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「ポピュラーエレクトロニクス」の版間の差分

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'''ポピュラーエレクトロニクス'''(Popular Electronics)1954年10月に[[Ziff Davis]]によって創刊され、1985年まで刊された[[通俗科学|通俗技術]]誌。
'''ポピュラーエレクトロニクス'''』(''Popular Electronics'')[[アメリカ合衆国]]で刊されている、[[電子工学]]を中心とした[[通俗科学|通俗技術]]誌である。現在は、ジョン・オーガスト・メディア社から発行されている


1954年10月に[[Ziff Davis]]社が電子工作のホビイストや実験家のために創刊した。すぐに「世界で最も売れている電子工学雑誌」となった。1957年4月のZiff Davis社の報告によれば、平均発行部数は240,151部だった<ref>The early issues listed the circulation figure on the Contents page. Starting in 1962 this data was in the back of each year's January issue.</ref>。『ポピュラーエレクトロニクス』は1982年10月まで発行され、1982年11月に後継誌の『'''コンピュータ&エレクトロニクス'''』(''Computers & Electronics'')が創刊された。『コンピュータ&エレクトロニクス』誌の最後の年の月平均発行部数は409,344部だった<ref>{{cite magazine | author = |date=January 1982 | title = STATEMENT OF OWNERSHIP, MANAGEMENT AND CIRCULATION (Required by 39 U.S.C. 3685) | volume = 20 | issue = 1 | page =89 | publisher = Ziff-Davis Publishing Company| url = http://www.americanradiohistory.com/Archive-Poptronics/80s/1982/Poptronics-1982-01.pdf|accessdate= January 20, 2016}}</ref>。『ポピュラーエレクトロニクス』というタイトルはガーンズバック出版社に売却され、同社の『[[Hands-On Electronics|ハンズオン・エレクトロニクス]]』誌が1989年2月に『ポピュラーエレクトロニクス』に改名され、1999年12月まで発行された。『ポピュラーエレクトロニクス』の商標はその後、ジョン・オーガスト・メディア社によって取得され、同社はこの雑誌を復活させた。この雑誌のデジタル版は、姉妹誌である『{{仮リンク|メカニクス・イラストレーテッド|en|Mechanix Illustrated}}』や『[[ポピュラー・アストロノミー|ポピュラーアストロノミー]]』とともに、TechnicaCuriosa.comで提供されている。
== 内容 ==

ラジオやテレビ等の家電製品や[[電子工作]]、[[コンピュータ]]、科学、技術の記事を特徴としていた。とりわけ、[[Altair 8800]]をはじめ、黎明期の[[マイクロコンピュータ]]を搭載する個人用コンピュータの記事は普及に大きく貢献した。
『ポピュラーエレクトロニクス』誌の表紙記事では、多くの新製品や新会社が紹介された。その中でも最も有名な1975年1月号では、[[Altair 8800]]コンピュータが表紙を飾り、パーソナルコンピュータ革命の火付け役となった。[[ポール・アレン]]がその号を[[ビル・ゲイツ]]に見せたことがきっかけで、彼らはAltair用の[[BASIC]]インタプリタを書き、[[マイクロソフト]]を立ち上げた<ref>{{cite web |title=We have a BASIC |publisher=New Mexico Museum of Natural History and Science |url=http://startup.nmnaturalhistory.org/gallery/story.php?ii=20&sid=4 |archivedate=September 15, 2015 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150915062448/http://startup.nmnaturalhistory.org/gallery/story.php?ii=20&sid=4|accessdate=2020-06-15}}</ref>。

==創刊==
『[[ラジオニュース (雑誌)|ラジオ&TVニュース]]』誌は専門家向けの雑誌だったが、同誌の編集者はホビイスト向けの雑誌を作りたいと考えていた。Ziff-Davis社は1927年に『ポピュラーアビエーション』誌を、1934年に『ポピュラーフォトグラフィー』誌を創刊していたが、「ポピュラーエレクトロニクス」という商標はガーンズバック出版社が持っていた。この商標は1943年から1948年まで『ラジオ=クラフト』誌(『[[ラジオ=エレクトロニクス]]』誌の前身)で使用されていた<ref>{{cite journal | author = Raymond F. Yates |date=February 1943 | title = Popular Electronics, Part 1 | journal = Radio-Craft | volume = 14 | issue = 5 | pages =266–68, 316–17 }}</ref>。Ziff-Davis社はこの商標を購入し、1954年10月号から『ポピュラーエレクトロニクス』誌を創刊した。

編集者や執筆者の多くは、Ziff-Davis社の両誌で働いていた。当初、オリバー・リードは『ラジオ&TVニュース』と『ポピュラーエレクトロニクス』の両方の編集者であった。リードは1956年6月に出版者に昇進した<ref name="NYTimes Jun 12 1956">{{cite news|last=|first=|date=June 12, 1956|title=News of Advertising and Marketing|page=54|work=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/1956/06/12/archives/news-of-advertising-and-marketing-socks-ad-post-elects-accounts.html|url-status=live|access-date=}}</ref>。オリバー・ペリー・フェレルが『ポピュラーエレクトロニクス』の編集者に就任し、ウィリアム・A・ストックリンが『ラジオ&TVニュース』の編集者になった。『ラジオ&TVニュース』では、ジョン・T・フライ(John T. Frye)が、架空の修理屋で店主のマックが他の技術者や顧客と交流するというコラムを書いており、そこで読者はラジオやテレビの修理技術を学ぶことができた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌では、フライは、カールとジェリーという二人の男子高校生が冒険をしながら電子工学について学ぶというコラムを執筆した。

1954年までには、オーディオやラジオの電子工学キットを作る趣味が流行していた。[[ヒースキット]]をはじめとする多くのメーカーが、詳細な説明書付きの、全ての部品が含まれたキットを提供していた。『ポピュラーエレクトロニクス』創刊号の表紙には、ヒースキットのA-7Bオーディオアンプを組み立てているホビイストの写真が使われていた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌では、個々のパーツを地元の電気店で購入したり、通信販売で購入したりして、ゼロから組み立てる電子工作プロジェクトが提供されていた。

初期の電子工作プロジェクトのほとんどは[[真空管]]を使用していた。まだ[[トランジスタ]]は高価で、一部のホビイストがようやく入手できるようになったばかりだった。1954年12月号に掲載された[[レイセオン]]の小信号トランジスタ・CK722は3.50ドルもしたが、典型的な小信号真空管(12AX7)は0.61ドルだった。ルー・ガーナーは創刊号の特集記事で、自転車に乗せて使える電池式真空管ラジオについて執筆した。彼は1956年6月号から「トランジスタ・トピックス」というコラムを担当することになった。トランジスタはすぐに1ドル以下で購入できるようになり、『ポピュラーエレクトロニクス』にトランジスタを使用したプロジェクトが毎号掲載されるようになった。このコラムは1965年に「ソリッドステート」に改称され、1978年12月まで掲載された。

==1962年の典型的な構成の例==
1962年7月号は112ページ、編集者はオリバー・P・フェレル、月間発行部数は40万部だった。この雑誌には、"POP'tronics News Scope"(ポプトロニクス・ニュース・スコープ)という名の電子機器のニュースが1ページに渡って掲載されていた。2000年1月には後継誌がポプトロニクスに改名された。1960年代には、フォーセット出版社の『{{仮リンク|エレクトロニクス・イラストレーテッド|en|Electronics Illustrated}}』という競合誌があった。

