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「強制連行」の言葉を普及させたのは、[[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学]]の教員、朴慶植が1965年に出版した『朝鮮人強制連行の記録』だとされる<ref name="kimurakan"/>{{rp|15}}<ref name="seiron0406">{{Cite journal | 和書 | title = 共通一次・センター試験の自虐25年史 | author = 藤岡信勝| journal = [[正論]] | issue = 2004年6月号 | publisher = 産経新聞社 }}</ref>{{rp|298}}<ref name="pyon" />{{rp|124}}。この本については、無関係な残虐写真が掲載されている他<ref>{{Harvnb|鄭大均|2004|p=145,146}}</ref>、不可解な数字の引用が指摘されている<ref>{{Harvnb|金英達|2003|p=124-129}}</ref>。こうした著者の執筆姿勢を、鄭大均は「『強制連行』を自己実現するためなら、なんでもやってしまう態度」<ref>{{Harvnb|鄭大均|2004|p=146}}</ref>と批判したが、外村大は、歴史事象について他者に伝えようとする場合、史料から浮かび上がってきた史実をもっとも的確に表す語(強制連行)を選び出すのは当然だと擁護した<ref name="tonomura" />。 |
「強制連行」の言葉を普及させたのは、[[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学]]の教員、朴慶植が1965年に出版した『朝鮮人強制連行の記録』だとされる<ref name="kimurakan"/>{{rp|15}}<ref name="seiron0406">{{Cite journal | 和書 | title = 共通一次・センター試験の自虐25年史 | author = 藤岡信勝| journal = [[正論]] | issue = 2004年6月号 | publisher = 産経新聞社 }}</ref>{{rp|298}}<ref name="pyon" />{{rp|124}}。この本については、無関係な残虐写真が掲載されている他<ref>{{Harvnb|鄭大均|2004|p=145,146}}</ref>、不可解な数字の引用が指摘されている<ref>{{Harvnb|金英達|2003|p=124-129}}</ref>。こうした著者の執筆姿勢を、鄭大均は「『強制連行』を自己実現するためなら、なんでもやってしまう態度」<ref>{{Harvnb|鄭大均|2004|p=146}}</ref>と批判したが、外村大は、歴史事象について他者に伝えようとする場合、史料から浮かび上がってきた史実をもっとも的確に表す語(強制連行)を選び出すのは当然だと擁護した<ref name="tonomura" />。 |
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[[崔碩栄]]は、朴慶植が終戦時23歳という年齢でありながら、日本人のように戦地へ送られていないこと自体、強制連行説との矛盾だと指摘した<ref name="sogyon">崔碩栄『韓国「反日フェイク」の病理学』小学館 2019年 ISBN |
[[崔碩栄]]は、朴慶植が終戦時23歳という年齢でありながら、日本人のように戦地へ送られていないこと自体、強制連行説との矛盾だと指摘した<ref name="sogyon">崔碩栄『韓国「反日フェイク」の病理学』小学館 2019年 ISBN 978-4098253463</ref>{{rp|187}}。朴自身、『在日朝鮮人-私の青春』の中で、1929年に一家で[[関釜連絡船]]に乗り平和裏に[[国東半島]]に移住して来たことを明かしている<ref name="seishun">朴慶植『在日朝鮮人-私の青春』三一書房 1981年</ref>{{rp|13-16}}。 |
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なお、「強制連行」は、朴の造語ではない。朴は雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』の1960年5月号に掲載された「戦時中における中国人強制連行の記録」という報告書がヒントになったことを振り返っている<ref name="seishun" />{{rp|193}}<ref name="tonomura" />。 |
なお、「強制連行」は、朴の造語ではない。朴は雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』の1960年5月号に掲載された「戦時中における中国人強制連行の記録」という報告書がヒントになったことを振り返っている<ref name="seishun" />{{rp|193}}<ref name="tonomura" />。 |
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金学順の登場の翌年(1992年1月11日)、再び朝日新聞が「政府見解揺らぐ」<ref name="asahi92">朝日新聞 1992年1月11日 1面</ref>などとして、[[宮澤喜一]]首相の訪韓直前に[[吉見義明]]による資料の発見を一面で報じると{{efn|第三者委員会は、この報道について「首相訪韓の時期を意識し、慰安婦問題が政治課題となるよう企図して記事としたことは明らか」としている<ref name="daisan" />{{rp|18}}。}}、韓国では反日デモが沸き起こり、訪韓した宮沢首相が謝罪に追われた<ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999|p=368}}</ref>。 |
金学順の登場の翌年(1992年1月11日)、再び朝日新聞が「政府見解揺らぐ」<ref name="asahi92">朝日新聞 1992年1月11日 1面</ref>などとして、[[宮澤喜一]]首相の訪韓直前に[[吉見義明]]による資料の発見を一面で報じると{{efn|第三者委員会は、この報道について「首相訪韓の時期を意識し、慰安婦問題が政治課題となるよう企図して記事としたことは明らか」としている<ref name="daisan" />{{rp|18}}。}}、韓国では反日デモが沸き起こり、訪韓した宮沢首相が謝罪に追われた<ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999|p=368}}</ref>。 |
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西岡力によれば、混乱に陥った日本政府は、首相の謝罪は「強制連行」についての謝罪だったのかという西岡の問いに、外務省の担当者が明確に答えられない状況だったという<ref name="nishioka_wakaru">西岡力『よくわかる慰安婦問題(増補新版)』草思社文庫 2012年 |
西岡力によれば、混乱に陥った日本政府は、首相の謝罪は「強制連行」についての謝罪だったのかという西岡の問いに、外務省の担当者が明確に答えられない状況だったという<ref name="nishioka_wakaru">西岡力『よくわかる慰安婦問題(増補新版)』草思社文庫 2012年 ISBN 9784794219428</ref>{{rp|63}}。 |
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あたかも「慰安婦の強制連行」を裏づける資料が発見されたかのような騒ぎになったが<ref>読売新聞 2017年4月24日 8面 「時代の証言者」 秦郁彦(29)</ref><ref name="nishioka_wakaru" />{{rp|37}}、記事にはその様なことは書かれておらず{{efn|ただし、欄外で「(従軍慰安婦とは)約八割が朝鮮人女性・・・挺身隊の名で強制連行した」と解説。(1面)}}、朝日が報じたのは30年前から公開されていた文書で<ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999|p=12}}</ref>、吉見が文書を発見したとされる防衛研究所図書館の専門官も、存在は承知していたが朝鮮人慰安婦に関わる資料ではなかったので報告しなかったとコメントしたように<ref >朝日新聞 1992年1月11日 1面「こういうたぐいの資料があるという認識はあった。しかし、昨年暮れに政府から調査するよう指示があったが、『朝鮮人の慰安婦関係の資料』と限定されていたため、報告はしていない」</ref>、朝鮮人慰安婦とも「強制連行」とも無関係な資料だった。 |
