「文徳皇后郭氏」の版間の差分
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2019年10月29日 (火) 00:09時点における版
郭皇后 | |
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魏の皇后 | |
在位 | 222年 - 226年 |
全名 | 郭女王(字) |
別称 | 文徳皇后 |
出生 |
光和7年3月10日(184年4月8日) |
死去 |
青龍3年3月8日(235年3月14日) 許昌 |
配偶者 | 曹丕(文帝) |
父親 | 郭永 |
母親 | 董氏(堂陽君) |
兄弟 | 郭浮、郭成、郭都 |
姉妹 | 郭昱 |
郭 女王(かく じょおう、光和7年3月10日(184年4月8日) - 青龍3年3月8日(235年3月14日))は、魏の初代皇帝曹丕(文帝)の皇后。女王は字。諱は不明。諡は徳で、夫の諡を重ねて文徳皇后と諡された。冀州安平国広宗県の出身。父は郭永(後漢の南郡太守)。母は董氏(堂陽君)。兄に郭浮。姉に郭昱。弟に郭成・郭都。
生涯
幼い頃より聡明で、父に「女子の中の王者」と呼ばれ可愛がられた。やがて両親を失い家が没落したため、やむなく銅鞮侯家の召使として働いていたが、魏公となった曹操に見出され、30歳のとき(213年)に子の曹丕の女中となり、その智から曹丕の寵愛を得て、やがて妾となった。曹丕に様々な献策をし、曹丕の立太子に尽力したという。
曹丕の魏王即位に伴い夫人、魏帝即位の際は貴嬪となり、黄初3年(222年)に皇后に立てられた。
曹丕が郭氏を皇后に立てようとした際、没落して低い立場だったために群臣の反対を受けたが、曹丕はこれを押し切って皇后に立てた。郭氏はそうした経緯もあってか、身内にある程度の便宜を図ることはあったが、それ以上は堅く戒め「嫁を貰うならば、同郷で家柄の釣り合う家から貰うべきです。権勢を利用して、無理に他国(ここでは諸侯の封土を指す)の女性を娶ってはいけない」、「それぞれ自戒して、処罰を受ける人間とならないようにしなさい」といった言行を残している。
曹叡(明帝)が即位すると皇太后の称号を贈られ、永安宮とも称される。青龍3年(235年)に許昌で死去し、その遺言に従って首陽陵の西に陪葬された[1]。
小説『三国志演義』では、郭貴妃の名前で登場する。
備考
『三国志』では、甄氏の死は郭后のせいだと言及されたが、その詳細な説明はない。『魏略』や『漢晋春秋』といった史書には、甄氏の死は郭氏の差し金によるものだったとなっている。それによれば、
- 曹丕が即位したため、野心を抱くようになった郭氏は、曹丕に讒言して甄氏が死を賜るよう仕向け、自らが皇后に収まった。しかし嗣子に恵まれず、甄氏の生んだ曹叡を猶子とせざるをえなかった。曹丕の死後、皇太后の尊称を贈られたものの、やがて即位した曹叡により過去の罪を糾弾され、死を賜った。
という内容である。
脚注
- ^ 『終制』によって、曹丕は后妃と合葬することは断った。