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2019年2月11日 (月) 01:12時点における版
中国正教会 | |
各種表記 | 簡体字:中华东正教会 繁体字=中華東正教會 ピン音=Zhōnghuá Dōngzhèngjiàohuì 注音符号=ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄅㄨㄥ ㄓㄥˋ ㄐㄧㄠˋ ㄏㄨㄟˋ カタカナ=ジュンクファ ドンジェンジャオフェイ |
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自治教会の承認 | 1956年(モスクワ総主教庁による承認、ただしコンスタンディヌーポリ総主教庁は承認せず) |
主な管轄 | 中国 |
中国正教会(ちゅうごくせいきょうかい)は、正教会の中国における自治教会。
中国には他に、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあり、中国のみならず台湾でも活動する香港および東南アジア府主教区がある。
ロシア正教会の布教
ロシア正教会の最初の伝道者と信者の集団が中国入りを果たしたのは元代のことであるが、後代には伝わらなかった。1684年に下級聖職者のマクシム・レオンチェフを伴う31人のロシア人の信徒が中国へ到来した。彼らは黒竜江支流のアルバジンで捕虜になり、北京に送られた。1685年、清朝の康熙帝は、ロシア領で捕らえたロシア系住民(アルバジン人)を清に移住させたのである。マクシム・レオンチェフは北京で最初の正教会の教会を建てた。こうして正教会がシベリア経由で中国に再び入ったのである。
正教会の清代以降で最初の伝道団は、1715年に北京の掌院イラリオンによって結成された。この伝導団の最初の記録は、1727年の露清条約に現れる。伝道団の意図は中国人に福音をもたらすことではなく、最初の伝道者たちを輔弼することであり、後にはロシア大使の役割も果たすようになった。
1684年からの150年の間、正教会は多くの信奉者を出すことはなかった。1860年に北京には、ほんの200人の信徒を数えただけであり、そこには清に帰化したロシア人の末裔も含まれていた。だが、1860年をすぎると、伝道団が再浮上するのである。伝道団は1850年代から1860年代にかけて4巻の中国学研究書を上梓した。この分野の研究で二人の修道士が有名になった。チュヴァシ人のイアキンフ・ビチュリンと、掌院パルラディ・カファロフである。かれらは非常に有用な辞書の編纂者であった。
道光年間には現在の新疆ウイグル自治区伊犂カザフ族自治州アルタイ地区にあたる地区に無僧派の古儀式派信徒が移住している。1860年にはロプ・ノール湖畔に入植しようとして失敗した古儀式派の集団がいた。義和団の乱のあいだ伝道団は大きな被害を受けている。
義和団の乱と文化大革命
義和団の乱(1898年~1900年)では中国人キリスト教徒が襲われ、正教徒の中国人もこれに巻き込まれて殺されている。最終的にはミトロファン神父を含めて222人の中国人正教徒が犠牲となった(ミトロファン神父は1900年6月に殺害され、中国人致命者のひとりとしてイコンに描かれることになる)。北京の宣教師の書庫も灰燼に帰した。このような暴動にもかかわらず、1902年までに中国正教会の32の教会には、ほぼ6000人の信者がおり、教会は学校や孤児院の経営も行なっていた。 19世紀には新疆にロシア人正教徒が移住し始め、20世紀に入ると多くの教会が設立された。 1917年のロシア革命、1930年代の農業集団化に伴う飢餓に際して多くの正教徒と正教古儀式派信徒が新疆、内蒙古自治区、中国東北部、ハルビン、天津などに移住した。 1949年までに、中国正教会は106の教会を数えるまでになった。これらの教会の教区民は、概してロシア人亡命者であったが、漢族信徒はというと、およそ1万人がいたのである。新疆ウイグル自治区伊寧市では北京から派遣された司祭が火災による不審死を遂げた後、モスクワ総主教庁から派遣されたムロジャノフスキー司祭が教会を守っていた。 だが、1960年代前半までにロシア系の正教徒の大多数が出国し、大半の教会が閉鎖された。文化大革命の際には多数の聖職者が労働改造を強制され、全ての正教会は破壊されるか他の用途に転用された。中国正教会の活動は、宗教政策が穏健化する1980年代まで実質的に停止していた。
