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「アッツ島の戦い」の版間の差分

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'''アッツ島の戦い'''(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、[[1943年]]([[昭和]]18年)[[5月12日]]に[[アメリカ軍]]の[[アッツ島]]上陸によって開始された[[日本軍]]とアメリカ軍との戦闘である。[[山崎保代]]陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島[[守備隊]]は[[5月29日]]に[[玉砕]]した。
[[ファイル:Capture of Attu 1943.jpg|thumb|200px|青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路]]

'''アッツ島の戦い'''(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、[[1943年]]([[昭和]]18年)[[5月12日]]に[[アメリカ軍]]の[[アッツ島]]上陸によって開始された[[日本軍]]とアメリカ軍との戦闘である。[[山崎保代]]陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島[[守備隊]]は[[上陸戦|上陸]]したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に[[玉砕]]した。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また[[第二次世界大戦]]で唯一、[[北アメリカ]]で行われた[[地上戦]]である。
== 概要 ==
'''アッツ島の戦い'''は、[[太平洋戦争]]における[[アリューシャン方面の戦い]]にともない[[1943年]](昭和18年)5月中旬から下旬にかけて[[アッツ島]]でおこなわれた戦闘。アメリカ軍は[[アリューシャン列島]]の奪回を目指して、5月12日に[[アッツ島]]上陸を開始した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=158}}。[[山崎保代]]陸軍大佐指揮下の[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]がアッツ島(当時の日本側呼称は'''熱田島''')を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった<ref group="注">アッツ島守備隊。(一)陸軍部隊(北方軍北海守備隊第二地区隊)第二地区隊長[[山崎保代]]陸軍大佐 兵力:歩兵一コ大隊半、山砲一コ中隊(6門)、高射砲8門(12門とも)、計2500名、弾薬08会戦分、糧食は半定量として七月中旬まで。(二)海軍部隊 第五十一根拠地隊派遣隊(基地通信隊および電波探信儀設定班)計約100名。第五艦隊参謀(航海)江本弘海軍少佐。</ref>{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=243}}。
北方方面を担当する[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[第五艦隊 (日本海軍)#二代の第五艦隊|第五艦隊]]も、アメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=238a-239|ps=米軍のアッツ島来攻}}、またアッツ島への補給や救援に失敗した{{Sfn|軽巡二十五隻|2014|pp=54-56|ps=北海に戦雲せまる}}。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=472a|ps=付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊31 18.5.14アッツ島付近}}。
[[連合艦隊]]は空母機動部隊<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.9(昭和18年5月21日記事)「1Sf 7S 最上 大淀 d×数隻ハ3F長官之ヲ率ヰ東京湾入港|内地」</ref>や[[大和型戦艦]]を含む主力艦部隊<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.9(昭和18年5月22日記事)「GF長官直率 武藏 3S 2Sf(飛鷹)8S及d×数隻東京湾入港|内地」</ref>を[[本州]][[横須賀]]方面に集結させたが、反撃には出なかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=159}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=303a-307|ps=機動部隊の出撃を取りやむ}}。
[[大本営]]は西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=279a-289|ps=西部アリューシャンの確保を断念す}}。5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=290}}。アッツ島守備隊は[[上陸戦|上陸]]したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、[[5月29日]]に[[玉砕]]した{{Sfn|私記キスカ撤退|1988|pp=111-112}}。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また[[第二次世界大戦]]で唯一、[[北アメリカ]]で行われた[[地上戦]]である。

本記事では、アッツ島攻防戦に至る経緯、アッツ島地上戦闘の様相、日本軍が西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)放棄を決定するに至った経緯を記述する。


== 背景 ==
== 背景 ==
連合軍が[[1942年]](昭和17年)4月18日に敢行した[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]による[[日本本土空襲]]は日本軍に大きな衝撃を与えた{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=46-47}}([[ドーリットル空襲]]){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=112a-113|ps=西部アリューシャン諸島長期確保の決定とその防衛}}。日本軍は同年5月下旬に実施された[[MI作戦|ミッドウェー作戦]]の[[陽動]]作戦として、また北東方面からの連合軍空襲阻止を企図しアリューシャン群島西部要地の攻略または破壊を目的として、さらに米ソ連絡遮断を企図して{{Sfn|流氷の海|1994|p=22}}、[[AL作戦|アリューシャン作戦]]を発動した<ref group="注">1942年(昭和17年)5月5日、大本営指示:アリューシャン作戦 「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵ノ機動並ニ航空進攻作戦ヲ困難ナラシム」</ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=112b}}。
日本軍は[[1942年]](昭和17年)6月に海軍の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]の[[陽動]]作戦として[[アリューシャン列島]]の[[アッツ島]]を[[キスカ島]]と共に攻略、[[占領]]して「熱田島」と改称した。アッツ島には6月8日<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]頁「(昭和17年)六月八日(月)曇」</ref>、[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名が[[衣笠丸 (特設水上機母艦)|衣笠丸]]で上陸し、[[キスカ島]]には海軍部隊が上陸した。ところが穂積部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に転進した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の[[空襲]]に遭いながらも、[[占守島]]を守備していた米川中佐が率いる[[北千島臨時要塞|北千島第89要塞]]歩兵隊の2,650名が10月30日に進出してアッツ島守備隊となり、[[飛行場]]と[[陣地]]の建設を開始した。だが地形や補給の関係から飛行場の建設は遅々として進まず、キスカ島・アッツ島とも飛行場の完成前に米軍の反攻に晒されることになった{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=133-135|ps=「ついに玉砕したアッツ守備隊」}}。
日本陸軍の北海支隊は[[アリューシャン列島]]の[[アッツ島]]を、舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊は[[キスカ島]]を攻略することになった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=109a-112|ps=北東方面の状況/経過概要}}。アッツ島は「熱田島」、キスカ島は「鳴神島」と改称された{{Sfn|流氷の海|1994|p=101|ps=北東方面要図}}。[[大本営]]陸海軍部、[[連合艦隊]](司令長官[[山本五十六]]海軍大将)、[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](司令長官[[細萱戊子郎]]海軍中将)の防衛方針は統一されておらず、アッツ島玉砕の原因は攻略計画立案時から内包されていた{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=112b}}。たとえば大本営海軍部([[軍令部]])と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」「飛行場を造るつもりはない」と考えていたが、第五艦隊や日本陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていた{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=115-117|ps=西部アリューシャンの防衛方針}}。