あたかも「慰安婦の強制連行」を裏づける資料が発見されたかのような騒ぎになったが<ref>読売新聞 2017年4月24日 8面 「時代の証言者」 秦郁彦(29)</ref><ref name="nishioka_wakaru" />{{rp|37}}、記事にはその様なことは書かれておらず{{efn|ただし、欄外で「(従軍慰安婦とは)約八割が朝鮮人女性・・・挺身隊の名で強制連行した」と解説。(1面)}}、朝日が報じたのは30年前から公開されていた文書で<ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999|p=12}}</ref>、吉見が文書を発見したとされる防衛研究所図書館の専門官も、存在は承知していたが朝鮮人慰安婦に関わる資料ではなかったので報告しなかったとコメントしたように<ref >朝日新聞 1992年1月11日 1面「こういうたぐいの資料があるという認識はあった。しかし、昨年暮れに政府から調査するよう指示があったが、『朝鮮人の慰安婦関係の資料』と限定されていたため、報告はしていない」</ref>、朝鮮人慰安婦とも「強制連行」とも無関係な資料だった。 |
2019年9月11日 (水) 01:23時点における版
この記事はその主題が日本に置かれた記述になっており、世界的観点から説明されていない可能性があります。 (2013年6月) |
強制連行(きょうせいれんこう)とは実質・程度概念である「強制」「連行」からなる造語[1]。
概説
日本においては、「戦時中に朝鮮人・中国人を労働者や慰安婦として連行した」とする主張があり、他方で朝鮮半島での動員の実態については「通常の戦時徴用であった」とする主張もあり、そもそも「強制連行」と呼ばれるべき事象であったかどうかを巡り議論がある[2][3]。また、「強制連行」という言葉の定義も論者によって一定せず、議論が混乱する原因になっている[3]。
日中戦争以降に国家総動員法及国民徴用令に基づき実施した労務動員では朝鮮人、中国人などが日本内地、樺太、南方の各地に送られ[4]、一部の女性は「慰安婦として強制連行された」とも [5]「奴隷狩り」であったともされる[6]が、これについては研究者間で議論がある(本項で述べる)。「日本軍による強制連行」は強制労働とあわせて論じられることも多い[6]。
概念・定義
国語辞典には、「強制連行」という言葉は殆ど採録されていない(表参照)。例外として『広辞苑』に「強制連行」の言葉が登場したのは2008年になってからであり、91年にこの言葉に先行して「朝鮮人強制連行」の言葉が採録された際には、批判もあった[7]:49。この言葉を「政治的な糾弾の機能を担う造語(藤岡信勝)」[8]:2と見る者もいる。
「強制連行」という言葉は、最初は、中国人俘虜や労務者に対して使われた言葉(中国人強制連行)だったと見られているが[8]:40[9]、金英達や鄭大均によると、日本語の文脈で「強制連行」と記述する場合、ほとんどの場合は国家総動員法を制定した戦時体制下の日本政府(大日本帝国)が朝鮮半島で行った労務動員を指して使われる言葉だという(朝鮮人強制連行)[10]:32[11]:61。
国語辞典には殆ど採録されていないものの、事典類の中には「強制連行」の項目が存在するものもある。「強制連行」ではなく「朝鮮人強制連行」や「中国人強制連行」として項目を立てている事典もある。しかし、これについても執筆者の偏りや政治性を指摘する声がある(後述)。
独立した項目が存在する事典類では、この言葉を、日中戦争から太平洋戦争にかけ国家総動員法や国民徴用令を基に朝鮮人や中国人を労働力として動員した日本の国策と説明している。
定義の不明確さ
「強制連行」という言葉の意味が使用者によって異なり、確立した定義が存在しないという指摘は、この言葉を使用することに肯定的な立場の人々からも、否定的な立場の人々からも上がっている。
- 在日朝鮮人運動史研究家の金英達の著書『朝鮮人強制連行の研究』(明石書店2003年)によれば、「強制連行」という言葉は、「定義が確立しておらず、ひとによってまちまちな受け止め方がなされている」「もともと、強制連行とは、『強制的に連行された』という記述的な用語である。そして、強制や連行は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられていることに混乱の原因がある」と指摘している[3]。
- 藤岡信勝は、「強制連行」という言葉を、政治的な糾弾の機能を担う言葉であるがゆえに、感情を喚起する情動喚起機能が優越しているかわりに対象指示機能がお粗末で、糾弾する側が何にでもこの言葉を貼り付けることが可能な為に、定義も無限に多様化すると分析している。藤岡は、この言葉をサミュエル・I・ハヤカワの言う「唸り言葉」の一種だとし、「彼女は世界中で最も可愛い女だ!」といった言い回しのように、話し手の感情状態を表現しているだけで、対象についての情報を何をもたらさないと述べている[12]:111。
- 木村幹は、「(朝鮮人)強制連行」という言葉を巡る混乱について、用語の多様性よりも各々の論者が言葉の意味を必ずしも明確にしなかったり、時に自らが定義した意味を逸脱して用いていることにあるようだと述べている[6]:16。また、日本での強制連行の研究について「これらの研究の大部分が、そもそもの出発点における研究の目的を、日本による戦争犯罪の追求においており、その結果、必然的に多分な価値判断を含むものになっている」として、その結果、統計のずさんな分析もなされ、また「朝鮮半島における動員を、例えば、内地やあるいは他の植民地における動員と比較し、道徳的、倫理的視点を離れて、この問題を客観的かつ学問的にどのように位置づけるにかについて活発な議論が行われてこなかった」と指摘している[6]。
- 外村大は、「明治維新」など論者によって定義が異なる学術用語は他にも存在するとして、「強制連行」の語に対する批判に反論した。その上で、北朝鮮では「強制連行」という言葉があまり使われていないにも関わらず、北朝鮮が拉致問題を牽制する目的で日本統治時代の「強制連行」を主張しているなどと非難する日本の「国家主義的な歴史観を強めようとする人々」の側が、むしろ「強制連行」の概念を混乱させていると主張している[13]。
「強制連行」の言葉の大衆化
鄭大均は、北朝鮮の媒体には「強制」あるいは「強制的」などという熟語で帝国主義者の行為を罵るという傾向があり、1950年代の日本のコリア論者が、これに影響を受けたとしている。「朝鮮人強制連行」という言葉は、60年代の初期まで左派サークルの一部にのみ知られるジャーゴン(隠語)であったのが、1965年に朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』が刊行され、後にこの本がバイブル化し、80年代に指紋押捺問題やソウルオリンピックの開催で韓国が注目されて日本のマスメディアが日本の戦争犯罪や差別問題を語るようになると「強制連行」の言葉も大衆化した、と鄭は述べている[14]。
サハリン残留韓国人支援運動に携わった新井佐和子は、『朝鮮人強制連行の記録』が世に出た時点では一部にしか知られていなかった「強制連行」の言葉が、吉田清治が現れた70年代後半から朴の本が体制批判の道具として使われ始め、一気に広まったようだと述べている[15]:51(吉田は、82年にサハリン残留韓国人訴訟の法廷で強制連行を証言[16]:178)。
『朝鮮人強制連行の記録』
「強制連行」の言葉を普及させたのは、朝鮮大学の教員、朴慶植が1965年に出版した『朝鮮人強制連行の記録』だとされる[6]:15[17]:298[18]:124。この本については、無関係な残虐写真が掲載されている他[19]、不可解な数字の引用が指摘されている[20]。こうした著者の執筆姿勢を、鄭大均は「『強制連行』を自己実現するためなら、なんでもやってしまう態度」[21]と批判したが、外村大は、歴史事象について他者に伝えようとする場合、史料から浮かび上がってきた史実をもっとも的確に表す語(強制連行)を選び出すのは当然だと擁護した[13]。
崔碩栄は、朴慶植が終戦時23歳という年齢でありながら、日本人のように戦地へ送られていないこと自体、強制連行説との矛盾だと指摘した[22]:187。朴自身、『在日朝鮮人-私の青春』の中で、1929年に一家で関釜連絡船に乗り平和裏に国東半島に移住して来たことを明かしている[23]:13-16。
なお、「強制連行」は、朴の造語ではない。朴は雑誌『世界』の1960年5月号に掲載された「戦時中における中国人強制連行の記録」という報告書がヒントになったことを振り返っている[23]:193[13]。
国語辞典の採録状況
国語辞典(書籍版)における「強制連行」の項目の有無(オンライン辞書では、複数の辞典や事典が横断的に検索される場合がある)。小辞典や学習辞典は除外した。
国語辞典(版) | 強制連行 | 出版社/年/備考 |
---|---|---|
大辞泉(2) | なし | 小学館/12年 |
大言海(新) | なし | 冨山房/94年/大槻文彦編 |
大辞林(3) | なし | 三省堂/06年/小辞典『新明解国語辞典』も同じ。 |
言泉(初) | なし | 小学館/87年/尚学図書言語研究所編 |
学研国語大辞典(2) | なし | 学習研究社/91年/ |
大辞典(復刻) | なし | 平凡社/94年/初版1936年 |
言林(初) | なし | 全国書房/49年/新村出編 |
