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「マイヤ・プリセツカヤ」の版間の差分

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== 生い立ち ==
== 生い立ち ==
[[モスクワ]]で、芸術家を多く輩出する有名な[[ユダヤ人]]一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、[[スピッツベルゲン島]]の学校へ通う。[[1938年]]、父親は[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の粛清により処刑され、サイレント映画女優だった母親は[[カザフスタン]]へ強制送致された。マイヤは母方のおばにあたるバレリーナ[[スラミフィ・メッセレル]]の養子となった。
[[モスクワ]]で、芸術家を多く輩出する有名な[[ユダヤ人]]一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、[[スピッツベルゲン島]]の学校へ通う。[[1938年]]、父親は兄がアメリカに住んでいたため、スパイの疑いをかけられ<ref>長谷川均、『コミック版 世界の伝記34 マイヤ・プリセツカヤ』株式会社ポプラ社、2016年、3頁</ref>[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の粛清により処刑され、サイレント映画女優だった母親は[[カザフスタン]]へ強制送致された。マイヤは母方のおばにあたるバレリーナ[[スラミフィ・メッセレル]]の養子となった。


1934年、一家は休暇のためモスクワに帰り、その期間中に、マイヤは帝室バレエ学校のエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入する。バレエを始めて1年目で「軍縮会議」という演目の中国人役で舞台に立つ。その後再びモスクワに戻り、バレリーナであった[[エリザヴェータ・ゲルト]]のもとで6年間学ぶ。[[1943年]]に[[国立モスクワ舞踊学校]]を卒業し、[[ボリショイ・バレエ]]に入団した。
1934年、一家は休暇のためモスクワに帰り、その期間中に、マイヤは帝室バレエ学校のエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入する。バレエを始めて1年目で「軍縮会議」という演目の中国人役で舞台に立つ。その後再びモスクワに戻り、バレリーナであった[[エリザヴェータ・ゲルト]]のもとで6年間学ぶ。[[1943年]]に[[国立モスクワ舞踊学校]]を卒業し、[[ボリショイ・バレエ]]に入団した。

2019年7月12日 (金) 09:40時点における版

マイヤ・プリセツカヤ
2011年
生誕 (1925-11-20) 1925年11月20日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国モスクワ
死没 (2015-05-02) 2015年5月2日(89歳没)
ドイツの旗 ドイツ
出身校 国立モスクワ舞踊学校
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ジュリエットを踊るプリセツカヤ(1961年)

マイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤロシア語: Майя Михайловна Плисецкая, ラテン文字転写: Maya Mikhailovna Plisetskaya, 1925年11月20日 - 2015年5月2日[1])は、ロシアバレエダンサー。20世紀最高のバレリーナと称された[1]

生い立ち

モスクワで、芸術家を多く輩出する有名なユダヤ人一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、スピッツベルゲン島の学校へ通う。1938年、父親は兄がアメリカに住んでいたため、スパイの疑いをかけられ[2]スターリンの粛清により処刑され、サイレント映画女優だった母親はカザフスタンへ強制送致された。マイヤは母方のおばにあたるバレリーナスラミフィ・メッセレルの養子となった。

1934年、一家は休暇のためモスクワに帰り、その期間中に、マイヤは帝室バレエ学校のエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入する。バレエを始めて1年目で「軍縮会議」という演目の中国人役で舞台に立つ。その後再びモスクワに戻り、バレリーナであったエリザヴェータ・ゲルトのもとで6年間学ぶ。1943年国立モスクワ舞踊学校を卒業し、ボリショイ・バレエに入団した。

2015年5月2日、89歳で心臓発作のためドイツで亡くなった[1][3]。遺言により、遺骨は散骨される[4]

活動歴

バレエ学校卒業後、ボリショイバレエ団にコール・ド・バレエ(群舞を担当するダンサー集団)として入団する。このポジションに不満があったこともあり、ボリショイ劇場以外での公演に積極的に出演し経験を積む。入団1年目を終えるころに、欠員のため「くるみ割り人形」のマーシャ役に抜擢されることとなる。

アンナ・パヴロワの代表作「瀕死の白鳥」を演じ、当たり役とする。またプリセツカヤの最大の当たり役は、「白鳥の湖」のオデット/オディール(1947年)、「眠れる森の美女」のオーロラ姫(1961年)である。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性すべてにおいて高く評価された。

彼女に向けられた高い賞賛とは裏腹に、劇場上層部の彼女への待遇はあまりよいものとはいえなかった。ユダヤ人であったことが災いし、1956年の国外公演には反ユダヤ主義的風潮のなかで同行が許されなかった。しかし、1959年に彼女が西側世界に初めて登場すると、バレエ界に大きな衝撃を与えることとなる。世界中のバレリーナは、プリセツカヤ以後、技術の完成度でも演技力でも、より高度なものを要求されることになったのである。

1958年、作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚、翌年にはソ連人民芸術家として表彰される。

1960年ガリーナ・ウラノワが引退すると、プリセツカヤはボリショイ劇場のプリマ・バレリーナ(首席バレリーナ)に任命される。1967年ソヴィエトで制作された『アンナ・カレーニナ』の映画版では、トヴェルスコイ公爵夫人(ヴェッツィ)を演じ、1971年には、シチェドリンの作曲、自身の振り付けによるバレエ版「アンナ・カレーニナ」を発表し、主役アンナを演じた。他にユーリー・グリゴローヴィチローラン・プティアルベルト・アロンソモーリス・ベジャールなどの著名な振り付け師が、彼女のために作品を振り付けている。

1980年代には、プリセツカヤはシチェドリンとともに海外で過ごすことが多くなり、ローマ・オペラ・バレエや、マドリードのスペイン国立バレエの芸術監督を務める。65歳でボリショイ劇場のソリストから引退したが、その後も芸術活動を続けている。70歳の誕生日には、ベジャールの振り付けによる「アヴェ・マイヤ」を初演した。

1994年からは、自身の名を冠したマイヤ・プリセツカヤ国際バレエコンクールの審査員長を務めた。

日本との関係

約40回にわたって訪日し、多くの公演をおこなった[5][6]2003年、宝塚歌劇星組公演「王家に捧ぐ歌」の振付を担当。

2006年、第18回高松宮殿下記念世界文化賞の演劇・映像部門を受賞した。2011年には日本のバレエに対する貢献が認められて旭日中綬章を受章し、2012年2月にモスクワの日本大使館で行われた伝達式の際には「私と日本は特別な関係。日本の食事や教育、文化、全てが気に入っています」と述べていた[5]

DVD、書籍

  • 「闘う白鳥」(自伝)
  • 「アンナ・カレーニナ」(1967年モスフィルム製作 - DVD出版元 RUSCICO(ロシア映画評議会))
  • 「マイヤ・プリセツカヤ (やさしく読める ビジュアル伝記)」(2018年、学研プラス、マイヤ・プリセツカヤ&ロジオン・シチェドリン国際財団公認伝記[7]

関連項目

外部リンク

脚注