「テオドリック (東ゴート王)」の版間の差分
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| 埋葬地 = [[ラヴェンナ]]、[[テオドリック廟]] |
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| 子女 = ティウディゴート<br>オストロゴート<br>[[アマラスンタ]] |
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| 王家 = アマル家 |
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| 王朝 = |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = [[ティウディミル]] |
| 父親 = [[ティウディミール]] |
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| 母親 = [[エレレウヴァ|エレリエヴァ]]<ref>松谷、p.63。</ref> |
| 母親 = [[エレレウヴァ|エレリエヴァ]]<ref>松谷、p.63。</ref> |
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'''テオドリック'''(Theodoric |
'''テオドリック'''(Theodoric、[[ゴート語]]: 𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃、[[454年]] - [[526年]][[8月30日]])は、[[東ローマ帝国]]の[[軍人]]および[[政治家]]。[[484年]]の[[執政官]]。[[ローマ帝国]]の[[カエサル (称号)|副帝]]として[[西ローマ帝国|ローマ帝国の西半分]]を統治した<ref name="西洋中世史事典_テオドリック" />。また、[[497年]]に[[イタリア王]]の称号を認められ、[[東ゴート王国]]を成立させた<ref name="西洋古典学事典_テオドリック">「テオドリック」『[[#松原2010|西洋古典学事典]]』。</ref>。表記は他に'''テオデリック'''(Theoderic, Theoderik)、'''テオドリクス'''({{lang-la-short|Theodoricus}})、 '''テオドーリコ'''({{lang-it-short|Teodorico}})など。しばしば'''テオドリック大王'''と呼ばれる。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[454年]]に[[東ゴート族]]の王子[[ティウディミル]]の子として生まれ、10歳から18歳までを[[東ローマ帝国]]の[[コンスタンティノポリス]]の宮廷で[[人質]]として過ごした。父ティウディミルが東ゴート王位に就いた[[470年]]から、[[マケドニア属州|マケドニア]]の[[テッサロニキ]]を占領した後に死亡する[[475年]]までの間に王位を継承したものと考えられている。王位を継承して暫くは東ゴート族の主導権を巡ってローマ軍の長官[[テオドリック・ストラボ]]と争い、[[東ローマ皇帝]][[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]との政治的な駆け引きを繰り返したが、[[481年]]にテオドリック・ストラボが急死し、[[484年]]までにはテオドリックが東ゴート族の単独の指導者となった。 |
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[[Image:Theoderich (Vischer).JPG|thumb|left|テオドリック大王のブロンズ像。(正面)]] |
[[Image:Theoderich (Vischer).JPG|thumb|left|テオドリック大王のブロンズ像。(正面)]] |
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=== 東ローマ帝国の軍人として === |
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彼は東ローマ帝国より[[パトリキ|パトリキウス]](貴族)の地位を授与され、[[483年]]には東ローマ帝国の[[マギステル・ミリトゥム|軍司令官]]、[[484年]]には東ローマ帝国の[[執政官]]にも任命された。485年には皇帝ゼノンの養子となり「フラウィウス」の[[ノーメン]]を名乗ることを許された<ref>[[#ミシュレ2016|ミシュレ2016]]、p.193</ref><ref>[[#佐藤2008|佐藤2008]]、pp.54-55</ref>。 |
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テオドリックは[[454年]]に[[ゴート人]]の有力者の一人[[ティウディミール]]の子として生まれた。弟に{{仮リンク|ティウディムント|pt|Teodimundo}}がいる。 |
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彼の東ゴート王国創設は、[[東ローマ帝国]]からイタリア長官に任命されていた[[パトリキ|パトリキウス]]の[[オドアケル]]が、ゼノンと政治的に対立したことに端を発する。ゼノンは、テオドリックに[[イタリア遠征]]と、[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]を皇帝代理として支配させることを確約したので<ref>これは、東ローマ帝国内に居座る東ゴート人を厄介払いしてしまおうと言うゼノンの思惑があった。</ref>、[[488年]]に[[モエシア]]を経ち、[[489年]]、リュブリャナ平原の[[イゾンツォ川]]でオドアケルの軍勢を破ると([[イゾンツォの戦い (489年)|イゾンツォの戦い]])、[[ヴェローナ]]、[[ミラノ]]を占領([[ヴェローナの戦い (489年)|ヴェローナの戦い]])、西ゴートの援軍を得て[[ラヴェンナ]]を包囲した([[ラヴェンナ包囲戦 (490年-493年)|ラヴェンナ包囲戦]])。[[493年]]、テオドリックは和平交渉によりラヴェンナ入城を果たし、降伏したオドアケルを和平の酒宴の席で暗殺した。彼は東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]<ref>ゼノンは[[491年]]に死亡していた。</ref>よりイタリアの[[総督]]および[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ|道長官]]に任命され{{citation needed|reason=|date=February 2019}}、イタリアの統治を委任された。また彼は自ら[[イタリア王]]の称号を名乗り、その称号も[[497年]]にアナスタシウス1世より公認され、これによってイタリアに[[東ゴート王国]]が誕生した。ただし、東ゴート王国は帝国の軍隊駐屯法に従って認められた帝国内での一[[領地]]という位置づけであり、その領土も住民も依然としてローマ帝国のものとされた。また、ゴート人が就くことができる公職は軍官に限られ、民政は引き続き西ローマ帝国政府の担当とされ、[[立法権]]は東ローマ皇帝が保持していた。 |
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[[461年]]頃より[[東ローマ帝国]]の[[コンスタンティノープル]]の宮廷へ[[人質]]として送られ<ref name="岡地1995p76">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.76。</ref>、東ローマ帝国の実質的な支配者だった[[アラン人]]の将軍[[アスパル]]の下で教育を受けた。 |
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イタリアの統治を開始したテオドリックは、隣国との調停を計るため、[[フランク王国]]の王[[クロヴィス1世|クローヴィス]]の妹[[アウドフレダ]]を妻に迎え、娘を[[西ゴート王国]]の[[アラリック2世]]に、妹をヴァンダル王[[トラスムンド]]に嫁がせた。 |
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[[469年]]に{{仮リンク|ボリア川の戦い|en|Battle of Bolia}}で[[パンノニア]]のゴート王の一人[[ウァラメール]]が死亡すると、皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]はテオドリックをウァラメールの代わりとして[[スラヴォニア]]の守備隊へ配属した。テオドリックは[[470年]]に{{仮リンク|ババイ|pt|Babai (rei)}}に率いられた[[サルマタイ人]]との戦いに勝利し、テオドリックの下で戦った6000人の[[従士]]から王として推戴された<ref name="岡地1995p79">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.79。</ref>。これは父ティウディミールが率いる集団とは全く異なる集団においての推戴だった<ref name="岡地1995p80">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.80。</ref>{{Refnest|group="注"|ゴート人が共通して推戴する王や王家といったものはなかった<ref name="岡地1995pp73-76" />。同時期にはティウディミールやウァラメールらの他にも{{仮リンク|ビゲリス|pt|Bigelis}}や{{仮リンク|アンダギス|pt|Andago}}などのゴート人の王に率いられた複数の集団があったことが知られている<ref name="岡地1995pp73-76">[[#岡地1995|岡地1995]]、pp.73-76。</ref>。王とは集団によって認められた[[カリスマ]]的な指導者であり、集団の成員構成が変わるたびに歓呼による推戴の繰り返しが必要だった<ref name="岡地1995p80" />。}}。 |