現況
現在、正教会の活動は公認されている。古儀式派の信徒はごく少数を残して出国した。
黒竜江省ハルビン市、内蒙古自治区アルグン市、新疆ウイグル自治区ウルムチ市及び同自治区の伊寧市には参列することのできる成聖済の正教会があり、近年、新疆ウイグル自治区チョチェク市では再建も進んでいる。一方で、21世紀になるにつれて、中国正教会は香港と台湾では比較的自由に活動しており、たとえば香港には、コンスタンディヌーポリ総主教庁からニキタス府主教が遣わされ、聖ピョートル教区と聖パヴェル教区が活動を再開させている。台湾では掌院ヨナ・ゲオルギオス・ムルトスが布教区を率いている。
2005年に中国全土で正教会の司祭はわずか5名しかいなかったが、現在は大陸在住の司祭はすべて死去した。少数の中国人がロシアの神学校に既に学んでいる。 中国正教会が中国政府の公認を受けていないかのような報道が繰り返し行われているが、中国政府は宗教団体としての登録を認めており、ウルムチの正教会は「五好宗教活動場所」としての表彰を受けている。中国政府は、外国人聖職者及び中国国外で按手を受けた中国人聖職者による宗教活動を主として制限している。中国正教会は1965年のシメオン(杜潤臣)上海主教の逝去後主教を失っており、新たな司祭を按手できない状態が続いている。2000年には生神女庇護聖堂 (ハルビン)に勤めていた朱世僕司祭が逝去し、2003年には北京で教会を持たない中で機密を行っていたアレクサンドル・ドゥ長司祭も逝去し、中国政府が公認する中国正協会で按手を受けた神品は存在しなくなった。外国人聖職者及び中国国外で按手を受けた中国人聖職者が非公然の宗教活動を行う事例も報告されている。
2016年5月1日、中国本土で60年ぶりに、正式な叙任を受けた聖職者アレクサンドル遇石輔祭が、ハルビンの生神女庇護聖堂 で復活祭の礼拝をおこなった[1]。
組織構成
活動停止以前
北京府主教区
天津主教区
- 歴代責任者:
- シメオン·杜潤臣主教
- イオアン·杜立昆神父
- 主教座聖堂:生神女庇護聖堂(ロシア語:Храм Покрова Божией Матери)
上海主教区
- 主教:シメオン·杜潤臣主教[3]
- 主教座聖堂:生神女大聖堂(ロシア語:Собор иконы Божией Матери «Споручница грешных»)
- 聖ニコライ教会(ロシア語:Храм Святителя Николая Чудотворца)
漢口補佐教区(ロシア語:Ханькоуское викариатство)
ハルビン主教区
- 聖ニコライ聖堂(ロシア語:Собор святителя Николая Чудотворца)
- 生神女福音教会(ロシア語:Храм Благовещения Пресвятой Богородицы)
- 聖イヴェルスカヤ教会(ロシア語:Храм в честь Иверской иконы Божией Матери)
- 聖ソフィア大聖堂 (ハルビン)(ロシア語:Софийский собор )
- 士課街教会|ハルビン聖アレクセーエフ教会(ロシア語:Свято-Алексеевский храм в Модягоу、1980年にカトリック教会へ改築)
- 生神女庇護聖堂 (ハルビン)(ロシア語:Храм Покрова Пресвятой Богородицы)
- 至聖生神女就寝教会(ロシア語:Храм Успения Пресвятой Богородицы)
活動再開以降
黒竜江省
- 中国正教会ハルビン主教区[5]
- 生神女庇護聖堂 (ハルビン)
- グリゴーリイ·朱世朴神父(2000年逝去)
- アレクサンドル·遇石神父 (2016年に聖職者としての活動を開始)
- 洗礼者聖イオアン礼拝堂(ロシア語:Храм в честь Рождества Предтечи Господня Иоанна、ハルビン皇山ロシア僑民墓地内にある。ハルビン市政府が出資し修復した後、1995年に開放された[6]
- 生神女庇護聖堂 (ハルビン)
内蒙古自治区
- 内蒙古正教会聖インノケンチイ教会(ロシア語:Храм Святителя Иннокентия Иркутского в Трёхречье、中国内蒙古自治区フルンボイル市アルグン市に所在し,1967年文化大革命の際に破壊された。1999年中国政府が再建を支援した。2009年中国正教会のミハイル·王泉生神父及び富錫亮誦経士が教会の成聖式を主持した[7]