{{Main|日本軍によるアッツ島の占領}}
一年のほとんどが[[霧]]か[[時化]]という気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。

この時期、アメリカ軍がアリューシャン方面に配備していた兵力は貧弱であった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=125-126|ps=北方における米軍の状況/開戦前における米軍の概況}}。日本軍の暗号解読により攻勢を察知したアメリカ軍は、巡洋艦5隻・駆逐艦14隻・潜水艦6隻をアリューシャン方面に派遣した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=68}}。一方の日本軍は第五艦隊と第四航空戦隊(司令官[[角田覚治]]少将:空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]、[[隼鷹 (空母)|隼鷹]])を基幹とする機動部隊と攻略部隊でアリューシャン方面に進撃する。6月7日、アッツ島攻略部隊(第一水雷戦隊〈[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|pp=236a-237|ps=軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表 ◆阿武隈◆}}、[[若葉 (駆逐艦)|若葉]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]〉、輸送船〈[[衣笠丸 (特設水上機母艦)|衣笠丸]]〉)は[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名を乗せてアッツ島に到達、同島に上陸して[[6月8日]]に[[占領]]した<ref>[[#第五艦隊日誌(2)]]pp.30-32「(ハ)熱田島攻略作戰」、[[#城日記|城英一郎日記]]頁「(昭和17年)六月八日(月)曇」</ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=109b}}。キスカ島の守備は日本海軍の陸上部隊が、アッツ島の守備は北海支隊(支隊長[[穂積松年]]陸軍少佐)が行うことになった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=109b}}{{Sfn|流氷の海|1994|p=26}}。
6月23日、大本営は西部アリューシャン群島の長期確保を指示した<ref group="注">1942年(昭和17年)6月23日、大海指第百六号:一 大海指第九十四号別冊第二「アリューシャン」群島作戦ニ関スル陸海軍中央協定中「アダック」ノ攻略確保ヲ取止メ「キスカ」及「アッツ」ハ確保スルコトニ改ム 聯合艦隊司令長官ハ所要ノ兵力ヲ以テ「キスカ」ヲ確保スルト共ニ陸軍ノ「アッツ」守備ニ協力スベシ/二 六月二十五日午前〇時ヲ以テ第五艦隊司令長官ノ陸軍北海支隊ニ対スル作戦ニ関スル指揮ヲ解ク </ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=113a-114|ps=長期確保の決定}}。
アメリカ軍は[[ウムナック島]]の基地から大型爆撃機で空襲をおこない、また[[潜水艦]]を投入して日本軍に損害を与えた([[7月5日の海戦 (1942年)|7月5日の海戦]]など){{Sfn|戦史叢書77|1974|p=110}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=126-127|ps=米軍の反攻開始}}。

8月8日、[[巡洋艦]]を基幹とするアメリカ艦隊は[[キスカ島]]に来襲し、艦砲射撃を敢行した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=192a-193|ps=キスカへの集中}}。[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]の生起にともない[[大本営]]の関心は[[ソロモン諸島]]に集中しており、大本営陸海軍部は特に検討することなく北海支隊のキスカ島移駐を命じた<ref group="注">○大陸命第六七五号(昭和17年8月25日、抜粋)北海支隊長ハ「アッツ」島ヲ撤シ「キスカ」島ニ到リ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ルヘシ 指揮転移ノ時機ハ「アッツ島」出発ノ時トス/同日の大海指第百二十四号:一 第五艦隊司令長官ハ北海支隊「アッツ」島出発後作戦ニ関シ同隊ヲ指揮スベシ/二 第五艦隊司令長官ハ北海支隊ヲ以テ「キスカ」島ノ防衛ヲ強北スベシ </ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=193}}。第五艦隊の協力下、穂積支隊はキスカ島への転進を完了した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=193}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=364a|ps=北東方面の防衛/戦況概観}}。この時点で北海支隊は第五艦隊の指揮下に入った{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=193}}。日本軍の防衛方針は、相変わらず統一されていなかった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=366-367|ps=防衛方針の検討}}。

10月18日、日本軍はアメリカのラジオ放送からアムチトカ島が占領されたと判断し(実際は誤報であった)、急遽アッツ島の再占領を決定した<ref group="注">十月十八日敵ハ「アムスチッカ」島ヲ占領セルモノノ如シ 之ニ基キ差当リ「アッツ」占領ノ為北千島要塞守備隊ノ一大隊(二中隊欠)ヲ海軍艦艇ニ依リ派遣スル如ク処置ス 敵ノ「アムスチッカ」島占領ノ報ニ対シ山本中佐個人ノ意見 「アムスチッカ」ガ奪回出来ナケレバ根本的ニ此ノ方面ノコトヲ考ヘ直ス必要アルベシ。</ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=367a-368|ps=アッツ島の再占領と北海守備隊の編成}}。
10月20日より、アッツ島の再占領がはじまる<ref group="注">○大陸命第七百六号(昭和17年10月20日付)一 北部軍司令官ハ左記部隊ヲ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レ速ニ「アッツ」島附近ノ要地ヲ占領確保セシムヘシ 北千島要塞歩兵隊主力/二 指揮転移ハ前項部隊ノ北千島出港ノ時トス/○大海指第百四十八号(昭和17年10月22日付)一 北千島ノ一要塞歩兵隊主力北千島出港以後作戦ニ関シ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ラシム/二 第五艦隊司令長官ハ右陸軍部隊ヲ「アッツ」島ニ進駐セシメ同島附近ノ防備ヲ強化シ之ヲ確保スベシ。</ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=367b-368}}。
24日、大陸命第七百八号と第七百九号により北海守備隊が新編され、第五艦隊司令長官の指揮下に入った<ref group="注">○大海指第百五十三号(昭和17年10月27日付)一 十月二十四日北海守備隊ヲ編成セラレ作戦ニ関シ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ラシメラル 指揮編入ノ時機ハ北海守備隊司令官内地出発ノ時機トス/二 第五艦隊司令長官ハ右北海守備隊ヲ以テ西部「アリューシャン」列島ノ要地ヲ占領確保スベシ。</ref>{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=367b-368}}。北海守備隊司令官には[[峯木十一郎]]陸軍少将(陸士28期)が任命され、札幌の守備隊司令部に着任した{{Sfn|流氷の海|1994|p=108}}。
一方、[[占守島]]を守備していた米川浩陸軍中佐(陸士第31期){{Sfn|流氷の海|1994|p=106}}が率いる[[北千島臨時要塞|北千島第89要塞]]歩兵隊の2,650名がアッツ島に配備される。米川部隊は第五艦隊の軽巡洋艦や駆逐艦に分乗してアッツ島へ移動、10月29日に上陸した{{Sfn|青春の棺|1979|pp=135-137|ps=はじめて見るアッツ島}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=367b-368}}。
11月1日、大本営は各方面に陸海軍中央協定を指示する{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=368a-369|ps=陸海軍中央協定}}。第五艦隊司令長官が北海守備隊を指揮すること{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=368b-369}}。キスカ島とセミチ島に陸上航空基地を、キスカ島とアッツ島に水上航空基地を建設すること{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=368b-369}}。陸上航空基地の建設は陸軍の担任であること{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=368b-369}}。急速輸送は海軍艦艇が、その他は陸軍輸送船が担任し「右陸軍輸送船(軍需品ヲ含ム)ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ本則トス」{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=368b-369}}。以上のような項目が定められた。

