「中国軍管区司令部跡」の版間の差分
大日本革命解放鎮撫軍大総督 (会話 | 投稿記録) →歴史: 内容修正。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
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|名称 = 中国軍管区司令部跡 |
|名称 = 中国軍管区司令部跡 |
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|旧名称 = 中国軍管区司令部防空作戦室 |
|旧名称 = 中国軍管区司令部防空作戦室 |
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|画像 = [[ファイル: |
|画像 = [[ファイル:廣島護國神社.jpg|300px]] |
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|画像説明 = 入り口と原爆被災説明板<br />内部見学中止の告知もある |
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|用途 = [[遺構]] |
|用途 = [[遺構]] |
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|旧用途 = |
|旧用途 = |
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|設計者 = |
|設計者 = |
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|構造設計者 = |
|構造設計者 = |
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|設備設計者 = |
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|施工 = |
|施工 = |
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|建築主 = [[大日本帝国陸軍]] |
|建築主 = [[大日本帝国陸軍]] |
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|事業主体 = 広島市 |
|事業主体 = [[財務省]](所有)・[[広島市]](貸与) |
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|管理運営 = 公 |
|管理運営 = (公財)広島市みどり生きもの協会 |
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|構造形式 = [[鉄筋コンクリート構造]] |
|構造形式 = [[鉄筋コンクリート構造]] |
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|敷地面積 = |
|敷地面積= |敷地面積ref= |敷地面積備考= |
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|建築面積 = |
|建築面積= |建築面積ref= |建築面積備考= |
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|延床面積= |延床面積ref= |延床面積備考= |
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|延床面積 = 208m<sup>2</sup><ref name="yomiuri20100418">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1223733489918_02/news/20100418-OYT8T00002.htm|title=投下最初の一報発信|publisher=読売新聞|date=2010-04-18|accessdate=2010-04-25}}</ref> |
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|状態 = |
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|階数 = 半地下式一階建 |
|階数 = 半地下式一階建 |
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|高さ = |
|高さ = |
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|エレベーター数 = |
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|駐車台数 = |
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|着工 = |
|着工 = |
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|竣工 = |
|竣工 = |
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|開館開所 = |
|開館開所 = |
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|改築 = |
|改築 = |
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|解体 = |
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|所在地郵便番号 = |
|所在地郵便番号 = |
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|所在地 = [[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[基町]]21番1号 |
|所在地 = [[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[基町]]21番1号 |
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|緯度度 =34 |緯度分 =24 |緯度秒 =02.4 |N(北緯)及びS(南緯) = n |
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|位置 = {{ウィキ座標度分|34|24|2|N|132|27|34|E|yes|}} |
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|経度度 =132 |経度分 =27 |経度秒 =33.5 |E(東経)及びW(西経) = e |
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|文化財指定 = |
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|地図国コード = |
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|指定日 = |
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|位置図種類 = Japan |
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|文化財 = |
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|指定・登録等日 = |
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|備考 = |
|備考 = |
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}} |
}} |
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'''中国軍管区司令部跡'''(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[基町]]にある、[[大日本帝国陸軍]][[中国軍管区]]司令部防空作戦室の[[遺構]]。 |
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[[ファイル:Map of Remains of Chugoku Military District Headquarters.png|300px|right|thumb|赤の矩形が中国軍管区司令部跡の位置]] |
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{{multiple image |
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旧陸軍の防空作戦室は全国に6ヶ所あったことはわかっており{{efn2|北海道は[[月寒送信所]]、九州は[[大濠公園]]内<ref>{{Cite web|publisher=鹿児島大学|url=https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/dosokai/dosokai/enkaku/7kou/sensou/nagasaki_genbaku/ueyama1999/13-7kousei_hibaku/13-01-huiuchi.htm|title=長崎原爆被爆の記録|accessdate=2020-02-10}}</ref>にあった。}}、ここは現存唯一のものになる{{r|600_sirouya61}}。[[広島市への原子爆弾投下]]の第一報を外電した場所であり、現存する[[被爆建造物|被爆建物]]の一つ。国史跡[[広島城|広島城址公園]]内にあり本丸を囲む内堀の石垣付近に位置し、[[広島護国神社]][[境内]]隣にある。半地下式[[鉄筋コンクリート]]平屋造。入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。 |
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| footer = 被爆前後の広島城本丸。司令部は本丸左下の3つ並ぶ建物。 |
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| align = right |
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広島城本丸は、復元された天守閣建物のみ広島市所有、本丸上段は[[文部科学省]]所有行政財産、本丸下段のうち神社部分のみ[[宗教法人]]広島護国神社所有、残りが[[財務省]]所有普通財産になる{{Sfn|あり方|2019|p=4}}{{Sfn|あり方|2019|p=33}}。本丸下段にある中国軍管区司令部跡は、財務省が所有し広島市に無償貸与され、管理運営は[[公益財団法人]]広島市みどり生きもの協会が行う{{r|chugoku20200204}}{{r|yomiuri20100418}}{{Sfn|あり方|2019|p=33}}。 |
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| width = 150 |
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| image1 = Hiroshima Castle 25july1945.jpg |
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かつては平和学習目的のみ屋内見学が許可され、その場合は事前に協会に予約する必要があった{{r|yomiuri20100418}}。2017年から安全性が確保できないという理由で内部見学禁止処置がとられている{{r|600_sirouya61}}{{r|chugoku20200204}}{{Sfn|あり方|2019|p=28}}。 |
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| caption1 = 被爆前。 |
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| image2 = Hiroshima Castle 11august1945.jpg |
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== 背景 == |
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| caption2 = 被爆後。 |
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{{See|日本本土防空|本土決戦|中国軍管区}} |
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広島城は1871年(明治6年)[[広島鎮台]]のち[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]、1894年(明治27年)[[広島大本営]]が置かれるなど国内での主要軍事拠点として機能しており、[[天守]]を取り囲むように様々な陸軍関係の建物が建設された{{r|exh080702}}{{r|tikagoqa}}。[[太平洋戦争]]末期になると陸軍は本土決戦を想定して組織を再編する{{r|600_sirouya61}}。なお一般人の立ち入りは禁止されていた{{r|chugoku20050320}}。 |
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防空作戦室の建設時期は1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)初めごろとされ、突貫工事で建てられたとされている{{r|yomiuri20100418}}{{r|chugoku20170803}}。その後1945年6月22日[[中部軍管区 (日本軍)|中部軍管区]]から分離する形で中国軍管区が発足する{{r|177_shirouya45}}。 |
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{{OSM Location map |