日本国語大辞典(2) | なし | 小学館/01年 |
国語辞典(2) | なし | 集英社/00年 |
日本語大辞典(初) | なし | 講談社/89年 |
広辞苑(7) | 強制的に連れて行くこと--朝鮮人強制連行。 | 岩波書店/18年/6版(08年)から登場。 4版(91年)から「朝鮮人強制連行」の項目。 |
広辞苑
岩波書店の広辞苑には、4版(1991年)から「朝鮮人強制連行」として登場する[24]。6版(2008年)からは「強制連行」の言葉が、「強制的に連れて行くこと」という解説と共に追加された。例として「朝鮮人強制連行」が挙げられている。
5版(1998年)と6版(2008年)との間の変化をみると、強制連行に関しては「従軍慰安婦」が「慰安婦」に変わるという変化がある。
- 【朝鮮人強制連行】
- (4版1991年1月)日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄などに強制的に連行し労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた。
- (5版1998年11月)日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の従軍慰安婦とされた。
- (6版2008年1月)日中戦争・太平洋戦争期に100万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の慰安婦とされた。
- (7版2018年1月)日中戦争・太平洋戦争期に多数の朝鮮人を日本内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに連行し、工場・鉱山の労務者や戦地の軍夫・慰安婦などとして強制就労・服務させたこと。労務者だけで約七〇万人に達した。
広辞苑に対する批判
谷沢永一は、『広辞苑』を批判した渡部昇一との共著の中で、5版の「・・・多くは強制連行された朝鮮人女性」と解説されていた「従軍慰安婦」の項目について、削除あるいは訂正すべきだとした[25]:210。谷沢は『広辞苑』について、博文館から『辞苑』の版権を取得した岩波書店が『広辞苑』として改訂を重ねる中で、3版から劇的に内容が変わり左翼理論の活発な演習場と化したと主張している[25]:16。
新井佐和子は、初版にあった「朝鮮事変」「朝鮮征伐」などが消え、4版では「朝鮮人虐殺」「朝鮮人強制連行」などと入れ替わっていると指摘(朝鮮関連の用語、5増5減)。説明文の言い回しまで微妙に異なるのは、執筆者が高崎宗司や和田春樹に変ったからだろうかと疑問を呈している[26]:48,49。
事典類の採録状況と解説
百科事典・歴史事典・歴史辞典の書籍版における記述状況。 語釈は原文を要約した。詳しい内容は後段参照。小辞典(事典)や学習辞典は除外した。
百科事典(版) | 強制連行 | 朝鮮人強制連行 | 中国人強制連行 | 出版社/年/執筆者等 |
---|---|---|---|---|
日本大百科全書(2) | なし | 国民徴用令に拠る。39年の内務・厚生次官通牒から。 45年までの強制的労働力動員。 |
なし | 小学館/95年 /執筆:朴慶植 |
大日本百科事典(新装) | なし | なし | なし | 小学館/80年 |
世界大百科事典(07年版) | 国策として中国・朝鮮人を内地等に投入。 国民徴用令に基づく動員計画。[注釈 1] |
「強制連行」参照 | 「強制連行」参照 | 平凡社/09年 /執筆:田中宏 |
丸善エンサイクロペディア(初) | 第二次大戦中、中国・朝鮮人を強制的に軍需動員。 閣議・朝鮮総督府決定。 |
なし | なし | 丸善雄松堂/95年 |
ブリタニカ国際大百科事典(3) | なし | なし | なし | TBSブリタニカ/98年 |
歴史事典(版) | 強制連行 | 朝鮮人強制連行 | 中国人強制連行 | 出版社/年/執筆者等 |
日本歴史大事典(初) | 37年以降の国策。中国・朝鮮人を内地等に投入。 39年動員計画を閣議決定。 |
「強制連行」参照 | 「強制連行」参照 | 小学館/00年/執筆:田中宏 |
日本史大事典(初) | 37年以降の国策。中国・朝鮮人を内地等に投入。 39年に徴用令公布。女子は従軍慰安婦に。 |
「強制連行」参照 | 「強制連行」参照 | 平凡社/93年/執筆:田中宏 |
世界歴史事典(復刊) | なし | なし | なし | 平凡社/92年 |
世界歴史大事典(初) | なし | なし | なし | 教育出版センター/85年 |
歴史辞典(版) | 強制連行 | 朝鮮人強制連行 | 中国人強制連行 | 出版社/年/執筆者等 |
国史大辞典(初) | なし | 15年戦争時の政策。朝鮮にも国民徴用令等を適用。 当初は募集形式の労務動員計画を実施。(姜) |
4万を強制連行。42年に閣議決定。 翌年より試験運用開始。(臼井) |
吉川弘文館/88年 /執筆:姜徳相 臼井勝美 |
日本史広辞典(初) | なし | 労働者を強制的に動員する日中戦争中の政策。 「朝鮮人労務者内地移住に関する件」により許可。 |
42年の閣議決定で試験運用開始。 44年の次官会議決定により本格化。 |
山川出版社/97年 |
日本歴史大辞典(4) | なし | なし | なし | 河出書房新社/90年 |
日本史辞典(初) | 日中・太平洋戦争期に中国・朝鮮人・ミクロネシア人等を 徴用使役した政策。国民徴用令で許可。 |
39年から。総督府の下部機関・警察の圧迫を利用。 従軍慰安婦の動員も。 |
「強制連行」参照 | 岩波書店/99年 |
日本史辞典(初) | アジア太平洋戦争時に政府が中国・朝鮮人に強制した労務動員。 従軍慰安婦も女子挺身隊の名で連行。 |
なし | なし | 角川書店/97年 |
日本史用語大辞典(初) | なし | なし | なし | 柏書房/78年 |
日本近現代史辞典(初) | なし | 公募・官斡旋・徴用など様々な形式も 国の計画に基づき強制的に連行。多数が慰安婦に。 |
軍部が大々的に「労工狩り」。42年、 華人労働者内地移入ニ関スル件が閣議決定。 |
東洋経済新報社/89年 /執筆:井口和起 |
「強制連行」の項目が存在する例
百科事典では平凡社世界大百科事典、同MYPEDIA(前身は平凡社の『小百科事典』)、丸善エンサイクロペディアは独立項目として「強制連行」を記述する。うち平凡社世界大百科事典は田中宏により執筆されている。
- 平凡社の世界大百科事典第2版では「1937年に日中全面戦争に突入して以降,労働力や軍要員の不足を補うために,日本は国策として朝鮮人,中国人を日本内地,樺太,南方の各地に投入したが,駆り集め方が強制的であったためこう呼ばれる。」とし、「38年4月には国家総動員法が,翌年7月には国民徴用令が公布され,日本の内外地における労務動員計画がたてられた(徴用)。39年の動員計画数110万のうち8万5000は朝鮮人に 割り当てられ,各事業主にその狩出しを認可し,42年からは国家自身の手になる 〈官斡旋〉に移行した。」ことが紹介されている[27]。
- 丸善エンサイクロペディアでは「(中国人1943-45、朝鮮人1939-45)第二次大戦中、中国人、朝鮮人を強制的に軍需動員したもの。総力戦体制の一環として、中国人労働者、朝鮮人労働者内地移入に関する件が各々閣議、朝鮮総督府により決定された(後略)」と記述する。
- 角川書店の『角川新版日本史辞典』には「アジア太平洋戦争」時に日本政府が朝鮮人や中国人に強制した労務動員を指して、一般に使われる。戦時統制経済下で、政府は1939年(昭和14年)に労務動員実施計画綱領を作成し、不足する労働力を「移入朝鮮人」で補おうとする方針を立てた。(以下略)」と書かれている。また「連行先は日本国内だけでなく、樺太、東南アジア、太平洋諸国と広範囲におよび、炭坑・土木工事など、危険な重労働につかされたため死傷・逃亡が多かった。朝鮮人の動員数は72万人とも150万人ともいわれ、中国人は約4万人と見られている。」と書かれている[29]。
- 小学館の『日本歴史大事典』も田中宏が執筆しており、要点は『世界大百科事典』と同じ。中国人に対しては、「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」により移入が本格化したとし、中国人の「補償請求訴訟」についても、詳しく解説している。参考文献は、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』、田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行資料』、山田昭次・田中宏編『隣国からの告発--強制連行の企業責任二』。
- 岩波書店の『日本史辞典』では、「強制連行」を戦時中の日本の政策としている。慰安婦にされた者も少なくないとも。対象者に中国人・朝鮮人の他にミクロネシア人が挙げられている。「朝鮮人強制連行」の項目では、募集・官斡旋・徴用の流れで説明。執筆者は不明。編集委員には、強制連行に関する著書もある西成田豊の名前がある(表紙)。「中国人強制連行」に関しては、項目はあるが解説はない。
「朝鮮・中国人強制連行」の項目のみ存在する例