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[[471年]]、東ローマ帝国の実質的な支配者でテオドリックの師でもあった将軍アスパルが、皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]と{{仮リンク|イサウリア人|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]によって殺害された。アスパルが殺害されると、アスパルに仕えていたゴート人{{仮リンク|オストリュス|pt|Ostris}}を指導者としてコンスタンティノープルのゴート人が復讐の兵を挙げた<ref name="尚樹1999p125">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.125。</ref>。アスパルの姻戚だったゴート人の有力者[[テオドリック・ストラボ]]も[[トラキア]]で兵を挙げ、レオ1世にアスパルの遺産の引き渡しを求めた<ref name="岡地1995p82">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.82。</ref><ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.125。</ref>。多くのゴート人がテオドリック・ストラボの下に集まり、テオドリック・ストラボは[[473年]]に「全ゴート人にたいする王」として推戴された<ref name="岡地1995p82" />。このときテオドリック・ストラボはゴート人としての同属意識に訴えてテオドリックへも自陣営へ加わることを要求したが、テオドリックは皇帝側に与することを選択している<ref name="岡地1995p83">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.83。</ref>。まもなくレオ1世はテオドリック・ストラボと和睦し、テオドリック・ストラボを王として認め<ref name="尚樹1999pp125-126" />、アスパルが就いていた[[マギステル・ミリトゥム]]の地位と年額で金2000[[リーブラ]]の給金を受け取る権利とをテオドリック・ストラボに与えた<ref name="岡地1995p82" /><ref name="尚樹1999pp125-126">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.125-126。</ref>。レオ1世は[[474年]]に死亡し、[[レオ2世 (東ローマ皇帝)|レオ2世]]と[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]の親子が新たに皇帝を名乗った。 |
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彼を、そして東ゴート王国を最も悩ませたのは、宗教問題と後継者問題であった。テオドリックとゴート族の多くは[[アリウス派]]であったが、[[カトリック教会|カトリック]]教徒であった皇帝[[ユスティヌス1世]]([[ローマ法大全]]を編纂させた[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス大帝]]の、叔父にして先代皇帝)はこれを迫害し、東ローマとの関係は次第に悪化した。また、当時としてはテオドリック自身は長寿であったが、後継者となる男子に恵まれないまま[[526年]]に死去した。東ゴート王国にとってはこれが致命的となった。 |
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[[474年]]頃、[[マケドニア属州|マケドニア]]の[[テッサロニキ]]を占領して[[キロス]]へと居を移していた父ティウディミルが死亡した。ティウディミルに従っていた戦士たちの多くはテオドリックの従士団に合流したものと考えられている<ref name="岡地1995p72">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.72。</ref>。 |
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孫[[アタラリック]]、テオドリックの三女でアタラリックの母[[アマラスンタ]]の治世中は東ローマ帝国との関係も良好であったが、アマラスンタとテオドリックの甥[[テオダハド]]の対立といった内部抗争やアマラスンタ暗殺後の東ローマ帝国との約20年に渡る泥沼の死闘([[ゴート戦争]])を繰り広げた末に敗れ、滅亡することになる。王国滅亡後も[[553年]]春から[[554年]]秋にかけての反乱([[東ゴート族]]と同盟を結んだブティリヌスとレウタリス(フランク王[[テウデベルト1世]]の弟)が率いた[[アラマンニ族]]と[[フランク族]]の侵攻)、[[555年]]に最後の東ゴート部隊が[[コンプサ]]で降伏する(多くの兵士たちが[[フランク王国]]に亡命)といったように東ローマ帝国支配下での反乱は続いたが、[[561年]]ないし[[562年]]に[[イタリア北部|北イタリア]]にて反抗勢力を率いていた東ゴート貴族ウィディンが捕らえられて最後の反乱が鎮圧された後、東ゴート族は歴史の表舞台から姿を消した。テオドリックの死から35、6年後のことだった。 |
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[[475年]]、テオドリック・ストラボが皇帝ゼノンに対する反乱{{Refnest|group="注"|レオ1世の妻{{仮リンク|ウェリナ|en|Verina}}やレオ1世の義弟[[バシリスクス]]らを中心とした反乱<ref name="尚樹1999pp127-128" />。翌476年中には鎮圧された<ref name="尚樹1999pp127-128">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.127-128。</ref>。}}に加担してマギステル・ミリトゥムを解任され<ref name="尚樹1999p128">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.128。</ref>、テオドリックが後任のマギステル・ミリトゥムとして任命された<ref name="尚樹1999p128" />。[[476年]]になるとテオドリックには[[パトリキ]](貴族)の地位も与えられた<ref name="岡地1995pp82-83">[[#岡地1995|岡地1995]]、pp.82-83。</ref>。マギステル・ミリトゥムを解任されたテオドリック・ストラボは、報復としてトラキアで略奪を行った<ref name="尚樹1999p128" />。ゼノンはテオドリック・ストラボを公敵と宣言し、テオドリックにテオドリック・ストラボの討伐を命じた<ref name="尚樹1999p128" />。テオドリックは[[478年]]にゼノンと[[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|コンスタンティノポリス元老院]]とにテオドリック・ストラボと和解しないことを約束して出陣した<ref name="尚樹1999p128" />。しかしテオドリックがゴート人を率いて戦場へと到着すると、合流するはずであったローマ人の軍団は到着していなかった<ref name="尚樹1999pp128-129">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.128-129。</ref>。何の援軍もなしにテオドリック・ストラボの軍団と対峙することになったテオドリックは、テオドリック・ストラボによって巧みに説得され、テオドリック・ストラボの陣営へと降った<ref name="尚樹1999p129">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.129。</ref>。テオドリック・ストラボはゼノンとの和解交渉を行い、マギステル・ミリトゥムの地位へと復帰した<ref name="尚樹1999p129" />。テオドリックはマギステル・ミリトゥムから解任された代わりに[[キュステンディル|パウタリア]]の領地を受け取り、[[ドゥラス|ディラヒオン]]へと入城した<ref name="尚樹1999pp129-130">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.129-130。</ref>。 |
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[[479年]]、コンスタンティノープルで反乱が起こった{{Refnest|group="注"|レオ1世の娘{{仮リンク|レオンティア|en|Leontia Porphyrogenita}}やレオンティアの夫{{仮リンク|マルキアヌス (アンテミウスの子)|en|Marcian (usurper)|label=マルキアヌス}}らを中心とした反乱<ref name="尚樹1999pp130-131" />。}}<ref name="尚樹1999pp130-131">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.130-131。</ref>。ほどなく反乱は鎮圧されたが、ゼノンはテオドリック・ストラボも反乱に加担していたものと疑い、テオドリック・ストラボをマギステル・ミリトゥムから解任した<ref name="尚樹1999p131">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.131。</ref>。これを不満としたテオドリック・ストラボは、テオドリックを従えてトラキアを荒らし回った<ref name="尚樹1999p131" />。ゼノンは[[ブルガール人]]にトラキアを与える条件で2人のテオドリックに対抗させようとしたが、テオドリックとテオドリック・ストラボはトラキアに侵入してきたブルガール人を撃退した。しかし[[481年]]、テオドリック・ストラボが[[ギリシャ]]への移動中に野営地で事故死してしまう<ref name="尚樹1999p131" />。テオドリックはゼノンとの和解交渉を開始し、相次ぐ反乱に頭を悩ませていたゼノンもテオドリックとの和解に応じるしかなかった<ref name="尚樹1999p131" />。テオドリックは[[483年]]にマギステル・ミリトゥムに復帰し<ref name="岡地1995pp82-83" /><ref name="尚樹1999p131" />、[[ダキア]]と[[モエシア]]にも領地が与えられた<ref name="尚樹1999p131" />。[[484年]]には東ローマ帝国の最高官職である[[執政官]]の地位にも登った<ref name="岡地1995pp82-83" /><ref name="尚樹1999p131" />。ゼノンはテオドリックを[[485年]]に養子として迎え入れ、テオドリックに「[[フラウィウス]]」の[[ノーメン]]を与えた<ref>[[#ミシュレ2016|ミシュレ2016]]、p.193</ref><ref>[[#佐藤2008|佐藤2008]]、pp.54-55</ref>。テオドリック・ストラボに従っていた者たちは彼の死後には彼の息子{{仮リンク|レキタク|pt|Recítaco}}に従っていたが<ref name="尚樹1999p131" />、そのレキタクも484年に何者かによって殺害され、多くのゴート人はテオドリックの下に集結した。 |
