「花房職秀」の版間の差分
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| 出典の明記 = 2012年3月17日 (土) 09:34 (UTC) |
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{{基礎情報 武士 |
{{基礎情報 武士 |
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| 氏名 = 花房 |
| 氏名 = 花房職秀 |
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] |
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期 |
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| 生誕 = [[天文_(元号)|天文]]18年([[1549年]]) |
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| 死没 = [[元和 (日本)|元和]]3年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1617年]][[3月18日]]) |
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| 改名 = 職秀→職之 |
| 改名 = 花房職秀→花房職之 |
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| 別名 = 通称:助兵衛、若狭 |
| 別名 = 通称:助兵衛、若狭<br>法名:道恵 |
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| 神号 = |
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| 墓所 = [[岡山市]] |
| 墓所 = [[妙玄寺]]([[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]][[高松 (岡山市)|高松]]) |
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| 官位 = |
| 官位 = |
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| 幕府 = |
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| 主君 = [[宇喜多直家]]→[[宇喜多秀家]]→[[徳川家康]] |
| 主君 = 湯原甚兵衛→明石景行→[[宇喜多直家]]→[[宇喜多秀家|秀家]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]] |
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| 藩 = |
| 藩 = |
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| 氏族 = [[花房氏]] |
| 氏族 = [[花房氏]] |
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| 父母 = 父:[[花房職勝]]、母:不詳 |
| 父母 = 父:[[花房職勝]]、母:不詳 |
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| 兄弟 = [[花房職澄|職澄]]、'''職秀'''、勝元 |
| 兄弟 = [[花房職澄|職澄]]、'''職秀'''、[[花房勝元|勝元]] |
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| 妻 = 額田三河守の娘 |
| 妻 = [[額田三河守]]の娘 |
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| 子 = [[花房職則|職則]]、[[榊原職直]] |
| 子 = '''[[花房職則|職則]]'''、[[榊原職直]] |
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| 特記事項 = |
| 特記事項 = |
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'''花房 職秀'''(はなぶさ もとひで)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]] |
'''花房 職秀'''(はなぶさ もとひで)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[宇喜多氏]]、[[徳川氏]]の家臣。[[美作国|美作]][[荒神山城]]城主。[[花房職勝|花房職勝(職治)]]の子。初めに職秀と名乗り、後に'''職之'''と改名。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 若年期 === |
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花房職秀は幼少時には浪人の身で、初め湯原甚兵衛に仕え15、6歳となったが、[[囲碁]]の相手を突き殺して退出し、[[明石景行]]を頼み家臣となった{{Sfn|森|2005|pp=139-140}}{{Efn|年齢は道恵(花房職秀)生前中の聞き書きである「覚之次第」『花房家記事』{{Sfn|森|2004}}による。「小島次郎兵衛書状写」『花房家記事』{{Sfn|森|2004}}では幼名若狭といい、13、4歳まで備前国山口の幡寺におり、湯原甚兵衛の小姓となり、程なく明石景行へ出仕し、碁の相手を殺害し、16歳で宇喜多直家に出仕したとあり若干経緯が異なる。{{Sfn|森|2005|p=140}}}}。 |