「朝鮮人強制連行」や「中国人強制連行」の項目は存在しても、「強制連行」の項目が存在しない百科事典や歴史事典(辞典)もある。
- 小学館の日本大百科全書には「朝鮮人強制連行」[30]という項目があり、「朝鮮人強制連行の記録」の著者である朴慶植が執筆している。そこでは「朝鮮総督府の官公吏・警察官および会社労務係らが一体となって暴力的に各事業所に強制連行した。それらは割当て動員数を満たすため昼夜を分かたず、畑仕事の最中や、勤務の帰りまでも待ち伏せしてむりやりに連行するなど「奴隷狩り」のような例が多かった。(中略)陸軍慰安婦として数万人の女性が女子挺身(ていしん)隊の名のもとに狩り立てられた。」と記載している。
- 吉川弘文館の『国史大辞典』における、正確な項目名は「朝鮮人強制連行問題」と「中国人強制連行問題」。朴慶植の志を受け継いで建てられた在日韓人歴史資料館[31]の館長を後に務める事になる姜徳相が「朝鮮人強制連行」の項目を執筆している。国家総動員法を公布した日本国が、「国民職業能力申告令」「国民徴用令」などの勅令を相次ぎ発令し、「国家権力の動員計画により、軍部・官憲・資本家が一体となり強制的に動員」したとする。数万人の従軍慰安婦が含まれるとも、連行された120万人を含む当時の在日人口250万人が、現在の在日朝鮮人のルーツであるともしている。「中国人強制連行問題」は、臼井勝美が担当。東条内閣が「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定。中国人労務者の大部分は華北労工協会の取り扱いで、その七割が事実上農村から拉致されたとしている。参考文献として、中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』と、田中宏、内海愛子、石飛仁解説の『史料中国人強制連行』の二冊が挙げられている。
- 山川出版社の『日本史広辞典』。「朝鮮人強制連行」の項目の執筆者は不明。やはり戦時中の政策としている。「中国人強制連行」の項目も執筆者不明。42年の閣議決定から説明。大半は日本軍の捕虜か占領地で強制的に集められたとする。
- 東洋経済新報社の『日本近現代史辞典』は、「朝鮮人強制連行」「中国人強制連行」共に井口和起が執筆。朝鮮人強制連行は、国家の動員計画に基づいて実行されたとしている。参考文献として朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』、朝鮮人強制連行真相調査団の『朝鮮人強制連行強制労働の記録』。中国人強制連行についても東条内閣の閣議決定により5万人が強制連行されたとしている。参考文献は『草の墓標』。
事典類の記述を巡る議論
外村大は、「朝鮮人強制連行」という用語を用いることについて議論があることは認めつつ、大概の歴史辞典に「朝鮮人強制連行」や「強制連行」の項目が存在すると指摘している[32]。
一方、鄭大均は、朴慶植や田中宏の名を挙げ、こうした項目を執筆したのは、殆どが日本の加害者性の糾弾に情熱を注いできた人々だと反論している[33]。
外村大はまた、辞典によっては朝鮮人を日本軍の兵士や軍属、「従軍慰安婦」としたことも強制連行として説明しているケースもある。このような記述はこれまでの歴史研究の成果を反映したものであると書いている[34]。
新井佐和子は、執筆者が朴慶植や姜徳相といった在日朝鮮人や在日韓国人であったり参考文献が彼らの著書であったりする点を指摘し、自国の歴史事典を安易に、あるいは故意に外国人に書かせる事を批判した[35]:50,52。
その他の用例
もっとも、「強制連行」という語そのものは1939年に使用例[36]が見られ、「連行」としてはそれ以前のものが見られる[37]が、訓読「連れ行く」以上の明確な実力行使の意味があったわけではなく、「連行」という語は国語辞典明治37年12月(林幸行、修学堂)[38]や大日本国語辞典1940-(上田萬年・松井簡治共著、富山房)[39]には採録されていない。「人を捕らえて無理に連れていく」意味である「勾引」[40]という用語は刑事訴訟法(旧:大正11年法律75号)による法律用語でもあり、大日本国語辞典(1940-)に採録されている。
国会議事録の検索サービス[41]によれば、戦後、国会でのもっとも古い使用例は1953年11月19日の参議院法務委員会での與謝野光・東京都衛生局長の発言で、都の職員が街娼を検診のため強制的に病院に連れて行ったことを「強制連行」という表現を用いて説明している[42]。
中国人強制連行問題と朝鮮人強制連行問題がそれぞれ1950年代と60年代から国会で取り上げられる一方[43][44]、50年代以降も戦時中の労務動員と関わりなく「強制連行」という表現が国会で用いられた例が存在する。
60年代には、国鉄の労働組合員らが安保闘争の一環として電車の運行を妨害する目的で乗務員を電車から下ろした行為を運輸大臣が「強制連行」と表現した他[45]、70年代には、韓国中央情報部(KCIA)による学生や金大中の拉致事件(金大中事件)に関して「強制連行」という言葉が度々使われている [46][47][48][49][注釈 2]。
戦後一般に、「連行」は公的権力によって連れて行かれることについて使われることが多い。
朝鮮人労務動員
日中戦争が長期化し国家総動員法が成立すると、日本人(内地人)に続き朝鮮半島や台湾出身者も大日本帝国の国民として戦時体制に動員された。朝鮮人強制連行とは、一般的に日中戦争から太平洋戦争まで間の朝鮮人労務動員のことを言う。
「朝鮮人強制連行」という言葉の定義は明確ではないが、金英達は、1939年から始まった国家総動員計画実施にともなう朝鮮人労務者の集団移入を中心に見るのが大方の共通理解であり、通常は兵力動員(軍人・軍属)は含まれないとしている[50]。
「朝鮮人強制連行」の言葉は、鄭大均によれば1960年が初出で[51]、朴慶植が1965年に出版した『朝鮮人強制連行の記録』をきっかけに注目されるようになった[52][18]:124。
近年の新聞(全国紙)では、「(朝鮮人)徴用工」「労務動員」といった言葉が使われている[53] [54][55]。
「朝鮮人強制連行」の範囲
朝鮮人労務者の移入は、(1)朝鮮半島の指定された場所で企業が労務者を募集する「募集」に始まり、(2)その労務者募集を朝鮮総督府が斡旋する「官斡旋」、そして(3)国民徴用令に基づく「徴用」の三段階を踏んで実施された[56]:18。これ以前から、密航を含め、職を求めて朝鮮半島から内地に渡って来る者も多く、どの範囲を「(朝鮮人)強制連行」と呼ぶのかについて、論者の意見は一致していない。
木村幹は、さまざまな論者により様々な含意のもとで用いられた「朝鮮人強制連行」の用法には大きく3つあるとする[57]。すなわち
- 朝鮮半島の人を物理的暴力により力づくで連れてきたもの、という意味で理解するもの。
- 総力戦体制下の戦時動員のすべてを「強制連行」とするもの。
- 植民地支配下における朝鮮半島からの内地へのあらゆる労働移動を「強制連行」と見なすもの。植民地支配そのものが「強制」されたものである以上、そこでのあらゆる労働は「強制」であるとするもの。
「朝鮮人強制連行」という言葉の妥当性を巡る議論
内地人や台湾人も動員されたにも関わらず、強制連行と言う場合ほとんどが朝鮮人についてである(「中国人強制連行」に関しては後述)。これについて金英達は、法的強制力の伴わない「募集」や「官斡旋」であっても朝鮮人に対しては物理的暴力が用いられ、徴用に至っては「公認された人狩り」だったとしている[58]。
こうした主張に対し西岡力は、「募集」の枠外でもその3倍の人間が、朝鮮半島から高賃金に魅かれて内地に渡っていたことなどを上げ、一部で強引なことはあったにしても、出稼ぎ希望者を政府が人気薄の炭鉱や鉱山に配置しようとしたというのが実態ではないかとして、強制連行という表現に異を唱えている[59]:4,10-12。動員計画に応じるふりをして内地に”密入国”するケースも、当時から問題になっていた[60]。
徴用の段階に入ると内地人同様朝鮮人にも拒否する自由がなくなったことについては、論者の意見は一致している。
鄭大均は、(朝鮮人)強制連行という言葉を、朝鮮人は徴兵された日本人の欠員を補う形で炭鉱等に動員されたのだという実態を無視しており、「価値中立的な歴史用語」とは言えないと批判している[61]。
韓国語
高崎宗司によると、韓国では軍人・軍属と(日本語で言うところの)強制連行者を合わせて「被徴用者」ということが多かった[62]:119。反日色の濃い李承晩政権がまとめた「対日請求要綱」の中でも強制連行という言葉は使われておらず、「被徴用韓国人未収金」などの表現があるにとどまる[59]:4。
外村大によると、北朝鮮においても、歴史研究の論文や公的な文書で「強制連行」の語はあまり使われていない[13]。もっとも、デイリーNK[注釈 3]によれば、2019年7月16日、北朝鮮の国営メディアは、20万人の朝鮮人女性と840万人余りの朝鮮人青壮年が日本によって「強制的に連行」され、100万人余りが虐殺されたとする論評を配信した[63]。
強制動員・強制徴用
近年韓国メディアでは「強制動員」「強制徴用」などの言葉が用いられているが[64][65]、これらが日本語の強制連行の完全な同義語かどうかは不明。 釜山には国立日帝強制動員歴史館がある[66]。崔碩栄は、韓国では、たとえ志願であったとしても当事者たちは「強制動員」と表現せざるを得ないと述べている[67]: 129。