この方針により、西部アリューシャン列島の各島で[[飛行場]]の建設と[[陣地]]強化がはじまった{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=527a-529|ps=北東方面の防衛強化}}。鳴神地区隊(キスカ島)は北海守備隊司令官が担任し、熱田地区隊は北千島要塞歩兵隊長が担任する{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=527b-528|ps=セミチ島攻略の延期}}。だが地形や補給の関係から飛行場の建設は遅々として進まず、キスカ島・アッツ島とも飛行場の完成前に米軍の反攻に晒されることになった{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=133-135|ps=「ついに玉砕したアッツ守備隊」}}。また一年のほとんどが[[霧]]か[[時化]]という気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。さらに絶え間ない空襲によるストレスや艦砲射撃の恐怖、補給不足による[[栄養失調]]が重なった{{Sfn|将口、キスカ|2012|p=143}}。

11月25日、アッツ第二次輸送作戦(阿武隈{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|pp=236b-237|ps=阿武隈年表}}、木曾{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|p=60a|ps=軽巡洋艦『球磨・多摩・木曽』行動年表 ◆木曽◆}}、若葉){{Sfn|青春の棺|1979|pp=140-141}}が行われて成功したが、セミチ島攻略部隊は輸送船「ちえりぼん丸」がアッツ島で空襲をうけ擱座したため中止された{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=527c-528}}。各島への輸送と部隊配備は12月末までに終了する計画だったが、輸送船の被害や、水上戦闘機の進出が遅れたことが重なり、昭和18年3月末まで延期された{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=528a-529|ps=北東方面戦局の悪化}}。

1943年(昭和18年)初頭になるとアメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、建設中の飛行場へ空襲や[[艦砲射撃]]を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された{{Sfn|将口、キスカ|2012|p=144}}{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=126-129|ps=「アリューシャンに暗雲」}}。また輸送船にも被害が続出した{{Sfn|流氷の海|1994|p=120}}。1月6日にはアッツ到着目前の「琴平丸」が空襲で沈没する{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=528b}}。同日、キスカ行の「もんとりーる丸」が空襲で沈没する{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=528b}}。1月24日、日本軍は米軍がアムチトカ島に進出したのを発見した{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=529}}。2月になると、米軍はアムチトカ飛行場の使用を開始し、日本軍の水上戦闘機では対抗できなくなった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=529}}。アリューシャン方面の制空権は連合軍のものとなった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=154}}。

大本営海軍部(軍令部)では一部で撤退意見があったものの、[[福留繁]]軍令部第一部長をはじめ大多数はアリューシャン列島の保持という方針を堅持した{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=128-129}}。
同年2月5日、大本営は北部軍司令部を改変し、北方軍司令部(司令官[[樋口季一郎]]陸軍中将)を編成した{{Sfn|流氷の海|1994|pp=112-113}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=182a-187|ps=防衛態勢の整備と陸海軍中央協定の発令}}。この改変にともない、北海守備隊は第五艦隊司令長官の指揮下を離れ、北方軍の隷下に入った{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=187|ps=北海守備隊の隷属転移}}。すなわち西部アリューシャンの防衛は、北方軍と第五艦隊、千島方面の防衛は北方軍と大湊警備府の担当となった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=184}}。アッツ島に陸上航空基地を建設することが決まり、飛行場完成は3月末を目標とした{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=185}}。飛行場や防御施設の整備は進んでいなかったが、現地を視察した日本陸軍上層部は海軍に「キスカやアッツ島の陸海軍は仲良く協調し、糧食も十分、飛行場整備も大いに進捗、さして心配はいらぬ」と説明しており、後日のアッツ島上陸の報をうけた[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は「彼等(日本陸軍)の楽観説には誠に恐れ入るものあり」と評している{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=247}}。

2月11日、大本営陸軍部は北海守備隊(司令官[[峯木十一郎]]陸軍少将、キスカ在)の編成を改正し、キスカ島を担当する第一地区隊(歩兵三コ大隊、地区隊長[[佐藤政治]]陸軍大佐)と、アッツ島を担当する第二地区隊(歩兵一コ大隊、地区隊長は米川浩中佐から[[山崎保代]]陸軍大佐に交代)を区分した{{Sfn|流氷の海|1994|pp=114-117}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=193-195|ps=あかがね丸事件}}。同時に[[兵站|人員・武器弾薬・物資]]の増援が計画されたが、海防艦「[[八丈 (海防艦)|八丈]]」に護衛されていたアッツ行輸送船「あかがね丸」がアメリカ艦隊により撃沈された{{Sfn|ニミッツ|1962|p=154}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=194}}。日本軍は戦略の転換をせまられ、第五艦隊の護衛による集団輸送方式に転換した{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=195a-197|ps=集団輸送方式の採用}}。
3月10日、第五艦隊と第一次増援輸送船団([[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=19}}、[[粟田丸 (特設巡洋艦)|粟田丸]]、崎戸丸)がアッツ島に到着して輸送に成功した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=195b}}。
続いて第二次増援輸送として第五艦隊と輸送船3隻(アッツ行/山崎大佐以下第二地区隊本部、砲兵大隊および高射砲大隊本部、増援一個中隊、野戦病院の一部と軍需品。キスカ行/北海守備隊司令部、未進出部隊ほか{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=196}}。輸送船/淺香丸、崎戸丸、三興丸){{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=21-22}}は北千島を出撃した。しかし3月27日にアメリカ水上艦隊と遭遇して[[アッツ島沖海戦]](連合軍呼称はコマンドルスキー諸島海戦){{Sfn|ニミッツ|1962|p=155}}が生起し第五艦隊旗艦「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」が小破{{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|pp=186-187|ps=(那智写真解説より)}}、第五艦隊は撤退して輸送作戦は中止された<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]頁「(昭和18年)三月二七日(土)曇」</ref>{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=129-132|ps=「アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す」}}。山崎保代大佐も上陸できなかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=195b}}。この海戦の後、第五艦隊司令長官は細萱中将から[[河瀬四郎]]海軍中将に交替した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=196}}。山崎大佐は4月18日に「[[伊号第三十一潜水艦|伊31]]」潜水艦に便乗してアッツ島に到着した<ref group="注">伊31号潜水艦は、4月15日幌筵出発、18日アッツ島に到着して山崎大佐上陸、同日発、21日幌筵帰投。</ref>{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=237}}。これ以降、アッツ島に対する水上艦の輸送は悪天候や米軍機の妨害により実施できず、潜水艦による輸送に限定された{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=197-201|ps=現地軍の作戦研究}}。


