi Bubrah” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ 高杉 (2001)、336頁
- ^ a b 『インドネシアの事典』 (1991)、253頁
- ^ 石井和子「ボロブドゥールと『初会金剛頂経』 - シャイレーンドラ朝密教受容の一考察」『東南アジア - 歴史と文化』第2号、東南アジア学会、1992年、3-29頁、doi:10.5512/sea.1992.3、NAID 130003704271、2020年2月13日閲覧。
- ^ “Candi Sewu” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月13日閲覧。
- ^ Degroot (2009) p. 228
- ^ a b “Candi Prambanan” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月18日閲覧。
- ^ 伊東 (1992)、91・94頁
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、273頁
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、381頁
- ^ “Candi Morangan, Reruntuhan Masa Lalu di Selatan Merapi” (インドネシア語). Kompas.com (2019年1月16日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ a b Ariswara (1994), pp. 35 51
- ^ “Candi Sajiwan” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ Degroot (2009) pp. 243-244
- ^ a b 高杉 (2001)、338頁
- ^ “ラトゥ・ボコ遺跡”. Jalan2. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Candi Banyuniba” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Candi Barong” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Candi Ijo” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Candi Abang” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ 高杉 (2001)、332頁
- ^ a b 伊東 (1992)、86頁
- ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、115頁
- ^ 伊東 (1992)、86-87頁
- ^ “Candi Sari” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月13日閲覧。
- ^ a b 鈴木 「中部ジャワの遺跡」『NHK美の回廊をゆく 2』 (1991)、128頁
- ^ a b 『インドネシアの事典』 (1991)、189頁
- ^ デュマルセ (1996)、89頁
- ^ “CANDI KEDULAN Teka-Teki Bendungan Kuno di Dekatnya” (インドネシア語). yogyes.com (2018年8月31日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ 高杉 (2001)、340頁
- ^ “サンビサリ寺院遺跡”. Jalan2. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Candi Gebang” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年2月9日閲覧。
- ^ “CANDI KIMPULAN Candi yang Rinci di Perguruan Tinggi UII” (インドネシア語). Yogyes.com (2018年10月24日). 2020年2月9日閲覧。
- ^ Degroot (2009) p. 427
参考文献
- 石井米雄監修 編『インドネシアの事典』同朋舎出版〈東南アジアを知るシリーズ〉、1991年。ISBN 4-8104-0851-5。
- NHK取材班ほか『NHK美の回廊をゆく 東南アジア至宝の旅 2』日本放送出版協会、1991年。ISBN 4-14-009156-8。
- 伊東照司『ボロブドール遺跡めぐり』新潮社〈とんぼの本〉、1992年。ISBN 4-10-602006-8。
- ジャック・デュマルセ (Jacques Dumarçay) 著、藤木良明 訳、西村幸夫監修 編『ボロブドゥール』学芸出版社、1996年(原著1978, 1991〈改訂版〉)。ISBN 4-7615-2147-3。
- 『岩波講座 東南アジア史 1 原史東南アジア世界』岩波書店、2001年。ISBN 4-00-011061-6。
- 『岩波講座 東南アジア史 2 東南アジア古代国家の成立と展開』岩波書店、2001年。ISBN 4-00-011062-4。
- 高杉等『東南アジアの遺跡を歩く』めこん、2001年。ISBN 4-8396-0144-5。
- 瀬川真平「震災害後の遺産観光 - ジャワ島中部地域の調査から」(PDF)『立命館大学人文科学研究所紀要』第89号、立命館大学人文科学研究所、2007年10月、149-168頁。
- 伊東照司『東南アジア美術史』雄山閣、2007年。ISBN 978-4-639-02006-6。
- 桃木至朗(代表) 編『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008年。ISBN 978-4-582-12638-9。
- 鳴海邦碩、小浦久子『失われた風景を求めて - 災害の復興、そして景観』大阪大学出版会、2008年。ISBN 978-4-87259-239-9。
- 井口正俊『ジャワ探求 - 南の国の歴史と文化』丸善プラネット、2013年。ISBN 978-4-86345-174-2。
- 吉野ゆり子、八尾師誠、千葉敏之編 編『画像史料論 世界史の読み方』東京外国語大学出版会、2014年。ISBN 978-4-904575-32-1。
- 上北恭史「プランバナン遺跡の修理と国際協力(インドネシア)」(PDF)『世界遺産学研究』第2巻、筑波大学世界遺産専攻、2016年11月、16-26頁、ISSN 2189-4728。
- Ariswara (1994) [1990]. Prambanan. Lenah Matius (English translation), Budi Lestari et Gilles Guerard (Translation franςaise), シータ・ダマヤンティ(翻訳) (4th ed.). Jakarta: PT Intermasa. ISBN 979-8114-57-4
- Véronique Degroot (2009). Candi, Space and Landscape. Sidestone Press. ISBN 978-90-8890-039-6 2020年2月9日閲覧。
- Subhash Kak (PDF), Space and order in Prambanan. In Manju Shree, ed (2011). From Beyond The Eastern Horizon: Essays In Honour Of Professor Lokesh Chandra. Delhi: Aditya Prakashan. ISBN 978-8177421095
関連項目
外部リンク
- The Prambanan Temple, PT Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko
- “PT. Taman Wisata Candi Borobudur, Pranbanan & Ratu Boko”, Google Arts & Culture
- “Prambanan Temple Compounds (UNESCO/NHK)”, YouTube