表紙にはコナー社の15インチ白黒テレビキットが掲載されており、価格は135ドルだった。特集記事は、「近所の放射線レベルを追跡する」ための「放射線降下物モニター」だった(その年の10月に[[キューバ危機]]があった)。他には、水中温度を調べる「フィッシュ・ファインダー」、エレキギター用の「トランジスタ化トレモロ」、航空機の音を聞くための1管式VHF受信機などの製作記事があった。

[[市民バンド]]、[[アマチュア無線]]、[[BCL]]の連載コラムもあった。毎月、読者と保有する無線機器を紹介するコーナーもあった(なお、読者のほとんどは男性だった<ref>{{cite journal | author = Art Salsberg |date=November 1982 | title = Editorial: Number One! | journal = Computers & Electronics | volume = 20 | issue = 11 | page =4 }}"A survey of subscribers conducted last year confirmed again that the great majority of our readers are male (97%)..."</ref>)。ルー・ガードナーの「トランジスタ・トピックス」は、新しいトランジスタ使用のFMステレオ受信機と、読者から投稿された回路を紹介していた。ジョン・T・フライのコラムでは、架空のキャラクターのカールとジェリー<ref>{{cite web|last=Duntemann|first=Jeff|title=John T. Frye's "Carl and Jerry"|url=http://www.copperwood.com/carlandjerry.htm|publisher=www.copperwood.com|accessdate=2013-02-13}}</ref>が、PHメーターを使って川の汚染の原因を突き止めていた。

== 執筆者とキット ==
[[File:SWTPC Catalog 1969 pg06.jpg|thumb|right|『ポピュラーエレクトロニクス』誌に掲載された、{{仮リンク|ドン・ランカスター|en|Don Lancaster}}が設計し、[[ダニエル・メイヤー (工学者)|ダニエル・メイヤー]]の[[SWTPC|サウスウエスト・テクニカル・プロダクツ]]社が販売した周波数カウンターのキット]]
編集者のオリヴィエ・フェレルは,興味深い電子工作プロジェクトを寄稿してくれる執筆家たちを継続して開拓してきた。これらのプロジェクトは、『ポピュラーエレクトロニクス』のスタイルを何年にもわたって確立して行った。最も多作だったのは、[[ダニエル・メイヤー (工学者)|ダニエル・メイヤー]]と{{仮リンク|ドン・ランカスター|en|Don Lancaster}}の2人である。

ダニエル・"ダン"・メイヤーは[[テキサス州立大学サンマルコス校|サウスウェストテキサス州立大学]]を1957年に卒業し、[[テキサス州]][[サンアントニオ]]にある{{仮リンク|サウスウエスト・リサーチ・インスティテュート|en|Southwest Research Institute}}の研究者となっていた。大学を卒業した頃から、彼はホビイスト向けの記事を書き始めた。初めての記事は『[[ラジオニュース (雑誌)|エレクトロニクスワールド]]』1960年5月号に掲載され、その後『[[ラジオ=エレクトロニクス]]』誌では1962年10月と11月号の2号続けて表紙記事となった<ref name = "RE Oct 1962">{{cite journal | last = Meyer | first = Daniel | date = October 1962 | title = Stereo Preamp Has Everything | journal = Radio-Electronics | volume = 33 | issue = 10 | pages = Cover, 44–48 | publisher = Gernsback Publications }} The author is Daniel Meyer, Research Engineer at Southwest Research Institute. Circuit boards could be ordered from Dan's home at 430 Redclift Drive in San Antonio, Texas. The article was continued in the November 1962 issue.</ref>。『ポピュラーエレクトロニクス』1963年3月号では、彼が設計した超音波聴取装置が表紙を飾った<ref name = "Express News 1963">{{cite news | last = Newell | first = John K. | title = He Hears 'Inaudible' Bats At Night: San Antonio's Gadget Lets Humans Hear Ultrasonic Sounds | work = San Antonio Express and News | pages = 1–G, 5–G | date = March 17, 1963}}</ref>。

ドン・ランカスターは[[ラファイエット大学]](1961年)と[[アリゾナ州立大学]](1966年)を卒業した。1960年代には、音楽に合わせて色のついた照明を点灯させることが流行していた。このサイケデリックな照明は、半導体制御整流器([[サイリスタ]])の開発によって実現したものである。ランカスターが最初に発表した記事は、『エレクトロニクスワールド』1963年4月号に掲載された"Solid-State 3-Channel Color Organ"だった。彼はこの記事で150ドルの報酬を得た<ref>{{cite web | last = Lancaster | first = Don | authorlink = Don Lancaster | title = The Way Things Were | work = The Blatant Opportunist # 63 | publisher = Synergetics |date=July 2001 | url = http://www.tinaja.com/glib/waywere.pdf | format = PDF |accessdate= September 11, 2008 }}</ref>。

『ポピュラーエレクトロニクス』に掲載される電子工作プロジェクトは、1960年代初頭に真空管からトランジスタなどのソリッドステートへと変化した。真空管回路はソケット付きの金属シャーシを使用し、トランジスタ回路は[[プリント基板]]上で動作させるのがベストだった。これらの回路には、地方の電子部品店では入手しづらい部品が含まれていることが多かった。

メイヤーは、『ポピュラーエレクトロニクス』誌の読者向けの回路基板や部品の販売にビジネスチャンスを見出した。1964年1月、彼はサウスウエスト・リサーチ・インスティテュートを退職し、電子工作キットの会社、ダニエル・E・メイヤー・カンパニー(DEMCO)を設立した。彼はその後も記事の執筆を続け、テキサス州サンアントニオの自宅のガレージでキットの通信販売のビジネスを運営していた。1965年までには、彼はルー・ガーナーなどの他の執筆者が設計したキットも取り扱うようになった。1967年にはランカスターの"IC-67 Metal Locator"のキットを販売した。1967年初頭、彼は会社を自宅からサンアントニオの約1万2千平方メートルの敷地に建てた新しい建物に移転した<ref name = "PE Feb 1967">{{cite magazine | last = Louis | first = E.G. | date = February 1967 | title = The Brute 70 Power Amplifier |magazine= Popular Electronics | volume = 26 | issue = 2 |page=43 | publisher = Ziff Davis }} The DEMCO address is now 219 W. Rhapsody, San Antonio, Texas.</ref>。その年の秋に、社名をDEMCOからサウスウェスト・テクニカル・プロダクツ・コーポレーション([[SWTPC]])に変更した<ref name = "PE Sep 1967">{{cite magazine | last = Lancaster | first = Don | authorlink = Don Lancaster | date = September 1967 | title = Spots Before Your Eyes |magazine= Popular Electronics | volume = 27 | issue = 3 |page=31 | publisher = Ziff Davis }} The first use of Southwest Technical Products Corporation.</ref>。

