コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「文徳皇后郭氏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: ウィキ文法修正 1: Template contains useless word template
54行目: 54行目:


{{三国志立伝人物}}
{{三国志立伝人物}}
{{Template:魏の皇后}}
{{魏の皇后}}


{{DEFAULTSORT:かくし ふんとくこうこう}}
{{DEFAULTSORT:かくし ふんとくこうこう}}

2019年10月29日 (火) 00:09時点における版

郭皇后
の皇后
在位 222年 - 226年

全名 郭女王(字)
別称 文徳皇后
出生 光和7年3月10日(184年4月8日)
死去 青龍3年3月8日(235年3月14日)
許昌
配偶者 曹丕(文帝)
父親 郭永
母親 董氏(堂陽君)
兄弟 郭浮、郭成、郭都
姉妹 郭昱
テンプレートを表示

郭 女王(かく じょおう、光和7年3月10日(184年4月8日) - 青龍3年3月8日(235年3月14日))は、の初代皇帝曹丕(文帝)の皇后。女王はは不明。は徳で、夫の諡を重ねて文徳皇后と諡された。冀州安平国広宗県の出身。父は郭永(後漢南郡太守)。母は董氏(堂陽君)。兄に郭浮。姉に郭昱。弟に郭成・郭都。

生涯

幼い頃より聡明で、父に「女子の中の王者」と呼ばれ可愛がられた。やがて両親を失い家が没落したため、やむなく銅鞮侯家の召使として働いていたが、魏公となった曹操に見出され、30歳のとき(213年)に子の曹丕の女中となり、その智から曹丕の寵愛を得て、やがて妾となった。曹丕に様々な献策をし、曹丕の立太子に尽力したという。

曹丕の魏王即位に伴い夫人、魏帝即位の際は貴嬪となり、黄初3年(222年)に皇后に立てられた。

曹丕が郭氏を皇后に立てようとした際、没落して低い立場だったために群臣の反対を受けたが、曹丕はこれを押し切って皇后に立てた。郭氏はそうした経緯もあってか、身内にある程度の便宜を図ることはあったが、それ以上は堅く戒め「嫁を貰うならば、同郷で家柄の釣り合う家から貰うべきです。権勢を利用して、無理に他国(ここでは諸侯の封土を指す)の女性を娶ってはいけない」、「それぞれ自戒して、処罰を受ける人間とならないようにしなさい」といった言行を残している。

曹叡(明帝)が即位すると皇太后の称号を贈られ、永安宮とも称される。青龍3年(235年)に許昌で死去し、その遺言に従って首陽陵の西に陪葬された[1]

小説『三国志演義』では、郭貴妃の名前で登場する。

備考

三国志』では、甄氏の死は郭后のせいだと言及されたが、その詳細な説明はない。『魏略』や『漢晋春秋』といった史書には、甄氏の死は郭氏の差し金によるものだったとなっている。それによれば、

曹丕が即位したため、野心を抱くようになった郭氏は、曹丕に讒言して甄氏が死を賜るよう仕向け、自らが皇后に収まった。しかし嗣子に恵まれず、甄氏の生んだ曹叡を猶子とせざるをえなかった。曹丕の死後、皇太后の尊称を贈られたものの、やがて即位した曹叡により過去の罪を糾弾され、死を賜った。

という内容である。

脚注

  1. ^ 『終制』によって、曹丕は后妃と合葬することは断った。