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明治3年([[1870年]])7月、[[陸軍士官学校 (日本)|兵学寮]]生徒となる。明治4年([[1871年]])1月、権曹長心得となり、[[少尉]]心得を経て、明治5年([[1872年]])2月に少尉に昇進。[[1874年]](明治7年)4月、[[台湾出兵|台湾征討軍]]に従軍。[[1875年]](明治8年)1月、[[鎮台|東京鎮台]][[歩兵第1連隊]]付となる。[[1876年]](明治9年)4月、[[歩兵第13連隊]][[大隊]]長に就任し、[[1877年]](明治10年)2月、[[西南戦争]]に出征。同年4月に戦傷を受け、同月、[[少佐]]に昇進。
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1909年10月20日、赤痢で入院のところ急性腹膜炎を併発し62歳で没し<ref>[{{NDLDC|1920445/102}} 「小川又次大将逝く」東京朝日新聞 明治42年10月22日『新聞集成明治編年史、第十四巻』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>、正二位に叙された。
1909年10月20日、赤痢で入院のところ急性腹膜炎を併発し62歳で没し<ref>[{{NDLDC|1920445/102}} 「小川又次大将逝く」東京朝日新聞 明治42年10月22日『新聞集成明治編年史、第十四巻』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>、正二位に叙された。


墓所は[[青山霊園]]と故郷の[[小倉]]にあり、青山の方はキリスト教式の重厚な家族墓で、一方小倉は「為朝墳」と刻まれ、又次が生前に建てた墓石である<ref>[[https://blogs.yahoo.co.jp/yorikami0012/33062750.html?__ysp=5bCP5bed5YW85a6j 小川 又次 - かめきちのたびにっき - Yahoo!ブログの32文目]]</ref>。為朝とは[[源為朝]]のことで、小川家の遠祖で、先祖を顕彰して合葬墓としたものである。いずれの墓石も、正面には小川又次個人の名は刻まれていない。
墓所は[[青山霊園]]と故郷の[[小倉]]にあり、青山の方はキリスト教式の重厚な家族墓で、一方小倉は「為朝墳」と刻まれ、又次が生前に建てた墓石である<ref>[https://blogs.yahoo.co.jp/yorikami0012/33062750.html?__ysp=5bCP5bed5YW85a6j 小川 又次 - かめきちのたびにっき - Yahoo!ブログの32文目]</ref>。為朝とは[[源為朝]]のことで、小川家の遠祖で、先祖を顕彰して合葬墓としたものである。いずれの墓石も、正面には小川又次個人の名は刻まれていない。


== 栄典 ==
== 栄典 ==

2019年2月11日 (月) 01:23時点における版

小川 又次
生誕 1848年8月22日
豊前国 小倉藩
死没 (1909-10-20) 1909年10月20日(61歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1872 - 1907
最終階級 陸軍大将
指揮 第4師団
戦闘 西南戦争
日清戦争
日露戦争
墓所 青山霊園1-イ-2-9
北九州市小倉北区菜園場墓地
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小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日1848年8月22日) - 明治42年(1909年10月20日)は、明治時代陸軍軍人陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。幼名・助太郎。

経歴

小倉藩士・小川兼宣の長男として小倉城下の葭原(現在の小倉北区足原)で生まれる[1]江川塾で学び、小倉藩兵として長州藩との戦いに参戦。

明治3年(1870年)7月、兵学寮生徒となる。明治4年(1871年)1月、権曹長心得となり、少尉心得を経て、明治5年(1872年)2月に少尉に昇進。1874年(明治7年)4月、台湾征討軍に従軍。1875年(明治8年)1月、東京鎮台歩兵第1連隊付となる。1876年(明治9年)4月、歩兵第13連隊大隊長に就任し、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征。同年4月に戦傷を受け、同月、少佐に昇進。

1878年(明治11年)3月、熊本鎮台参謀副長となり、参謀本部管西局員に異動。1880年(明治13年)4月から7月まで清国に派遣された。1881年(明治14年)2月、中佐に進級し大阪鎮台参謀長に就任。1882年(明治15年)3月、広島鎮台参謀長に転じ、1884年(明治17年)10月、大佐に進級し歩兵第8連隊長に着任。1885年(明治18年)5月、参謀本部管西局長に転じ、同年7月、同第2局長に就任。この年、日本陸軍大学校で教官クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルの講義を児玉源太郎とともに聴講し、メッケルから「児玉、小川が優秀」と言われるほどであった。また小川は作戦立案能力に長けていたため、川上操六から上杉謙信になぞらえて「今謙信」と評価された。

1890年(明治23年)6月、陸軍少将に昇進し歩兵第4旅団長となる。近衛歩兵第1旅団長を経て、1894年(明治27年)8月、第1軍参謀長として日清戦争に出征。1895年(明治28年)8月20日、西南戦争・日清戦争の軍功により男爵に叙せられる。1896年(明治29年)1月、近衛歩兵第2旅団長に転じ、1897年(明治30年)4月8日、陸軍中将に進み第4師団長となる。1903年(明治36年)5月16日、勲一等瑞宝章を受章。日露戦争では第4師団を率いて、南山の戦いでは敵左翼への集中攻撃を進言し攻略の糸口を作った。1904年(明治37年)8月、遼陽会戦で負傷し、師団長を辞し帰国。翌年1月15日に陸軍大将となるが、12月14日に休職となった[2]1907年(明治40年)9月21日、子爵に進むとともに功二級金鵄勲章を受けた。同年11月13日、予備役編入となる[3]

1909年10月20日、赤痢で入院のところ急性腹膜炎を併発し62歳で没し[4]、正二位に叙された。

墓所は青山霊園と故郷の小倉にあり、青山の方はキリスト教式の重厚な家族墓で、一方小倉は「為朝墳」と刻まれ、又次が生前に建てた墓石である[5]。為朝とは源為朝のことで、小川家の遠祖で、先祖を顕彰して合葬墓としたものである。いずれの墓石も、正面には小川又次個人の名は刻まれていない。

栄典

位階
勲章等

親族

脚注

  1. ^ 小川 又次 - かめきちのたびにっき - Yahoo!ブログの7文目
  2. ^ 『官報』第6740号、明治38年12月16日。
  3. ^ 『官報』第7315号、明治40年11月14日。
  4. ^ 「小川又次大将逝く」東京朝日新聞 明治42年10月22日『新聞集成明治編年史、第十四巻』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. ^ 小川 又次 - かめきちのたびにっき - Yahoo!ブログの32文目
  6. ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
  7. ^ 『官報』第6483号「叙任及辞令」1905年2月13日。
  8. ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
  9. ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
  10. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  11. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  12. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  13. ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
  14. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  15. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。

文献

  • 篠原昌人『陸軍戦略の先駆者小川又次』芙蓉書房出版、2000年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
小川(又次)家初代
1907年 - 1909年
次代
小川武次
先代
叙爵
男爵
小川(又次)家初代
1895年 - 1907年
次代
陞爵