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しかしテオドリックとゼノンの関係は必ずしも良好なばかりではなかった。484年にイサウリア人の{{仮リンク|イルス|en|Illus}}が起こした反乱では、ゼノンは裏切りを警戒してテオドリックをコンスタンティノープルの宮廷に留め置き、テオドリックに従っていた軍隊の指揮権を[[スキタイ人]]の将軍{{仮リンク|スキタイ人のヨハネス (498年の執政官)|en|John the Scythian|label=ヨハネス}}に与えた<ref name="尚樹1999p132">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.132。</ref>。このゼノンの対応にテオドリックは酷く感情を傷つけられた<ref name="尚樹1999p132" />。さらにゼノンがイサウリア人を懐柔しようとしてイサウリア人の将軍[[コトメネス]]にマギステル・ミリトゥムの地位を与えると約束したとき<ref name="尚樹1999p132" />、ついにはテオドリックの我慢も限界に達した。テオドリックは[[486年]]にトラキアを荒らし回り<ref name="尚樹1999p132" />、[[487年]]にコンスタンティノープルを攻囲した<ref name="尚樹1999p132" />。ゼノンはテオドリックに和解の提案を行い、テオドリックを副帝として[[西ローマ帝国]]の統治を委ねる代わりに、ゼノンの対立皇帝{{仮リンク|レオンティウス|en|Leontius (usurper)}}を支持するイタリア領主[[オドアケル]]の討伐を依頼した。テオドリックはゼノンの提案に合意したが<ref name="岡地1995p83" />、ゴート人の多くはテオドリックと分かれて東ローマ帝国に残ることを選択した<ref name="岡地1995p81">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.81。</ref>。[[488年]]、テオドリックは彼に同意した僅かな者たちだけでイタリアへ向けて出発した<ref name="岡地1995p81" />。このときテオドリックが[[イタリア遠征]]のために新たに組織した集団が後に[[東ゴート人]]と呼ばれるようになるのだが、この集団はゴート人を中心としつつも[[ローマ人]]や{{仮リンク|ルギー族|en|Rugii}}等からなる混成集団であり、もともとはゴート人ではなかった者も多かった<ref name="岡地1995p81" />{{Refnest|group="注"|すなわちテオドリックが東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団({{仮リンク|グルトゥンギ|en|Greuthungi}})と、イタリア遠征以降に率いた東ゴート人とは異なる集団だったということである<ref name="南川2013pp159-161">{{Cite book|和書|author=[[南川高志]]|year=2013|title=新・ローマ帝国衰亡史|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784004314264|page=159-161}}</ref><ref name="岡地1995pp80-81">[[#岡地1995|岡地1995]]、pp.80-81。</ref>。これは[[西ゴート人]]と呼ばれるようになった集団についても同様で、最終的に[[イスパニア]]に定着した西ゴート人と[[アラリック1世]]が東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団({{仮リンク|テルウィンギ|en|Thervingi}})は異なる集団だった<ref name="南川2013pp159-161" />。}}。ゼノンはテオドリックのイタリア遠征の結果を見ることなく[[491年]]に死亡した。ゼノンの死後、東ローマ帝国では[[アナスタシウス1世]]が帝職を担った。アナスタシウス1世はテオドリックが残していったゴート人と手を結び、ゼノンがコンスタンティノープルに招き入れたイサウリア人をトラキアへと強制移住させた<ref name="尚樹1999pp134-135">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.134-135。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001pp86-90">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.86-90。</ref>。 |
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=== 西ローマ帝国の統治者として === |
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[[Image:Empire_of_Theodoric_the_Great_523.gif|thumb|[[523年]]時点でのテオドリック大王の統治領域。点描で示された領域は間接的にテオドリック大王の支配下にあった領域。]] |
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テオドリックは[[489年]]に[[イタリア]]へ侵入すると、たびたびオドアケルの軍勢に勝利し、[[490年]]にオドアケルを[[ラヴェンナ]]へと追い詰めた。[[493年]]、テオドリックは交渉によってオドアケルを降伏させ、オドアケルをもてなす酒宴の席でオドアケルを暗殺した。テオドリックはアナスタシウス1世より[[副帝]]および[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]の最高司令官に任ぜられた<ref name="西洋中世史事典_テオドリック">「テオドリック(テオドリクス)大王」『[[#ロイン1999|西洋中世史事典]]』</ref><ref>[[#グラール2000|グラール2000]]、p.77。</ref><ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、pp.84-85。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001p120">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.120。</ref><ref name="尚樹1999p137">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.137。</ref>。またテオドリックは戦勝によってイタリア遠征のために組織された新たな従士団からも王として推戴され<ref name="岡地1995p86">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.86。</ref><ref name="マラヴァル2005p84" />、その称号も[[497年]]にアナスタシウス1世より『栄光この上ない王(rex gloriosissmus)』として公認された<ref name="マラヴァル2005p84" />。アナスタシウス1世はテオドリックに帝衣と帝冠を授け<ref name="マラヴァル2005p84">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.84。</ref>、西ローマ帝国を統治する皇帝大権を与えた<ref name="西洋中世史事典_テオドリック" /><ref name="西洋古典学事典_アナスタシウス1世">「アナスタシウス1世」『[[#松原2010|西洋古典学事典]]』。</ref>。これによってイタリアに[[イタリア王]]と[[東ゴート王国]]が成立したとされる。ただし東ゴート王国の成立はイタリアにローマ帝国と異なる[[国家]]が誕生したという意味ではない<ref name="尚樹1999p157" />。東ゴート王国とはローマ帝国の軍隊駐屯法に従ってイタリア本土に配置された西ローマ帝国の守備隊であり、その領土や住民は依然として西ローマ帝国のものであった。ゴート人が就くことができる公職は軍官に限られ、民政はオドアケルの時代と同様に引き続き西ローマ帝国政府が執り行った<ref name="マラヴァル2005p84" /><ref name="リシェ1974p117">[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.117。</ref><ref name="ピレンヌ1960pp48-49">[[#ピレンヌ1960|ピレンヌ1960]]、pp.48-49。</ref>。テオドリックの発言はローマ帝国の公式な布告であったが、最終的な国法の[[立法権]]は東ローマ帝国の皇帝が保持していた<ref name="オストロゴルスキー2001p120" /><ref name="ピレンヌ1960pp48-49" />。テオドリックは[[500年]]に帝都[[ローマ]]で在位30周年式典を開催している<ref name="岡地1995p71">[[#岡地1995|岡地1995]]、p.71。</ref><ref name="クメール、デュメジル2019p127">[[#クメール、デュメジル2019|クメール、デュメジル2019]]、p.127。</ref>。この式典は皇帝にのみ許された行為であり、テオドリックが西方副帝としての権利を行使したものだが、この式典で祝われた事績はテオドリックがサルマタイ人との戦いに勝利して従士団から王として推戴された470年の出来事だった<ref name="岡地1995pp71-72" />。テオドリックは自身の王権を、皇帝から与えられたものでもなければ父から受け継いだものでもなく、彼自身の戦勝によって獲得したものであるとみなしていたのである<ref name="岡地1995pp71-72">[[#岡地1995|岡地1995]]、pp.71-72。</ref>。 |
