「熊沢寛道」の版間の差分
rv.LTA:KOIZUMI |
|||
7行目: | 7行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
熊沢寛道は[[幼名]]を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は[[農業]]を営んでおり、寛道は三男であった。[[愛知県]]内の小学校を卒業後、[[1910年]](明治43年)に[[徴兵]]によって[[豊橋市|豊橋]][[騎兵連隊]]に入伍し、[[1913年]]([[大正]]2年)[[京都西山短期大学|浄土宗西山派立専門学寮]]に入寮し、卒業後、聖峰中学校に通いつつ、[[浄土宗]]西山派の布教僧となったが、[[1931年]](昭和6年)に[[還俗]]。同年に、[[名古屋市]]で洋品雑貨商を開業<ref>秦氏の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。[[正則中学校]]に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』([[東京大学出版会]]、[[2002年]]([[平成]]14年)) ISBN 4-13-030120-9)。</ref>。 |
熊沢寛道は[[幼名]]を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は[[農業]]を営んでおり、寛道は三男であった。[[愛知県]]内の小学校を卒業後、[[1910年]](明治43年)に[[徴兵]]によって[[豊橋市|豊橋]][[騎兵連隊]]に入伍し、[[1913年]]([[大正]]2年)[[京都西山短期大学|浄土宗西山派立専門学寮]]に入寮し、卒業後、聖峰中学校、立命館大学に通いつつ、[[浄土宗]]西山派の布教僧となったが、[[1931年]](昭和6年)に[[還俗]]。同年に、[[名古屋市]]で洋品雑貨商を開業<ref>秦氏の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。[[正則中学校]]に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』([[東京大学出版会]]、[[2002年]]([[平成]]14年)) ISBN 4-13-030120-9)。</ref>。 |
||
既に[[明治]]時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父[[熊沢大然]](くまざわ ひろしか)に「お前は[[南朝 (日本)|南朝]]の子孫だ」と言い聞かされて育った。養父は自身が[[後亀山天皇]]の直系子孫だとして[[明治政府]]に[[上奏]]、戦前にも上奏したがことごとく無視されたという<ref>「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』</ref>。 |
既に[[明治]]時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父[[熊沢大然]](くまざわ ひろしか)に「お前は[[南朝 (日本)|南朝]]の子孫だ」と言い聞かされて育った。養父は自身が[[後亀山天皇]]の直系子孫だとして[[明治政府]]に[[上奏]]、戦前にも上奏したがことごとく無視されたという<ref>「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』</ref>。 |
2019年7月19日 (金) 00:31時点における版
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日[1])は日本の皇位僭称者。第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[2]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
その姓は熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって、熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。
生涯
熊沢寛道は幼名を金三郎といい、「金さ」と呼ばれた。実父の弥三郎は農業を営んでおり、寛道は三男であった。愛知県内の小学校を卒業後、1910年(明治43年)に徴兵によって豊橋騎兵連隊に入伍し、1913年(大正2年)浄土宗西山派立専門学寮に入寮し、卒業後、聖峰中学校、立命館大学に通いつつ、浄土宗西山派の布教僧となったが、1931年(昭和6年)に還俗。同年に、名古屋市で洋品雑貨商を開業[3]。
既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育った。養父は自身が後亀山天皇の直系子孫だとして明治政府に上奏、戦前にも上奏したがことごとく無視されたという[4]。
1920年(大正9年)、養父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したとされる。養父の後を引き継ぎ、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰など)や明治神宮に送り続けていた[5]。また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町・大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
1945年(昭和20年)、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月にGHQのマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸の内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目に止まった。
翌1946年(昭和21年)1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった[6]。彼に取り巻き利益を得ようと集まった支持者は、熊沢のために資金や公邸を提供した。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇数名)も現れた。