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|coord = {{coord2|34|24|05.7|N|132|27|39.4|E}} |
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| mini-file=Hiroshima Castle 25july1945.jpg |
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| scalemark = 10 |
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|mark-coord1 = {{coord2|34|24|06.6|N|132|27|35.0|E}} |
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|label1 =大本営跡|label-pos1 = top|label-size1 = 12|mark-size1 = 0 |
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|mark-coord2 = {{coord2|34|24|04.6|N|132|27|32.0|E}} |
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|label2 =1号庁舎|label-pos2 =top|label-size2 = 12|mark-size2 = 0 |
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|mark-coord3 = {{coord2|34|24|03.7|N|132|27|36.2|E}} |
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|label3 =2号庁舎|label-pos3 =top|label-size3 = 12|mark-size3 = 0 |
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|mark-coord4 = {{coord2|34|24|03.1|N|132|27|29.4|E}} |
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|label4 =講堂|label-pos4 =top|label-size4 = 12|mark-size4 = 0 |
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|mark-coord5 = {{coord2|34|24|03.2|N|132|27|30.7|E}} |
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|label5 =3号庁舎|label-pos5 =top|label-size5 = 12|mark-size5 = 0 |
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|mark-coord6 = {{coord2|34|24|00.1|N|132|27|35.0|E}} |
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|label6 =4号庁舎|label-pos6 =top|label-size6 = 12|mark-size6 = 0 |
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|mark-coord7 = {{coord2|34|24|10.0|N|132|27|32.3|E}} |
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|label7 =天守|label-pos7 =top|label-size7 = 12|mark-size7 = 0 |
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|mark-coord8 = {{coord2|34|24|02.3|N|132|27|33.6|E}} |
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|label8 =防空作戦室|label-pos8 =top|label-size8 = 14|mark-size8 = 0 |
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| caption =1945年時点での建物配置と同年7月25日時点の空中写真。1号庁舎には参謀部、2号庁舎には管理部・兵務部、3号庁舎には医務室などが置かれていた<ref>{{Cite web|author=比治山女子高校教員チーム|url=http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago/sireimap.html|title=当時の司令部のようす|archivedate=2020-01-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200128205955/http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago/sireimap.html|accessdate=2020-02-10|}}</ref>。 |
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}}{{-}} |
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防空作戦の本来の任務は、中国地方5県の上空を飛ぶ敵味方の飛行機情報を一元的に集め、司令官が[[高射砲]]隊や航空隊へ指揮命令を行うともに、防空警報([[空襲警報]]・警戒警報)を発令・解除することであった{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}。ただ大戦末期に[[日本本土空襲]]が激しくなると、敵機に対する防空警報を発令・解除することが主な任務{{efn2|なお[[大日本帝国海軍]]の方は[[呉鎮守府]]司令部が担当している{{r|177_shirouya45}}。}}となった{{r|177_shirouya45}}。その敵機を監視する[[防空監視哨]]は、陸軍が設置し軍人によって運営されたものと民間の警防団が管理していたものがあり、24時間体制で監視し軍用通信の有線電話で防空作戦室へ情報を送っていた{{r|177_shirouya45}}。監視哨は1945年3月時点で中国5県で100ヶ所以上、県内に33ヶ所あった{{r|177_shirouya45}}。 |
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防空作戦室では軍人・[[軍属]]の他、学徒通信隊([[学徒出陣|学徒動員]])として比治山高等女学校(現[[比治山女子中学校・高等学校|比治山女子高等学校]])3年生、また一部の卒業生が軍属としても勤務している{{r|177_shirouya45}}{{r|exh080702}}。一般人立入禁止の軍重要施設に女学生が用いられたのは、当時比治山高等女学校は[[偕行社]]附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったためとされる{{r|tikagoqa}}{{r|chugoku20150707}}。彼女たちは1945年5月に50人が、同年8月には90人が動員された{{r|chugoku20050320}}。1班30人の3班編成で、日勤8時-17時/夜勤17時-8時/夜勤明け全休、の3交代昼夜兼行で勤務した{{r|chugoku20050320}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}{{r|chugoku20150707}}。 |
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== 施設 == |
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{{Superimpose2 |
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| base = An Overview of the Hiroshima Castle as Seen From a Hotel Rooftop as Secretary Kerry Visited the City (26277888562).jpg |
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| base_width =300px |
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| base_style = float:right |
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| base_caption =[[リーガロイヤルホテル広島]]から撮影。ほぼ[[爆心地]]側から見た風景にあたる。 |
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| float =Descenso.png |
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| float_width = 20px |
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| x = 156 |
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| y = 95 |
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}} |
}} |
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防空作戦室の整備計画、図面や記録資料はほぼ破棄されており現存していない{{r|chugoku20140825}}{{r|chugoku20200204}}{{Sfn|大東|十河|2016|p=15}}。現在判っている情報は、当時勤務していたものの証言や後の発掘調査から構築されている。 |
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'''中国軍管区司令部跡'''(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[基町]]にある、[[中国軍管区]]司令部防空作戦室の[[遺構]]。 |
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=== 立地 === |
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[[大日本帝国陸軍]]の軍管区の一つであり、かつて半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていた。現存する[[被爆建造物|被爆建物]]の一つであり、ここが[[広島市への原子爆弾投下]]の第一報を外に向けて伝えた場所である(被爆当時の状況は当該リンク先参照)。 |
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{{ external media |
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| topic = 被爆後の広島城。木々がほぼない状況でも場所がわからない。 |
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| align = right |
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| width = 300px |
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| image1 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3390.jpg Hiroshima aerial A3390] - 南側から撮影。 |
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| image2 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3386.jpg Hiroshima aerial A3386] - 東南側から撮影。 |
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| image3 = [http://www.japanairraids.org/wp-content/uploads/2010/09/Hiroshima-aerial-A3393.jpg Hiroshima aerial A3393] - 東北側現在の中国放送本社側から撮影。写真上端中央付近に防空作戦室がある。 |
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}} |
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防空作戦室は広島城本丸の南端、内堀の石垣沿いに置かれた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}。敵航空機から発見されにくいように半地下構造とした{{r|yomiuri20100418}}{{r|tikagohori}}。上に土が盛られ木々が数本植えてあり、上空から見るとそこに建物があるとわからなかった{{r|tikagohori}}{{r|yomiuri20100418}}。これは現在でも同じ状況であり、広島護国神社側から見てもその全体像はわからない。 |
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== |
=== 配置 === |
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広島護国神社に隣接する入り口から入ると、内部は4つの部屋からなる{{r|600_sirouya61}}。入り口側(西側)から、情報室、通信室、指揮連絡室、防空作戦室(作戦司令室)、と呼ばれた{{r|600_sirouya61}}{{r|tikagobroom}}。 |