落星台経済研究所のイ・オヨンは、現在韓国で最も知られているのは「強制徴用」という言葉だとした上で、徴用(징용)という言葉自体に強制の意味が含まれており、概念として成立しないと述べている[68]。外村大によれば、早くも1945年12月8日の『京城日報』に「強制徴用」の絵が掲載されていたという[69]。
北朝鮮の労働新聞でも「強制徴用」や「強制徴兵」といった言葉が使われている[13]。
盧泰愚大統領訪日時の調査(1990年)
徴用工の問題は、1965年の日韓基本条約(とその付随協約)によって日韓両政府の間で決着していたが、1990年の盧泰愚大統領訪日の際、韓国政府から日本政府に対して改めて「強制連行者」に関する調査が要請された。民主化により市民運動の突き上げが激しくなったことが背景にあると見られている[62]:114,115 。
韓国政府から調査の要請を受けた日本政府は、強制連行に軍人・軍属は含まれないものと理解していたが、韓国側はこれらを含むものと考えており、両政府の間で「強制連行」という言葉の解釈が食い違う場面もあった[62]:118,119。
日本政府は調査の結果、約8万人分の名簿の存在を確認し、その目録を韓国政府に提供した[70]。
中国人労務者
1942年、産業界の要請を入れ、日本政府は戦時下の労働力不足を補う為に「華人労務者内地移入ニ関スル件」[71] を閣議決定し、中国人労働力を国内の国民動員計画産業に導入する方針を決定した。開始は、1944年の次官会議決定(華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件)[72]:62から。 多くの中国人労働者は、当時日本の影響下にあり、満州国を支える労働力の供給地でもあった華北の出身だった[73]:38。 この日本政府による第二次大戦中の中国人労働力の国内産業への導入を、俗に中国人強制連行と呼ぶ。
閣議決定には、契約期間を二年に区切り雇用継続の際は一時帰国させることや、中国人労働者の食習慣への配慮、家族への送金を考慮することなどが決められていたが[71]、国内の食料事情の悪化と物資不足から企業での待遇も悪化し、これを不満とした中国人労働者による暴動も発生した(花岡事件)。死亡率が17.5%という高率に終わった事について、送り出した中国側機関と日本企業の双方に原因があった事が指摘されている[74]。
中国人労働者の総数は、約4万人[75]:228。「中国人強制連行」の言葉は、現在でも新聞紙上で使用例が見られる[76][77][78]。
「中国人強制連行」の仕組み
「華人労務者の内地移入」の仕組みは、日本企業が厚生省に希望する人数を申請し、許可を受けた上で中華民国南京国民政府の施政下にある中国側機関と契約を結び、労働者を日本に招くというものだった[73]:31。労働者集めは中国側が行ったが、華北労工協会のように企業への労働者の割当などを担当する実務に日本人職員が当たっていたケースもある[75]:144,145。
供出方法には四つの形式があったが、このうち中国の行政機関が郷村に人数を割り当てた「行政供出」は、結果的に労務者として相応しくない人間を半強制的に供出させることになったと、終戦直後の外務省の調査で指摘されている[75]:72,73。
中国人労務者は、興亜建設隊として戦争に協力する身分であった為、日本への航海中に死亡した場合、水兵が敬礼し海軍式の水葬を行ったという証言がある一方で[79]:203、「捕虜」たちは隙さえあれば逃げようとしたという証言もある[79]:200。
戦争犯罪説
また軽犯罪者や捕虜が釈放され、契約の下渡日した「訓練生供出」の例も少なくない事から、「中国人強制連行」とは、日本軍が「兎狩り」と称して現地住民を狩り集めたもの(中国人殉難者名簿共同作成実行委員会)[80]:639、あるいは日本軍による三光作戦(殺しつくし焼きつくし奪いつくす)だと考える者もいるが[81]:12、こうした主張には異論もある。
中国人俘虜受難者遺骨問題
1953年に自民党の大谷瑩潤議員が「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」を設立し、中国人労務者の遺骨返還運動を始めた。国会でも「中国人強制連行」という言葉と共に「中国人俘虜(問題)」という言葉が使われた[82]。
慰安婦の強制連行
日本軍慰安婦を巡る論争等については「日本の慰安婦問題」を、慰安婦の募集・動員の仕組みについては「日本の慰安婦」や「慰安所」に詳しい。朝鮮半島での慰安婦の募集については「日本統治時代の朝鮮人徴用#朝鮮人慰安婦問題と強制連行説」も参照のこと。ここでは、「慰安婦の強制連行」という言葉をテーマに扱う。 日本政府は「慰安婦の強制連行」を裏付ける資料は発見出来ないという立場だが [83] 、「慰安婦の強制連行」を事実と考える研究者もいる。
本岡昭次の国会質問
「慰安婦の強制連行」は、1990年6月6日、社会党の本岡昭次の国会での質問をきっかけに政治問題化した。後に本岡が「朝鮮人強制連行問題と関連してその一形態でもある『従軍慰安婦』問題に触れて質問したが・・・これが、『慰安婦』問題を国際問題化させる発端となった」と振り返ったように[84]:3、来日した韓国の盧泰愚大統領の要請で日本政府が戦時中の朝鮮人労務動員者(朝鮮人強制連行)の調査を行っている最中の質問だった。
本岡は「(朝鮮人)強制連行」の根拠となった法令について質問し、回答を受けた後で、強制連行された者の中に従軍慰安婦という形で連行された者があったと指摘した。それに対して、政府は以下のように答えて「慰安婦の強制連行」を否定した[85]。
徴用の対象業務は国家総動員法に基づきます総動員業務でございまして、法律上各号列記をされております業務と今のお尋ねの従軍慰安婦の業務とはこれは関係がないように私どもとして考えられますし・・・そうした総動員法に基づく業務としてはそういうことは行っていなかった、このように聞いております。 — 第118回国会 参議院予算委員会、[23]
海部総理への公開書簡
後に挺対協を結成する尹貞玉らは、この日本政府の答弁に反発し、海部俊樹総理宛ての公開書簡を発表した(1990年10月)。書簡は、吉田清治の証言などを根拠に、日本政府の答弁は事実に反するとし、日本国が朝鮮人女性らを従軍慰安婦として強制動員した事実を認めること(第1項目)など、6項目を日本政府に要求した[86]。
”天皇直属”の日本軍の要請で慰安婦用に「朝鮮人挺身隊」の動員を命ぜられ、済州島や下関の朝鮮人女性を徴用したという元労務報国会の動員責任者の証言もあります。この証言からも従軍慰安婦を動員する業務が徴用の対象業務に含まれていたことは明らかです。 — 公開書簡 内閣総理大臣 海部俊樹貴下
女子挺身隊と慰安婦の混同
慰安婦の強制連行説の背景として、戦時中、国家総動員法に基づき女学生らが工場労働などに動員された女子挺身隊との混同が指摘されている。
朝鮮半島では戦時中から女子挺身隊と慰安婦の混同が見られたが(詳細は、「女子挺身隊」の頁参照)、1973年に千田夏光が著書『従軍慰安婦』の中で挺身隊の名で慰安婦が集められたと書いたことで、改めて誤解が広まった[87]。千田が使った、戦時中には無い「従軍慰安婦」という言葉[注釈 4]が、軍属や従軍看護婦を連想させ、誤解の一因になったとも指摘されている[89][注釈 5]。
80年代に入ると、吉田清治が女子挺身隊として慰安婦を徴用したことを”告白”し始め、「吉田証言」は新聞等を通じて広まった。 そして1991年、「女子挺身隊の名で連行された」金学順が登場し、大きなニュースになった。
吉田証言
慰安婦の強制連行業務に携わった者による貴重な証言として、「吉田(清治)証言」が知られている。吉田清治は、軍の命令を受け、済州島(現韓国)で慰安婦の強制連行を指揮したことを著書で告白した。
吉田によれば、慰安婦の強制連行は陸軍省の極秘通牒によって行われたという。実際に吉田が受けた命令は、西部軍司令官から山口県知事を通じて下関警察署長に下り、吉田が「徴用隊」の責任者として朝鮮に赴いた。命令書には「皇軍慰問・朝鮮人挺身隊200人」と書かれており、吉田は「皇軍慰問の女子挺身隊」とは「従軍慰安婦」のことだったと説明していた[90]:100-103。
しかし、その後、吉田証言は複数の専門家から矛盾を指摘され[注釈 6]、熱心に吉田証言を取り上げていた朝日新聞が、2014年に過去の関連記事を撤回するなど[94]、現在では証言としての価値を疑われている。
90年代に社会党が国会で慰安婦問題を追及し始めた時点では、吉田証言を事実と見なして議論が進行していた[95]。韓国で慰安婦問題を公論化した尹貞玉も、吉田証言を根拠に「慰安婦の強制連行(動員)」を主張していた(海部総理への公開書簡)。
金学順の登場
1991年に金学順が元慰安婦として名乗り出ると、韓国のマスコミの報道よりも日本のマスコミの報道が先行し、朝日新聞や北海道新聞によって、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され・・・売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』(朝日)」[96] 「女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに陵辱された(道新)」[97]と報じられた。