政府当局はこの頃、熊沢天皇の調査を行っているが、それは天皇制批判の自由、言論の自由に対し、不敬罪の適用、天皇制護持を図る当局の態度を示すものであった。しかし、結局のところ熊沢に対して不敬罪の起訴は出来なかったが、その後、1946年(昭和21年)5月19日のプラカード事件では松島松太郎を不敬罪で起訴している[7]。
勢いづいた熊沢は、1946年(昭和21年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して[8]、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、熊沢は多くの側近、それに妻子にまで見捨てられた。
なお、この選挙の際、熊沢は有名な竹内文書について、信雅王が先祖から伝承した品や宝物としていたものが盗まれたものだと主張した。これは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村にある光福寺(後に観福寺)という南朝方の寺から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれた宝を1920年(大正9年)に天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる[9]。
1951年(昭和26年)1月、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)[10]。また、サンフランシスコ講和条約が成立すると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった[11]。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年(昭和41年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去。晩年は東京池袋の人生横町に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた[12]。
著書
注記
- ^ 「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』
- ^ 日本史の虛像と実像、p.390
- ^ 秦氏の説に拠れば、「小学校卒業後、上京。正則中学校に通いつつ浄土宗の寺で修行したとあり、神戸で布教僧をしたためか話術に長け、筆も達筆」だったとする(秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年(平成14年)) ISBN 4-13-030120-9)。
- ^ 「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』
- ^ 文藝春秋, 第 65 巻、p.79
- ^ 「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』
- ^ 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』第4巻(吉川弘文館、1984年(昭和59年)) ISBN 4-642-00504-8 865頁〔佐藤昌三執筆〕
- ^ この「南朝奉戴国民同盟」には、外村天皇こと外村光陽も理論武装する為に参加している。
- ^ 長山靖生「竹内文献創作の起源と増幅」『別冊歴史読本 古史古伝と偽書の謎』(新人物往来社、2004年(平成16年)) ISBN 4-404-03077-0 87頁
- ^ 「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』
- ^ 「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』
- ^ 「熊沢寛道」『20世紀日本人名事典』
参考文献
- 保阪正康『昭和史を騒がせた人びと』(グラフ社、1986年(昭和61年)) ISBN 4-7662-0115-9
- 玉川信明 編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である 御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年(平成2年)) ISBN 4-7845-0522-9
- 南博、師岡佑行、村上重良編『近代庶民生活誌 第11巻 (天皇・皇族)』(三一書房、1990年(平成2年)) ISBN 4-3809-0523-3
- 岡田晃房『熊沢天皇の末裔を訪ねて』、山地悠一郎『熊沢天皇は本当にニセモノだったのか』、田中聡『自称天皇たちの戦後史』
- 『天皇の伝説』所収(メディアワークス/主婦の友社、1997年(平成9年)) ISBN 4-07-307253-6
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫、1999年(平成11年)) ISBN 4-16-745305-3
- 『別冊歴史読本 天皇家歴史大事典』(新人物往来社、2000年(平成12年))ISBN 978-4-4040-2753-5
- 長山靖生「偽史のなかの天皇」p175~p180
- 保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年(平成13年)) ISBN 4-04-355603-9
- 山地悠一郎『後南朝再発掘 熊沢天皇事件の真実』(叢文社、2003年(平成15年)) ISBN 4-7947-0452-6
- 早瀬晴夫『消された皇統 : 幻の皇統系譜考』(今日の話題社、2003年(平成15年)) ISBN 4-8756-5530-4
- 藤巻一保『吾輩は天皇なり 熊沢天皇事件』(学研新書、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-05-403470-9
- 近藤佐知彦『天皇ヒロミチとその時代 逆説的天皇論の試み』(晃洋書房、2009年(平成21年))ISBN 978-4-77-101996-6
- 原田実『トンデモニセ天皇の世界』(文芸社、2013年(平成25年)) ISBN 978-4-28-614192-3
- 中見利男『偽天皇事件に秘められた日本史の謎 (別冊宝島 2192)』(宝島社、2014年(平成26年)) ISBN 978-4-80-022710-2