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[[広島城|広島城址公園]]内の[[広島護国神社]][[境内]]、城の内堀の石垣付近にある。半地下式[[鉄筋コンクリート]]平屋造。 |
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; 防空作戦室(作戦司令室) |
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施設は広島市が所有し、[[公益財団法人]]広島市みどり生きもの協会が管理している。普段は立ち入り禁止。平和学習目的のみ屋内見学が許可され、その場合は事前に協会に予約する必要がある<ref name="yomiuri20100418" />。 |
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: 中四国に点在した[[防空監視哨]]から情報がここに集められ、それを元に[[参謀]]や[[将校]]が防空警報の発令と解除を行っていた{{r|600_sirouya61}}。 |
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: 壁には防空監視哨の位置を示す電球が埋め込まれた、中国地方と四国北部の地図があった{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}{{r|tikagobroom}}。幅5・6mほどの大きな地図で、電灯は70から80個埋め込まれていたという{{r|tikagossmap}}。監視哨からの情報は隣の部屋に集まり情報室にある機械のスイッチを入れると、防空作戦室の地図の電球が点灯し、敵機がどう飛来しているかわかるようになっていた{{r|tikagobroom}}。 |
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: 室内にはテーブルとイスそして2・3段のひな壇が設けられ、そこに数人の軍人が座って地図を見ながら分析して警報発令・解除が判断され、それを隣の指揮連絡室や情報室にメモと電光板で伝え、そこから各地へ連絡していた{{r|177_shirouya45}}{{r|tikagobroom}}。 |
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: 同室内に薄板で区切られた場所があり、夜間に臨時ニュースを流す簡易放送局として用いられた{{r|tikagobroom}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}。広島中央放送局([[NHK広島放送局]])から放送部員・アナウンサー・技術員の3人が夜間常駐していた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}。 |
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: また防空作戦室にのみ将校専用出入り口が設けられていた{{r|tikagobroom}}。 |
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{{ external media |
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また入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。 |
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| topic = ヒロシマピースツーリズムによる動画 |
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| align = right |
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| width = 300px |
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| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=I3xoaY1qXtE 中国軍管区司令部跡内部] |
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}} |
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; 指揮連絡室 |
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: 防空作戦室から指示を受け役所や主要軍事施設へ電話連絡していた{{r|tikagosroom}}。任務は学徒通信隊の比治山高等女学校生徒2、3人が担当した{{r|tikagosroom}}。 |
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: ブザーが鳴ると防空作戦室側の小窓からメモが渡された{{r|tikagosroom}}。小窓は普段布で目隠しされていた{{r|tikagosroom}}。 |
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:: メモには場所・時間・防空警報の種類・発令あるいは解除、の4つが書かれていた。警戒警報が「ケ」空襲警報が「ク」、発令が「ハ」解除が「カ」で表した{{r|tikagomemo}}。 |
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:: 例「広島 0813 ケハ」広島8時13分警戒警報発令、を意味する{{r|tikagomemo}}。 |
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: そのメモを見て、2台の電話交換機で陸軍病院や軍需工場・役所などへ同時に一斉に連絡、長机に置かれた6台の電話機で各地の指令部や高射砲隊・飛行場などに連絡した{{r|tikagosroom}}。 |
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; 通信室 |
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== 歴史 == |
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: 通信兵10人ほどが常駐し、モールス信号で通信していた{{r|600_sirouya61}}{{r|tikagotroom}}。またアメリカの通信を聞いて、それを送っていたという{{r|tikagotroom}}。 |
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広島城は[[1894年]](明治27年)[[広島大本営]]が置かれて以降主要軍事拠点として機能しており、[[太平洋戦争]]に入ると[[天守]]を取り囲むように様々な軍関係の建物が建設された。 |
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; 情報室 |
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戦争末期<ref>竣工年は不明だが[[1944年]](昭和19年)か[[1945年]](昭和20年)とみられている。</ref>、[[空襲]]下でも指揮できるよう[[シェルター]]機能を兼ねた半地下式RC平屋構造で司令部防空作戦室が作られた。[[1945年]](昭和20年)[[6月12日]]には、本土決戦に備え[[広島師管区]]が中国軍管区に改称され、[[天皇]]に直隷し中国地方を管轄することとなった。 |
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: 防空監視哨からの敵航空機の目撃情報を専用の情報機で受け取り、防空作戦室の地図の電球のスイッチを押すところ{{r|600_sirouya61}}。 |
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: 比治山高等女学校生徒10数人が担当し、責任者として分隊長(上等兵)が見守っていたという{{r|tikagojroom}}。 |
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[[ファイル:Chugokukankusireibu chikago02.JPG|250px|right|thumb|木の後ろが前室。]] |
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同年[[8月6日]]、[[被爆]]。周りの建物は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した。ここは[[爆心地]]から790mに位置したがその強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した(被爆前後の状況詳細は[[広島市への原子爆弾投下#第一報 8月6日]]を参照)。 |
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他、これらの北側に前室(あるいは保管室)と呼ばれた付帯建物がある{{r|600_sirouya61}}。2020年現在完全閉鎖され一切入ることはできない{{r|600_sirouya61}}。 |
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; 前室 |
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: 内部がどう使われていたが詳細は判っていない。[[御真影]]が飾られていた{{r|tikagohroom}}とも、重要書類が収められていた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=304}}とも言われていた{{r|600_sirouya61}}。空調が効いていたとする証言が残っているため、空調関係の機器が置かれていたと推定されている{{r|600_sirouya61}}。 |
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また、通信室の指揮連絡室の境目北側に煙突がある。ただ調査では煙突につながる穴が確認されていない。そのため現在慰霊碑がある位置、司令部跡の床面の更に下に何らかの空間があり発電あるいは蓄電機が置かれていた可能性があると推定されている{{r|600_sirouya61}}{{r|chugoku20170803}}。 |
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[[1956年]](昭和31年)、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]建設を期に広島護国神社が広島城址公園内に移転してくると、ここは神社の倉庫として使用された。 |
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=== 構造 === |
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[[1990年]](平成2年)、被爆50年目間近になり、市に移管され歴史的な被爆建物として保存された。 |
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{{ external media |
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| topic = ヒロシマピースツーリズムによる360度VR動画 |
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| align = right |
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| width = 250px |
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| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=BDQAD26D2iM 中国軍管区司令部跡 (内部) 防空作戦室] |
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| video2 = [https://www.youtube.com/watch?v=hBTJ6q_cPW0 中国軍管区司令部跡 (内部) 指揮連絡室] |
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| video3 = [https://www.youtube.com/watch?v=u-FUBk4ql2Q 中国軍管区司令部跡 (内部) 情報室] |
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}} |
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[[鉄筋コンクリート造]]半地下式1階建{{Sfn|大東|十河|2016|p=15}}。延床面積208m<sup>2</sup>{{r|yomiuri20100418}}{{Sfn|大東|十河|2016|p=15}}。大戦末期は[[金属類回収令]]が施行されるなど鋼材が不足していた時期であったが、軍の重要施設であったため鉄筋が用いられたと推定されている{{r|chugoku20150615}}。実測による間取りは以下の通り。 |
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* 防空作戦室 : 6.1m×12.50m{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}} |
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* 指揮連絡室 : 6.1m× 4.53m{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}} |
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* 通信室 : 6.1m×2.16m{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}} |