1967年の『ポピュラーエレクトロニクス』誌にはダン・メイヤーの記事が6本、ドン・ランカスターの記事が4本掲載されていた。その年の表紙記事のうち7つはSWTPC社が販売したキットが取り上げられていた。1966年から1971年の間にSWTPC社の執筆者は64本の記事を書き、ポピュラーエレクトロニクス誌で25回表紙を飾った(ドン・ランカスターだけで23本の記事を書き、表紙に10回掲載された)。『{{仮リンク|サンアントニオ・エクスプレス・ニュース|en|San Antonio Express-News}}』紙は1972年11月にSWTPC社の特集記事を掲載した。それには、「メイヤーはゼロから通販ビジネスを始め、6年間で100万ドル以上の売り上げを記録するまでになった」とある。同社はかつては、1,700平方メートルの建物から1日に100個のキットを出荷していた<ref name = "Express-News">{{cite news | first = Bill | last = Barnes | title = Do-It Yourselfers Propel Kit Maker to High Levels | work = San Antonio Express-News | page = 10 Business Section | date = November 19, 1972}}</ref>。

他の執筆者もSWTPC社の成功に気づいていた。[[Micro Instrumentation and Telemetry Systems|MITS]]社の共同創設者である[[フォレスト・ミムズ]]は『{{仮リンク|クリエイティブ・コンピューティング|en|Creative Computing (magazine)}}』誌のインタビューで、『ポピュラーエレクトロニクス』1970年11月号の表紙に掲載された自身の[[発光ダイオード]]についての記事について、次のように語っている<ref>{{cite magazine | author = Forrest M. Mims III |date=November 1984 | title = The Altair story; early days at MITS |magazine= Creative Computing | volume = 10 | issue = 11 | page =17 | publisher = Creative Computing | url = http://www.atarimagazines.com/creative/v10n11/17_The_Altair_story_early_d.php |accessdate= September 11, 2008}}</ref>。

<blockquote>
3月、私はポピュラーエレクトロニクス誌に、発光ダイオードに関する特集記事を初めて売り込みました。ある日の真夜中のミーティングで、私はサウスウエスト・テクニカル・プロダクツを真似て、ポピュラーエレクトロニクス誌のためにプロジェクトの記事を執筆してはどうかと提案しました。この記事は、プロジェクトのキット版の広告を無料で提供してくれるだろうし、その雑誌は、その記事を印刷するために私たちにお金を払ってくれるだろうと思ったのです!
</blockquote>

1970年11月号には、フォレスト・ミムズと[[エド・ロバーツ]]による"Assemble an LED Communicator - The Opticon"(LED通信機「オプティコン」の組み立て)という記事が掲載されている<ref>{{cite magazine | author = Forrest Mims |author2=Henry E. Roberts |date=November 1970 | title = Assemble an LED Communicator - The Opticom |magazine= Popular Electronics | volume = 33 | issue = 5 | pages =45–50, 98–99 | publisher = Ziff Davis}}</ref>。部品のキットは、ニューメキシコ州アルバカーキのMITS社に注文することができた。ポピュラーエレクトロニクス誌は、この記事の原稿料として400ドルを支払った。

== 『エレクトロニクスワールド』誌との合併 ==
『ラジオ&テレビジョンニュース』誌は1959年に『エレクトロニクスワールド』(Electronics World)となっていたが、1972年1月に『ポピュラーエレクトロニクス』誌に統合された。このプロセスは1971年夏、長年にわたり編集者だったオリバー・P・フェレルに代わって、新しい編集者のミルトン・S・スニッツァーが就任したことから始まった。スニッツァーは、CBラジオやオーディオ機器など、広告の出稿が盛んなトピックに焦点を当てることにした。電子工作プロジェクトはもはや特集記事ではなく、それらは新製品のレビューに置き換えられた<ref name = "Siliconnections 168">{{cite book | last = Mims | first = Forrest M | authorlink = Forrest Mims | title = Siliconnections: Coming of Age in the Electronic Era | publisher = McGraw-Hill | year = 1986 | location = New York | isbn = 978-0-07-042411-1 | page = [https://archive.org/details/siliconnectionsc00mims/page/168 168] | url-access = registration | url = https://archive.org/details/siliconnectionsc00mims/page/168 }}</ref>。編集の方向性の変化は、多くの執筆者を動揺させた。ダン・メイヤーはSWTPC社のカタログに、顧客に対して競合誌の『ラジオ=エレクトロニクス』誌への切り替えを促す文章を掲載した。

ドン・ランカスター、ダン・メイヤー、フォレスト・ミムズ、エド・ロバーツ、{{仮リンク|ジョン・サイモントン|en|John Simonton}}などの執筆者が『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移った。「ソリッドステート」のコラムニストだったルー・ガードナーでさえ、1年間『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移っていた<ref>{{cite magazine | author = Lou Garner |date=August 1972 | title = State of Solid State |magazine= Radio-Electronics | volume = 43 | issue = 8 | pages =23–25 | publisher = Gernsback Publications }}</ref>。『ポピュラーエレクトロニクス』の技術編集者であったレス・ソロモンも、"B. R. Rogen"という偽名を使って『ラジオ=エレクトロニクス』誌に6本の記事を書いていた<ref name = "Siliconnections 168"/>。1972年と1973年には、『ポピュラーエレクトロニクス』が合併を進めて行く中で、最高の電子工作プロジェクトが『ラジオ=エレクトロニクス』誌に登場した。この時代に生まれた次世代のパーソナルコンピュータは、『ラジオ=エレクトロニクス』と『ポピュラーエレクトロニクス』の間のこの競争の恩恵を受けていた。


== 概要 ==
[[ファイル:MITS Altair 8800 Computer (1975).jpg|thumb|1975年1月に記事が掲載された事が契機となり普及した[[Altair 8800]]]]
[[ファイル:MITS Altair 8800 Computer (1975).jpg|thumb|1975年1月に記事が掲載された事が契機となり普及した[[Altair 8800]]]]
1973年9月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、ドン・ランカスターが設計した低価格の[[端末]]である[[TVタイプライター]]が発表された。1974年7月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、[[Intel 8008]]を使用した[[マイクロコンピュータ]]・[[Mark-8]]が発表された。『ポピュラーエレクトロニクス』の出版社は『ラジオ=エレクトロニクス』誌の成功に注目し、1974年にはアーサー・P・サルスバーグが編集者に就任した。サルスバーグと技術編集者のレス・ソロモンは、電子工作プロジェクトの特集記事を復活させた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌は、雑誌で特集するコンピュータのプロジェクトを探し、[[Intel 8080]]を使用したエド・ロバーツの[[Altair 8800]]を取り上げることにした<ref>{{cite magazine | author = H. Edward Roberts |author2=William Yates |date=January 1975 | title = Altair 8800 minicomputer |magazine= Popular Electronics | volume = 7 | issue = 1 | pages =33–38 | publisher = Ziff Davis }}</ref>。『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号の表紙にAltairが掲載され、これがパーソナルコンピュータ革命の幕開けとなった。
雑誌は1954年に創刊され、当時普及が進みつつあった[[ラジオ]]や[[テレビ]]等の家電製品を自分で製作する[[電子工作]]の記事が掲載され、その後、1970年代に入ると[[マイクロコンピュータ]]を使用する個人用コンピュータの製作の記事が掲載され、普及に大きな役割を果たした<ref>{{cite book|title=インテル8080伝説 |author=鈴木哲哉 |page= |publisher=ラトルズ |date=2017-02-20}}</ref>。創刊当初は高価な[[トランジスタ]]よりも廉価だった[[真空管]]を使用した工作記事が主流で徐々に[[半導体産業]]の発展に伴い、[[トランジスタ]]や[[集積回路]]を使用する電子工作の記事が増えていった。