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イタリア本土の統治を開始したテオドリックは、西ローマ帝国の各地の軍閥と婚姻関係を結び平穏を保とうとした<ref name="尚樹1999p157">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.157。</ref>。テオドリックは[[フランク人]]の王[[クローヴィス]]の姉妹[[アウドフレダ]]を妻に迎え<ref name="尚樹1999p157" />、[[ヘルール族]]の王の息子を養子とした<ref name="尚樹1999p157" />。テオドリックの姉妹{{仮リンク|アマラフリダ|en|Amalafrida}}は[[ヴァンダル王国]]の王{{仮リンク|トラサムンドゥス|en|Thrasamund}}のもとへ嫁ぎ<ref name="尚樹1999p157" />、娘の{{仮リンク|テオデゴンデ|fr|Téodegonde Amalasunta}}は[[西ゴート人]]の指導者{{Refnest|group="注"|西ゴート人の指導者は王(rex)と呼ばれることを嫌い、代わりに「ローマ帝国の判官」と認められることを好んだ。部族内の有力者は皆が対等とみなされ、王を絶対視する風潮もなかった<ref name="玉置2008p43" />。これはゴート人の伝統と考えられ、[[ドナウ川|ドナウ]]渡河時の{{仮リンク|アタナリック|en|Athanaric}}もローマ皇帝との交渉において王と呼ばれることを拒否している<ref name="玉置2008p43">[[#玉置2008|玉置2008]]、p.43。</ref>。}}[[アラリック2世]]の妻となり、姪の{{仮リンク|アマラベルガ|en|Amalaberga}}は{{仮リンク|テューリンゲン族|en|Thuringii}}の王{{仮リンク|ヘルミニフリドゥス|en|Hermanafrid}}の妻となった<ref name="尚樹1999p157" />。アラリック2世が[[ヴイエ (ヴィエンヌ県)|ヴイエ]]の{{仮リンク|ヴイエの戦い|en|Battle of Vouillé|label=戦い}}で戦死した[[507年]]以降には[[西ゴート王国]]の運営にも積極的に干渉し、[[510年]]に西ゴート人の指導者を[[ゲサリック|ガイセリック]]からテオデゴンデの幼い息子[[アマラリック]]に替え、テオドリック自らが摂政となって西ゴート王国をも直接的に支配した<ref name="玉置2008pp42-44" />{{Refnest|group="注"|西ゴート王国では伝統的に[[選挙君主制]]が採用され<ref name="玉置2008pp43-44" />、血筋による[[世襲]]や[[王朝]]観念は形成されなかった<ref name="玉置2008pp43-44" />。そのため実力者による指導者の交代劇は特に強い抵抗なく受け入れられた<ref name="玉置2008pp43-44">[[#玉置2008|玉置2008]]、pp.43-44。</ref>。}}。この時期のテオドリックは西ローマ帝国にある諸王国の盟主と言える立場にあり<ref name="玉置2008pp42-44">[[#玉置2008|玉置2008]]、pp.42-44。</ref>、その支配域はイタリア本土・[[ヒスパニア]]・[[ガリア・ナルボネンシス|ナルボネンシス]]・[[アフリカ属州|アフリカ]]・[[シチリア属州|シチリア]]・[[ラエティア]]・[[ノリクム]]・[[パンノニア]]・[[ダルマティア属州|ダルマティア]]と広大なものだった<ref name="尚樹1999pp159-160">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.159-160。</ref><ref name="西洋中世史事典_テオドリック" />。 |
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テオドリックは宗教政策においても穏健な政策をとった<ref name="尚樹1999p157" /><ref name="リシェ1974p116">[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.116。</ref>。テオドリック自身は[[アリウス派]]だったが[[カトリック教徒]]にも寛容で、特に要請がない限りは教会の内部事情に干渉しようとはしなかった<ref name="マラヴァル2005p85">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.85。</ref>。そのため代々の[[教皇]]は、教会に干渉しようとするコンスタンティノープルの皇帝よりも異教徒だが教会には不干渉であるテオドリックに好意的だった<ref name="マラヴァル2005p85" />{{Refnest|group="注"|特に当時はゼノンが[[482年]]に発布した『信仰統一勅令』{{仮リンク|ヘノティコン|en|Henotikon}}によって引き起こされた{{仮リンク|アカキオスの分離|en|Acacian schism}}と呼ばれるローマ教会とビザンティン教会の断交期だった<ref name="マラヴァル2005p85" />。}}。[[4世紀]]のゴート人[[ウルフィラ]]によって[[ゴート語|ゴシック語]]に翻訳された[[聖書]]の貴重な[[写本]]である{{仮リンク|アルジェンテウス写本|en|Codex Argenteus}}は、テオドリック治世下のイタリアで作成されたと考えられている。 |
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テオドリックは過去の皇帝たちに倣ってラヴェンナを本拠地としたが、帝都ローマへの敬意も忘れなかった。オドアケルによって再開された[[パンとサーカス]]や銅貨政策はテオドリックの治世でも維持され、湿地の開拓や港湾の整備により経済が活性化し、ローマ市の人口は40万人ほどにまで回復した。[[城壁]]や[[水道橋]]が整備され、[[ポンペイウス劇場]]や[[パラティーノの丘]]にあった諸宮殿も修復された。この時期に修繕されたのであろう[[ウェスタ神殿]]の[[煉瓦]]からはテオドリックを称える刻印が見つかっている。テオドリックはアナスタシウス1世より与えられた紫衣を纏って[[コロッセオ]]や[[チルコ・マッシモ]]に姿を現し、[[ローマ市民]]からの喝采を浴びた。ローマ人の著述家[[カッシオドルス]]はテオドリックを「[[トラヤヌス]]の再来」と称え、当時の碑文はテオドリックを「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」と記録してさえいる<ref name="ピレンヌ1960p49">[[#ピレンヌ1960|ピレンヌ1960]]、p.49。</ref>。オドアケルにテオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、西ローマ帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた<ref>[[:en:Ernst Stein|Ernst Stein]], "Historie du Bas-Empire"</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[エドワード・ギボン]]|translator=[[村山勇三]]|year=1955|title=[[ローマ帝国衰亡史]] 6|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4003340965|page=36}}</ref>{{Refnest|group="注"|この時代に起こったローマ文化の興隆は、歴史学では「東ゴート・ルネサンス」と呼ばれている<ref name="クメール、デュメジル2019p108">[[#クメール、デュメジル2019|クメール、デュメジル2019]]、p.108。</ref>。}}。 |
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しかし、こうした平穏も[[523年]]を転機として崩れ始めた<ref name="尚樹1999p158">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.158。</ref>。この年、西方ではテオドリックの信頼が篤かった教皇[[ホルミスダス (ローマ教皇)|ホルミスダス]]が死亡し、東方ではアナスタシウス1世の死後に皇帝となった[[ユスティヌス1世]]がテオドリックの信仰していたアリウス派への迫害を始めたからである<ref name="尚樹1999p158" />。テオドリックはアリウス派への迫害が西方にまで広がるのを恐れ、教皇や[[元老院]]の動向に疑い深くなった<ref name="尚樹1999pp158-159">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.158-159。</ref>{{Refnest|group="注"|コンスタンティノープルの宮廷ではユスティヌス1世に影響の大きかった[[ユスティニアヌス1世]]がローマ帝国をオルトドクス([[ギリシャ正教]])で統一しようとしていたので、あながちテオドリックの警戒は間違いでもなかった<ref name="尚樹1999pp158-159" /><ref name="マラヴァル2005p86">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.86。</ref>。}}。こうした状況の中で、テオドリックが重用していたローマ人[[ボエティウス]]{{Refnest|group="注"|[[522年]]にはユスティヌス1世がボエティウスの2人の息子{{仮リンク|ボエティウス (522年の執政官)|en|Boethius (consul 522)|label=ボエティウス}}(父と同名)と{{仮リンク|シュンマクス (522年の執政官)|en|Symmachus (consul 522)|label=シュンマクス}}(父ボエティウスの義父と同名)を執政官に任命しているが、これはテオドリックの推薦によるものだった<ref name="尚樹1999p158">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.158。</ref>。}}に謀反の疑いがかけられた<ref name="マラヴァル2005p86" /><ref name="尚樹1999p159" />。ボエティウスは523年に投獄されて翌[[524年]]に処刑され<ref name="尚樹1999p159">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.159。</ref>{{Refnest|group="注"|ボエティウスの著作『[[哲学の慰め]]』は、このとき獄中で書かれたものである<ref name="尚樹1999p159">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.159。</ref>。}}、ボエティウスの義父{{仮リンク|クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス (485年の執政官)|en|Quintus Aurelius Memmius Symmachus|label=シュンマクス}}も524年に投獄されて525年に処刑された<ref name="尚樹1999p159" />。この出来事をユスティヌス1世はテオドリックによる[[カトリック]]への挑戦と受け止めた。[[525年]]になると東方におけるアリウス派への迫害は更に激しいものとなり<ref name="尚樹1999p159" />、テオドリックはアリウス派への迫害を止めさせるべく教皇[[ヨハネス1世 (ローマ教皇)|ヨハネス1世]]をコンスタンティノープルへと派遣した<ref name="マラヴァル2005pp86-87">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、pp.86-87。</ref>。