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* 情報室 : 6.1m×5.23m{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}} |
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* 前室 : 不明 |
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天井高は入り口付近で約1.8m{{Sfn|大東|東城|十河|2018|p=63}}。ただし防空作戦室の床のみ他と比べて30cmほど深い{{Sfn|大東|東城|十河|2018|p=62}}。入り口は2つあったが{{r|tikagonaibu}}、防空作戦室側の入り口は塞がれて現在は1つのみ。小窓は10ヶ所ほどある{{r|tikagonaibu}}。 |
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コンクリート強度は不明{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。骨材は最大寸法40mm程度で川砂利・川砂が用いられたと考えられ、比較的硬練のものを突き固めて製造していると考えられている{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。 |
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== 構造 == |
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延床面積208m<sup>2</sup><ref name="yomiuri20100418" />。天井高は約1.9m、壁厚は50cmもあり、上部は土で覆われ木も生えている状況で一見するとわからなくなっている<ref name="yomiuri20100418" />。 |
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天井の部材厚は75cm{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。また天井には鉄筋だけでなく[[鉄骨]]も配置されていると考えられている{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}}。つまり天井は被弾する可能性が高いため強固に作られたと考えられている{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。土被り厚は不明だが、被弾緩衝ではなく目隠しの意味合いが強かったと考えられている{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。設計強度は推定で100kg爆弾が直撃しても貫通できない程度のものであったと推定されている{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。 |
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中は5つの部屋に仕切られており、当時は入口側からそれぞれ「情報室」「無線通信室」「指揮連絡室」「作戦司令室」と呼ばれた。 |
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壁には鉄筋が入っている。壁厚は入り口付近が45cmであるため、他の壁も40cm強であると推定されている{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}}。壁が天井と比べて薄いのは、被弾を考慮していなかったためと推定されている{{Sfn|大東|十河|2016|p=17}}。ただし南の堀側の壁のみ無筋であり、上部から下部に向かって部材厚が太くなっている{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}}。そのため、内堀石垣に隣接する南側壁のみ擁壁構造とし更に鋼材を節約して無筋としたと推定されている{{Sfn|大東|十河|2016|p=16}}。 |
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作戦司令室は、文字通り[[参謀]]や[[将校]]が作戦を練るところ。壁には[[防空監視哨]]の位置を示す電球が埋め込まれた中国地方と四国北部の地図があった。小窓を布で隠すなど外から中の様子が分からないよう処理され、軍人用の入り口が別に設けられていた。片隅には臨時ニュースを流すときのため広島中央放送局([[NHK広島放送局]])アナウンサーが待機する場所も設けられていた。 |
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床もコンクリート製でモルタル仕上げ{{Sfn|大東|東城|十河|2018|p=63}}。また電気・通信系の配線に用いたと推定される溝がある{{Sfn|大東|東城|十河|2018|p=64}}。戦後、木の床板が敷かれた{{Sfn|大東|東城|十河|2018|p=62}}。 |
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指揮連絡室は、作戦司令室からの伝票を受け役所や主要軍事施設へ電話連絡していた。[[学徒出陣|学徒動員]]で来ていた比治山高等女学校(現[[比治山女子中学校・高等学校|比治山女子高等学校]])生徒2、3人で担当した<ref>情報を扱う軍にとって最重要拠点に動員学徒の女生徒が用いられたのは、当時比治山高等女学校が[[偕行社]]附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったことから。</ref>。 |
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天井には蛍光灯が並びとても明るかった{{r|chugoku20150615}}、夏暑い時期でも室内は空調が効いて涼しかった{{Sfn|大東|十河|2019|p=77}}、被爆直後も電気が確保されていた{{Sfn|大東|十河|2019|p=77}}、という証言が残る。 |
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無線通信室には通信兵が入っていた。 |
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== 沿革 == |
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情報室は、防空監視哨からの電話を受け取るところで、ここのスイッチを操作すると作戦司令室の壁の地図の電球が点滅した。比治山高等女学校生徒10人程度で担当。 |
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=== 被爆直前の警報 === |
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以下、中国軍管区司令部が1945年8月13日作成した資料『八.六廣島市被害状況』内の「敵機ノ來襲並二警報発令状況」と、広島市公式『広島原爆戦災誌』に記載されている、8月1日から6日8時15分までの警報発令状況を示す。 |
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{| class="wikitable" style="text-align: left;" |
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!rowspan="2"|日!!rowspan="2"|時間!!colspan="2"|防空警報!!rowspan="2"|備考 |
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!警戒!!空襲 |
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|rowspan="4"|1日||21:06||発令||-||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|22:15||解除||-||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|23:01||発令||-||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|23:22||||発令||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|rowspan="2"|2日||00:12||||解除||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|00:17||解除||-||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|3日||-||-||-||なし{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|4日||23:50||発令||-||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|rowspan="4"|5日||00:35||解除||-||{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|21:20||発令||-||{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|21:27||||発令||rowspan="2"|山口県[[宇部市]]に飛来したB29の一団に反応したものとされる{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|23:55||||解除 |
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|- |
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|rowspan="8"|6日||00:25||||発令||rowspan="2"|この夜は兵庫県[[西宮市]]が空襲されている{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|02:10||||解除 |
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|- |
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|02:15||解除||-||{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|07:09||発令||-||rowspan="2"|天候偵察機B29[[ストレートフラッシュ (航空機)|ストレートフラッシュ]]に反応したもの{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}} |
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|- |
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|07:31||解除||- |
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|- |
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|08:06||colspan="3"|(松永防空監視哨は大型2機発見と報告{{r|177_shirouya45}}) |
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|- |
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|08:09||colspan="3"|(同哨は3機と修正報告{{r|177_shirouya45}}) |
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|- |
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|08:15||colspan="3"|B29[[エノラ・ゲイ]]により広島市への原爆投下 |
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|} |
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{{OSM Location map |
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|label3 =西条(西條)|label-pos3 =top|label-size3 = 10|mark-size3 = 10 |
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| caption =エノラ・ゲイを初視認した松永防空監視哨は現在の福山市役所松永支所の南側にあった{{r|reference}}。なお松永の通報は『広島原爆戦災誌』では呉鎮守府の記録として記載している{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=25}}が、『八.六廣島市被害状況』に同じ内容の記載があるため防空作戦室はその通報を受け取っていたと考えられている{{r|177_shirouya45}}。 |
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}} |
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8月以前まで頻繁に警報が発令されたが、8月に入ってから急に少なくなり2日から4日までほぼなかった{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}}。この2、3日間で市民は不思議に思っていた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}}、あるいは広島は空襲されないという希望的な推察が流布していた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=23}}。そして5日から急に増えることになる{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=15}}。 |