最初の20年間は、{{仮リンク|ダイジェストサイズ|en|Digest size}}(6.5インチ×9インチ)だった。表紙のロゴは、長方形のボックスに[[サンセリフ]]の書体だった。表紙には大きなイメージの特集記事が掲載されていたが、通常は電子工作の構築記事が中心だった。1970年9月、表紙のロゴは下線付きのセリフ体に変更された。雑誌の内容、タイポグラフィ、レイアウトも更新された<ref name = "PE Sep 1970">{{cite magazine | last = Ferrell | first = Oliver | title = The New Look |magazine= Popular Electronics | volume = 33 | issue = 3 | pages =7–8 | publisher = Ziff-Davis |date=September 1970}}</ref>。1972年1月には、表紙のロゴに"including Electronics World"(『エレクトロニクスワールド』を含む)という文言が加えられ、巻数が1にリセットされた。2年後に"including Electronics World"の文言はなくなった。特集企画の大きな写真はなくなり、記事のテキストリストに置き換えられた。1974年8月、雑誌はより大きな[[レターサイズ]](8.5インチ×11インチ)に変更された。これは、回路図などの図版を大きくしたり、印刷を[[オフセット印刷]]機に切り替えたりするほか、広告主からの広告ページを大きくしたいという要望に応えるためだった<ref name = "PE Aug 197">{{cite magazine | last = Salsberg | first = Art | title = Our New Look |magazine= Popular Electronics | volume = 6 | issue = 2 | page =4 | publisher = Ziff-Davis |date=August 1974}}</ref>。長年目次に書かれていた"World's Largest Selling Electronics Magazine"(世界で最も売れている電子工学雑誌)というタグラインは表紙に移された。

== パーソナルコンピュータ ==
[[File:Roger Melen, Lee Felsenstein, and Harry Garland.jpg|thumb|[[ロジャー・メレン]]、[[リー・フェルゼンスタイン]]、[[ハリー・ガーランド]](2013年)。このの3人は、『ポピュラーエレクトロニクス』誌に画期的なパーソナルコンピュータ製品を紹介した。メレンとガーランドの[[Cromemco Cyclops|Cyclops]]と[[Cromemco Dazzler|Dazzler]]、フェルゼンスタインの{{仮リンク|ペニーホイッスルモデム|en|Pennywhistle modem}}と[[Sol-20|Sol]]である。]]
最初の[[パーソナルコンピュータ]]はどのマシンだったのか、[[Altair 8800]](1975年)、[[Mark-8]](1974年)、[[Kenbak-1]](1971年)にまで遡る議論がある。『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号に掲載されたAltair 8800は、40万人ほどの読者の注目を集めた。それまでの家庭用コンピュータは、100台売れれば良い方だった。その中で、Altairは初年に数千台を販売した。1975年末までには、Altairの回路バス(後に[[S-100バス]]と名付けられ、IEEE規格として定められた)を使用したコンピュータキットや周辺機器を製造する企業が十数社にまでなっていた。

1975年2月号では、[[スタンフォード大学]]の3人の学生、テリー・ウォーカー、[[ハリー・ガーランド]]、[[ロジャー・メレン]]による"All Solid-State TV Camera"(オール・ソリッドステート・テレビカメラ)が特集された<ref>{{cite magazine | author = Terry Walker |author2=Roger Melen |author3=Harry Garland |date=February 1975 | title = Build Cyclops, First All Solid-State TV Camera |magazine= Popular Electronics | volume = 7 | issue = 2 | pages =27–31 | publisher = Ziff Davis}}</ref>。ここで紹介された[[Cromemco Cyclops|Cyclops]]カメラは、画像表示に[[オシロスコープ]]を使用するように設計されていたが、記事ではAltairに接続することも可能であると言及している。すぐに彼らはAltaiを手に入れ、Cyclops用のインターフェイスを設計した。彼らはまた、Altair用のフルカラービデオディスプレイ[[Cromemco Dazzler|"The TV Dazzler"]]も設計し、1976年2月号の表紙に掲載された<ref>{{cite magazine | author = Terry Walker |author2=Roger Melen |author3=Harry Garland |author4=Ed Hall |date=February 1976 | title = Build the TV Dazzler |magazine= Popular Electronics | volume = 9 | issue = 2 |pages=31, 37–40 | publisher = Ziff Davis}}</ref>。これがコンピュータメーカー・[[クロメンコ]]の始まりであり、1983年には従業員数が500人を超えるまでに成長した<ref>[http://infolab.stanford.edu/pub/voy/museum/pictures/display/3-5-CROMEMCO.html Cromemco Display at Stanford]</ref>。
1975年にはインターネットは存在しなかったが、[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]コンピュータは存在した。[[端末]]と[[モデム]]があれば、ユーザは大規模なマルチユーザコンピュータにアクセスすることができた。[[リー・フェルゼンスタイン]]は、モデムや端末の廉価版をホビイストが利用できるようにしたいと考えていた。1976年3月号には{{仮リンク|ペニーホイッスルモデム|en|Pennywhistle modem}}<ref>{{cite magazine | author = Lee Felsenstein |date=March 1976 | title = Build the Pennywhistle - The Hobbyist's Modem |magazine= Popular Electronics | volume = 9 | issue = 3 | pages =43–50 | publisher = Ziff Davis}}</ref>が、1976年7月号には「インテリジェント端末SOL」が掲載された<ref>{{cite magazine | author = Robert M. Marsh |author2=Lee Felsenstein |date=July 1976 | title = Build SOL, An Intelligent Computer Terminal |magazine= Popular Electronics | volume = 10 | issue = 1 | pages =35–38 | publisher = Ziff Davis}}</ref>。[[プロセッサ・テクノロジー]]社が製作した[[Sol-20|SOL]]は、単なる端末ではなく実際にはAltair互換のコンピュータであり、当時最も成功したパーソナルコンピュータの1つとなった。

『ポピュラーエレクトロニクス』には、Altair 680、Speechlab音声認識ボード、{{仮リンク|COSMAC ELF|en|COSMAC ELF}}など、他にも多くのコンピュータの製作プロジェクトが掲載された。1975年9月にはコンピュータ専門誌『[[バイト (雑誌)|バイト]]』が創刊され、その後もコンピュータ雑誌の創刊が続いた。1977年末までには、[[Apple II]]、[[TRS-80]]、[[PET 2001]]などの組み立て済みのコンピュータが市場に出回っていた。コンピュータキットの製作は、組み立て済みのボードを差し込むことに取って代わられた。