ヨハネス1世は525年にローマを出発して翌[[526年]]にコンスタンティノープルに到着した<ref name="尚樹1999p155" />。コンスタンティノープルにローマ教皇が訪れるのは初めてのことだったので<ref name="尚樹1999p155">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.155。</ref>、教皇はコンスタンティノープルで歓迎を受けた<ref name="尚樹1999p155" /><ref name="マラヴァル2005pp86-87" />。ユスティヌス1世はヨハネス1世の要求を受け入れる条件として教皇からの戴冠を求めた<ref name="尚樹1999p155" />{{Refnest|group="注"|東ローマ帝国では[[聖職者]](通常は[[コンスタンティノープル総主教]])による戴冠が皇帝即位の条件だった<ref name="オストロゴルスキー2001p85">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.85。</ref><ref name="マラヴァル2005p12">[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.12。</ref>。}}。ヨハネス1世はユスティヌス1世への戴冠を行い、アリウス派へ行われていた弾圧をゴート人に対しては例外的に適用しないという妥協案をユスティヌス1世に約束させた<ref name="尚樹1999pp155-156">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.155-156。</ref>。しかしイタリアへと帰国したヨハネス1世はテオドリックから冷たく扱われた<ref name="尚樹1999p156" />。ヨハネス1世の妥協案ではアリウス派への迫害は根本的には解決されていなかったし、ユスティヌス1世を戴冠したことはヨハネス1世と皇帝との結びつきをテオドリックに疑わせるものだった<ref name="尚樹1999p156" />。テオドリックはヨハネス1世をラヴェンナに監禁し、ヨハネス1世は526年[[5月18日]]に獄死した<ref name="尚樹1999p156">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.156。</ref>。教皇への仕打ちはビザンツ皇帝や既にカトリックに改宗していたフランク人らを刺激したが、こうした緊張が本格的な戦争状態に発展しようとしていた[[8月30日]]にテオドリックは没した<ref name="尚樹1999p159" /><ref name="リシェ1974p118">[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.118。</ref>。[[ヨルダネス]]の『{{仮リンク|ゲチカ|en|Getica}}』によれば、テオドリックは死に際して娘の[[アマラスンタ]]と孫の[[アタラリック]]を後継者に指名し、[[元老院]]やコンスタンティノープルの宮廷との友好関係を維持するよう遺言したという<ref name="尚樹1999p159" />。 |
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== 霊廟 == |
== 霊廟 == |
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[[テオドリック廟|霊廟]]は現在でもラヴェンナで見ることができる。 |
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{{main|テオドリック廟}} |
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テオドリックの[[テオドリック廟|霊廟]]は現在でもラヴェンナで見ることができる。霊廟は周辺の幾つかの初期キリスト教会とともに[[1996年]]より「[[ラヴェンナの初期キリスト教建築物群]]」の名称で[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録されている<ref>[http://whc.unesco.org/document/154274 WORLD HERITAGE LIST Ravenna No 788]</ref>。霊廟はテオドリックの生前である[[520年]]に建設が開始され、おそらくは彼の死後に完成した。霊廟の地下室は洪水のために長いこと埋没していたが、[[1918年]]から[[1919年]]にかけて発掘調査が行われ、金メッキの胸当てを含む古代の壁画など多くの遺物が発見された。 |
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== ディートリヒ伝説 == |
== ディートリヒ伝説 == |
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{{出典の明記|date=2019年11月|section=1}} |
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{{Seealso|ヒルデブラントの歌|ニーベルンゲンの歌}} |
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[[Image:Dietrich and Siegfried.png|thumb|火を噴き始めるディートリヒ対ジークフリート。<br />{{small|『[[ヴォルムスの薔薇園]]』の写本の挿絵(15世紀)。[[ハイデルベルク大学]]図書館所蔵Cod. Pal. germ. 359写本第49葉表}}]] |
[[Image:Dietrich and Siegfried.png|thumb|火を噴き始めるディートリヒ対ジークフリート。<br />{{small|『[[ヴォルムスの薔薇園]]』の写本の挿絵(15世紀)。[[ハイデルベルク大学]]図書館所蔵Cod. Pal. germ. 359写本第49葉表}}]] |
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中世ドイツの叙事詩『[[ヒルデブラントの歌]]』、『[[ニーベルンゲンの歌]]』などに登場する人物「ディートリヒ・フォン・ベルン」は、いくぶん伝説化されているものの、テオドリックがモデルである。(なお、この「ベルン(Bern)」とは、現在のスイスの都市[[ベルン]]ではなく、イタリアの都市[[ヴェローナ]]のことである) |
中世ドイツの叙事詩『[[ヒルデブラントの歌]]』、『[[ニーベルンゲンの歌]]』などに登場する人物「ディートリヒ・フォン・ベルン」は、いくぶん伝説化されているものの、テオドリックがモデルである。(なお、この「ベルン(Bern)」とは、現在のスイスの都市[[ベルン]]ではなく、イタリアの都市[[ヴェローナ]]のことである<ref name="EB1911Dietrich">{{Cite EB1911|wstitle=Dietrich of Bern|volume=8|pages=221–222}}</ref>) |
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ブリタニカ百科事典(1911年)によれば、「ディートリヒの伝説は様々な点でテオドリックの生涯と異なっている。これは、ディートリヒの伝説が、元来はテオドリックとは別のものであったことを示唆している |
[[ブリタニカ百科事典第11版]](1911年)によれば、「ディートリヒの伝説は様々な点でテオドリックの生涯と異なっている。これは、ディートリヒの伝説が、元来はテオドリックとは別のものであったことを示唆している」という<ref name="EB1911Dietrich" />。ディートリヒ伝説の時代考証については誤りが多く、たとえば[[エルマナリク]](376年没)や[[アッティラ]](453年没)が、テオドリック(526年没)と同時代の人間だと言うことになっている<ref name="EB1911Dietrich" />。 |
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ディートリヒの物語はいくつか現存しており、これらのものは口承で伝えられてきたと考えられる。ディートリヒが登場する最古の物語は『ヒルデブラントの歌』と『ニーベルンゲンの歌』であるが、いずれにおいてもディートリヒは主要な人物としては描かれていない。 |
ディートリヒの物語はいくつか現存しており、これらのものは口承で伝えられてきたと考えられる。ディートリヒが登場する最古の物語は『ヒルデブラントの歌』と『ニーベルンゲンの歌』であるが、いずれにおいてもディートリヒは主要な人物としては描かれていない。 |
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[[Image:Dietrich_fängt_den_Zwerg_Alfrich_by_Johannes_Gehrts.jpg|thumb|right|ドワーフを生け捕りにするディートリヒ Johannes Gehrts画(1883年)]] |
[[Image:Dietrich_fängt_den_Zwerg_Alfrich_by_Johannes_Gehrts.jpg|thumb|right|ドワーフを生け捕りにするディートリヒ Johannes Gehrts画(1883年)]] |
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後世、ハインツ・リッター=シャウムブルクは『シズレクのサガ』の内容のうち、地形上の記述についてそれが正確であるかを検証した。そのうえで、「ディートリヒ」の伝説の起源はゴート族の王・テオドリックではありえないという結論を出した。そのうえで、リッター=シャウムブルクは叙事詩の英雄は同時代に存在した同名のゴート族であり、それがスウェーデンで「Didrik」とされたのであると主張している。さらに、リッター=シャウムブルクは「ベルン」についてもドイツの「[[ボン]]」を意味しており、ディートリヒはボンを統治していたフランク族の小規模な王族だったと主張している<ref>Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982</ref>。もっとも、この説は多くの学者から反対されている<ref>See, for example, the critical review by Henry Kratz, in ''The German Quarterly'' 56/4 (November 1983), p. 636-638.</ref>,。 |