しかしながら、金本人は挺身隊として動員されたとは語っておらず、両紙の記事は事実を伝えていなかった。
吉見義明の発見と朝日のスクープ
金学順の登場の翌年(1992年1月11日)、再び朝日新聞が「政府見解揺らぐ」[98]などとして、宮澤喜一首相の訪韓直前に吉見義明による資料の発見を一面で報じると[注釈 7]、韓国では反日デモが沸き起こり、訪韓した宮沢首相が謝罪に追われた[99]。 西岡力によれば、混乱に陥った日本政府は、首相の謝罪は「強制連行」についての謝罪だったのかという西岡の問いに、外務省の担当者が明確に答えられない状況だったという[100]:63。
あたかも「慰安婦の強制連行」を裏づける資料が発見されたかのような騒ぎになったが[101][100]:37、記事にはその様なことは書かれておらず[注釈 8]、朝日が報じたのは30年前から公開されていた文書で[102]、吉見が文書を発見したとされる防衛研究所図書館の専門官も、存在は承知していたが朝鮮人慰安婦に関わる資料ではなかったので報告しなかったとコメントしたように[103]、朝鮮人慰安婦とも「強制連行」とも無関係な資料だった。
朝日新聞はこれを、「慰安所 軍関与示す資料」というタイトルで報じたが、日本軍に慰安所があった事実(関与)は、アマチュアを含め海外の軍事史家にも知られており、ワルシャワ大のアンジェイ・コズロフスキーは、吉見の”発見”は、そういった人々の目に奇妙(strange)に映ったと述べている[104]。
第三者委員会の報告書は、この頃から朝日新聞が徴募段階における「軍の関与」を「強要・強制」の意味をもつものとして報じていったと指摘している[91]:57。
河野談話
慰安婦問題が外交問題に発展すると、日本政府は事態の鎮静化の為に慰安婦に関する調査を韓国政府に約束せざるを得なくなり、1993年8月4日、河野洋平官房長官がその結果を発表した。「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」は、俗に「河野談話」と呼ばれる。
河野談話発表の前年に加藤紘一官房長官が一次調査の結果を発表していたが[105]、韓国政府から”当時の関係者”の証言等で明らかな強制連行の核心部分がないとコメントされるなど[106]:2、内外の疑念を払拭するには至らなかった。その為、政府は米国国立公文書館まで調査範囲を広げたが、目指す資料を発見することは出来なかった[107]:10。「慰安婦の強制連行」を裏づける資料を発見出来ないまま、韓国政府と意見調整の結果、慰安婦の募集(動員)状況に関する説明は、以下のような形に落ち着いた。
慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。 — 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 平成5年8月4日、[24]
河野談話をまとめるに当たって、韓国側は事前に「一部に強制性があった」というような限定的表現なら大騒ぎになると日本政府に警告しており[108]:6、談話の作成に関わった石原信雄によれば、日本側は「強制性を認めれば、問題は収まる」と考え、外交的判断を優先させたという[109]。発表前に意見を求められた秦郁彦は、この内容では「官憲が強制連行したかのような印象を与える」と切言したが、談話はそのまま発表された[110]。
2015年に中央日報が、慰安婦の強制連行を認定した河野談話は譲れないマジノ線と書くなど[111]、河野談話はその後、日本政府が「慰安婦の強制連行」あるいは「強制動員」を公式に認めたものとして韓国のマスコミに長く認識されることになった[112][113]。
強制連行論の拡張
政府が本岡議員に対し「慰安婦の強制連行」を否定した後も野党議員による追及は続き、マスコミの一部が政府を批判し国会外でも論争が始まると、「強制連行」の語と共に「強制」や「強制性」といった言葉が論争の中で用いられるようになった。「広義の強制連行」という概念が登場し、「慰安婦の強制性」[114][115]といった表現も現れた。こうした傾向を、議論のすりかえと批判する向きもある。
本岡と国会で慰安婦問題を追及していた社会党の清水澄子は、当初は慰安婦について「女子挺身隊として強制連行された朝鮮の女性たちの問題」[116]「国家総動員法に基づいて挺身隊(慰安婦)というのは徴用を受けた」[117]などと述べていたが、93年になると、政府が「(慰安婦に対する)強制」を否定しているとした上で、「強制」という言葉の定義を政府に問い質した[118][注釈 9]。
ところで、政府は強制を立証する資料がないと表明しておられるわけですけれども、政府が考えられる強制というのはどのような内容でございますか。 — 第126回国会 予算委員会、[25]
この質問で清水は、「強制」という言葉は、本人の自由な意思に反してある種の行為をさせるという場合を含むという回答を政府から引き出した。後に清水は、「だましたり脅したりして本人の意思に反して慰安婦にした場合も、強制だとはっきり答弁」したこの時の政府答弁に矛盾するとして、吉田証言や河野談話に否定的な安倍晋三首相(第1次安倍内閣)を批判した[119]。
広義の強制連行
詳細は朝鮮人強制連行#慰安婦問題と強制連行を参照
従軍慰安婦問題の研究者吉見義明も「強制とは『本人たちの意思』に反する行為をさせること」であり「本人の意思に反して連行していくことは『強制連行』」であると定義している[120]:3。民間人による就職詐欺のケースも強制連行に含め朝鮮半島や台湾で慰安婦の強制連行が行われたのは事実であり、軍はこれに通行許可書を発行するなどの関与をしたと主張している[121]。このように拡大された定義を「広義の強制連行」と呼ぶ[122]:35。吉見によれば、自発的に慰安婦になる女性が存在するはずはなく、「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果」なのだという[123]:103。1997年に吉見は「官憲による奴隷狩りのような連行が朝鮮・台湾であったことは確認されていない」とした[124]。しかし、フィリピン、中国、インドネシアでは強制連行があったと主張している[124]。このように吉見らは、インドネシアやベトナムといった戦地で兵士によって女性が拉致されたケースも強制連行に含め、日本外国特派員協会などで発表[125]。日本政府に対するニューヨーク・タイムズなどの厳しい論調を引き出した[126]。
こうした吉見の「広義の強制連行」論は、貧困・就職詐欺や戦地での軍規違反のケースまで含めるなど、強制(連行)という言葉の解釈を拡大する手法には批判も出ている。秦郁彦はこの拡張した定義について「この論理を適用すると、当今の霊感商法やねずみ講のたぐいまで、国は被害者への補償責任を負うことになってしまう」といっている[127]。
朝日新聞の広義の強制性論
金学順のカミングアウトをスクープした1991年の時点では、(朝鮮人)慰安婦を「女子挺身隊の名で戦場に連行された」人々と説明していた朝日新聞だったが[128]、1997年になると、紙面で「強制性」に関する定義づけを行い、日本軍が直接強制連行をしたか否かという狭い視点で問題をとらえようとする傾向は問題の本質を見誤るものであり、全体として「強制」と呼ぶべき実態があったと主張した [129]:20。
朝日新聞は、2014年に再度特集を組み「強制連行 自由を奪われた強制性あった」という記事を掲載した。朝日新聞によれば、同紙は93年以降「強制連行」という言葉の使用を避けていたという[130]。
後に朝日新聞社から同社の慰安婦報道について調査を委嘱された第三者委員会は、朝日新聞が吉田証言の信憑性が揺らいだ92年以降論調を変え「広義の強制性」を主張し始めたのは、「議論のすりかえ」だと結論づけた[131]:25-26。
加害者を明示しない「強制」
朝日新聞英字版
朝日新聞の英字版では、第三者委員会から「広義の強制性」について批判された後も、慰安婦を、戦前および戦中に日本帝国軍部隊に対する性行為を強制された女性たちの婉曲表現(Euphemism for women who were forced to provide sex to Imperial Japanese troops before and during the war)などと解説していたが、誰が強制したかを明示せず読者を誤解させていると批判された。ケント・ギルバートは、日本軍による強制連行と思わせる印象操作だと批判した[132]。
こうした指摘に対し朝日新聞は、当該表現は「意に反して性行為をさせられた」という意味だとして、この表現の使用を中止する考えのない事を表明した。 朝日新聞は、アジア女性基金のウェブサイトに同様の英文があることや、河野談話の存在を拒否の理由に上げている[注釈 10]。同紙は、慰安婦の中には「強制的に連行」された者もいたとも反論した[133]。
この回答に対し、女性の意に反して性行為をさせたのは誰なのかについて再質問されたが、朝日新聞は、以前の回答で意を尽くしているとして答えなかった[132]。
アジア女性基金