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永禄10年([[1567年]])に宇喜多氏に従って足軽大将として出陣して以来、各戦に従軍。永禄12年([[1569年]])には、[[備中国]]をめぐって[[毛利元就]]の四男・[[穂井田元清]]と交戦した。[[天正]]5年([[1570年]])からは、美作国に荒神山城を築いて国の経営を任された。天正5年([[1577年]])からは[[赤松氏]]・[[浦上氏]]と交戦、天正7年([[1579年]])に主君・[[宇喜多直家]]の命令で美作の[[後藤勝基]]の[[三星城]]を攻め、これを滅ぼした。 |
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[[永禄]]8年([[1565年]])、[[三村家親]]は美作国へ出陣し、[[浦上宗景]]の軍勢と交戦した。永禄9年([[1566年]])2月9日、[[宇喜多直家]]が家親を暗殺すると、備中勢は美作国から帰陣した。同年、宗景は明石景行を美作国へ派遣し、中村則治の本拠院庄を攻略した{{Sfn|森|2020|p=549}}。この時17歳の職秀は院庄神戸の合戦で組み討ち高名を挙げた{{Sfn|森|2005|pp=140-141}}{{Efn|江戸時代初期に編纂された『寛永諸家系図伝』では永禄8年(1565年)とある。花房職秀の経歴の多くは『寛永諸家系図伝』で初めて年次が付けられ以後の文献に広く甚大な影響を与えているが、同時代史料の検証により『寛永諸家系図伝』の年次比定の誤りが指摘されている。{{Sfn|森|2005}}}} |
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その後の宇喜多氏は[[織田信長]]・[[豊臣秀吉]]に従属。天正18年([[1590年]])の[[豊臣氏]]による[[小田原征伐]]に職秀も従軍した。なお職秀は誰にも憚ることなく諫言を行っており、小田原征伐においては、[[石垣山城]]で[[能]]や[[演芸]]など[[風流]]に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に対し、城門で秀吉と出会った際に下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と物怖じせずに言い放ったので斬り捨てられそうになったが、主君・[[宇喜多秀家]]の取りなしもあり逆に気に入られて加増されたといわれている<ref>「戦国合戦」意外・驚きエピソード (PHP文庫) 加賀 康之</ref>。また、[[文禄]]4年([[1595年]])には秀家に対して[[長船綱直]]を重用することを諫言し殺されそうになる。この際は秀吉の仲介で一命は助けられ、[[徳川家康]]の斡旋もあり、[[常陸国]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に預けられた(この出来事は、慶長4年([[1599年]])の宇喜多氏のお家騒動「[[宇喜多秀家#宇喜多騒動|宇喜多騒動]]」の遠因となったともいわれている)。 |
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[[毛利元就]]は[[小早川隆景]]に美作国の平定を命じ、永禄11年([[1568年]])2月には美作国西部の[[高田城 (美作国)|高田城]]が攻略され、高田城と葛下城に毛利方の番衆が籠められた。3月には東部の[[倉敷城]]の[[江見久盛|江見久資]]が一門から離反され討たれた。これに対して宗景は出勢し、江見一族の[[鷹巣城 (美作国)|鷹巣城]]や友野城を攻略した{{Sfn|森|2020|pp=549-550}}。この時19歳の職秀は鷹巣城主の江見次郎他1名を討ち取った{{Sfn|森|2005|pp=141-142}}{{Efn|『寛永諸家系図伝』では永禄9年(1566年)。}}。 |
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永禄12年([[1569年]])6月、[[出雲国]]で[[尼子再興軍の雲州侵攻|尼子再興軍が挙兵]]し、[[伯耆国]][[岩倉城 (伯耆国)|岩倉城]]では攻防戦が起きた{{Efn|『安西軍策』では赤松牢人が攻取したとある。}}。この時20歳の職秀は伯耆国南谷の城主小鴨弾正を攻め、一番槍を付けた{{Sfn|森|2005|pp=142-143}}{{Efn|『寛永諸家系図伝』では永禄10年(1567年)。南谷は岩倉城の西方に位置する久米郡山守荘の一部とされる。「氏名不詳某覚書」『花房家記事』の記主(額田氏か)と職秀を含む備前衆が攻城の主体であり、こののち城が落城した。}}。 |
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[[八丈島]]に流罪となった旧主・秀家に、毎年20俵の米を送っていたといわれている。 |
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7月には直家が[[織田信長]]と内通し、[[備前国]][[赤坂郡]]平岡庄へと侵攻し、松田彦次郎ら浦上方国衆と交戦した。これに対し宗景は美作国衆を動員し額田与次郎右衛門尉の居城に集結させた。9月には直家は一転して宗景に謝罪し赦免された{{Sfn|森|2006}}。 |
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[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、死去。墓所は岡山市高松の妙玄寺。 |