1943年(昭和18年)になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や[[艦砲射撃]]を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=126-129|ps=「アリューシャンに暗雲」}}。大本営海軍部(軍令部)では一部で撤退意見があったものの、[[福留繁]]軍令部第一部長をはじめ大多数はアリューシャン列島の保持という方針を堅持した{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=128-129}}。
同年2月に山崎保代大佐が北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島守備隊長としての着任、[[兵站|人員・武器弾薬・物資]]の増援が計画された。まず第一次増援輸送として、3月10日には[[君川丸 (特設水上機母艦)|君川丸]]、粟田丸がアッツ島に到着して輸送を成功させた。続いて第二次増援輸送として、3月27日に輸送船2隻(浅香丸、崎戸丸。山崎保代大佐同乗)と三興丸が[[第五艦隊 (日本海軍)#二代の第五艦隊|日本海軍第五艦隊]]に護衛されてアッツ島に到着予定であった。しかし[[アッツ島沖海戦]]が生起し第五艦隊は撤退<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]頁「(昭和18年)三月二七日(土)曇」</ref>し、この輸送は中止された{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=129-132|ps=「アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す」}}。山崎保代大佐も上陸できなかったため、4月18日に「[[伊号第三十一潜水艦|伊31]]」潜水艦に便乗して着任した。
[[ファイル:YasuyoYamasaki.jpg|thumb|200px|山崎保代大佐]]
[[ファイル:YasuyoYamasaki.jpg|thumb|200px|山崎保代大佐]]


アメリカ軍のアッツ島攻略部隊の全指揮は[[トーマス・C・キンケード]]海軍少将がとり、ロックウェル海軍少将とブラウン陸軍少将の上陸部隊を指揮する{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=244}}。当初はキスカ島に上陸予定だったが、アメリカ軍の兵力不足、各島防備状況等を考慮し、統合参謀本部は上陸目標のアッツ島変更を承認した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=157}}。アッツ島への上陸作戦は5月7日と定められた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=244}}。アッツ島周辺は一年霧に覆われているが、この時機は濃霧期の直前であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=244}}{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=306}}。米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった{{Sfn|将口、キスカ|2012|p=152}}。アメリカ海軍省は西部アリューシャンの奪回と時機を公表して宣伝しており、報道を知った日本軍は警戒を強めていた{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=241a-279|ps=アッツ島を増強し確保を期す}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=241b-242|ps=中央、現地の動静と米軍の上陸}}。アメリカ艦隊は4月27日にアッツ島を砲撃し、5月9日には潜水艦で北海道幌別村(室蘭北東16km)<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]pp.13-14(昭和18年5月9日記事)</ref>に砲撃を加えるなど、活発に行動していた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=241c}}。
アメリカ軍はアッツ島への上陸作戦を5月7日とした。この時期はアッツ島周辺では一年霧があるうちでももっとも霧の多い時期であった{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=306}}。米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった。


軍令部第一課長[[山本親雄]]大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=268}}。
軍令部第一課長[[山本親雄]]大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=268}}。4月11日に東京でおこなわれた中央関係者・北方軍・第五艦隊の懇談会で、北方軍は「米軍の反攻作戦は霧期前(4月~5月)におこなわれ、キスカ島への反攻は必至で間近い」と意見している{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=199}}。第五艦隊は北方軍の主張するアッツ中心主義に同調したが、霧期前の強行輸送には同意しなかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=200}}。[[源田実]]大本営海軍部参謀は「海軍機の現地飛行場進出は7月中旬、それまでは水上戦闘機で対処。陸軍戦闘機の(アッツ、キスカ)進出は無理」と述べている{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=200}}。


== 経過 ==
== 経過 ==
=== アッツ島地上戦 ===
<!--アメリカ軍は[[キンケード]]海軍少将を攻略部隊司令官に任命し、-->1943年5月5日、ロックウェル少将が率いる、[[戦艦]]3隻、[[巡洋艦]]6隻、[[護衛空母]]1隻、[[駆逐艦]]19隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊が{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=306}}[[アラスカ]]のコールド湾を出港した。編成は以下の通り。
[[ファイル:Capture of Attu 1943.jpg|thumb|200px|青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路]]

1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる[[戦艦]]3隻、[[巡洋艦]]6隻、[[護衛空母]]1隻、[[駆逐艦]]19隻、輸送船5隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊が{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=306}}[[アラスカ]]のコールド湾を出港した。編成は以下の通り。
* 戦艦「[[ネヴァダ (戦艦)|ネヴァダ]]」「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」「[[アイダホ (戦艦)|アイダホ]]」
* 戦艦「[[ネヴァダ (戦艦)|ネヴァダ]]」「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」「[[アイダホ (戦艦)|アイダホ]]」
* 護衛空母「[[ナッソー (護衛空母)|ナッソー]]」
* 護衛空母「[[ナッソー (護衛空母)|ナッソー]]」
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上陸部隊は[[A・E・ブラウン]]陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「'''ランドクラブ作戦''' (Operation Landcrab)」という。
上陸部隊は[[A・E・ブラウン]]陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「'''ランドクラブ作戦''' (Operation Landcrab)」という。