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8月6日、7時31分警戒警報解除以降なにもなかったため、中国軍管区司令部防空作戦室の軍人たちは宿舎に戻っていたという{{r|chugoku20050320}}。一方で学徒通信隊(比治山高女生徒)は8時が夜勤と日勤の交代時間であったが、8月6日朝は大本営前で行われていた比治山高女の朝礼が長引いたため、8時を過ぎても夜勤の第2班が勤務していた{{r|chugoku20050320}}{{r|chugoku20150707}}。比治山高女教師と第1班第3班の約60人ほどは、8時15分被爆時には大本営前で竹槍の戦闘訓練中であった{{r|yomiuri20100418}}{{r|nhkhiroshima}}。 |
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また、当時は重要書類を入れていた資料室や、すぐそばに鉄塔もあった。 |
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一般に、広島原爆投下直前に防空警報は発令されていない、とされている{{r|600_sirouya61}}{{r|177_shirouya45}}。ただし警報を発信した、あるいは警報を聞いたという証言も残っている{{r|600_sirouya61}}{{r|177_shirouya45}}。 |
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<gallery> |
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* 『八.六廣島市被害状況』には「本状況ニ依リ警戒警報ヲ發令セントスルヤ〇八一五爆撃ヲ受ク」とあり、明確に警報発令したとは書かれていない{{r|177_shirouya45}}。 |
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Chugokukankusireibu chikago01.JPG|四角い穴は竣工当時からある小窓。司令部跡の上に木が生えているのがわかる。 |
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* 中国軍管区司令部で勤務していた人物(名前省略)は防空作戦室勤務の兵長から聞いた話を手記にまとめている。それによると、松永防空監視哨からの通報を受け兵長が食事中の参謀や将校がいる将校集会所へ報告に行き、それを受けて中尉と少尉は警戒警報では間に合わないので空襲警報発令しようと防空作戦室へ急いで帰り、広島中央放送局に電話し「8時12分、中国軍管区情報、敵大型3機、西条上空を西進中、空襲警報発令」と叫んだ、という{{r|600_sirouya61}}{{r|177_shirouya45}}。 |
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Chugokukankusireibu chikago02.JPG|木の後ろが司令部跡の半地上部分。 |
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{{Superimpose2 |
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</gallery> |
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| base =Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg |
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}} |
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{{Vertical_images_list |
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|寄せ=右 |
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|1=Hiroshima Castle 11august1945.jpg|2=1945年8月11日 |
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|3=Chugokukankusireibu chikago01.JPG|4=衝撃波が入ってきた小窓 |
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}} |
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* 指揮連絡室で勤務していた比治山高女生徒[[岡ヨシエ]]は証言を残している。まず、8時09分の報告時点で防空作戦室が手薄だったため8時13分になってやっと「〇八一三 ヒロシマ・ヤマグチ ケハ」のメモがでたという{{r|chugoku20050320}}。そしてメモの内容を岡が担当する電話交換機を使って伝達しようとした瞬間、窓から入ってきた爆風で飛ばされ気を失った、という{{r|600_sirouya61}}。 |
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* 防空作戦室で勤務していた比治山高女OGの[[軍属]]の人物(名前省略)は、警報が発令され警報板のスイッチを押しはじめ半分くらい伝達し終わった時に爆風で飛ばされた、と証言している{{r|600_sirouya61}}{{r|177_shirouya45}}。 |
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* 『広島原爆戦災誌』に流川(現[[幟町 (広島市) |幟町]])の広島中央放送局でのことが記載されている。それによると、突如警報発令合図のベルが鳴り、アナウンサー[[古田正信]]は警報事務室に入って「午前8時13分、中国軍管区情報、敵大型機3機、西條上空を西進しつつあり、厳重なる警戒を要す。」の原稿を受け取り、スタジオ入りし西條上空を・・・まで読んだ瞬間に爆風にあった、という{{r|600_sirouya61}}{{r|177_shirouya45}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=24}}。 |
|||
* 『広島原爆戦災誌』に、広島女子商業学校(現[[広島翔洋高等学校|翔洋高]])に駐屯した陸軍船舶砲兵団衛生教育隊{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=113}}、安佐郡安佐町の人物、安芸郡矢野町の人物が警報のサイレンを聞いたことが記載されている{{r|177_shirouya45}}。 |
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こうしたことから、警報発令を伝達最中に被爆したため、一部で警報発令が伝わり、地区によってはそれでサイレンを吹鳴した可能性があると考えられている{{r|600_sirouya61}}{{r|177_shirouya45}}。 |
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なお、当時ラジオ放送は1日6回の放送休止時間があり、被爆前後にあたる午前8時から午前10時は休止時間だった{{r|177_shirouya45}}。その時間帯でも防空警報は緊急放送で流されたが、受け手である市民はラジオの電源を切っていたため、警報サイレンがならなければラジオをつけて情報を得ることができなかった{{r|177_shirouya45}}。また敵機飛来に慣れてしまい警戒警報発令中でも町を歩いていたものがいた、とする証言も残っている{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=23}}。 |
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=== 第一報 === |
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8月6日8時15分被爆。防空作戦室は[[爆心地]]から約790mに位置した{{r|yomiuri20100418}}{{r|nhkhiroshima}}{{r|chugoku20140825}}。その強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した{{r|nhkhiroshima}}{{r|chugoku20150707}}。 |
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中国軍管区司令部があった広島城は爆心地に近かったため、原爆の閃光と同時に爆風が襲い、ほぼ全員が吹き飛ばされるか倒壊物の下敷きになった{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=307}}。司令部は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した{{r|nhkhiroshima}}。司令部には当時1000人程度勤務し{{r|chugoku1973}}、うち軍人・軍属約700人、比治山高女教師生徒64人、[[広島原爆で被爆したアメリカ人|拘置されていたアメリカ人捕虜]]2人が死亡した{{r|yomiuri20100418}}{{r|nhkhiroshima}}{{r|exh080702}}。防空作戦室の外にいたものはほとんどが亡くなったという{{r|chugoku20050320}}。 |
|||
広島原爆第一報をここから外電したのは岡ヨシエ(旧姓大倉)と荒木克子(旧姓板村)の当時14歳の比治山高女生徒2人である。以下、岡の手記「交換台と共に」{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=1246}}から引用する。 |
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{{Quotation| |
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....(前略).... 一せいに出た相手の方に、「広島、山口、警戒警報発令」を、言いかけた途端ものすごい紫色の閃光が目を射り、何か事故が・・・と思う瞬間、意識を失った。2、3分もたったであろうか。回復しかけた、意識のぼやけた目に灰色一色だけが目に入った。<br /> |
|||
舞い上がった砂塵がしだいにおさまり、意識も完全にはっきりして次第に明るくなった部屋の中、私はすわって居た元の位置より2m位飛ばされていることに気づいた。机は横だおしになり、いすはこわれ、ただごとでない光景を目で追う中に、まだうすぐらい部屋の隅に板村さんが手で顔をおおってしゃがんで居る。思わずかけ寄ると彼女が手をはなした。目のまわりに血が・・・。<br /> |
|||
でもよかった、瞼にわずかな傷があった。2人は机をざっと元にもどして外に出ようと隣の部屋に入る。どの部屋も誰一人居ない。<br /> |
|||
板村さんより一歩おくれて外に出た私は一瞬呆然となった。今迄あった司令部も、あっちこっちの建物も、ないではないか。ただの木屑と壁土が山になっているだけ。私は思わず壕の土手の上にかけ上がった。広島の街は・・・。その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の街と化した広島であった。赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時初めて、「大変だ。」と血のさがる思いをしたのである。下の方で兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞ。」とどなって居るのが聞こえる。私は元の部屋にかけ込んだ。そうだまだ通話の出来る所へ早く連絡を、そう思いながら電話機を持った。[[西部軍管区 (日本軍)|九州]]と連絡がとれた。そして[[歩兵第41連隊|福山の司令部]]へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく<br /> |
|||
「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました。」<br /> |
|||
「なに新型爆弾!師団の中だけですか。」<br /> |
|||
「いいえ、広島が全滅に近い状態です。」<br /> |
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「それは本当か。」<br /> |
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大きくわれるようにように響く声。その内に火の手が上がったのであろうか。壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。<br /> |
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「もしもし火の手がまわり出しました。私はここを出ます。」<br /> |
|||
「どうかがんばって下さいよ。」と兵隊さんの声を後に受話機をおく。再び外に出ると炊事場のあたりではもう火がまわりパチパチと木のはぜる音がする。その音にまじり建物の底から女の人の助けを求める声が耳に入った。....(後略).... |
|||
|岡ヨシエ|{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=1246}}}} |
|||
同様に荒木の手記「軍管区指令部に動員されて」{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=1242}}から引用する。 |
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{{Quotation| |
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....(前略).... 食事を終えて再び勤務にかえる途中、出勤の1班3班に出会い無邪気に朝のあいさつをかわした。それから数分後、あの恐ろしい原爆投下。<br /> |
