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*『[[後漢書]]』皇后紀下
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2019年10月29日 (火) 00:29時点における版

鄧皇后
後漢の皇后
在位 159年 - 165年

全名 鄧猛女
死去 165年
配偶者 桓帝
父親 鄧香
母親 宣氏
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鄧 猛女(とう もうじょ、? - 165年)は、後漢桓帝の2番目の皇后。本貫南陽郡新野県鄧禹の玄孫娘。

経歴

実父の鄧香を早くに亡くし、母の宣氏は梁紀(梁冀の正妻孫寿の母の兄弟)に再嫁した。その後、容姿美しく育った猛女は、孫寿の養女となり、後宮に入って采女(後漢皇帝の側女)となった。桓帝の寵愛を受け、皇后梁女瑩の死後に貴人に上った。梁冀が誅殺された後、猛女は皇后に立てられ、と改姓した。延熹6年(163年)に実父の身分が判明した後、鄧に復姓した。5人の親族たちも侯爵に封ぜられた。

延熹8年(165年)、桓帝が貴人郭氏を寵愛するようになると、猛女と郭氏の間で多くの確執が生じた。結局、猛女は廃位および暴室送りにされ、まもなく死去した。北邙山の貴族陵墓地に葬られた。

伝記資料