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2019年6月27日 (木) 08:14時点における版

趙雲

鎮軍将軍・永昌亭侯
出生 生年不詳
冀州常山郡真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
主君 公孫瓚劉備劉禅
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趙雲(長坂の戦い)

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、? - 229年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍(しりゅう)。冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯。子は趙統趙広。父と兄の名は不詳。

生涯

公孫瓚の部下であったが、青州袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操率いる5000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、二人は危機を免れることができたが、劉備の娘二人は曹純に捕獲された(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。

建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に遷った。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。翌6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、諸軍を率いて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をすることとなり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 1]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。趙雲が軍兵を取りまとめてよく守ったため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された[注釈 2]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。諸葛亮は、箕谷では不戒の失があったと上奏している(蜀志「諸葛亮伝」)。

翌7年(229年)、没した。子の趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蒋琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。

正定県趙雲故里にある趙雲像

陳寿は、黄忠と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰夏侯嬰に比している[注釈 3]

季漢輔臣賛』では「重厚な性質」とされ、陳到と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。

趙雲別伝

本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、以下の『趙雲別伝』は記述が多く、司馬光も『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。

史学者何焯は、趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なること、第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることからその内容を否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している[1]

李光地も、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈している[2]

趙雲は身長八尺(約184cm)で、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の配下となった。

後に趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった時、劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟った、とある[注釈 4]

建安5年(200年)、劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。

博望坡の戦いに参加し、同郷の知人である夏侯蘭を捕虜とし、軍正に推挙したという。

建安13年(208年)からの荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁(未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。また、天下にも女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。

劉備は入蜀時に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせた。孫権は劉備が自分を騙して入蜀したと聞くと、孫夫人を呉に帰らせたが、孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じたため、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。

章武元年(221年)、を討とうとする劉備を諫めたが聴き容れられず(夷陵の戦い)、趙雲は江州に留まった。

建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が軍需物資を殆ど捨てずに退却したため、諸葛亮は恩賞として趙雲軍の将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、敗戦にあって恩賞を出すのは道理に合わないとして固辞し、冬の備えとするよう進言した。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

順平侯の諡を追贈された時の姜維らの進言では、「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者をと称し、仕事をするのに秩序があるのをと称し、災禍・動乱を平定するのをと称します。趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」とある。

三国志演義

成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。

正史『三国志』の趙雲は同巻に収められた五人の中で最も位が低く、劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、趙雲は雑号である翊軍将軍のまま据え置かれ、『季漢輔臣賛』でも関羽・張飛・馬超・黄忠は9番目までに登場しているが、趙雲は25番目という低い扱いになっている。

しかし『三国志演義』においては、五虎大将軍として他四人と同格に位置付けられ、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている。

長坂では、単騎で大軍の中を駆け抜け阿斗と甘夫人を救出する話が代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。

劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

民間伝説

Mask of Zhao Yun used in folk opera
演劇で用いられる趙雲の仮面

民間伝説によると、趙雲は「白龍」(はくりゅう)(もしくは白龍駒、はくりゅうく)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように解放し、大変喜ばれている。

また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたとなっている。『三国志平話によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯に敵う者なし」という意味で名付けたことになっている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。

妻の身分は不詳。民間伝承によると、趙雲の妻に孫軟児なる夫人がおり、この夫人が戯れに刺繍針で趙雲の身体をつついたところ、血が止まらなくなり死んでしまった。河北梆子劇『青釭剣』によると、趙雲の妻に李翠蓮の名が見られる。

上記は正史·『演義』では一切語られていないが、白龍の話は、映画『レッドクリフ』で採用されている。軟児の名は、映画『三国志』で採用されている。

書物

趙雲を主題とした作品

映画
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 『華陽国志』によれば趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという
  2. ^ 盧弼『三国志集解』が注引く南宋の胡三省が言うには、『晋書』職官志によれば、鎮軍将軍は四征将軍、四鎮将軍の上位である。いま趙雲は、鎮東将軍から鎮軍将軍に降格したようだが、晋の制度では昇格になってしまう。蜀漢の制度で、鎮軍将軍というのが雑号将軍であったのだろうか。それなら降格になるから、つじつまが合う。しかし宗預が(征西大将軍から昇格し)鎮軍大将軍に任じられていることを見ると鎮軍将軍が雑号将軍でないのは明らかである。
  3. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している。
  4. ^ 192年に常山郡は袁紹の統治領となった。

出典

  1. ^ 盧弼『三国志集解』による
  2. ^ 盧弼『三国志集解』による

関連項目