|||
壕内で被爆したため、私達は大した怪我もなく、殆ど全員無事に避難することができた。私が壕の外へ出た時はあたり一面、煙幕をはったみたいで何も見えなかった。ただ倉田さんが顔一面に血が流れてまっかに見えたので、皆びっくりしたが大したことがなくホッとしたのを憶えている。その直後大倉さんと2人で消化のためのバケツをとりに壕内に引き返したのだ。[[四国軍管区]]指令部のある[[善通寺駐屯地|善通寺]]からの通信をいらいらしながら受けたのもその時。今思えば全市火の海になる位の被害の中でよく電話が通じたものだと不思議に思うがその時は早くすませたいの一心だった。案の定、外に出てみると級友は一人もいない。大倉さんと2人だけの行動はこれから始まる。....(後略).... |
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|荒木克子|{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=1242}}}} |
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彼女たち生き残った生徒は、一旦避難したり、あるいは被爆後も司令部周辺に留まり救護活動している{{r|chugoku20050320}}{{r|chugoku20150707}}。その後彼女たちは再び司令部に集まり救護活動に務め、8月17日解散式となった{{r|chugoku20050320}}{{r|chugoku20150707}}。 |
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なお、中国軍管区司令部による最初の公式発表は、8月6日3時か4時頃[[松村秀逸]]参謀長が[[中国新聞]][[大佐古一郎]]記者に答えた形であった{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=309}}。ただこの時点では中国新聞も壊滅していたため公表されることはなかった{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=309}}。 |
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=== 被爆建物 === |
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1956年、広島護国神社が広島城址公園内に移転{{efn2|護国神社は公式では広島市の復興に伴い移転を余儀なくされた、とある{{r|hgokoku}}。護国神社の旧境内は[[広島市中央公園]]の[[広島市民球場 (初代)|旧広島市民球場]]敷地内にあたり、1950年代に旧広島市民球場建設が進められた。}}することになる{{r|hgokoku}}。そこからこの建物は神社の倉庫として用いられていた{{Sfn|大東|東城|十河|2018|p=62}}。 |
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1979年、慰霊碑が建立された{{r|chugoku1973}}。また平和学習の場として用いられ、修学旅行生を中心に年1万人が訪れていたという{{r|chugoku20200204}}{{Sfn|あり方|2019|p=28}}。 |
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2015年被爆70年目にあたり、広島市文化財団が中国軍管区司令部跡の詳細な建物構造を調査し広島城資料館で公表するという企画展が開催される{{r|chugoku20140825}}。2017年広島市が耐震調査に備えて視察した際に、コンクリートの剥離が進行していたため落下の可能性があるとして内部見学中止処置が取られた{{r|chugoku20170508}}。ただ調査のため一時壊さなければならないことと耐震補強に多額の費用がかかることに加え、所有者である財務省・国史跡広島城の中にあるため[[文化庁]]と協議しなければならないため、保存に向けて時間がかかっている{{r|chugoku20200204}}。 |
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== 交通 == |
== 交通 == |
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* [[広島護国神社#アクセス]]参照 |
* [[広島護国神社#アクセス]]参照 |
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==脚注== |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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;注釈 |
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{{notelist2}} |
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;出典 |
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{{Reflist|2 |
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|refs= |
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*<ref name="exh080702">{{Cite web|publisher=広島平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0807/exh080702.html|title=企画展を見よう ヒロシマ壊滅|date=|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="177_shirouya45">{{Cite web|publisher=広島城博物館|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/177_shirouya45.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 No.45|date=|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="600_sirouya61">{{Cite web|publisher=広島城博物館|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/600_sirouya61.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 No.61|date=|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="nhkhiroshima">{{Cite web|publisher=NHK広島放送局 ヒロシマを探そう|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/BD-0008.html|archivedate=2016-03-05|archiveurl=http://web.archive.org/web/20160305205716/http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/BD-0008.html|title=中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="yomiuri20100418">{{Cite web|publisher=読売新聞|date=2010-04-18|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1223733489918_02/news/20100418-OYT8T00002.htm|archivedate=2013-12-05|archiveurl=http://web.archive.org/web/20131205073916/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1223733489918_02/news/20100418-OYT8T00002.htm|title=投下最初の一報発信<28>|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="chugoku20050320">{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2005-03-20|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/04abom/04hiroshima_miraidengon/050320_02.html|title=第一報 - 女学生が発した「全滅です」|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
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*<ref name="chugoku1973">{{Cite web|publisher=広島ピースメディアセンター|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26024|title=ヒロシマの記録 1979 5月|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
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*<ref name="chugoku20140825">{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2014-08-25|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=35390|title=軍司令部建物の構造に迫る 原爆による広島壊滅「第一報」伝える 内容を来年展示|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="chugoku20150615">{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2015-06-15|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=45612|title=軍司令部 模型で記録 原爆による広島壊滅 第一報伝える 元学生から細部聴き取り|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="chugoku20150707">{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2015-07-07|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=2017-9|title=伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒<5>防空作戦室 半地下壕 夜勤明けて|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
|||
*<ref name="chugoku20170508">{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2017-05-08|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=71520|title=旧日本軍の中国軍管区司令部跡 老朽化進み見学中止 広島市中区|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
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*<ref name="tikagotroom">{{Cite web|author=比治山女子高校教員|url=http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago/troom.html|title=通信室|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
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*<ref name="tikagojroom">{{Cite web|author=比治山女子高校教員|url=http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago/jroom.html|title=情報室|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
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*<ref name="tikagohroom">{{Cite web|author=比治山女子高校教員|url=http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago/hroom.html|title=保管室|accessdate=2020-02-10}}</ref> |
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== 参考資料 == |
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* {{Cite book|和書|author = 広島市|title = 広島原爆戦災誌 一括版|origdate = 1971|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/search/col_book|format = PDF|edition = |date = 2005|accessdate = 2020-02-10|ref = {{sfnRef|原爆戦災誌|1971}}}} |