上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、抵抗を受けることなく海岸に[[橋頭堡]]を築くことに成功した。
上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した{{Sfn|将口、キスカ|2012|pp=147-148}}。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、海岸に[[橋頭堡]]を築くことに成功した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=158}}
[[ファイル:Attu landing craft on beach 1943.jpg|thumb|200px|アッツ島に上陸したアメリカ軍]]
[[ファイル:Attu landing craft on beach 1943.jpg|thumb|200px|アッツ島に上陸したアメリカ軍]]
日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。た電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=333}}。
日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。海軍部隊の指揮は、5月10日に伊31潜水艦でアッツ島に到着し第五艦隊参謀[[江本弘]]少佐がとった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=243}}。守備隊は電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=333}}。
{{Quotation|「全力を揮つて敵を{{読み仮名|撃摧|げきさい}}すへし
{{Quotation|「全力を揮つて敵を{{読み仮名|撃摧|げきさい}}すへし


隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」}}
隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」}}
11日当時、輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向かっていたが米軍のアッツ島上陸の報告を聞き慌てて引き返した。


アメリカ軍は戦艦2隻でアッツ島砲撃たが有効な損害を与えられなかった。
アメリカ軍は戦艦部隊でアッツ島の日本軍守備隊に対し艦をおこなったが有効な損害を与えられなかった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=158}}
地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。
地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。
2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は[[高射砲]]を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。
2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は[[高射砲]]を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。
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一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという{{Sfn|西島照男|1991|p=40}}。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。
一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという{{Sfn|西島照男|1991|p=40}}。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。
[[ファイル:Hauling supplies on Attu.jpg|thumb|200px|険しい地形がアメリカ軍を阻んだ]]
[[ファイル:Hauling supplies on Attu.jpg|thumb|200px|険しい地形がアメリカ軍を阻んだ]]
日本海軍はキスカ島から[[潜水艦]]「[[伊34]]」「[[伊31]]」「[[伊35]]」を派遣した。「伊31」は米戦艦「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」を雷撃したが命中せず、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された。「伊34」も爆雷攻撃で損傷し、避退した{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]274頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月一六日(日)雨、寒し 戦況。アッツ陸上、北海湾西浦方面の敵艦隊及敵火器により、相当苦戦。当方のS-34〔伊号第三四潜水艦〕は爆雷攻撃により損害、一時避退。</ref>}}。

また重巡洋艦「摩耶」と駆逐艦「白雲」もアッツ島の米軍攻撃のために12日に[[幌筵島|幌筵]]を出撃したが霧で視界が効かず引き返した。
日本海軍の航空部隊は占守島より出撃したが、悪天候のため攻撃に失敗した{{Sfn|大本営海軍部|1982|p=134}}。


各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。
各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。
16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。
16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。


ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、[[ユージーン・ランドラム]]少将が代わりの指揮を執った。
ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、[[ユージーン・ランドラム]]少将が代わりの指揮を執った{{Sfn|将口、キスカ|2012|p=153}}

5月20日、大本営は北方軍に対しアッツ島への増援計画の中止を通告し、北方軍司令部は大きな衝撃を受けた{{Sfn|流氷の海|1994|pp=185-187}}。5月21日、大本営陸軍部(参謀本部)の[[秦彦三郎]]参謀次長は自ら[[札幌]]の北方軍司令部を訪ね、北方軍司令官[[樋口季一郎]]陸軍中将にアッツ島増援中止に至った事情を説明した{{Sfn|流氷の海|1994|pp=187-196}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=295}}。秦次長の帰京時の説明は以下のとおり{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=295}}。

{{Quotation|“軍司令官以下克ク事情ヲ諒承シ「大命アリシ上ハ何モ申上グル事ナシ コノ上ハ大命ヲ遺憾ナク完遂スル以外ニナシ」 軍司令官モ「アッツ」ヲ攻略スルコトハ大ナル困難アリト考ヘテ居タ、ヨッテコノ大英断ヲトラレタ上ハ同感デアル 第七師団ニハ軍司令部ヨリモ少シク執着ガアル”}}


5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を決定した。当時の参謀次長[[秦彦三郎]]中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、[[若松只一]]第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=395}}。
翌19日、[[昭和天皇]]は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]275頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月一九日(水)半晴(略)午前、御召あり、御下問。アッツ島方面の天候、我(飛行機)の飛行しあるや否や。5Fは未だ幌筵にありや、出動せざるや。敵主力南下せる如しとせば、5Fは霧中奇襲しては如何。GFの増援部隊は、如何なる状態なりや。/一五三〇、両総長列立拝謁、明日午前、大本営臨御奏請。/戦況、アッツ島附近、S×3中、二隻は損傷及一隻は連絡なし。敵巡、夜はアッツ島附近に出没す。(以下略)</ref>}}。
5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]275-276頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月二〇日(木)雨 当直</ref>}}。
21日、北方軍司令部の[[樋口季一郎]]中将に増援の派遣中止を通告した。
戦史叢書には樋口の回想が記載されている{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=412}}。
戦史叢書には樋口の回想が記載されている{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=412}}。

{{Quotation|“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。
{{Quotation|“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。
私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。”}}
私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。”}}


21日、北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電した{{Sfn|流氷の海|1994|p=257}}。山崎隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した{{Sfn|流氷の海|1994|p=258}}{{Sfn|将口、キスカ|2012|p=154}}。
日本海軍はアッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと過大評価し(実際には護衛空母一隻)、21日にアッツ島救援のために内地で修理や訓練を行っていた空母3隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した。北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である{{Sfn|大本営海軍部|1982|p=134}}。
22日には連合艦隊司令長官[[古賀峯一]]大将及び[[海軍甲事件]]で死亡した[[山本五十六]]大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]277頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月二二日(土)晴(略)機動部隊及「武蔵」東京湾着</ref>}}と金剛型戦艦2隻(「金剛」「榛名」)、空母「飛鷹」、利根型重巡洋艦「利根」「筑摩」、駆逐艦5隻(第27駆逐隊〈時雨、有明〉、第24駆逐隊〈海風〉、第61駆逐隊〈初月、涼月〉)が東京湾に到着し、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した{{Sfn|武藏上|2009|pp=142-143}}。駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った{{Sfn|武藏上|2009|p=144}}。

23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=421}}。
23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=421}}。
{{Quotation|「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」}}
{{Quotation|「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」}}
これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉([[御嘉賞]])が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという{{Sfn|戦史叢書21|1968|loc=p.427 尾形侍従武官日記「現地守備隊長、北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥ノ欠陥ヲ第一線将兵ノ敢闘ヲ以テ補ヒ第一線ノ犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ」}}。
命令電の中で、はじめて[[玉砕]]の言葉が使われた{{Sfn|将口、キスカ|2012|p=155}}。これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉([[御嘉賞]])が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという{{Sfn|戦史叢書21|1968|loc=p.427 尾形侍従武官日記「現地守備隊長、北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥ノ欠陥ヲ第一線将兵ノ敢闘ヲ以テ補ヒ第一線ノ犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ」}}。