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=== 宇喜多直家への仕官 === |
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[[元亀]]元年([[1570年]])には、浦上・宇喜多勢が備中石川領へと侵攻した。この頃、職秀は宇喜多直家に気に入られ奉公し、始めは足軽大将の[[使番|使役]]を勤めていた。[[備中国]][[撫川城|撫川芝場の城]]を攻城中の[[戸川秀安]]の元に引き揚げの命令を伝えに来た職秀が今にも落城するとみて先陣し、戸川勢も続き落城させた{{Sfn|森|2005|pp=143-145}}{{Efn|『寛永諸家系図伝』では永禄10年(1567年)。}}。 |
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備中国日幡城主日幡八郎左衛門が宇喜多家へ与同し加勢を求め、職秀が本郷九郎左衛門に直家の意向を伝えたところ本郷は乗り気でなく、直家の元に戻った職秀自身が[[加番]]を申し出た。職秀と伊賀甚右衛門、赤枝氏らが日幡城に加番し堅固に防衛した{{Sfn|森|2005|p=145}}{{Efn|『寛永諸家系図伝』では永禄9年(1566年)。}}。浦上・宇喜多勢は他に松島城などを降伏させ、8月には[[石川久式]]の本拠[[幸山城]]へ迫った{{Sfn|畑b|2020|p=561}}。 |
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職秀は日幡での功により備前国赤坂郡山口、斗有、由津里三ヶ村を賜り山口に城を築いた。そして近隣の苅田・軽部・額田氏と日々合戦し勝利した。在地領主の難波・苅田氏の一族を引き加え、伊田・平岡の領主を味方につけることで、美作国へ出勢した。{{Sfn|森|2005|p=145}}。 |
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=== 荒神山城築城と対毛利戦線 === |
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元亀元年([[1570年]])10月、美作国の[[奉公衆]][[草刈景継|草苅景継]]は[[足利義昭]]側近の上野信恵から、浦上宗景の牽制を命じられている{{Sfn|森|2020|p=550}}。 |
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元亀2、3年頃([[1571年|1571]]、[[1572年]]頃)、職秀は美作国荒神山城を築城し在城した{{Sfn|森|2005|pp=146-147}}{{Efn|備前国赤坂郡の領知から荒神山城築城、美作各地での動向は「覚之次第」『花房家記事』では触れられておらず、寛永18年(1641年)に職秀の孫花房職利や備前美作両国の聞き取り調査を行った「小島次郎兵衛書状写」『花房家記事』による。小島は荒神山城築城時の職秀の年齢は22、3歳の頃とし、これに依拠し『寛永諸家系図伝』では元亀元年(1570年)に比定したと考えられるが、「覚之次第」の年齢と実際の年次に準じると元亀2、3年のことと推測される。また、『寛永諸家系図伝』では美作での一連の動向を元亀元年から天正3年(1575年)までのこととしているが、この年次も適宜配分されたに過ぎない可能性が高い。{{Sfn|森|2005|pp=138,146-147}}}}。近くの肥田左馬助・高橋四郎兵衛の拠る篠山城を攻め落とし{{Efn|『寛永諸家系図伝』では元亀2年(1571年)。}}、嵯峨山城も攻め取った{{Sfn|森|2005|pp=146-147}}{{Efn|『寛永諸家系図伝』では元亀3年(1572年)。}}。 |
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次に院庄の城を攻め北方の神戸へと追撃、古川城を攻略した。元亀2年(1571年)4月のこととされる院庄の合戦において杉山宗三郎為国<ref>{{Cite|和書|title=作陽誌|}}</ref>を討ち取り戦死した難波孫左衛門尉の跡目に関する措置を職秀が苔口宗十郎利長に命じている{{Sfnm|森|2005|1p=146|渡邊|2011|2pp=151-152|森|2020|3p=552}}{{Efn|院庄の合戦は「小島次郎兵衛書状写」『花房家記事』にはあるが、『寛永諸家系図伝』では省かれている。この苔口宗十郎への書状が一次史料としては職秀の初見史料である<ref>{{Cite|和書|title=年月未詳二十九日付花房職秀書状写}}</ref>。また、草苅氏に与同する中西三郎兵衛尉が院庄に籠城していたことが確認される<ref>{{Cite|和書|title=年未詳三月十七日付毛利輝元書状「美作牧山家所蔵文書」『岡山県古文書集』第四集}}</ref>。}}。草苅氏の持つ日詰城の出城である祝山城、枡形城、利元城の3城を次々落城させ、日詰城の相城を構え加番を籠めた{{Sfn|森|2005|pp=146-147}}{{Efn|『寛永諸家系図伝』では天正元年(1573年)。}}。 |
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次に久田の西屋城を落城させ苔口宗十郎を大将に兵を籠め、伯耆国への連絡路を確保した{{Efn|『寛永諸家系図伝』では天正三年(1575年)。元亀3年(1572年)9月23日に毛利方の武田高信が伯耆国佐治へ出張し美作国西屋表を攻撃しようとしており{{Sfn|森|2005|pp=147}}、これ以前のことと考えられる。}}。元亀2年(1571年)6月には[[吉川元春]]が大山寺救護院を討伐するため伯耆国へ入った。尼子再興軍の[[山中幸盛|亀井幸盛]]は大山寺支援のため末石城へ出陣し、宗景の軍6千とともに後巻きにする戦略を立てた。元春はこの動きを察知し、末石城を包囲し8月頃に亀井幸盛は元春に降伏、逃亡し、美作国へ落ち延びた{{Sfn|森|2005|pp=146-147}}。 |