後世、ハインツ・リッター=シャウムブルクは『シズレクのサガ』の内容のうち、地形上の記述についてそれが正確であるかを検証した。そのうえで、「ディートリヒ」の伝説の起源はゴート族の王・テオドリックではありえないという結論を出した。そのうえで、リッター=シャウムブルクは叙事詩の英雄は同時代に存在した同名のゴート族であり、それがスウェーデンで「Didrik」とされたのであると主張している。さらに、リッター=シャウムブルクは「ベルン」についてもドイツの「[[ボン]]」を意味しており、ディートリヒはボンを統治していたフランク族の小規模な王族だったと主張している<ref>Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982</ref>。もっとも、この説は多くの学者から反対されている<ref>See, for example, the critical review by Henry Kratz, in ''The German Quarterly'' 56/4 (November 1983), p. 636-638.</ref>,。 |
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493年に[[フランク王国]]の王[[クロヴィス1世|クローヴィス]]の妹[[アウドフレダ]]と結婚し、一女をもうけた。 |
493年に[[フランク王国]]の王[[クロヴィス1世|クローヴィス]]の妹[[アウドフレダ]]と結婚し、一女をもうけた。 |
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* [[アマラスンタ]](? - 535年) - 東ゴート女王(在位:534年) |
* [[アマラスンタ]](? - 535年) - [[519年]]の執政官{{仮リンク|エウタリック|en|Eutharic}}と結婚<ref name="尚樹1999p158" />。東ゴート女王(在位:534年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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<references /> |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=[[ゲオルグ・オストロゴルスキー]]|translator=[[和田廣]]|year=2001|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[恒文社]]|isbn=4770410344|ref=オストロゴルスキー2001}} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=[[マガリ・クメール]]|author2=[[ブリューノ・デュメジル]]|translator=[[大月康弘]]・[[小澤雄太郎]]|title=ヨーロッパとゲルマン部族国家|year=2019|publisher=[[白水社]]|isbn=9784560510285|ref=クメール、デュメジル2019}} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=[[ルネ・ミュソ=グラール]]|translator=[[加納修]]|year=2000|title=クローヴィス|publisher=[[白水社]]|isbn=4560058318|ref=グラール2000}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[アンリ・ピレンヌ]]|translator=[[佐々木克巳]]・[[中村宏]]|year=1960|title=ヨーロッパ世界の誕生|publisher=[[創文社]]|isbn=9784423492017|ref=ピレンヌ1960}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ピエール・マラヴァル]]|translator=[[大月康弘]]|year=2005|title=皇帝ユスティニアヌス|publisher=[[白水社]]|isbn=9784560508831|ref=マラヴァル2005}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ジュール・ミシュレ]]|year=2016|title=フランス史[中世]Ⅰ|publisher=[[論創社]]|isbn=9784846015541|ref=ミシュレ2016}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ピエール・リシェ]]|translator=[[久野浩]]|year=1974|title=蛮族の侵入 ゲルマン大移動時代|publisher=[[白水社]]|ref=リシェ1974}} |
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* {{Cite book|和書|author=ヘンリー・R.ロイン|year=2016|title=西洋中世史事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=4887211759|ref=ロイン1999}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[岡地稔]]|editor=[[佐藤彰一]]・[[早川良弥]]|year=1995|chapter=ゲルマン部族王権の成立|title=西欧中世史 [上] 継承と創造|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=4623025209|ref=岡地1995}} |
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* {{Cite book|和書|author=佐藤彰一・[[池上俊一]]|year=2008|title=世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784122050983|ref=佐藤2008}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[尚樹啓太郎]]|year=1999|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[東海大学出版会]]|isbn=4486014316|ref=尚樹1999}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[玉置さよ子]]|editor=[[関哲行]]・[[立石博高]]・[[中塚次郎]]|year=2008|chapter=西ゴート王国の時代|title=世界歴史大系 スペイン史1 古代~近世|publisher=[[山川出版社]]|isbn=9784634462045|ref=玉置2008}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[松原國師]]|year=2010|title=西洋古典学事典|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=9784876989256|ref=松原2010}} |
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== 関連 == |
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2019年12月24日 (火) 12:27時点における版
テオドリック Theodoric | |
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東ゴート王 イタリア王 | |
| |
在位 |
東ゴート王:471年[1] [2][3]- 526年 イタリア王:493年 - 526年 |
出生 |
454年 |
死去 |
526年8月30日 |
埋葬 | ラヴェンナ、テオドリック廟 |
配偶者 | アウドフレダ |
子女 |
ティウディゴート オストロゴート アマラスンタ |
家名 | アマル家 |
父親 | ティウディミール |
母親 | エレリエヴァ[4] |
テオドリック(Theodoric、ゴート語: 𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃、454年 - 526年8月30日)は、東ローマ帝国の軍人および政治家。484年の執政官。ローマ帝国の副帝としてローマ帝国の西半分を統治した[5]。また、497年にイタリア王の称号を認められ、東ゴート王国を成立させた[6]。表記は他にテオデリック(Theoderic, Theoderik)、テオドリクス(羅: Theodoricus)、 テオドーリコ(伊: Teodorico)など。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。
生涯
東ローマ帝国の軍人として
テオドリックは454年にゴート人の有力者の一人ティウディミールの子として生まれた。弟にティウディムントがいる。
461年頃より東ローマ帝国のコンスタンティノープルの宮廷へ人質として送られ[7]、東ローマ帝国の実質的な支配者だったアラン人の将軍アスパルの下で教育を受けた。 469年にボリア川の戦いでパンノニアのゴート王の一人ウァラメールが死亡すると、皇帝レオ1世はテオドリックをウァラメールの代わりとしてスラヴォニアの守備隊へ配属した。テオドリックは470年にババイに率いられたサルマタイ人との戦いに勝利し、テオドリックの下で戦った6000人の従士から王として推戴された[8]。これは父ティウディミールが率いる集団とは全く異なる集団においての推戴だった[9][注 1]。
471年、東ローマ帝国の実質的な支配者でテオドリックの師でもあった将軍アスパルが、皇帝レオ1世とイサウリア人の族長ゼノンによって殺害された。アスパルが殺害されると、アスパルに仕えていたゴート人オストリュスを指導者としてコンスタンティノープルのゴート人が復讐の兵を挙げた[11]。アスパルの姻戚だったゴート人の有力者テオドリック・ストラボもトラキアで兵を挙げ、レオ1世にアスパルの遺産の引き渡しを求めた[12][13]。多くのゴート人がテオドリック・ストラボの下に集まり、テオドリック・ストラボは473年に「全ゴート人にたいする王」として推戴された[12]。このときテオドリック・ストラボはゴート人としての同属意識に訴えてテオドリックへも自陣営へ加わることを要求したが、テオドリックは皇帝側に与することを選択している[14]。まもなくレオ1世はテオドリック・ストラボと和睦し、テオドリック・ストラボを王として認め[15]、アスパルが就いていたマギステル・ミリトゥムの地位と年額で金2000リーブラの給金を受け取る権利とをテオドリック・ストラボに与えた[12][15]。レオ1世は474年に死亡し、レオ2世とゼノンの親子が新たに皇帝を名乗った。
474年頃、マケドニアのテッサロニキを占領してキロスへと居を移していた父ティウディミルが死亡した。ティウディミルに従っていた戦士たちの多くはテオドリックの従士団に合流したものと考えられている[16]。