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* {{Cite web|author=比治山女子高校教員|url=http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago/|title=地下壕|archivedate=2016-12-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161228005328/http://contest.japias.jp/tqj2002/50168/tikago//|accessdate=2020-02-10|}} |
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* {{Cite journal|和書|author1=大東延幸|author2=十河茂幸|journal=広島工業大学紀要研究編|vol=53|page=75-78|publisher=広島工業大学|id=|date=2019-02|format=PDF|title=広島城内の戦争遺跡に関する研究|url=http://www.it-hiroshima.ac.jp/institution/library/publish/journal/20180302-1.html|accessdate=2020-02-10|ref = {{sfnRef|大東|十河|2019}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[立山防空壕]] - 長崎原爆の第一報を伝えた防空壕 |
* [[立山防空壕]] - 長崎原爆の第一報を伝えた防空壕 |
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* [[旧呉鎮守府防空指揮所および地下壕]] - 呉市にある旧海軍の防空施設 |
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* [[旧日本銀行広島支店]] - 日本銀行が所有し広島市に無償貸与 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|Remains of Chugoku Military District Headquarters}} |
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* [http://www.hiroshima-park.or.jp/ 公益財団法人広島市みどり生きもの協会ホームページ] |
* [http://www.hiroshima-park.or.jp/ 公益財団法人広島市みどり生きもの協会ホームページ] |
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* [http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111543827214/index.html 31中国軍管区司令部 防空作戦室(広島城内)] - 原爆被災説明板 |
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* [http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/BD-0008.html ヒロシマをさがそう] - NHK広島 |
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* [https://peace-tourism.com/spot/entry-43.html 中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)] - ヒロシマピースツーリズム |
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* [http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1111543827214/index.html 原爆被災説明板] - 広島市 |
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* 第一報 - 女学生が発した「全滅です」[http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/04hiroshima_miraidengon/050320_01.html][http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/04hiroshima_miraidengon/050320_02.html] - 中国新聞 2005年3月20日 |
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* [http://www.shugaku.econ.city.hiroshima.jp/theme/heiwa/koko.html ひろしま修学旅行ガイド] - 広島市 |
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* [http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50168/tikago/ 地下壕] - 比治山女子高校教員によるホームページ。図解等詳細解説がある。 |
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{{広島県の被爆建物}} |
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2020年2月18日 (火) 03:07時点における版
中国軍管区司令部跡 | |
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入り口と原爆被災説明板 内部見学中止の告知もある | |
情報 | |
旧名称 | 中国軍管区司令部防空作戦室 |
用途 | 遺構 |
建築主 | 大日本帝国陸軍 |
事業主体 | 財務省(所有)・広島市(貸与) |
管理運営 | (公財)広島市みどり生きもの協会 |
構造形式 | 鉄筋コンクリート構造 |
階数 | 半地下式一階建 |
所在地 | 広島市中区基町21番1号 |
座標 | 北緯34度24分02.4秒 東経132度27分33.5秒 / 北緯34.400667度 東経132.459306度座標: 北緯34度24分02.4秒 東経132度27分33.5秒 / 北緯34.400667度 東経132.459306度 |
中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、大日本帝国陸軍中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。
旧陸軍の防空作戦室は全国に6ヶ所あったことはわかっており[注 1]、ここは現存唯一のものになる[2]。広島市への原子爆弾投下の第一報を外電した場所であり、現存する被爆建物の一つ。国史跡広島城址公園内にあり本丸を囲む内堀の石垣付近に位置し、広島護国神社境内隣にある。半地下式鉄筋コンクリート平屋造。入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。
広島城本丸は、復元された天守閣建物のみ広島市所有、本丸上段は文部科学省所有行政財産、本丸下段のうち神社部分のみ宗教法人広島護国神社所有、残りが財務省所有普通財産になる[3][4]。本丸下段にある中国軍管区司令部跡は、財務省が所有し広島市に無償貸与され、管理運営は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が行う[5][6][4]。
かつては平和学習目的のみ屋内見学が許可され、その場合は事前に協会に予約する必要があった[6]。2017年から安全性が確保できないという理由で内部見学禁止処置がとられている[2][5][7]。
背景
広島城は1871年(明治6年)広島鎮台のち第5師団、1894年(明治27年)広島大本営が置かれるなど国内での主要軍事拠点として機能しており、天守を取り囲むように様々な陸軍関係の建物が建設された[8][9]。太平洋戦争末期になると陸軍は本土決戦を想定して組織を再編する[2]。なお一般人の立ち入りは禁止されていた[10]。
防空作戦室の建設時期は1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)初めごろとされ、突貫工事で建てられたとされている[6][11]。その後1945年6月22日中部軍管区から分離する形で中国軍管区が発足する[12]。
防空作戦の本来の任務は、中国地方5県の上空を飛ぶ敵味方の飛行機情報を一元的に集め、司令官が高射砲隊や航空隊へ指揮命令を行うともに、防空警報(空襲警報・警戒警報)を発令・解除することであった[12][14]。ただ大戦末期に日本本土空襲が激しくなると、敵機に対する防空警報を発令・解除することが主な任務[注 2]となった[12]。その敵機を監視する防空監視哨は、陸軍が設置し軍人によって運営されたものと民間の警防団が管理していたものがあり、24時間体制で監視し軍用通信の有線電話で防空作戦室へ情報を送っていた[12]。監視哨は1945年3月時点で中国5県で100ヶ所以上、県内に33ヶ所あった[12]。
防空作戦室では軍人・軍属の他、学徒通信隊(学徒動員)として比治山高等女学校(現比治山女子高等学校)3年生、また一部の卒業生が軍属としても勤務している[12][8]。一般人立入禁止の軍重要施設に女学生が用いられたのは、当時比治山高等女学校は偕行社附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったためとされる[9][15]。彼女たちは1945年5月に50人が、同年8月には90人が動員された[10]。1班30人の3班編成で、日勤8時-17時/夜勤17時-8時/夜勤明け全休、の3交代昼夜兼行で勤務した[10][14][15]。
施設
防空作戦室の整備計画、図面や記録資料はほぼ破棄されており現存していない[16][5][17]。現在判っている情報は、当時勤務していたものの証言や後の発掘調査から構築されている。
立地
画像外部リンク | |
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被爆後の広島城。木々がほぼない状況でも場所がわからない。 | |
Hiroshima aerial A3390 - 南側から撮影。 | |
Hiroshima aerial A3386 - 東南側から撮影。 | |
Hiroshima aerial A3393 - 東北側現在の中国放送本社側から撮影。写真上端中央付近に防空作戦室がある。 |
防空作戦室は広島城本丸の南端、内堀の石垣沿いに置かれた[14]。敵航空機から発見されにくいように半地下構造とした[6][18]。上に土が盛られ木々が数本植えてあり、上空から見るとそこに建物があるとわからなかった[18][6]。これは現在でも同じ状況であり、広島護国神社側から見てもその全体像はわからない。
配置
広島護国神社に隣接する入り口から入ると、内部は4つの部屋からなる[2]。入り口側(西側)から、情報室、通信室、指揮連絡室、防空作戦室(作戦司令室)、と呼ばれた[2][19]。
- 防空作戦室(作戦司令室)
- 中四国に点在した防空監視哨から情報がここに集められ、それを元に参謀や将校が防空警報の発令と解除を行っていた[2]。
- 壁には防空監視哨の位置を示す電球が埋め込まれた、中国地方と四国北部の地図があった[12][14][19]。幅5・6mほどの大きな地図で、電灯は70から80個埋め込まれていたという[20]。監視哨からの情報は隣の部屋に集まり情報室にある機械のスイッチを入れると、防空作戦室の地図の電球が点灯し、敵機がどう飛来しているかわかるようになっていた[19]。
- 室内にはテーブルとイスそして2・3段のひな壇が設けられ、そこに数人の軍人が座って地図を見ながら分析して警報発令・解除が判断され、それを隣の指揮連絡室や情報室にメモと電光板で伝え、そこから各地へ連絡していた[12][19]。
- 同室内に薄板で区切られた場所があり、夜間に臨時ニュースを流す簡易放送局として用いられた[19][14]。広島中央放送局(NHK広島放送局)から放送部員・アナウンサー・技術員の3人が夜間常駐していた[14]。
- また防空作戦室にのみ将校専用出入り口が設けられていた[19]。
映像外部リンク | |
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ヒロシマピースツーリズムによる動画 | |
中国軍管区司令部跡内部 |
- 指揮連絡室
- 防空作戦室から指示を受け役所や主要軍事施設へ電話連絡していた[21]。任務は学徒通信隊の比治山高等女学校生徒2、3人が担当した[21]。
- ブザーが鳴ると防空作戦室側の小窓からメモが渡された[21]。小窓は普段布で目隠しされていた[21]。
- そのメモを見て、2台の電話交換機で陸軍病院や軍需工場・役所などへ同時に一斉に連絡、長机に置かれた6台の電話機で各地の指令部や高射砲隊・飛行場などに連絡した[21]。
- 情報室
- 防空監視哨からの敵航空機の目撃情報を専用の情報機で受け取り、防空作戦室の地図の電球のスイッチを押すところ[2]。
- 比治山高等女学校生徒10数人が担当し、責任者として分隊長(上等兵)が見守っていたという[24]。
他、これらの北側に前室(あるいは保管室)と呼ばれた付帯建物がある[2]。2020年現在完全閉鎖され一切入ることはできない[2]。
- 前室
- 内部がどう使われていたが詳細は判っていない。御真影が飾られていた[25]とも、重要書類が収められていた[14]とも言われていた[2]。空調が効いていたとする証言が残っているため、空調関係の機器が置かれていたと推定されている[2]。
また、通信室の指揮連絡室の境目北側に煙突がある。ただ調査では煙突につながる穴が確認されていない。そのため現在慰霊碑がある位置、司令部跡の床面の更に下に何らかの空間があり発電あるいは蓄電機が置かれていた可能性があると推定されている[2][11]。
構造
映像外部リンク | |
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ヒロシマピースツーリズムによる360度VR動画 | |
中国軍管区司令部跡 (内部) 防空作戦室 | |
中国軍管区司令部跡 (内部) 指揮連絡室 | |
中国軍管区司令部跡 (内部) 情報室 |
鉄筋コンクリート造半地下式1階建[17]。延床面積208m2[6][17]。大戦末期は金属類回収令が施行されるなど鋼材が不足していた時期であったが、軍の重要施設であったため鉄筋が用いられたと推定されている[26]。実測による間取りは以下の通り。