[[幌筵]]では20日までに第五艦隊の重巡洋艦「那智」「摩耶」を中心とする各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた。第五艦隊によりアッツ方面の敵艦船攻撃と緊急輸送を実施予定であったが度々延期され、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただしている{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]277-278頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月二四日(月)曇、午後雨(略)5F、出撃取止めし理由、中村武官に御下問。天候、梅雨になりしやの御下問あり。低気圧は梅雨の如き配置なるも、北方の高気圧発達せず、まだ梅雨にならぬ由、上聞。</ref>}}。
25日、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した。編成は以下の通り。
* 軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」
* 駆逐艦「[[長波 (駆逐艦)|長波]]」「[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]」「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]」「朝雲」「白雲」「薄雲」「沼風」「[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]」

第五艦隊は駆逐艦2隻(神風、沼風)をもって米艦隊の包囲網を突破、2隻は5月28日に同島へ到着し補給を行う予定であった{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]279頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月二八日(金)小雨 戦況。○熱田島補給のd×2 今夕現地着の予定。(以下略)</ref>}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]279頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月二九日(土)曇 一六三〇、軍令部総長拝謁。○アッツ島補給のd×2 其後の状況不明、天候不良にて難航?(以下略)</ref>}}。27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった。


アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け[[白兵戦]]となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労をねぎらった後に最後の電報を[[東京]]の[[大本営]]へ宛てて最後に打電した{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=440}}{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=441}}。
アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け[[白兵戦]]となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労をねぎらった後に最後の電報を[[東京]]の[[大本営]]へ宛てて最後に打電した{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=440}}{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=441}}。
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敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。”}}
敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。”}}

生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は無線機を破壊すると夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=452}}。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=454}}。
第五艦隊の江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉は戦況報告のため最後の突撃から外され、アッツ湾東岬に移動して潜水艦による回収を待つことになった{{Sfn|流氷の海|1994|p=259}}。
熱田島守備隊は無線機を破壊した<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.20(昭和18年5月29日記事)「1420|熱田島守備隊機密書類焼却無線電信機ヲ破壊通信杜絶|北方|残存部隊ヲ集結シ最後ノ夜襲ヲ決行セルモノト認ム「アッツ」ニアリシ海軍人員114(内64軍属)」</ref>。日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃であった{{Sfn|流氷の海|1994|p=261}}。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=452}}。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている{{Sfn|流氷の海|1994|p=262}}。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=454}}{{Sfn|流氷の海|1994|pp=263-265}}。
{{Quotation|「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」}}
{{Quotation|「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」}}
[[ファイル:AttuBanzai.jpg|thumb|200px|日本軍は雀ヶ丘(Engineer Hill)で全滅した]]
[[ファイル:AttuBanzai.jpg|thumb|200px|日本軍は雀ヶ丘(Engineer Hill)で全滅した]]


日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。
日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった{{Sfn|流氷の海|1994|p=264}}。江本少佐の収容にむかった[[伊号第二十四潜水艦]]は6月上旬に幾度かアッツ島へ突入したが、連絡に失敗した{{Sfn|流氷の海|1994|p=260}}。その後、6月11日に哨戒機とパトロール艇により撃沈された{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=472b|ps=付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊24 18.6.11キスカ方面}}。江本少佐以下4名は、戦後になりアッツ島東海岸突端の洞窟内で遺体となって発見された{{Sfn|流氷の海|1994|p=260}}。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=159}}


=== 大本営の対応 ===
28日夜、日本海軍の空母機動部隊は東京湾を出撃したが、守備隊が全滅したとの報と、事前に派遣した潜水艦が敵空母を発見できなかったため翌日に作戦は中止となり29日の夕方に東京湾に帰還した。同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も幌筵へ引き返した。
5月12日午前中、大本営海軍部では第一部(作戦)・第三部(情報)・特務班(通信諜報)関係者があつまり、太平洋方面の情況判断をおこなった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=243}}。大本営陸軍部では、北方軍作戦参謀[[安藤尚志]]陸軍大佐が、参謀次長[[秦彦三郎]]陸軍中将・作戦部長[[綾部橘樹]]陸軍少将・作戦課長[[服部卓四郎]]陸軍大佐と北部太平洋方面の情況と今後の作戦について検討していた{{Sfn|流氷の海|1994|pp=162-166}}。同日午後、大本営陸海軍部はアメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、アッツ島確保の方針を打ち出した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=244}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=248-252|ps=大本營確保の方針を固む}}。アッツ島への増援部隊は、第七師団(師団長[[鯉登行一]]陸軍中将)から抽出する予定であった{{Sfn|流氷の海|1994|pp=176-177}}。
翌13日、陸海軍部はアッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していたが、連合艦隊は微妙な態度であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=251}}。
5月14日、海軍部はアッツ島への緊急輸送につき「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」の具体的研究を進めた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=253}}。午後4時より行われた宮中大本営戦況交換会で、アッツ島守備隊は善戦しているが至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=254}}。[[特型運貨筒|大型運貨筒]]の準備もはじまった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=254}}(水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]により5月28日~29日アッツ島着予定){{Sfn|戦史叢書39|1970|p=267}}。日本陸軍の一部では、落下傘部隊と潜水艦によるアムチトカ島奇襲「テ」号作戦の研究がすすめられた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=266}}。落下傘部隊だけによる奇襲は「ヒ」号作戦と呼称された{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=268}}。


5月16日から17日にかけての大本営陸海軍合同研究会は、徐々に悲観的な空気に包まれていった{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=272-279|ps=反撃確保作戦は可能なりや}}。旧式戦艦([[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[山城 (戦艦)|山城]])と第五艦隊各艦および落下傘部隊でアムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、もはや時機を逸しており成算も疑問視された{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=275}}。
30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]279頁<ref group="注釈">(昭和18年)五月三〇日(日)半晴 一〇〇〇、参謀総長拝謁。アッツ島守備隊、前夜夜襲、玉砕奏上。一四二〇/二九以来通信杜絶。約二千(海軍約百名、江本参謀〔を含む〕)。一七〇〇、発表さる。守備隊長、山崎陸軍大佐、沈勇壮烈、皇軍の真価発揮。(近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつゝある観あり)。</ref>}}、初めて「[[玉砕]]」の表現を使った。それまで[[フロリダ諸島の戦い]]などで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また[[山本五十六]]の戦死の発表の直後だったため、日本国民に大きな衝撃を与えた。