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浦上・宇喜多勢は備中国北部へも進出し元亀2年(1571年)3月以前に佐井田城を攻略していた。宗景は佐井田城を普請し、庄氏残党に守らせた。[[敷名元範]]を将とする[[備後国|備後]]勢が到着し、戦局が好転した毛利勢は備中国北部へ調略を進めた。[[三村元親]]は佐井田城を包囲するが、救援に現れた浦上・宇喜多・[[伊賀久隆]]を中核とする備前・美作勢と佐井田城下で9月4日に合戦が起きた。職秀は[[三村親成]]の家来山もとと槍を交わし高名を挙げた。三村勢は敗走し、三村親成が負傷、庄元資が前哨戦あるいはこの合戦で討死するなど大損害を被った{{Sfnm|森|2005|1pp=147-149|畑b|2020|2p=561|}}{{Efn|「覚之次第」『花房家記事』には敵は「ほいだ殿」とある。また、「氏名不詳某覚書」『花房家記事』では佐井田城を攻撃する三村親成と職秀ら備前衆との合戦が記され、これは一次史料で確認できる元亀2年(1571年)9月4日の合戦に該当する可能性が高い。『寛永諸家系図伝』では永禄12年(1569年)。『西国太平記』を参照した『陰徳太平記』『備前軍記』では合戦を永禄11年(1568年)8月、永禄12年(1569年)4月とし、毛利元清の軍勢を破り、三村元親を退け、穗田実近(上田実親)を討ったとする。一方、『桂岌圓覚書』、『陰徳記』では庄元祐の討死を記す。}}。 |
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職秀はその後、美作国月田城を武略により攻め取った{{Sfn|森|2005|pp=149-150}}{{Efn|「覚之次第」『花房家記事』の記事の配列から元亀2年(1571年)9月以降、同3年(1573年)10月以前と考えられる。}}。 |
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元亀2年(1571年)11月には小早川隆景による備中国南部での反攻が始まり、元亀3年(1572年)には将軍足利義昭の仲裁により大友・浦上・毛利氏の和睦交渉が始まった。9月には毛利輝元本隊が備中国へ出陣した。そして10月に芸備和平が結ばれた。この和睦により佐井田城など備中国諸城が毛利方へ明け渡された{{Sfnm|畑a|2020|1pp=427-428|畑b|2020|2pp=561-562|森|2020|3p=551}}。 |
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天正5年([[1577年]])からは[[赤松氏]]・[[浦上氏]]と交戦、天正7年([[1579年]])に主君・[[宇喜多直家]]の命令で美作の[[後藤勝基]]の[[三星城]]を攻め、これを滅ぼした。その後の宇喜多氏は[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]に従属する。 |
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[[文禄]]4年([[1595年]])、秀家に対して[[長船綱直]]を重用することを諫言したことで秀家の怒りを買い殺されそうになるが、秀吉の仲介によって一命は助けられ、[[徳川家康]]の斡旋もあって、[[常陸国]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に預けられた。この出来事は慶長4年([[1599年]])の宇喜多氏のお家騒動である「[[宇喜多秀家#宇喜多騒動|宇喜多騒動]]」の遠因となったとも言われている。 |
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慶長19年([[1614年]])から翌年にかけての[[大坂の陣]]にも子らと参加し、老骨に鞭打って[[輿]]に乗りながら采配を執ったとされるがこの時には加増はなかった。 |
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[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]、死去。享年69。墓所は職秀が花房家の[[菩提寺]]として建立した[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]][[高松 (岡山市)|高松]]にある[[日蓮宗]]の寺院・高松山[[妙玄寺]]{{Efn|同寺には職秀がその忠勇に敬意を表した[[毛利氏]]家臣・[[清水宗治]]の[[位牌]]が祀られ、後に[[供養塔]]が建てられた。}}。職秀の死去により、嫡男の[[花房職則|職則]]が家督と所領を継いだ。 |
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== 人物評・逸話 == |
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職秀は誰にも憚ることなく諫言を行っていたことから、天正18年([[1590年]])の豊臣秀吉による[[小田原征伐]]に職秀も従軍した際においても、[[石垣山城]]で[[能]]や[[演芸]]などを行って一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に不満を持ち、[[能]]が催されている秀吉の本陣の前を通り過ぎる際に下馬するよう咎められると、「戦場で能をして遊ぶような愚かで腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放ち、そのまま通り過ぎた。これに激怒した秀吉は職秀の主君・[[宇喜多秀家]]に対して職秀の処刑を命じたが、秀家が命を了承して秀吉のもとから退出したところで考え直し、秀家を呼び戻して処刑ではなく切腹に変更するよう命じた。秀家が再び秀吉のもとを退出したところを再び考え直して秀家を呼び戻し、秀吉に対しても物怖じしない剛毅な物言いをする武将を殺すには惜しいとして逆に職秀に加増するよう命じたという逸話が『[[名将言行録]]』に収録されている{{Sfn|加賀|2008}}。 |