== コンピュータ&エレクトロニクス ==
『ポピュラーエレクトロニクス』誌は、[[マイクロプロセッサ]]やその他のプログラマブル・デバイスといった最新技術を使った製作記事が大半を占めるようになった。1982年11月、同誌は『コンピュータ&エレクトロニクス』(''Computers & Electronics'')に改称した。機器のレビューが増え、電子工作プロジェクトの記事は少なくなった。最後の主要プロジェクトの1つは、1983年7月と8月に発行された[[Apple II]]用の双方向アナログ/デジタル変換器だった。1983年末にアート・サルスバーグが退社し、セス・R・アルパートが編集長に就任した。アルパートは、電子工作プロジェクトの記事の掲載を中止し、ハードウェアとソフトウェアのレビューだけを掲載するようにした。1985年1月、フォレスト・ミムズがAltair 8800発売10周年記念の記事を書いたときには、発行部数は60万部近くに達していた。

1984年10月、元編集長のアート・サルスバーグが競合誌『[[モダンエレクトロニクス]]』を創刊した。編集者のアレクサンダー・W・ブラワと執筆者のフォレスト・ミムズ、レン・フェルドマン、{{仮リンク|グレン・ハウザー|en|Glenn Hauser}}は『モダンエレクトロニクス』に移った。サルスバーグは、この新しい雑誌について次のように述べている<ref name="ModernElectronics">{{cite magazine | author = Art Salsberg |date=October 1984 | title = A Warm Welcome |magazine= Modern Electronics | volume = 1 | issue = 1 | page =4 | publisher = Modern Electronics Inc.}}</ref>。
<blockquote>
電子機器やコンピュータのハードウェアの最新動向を学ぶことを楽しみにしているあなたのような愛好家を対象に、『モダンエレクトロニクス』は、電子機器やコンピュータの世界で何が新しいのか、これらの機器がどのように機能しているのか、どのように使用するのか、そして便利な電子機器の構築計画をあなたに紹介します。

『ポピュラーエレクトロニクス』誌を10年以上にわたって世話をしてきたことで、私のことを知っている人も多いでしょう。同誌は昨年、電子工学やコンピュータ製品の分野を流動的に行き来するアクティブな電子工学愛好家から距離を置くために、その名前と編集理念を変更しました。『モダンエレクトロニクス』は、ある意味で『ポピュラーエレクトロニクス』の当初のコンセプトを継承したものと言えるでしょう。
</blockquote>

『コンピュータ&エレクトロニクス』誌は1985年4月を以て廃刊となった。この雑誌にはまだ60万人の読者がいたが、他のコンピュータ雑誌との激しい競争の結果、広告収入が横ばいとなっていた<ref name = "InfoWorld 1985">{{cite magazine | last = McCarthy | first = Michael | title = End of an Era |magazine= InfoWorld | volume = 7 | issue = 11 | page =13 | date = March 18, 1985 | url = https://books.google.com/books?id=4i4EAAAAMBAJ&pg=PA13 | issn = 0199-6649 | publisher = InfoWorld Media Group, Inc.}}Ziff-Davis Publishing would discontinue ''Computers & Electronics'' due to flat ad revenues. ''Creative Computing'' magazine would continue.</ref>。

== Ziff-Davis社の売却 ==
1953年、{{仮リンク|ウィリアム・バーナード・ジフ・ジュニア|en|William Bernard Ziff Jr.}}は、父親が心臓発作で亡くなったことをきっかけに、23歳で出版業界に身を投じた。1982年、彼は前立腺癌と診断されたため、14歳から20歳の3人の息子たちに出版社を経営したいかどうか尋ねたが、誰も経営したいとは答えなかった。彼は、一部の雑誌を売却することで財産をシンプルにしたいと考えていた。1984年11月、[[CBS]]が消費者部門を3億6,250万ドルで、[[ルパート・マードック]]がビジネス部門を3億5,000万ドルで買収した。

これにより、Ziff-Davisにはコンピュータ部門とデータベースの出版社(Information Access Company)が残り、これらの部門だけでは利益を上げることができなかった。彼は闘病に専念するために一旦休職した(彼は2006年に死去した)。彼が復帰したとき、彼はZiff-Davisを再建するために{{仮リンク|PC Magazine|en|PC Magazine}}や{{仮リンク|MacUser|en|MacUser}}などの雑誌に注力した<ref name = "NY Times Aug 9 1988">{{cite news | last = Dougherty | first = Philip H. | title = The Media Business: Advertising; Pc Magazine Sees Buyers As 'Heroes' | newspaper = The New York Times | page = D19 | date = August 9, 1988 | url = https://www.nytimes.com/1988/08/09/business/the-media-business-advertising-pc-magazine-sees-buyers-as-heroes.html}} "With 5,500 ad pages in 1987, Mr. Huey said, PC Magazine moved ahead of Vogue. Ad revenue for last year was $79 million, and for the first five months of this year it was $50 million."</ref>。1994年、彼とその息子たちはZiff-Davis社を14億ドルで売却した。

== ガーンズバック出版社 ==
『ポピュラーエレクトロニクス』というタイトルはガーンズバック出版社に売却され、1989年2月に同社の『[[ハンズオン・エレクトロニクス]]』誌が『ポピュラーエレクトロニクス』に改名された。この雑誌は、2000年1月に『エレクトロニクス・ナウ』誌(『ラジオ=エレクトロニクス』誌の後身)と合併して『ポプトロニクス』(Poptronics)となった。2002年末にガーンズバック出版社は廃業し、『ポプトロニクス』誌は2003年1月号で廃刊となった<ref>{{cite news|last1=Rick|first1=Lindquist|title=ARRL Letter|url=http://www.arrl.org/arrlletter?issue=2003-01-17|accessdate=27 January 2016|volume = 22|issue=3|publisher=ARRL|date=January 17, 2003|quote=''Poptronics'' magazine which evolved from the former ''Popular Electronics'' and ''Electronics Now'' magazines ceased publication with the January 2003 edition (Vol 4, No 1).}}</ref>。


== 出典 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|Popular Electronics}}
{{Commons category|Popular Electronics}}
* [https://web.archive.org/web/20120615144918/http://www.swtpc.com/mholley/PopularElectronics/Popular_Electronics.htm Popular Electronics Magazine History ]
* [https://web.archive.org/web/20120615144918/http://www.swtpc.com/mholley/PopularElectronics/Popular_Electronics.htm Online scans of selected Popular Electronics issues]
* [http://www.copperwood.com/carlandjerry.htm Index of all of John T. Frye's Carl and Jerry stories]
* [https://web.archive.org/web/20120323162219/http://startup.nmnaturalhistory.org/gallery/story.php?ii=21&sid=4 STARTUP: Albuquerque and the Personal Computer Revolution]
* [http://www.americanradiohistory.com/Popular-Electronics-Guide.htm America Radio History archives of Popular Electronics issues]
* [https://popularelectronics.technicacuriosa.com/ Popular Electronics website continuing the magazine title]
*[https://archive.org/search.php?query=Popular%20Electronics Archived Popular Electronics] on the [[Internet Archive]]


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2020年6月27日 (土) 00:38時点における版

ポピュラーエレクトロニクス
Popular Electronics
1954年10月号(創刊号)の表紙
ジャンル 電子機器パソコン科学技術
刊行頻度 月刊
発売国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
出版社 Ziff Davis
ガーンズバック出版
ジョン・オーガスト・メディア
刊行期間 1954年10月 - 1985年4月
1989年2月 - 1999年12月
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ポピュラーエレクトロニクス』(Popular Electronics)は、アメリカ合衆国で発刊されている、電子工学を中心とした通俗技術誌である。現在は、ジョン・オーガスト・メディア社から発行されている。

