「加藤三郎 (新左翼)」の版間の差分
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高校3年生の時、[[小田実]]の[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]参加を呼びかける檄文に触れ、「名古屋ベ平連」に参加することになった。高校卒業後は、明大二政経に通いつつ、昼間は[[土工]]の[[アルバイト]]をする中で、多くの[[在日韓国・朝鮮人]]と知り合い、[[日本の民族問題]]に関心を持つきっかけとなった。 |
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1969年より[[美濃加茂市]]を拠点にベ平連活動をすることになり、4月に「みのかもベ平連」を旗揚げした。この「みのかもベ平連」は[[ヴィルヘルム・ライヒ]]の『性と文化の革命』の影響を受け、コミューン志向を強めていくことになる。 |
1969年より[[美濃加茂市]]を拠点にベ平連活動をすることになり、4月に「みのかもベ平連」を旗揚げした。この「みのかもベ平連」は[[ヴィルヘルム・ライヒ]]の『性と文化の革命』の影響を受け、コミューン志向を強めていくことになる。 |
2019年7月12日 (金) 22:55時点における版
加藤 三郎(かとう さぶろう、1948年7月25日 - )は、日本の新左翼の元活動家。神社本庁爆破事件など数多くの反日武装闘争という名の爆弾テロを実行した。指名手配中にインドの神秘家のバグワン・シュリ・ラジニーシに弟子入りしたことから「スワミ・プレム・デパム」の宗教名もある。
人物
出生と少年時代
加藤は1948年7月25日、岐阜県武儀郡神渕村(現・加茂郡七宗町)で天理教の教会を営む両親の三男として生まれた。幼少時より天理教の教義に親しみ、弱者のために生きていく価値観を育む一方で兄が成績優秀であったため、兄に対するある種の劣等感を持ちながら成長していった。
1964年、岐阜県立加茂高等学校に入学すると、「生きることの意義」を見い出すために文学に傾倒していった。
ベ平連に参加
高校3年生の時、小田実のベ平連参加を呼びかける檄文に触れ、「名古屋ベ平連」に参加することになった。高校卒業後は、明大二政経に通いつつ、昼間は土工のアルバイトをする中で、多くの在日韓国・朝鮮人と知り合い、日本の民族問題に関心を持つきっかけとなった。
1969年より美濃加茂市を拠点にベ平連活動をすることになり、4月に「みのかもベ平連」を旗揚げした。この「みのかもベ平連」はヴィルヘルム・ライヒの『性と文化の革命』の影響を受け、コミューン志向を強めていくことになる。
反日思想との出会い
1970年頃から、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』や太田龍の『辺境最深部に向かって退却せよ』を読んだことで、「日本帝国主義の悪行」を知り、「犯罪民族・日本人」の「罪深さ」を痛感し、過激な反日思想を培っていった(反日思想の詳細については、「日本原住民論」「反日亡国論」を参照)。同時期、北海道で自生している麻を発見、マリファナを精製して活動資金を捻出しようとしたが、名古屋の地下街で大麻所持の現行犯により逮捕され、そのときに太田龍の著書を持っていたことから、自身が「反日主義者」であることが警察に露見した。
1974年8月30日、三菱重工爆破事件(連続企業爆破事件の最初の事件)が起きると、加藤は事件を起こした東アジア反日武装戦線の刊行物『腹腹時計』を読み、彼らの反日闘争に強い影響を受けた。やがて加藤は「武装闘争」という名のテロ行為に手を染めることになる。
非合法活動の開始
手始めに、坂上田村麻呂の墓や明治天皇の関連施設にペンキで落書き(加藤の表現によれば「ペンキゲリラ闘争」)をすることにした。坂上田村麻呂は「桓武期の蝦夷侵略軍の総大将」、明治天皇は「アイヌモシリを侵略した天皇」というのが攻撃の理由であった。1975年5月に決行し、新聞社にも犯行声明の電話をかけたが、結局報道されることはなかった。