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== 花房職秀を主題とした作品 == |
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; 小説 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|25em}} |
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*{{Cite book|和書|title=浦上宇喜多両家記|author=戸川安吉|publisher=}}写本は[https://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館デジタルアーカイブ]より閲覧可能。 |
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*{{Cite book|和書|title=「戦国合戦」意外・驚きエピソード|year=2008|publisher=[[PHP文庫]]|author=加賀康之|ref={{SfnRef|加賀|2008}}}} |
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*{{Cite book|和書|title=岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編|year=2020|publisher=岡山県教育委員会|editor=岡山県古代吉備文化財センター|ref={{SfnRef|畑a|2020}}|date=2020-02-28|chapter=文献史料から見た備前国の中世城館|author=畑和良|url=https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/670342.html}} |
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*{{Cite book|和書|title=岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編|year=2020|publisher=岡山県教育委員会|editor=岡山県古代吉備文化財センター|ref={{SfnRef|畑b|2020}}|date=2020-02-28|chapter=備中国の政治・軍事動向と城館|author=畑和良|url=https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/670342.html}} |
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*{{Cite book|和書|title=美作国の山城 改訂版|year=2011|publisher=岡山県津山市教育委員会生涯学習部文化課|editor=「美作国の山城」編集委員会 2011|doi=10.24484/sitereports.15557|ref={{SfnRef|美作国の山城|2011}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=森俊弘|year=2004|title=史料紹介・弓斎叢書『花房家記事』―特に「高松小島氏旧記ノ写」について―|journal=吉備地方文化研究|issue=14|publisher=就実大学吉備地方文化研究所|ref={{SfnRef|森|2004}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=森俊弘|year=2005|title=「高松小島氏旧記ノ写」―覚書記事から垣間見る岡山県地域の戦国時代史―|journal=吉備地方文化研究|issue=15|publisher=就実大学吉備地方文化研究所|ref={{SfnRef|森|2005}}}} |
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*{{Cite journal|和書|author=森俊弘|year=2006|title=宇喜多直家の権力形態とその形成過程|journal=岡山地方史研究|issue=109|publisher=岡山地方史研究会|ref={{SfnRef|森|2006}}}} |
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*{{Cite book|和書|title=岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編|year=2020|publisher=岡山県教育委員会|editor=岡山県古代吉備文化財センター|ref={{SfnRef|森|2020}}|date=2020-02-28|author=森俊弘|chapter=文献史料から見た中世美作国の政治動向と戦乱|url=https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/670342.html}} |