1954年10月にZiff Davis社が電子工作のホビイストや実験家のために創刊した。すぐに「世界で最も売れている電子工学雑誌」となった。1957年4月のZiff Davis社の報告によれば、平均発行部数は240,151部だった[1]。『ポピュラーエレクトロニクス』は1982年10月まで発行され、1982年11月に後継誌の『コンピュータ&エレクトロニクス』(Computers & Electronics)が創刊された。『コンピュータ&エレクトロニクス』誌の最後の年の月平均発行部数は409,344部だった[2]。『ポピュラーエレクトロニクス』というタイトルはガーンズバック出版社に売却され、同社の『ハンズオン・エレクトロニクス』誌が1989年2月に『ポピュラーエレクトロニクス』に改名され、1999年12月まで発行された。『ポピュラーエレクトロニクス』の商標はその後、ジョン・オーガスト・メディア社によって取得され、同社はこの雑誌を復活させた。この雑誌のデジタル版は、姉妹誌である『メカニクス・イラストレーテッド英語版』や『ポピュラーアストロノミー』とともに、TechnicaCuriosa.comで提供されている。

『ポピュラーエレクトロニクス』誌の表紙記事では、多くの新製品や新会社が紹介された。その中でも最も有名な1975年1月号では、Altair 8800コンピュータが表紙を飾り、パーソナルコンピュータ革命の火付け役となった。ポール・アレンがその号をビル・ゲイツに見せたことがきっかけで、彼らはAltair用のBASICインタプリタを書き、マイクロソフトを立ち上げた[3]

創刊

ラジオ&TVニュース』誌は専門家向けの雑誌だったが、同誌の編集者はホビイスト向けの雑誌を作りたいと考えていた。Ziff-Davis社は1927年に『ポピュラーアビエーション』誌を、1934年に『ポピュラーフォトグラフィー』誌を創刊していたが、「ポピュラーエレクトロニクス」という商標はガーンズバック出版社が持っていた。この商標は1943年から1948年まで『ラジオ=クラフト』誌(『ラジオ=エレクトロニクス』誌の前身)で使用されていた[4]。Ziff-Davis社はこの商標を購入し、1954年10月号から『ポピュラーエレクトロニクス』誌を創刊した。

編集者や執筆者の多くは、Ziff-Davis社の両誌で働いていた。当初、オリバー・リードは『ラジオ&TVニュース』と『ポピュラーエレクトロニクス』の両方の編集者であった。リードは1956年6月に出版者に昇進した[5]。オリバー・ペリー・フェレルが『ポピュラーエレクトロニクス』の編集者に就任し、ウィリアム・A・ストックリンが『ラジオ&TVニュース』の編集者になった。『ラジオ&TVニュース』では、ジョン・T・フライ(John T. Frye)が、架空の修理屋で店主のマックが他の技術者や顧客と交流するというコラムを書いており、そこで読者はラジオやテレビの修理技術を学ぶことができた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌では、フライは、カールとジェリーという二人の男子高校生が冒険をしながら電子工学について学ぶというコラムを執筆した。

1954年までには、オーディオやラジオの電子工学キットを作る趣味が流行していた。ヒースキットをはじめとする多くのメーカーが、詳細な説明書付きの、全ての部品が含まれたキットを提供していた。『ポピュラーエレクトロニクス』創刊号の表紙には、ヒースキットのA-7Bオーディオアンプを組み立てているホビイストの写真が使われていた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌では、個々のパーツを地元の電気店で購入したり、通信販売で購入したりして、ゼロから組み立てる電子工作プロジェクトが提供されていた。

初期の電子工作プロジェクトのほとんどは真空管を使用していた。まだトランジスタは高価で、一部のホビイストがようやく入手できるようになったばかりだった。1954年12月号に掲載されたレイセオンの小信号トランジスタ・CK722は3.50ドルもしたが、典型的な小信号真空管(12AX7)は0.61ドルだった。ルー・ガーナーは創刊号の特集記事で、自転車に乗せて使える電池式真空管ラジオについて執筆した。彼は1956年6月号から「トランジスタ・トピックス」というコラムを担当することになった。トランジスタはすぐに1ドル以下で購入できるようになり、『ポピュラーエレクトロニクス』にトランジスタを使用したプロジェクトが毎号掲載されるようになった。このコラムは1965年に「ソリッドステート」に改称され、1978年12月まで掲載された。

1962年の典型的な構成の例

1962年7月号は112ページ、編集者はオリバー・P・フェレル、月間発行部数は40万部だった。この雑誌には、"POP'tronics News Scope"(ポプトロニクス・ニュース・スコープ)という名の電子機器のニュースが1ページに渡って掲載されていた。2000年1月には後継誌がポプトロニクスに改名された。1960年代には、フォーセット出版社の『エレクトロニクス・イラストレーテッド英語版』という競合誌があった。

表紙にはコナー社の15インチ白黒テレビキットが掲載されており、価格は135ドルだった。特集記事は、「近所の放射線レベルを追跡する」ための「放射線降下物モニター」だった(その年の10月にキューバ危機があった)。他には、水中温度を調べる「フィッシュ・ファインダー」、エレキギター用の「トランジスタ化トレモロ」、航空機の音を聞くための1管式VHF受信機などの製作記事があった。

市民バンドアマチュア無線BCLの連載コラムもあった。毎月、読者と保有する無線機器を紹介するコーナーもあった(なお、読者のほとんどは男性だった[6])。ルー・ガードナーの「トランジスタ・トピックス」は、新しいトランジスタ使用のFMステレオ受信機と、読者から投稿された回路を紹介していた。ジョン・T・フライのコラムでは、架空のキャラクターのカールとジェリー[7]が、PHメーターを使って川の汚染の原因を突き止めていた。

執筆者とキット

『ポピュラーエレクトロニクス』誌に掲載された、ドン・ランカスターが設計し、ダニエル・メイヤーサウスウエスト・テクニカル・プロダクツ社が販売した周波数カウンターのキット

編集者のオリヴィエ・フェレルは,興味深い電子工作プロジェクトを寄稿してくれる執筆家たちを継続して開拓してきた。これらのプロジェクトは、『ポピュラーエレクトロニクス』のスタイルを何年にもわたって確立して行った。最も多作だったのは、ダニエル・メイヤードン・ランカスターの2人である。

ダニエル・"ダン"・メイヤーはサウスウェストテキサス州立大学を1957年に卒業し、テキサス州サンアントニオにあるサウスウエスト・リサーチ・インスティテュート英語版の研究者となっていた。大学を卒業した頃から、彼はホビイスト向けの記事を書き始めた。初めての記事は『エレクトロニクスワールド』1960年5月号に掲載され、その後『ラジオ=エレクトロニクス』誌では1962年10月と11月号の2号続けて表紙記事となった[8]。『ポピュラーエレクトロニクス』1963年3月号では、彼が設計した超音波聴取装置が表紙を飾った[9]