天井高は入り口付近で約1.8m[28]。ただし防空作戦室の床のみ他と比べて30cmほど深い[29]。入り口は2つあったが[30]、防空作戦室側の入り口は塞がれて現在は1つのみ。小窓は10ヶ所ほどある[30]。
コンクリート強度は不明[31]。骨材は最大寸法40mm程度で川砂利・川砂が用いられたと考えられ、比較的硬練のものを突き固めて製造していると考えられている[31]。
天井の部材厚は75cm[31]。また天井には鉄筋だけでなく鉄骨も配置されていると考えられている[27]。つまり天井は被弾する可能性が高いため強固に作られたと考えられている[31]。土被り厚は不明だが、被弾緩衝ではなく目隠しの意味合いが強かったと考えられている[31]。設計強度は推定で100kg爆弾が直撃しても貫通できない程度のものであったと推定されている[31]。
壁には鉄筋が入っている。壁厚は入り口付近が45cmであるため、他の壁も40cm強であると推定されている[27]。壁が天井と比べて薄いのは、被弾を考慮していなかったためと推定されている[31]。ただし南の堀側の壁のみ無筋であり、上部から下部に向かって部材厚が太くなっている[27]。そのため、内堀石垣に隣接する南側壁のみ擁壁構造とし更に鋼材を節約して無筋としたと推定されている[27]。
床もコンクリート製でモルタル仕上げ[28]。また電気・通信系の配線に用いたと推定される溝がある[32]。戦後、木の床板が敷かれた[29]。
天井には蛍光灯が並びとても明るかった[26]、夏暑い時期でも室内は空調が効いて涼しかった[33]、被爆直後も電気が確保されていた[33]、という証言が残る。
沿革
被爆直前の警報
以下、中国軍管区司令部が1945年8月13日作成した資料『八.六廣島市被害状況』内の「敵機ノ來襲並二警報発令状況」と、広島市公式『広島原爆戦災誌』に記載されている、8月1日から6日8時15分までの警報発令状況を示す。
日 | 時間 | 防空警報 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
警戒 | 空襲 | |||
1日 | 21:06 | 発令 | - | [34] |
22:15 | 解除 | - | [34] | |
23:01 | 発令 | - | [34] | |
23:22 | 発令 | [34] | ||
2日 | 00:12 | 解除 | [34] | |
00:17 | 解除 | - | [34] | |
3日 | - | - | - | なし[34] |
4日 | 23:50 | 発令 | - | [34] |
5日 | 00:35 | 解除 | - | [34] |
21:20 | 発令 | - | [12][34] | |
21:27 | 発令 | 山口県宇部市に飛来したB29の一団に反応したものとされる[12][34] | ||
23:55 | 解除 | |||
6日 | 00:25 | 発令 | この夜は兵庫県西宮市が空襲されている[12][34] | |
02:10 | 解除 | |||
02:15 | 解除 | - | [12][34] | |
07:09 | 発令 | - | 天候偵察機B29ストレートフラッシュに反応したもの[12][34] | |
07:31 | 解除 | - | ||
08:06 | (松永防空監視哨は大型2機発見と報告[12]) | |||
08:09 | (同哨は3機と修正報告[12]) | |||
08:15 | B29エノラ・ゲイにより広島市への原爆投下 |
8月以前まで頻繁に警報が発令されたが、8月に入ってから急に少なくなり2日から4日までほぼなかった[34]。この2、3日間で市民は不思議に思っていた[34]、あるいは広島は空襲されないという希望的な推察が流布していた[37]。そして5日から急に増えることになる[34]。
8月6日、7時31分警戒警報解除以降なにもなかったため、中国軍管区司令部防空作戦室の軍人たちは宿舎に戻っていたという[10]。一方で学徒通信隊(比治山高女生徒)は8時が夜勤と日勤の交代時間であったが、8月6日朝は大本営前で行われていた比治山高女の朝礼が長引いたため、8時を過ぎても夜勤の第2班が勤務していた[10][15]。比治山高女教師と第1班第3班の約60人ほどは、8時15分被爆時には大本営前で竹槍の戦闘訓練中であった[6][38]。
一般に、広島原爆投下直前に防空警報は発令されていない、とされている[2][12]。ただし警報を発信した、あるいは警報を聞いたという証言も残っている[2][12]。
- 『八.六廣島市被害状況』には「本状況ニ依リ警戒警報ヲ發令セントスルヤ〇八一五爆撃ヲ受ク」とあり、明確に警報発令したとは書かれていない[12]。
- 中国軍管区司令部で勤務していた人物(名前省略)は防空作戦室勤務の兵長から聞いた話を手記にまとめている。それによると、松永防空監視哨からの通報を受け兵長が食事中の参謀や将校がいる将校集会所へ報告に行き、それを受けて中尉と少尉は警戒警報では間に合わないので空襲警報発令しようと防空作戦室へ急いで帰り、広島中央放送局に電話し「8時12分、中国軍管区情報、敵大型3機、西条上空を西進中、空襲警報発令」と叫んだ、という[2][12]。
- 指揮連絡室で勤務していた比治山高女生徒岡ヨシエは証言を残している。まず、8時09分の報告時点で防空作戦室が手薄だったため8時13分になってやっと「〇八一三 ヒロシマ・ヤマグチ ケハ」のメモがでたという[10]。そしてメモの内容を岡が担当する電話交換機を使って伝達しようとした瞬間、窓から入ってきた爆風で飛ばされ気を失った、という[2]。
- 防空作戦室で勤務していた比治山高女OGの軍属の人物(名前省略)は、警報が発令され警報板のスイッチを押しはじめ半分くらい伝達し終わった時に爆風で飛ばされた、と証言している[2][12]。
- 『広島原爆戦災誌』に流川(現幟町)の広島中央放送局でのことが記載されている。それによると、突如警報発令合図のベルが鳴り、アナウンサー古田正信は警報事務室に入って「午前8時13分、中国軍管区情報、敵大型機3機、西條上空を西進しつつあり、厳重なる警戒を要す。」の原稿を受け取り、スタジオ入りし西條上空を・・・まで読んだ瞬間に爆風にあった、という[2][12][39]。
- 『広島原爆戦災誌』に、広島女子商業学校(現翔洋高)に駐屯した陸軍船舶砲兵団衛生教育隊[40]、安佐郡安佐町の人物、安芸郡矢野町の人物が警報のサイレンを聞いたことが記載されている[12]。
こうしたことから、警報発令を伝達最中に被爆したため、一部で警報発令が伝わり、地区によってはそれでサイレンを吹鳴した可能性があると考えられている[2][12]。
なお、当時ラジオ放送は1日6回の放送休止時間があり、被爆前後にあたる午前8時から午前10時は休止時間だった[12]。その時間帯でも防空警報は緊急放送で流されたが、受け手である市民はラジオの電源を切っていたため、警報サイレンがならなければラジオをつけて情報を得ることができなかった[12]。また敵機飛来に慣れてしまい警戒警報発令中でも町を歩いていたものがいた、とする証言も残っている[37]。
第一報
8月6日8時15分被爆。防空作戦室は爆心地から約790mに位置した[6][38][16]。その強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した[38][15]。
中国軍管区司令部があった広島城は爆心地に近かったため、原爆の閃光と同時に爆風が襲い、ほぼ全員が吹き飛ばされるか倒壊物の下敷きになった[41]。司令部は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した[38]。司令部には当時1000人程度勤務し[42]、うち軍人・軍属約700人、比治山高女教師生徒64人、拘置されていたアメリカ人捕虜2人が死亡した[6][38][8]。防空作戦室の外にいたものはほとんどが亡くなったという[10]。
広島原爆第一報をここから外電したのは岡ヨシエ(旧姓大倉)と荒木克子(旧姓板村)の当時14歳の比治山高女生徒2人である。以下、岡の手記「交換台と共に」[43]から引用する。
....(前略).... 一せいに出た相手の方に、「広島、山口、警戒警報発令」を、言いかけた途端ものすごい紫色の閃光が目を射り、何か事故が・・・と思う瞬間、意識を失った。2、3分もたったであろうか。回復しかけた、意識のぼやけた目に灰色一色だけが目に入った。
— 岡ヨシエ、[43]
舞い上がった砂塵がしだいにおさまり、意識も完全にはっきりして次第に明るくなった部屋の中、私はすわって居た元の位置より2m位飛ばされていることに気づいた。机は横だおしになり、いすはこわれ、ただごとでない光景を目で追う中に、まだうすぐらい部屋の隅に板村さんが手で顔をおおってしゃがんで居る。思わずかけ寄ると彼女が手をはなした。目のまわりに血が・・・。
でもよかった、瞼にわずかな傷があった。2人は机をざっと元にもどして外に出ようと隣の部屋に入る。どの部屋も誰一人居ない。
板村さんより一歩おくれて外に出た私は一瞬呆然となった。今迄あった司令部も、あっちこっちの建物も、ないではないか。ただの木屑と壁土が山になっているだけ。私は思わず壕の土手の上にかけ上がった。広島の街は・・・。その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の街と化した広島であった。赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時初めて、「大変だ。」と血のさがる思いをしたのである。下の方で兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞ。」とどなって居るのが聞こえる。私は元の部屋にかけ込んだ。そうだまだ通話の出来る所へ早く連絡を、そう思いながら電話機を持った。九州と連絡がとれた。そして福山の司令部へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく
「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました。」
「なに新型爆弾!師団の中だけですか。」
「いいえ、広島が全滅に近い状態です。」
「それは本当か。」
大きくわれるようにように響く声。その内に火の手が上がったのであろうか。壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。
「もしもし火の手がまわり出しました。私はここを出ます。」
「どうかがんばって下さいよ。」と兵隊さんの声を後に受話機をおく。再び外に出ると炊事場のあたりではもう火がまわりパチパチと木のはぜる音がする。その音にまじり建物の底から女の人の助けを求める声が耳に入った。....(後略)....
同様に荒木の手記「軍管区指令部に動員されて」[44]から引用する。
....(前略).... 食事を終えて再び勤務にかえる途中、出勤の1班3班に出会い無邪気に朝のあいさつをかわした。それから数分後、あの恐ろしい原爆投下。
— 荒木克子、[44]
壕内で被爆したため、私達は大した怪我もなく、殆ど全員無事に避難することができた。私が壕の外へ出た時はあたり一面、煙幕をはったみたいで何も見えなかった。ただ倉田さんが顔一面に血が流れてまっかに見えたので、皆びっくりしたが大したことがなくホッとしたのを憶えている。その直後大倉さんと2人で消化のためのバケツをとりに壕内に引き返したのだ。四国軍管区指令部のある善通寺からの通信をいらいらしながら受けたのもその時。今思えば全市火の海になる位の被害の中でよく電話が通じたものだと不思議に思うがその時は早くすませたいの一心だった。案の定、外に出てみると級友は一人もいない。大倉さんと2人だけの行動はこれから始まる。....(後略)....
彼女たち生き残った生徒は、一旦避難したり、あるいは被爆後も司令部周辺に留まり救護活動している[10][15]。その後彼女たちは再び司令部に集まり救護活動に務め、8月17日解散式となった[10][15]。
なお、中国軍管区司令部による最初の公式発表は、8月6日3時か4時頃松村秀逸参謀長が中国新聞大佐古一郎記者に答えた形であった[45]。ただこの時点では中国新聞も壊滅していたため公表されることはなかった[45]。
被爆建物
1956年、広島護国神社が広島城址公園内に移転[注 3]することになる[46]。そこからこの建物は神社の倉庫として用いられていた[29]。
1979年、慰霊碑が建立された[42]。また平和学習の場として用いられ、修学旅行生を中心に年1万人が訪れていたという[5][7]。
2015年被爆70年目にあたり、広島市文化財団が中国軍管区司令部跡の詳細な建物構造を調査し広島城資料館で公表するという企画展が開催される[16]。2017年広島市が耐震調査に備えて視察した際に、コンクリートの剥離が進行していたため落下の可能性があるとして内部見学中止処置が取られた[47]。ただ調査のため一時壊さなければならないことと耐震補強に多額の費用がかかることに加え、所有者である財務省・国史跡広島城の中にあるため文化庁と協議しなければならないため、保存に向けて時間がかかっている[5]。
交通
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ “長崎原爆被爆の記録”. 鹿児島大学. 2020年2月10日閲覧。
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参考資料
- 広島市『広島原爆戦災誌 一括版』(PDF)2005年(原著1971年) 。2020年2月10日閲覧。
- 比治山女子高校教員. “地下壕”. 2016年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月10日閲覧。
- “広島城の現状と課題等” (PDF). 広島市広島城のあり方に関する懇談会 (2019年10月9日). 2020年2月10日閲覧。
- 大東延幸、十河茂幸「広島城内の戦争遺跡に関する研究」(PDF)『広島工業大学紀要研究編』、広島工業大学、2016年2月、15-18頁、NAID 120005708803、2020年2月10日閲覧。
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- 大東延幸、東城雄大、十河茂幸「広島城内の戦争遺跡に関する研究」(PDF)『広島工業大学紀要研究編』、広島工業大学、2018年2月、61-64頁、2020年2月10日閲覧。
- 大東延幸、十河茂幸「広島城内の戦争遺跡に関する研究」(PDF)『広島工業大学紀要研究編』、広島工業大学、2019年2月、75-78頁、2020年2月10日閲覧。
関連項目
- 立山防空壕 - 長崎原爆の第一報を伝えた防空壕
- 旧呉鎮守府防空指揮所および地下壕 - 呉市にある旧海軍の防空施設
- 旧日本銀行広島支店 - 日本銀行が所有し広島市に無償貸与
外部リンク
- 公益財団法人広島市みどり生きもの協会ホームページ
- 31中国軍管区司令部 防空作戦室(広島城内) - 原爆被災説明板
- 中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室) - ヒロシマピースツーリズム