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*{{Cite book|和書|title=戦国期 浦上氏・宇喜多氏と地域権力|year=2011|publisher=[[岩田書院]]|author=[[渡邊大門]]|series=中世史研究叢書19|isbn=978-4-87294-698-7|chapter=戦国織豊期宇喜多氏の領国支配―家臣団編成を中心にして―|ref={{SfnRef|渡邊|2011}}}} |
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*{{Cite|和書|title=[[寛永諸家系図伝]]|year=|at=清和源氏乙五}}[https://www.digital.archives.go.jp/item/4135017 国立公文書館デジタルアーカイブ]より閲覧可能。 |
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== 外部リンク == |
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* {{Kotobank|花房職之}} |
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2021年11月14日 (日) 04:00時点における版
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 元和3年2月11日(1617年3月18日) |
改名 | 花房職秀→花房職之 |
別名 |
通称:助兵衛、若狭 法名:道恵 |
墓所 | 妙玄寺(岡山県岡山市北区高松) |
主君 | 湯原甚兵衛→明石景行→宇喜多直家→秀家→徳川家康→秀忠 |
氏族 | 花房氏 |
父母 | 父:花房職勝、母:不詳 |
兄弟 | 職澄、職秀、勝元 |
妻 | 額田三河守の娘 |
子 | 職則、榊原職直 |
花房 職秀(はなぶさ もとひで)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。宇喜多氏、徳川氏の家臣。美作荒神山城城主。花房職勝(職治)の子。初めに職秀と名乗り、後に職之と改名。
生涯
若年期
天文18年(1549年)、花房職勝(職治)の子として誕生。生国は美作国という[1]。花房氏は清和源氏足利氏の末裔と称する[2]が、真偽は不明である。
花房職秀は幼少時には浪人の身で、初め湯原甚兵衛に仕え15、6歳となったが、囲碁の相手を突き殺して退出し、明石景行を頼み家臣となった[3][注釈 1]。
永禄8年(1565年)、三村家親は美作国へ出陣し、浦上宗景の軍勢と交戦した。永禄9年(1566年)2月9日、宇喜多直家が家親を暗殺すると、備中勢は美作国から帰陣した。同年、宗景は明石景行を美作国へ派遣し、中村則治の本拠院庄を攻略した[6]。この時17歳の職秀は院庄神戸の合戦で組み討ち高名を挙げた[7][注釈 2]
毛利元就は小早川隆景に美作国の平定を命じ、永禄11年(1568年)2月には美作国西部の高田城が攻略され、高田城と葛下城に毛利方の番衆が籠められた。3月には東部の倉敷城の江見久資が一門から離反され討たれた。これに対して宗景は出勢し、江見一族の鷹巣城や友野城を攻略した[9]。この時19歳の職秀は鷹巣城主の江見次郎他1名を討ち取った[10][注釈 3]。
永禄12年(1569年)6月、出雲国で尼子再興軍が挙兵し、伯耆国岩倉城では攻防戦が起きた[注釈 4]。この時20歳の職秀は伯耆国南谷の城主小鴨弾正を攻め、一番槍を付けた[11][注釈 5]。
7月には直家が織田信長と内通し、備前国赤坂郡平岡庄へと侵攻し、松田彦次郎ら浦上方国衆と交戦した。これに対し宗景は美作国衆を動員し額田与次郎右衛門尉の居城に集結させた。9月には直家は一転して宗景に謝罪し赦免された[12]。
宇喜多直家への仕官
元亀元年(1570年)には、浦上・宇喜多勢が備中石川領へと侵攻した。この頃、職秀は宇喜多直家に気に入られ奉公し、始めは足軽大将の使役を勤めていた。備中国撫川芝場の城を攻城中の戸川秀安の元に引き揚げの命令を伝えに来た職秀が今にも落城するとみて先陣し、戸川勢も続き落城させた[13][注釈 6]。
備中国日幡城主日幡八郎左衛門が宇喜多家へ与同し加勢を求め、職秀が本郷九郎左衛門に直家の意向を伝えたところ本郷は乗り気でなく、直家の元に戻った職秀自身が加番を申し出た。職秀と伊賀甚右衛門、赤枝氏らが日幡城に加番し堅固に防衛した[14][注釈 7]。浦上・宇喜多勢は他に松島城などを降伏させ、8月には石川久式の本拠幸山城へ迫った[15]。
職秀は日幡での功により備前国赤坂郡山口、斗有、由津里三ヶ村を賜り山口に城を築いた。そして近隣の苅田・軽部・額田氏と日々合戦し勝利した。在地領主の難波・苅田氏の一族を引き加え、伊田・平岡の領主を味方につけることで、美作国へ出勢した。[14]。
荒神山城築城と対毛利戦線
元亀元年(1570年)10月、美作国の奉公衆草苅景継は足利義昭側近の上野信恵から、浦上宗景の牽制を命じられている[16]。
元亀2、3年頃(1571、1572年頃)、職秀は美作国荒神山城を築城し在城した[17][注釈 8]。近くの肥田左馬助・高橋四郎兵衛の拠る篠山城を攻め落とし[注釈 9]、嵯峨山城も攻め取った[17][注釈 10]。
次に院庄の城を攻め北方の神戸へと追撃、古川城を攻略した。元亀2年(1571年)4月のこととされる院庄の合戦において杉山宗三郎為国[19]を討ち取り戦死した難波孫左衛門尉の跡目に関する措置を職秀が苔口宗十郎利長に命じている[20][注釈 11]。草苅氏の持つ日詰城の出城である祝山城、枡形城、利元城の3城を次々落城させ、日詰城の相城を構え加番を籠めた[17][注釈 12]。
