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*『[[晋書]]』列伝 后妃上
*『[[晋書]]』列伝 后妃上


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2019年10月29日 (火) 00:28時点における版

楊皇后
西晋の皇后
在位 265年 - 274年

全名 楊艶
別称 武元皇后
出生 238年
死去 274年
配偶者 武帝
子女 司馬軌
恵帝
司馬柬
平陽公主
新豊公主
陽平公主
父親 楊炳
母親 趙氏(趙俊の姉妹)
再従妹 楊芷(武帝の2人目の皇后)
従姉妹 趙粲(武帝の側室)
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楊 艶(よう えん、238年 - 274年)は、中国西晋の武帝司馬炎の皇后。恵帝の母。瓊芝弘農郡華陰県の人。父は曹魏の通事郎の楊炳(字は文宗)。母は趙氏。

生涯

幼時に父母を失い、母方の叔父の趙俊で養育された。容貌美しく、女紅をよくした。司馬炎にとつぎ、夫婦仲は良く、司馬衷(恵帝)など多くの子供を産んだ。

咸熙2年(265年)、司馬炎が即位すると、皇后に立てられた。嫉妬深い性格であり、司馬炎が自分の後宮に入れるための女子を選ぶ際には美人を妬み、背の高い女性だけを選んだ。あるとき司馬炎は容姿が美しい卞藩の娘を気に入ったが、楊艶は「卞氏は三代の后族であった」を理由にこれに反対し、結局入内は取り止めとなった。

司馬炎は太子の衷が暗愚なため廃そうと考えたが、艶は実子を溺愛し、力を尽くして諫めてこれをはばんだ。また、艶の働きかけにより賈南風が太子妃(のち皇后)となった。

泰始10年(274年)、崩じた。臨終に際して、胡芳胡奮の娘、司馬炎の寵妃)を厭い、再従妹の楊芷を次の皇后に立てるよう懇願した。された。その後、夫の諡を重ねて武元皇后と称された。

母方の従姉妹の趙粲(趙俊の兄の娘)は司馬炎の側室となっている。

子女

  • 司馬軌(毗陵王)
  • 司馬衷(恵帝
  • 司馬柬(秦王)
  • 平陽公主
  • 新豊公主
  • 陽平公主

伝記資料