475年、テオドリック・ストラボが皇帝ゼノンに対する反乱[注 2]に加担してマギステル・ミリトゥムを解任され[18]、テオドリックが後任のマギステル・ミリトゥムとして任命された[18]。476年になるとテオドリックにはパトリキ(貴族)の地位も与えられた[19]。マギステル・ミリトゥムを解任されたテオドリック・ストラボは、報復としてトラキアで略奪を行った[18]。ゼノンはテオドリック・ストラボを公敵と宣言し、テオドリックにテオドリック・ストラボの討伐を命じた[18]。テオドリックは478年にゼノンとコンスタンティノポリス元老院とにテオドリック・ストラボと和解しないことを約束して出陣した[18]。しかしテオドリックがゴート人を率いて戦場へと到着すると、合流するはずであったローマ人の軍団は到着していなかった[20]。何の援軍もなしにテオドリック・ストラボの軍団と対峙することになったテオドリックは、テオドリック・ストラボによって巧みに説得され、テオドリック・ストラボの陣営へと降った[21]。テオドリック・ストラボはゼノンとの和解交渉を行い、マギステル・ミリトゥムの地位へと復帰した[21]。テオドリックはマギステル・ミリトゥムから解任された代わりにパウタリアの領地を受け取り、ディラヒオンへと入城した[22]。
479年、コンスタンティノープルで反乱が起こった[注 3][23]。ほどなく反乱は鎮圧されたが、ゼノンはテオドリック・ストラボも反乱に加担していたものと疑い、テオドリック・ストラボをマギステル・ミリトゥムから解任した[24]。これを不満としたテオドリック・ストラボは、テオドリックを従えてトラキアを荒らし回った[24]。ゼノンはブルガール人にトラキアを与える条件で2人のテオドリックに対抗させようとしたが、テオドリックとテオドリック・ストラボはトラキアに侵入してきたブルガール人を撃退した。しかし481年、テオドリック・ストラボがギリシャへの移動中に野営地で事故死してしまう[24]。テオドリックはゼノンとの和解交渉を開始し、相次ぐ反乱に頭を悩ませていたゼノンもテオドリックとの和解に応じるしかなかった[24]。テオドリックは483年にマギステル・ミリトゥムに復帰し[19][24]、ダキアとモエシアにも領地が与えられた[24]。484年には東ローマ帝国の最高官職である執政官の地位にも登った[19][24]。ゼノンはテオドリックを485年に養子として迎え入れ、テオドリックに「フラウィウス」のノーメンを与えた[25][26]。テオドリック・ストラボに従っていた者たちは彼の死後には彼の息子レキタクに従っていたが[24]、そのレキタクも484年に何者かによって殺害され、多くのゴート人はテオドリックの下に集結した。
しかしテオドリックとゼノンの関係は必ずしも良好なばかりではなかった。484年にイサウリア人のイルスが起こした反乱では、ゼノンは裏切りを警戒してテオドリックをコンスタンティノープルの宮廷に留め置き、テオドリックに従っていた軍隊の指揮権をスキタイ人の将軍ヨハネスに与えた[27]。このゼノンの対応にテオドリックは酷く感情を傷つけられた[27]。さらにゼノンがイサウリア人を懐柔しようとしてイサウリア人の将軍コトメネスにマギステル・ミリトゥムの地位を与えると約束したとき[27]、ついにはテオドリックの我慢も限界に達した。テオドリックは486年にトラキアを荒らし回り[27]、487年にコンスタンティノープルを攻囲した[27]。ゼノンはテオドリックに和解の提案を行い、テオドリックを副帝として西ローマ帝国の統治を委ねる代わりに、ゼノンの対立皇帝レオンティウスを支持するイタリア領主オドアケルの討伐を依頼した。テオドリックはゼノンの提案に合意したが[14]、ゴート人の多くはテオドリックと分かれて東ローマ帝国に残ることを選択した[28]。488年、テオドリックは彼に同意した僅かな者たちだけでイタリアへ向けて出発した[28]。このときテオドリックがイタリア遠征のために新たに組織した集団が後に東ゴート人と呼ばれるようになるのだが、この集団はゴート人を中心としつつもローマ人やルギー族等からなる混成集団であり、もともとはゴート人ではなかった者も多かった[28][注 4]。ゼノンはテオドリックのイタリア遠征の結果を見ることなく491年に死亡した。ゼノンの死後、東ローマ帝国ではアナスタシウス1世が帝職を担った。アナスタシウス1世はテオドリックが残していったゴート人と手を結び、ゼノンがコンスタンティノープルに招き入れたイサウリア人をトラキアへと強制移住させた[31][32]。
西ローマ帝国の統治者として
テオドリックは489年にイタリアへ侵入すると、たびたびオドアケルの軍勢に勝利し、490年にオドアケルをラヴェンナへと追い詰めた。493年、テオドリックは交渉によってオドアケルを降伏させ、オドアケルをもてなす酒宴の席でオドアケルを暗殺した。テオドリックはアナスタシウス1世より副帝およびイタリア本土の最高司令官に任ぜられた[5][33][34][35][36]。またテオドリックは戦勝によってイタリア遠征のために組織された新たな従士団からも王として推戴され[37][38]、その称号も497年にアナスタシウス1世より『栄光この上ない王(rex gloriosissmus)』として公認された[38]。アナスタシウス1世はテオドリックに帝衣と帝冠を授け[38]、西ローマ帝国を統治する皇帝大権を与えた[5][39]。これによってイタリアにイタリア王と東ゴート王国が成立したとされる。ただし東ゴート王国の成立はイタリアにローマ帝国と異なる国家が誕生したという意味ではない[40]。東ゴート王国とはローマ帝国の軍隊駐屯法に従ってイタリア本土に配置された西ローマ帝国の守備隊であり、その領土や住民は依然として西ローマ帝国のものであった。ゴート人が就くことができる公職は軍官に限られ、民政はオドアケルの時代と同様に引き続き西ローマ帝国政府が執り行った[38][41][42]。テオドリックの発言はローマ帝国の公式な布告であったが、最終的な国法の立法権は東ローマ帝国の皇帝が保持していた[35][42]。テオドリックは500年に帝都ローマで在位30周年式典を開催している[43][44]。この式典は皇帝にのみ許された行為であり、テオドリックが西方副帝としての権利を行使したものだが、この式典で祝われた事績はテオドリックがサルマタイ人との戦いに勝利して従士団から王として推戴された470年の出来事だった[45]。テオドリックは自身の王権を、皇帝から与えられたものでもなければ父から受け継いだものでもなく、彼自身の戦勝によって獲得したものであるとみなしていたのである[45]。
イタリア本土の統治を開始したテオドリックは、西ローマ帝国の各地の軍閥と婚姻関係を結び平穏を保とうとした[40]。テオドリックはフランク人の王クローヴィスの姉妹アウドフレダを妻に迎え[40]、ヘルール族の王の息子を養子とした[40]。テオドリックの姉妹アマラフリダはヴァンダル王国の王トラサムンドゥスのもとへ嫁ぎ[40]、娘のテオデゴンデは西ゴート人の指導者[注 5]アラリック2世の妻となり、姪のアマラベルガはテューリンゲン族の王ヘルミニフリドゥスの妻となった[40]。アラリック2世がヴイエの戦いで戦死した507年以降には西ゴート王国の運営にも積極的に干渉し、510年に西ゴート人の指導者をガイセリックからテオデゴンデの幼い息子アマラリックに替え、テオドリック自らが摂政となって西ゴート王国をも直接的に支配した[47][注 6]。この時期のテオドリックは西ローマ帝国にある諸王国の盟主と言える立場にあり[47]、その支配域はイタリア本土・ヒスパニア・ナルボネンシス・アフリカ・シチリア・ラエティア・ノリクム・パンノニア・ダルマティアと広大なものだった[49][5]。
テオドリックは宗教政策においても穏健な政策をとった[40][50]。テオドリック自身はアリウス派だったがカトリック教徒にも寛容で、特に要請がない限りは教会の内部事情に干渉しようとはしなかった[51]。そのため代々の教皇は、教会に干渉しようとするコンスタンティノープルの皇帝よりも異教徒だが教会には不干渉であるテオドリックに好意的だった[51][注 7]。4世紀のゴート人ウルフィラによってゴシック語に翻訳された聖書の貴重な写本であるアルジェンテウス写本は、テオドリック治世下のイタリアで作成されたと考えられている。
テオドリックは過去の皇帝たちに倣ってラヴェンナを本拠地としたが、帝都ローマへの敬意も忘れなかった。オドアケルによって再開されたパンとサーカスや銅貨政策はテオドリックの治世でも維持され、湿地の開拓や港湾の整備により経済が活性化し、ローマ市の人口は40万人ほどにまで回復した。城壁や水道橋が整備され、ポンペイウス劇場やパラティーノの丘にあった諸宮殿も修復された。この時期に修繕されたのであろうウェスタ神殿の煉瓦からはテオドリックを称える刻印が見つかっている。テオドリックはアナスタシウス1世より与えられた紫衣を纏ってコロッセオやチルコ・マッシモに姿を現し、ローマ市民からの喝采を浴びた。ローマ人の著述家カッシオドルスはテオドリックを「トラヤヌスの再来」と称え、当時の碑文はテオドリックを「アウグストゥス」と記録してさえいる[52]。オドアケルにテオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、西ローマ帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた[53][54][注 8]。
しかし、こうした平穏も523年を転機として崩れ始めた[56]。この年、西方ではテオドリックの信頼が篤かった教皇ホルミスダスが死亡し、東方ではアナスタシウス1世の死後に皇帝となったユスティヌス1世がテオドリックの信仰していたアリウス派への迫害を始めたからである[56]。テオドリックはアリウス派への迫害が西方にまで広がるのを恐れ、教皇や元老院の動向に疑い深くなった[57][注 9]。こうした状況の中で、テオドリックが重用していたローマ人ボエティウス[注 10]に謀反の疑いがかけられた[58][59]。ボエティウスは523年に投獄されて翌524年に処刑され[59][注 11]、ボエティウスの義父シュンマクスも524年に投獄されて525年に処刑された[59]。この出来事をユスティヌス1世はテオドリックによるカトリックへの挑戦と受け止めた。525年になると東方におけるアリウス派への迫害は更に激しいものとなり[59]、テオドリックはアリウス派への迫害を止めさせるべく教皇ヨハネス1世をコンスタンティノープルへと派遣した[60]。ヨハネス1世は525年にローマを出発して翌526年にコンスタンティノープルに到着した[61]。コンスタンティノープルにローマ教皇が訪れるのは初めてのことだったので[61]、教皇はコンスタンティノープルで歓迎を受けた[61][60]。ユスティヌス1世はヨハネス1世の要求を受け入れる条件として教皇からの戴冠を求めた[61][注 12]。ヨハネス1世はユスティヌス1世への戴冠を行い、アリウス派へ行われていた弾圧をゴート人に対しては例外的に適用しないという妥協案をユスティヌス1世に約束させた[64]。しかしイタリアへと帰国したヨハネス1世はテオドリックから冷たく扱われた[65]。ヨハネス1世の妥協案ではアリウス派への迫害は根本的には解決されていなかったし、ユスティヌス1世を戴冠したことはヨハネス1世と皇帝との結びつきをテオドリックに疑わせるものだった[65]。テオドリックはヨハネス1世をラヴェンナに監禁し、ヨハネス1世は526年5月18日に獄死した[65]。教皇への仕打ちはビザンツ皇帝や既にカトリックに改宗していたフランク人らを刺激したが、こうした緊張が本格的な戦争状態に発展しようとしていた8月30日にテオドリックは没した[59][66]。ヨルダネスの『ゲチカ』によれば、テオドリックは死に際して娘のアマラスンタと孫のアタラリックを後継者に指名し、元老院やコンスタンティノープルの宮廷との友好関係を維持するよう遺言したという[59]。