アジア女性基金では、「いわゆる従軍慰安婦」について「性的な奉仕を強いられた女性たちのこと」と解説している。朝日新聞の英字版同様、誰が強いたかについては明示されていない[134]。英語と韓国語のページも同様[135][136]。
いわゆる「従軍慰安婦」とは、かっての戦争の時代に、一定期間日本軍の慰安所等に集められ、将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。 — デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金、[26]
韓国における議論
1990年に、日本政府に対し、慰安婦は徴用の対象だったと抗議した尹貞玉らだったが、3年後の93年に挺対協と韓国挺身隊研究会が刊行した『強制連行された朝鮮人慰安婦たち』(日本語版)では、挺身隊研究会の鄭鎭星が、「強制連行」の定義を「詐欺または、暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段」[注釈 11]による動員とし、同書に採録されている慰安婦の大部分が「強制連行」の範疇に入るとした。鄭のこの定義は、吉見義明の著書を参考にしたものだった[137]:26[注釈 12]。
その一方で、韓国軍の慰安婦や在韓米軍相手の売春婦の中にも同様の状況で就業させられたケースが存在したとされ、近年訴訟沙汰になっているにも関わらず[138][139]、挺対協は大きな問題にはしていない[注釈 13]。
朴裕河は、2015年のインタビューで、韓国の研究者も慰安婦の強制連行が事実でない事を理解しているが、公にはそれを言えないと述べている[141]。
「強制連行」を扱った作品
- 雁屋哲原作の漫画「美味しんぼ」に、戦時中高知県に強制連行された韓国人の老人が登場する(「韓国食試合<3>」)。主人公山岡士郎が、日本政府に強制的に連行された結果、1911年に3,000人に満たなかった(内地の)朝鮮人と中国人の人口が、終戦時には230万人を超えたと説明し、韓国では誰もが知っている事実を学校で教わらない日本人が知らないでいる・・・というやり取りが続く[142]:149-152。
センター試験出題問題
2004年の大学入試センター試験において、日本統治下の朝鮮で強制連行が行われたとする文章を選ばせる出題がなされ、物議を醸した[12]:113。最終的に出題自体は有効とされたが、文部科学省と大学入試センターは、従来の方針を転換し、2007年度から問題作成者を公表することを発表した[143]。
強制移住
人類学者の綾部恒雄は、移民と異なり、強制移住によって異郷へ送られ少数民族になったケースとして、英仏戦争の結果、カナダからルイジアナへ移住したフランス系ケージアン、第二次大戦中の日本統治下の朝鮮人、樺太やカザフ共和国における朝鮮人、対独協力をしたとしてウズベク共和国へ強制移住させられたメスヘティア・トルコ人やコーカサス・ボルガ河流域から強制移住させられたイスラム教徒などをあげている[144][145](なお、日本政府は朝鮮半島から強制連行されて来た人々が在日朝鮮人のルーツであるという説を否定している[146])。ほか強制移住のケースとしてはアメリカ合衆国におけるインディアン移住などもある(涙の道参照)。
戦争などで奴隷として強制連行される事例は歴史上多数あり[147]、近代では英仏戦争の結果カナダからルイジアナへ移住したフランス系カナダ人のケイジャン[144][148]や、ソ連による朝鮮人の強制移住[149]やラーゲリなどの強制収容所、対独協力をしたためウズベク共和国へ移住させられたメスヘティア・トルコ人やコーカサス・ボルガ河流域から強制移住させられたイスラム教徒[144][150]、ナチスドイツや中国共産党による強制収容所では強制連行され強制労働に従事させられる事例もある。日本では奈良時代から東北・蝦夷地を対象とした移配や俘囚の制度があったことが知られている。ほかにも第二次世界大戦当時には日系人の強制収容[151]やシベリア抑留[152]などの事例もある。
英語には「強制移住」の他に「強制移動Forced displacement」という言葉もある。「強制移動/強制立ち退き」には、政府や異民族の圧力に限らず自然災害により移住を余儀なくされるケースも含まれる[153]。
大西洋奴隷貿易(黒人奴隷)
大西洋奴隷貿易は、15世紀にポルトガル人によって始められた[154]。主に西アフリカの部族や奴隷商人などに捕らえられた人々がヨーロッパ人に売られ、1000万人前後がや南北アメリカ大陸に奴隷として送られた[155]。ポルトガルは4世紀半の間に450万人の奴隷をアフリカから運び、イギリスは18世紀中だけでも250万人の奴隷移送に関わった[156]。
南米における黒人奴隷
アフリカからブラジルに送られた奴隷は全体の4割に達し(カリブ海地域向けも、ほぼ同じ割合)、北米に送られた5%に比べ遥かに多い[157]。スペイン王室は、スペイン領との奴隷貿易に関して独占的請負制を導入した。その担い手はポルトガルに始まり、最終的にイギリスに移った[158]:27。
カリブ海における黒人奴隷
カリブ海地域の国々では1492年のコロンブスらの到来以降、西欧列強の本格的な海外植民地として、アフリカなどから強制連行されてきた奴隷を使ったプランテーション経営が行われた[159]。カリブ地域は他のラテンアメリカ地域とは異なり、原住民インディオ文化はほぼ完全に絶滅させられたか局所的に残るだけとなり、奴隷として強制連行された西・中央アフリカの黒人の子孫が社会の大多数を占め、アフリカ黒人系文化が重要な位置を占めるに至った[160]。
北米における黒人奴隷
北米のイギリス植民地では18世紀初頭までに奴隷法典が整備され、奴隷制度が広がった[161]:21。イギリスは、王立アフリカ会社に植民地への奴隷貿易を独占させたが、やがてイギリス国旗を掲げる全ての船に権利を開放した[158]:27。独立したアメリカ合衆国で公式に奴隷制度が廃止されたのは1865年である(アメリカ合衆国憲法修正第13条)。
インディアス法(スペイン王国)
16世紀にみられるカスティーリャ王国(スペイン王国)によるアステカ・インカ征服のさい、先住民(インディオ)の虐待、奴隷化が聖職者から告発され、先住民の処遇が問題となった。モンテシーノス修道士の植民者糾弾によりブルゴス諸法が公布されたが、スペインがインディアスを支配する根拠を明白にする必要が生じ、フェルディナンド王はインディオに対する戦闘を正当化させる方策を検討させた。これは「レケリミエント」(催告・勧降状)というものであって、法王の代理人であるスペイン国王の権威、またキリストの信仰を認めなければ懲罰を加えるというものであった。植民者たちはインディオ狩りに際しこの文書を読み上げることを義務付けられ、公証人も同行した。そしてインディオの側から承諾の返事がなければインディオを強制連行することを許可される、というものであった[162]。
アメリカ原住民の強制移住
アメリカ合衆国政府は、1830年にインディアン移住法を制定し、抵抗の意思を放棄した原住民(インディアン)をその本拠地からミシシッピ川以西へと移住させた。この困難な旅路の中で大勢の原住民が命を落とした。チェロキー族のケース(1838年-1839年)では、1万5, 6千人のうち3-4千人が旅の途中で死亡したと言われる[163]。世に言う「涙の道」である。
1860年代には、アメリカ陸軍の発案により、ナバホ族が彼らの本拠地から数百マイル離れた土地に徒歩で移住させられた[164]。ナバホ族は1868年にアメリカ政府と条約を結び、故郷への帰還が叶うが[165]、このロング・ウォーク・オブ・ナバホ(ナバホ族の長旅)でも大勢の犠牲者が出た。
南太平洋におけるブラックバード狩り
19世紀には南太平洋諸島の島民が詐欺や誘拐といった手段でオーストラリアやペルーなどのプランテーションに送り込まれた[166][167]。これを「ブラックバード(クロウタドリ)狩り」と言う。ブラックバードとは、原住民を指すスラングである。バーンズ・フィリップといった商船会社や実業家が関わったとされるが[167]、一国の政府が実行したものではない。逆にオーストラリア政府は、1901年に白豪主義に基づき太平洋諸島出身労働者法によりこうした人々を含めたカナカ人を追放したことで、一家離散などといった悲劇が生じた[167]。
オーストラリアにおける原住民児童の隔離政策
オーストラリアの連邦法や州法によって、原住民の親元から強制的に引き離され白人入植者の養子にされるか施設に入れられた混血児を「盗まれた世代」と呼ぶ。2008年に、ケビン・ラッド首相が1910年から1970年までのこの隔離政策について謝罪した[168] (ただし賠償は行われなかった[169])。南山大学のマイケル・シーゲル教授は、児童の福祉目的で行われた時期(初期・晩期)もあるが、政策の根本理念は優生思想に基づくオーストラリア社会の白人化であったとしている[170]:73。近年になって州レベルで被害者に対して補償を行う例も出てきている[171]。隔離された児童は、10万人を超えるとも言われる[170]:69。
ソ連における朝鮮人移民の強制移住政策