ドン・ランカスターはラファイエット大学(1961年)とアリゾナ州立大学(1966年)を卒業した。1960年代には、音楽に合わせて色のついた照明を点灯させることが流行していた。このサイケデリックな照明は、半導体制御整流器(サイリスタ)の開発によって実現したものである。ランカスターが最初に発表した記事は、『エレクトロニクスワールド』1963年4月号に掲載された"Solid-State 3-Channel Color Organ"だった。彼はこの記事で150ドルの報酬を得た[10]

『ポピュラーエレクトロニクス』に掲載される電子工作プロジェクトは、1960年代初頭に真空管からトランジスタなどのソリッドステートへと変化した。真空管回路はソケット付きの金属シャーシを使用し、トランジスタ回路はプリント基板上で動作させるのがベストだった。これらの回路には、地方の電子部品店では入手しづらい部品が含まれていることが多かった。

メイヤーは、『ポピュラーエレクトロニクス』誌の読者向けの回路基板や部品の販売にビジネスチャンスを見出した。1964年1月、彼はサウスウエスト・リサーチ・インスティテュートを退職し、電子工作キットの会社、ダニエル・E・メイヤー・カンパニー(DEMCO)を設立した。彼はその後も記事の執筆を続け、テキサス州サンアントニオの自宅のガレージでキットの通信販売のビジネスを運営していた。1965年までには、彼はルー・ガーナーなどの他の執筆者が設計したキットも取り扱うようになった。1967年にはランカスターの"IC-67 Metal Locator"のキットを販売した。1967年初頭、彼は会社を自宅からサンアントニオの約1万2千平方メートルの敷地に建てた新しい建物に移転した[11]。その年の秋に、社名をDEMCOからサウスウェスト・テクニカル・プロダクツ・コーポレーション(SWTPC)に変更した[12]

1967年の『ポピュラーエレクトロニクス』誌にはダン・メイヤーの記事が6本、ドン・ランカスターの記事が4本掲載されていた。その年の表紙記事のうち7つはSWTPC社が販売したキットが取り上げられていた。1966年から1971年の間にSWTPC社の執筆者は64本の記事を書き、ポピュラーエレクトロニクス誌で25回表紙を飾った(ドン・ランカスターだけで23本の記事を書き、表紙に10回掲載された)。『サンアントニオ・エクスプレス・ニュース英語版』紙は1972年11月にSWTPC社の特集記事を掲載した。それには、「メイヤーはゼロから通販ビジネスを始め、6年間で100万ドル以上の売り上げを記録するまでになった」とある。同社はかつては、1,700平方メートルの建物から1日に100個のキットを出荷していた[13]

他の執筆者もSWTPC社の成功に気づいていた。MITS社の共同創設者であるフォレスト・ミムズは『クリエイティブ・コンピューティング英語版』誌のインタビューで、『ポピュラーエレクトロニクス』1970年11月号の表紙に掲載された自身の発光ダイオードについての記事について、次のように語っている[14]

3月、私はポピュラーエレクトロニクス誌に、発光ダイオードに関する特集記事を初めて売り込みました。ある日の真夜中のミーティングで、私はサウスウエスト・テクニカル・プロダクツを真似て、ポピュラーエレクトロニクス誌のためにプロジェクトの記事を執筆してはどうかと提案しました。この記事は、プロジェクトのキット版の広告を無料で提供してくれるだろうし、その雑誌は、その記事を印刷するために私たちにお金を払ってくれるだろうと思ったのです!

1970年11月号には、フォレスト・ミムズとエド・ロバーツによる"Assemble an LED Communicator - The Opticon"(LED通信機「オプティコン」の組み立て)という記事が掲載されている[15]。部品のキットは、ニューメキシコ州アルバカーキのMITS社に注文することができた。ポピュラーエレクトロニクス誌は、この記事の原稿料として400ドルを支払った。

『エレクトロニクスワールド』誌との合併

『ラジオ&テレビジョンニュース』誌は1959年に『エレクトロニクスワールド』(Electronics World)となっていたが、1972年1月に『ポピュラーエレクトロニクス』誌に統合された。このプロセスは1971年夏、長年にわたり編集者だったオリバー・P・フェレルに代わって、新しい編集者のミルトン・S・スニッツァーが就任したことから始まった。スニッツァーは、CBラジオやオーディオ機器など、広告の出稿が盛んなトピックに焦点を当てることにした。電子工作プロジェクトはもはや特集記事ではなく、それらは新製品のレビューに置き換えられた[16]。編集の方向性の変化は、多くの執筆者を動揺させた。ダン・メイヤーはSWTPC社のカタログに、顧客に対して競合誌の『ラジオ=エレクトロニクス』誌への切り替えを促す文章を掲載した。

ドン・ランカスター、ダン・メイヤー、フォレスト・ミムズ、エド・ロバーツ、ジョン・サイモントン英語版などの執筆者が『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移った。「ソリッドステート」のコラムニストだったルー・ガードナーでさえ、1年間『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移っていた[17]。『ポピュラーエレクトロニクス』の技術編集者であったレス・ソロモンも、"B. R. Rogen"という偽名を使って『ラジオ=エレクトロニクス』誌に6本の記事を書いていた[16]。1972年と1973年には、『ポピュラーエレクトロニクス』が合併を進めて行く中で、最高の電子工作プロジェクトが『ラジオ=エレクトロニクス』誌に登場した。この時代に生まれた次世代のパーソナルコンピュータは、『ラジオ=エレクトロニクス』と『ポピュラーエレクトロニクス』の間のこの競争の恩恵を受けていた。

1975年1月に記事が掲載された事が契機となり普及したAltair 8800

1973年9月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、ドン・ランカスターが設計した低価格の端末であるTVタイプライターが発表された。1974年7月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、Intel 8008を使用したマイクロコンピュータMark-8が発表された。『ポピュラーエレクトロニクス』の出版社は『ラジオ=エレクトロニクス』誌の成功に注目し、1974年にはアーサー・P・サルスバーグが編集者に就任した。サルスバーグと技術編集者のレス・ソロモンは、電子工作プロジェクトの特集記事を復活させた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌は、雑誌で特集するコンピュータのプロジェクトを探し、Intel 8080を使用したエド・ロバーツのAltair 8800を取り上げることにした[18]。『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号の表紙にAltairが掲載され、これがパーソナルコンピュータ革命の幕開けとなった。

最初の20年間は、ダイジェストサイズ英語版(6.5インチ×9インチ)だった。表紙のロゴは、長方形のボックスにサンセリフの書体だった。表紙には大きなイメージの特集記事が掲載されていたが、通常は電子工作の構築記事が中心だった。1970年9月、表紙のロゴは下線付きのセリフ体に変更された。雑誌の内容、タイポグラフィ、レイアウトも更新された[19]。1972年1月には、表紙のロゴに"including Electronics World"(『エレクトロニクスワールド』を含む)という文言が加えられ、巻数が1にリセットされた。2年後に"including Electronics World"の文言はなくなった。特集企画の大きな写真はなくなり、記事のテキストリストに置き換えられた。1974年8月、雑誌はより大きなレターサイズ(8.5インチ×11インチ)に変更された。これは、回路図などの図版を大きくしたり、印刷をオフセット印刷機に切り替えたりするほか、広告主からの広告ページを大きくしたいという要望に応えるためだった[20]。長年目次に書かれていた"World's Largest Selling Electronics Magazine"(世界で最も売れている電子工学雑誌)というタグラインは表紙に移された。