霊廟
テオドリックの霊廟は現在でもラヴェンナで見ることができる。霊廟は周辺の幾つかの初期キリスト教会とともに1996年より「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」の名称でユネスコの世界遺産リストに登録されている[67]。霊廟はテオドリックの生前である520年に建設が開始され、おそらくは彼の死後に完成した。霊廟の地下室は洪水のために長いこと埋没していたが、1918年から1919年にかけて発掘調査が行われ、金メッキの胸当てを含む古代の壁画など多くの遺物が発見された。
ディートリヒ伝説
中世ドイツの叙事詩『ヒルデブラントの歌』、『ニーベルンゲンの歌』などに登場する人物「ディートリヒ・フォン・ベルン」は、いくぶん伝説化されているものの、テオドリックがモデルである。(なお、この「ベルン(Bern)」とは、現在のスイスの都市ベルンではなく、イタリアの都市ヴェローナのことである[68])
ブリタニカ百科事典第11版(1911年)によれば、「ディートリヒの伝説は様々な点でテオドリックの生涯と異なっている。これは、ディートリヒの伝説が、元来はテオドリックとは別のものであったことを示唆している」という[68]。ディートリヒ伝説の時代考証については誤りが多く、たとえばエルマナリク(376年没)やアッティラ(453年没)が、テオドリック(526年没)と同時代の人間だと言うことになっている[68]。
ディートリヒの物語はいくつか現存しており、これらのものは口承で伝えられてきたと考えられる。ディートリヒが登場する最古の物語は『ヒルデブラントの歌』と『ニーベルンゲンの歌』であるが、いずれにおいてもディートリヒは主要な人物としては描かれていない。
ディートリヒの伝説で最古のものである『ヒルデブラントの歌』は820年ころに記録されている。作中、ハドゥブラントは、父親のヒルデブラントが、オドアケルの手から逃れるため、ディートリヒとともに東方に向かったことを語っている。このように、ディートリヒ自体はヒルデブラントの物語では背景的に名前が出てくる程度ではあるが、この時代の聞き手がディートリヒについて充分な知識を持っていたことが分かる。そして、作中ではディートリヒ(テオドリック)の宿敵が史実通りオドアケルになっているが、のちの伝説ではオドアケルの演じる役柄がエルマナリクにとって変えられている。なお、史実ではテオドリックがオドアケルに追放されたなどという事実はない。
『ニーベルンゲンの歌』において、ディートリヒはフン族の王・エッツエル(アッティラ)の宮廷で亡命生活をおくるという設定になっている。作中、ディートリヒはブルグント族との戦争においてエッツエル側として参加するが、ヒルデブラントを除く家臣をことごとく戦死させてしまっている。最終的には、ブルグントの戦士・ハゲネとギュンターを一騎討ちで打ち破り、捕虜にすることで戦争を終わらせる活躍をした。
スカンディナビアのサガはディートリヒの帰還を扱っている。最も有名なものは、13世紀にアイスランド人かあるいはノルウェー人の作者がノルウェー語で編集した『シズレクのサガ』である。ここでは本来はディートリヒと無関係であったニーベルングやヴェルンドの伝説を取り入れている。その他、レーク石碑に彫られた碑文や古エッダにも登場している。
後世、ハインツ・リッター=シャウムブルクは『シズレクのサガ』の内容のうち、地形上の記述についてそれが正確であるかを検証した。そのうえで、「ディートリヒ」の伝説の起源はゴート族の王・テオドリックではありえないという結論を出した。そのうえで、リッター=シャウムブルクは叙事詩の英雄は同時代に存在した同名のゴート族であり、それがスウェーデンで「Didrik」とされたのであると主張している。さらに、リッター=シャウムブルクは「ベルン」についてもドイツの「ボン」を意味しており、ディートリヒはボンを統治していたフランク族の小規模な王族だったと主張している[69]。もっとも、この説は多くの学者から反対されている[70],。
13世紀に書かれた『ベルンの書』(Buch von Bern)によれば、ディートリヒはフン族の力を借りて王位を取り戻そうとしたことが書かれている。
子女
氏名不詳の妾とのあいだに二女がいる。
- ティウディゴート - 西ゴート王アラリック2世と結婚
- オストロゴート - ブルグント王ジギスムントと結婚
493年にフランク王国の王クローヴィスの妹アウドフレダと結婚し、一女をもうけた。
脚注
注釈
- ^ ゴート人が共通して推戴する王や王家といったものはなかった[10]。同時期にはティウディミールやウァラメールらの他にもビゲリスやアンダギスなどのゴート人の王に率いられた複数の集団があったことが知られている[10]。王とは集団によって認められたカリスマ的な指導者であり、集団の成員構成が変わるたびに歓呼による推戴の繰り返しが必要だった[9]。
- ^ レオ1世の妻ウェリナやレオ1世の義弟バシリスクスらを中心とした反乱[17]。翌476年中には鎮圧された[17]。
- ^ レオ1世の娘レオンティアやレオンティアの夫マルキアヌスらを中心とした反乱[23]。
- ^ すなわちテオドリックが東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(グルトゥンギ)と、イタリア遠征以降に率いた東ゴート人とは異なる集団だったということである[29][30]。これは西ゴート人と呼ばれるようになった集団についても同様で、最終的にイスパニアに定着した西ゴート人とアラリック1世が東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(テルウィンギ)は異なる集団だった[29]。
- ^ 西ゴート人の指導者は王(rex)と呼ばれることを嫌い、代わりに「ローマ帝国の判官」と認められることを好んだ。部族内の有力者は皆が対等とみなされ、王を絶対視する風潮もなかった[46]。これはゴート人の伝統と考えられ、ドナウ渡河時のアタナリックもローマ皇帝との交渉において王と呼ばれることを拒否している[46]。
- ^ 西ゴート王国では伝統的に選挙君主制が採用され[48]、血筋による世襲や王朝観念は形成されなかった[48]。そのため実力者による指導者の交代劇は特に強い抵抗なく受け入れられた[48]。
- ^ 特に当時はゼノンが482年に発布した『信仰統一勅令』ヘノティコンによって引き起こされたアカキオスの分離と呼ばれるローマ教会とビザンティン教会の断交期だった[51]。
- ^ この時代に起こったローマ文化の興隆は、歴史学では「東ゴート・ルネサンス」と呼ばれている[55]。
- ^ コンスタンティノープルの宮廷ではユスティヌス1世に影響の大きかったユスティニアヌス1世がローマ帝国をオルトドクス(ギリシャ正教)で統一しようとしていたので、あながちテオドリックの警戒は間違いでもなかった[57][58]。
- ^ 522年にはユスティヌス1世がボエティウスの2人の息子ボエティウス(父と同名)とシュンマクス(父ボエティウスの義父と同名)を執政官に任命しているが、これはテオドリックの推薦によるものだった[56]。
- ^ ボエティウスの著作『哲学の慰め』は、このとき獄中で書かれたものである[59]。
- ^ 東ローマ帝国では聖職者(通常はコンスタンティノープル総主教)による戴冠が皇帝即位の条件だった[62][63]。
出典
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- ^ a b c d e f g 尚樹1999、p.159。
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- ^ オストロゴルスキー2001、p.85。
- ^ マラヴァル2005、p.12。
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- ^ リシェ1974、p.118。
- ^ WORLD HERITAGE LIST Ravenna No 788
- ^ a b c Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 8 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 221–222.
- ^ Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982
- ^ See, for example, the critical review by Henry Kratz, in The German Quarterly 56/4 (November 1983), p. 636-638.
参考文献
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- マガリ・クメール、ブリューノ・デュメジル 著、大月康弘・小澤雄太郎 訳『ヨーロッパとゲルマン部族国家』白水社、2019年。ISBN 9784560510285。
- ルネ・ミュソ=グラール 著、加納修 訳『クローヴィス』白水社、2000年。ISBN 4560058318。
- アンリ・ピレンヌ 著、佐々木克巳・中村宏 訳『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1960年。ISBN 9784423492017。
- ピエール・マラヴァル 著、大月康弘 訳『皇帝ユスティニアヌス』白水社、2005年。ISBN 9784560508831。
- ジュール・ミシュレ『フランス史[中世]Ⅰ』論創社、2016年。ISBN 9784846015541。
- ピエール・リシェ 著、久野浩 訳『蛮族の侵入 ゲルマン大移動時代』白水社、1974年。
- ヘンリー・R.ロイン『西洋中世史事典』東洋書林、2016年。ISBN 4887211759。
- 岡地稔 著「ゲルマン部族王権の成立」、佐藤彰一・早川良弥 編『西欧中世史 [上] 継承と創造』ミネルヴァ書房、1995年。ISBN 4623025209。
- 佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年。ISBN 9784122050983。
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316。
- 玉置さよ子 著「西ゴート王国の時代」、関哲行・立石博高・中塚次郎 編『世界歴史大系 スペイン史1 古代~近世』山川出版社、2008年。ISBN 9784634462045。
- 松谷健二『東ゴート興亡史 -東西ローマのはざまにて』中央公論新社〈中公文庫〉 ISBN 4122041996
- 松原國師『西洋古典学事典』京都大学学術出版会、2010年。ISBN 9784876989256。
関連
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