続いて1976年1月6日には平安神宮放火事件も起こしたが、この事件もほとんど報道されなかった。
加藤は「反天皇制闘争」を黙殺して葬り去ろうとする「天皇制日本国家の陰謀」と思い込み、ますます敵対意識を強めることになった。そして爆弾テロを起こすに至った。
爆弾闘争の開始
加藤は1976年春に爆弾の材料となる除草剤を購入したものの、なかなか踏ん切りがつかず一時的にどこかに隠すことにした。7月2日夜に岐阜県可児郡可児町(現可児市)の工場跡に隠そうとしたが、警察に見つかった。隙を見て脱出に成功したものの、除草剤などは放置した。警察は加藤を爆発物取締罰則違反で指名手配し、加藤の交友関係を調べていくうちに北海道庁爆破事件の犯人として大森勝久が浮上したため、8月に大森は逮捕された。
加藤は自分自身が指名手配の身となったこと、自分の不始末により友人の大森が逮捕されたことに自責の念を感じ、爆弾テロに専念することになった。
加藤が起こした爆弾テロ事件は以下の通りである。様々な組織名があるが、全て加藤の単独犯行である。
一連のテロ事件は多くの負傷者を出したが、死者は出ていない。
- 1976年1月6日 - 平安神宮放火事件
- 1977年1月1日 - 梨木神社爆破事件(組織名:「闇の土蜘蛛」「浮穴媛のこどもたち」)
- 1977年2月21日 - 東急観光爆破事件
- 1977年5月2日 - 東大法文1号館爆破事件(組織名:「世界革命戦線・大地の豚」)
- 1977年6月30日 - 三井アルミ社長宅爆破事件(組織名:「世界革命反日戦線・タスマニア1876」)
- 1977年10月27日 - 神社本庁爆破事件(組織名:「世界革命反日戦線・大地の豚」)
- 1977年11月2日 - 東本願寺爆破事件(組織名:「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」)
反日思想からの離脱とラジニーシとの出会い
加藤は、1978年の正月三箇日に明治神宮で糞尿を飛び散らせる「黄金爆弾」の製造に取り掛かっていたが、1978年1月1日に潜伏先のアパートで誤爆してしまった。糞尿を飛び散らせることを目的とした爆弾であったため威力が小さく軽傷ですんだが、加藤自身は糞尿まみれとなってしまい、加藤の心の方は深い傷を負った。
この誤爆事件以降、爆弾闘争は止めひたすら各地を転々とする逃亡生活をおくった。加藤も逃亡生活中、以前愛読していたライヒの著書を再読していくうちに「反日思想」からの離脱を自覚するに至った。
そしてある書店で『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジネーシとの対話 ダルシャン日誌』という本が目に入った。この本はインドの神秘家ラジニーシが弟子や訪問者の質問に回答していく宗教書であった。加藤はラジニーシ思想に感化され、遂にラジニーシのサニヤシン(弟子)になることを決意し、「スワミ・プレム・デパム」の宗教名をもらうことになった。なおこのとき、漫画家・漫画原作者の久住昌之と同門している(久住の宗教名は「スワミ・デバ・ヤス」)。
逮捕及びその後
1983年5月、加藤は逮捕された。逮捕時はラジニーシのペンダントを身に付け合掌するなど、「修行僧」のような身振りをしていたことが話題となった。
加藤は現住建造物等放火罪等の罪状で起訴された。加藤とその弁護人は平安神宮の放火箇所は「非現住建造物」であり、殺人罪並の量刑である現住建造物等放火罪の適用は不当と主張したが、裁判所はこれを認めず一・二審とも懲役18年の判決が下った。1989年7月、最高裁は加藤に対し上告を棄却し刑が確定した。
加藤は2002年12月に刑務所を出所し、現在は岐阜県内で自給自足の生活を送っている。
参考文献
- 加藤三郎『意見書 「大地の豚」からあなたへ』思想の科学社、1992年