松島松太郎
松島 松太郎(まつしま まつたろう、1915年10月22日 - 2001年8月9日)は、日本の労働運動家、政治家。
日本共産党田中精機細胞リーダー。中央大学専門部中退で、元日本銀行職員。 1946年の飯米獲得人民大会の際に掲示したプラカードの内容が不敬罪に問われた、プラカード事件の被告として知られる。
経歴
[編集]東京市芝区高輪(現・東京都港区高輪)で職人の家庭に生まれる。1930年、高等小学校を卒業後、日本銀行に給仕として就職。労働のかたわら大倉商業学校(現・東京経済大学)の定時制で学ぶ。在学中、小宮山量平と左翼グループを結成[1]。1934年2月に検挙されたが、3月の卒業直前に釈放された[2]。1934年4月、試験に合格して行員に昇格し、出納局経理課に異動。同月、中央大学専門部法律学科(二部)に進学。
しかし1935年から肺結核で休職し、1939年まで闘病生活を送る。この間、山田盛太郎の『日本資本主義分析』や野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』などを読み、社会科学を研究。中央大学は中退。1938年には日銀も休職の猶予期間満了により退職となる。
1941年、東京市三田の田中精機工業株式会社(2011年に商号を改め「TNK」)に総務課長扱いで入社。敗戦後、1945年11月に、再建直後の日本共産党に入党。田中精機に労働組合を結成して委員長に就任する。
1946年5月19日の飯米獲得人民大会(食糧メーデー)で、表に「詔書 国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」、裏に「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬか、天皇ヒロヒト答えて呉れ」[3]と書かれたプラカードを掲げて参加し、不敬罪で逮捕される(プラカード事件)。
「ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印した後においては、従来の天皇の特殊的地位は完全に変革し、その時以後これまで法的に認め難かったところの天皇の個人性を認めるに至った結果、かかる天皇の一身に対する誹謗、侮蔑などにわたる行為については不敬罪をもって問擬すべき限りでなく、名誉に対する罪条をもってのぞむを相当とする」
との理由で名誉毀損による懲役8か月の実刑判決が下る。これに対し弁護側は名誉毀損罪が親告罪である点を衝き、天皇の告訴なしになぜ名誉毀損罪が成立するのか、との理由で控訴。
1947年6月28日、東京高等裁判所は「不敬罪だが日本国憲法の公布にともなう大赦令で免訴」との判断を下す。最終的に1948年5月26日、最高裁判所で公訴権の消滅を理由に上告棄却となり、免訴が確定した。最後の不敬罪事件となる。
1950年以降は神奈川県川崎市に居住し、日本共産党の専従として活動。1960年の安保闘争では神奈川県民会議の代表幹事として運動を指導。衆院選、参院選に立候補したが落選。1973年11月、日本共産党中央委員に就任するとともに、神奈川県委員長を兼任。のち日本共産党中央党学校の主事を務めた。
2001年8月9日、胃癌で死去。
出典
[編集]- 現代革命運動事典
- 現代人物事典
- 現代人名情報事典
- 現代日本朝日人物事典
- 現代日本人物事典
- 講談社日本人名大辞典
- 新潮日本人名辞典
- 吉田健二「証言:日本の社会運動 食糧メーデーとプラカード事件 - 松島松太郎氏に聞く(1) - (3)」『大原社会問題研究所雑誌』2003年5・6・8月号[1][2][3] インタビューは1988年と1989年におこなわれたもの。