新疆
- ウルムチ市正教会(ロシア語:Храм святителя Николая、現在聖職者不在のため、現地の信徒により構成された民主管理委員会が管理)
- 伊寧市正教会(ロシア語:Храм святителя Николая)
北京
- 至聖生神女就寝教会(ロシア語:Храм в честь Успения Пресвятой Богородицы、 ロシア大使館内)
上海
- 聖ニコライ教会(上海市民族および宗教事務委员会が外国籍の人々に対しクリスマスおよび復活祭の正教会の宗教儀式を行うことを許可している場所である)
現在の主教区
現在、中華人民共和国においては主教は不在で、聖職者の不足も深刻である。この表はモスクワ総主教庁の認識に基づく。
主教区の名称 | 成立年 | 担当主教 | 管理中心 | 教区数 | 修道院 | 担当管区 | 追記 |
北京府主教区 | 1918 | 不在; 2009年以降モスクワ総主教キリル1世 が担当[8] |
北京 | なし | 2 (北京及び香港) |
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ハルビン及び満州主教区 | 1922 | 不在; | ハルビン | 1 | なし | ||
上海主教区 | 1922 | 不在; | 上海 | 未登録 | なし | ||
天津主教区 | 1922 | 不在; | 天津 | 1 | なし | ||
新疆主教区 | 1934 | アスタナ及びカザフスタンの府主教アレクサンドル(モギリョフ)が臨時に担当(2010年3月5日から) | ウルムチ | 1 | なし | 2002年以降、アスタナ及びアルマアタ府主教が臨時に担当[8] | |
中華人民共和国内モンゴル自治区の諸教区 | 2000 | チタ府主教ドミートリイ(エリセーエフ)が臨時に担当(2016年6月3日から) | フフホト | 1 | なし | 2000年からチタおよびクラスノカーメンスクの主教が臨時に担当[8] |
正教はロシア族の宗教として新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区及び黒竜江省で承認を受けている[9]。
中国の少数民族と正教会
中国の正教徒の多くはロシア族である。ロシア系の先祖を持ちながら、漢族、満族などの民族籍を持つ信徒も多い。ロシア系のルーツを持たないその他の民族の信徒も存在する。
旧ソ連と中国に住むエヴェンキ族の一部は正教徒である。彼らはロシア帝国のシベリア植民の際にロシア正教会と接触を持ち、正教に改宗したのであった。中国に住む彼らは正教徒のエヴェンキ族はロシア風の名前を持ち正教風の葬儀を行うなど正教文化を保持していることがある。
正教は、中国在住のロシア人を主とする外国人にも信仰されている。
脚注
- ^ 中国正教会に60年ぶり叙任聖職者、復活祭祝うAFPBB 2018年2月13日閲覧
- ^ 北京主教瓦西里·姚福安,“中国正教会”サイト 2018年2月13日閲覧
- ^ 上海主教シメオン·杜潤臣,“中国正教会”サイト 2018年2月13日閲覧
- ^ 武漢市志(1840-1985) > 社会志 > 目録 > 宗教 > 東正教:“1954年………各地東正教均改称為‘中華東正教会’”
- ^ 《黒龍江省宗教事務管理条例》第二十四条:“本条例所称宗教団体,是指依法成立的……、中華東正教会哈爾浜教会,以及在省和市、県(市区)其他依法成立的宗教団体。”2018年2月13日閲覧
- ^ “哈爾浜皇山俄僑墓地” (中国語). 哈爾浜教堂. 2018年2月13日閲覧。
- ^ “内蒙古聖英諾肯提乙堂” (中国語). 内蒙古東正教堂. 2018年2月13日閲覧。
- ^ a b c Китайская Автономная Православная Церковь. // Патриархия.Ru
- ^ REGIONS.RU — новости Федерации | Митрополит Иларион о православии в Китае
関連項目
- 中国のキリスト教
- 中国天主教愛国会
- 中国基督教三自愛国運動委員会
- 中国のプロテスタント教会
- 中国のカトリック教会
- ピョートル・カラファーロフ 初期のロシア人中国学者で修道士。
- 聖ソフィア大聖堂 (ハルビン)、生神女庇護聖堂 (ハルビン)(聖母守護教堂)