パーソナルコンピュータ

ロジャー・メレンリー・フェルゼンスタインハリー・ガーランド(2013年)。このの3人は、『ポピュラーエレクトロニクス』誌に画期的なパーソナルコンピュータ製品を紹介した。メレンとガーランドのCyclopsDazzler、フェルゼンスタインのペニーホイッスルモデム英語版Solである。

最初のパーソナルコンピュータはどのマシンだったのか、Altair 8800(1975年)、Mark-8(1974年)、Kenbak-1(1971年)にまで遡る議論がある。『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号に掲載されたAltair 8800は、40万人ほどの読者の注目を集めた。それまでの家庭用コンピュータは、100台売れれば良い方だった。その中で、Altairは初年に数千台を販売した。1975年末までには、Altairの回路バス(後にS-100バスと名付けられ、IEEE規格として定められた)を使用したコンピュータキットや周辺機器を製造する企業が十数社にまでなっていた。

1975年2月号では、スタンフォード大学の3人の学生、テリー・ウォーカー、ハリー・ガーランドロジャー・メレンによる"All Solid-State TV Camera"(オール・ソリッドステート・テレビカメラ)が特集された[21]。ここで紹介されたCyclopsカメラは、画像表示にオシロスコープを使用するように設計されていたが、記事ではAltairに接続することも可能であると言及している。すぐに彼らはAltaiを手に入れ、Cyclops用のインターフェイスを設計した。彼らはまた、Altair用のフルカラービデオディスプレイ"The TV Dazzler"も設計し、1976年2月号の表紙に掲載された[22]。これがコンピュータメーカー・クロメンコの始まりであり、1983年には従業員数が500人を超えるまでに成長した[23]。 1975年にはインターネットは存在しなかったが、タイムシェアリングコンピュータは存在した。端末モデムがあれば、ユーザは大規模なマルチユーザコンピュータにアクセスすることができた。リー・フェルゼンスタインは、モデムや端末の廉価版をホビイストが利用できるようにしたいと考えていた。1976年3月号にはペニーホイッスルモデム英語版[24]が、1976年7月号には「インテリジェント端末SOL」が掲載された[25]プロセッサ・テクノロジー社が製作したSOLは、単なる端末ではなく実際にはAltair互換のコンピュータであり、当時最も成功したパーソナルコンピュータの1つとなった。

『ポピュラーエレクトロニクス』には、Altair 680、Speechlab音声認識ボード、COSMAC ELF英語版など、他にも多くのコンピュータの製作プロジェクトが掲載された。1975年9月にはコンピュータ専門誌『バイト』が創刊され、その後もコンピュータ雑誌の創刊が続いた。1977年末までには、Apple IITRS-80PET 2001などの組み立て済みのコンピュータが市場に出回っていた。コンピュータキットの製作は、組み立て済みのボードを差し込むことに取って代わられた。

コンピュータ&エレクトロニクス

『ポピュラーエレクトロニクス』誌は、マイクロプロセッサやその他のプログラマブル・デバイスといった最新技術を使った製作記事が大半を占めるようになった。1982年11月、同誌は『コンピュータ&エレクトロニクス』(Computers & Electronics)に改称した。機器のレビューが増え、電子工作プロジェクトの記事は少なくなった。最後の主要プロジェクトの1つは、1983年7月と8月に発行されたApple II用の双方向アナログ/デジタル変換器だった。1983年末にアート・サルスバーグが退社し、セス・R・アルパートが編集長に就任した。アルパートは、電子工作プロジェクトの記事の掲載を中止し、ハードウェアとソフトウェアのレビューだけを掲載するようにした。1985年1月、フォレスト・ミムズがAltair 8800発売10周年記念の記事を書いたときには、発行部数は60万部近くに達していた。

1984年10月、元編集長のアート・サルスバーグが競合誌『モダンエレクトロニクス』を創刊した。編集者のアレクサンダー・W・ブラワと執筆者のフォレスト・ミムズ、レン・フェルドマン、グレン・ハウザー英語版は『モダンエレクトロニクス』に移った。サルスバーグは、この新しい雑誌について次のように述べている[26]

電子機器やコンピュータのハードウェアの最新動向を学ぶことを楽しみにしているあなたのような愛好家を対象に、『モダンエレクトロニクス』は、電子機器やコンピュータの世界で何が新しいのか、これらの機器がどのように機能しているのか、どのように使用するのか、そして便利な電子機器の構築計画をあなたに紹介します。

『ポピュラーエレクトロニクス』誌を10年以上にわたって世話をしてきたことで、私のことを知っている人も多いでしょう。同誌は昨年、電子工学やコンピュータ製品の分野を流動的に行き来するアクティブな電子工学愛好家から距離を置くために、その名前と編集理念を変更しました。『モダンエレクトロニクス』は、ある意味で『ポピュラーエレクトロニクス』の当初のコンセプトを継承したものと言えるでしょう。

『コンピュータ&エレクトロニクス』誌は1985年4月を以て廃刊となった。この雑誌にはまだ60万人の読者がいたが、他のコンピュータ雑誌との激しい競争の結果、広告収入が横ばいとなっていた[27]

Ziff-Davis社の売却

1953年、ウィリアム・バーナード・ジフ・ジュニア英語版は、父親が心臓発作で亡くなったことをきっかけに、23歳で出版業界に身を投じた。1982年、彼は前立腺癌と診断されたため、14歳から20歳の3人の息子たちに出版社を経営したいかどうか尋ねたが、誰も経営したいとは答えなかった。彼は、一部の雑誌を売却することで財産をシンプルにしたいと考えていた。1984年11月、CBSが消費者部門を3億6,250万ドルで、ルパート・マードックがビジネス部門を3億5,000万ドルで買収した。

これにより、Ziff-Davisにはコンピュータ部門とデータベースの出版社(Information Access Company)が残り、これらの部門だけでは利益を上げることができなかった。彼は闘病に専念するために一旦休職した(彼は2006年に死去した)。彼が復帰したとき、彼はZiff-Davisを再建するためにPC Magazine英語版MacUser英語版などの雑誌に注力した[28]。1994年、彼とその息子たちはZiff-Davis社を14億ドルで売却した。

ガーンズバック出版社

『ポピュラーエレクトロニクス』というタイトルはガーンズバック出版社に売却され、1989年2月に同社の『ハンズオン・エレクトロニクス』誌が『ポピュラーエレクトロニクス』に改名された。この雑誌は、2000年1月に『エレクトロニクス・ナウ』誌(『ラジオ=エレクトロニクス』誌の後身)と合併して『ポプトロニクス』(Poptronics)となった。2002年末にガーンズバック出版社は廃業し、『ポプトロニクス』誌は2003年1月号で廃刊となった[29]

脚注

  1. ^ The early issues listed the circulation figure on the Contents page. Starting in 1962 this data was in the back of each year's January issue.
  2. ^ STATEMENT OF OWNERSHIP, MANAGEMENT AND CIRCULATION (Required by 39 U.S.C. 3685). 20. Ziff-Davis Publishing Company. (January 1982). p. 89. http://www.americanradiohistory.com/Archive-Poptronics/80s/1982/Poptronics-1982-01.pdf January 20, 2016閲覧。. 
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外部リンク