次に久田の西屋城を落城させ苔口宗十郎を大将に兵を籠め、伯耆国への連絡路を確保した[注釈 13]。元亀2年(1571年)6月には吉川元春が大山寺救護院を討伐するため伯耆国へ入った。尼子再興軍の亀井幸盛は大山寺支援のため末石城へ出陣し、宗景の軍6千とともに後巻きにする戦略を立てた。元春はこの動きを察知し、末石城を包囲し8月頃に亀井幸盛は元春に降伏、逃亡し、美作国へ落ち延びた[17]。
浦上・宇喜多勢は備中国北部へも進出し元亀2年(1571年)3月以前に佐井田城を攻略していた。宗景は佐井田城を普請し、庄氏残党に守らせた。敷名元範を将とする備後勢が到着し、戦局が好転した毛利勢は備中国北部へ調略を進めた。三村元親は佐井田城を包囲するが、救援に現れた浦上・宇喜多・伊賀久隆を中核とする備前・美作勢と佐井田城下で9月4日に合戦が起きた。職秀は三村親成の家来山もとと槍を交わし高名を挙げた。三村勢は敗走し、三村親成が負傷、庄元資が前哨戦あるいはこの合戦で討死するなど大損害を被った[24][注釈 14]。
職秀はその後、美作国月田城を武略により攻め取った[25][注釈 15]。
元亀2年(1571年)11月には小早川隆景による備中国南部での反攻が始まり、元亀3年(1572年)には将軍足利義昭の仲裁により大友・浦上・毛利氏の和睦交渉が始まった。9月には毛利輝元本隊が備中国へ出陣した。そして10月に芸備和平が結ばれた。この和睦により佐井田城など備中国諸城が毛利方へ明け渡された[26]。
天正5年(1577年)からは赤松氏・浦上氏と交戦、天正7年(1579年)に主君・宇喜多直家の命令で美作の後藤勝基の三星城を攻め、これを滅ぼした。その後の宇喜多氏は織田信長、豊臣秀吉に従属する。
文禄4年(1595年)、秀家に対して長船綱直を重用することを諫言したことで秀家の怒りを買い殺されそうになるが、秀吉の仲介によって一命は助けられ、徳川家康の斡旋もあって、常陸国の佐竹義宣に預けられた。この出来事は慶長4年(1599年)の宇喜多氏のお家騒動である「宇喜多騒動」の遠因となったとも言われている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して活躍し、備中国高松において8220石の所領を与えられて、旗本寄合に列する。なお、関ヶ原の戦いで所領を失い慶長11年(1606年)に八丈島へ流罪となった旧主・秀家に対して、職秀は毎年20俵の米を送っていたとされる。
慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の陣にも子らと参加し、老骨に鞭打って輿に乗りながら采配を執ったとされるがこの時には加増はなかった。
元和3年(1617年)2月11日、死去。享年69。墓所は職秀が花房家の菩提寺として建立した岡山県岡山市北区高松にある日蓮宗の寺院・高松山妙玄寺[注釈 16]。職秀の死去により、嫡男の職則が家督と所領を継いだ。
なお、職秀の次男は初めは出家し池上本門寺の僧となっていたが家康の命で還俗し、慶長4年(1599年)には徳川四天王の一人である榊原康政の養子となって、榊原職直と名乗った。これは、康政の側室が花房氏であり、宇喜多騒動の際に康政が調停役を務めた縁によるものであろうと推測されている。また、実父・職秀が死去し、実兄の職則が家督と所領を継いだ際に、職則は8220石の所領の内から1000石を職直に分与したことにより、職直は旗本として独立して取り立てられ、後に長崎奉行などを勤めた。
人物評・逸話
職秀は武勇に優れた剛直の士であったと伝わっている。
職秀は誰にも憚ることなく諫言を行っていたことから、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に職秀も従軍した際においても、石垣山城で能や演芸などを行って一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に不満を持ち、能が催されている秀吉の本陣の前を通り過ぎる際に下馬するよう咎められると、「戦場で能をして遊ぶような愚かで腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放ち、そのまま通り過ぎた。これに激怒した秀吉は職秀の主君・宇喜多秀家に対して職秀の処刑を命じたが、秀家が命を了承して秀吉のもとから退出したところで考え直し、秀家を呼び戻して処刑ではなく切腹に変更するよう命じた。秀家が再び秀吉のもとを退出したところを再び考え直して秀家を呼び戻し、秀吉に対しても物怖じしない剛毅な物言いをする武将を殺すには惜しいとして逆に職秀に加増するよう命じたという逸話が『名将言行録』に収録されている[27]。
花房職秀を主題とした作品
- 小説
- 司馬遼太郎「助兵衛物語」(新潮文庫・『おれは権現』 ISBN 4-06-131806-3 収録の短編)
脚注
注釈
- ^ 年齢は道恵(花房職秀)生前中の聞き書きである「覚之次第」『花房家記事』[4]による。「小島次郎兵衛書状写」『花房家記事』[4]では幼名若狭といい、13、4歳まで備前国山口の幡寺におり、湯原甚兵衛の小姓となり、程なく明石景行へ出仕し、碁の相手を殺害し、16歳で宇喜多直家に出仕したとあり若干経緯が異なる。[5]
- ^ 江戸時代初期に編纂された『寛永諸家系図伝』では永禄8年(1565年)とある。花房職秀の経歴の多くは『寛永諸家系図伝』で初めて年次が付けられ以後の文献に広く甚大な影響を与えているが、同時代史料の検証により『寛永諸家系図伝』の年次比定の誤りが指摘されている。[8]
- ^ 『寛永諸家系図伝』では永禄9年(1566年)。
- ^ 『安西軍策』では赤松牢人が攻取したとある。
- ^ 『寛永諸家系図伝』では永禄10年(1567年)。南谷は岩倉城の西方に位置する久米郡山守荘の一部とされる。「氏名不詳某覚書」『花房家記事』の記主(額田氏か)と職秀を含む備前衆が攻城の主体であり、こののち城が落城した。
- ^ 『寛永諸家系図伝』では永禄10年(1567年)。
- ^ 『寛永諸家系図伝』では永禄9年(1566年)。