5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を内定した{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=279a-289|ps=西部アリューシャンの確保を断念す}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=279b-284|ps=アッツ島増援の算立たず}}。当時の参謀次長[[秦彦三郎]]中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、[[若松只一]]第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=395}}。
大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した<ref>{{Cite web |url=http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400247_00000 |title=山崎部隊長への感状 |work=戦争証言アーカイブス |publisher=[[日本放送協会]] |accessdate=2017-01-15}}</ref>が、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。


翌19日、[[昭和天皇]]は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]275頁<ref group="注">(昭和18年)五月一九日(水)半晴(略)午前、御召あり、御下問。アッツ島方面の天候、我(飛行機)の飛行しあるや否や。5Fは未だ幌筵にありや、出動せざるや。敵主力南下せる如しとせば、5Fは霧中奇襲しては如何。GFの増援部隊は、如何なる状態なりや。/一五三〇、両総長列立拝謁、明日午前、大本営臨御奏請。/戦況、アッツ島附近、S×3中、二隻は損傷及一隻は連絡なし。敵巡、夜はアッツ島附近に出没す。(以下略)</ref>}}。大本営は北海守備隊を如何にして撤退させるかの検討に入った{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=284-287|ps=北海守備隊収容手段の研究}}。キスカ島については潜水艦を主力とし駆逐艦と巡洋艦を併用する方向であったが、アッツ島に関しては「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、「ボート」一隻モナシ、午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ(現地の日出0122、日没1652)。ココハ最後ハ[[玉砕]]ヤムナシト云フ案モアル。五月末集メ得ル潜水艦ハ全部デ十隻、海軍全部デ四〇席、ソノ三分之一ガ行動可能」であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=286}}。
1943年9月29日、アッツ島守備隊将兵の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた。

5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]275-276頁<ref group="注">(昭和18年)五月二〇日(木)雨 当直</ref>}}。大本営陸海軍部は、中央協定を結ぶ{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=291}}。アッツ島守備部隊は機会を見て潜水艦により撤退、キスカ島守備部隊は潜水艦・駆逐艦・輸送船による逐次撤退と定められた<ref group="注">5月21日、陸海軍中央協定(大海指第246号)「熱田島守備部隊ハ好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」「鳴神島守備部隊ハ成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ逐次撤収スルニ努ム 尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」</ref>{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=239b-242|ps=キスカ撤収作戦}}。大本営陸軍部は20日付大陸命第793号と大陸指第1517号等の発令をもって、中央協定を示達した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=295}}。大本営海軍部はアッツ島守備隊について、一部だけでも潜水艦で収容する方針を示した<ref group="注">○熱田島守備隊収容ニ関スル陸海軍部覚 昭和十八年五月二十日 大本營陸軍部 大本營海軍部 情勢ニ応ズル北太平洋方面作戦陸海軍中央協定中二ノ(三)項ハ左ノ義ト了解ス 熱田島守備隊ハ最後ノ時機ニ於テ其ノ一部ニテモ潜水艦ニ依リ収容スルニ務ムルモノトス。</ref>{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=294}}。

5月28日午前中、大本営陸海軍部は宮中で戦況交換をおこなう{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=302}}。午後、大本営陸海軍部と連合艦隊参謀があつまり、戦局全般の研究会が開かれた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=302}}。
5月30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]279頁<ref group="注">(昭和18年)五月三〇日(日)半晴 一〇〇〇、参謀総長拝謁。アッツ島守備隊、前夜夜襲、玉砕奏上。一四二〇/二九以来通信杜絶。約二千(海軍約百名、江本参謀〔を含む〕)。一七〇〇、発表さる。守備隊長、山崎陸軍大佐、沈勇壮烈、皇軍の真価発揮。(近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつゝある観あり)。</ref>}}、初めて「[[玉砕]]」の表現を使った。それまで[[フロリダ諸島の戦い]]などで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また[[山本五十六]]元帥戦死公表の直後だったため(5月21日午後3時、大本営発表){{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=146-148|ps=戦死の公表と国葬}}、日本国民に大きな衝撃を与えた{{Sfn|将口、キスカ|2012|pp=157-159|ps=美しく砕ける}}。

大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した<ref>{{Cite web |url=http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400247_00000 |title=山崎部隊長への感状 |work=戦争証言アーカイブス |publisher=[[日本放送協会]] |accessdate=2017-01-15}}</ref>が、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。この件に関し、北海守備隊の峯木司令官は[[東條英機]]陸軍大臣や[[富永恭次]]陸軍次官から「アッツの山崎大佐は何等救援の請求をしなかったが、司令官(峯木)が執拗に兵力増援をもとめたのはけしからん」として叱られたという{{Sfn|私記キスカ撤退|1988|p=38}}。またアッツ島海軍部隊を指揮していた第五艦隊参謀の江本弘少佐も、たびたびアッツ島への緊急輸送や増援の必要性を訴えている{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=290}}。

同年9月29日、アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた{{Sfn|流氷の海|1994|p=267}}。