1920年代から1930年代にかけてソ連では朝鮮人移民が問題視され、1926年1月には「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置をとる」ことを外務人民委員が決定し、1930年12月28日には極東地方執行委員会が、朝鮮人への土地の賃貸を完全停止し、また朝鮮人労働者の雇用を禁止した[149]。さらに1937年8月21日にソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会は国境地域からの朝鮮人追放と南カザフスタン州、アラル海とバルハシュ湖周辺、ウズベクへの強制移住を命じた[149]。
第二次世界大戦
日系人の強制収容
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国において、12万人にも及ぶ日系人の強制収容が行われた。南米諸国からも、日系人が合衆国に送られ施設に抑留された。ロナルド・レーガン大統領が「1988年の民権法」に署名。謝罪し補償したが、対象は日系アメリカ人に限定された[172]。1998年、ビル・クリントン大統領が、南米から合衆国に連れて来られた日系人も補償の対象にした[173]。カナダやオーストラリアでも日系人の強制収容が行われた。
アメリカ合衆国の日系人強制収容所
アメリカ合衆国では、陸軍発案の大統領令9066号に基づき、合衆国西部から日系人が強制収容所へ送られた。戦時に敵国人が抑留されること自体は珍しいことではなく、日本にも400人以上の敵国民が抑留されていたが[174]:10、強制収容所に収容された日系人の7割は市民権を持つ二世であり [175]、民族的出自を理由にしたこの様な取り扱いは、ドイツ系やイタリア系アメリカ人に対しては行われなかった[176]。のちにアメリカ議会が設置した調査委員会(合衆国戦時民間人再定住・抑留に関する委員会)は、人種的偏見と戦時ヒステリーに基づくものだったと結論付けている[177]。
南米からの日系人強制送還(追放)
南北アメリカ諸国は、1939年から各国に居住する枢軸国側の国民の取り扱いについて協議を開始。最初に、戦略的要衝であるパナマの日系人が、アメリカの支援でパナマの収容所に抑留された[178]。各国で対応し切れない敵性外国人はアメリカ合衆国に送られる事になっており、日系移民排斥ムードが高まっていたペルーを筆頭に、12カ国の日系人が合衆国へ追放された[179]:63。彼らはいわゆる日系人社会のリーダー層であり、日本軍への協力の嫌疑をかけられ、人数は多くは無いが、米国に強制的に移送される際、パスポートの携帯を許されずあるいは途中で没収されたかの理由により、米国政府から不法移民の地位を付与され司法省移民局管轄の抑留所に監禁された[180]。
ナチスドイツによるKZと外国人労働者政策
ナチスドイツのコンツェントラツィオンス・ラーガー、KZとよばれる施設があった。
大恐慌以降のナチスによる経済政策の結果、1936年以降高失業率は解消され、軍備拡大政策にともなう諸工業の発展は逆に深刻な労働力不足をもたらした。近隣諸国との労働者派遣に関する二国間協定により国外から労働力が集められたが、それは市民労働者と戦時捕虜としての外国人労働者が含まれていた。1941年以降には強制収容所労働者がドイツ軍需産業に投入され、1942年以降にはフリッツ・ザウケルを中心に3年に渡りヨーロッパ占領地区から労働従事者を強制連行した[181][182]。
ソ連におけるラーゲリ
ソ連では政治犯や戦争捕虜が強制収容所(ラーゲリ)に入れられた。
シベリア抑留
第二次大戦の終結後、スターリンは「国家防衛委員会決定No.9898(俗に、スターリン秘密指令)」を極東戦線の司令官らに送り、日本人捕虜をソビエト連邦内に移送し強制労働に従事させるよう指示した[183]:58。日本軍人の立場は正式には捕虜だったが、旧軍関係者の感情に配慮し、一般的に「抑留者」と呼ばれる。移送先も広大な地域に及んだが、これも一般的に「シベリア抑留」と呼んでいる[184]:37。寒さや飢えなどで、5.5万人以上が死んだと言われる[184]:43。ソ連は大戦で多くの人的資源を失っており、イワン・コワレンコ元ソ連共産党中央委国際部副部長は、抑留は戦後復興の労働力を確保するために、対日参戦前から決まっていたという内容の証言をしている[184]:35。ロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されていることが明らかになっているが、これには重複分も含まれていると見られる[185]。200万人以上との説もある[186]。ポツダム宣言では、武装解除後兵士を家庭に復帰させることになっていたにもかかわらず、シベリア抑留は最長11年に及んだ[187]:105。日本人以外にも、ドイツ人やハンガリー人捕虜など、計416万人がソ連で強制労働に従事させられた[183]:79。
中国共産党による日本人捕虜・居留民への強制連行
また、第二次世界大戦終結後、中国に残留していた日本人のなかには中国共産党によって中華民国政府との戦争や技術取得のために強制的に連行された者もあった[188]。連行された者には小学生[189]や女子高校生のような10代の若者もおり、数年間に渡って戦争の支援をさせられた[188]。1946年2月3日には、八路軍の圧政に蜂起した日本人が虐殺される通化事件が発生している。
他方、国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[190]。
バントゥースタン(南アフリカ共和国)
バントゥースタンは、人種隔離政策(アパルトヘイト)を取る南アフリカ共和国が、黒人居住地として作った10の疑似国家である。ホームランドとも呼ばれる。南ア共和国政府は、人口の75パーセントを占める黒人を、国土の13パーセントの痩せ地に隔離し、これらを国家として独立させようとしたが、国際社会の承認は得られなかった。原住民は、部族ごとにそれぞれのバントゥースタン(ホームランド)を指定され、その市民権が与えられる代わりに、南ア共和国の市民権と政治的権利を剥奪された[191]。これによって、黒人は豊かな都市部(白人居住地)から強制的に排除された。黒人はパス法により身分証明書の携帯を義務付けられ、自由に移動したり都市に住むことが出来なかった。バントゥースタンは、アパルトヘイトの廃止と共に1994年に消滅した。
アルゼンチン軍政期
アルゼンチンでは軍事政権期(1976-83年)に3万人以上が軍の強制連行により行方不明になったとされる。1979年に「5月広場の母たちの運動」が結成され、行方不明者の調査と不法逮捕者の釈放を求める要望書に2万4000人の署名が集められた[192]。
現代の強制連行
チベット人の強制連行
チベット亡命政府や大紀元は、チベット人僧侶やダライ・ラマ14世を支持する者が中国共産党によって「強制連行」され続けていると継続的に主張している[193][194]。
労働改造所
北朝鮮の強制収容所
現在でも北朝鮮では強制収容所が存在する。
アメリカ合衆国グァンタナモ米軍基地問題
2000年代でもアメリカ軍によってグァンタナモ米軍基地へ非軍人を含むアフガニスタン人、イラク人が収容され、アムネスティ・インターナショナルから「対テロ戦争を口実にした収容所での人権侵害」と告発され、オバマ大統領は閉鎖を命じたが、2015年現在まだ閉鎖されていない(グアンタナモ湾収容キャンプ参照)。
脚註
注釈
- ^ 84年版から。81年版には「強制連行」の項目なし。
- ^ 他にも第72回参議院外務委員会、同衆議院地方行政委員会、第80回衆議院予算委員会、第82回衆議院法務委員会、同衆議院予算委員会など。
- ^ 北朝鮮専門のニュースサイト。編集長:高英起
- ^ 千田以前にも「従軍慰安婦」という呼称を用いた例はある[88]。
- ^ 従軍看護婦は、国に対しては義務を負わなかったが、日赤に対して応召の義務があり、戦時中(半強制的に)戦地へ派遣された。
- ^ 外村大や永井和、秦郁彦から軍の指揮系統や現地の軍の状況と矛盾すると指摘されている[91]:31[92]。秦は済州島の住民に聞き取り調査を行い、吉田証言を詐話と結論付けた[93]。
- ^ 第三者委員会は、この報道について「首相訪韓の時期を意識し、慰安婦問題が政治課題となるよう企図して記事としたことは明らか」としている[91]:18。
- ^ ただし、欄外で「(従軍慰安婦とは)約八割が朝鮮人女性・・・挺身隊の名で強制連行した」と解説。(1面)
- ^ この前年に歴史学者の秦郁彦が済州島での調査結果を公表してから、吉田証言の信憑性に疑いが生じていた(詳細は吉田清治の頁参照)。
- ^ 河野談話には、意に反して性行為をさせられたとは書かれていない。
- ^ 婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約が指定する「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」第2条
- ^ その一方で鄭は、日本政府が詐欺などの手法を用い、騒ぎにならぬよう主として下層階級の女性を連行したとも述べている。(同書)
- ^ 挺対協は、こうした女性の存在に言及したり支援団体を表彰したりする事はあるが、それ以上の事はしていない[140]。
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