- ^ 備前国赤坂郡の領知から荒神山城築城、美作各地での動向は「覚之次第」『花房家記事』では触れられておらず、寛永18年(1641年)に職秀の孫花房職利や備前美作両国の聞き取り調査を行った「小島次郎兵衛書状写」『花房家記事』による。小島は荒神山城築城時の職秀の年齢は22、3歳の頃とし、これに依拠し『寛永諸家系図伝』では元亀元年(1570年)に比定したと考えられるが、「覚之次第」の年齢と実際の年次に準じると元亀2、3年のことと推測される。また、『寛永諸家系図伝』では美作での一連の動向を元亀元年から天正3年(1575年)までのこととしているが、この年次も適宜配分されたに過ぎない可能性が高い。[18]
- ^ 『寛永諸家系図伝』では元亀2年(1571年)。
- ^ 『寛永諸家系図伝』では元亀3年(1572年)。
- ^ 院庄の合戦は「小島次郎兵衛書状写」『花房家記事』にはあるが、『寛永諸家系図伝』では省かれている。この苔口宗十郎への書状が一次史料としては職秀の初見史料である[21]。また、草苅氏に与同する中西三郎兵衛尉が院庄に籠城していたことが確認される[22]。
- ^ 『寛永諸家系図伝』では天正元年(1573年)。
- ^ 『寛永諸家系図伝』では天正三年(1575年)。元亀3年(1572年)9月23日に毛利方の武田高信が伯耆国佐治へ出張し美作国西屋表を攻撃しようとしており[23]、これ以前のことと考えられる。
- ^ 「覚之次第」『花房家記事』には敵は「ほいだ殿」とある。また、「氏名不詳某覚書」『花房家記事』では佐井田城を攻撃する三村親成と職秀ら備前衆との合戦が記され、これは一次史料で確認できる元亀2年(1571年)9月4日の合戦に該当する可能性が高い。『寛永諸家系図伝』では永禄12年(1569年)。『西国太平記』を参照した『陰徳太平記』『備前軍記』では合戦を永禄11年(1568年)8月、永禄12年(1569年)4月とし、毛利元清の軍勢を破り、三村元親を退け、穗田実近(上田実親)を討ったとする。一方、『桂岌圓覚書』、『陰徳記』では庄元祐の討死を記す。
- ^ 「覚之次第」『花房家記事』の記事の配列から元亀2年(1571年)9月以降、同3年(1573年)10月以前と考えられる。
- ^ 同寺には職秀がその忠勇に敬意を表した毛利氏家臣・清水宗治の位牌が祀られ、後に供養塔が建てられた。
出典
- ^ 『浦上宇喜多両家記』。
- ^ 『寛永諸家系図伝』。
- ^ 森 2005, pp. 139–140.
- ^ a b 森 2004.
- ^ 森 2005, p. 140.
- ^ 森 2020, p. 549.
- ^ 森 2005, pp. 140–141.
- ^ 森 2005.
- ^ 森 2020, pp. 549–550.
- ^ 森 2005, pp. 141–142.
- ^ 森 2005, pp. 142–143.
- ^ 森 2006.
- ^ 森 2005, pp. 143–145.
- ^ a b 森 2005, p. 145.
- ^ 畑b 2020, p. 561.
- ^ 森 2020, p. 550.
- ^ a b c d 森 2005, pp. 146–147.
- ^ 森 2005, pp. 138, 146–147.
- ^ 『作陽誌』。
- ^ 森 2005, p. 146; 渡邊 2011, pp. 151–152; 森 2020, p. 552.
- ^ 『年月未詳二十九日付花房職秀書状写』。
- ^ 『年未詳三月十七日付毛利輝元書状「美作牧山家所蔵文書」『岡山県古文書集』第四集』。
- ^ 森 2005, pp. 147.
- ^ 森 2005, pp. 147–149; 畑b 2020, p. 561; [[#CITEREF|]].
- ^ 森 2005, pp. 149–150.
- ^ 畑a 2020, pp. 427–428; 畑b 2020, pp. 561–562; 森 2020, p. 551.
- ^ 加賀 2008.
参考文献
- 戸川安吉『浦上宇喜多両家記』。写本は国立公文書館デジタルアーカイブより閲覧可能。
- 加賀康之『「戦国合戦」意外・驚きエピソード』PHP文庫、2008年。
- 畑和良 著「文献史料から見た備前国の中世城館」、岡山県古代吉備文化財センター 編『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編』岡山県教育委員会、2020年2月28日 。
- 畑和良 著「備中国の政治・軍事動向と城館」、岡山県古代吉備文化財センター 編『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編』岡山県教育委員会、2020年2月28日 。
- 「美作国の山城」編集委員会 2011 編『美作国の山城 改訂版』岡山県津山市教育委員会生涯学習部文化課、2011年。doi:10.24484/sitereports.15557。
- 森俊弘「史料紹介・弓斎叢書『花房家記事』―特に「高松小島氏旧記ノ写」について―」『吉備地方文化研究』第14号、就実大学吉備地方文化研究所、2004年。
- 森俊弘「「高松小島氏旧記ノ写」―覚書記事から垣間見る岡山県地域の戦国時代史―」『吉備地方文化研究』第15号、就実大学吉備地方文化研究所、2005年。
- 森俊弘「宇喜多直家の権力形態とその形成過程」『岡山地方史研究』第109号、岡山地方史研究会、2006年。
- 森俊弘 著「文献史料から見た中世美作国の政治動向と戦乱」、岡山県古代吉備文化財センター 編『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編』岡山県教育委員会、2020年2月28日 。
- 渡邊大門「戦国織豊期宇喜多氏の領国支配―家臣団編成を中心にして―」『戦国期 浦上氏・宇喜多氏と地域権力』岩田書院〈中世史研究叢書19〉、2011年。ISBN 978-4-87294-698-7。
- 『寛永諸家系図伝』、清和源氏乙五。国立公文書館デジタルアーカイブより閲覧可能。