「王神愛」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m cewbot: ウィキ文法修正 1: Template contains useless word template |
||
39行目: | 39行目: | ||
*『晋書』巻10帝紀第10 |
*『晋書』巻10帝紀第10 |
||
{{ |
{{晋の皇后}} |
||
{{デフォルトソート:おう しんあい}} |
{{デフォルトソート:おう しんあい}} |
2019年10月29日 (火) 00:25時点における版
王皇后 | |
---|---|
東晋の皇后 | |
在位 | 397年5月3日 - 412年8月 |
全名 | 王神愛 |
別称 | 安僖皇后 |
出生 |
太元9年(384年) |
死去 |
義熙8年(412年)8月 |
配偶者 | 安帝 |
父親 | 王献之 |
母親 | 司馬道福(新安公主) |
王 神愛(おう しんあい、384年 - 412年8月)は、中国東晋の安帝の皇后。安帝の父方従妹に当たる。
生涯
書道の大家として知られる王献之と後妻の司馬道福(新安公主、安帝の祖父簡文帝の三女)の一人娘として生まれた。自身も能書家であった。太元21年(396年)7月、皇太子の司馬徳宗(後の安帝)にとつぎ、太子妃となった。安帝が即位すると、皇后に立てられた。
安帝は、一切の意思表示ができないという重度の知能障害者であったという。神愛との間には子がなかった。元興2年(403年)、桓玄の帝位簒奪で安帝は平固王に落とされ、神愛も平固王妃に落とされた。翌元興3年(404年)に桓玄が殺され、安帝と神愛は共に復位した。義熙8年(412年)8月、神愛は建康の徽音殿に崩じた。僖と諡された。
伝記資料
- 『晋書』巻32列伝第2 后妃下
- 『晋書』巻80列伝第50
- 『晋書』巻10帝紀第10