=== 日本海軍の対応 ===
アメリカ軍のアッツ島来攻時、日本海軍において北方方面を担任していたのは[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](司令長官[[河瀬四郎]]海軍中将)であり、第五艦隊司令長官は北方部隊指揮官を兼ねていた。当時の北方部隊の軍隊区分は、主隊(北方部隊指揮官[[河瀬四郎]]第五艦隊司令長官直率:重巡[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、第二十一戦隊〈木曾、多摩〉)、支援部隊(妙高、羽黒)、水雷戦隊(第一水雷戦隊〈司令官[[森友一]]海軍少将:阿武隈、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊〉、長波、五月雨、響)、潜水部隊、航空部隊(第二十四航空戦隊司令官、第752航空隊、飛行艇隊)であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=263}}。
従来、第五艦隊は重巡洋艦「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」を旗艦としていたが、同艦は[[アッツ島沖海戦]]で損傷し内地へ帰投{{Sfn|海軍下士官兵|1971|p=167}}、[[横須賀海軍工廠]]で損傷修理と[[レーダー]]装備工事をおこなっていた{{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|p=188|ps=(那智写真解説より)}}{{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|p=188a|ps=重巡洋艦『那智』行動年表}}。「那智」は5月11日に横須賀を出発し、北方へ向け移動中であった(5月15日、幌筵着){{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|p=188b|ps=那智年表}}。那智不在の間、第五艦隊旗艦は軽巡洋艦「[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]」や重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=38}}が務めた。
また第五艦隊隷下の第一水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」であったが、アッツ島来攻時の同艦は[[舞鶴海軍工廠]]で修理と整備をおこなっていた{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|pp=236b-237|ps=阿武隈年表}}{{Sfn|舞廠造機部|2014|pp=255-258|ps=「多摩」「阿武隈」を急ぎ出港させよ}}。「阿武隈」は急遽出渠し{{Sfn|舞廠造機部|2014|p=257}}、5月17日に舞鶴を出発、5月20日[[幌筵島]]片岡湾に到着した{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=43}}{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|pp=236b-237|ps=阿武隈年表}}。第五艦隊の主力艦として開戦時より北方で活動していた軽巡洋艦「[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]」も[[舞鶴海軍工廠]]で修理と整備をおこなっており、同艦も5月20日に舞鶴を出発、幌筵片岡湾着は22日であった{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|pp=59a-60|ps=軽巡洋艦『球磨・多摩・木曽』行動年表 ◆多摩◆}}。

日本海軍は北方部隊に複数の伊号潜水艦を配備して、哨戒や索敵任務のほかに、アッツ島やキスカ島への輸送に投入していた<ref group="注">米軍のアッツ島進攻時、北方部隊に配備されていた潜水艦一覧。[[伊号第三十四潜水艦|伊34]]、[[伊号第三十五潜水艦|伊35]]、[[伊号第三十一潜水艦|伊31]]、[[伊号第百六十八潜水艦|伊168]](5月7日先遣部隊に復帰して北方部隊潜水部隊からのぞかれる)、[[伊号第百六十九潜水艦|伊169]](4月22日先遣部隊に復帰)、[[伊号第百七十一潜水艦|伊171]](4月22日先遣部隊に復帰)、[[伊号第七潜水艦|伊7]]。</ref>{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=235-238|ps=米軍アッツ島来攻前の潜水部隊の概況}}。

5月11日<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]pp.15-16(昭和18年5月11日記事)「1sd司令官ハ木曽 白雲 若葉 君川丸ヲ率ヰ幌筵出撃|北方|君川丸デ熱田島ニ観測機ヲ空輸」</ref>、[[水上機]]輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|p=60b|ps=木曽年表}}{{Sfn|青春の棺|1979|p=161}}、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向け幌筵を出撃した{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=39-40}}。米軍のアッツ島上陸の報告を受けてアッツ行を中止、偵察を試みたが悪天候により水上機を発進できなかった{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=41}}{{Sfn|青春の棺|1979|pp=162-164}}。各艦の幌筵帰投は5月15日であった{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|p=60b|ps=木曽年表}}。

5月12日のアッツ島上陸をうけて、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」に将旗を掲げ<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]pp.16-18(昭和18年5月12日記事)</ref>、アメリカ艦隊攻撃のため[[幌筵島|幌筵]]を出撃した{{Sfn|青春の棺|1979|p=165}}{{Sfn|写真日本の軍艦(6)重巡(II)|1990|p=109a|ps=重巡洋艦『摩耶』行動年表}}。だが霧で視界が効かず、アメリカ艦隊と交戦することなく引き返した(5月15日、幌筵帰投){{Sfn|写真日本の軍艦(6)重巡(II)|1990|p=109b|ps=摩耶年表}}。並行して、北方部隊指揮官はアリューシャン方面で輸送任務についていた[[潜水艦]]をアッツ島に向かわせた{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=238a-239|ps=米軍のアッツ島来攻}}。また連合艦隊は複数の潜水艦を北方部隊に編入した<ref group="注">5月12日、[[伊号第九潜水艦|伊9]]、[[伊号第二十一潜水艦|伊21]]、[[伊号第二十四潜水艦|伊24]]を北方部隊に編入。連合艦隊電令作第563号により、第12潜水隊(伊169、伊171、伊175)と[[伊号第三十六潜水艦|伊36]]を北方部隊に編入。</ref>{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=238b}}。
北方部隊のうち、キスカ輸送を終えた2隻(伊31、伊34)は同島からアッツ島にむかった{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=238b}}。「伊35」は幌筵を出撃し、アッツ島にむかった{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=238b}}。
5月13日、「伊31」は米戦艦「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」を雷撃したが命中せず{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=239a}}(伊31は魚雷2本命中と報告)<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]pp.18-20(昭和18年5月13日記事)</ref>、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=472a|ps=付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊31 18.5.14アッツ島付近}}。「伊34」<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]pp.20-22(昭和18年5月14日記事)</ref>(資料によっては伊34のほかに伊35も損傷と記述する)<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]pp.22-24(昭和18年5月16日記事)</ref>も爆雷攻撃で損傷し、避退した{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=239a}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]274頁<ref group="注">(昭和18年)五月一六日(日)雨、寒し 戦況。アッツ陸上、北海湾西浦方面の敵艦隊及敵火器により、相当苦戦。当方のS-34〔伊号第三四潜水艦〕は爆雷攻撃により損害、一時避退。</ref>}}。

アメリカ軍アッツ島上陸の速報により、連合艦隊は内地回航中の戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」と空母2隻および巡洋艦部隊{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=210}}から4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)を抽出して北方部隊に増強し、第二十四航空戦隊と第801海軍航空隊(飛行艇6機)も北方部隊に増強した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=245}}。つづいて内地所在の機動部隊や艦艇を関東地方に移動させ、北方情勢に備えた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=245}}。連合艦隊は、アッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと評価した<ref group="注">○連合艦隊機密第122325番電 敵情判断 一 北方方面(イ)敵ハ先ヅ熱田島ヲ攻略鳴神ノ輸送船隊補給ヲ断チ之ガ攻略ヲ企図スベシ/(ロ)敵ノ有力ナル機動部隊(空母三隻乃至四隻、主力艦二隻、巡洋艦数隻、駆逐艦十数隻)ハ「ミッドウェー」北方海面ニ在リテ「アリューシャン」攻略作戦ヲ支援スルト共ニ本土ノ奇襲ヲ策シ当分ノ間同方面ヲ行動スベシ(第一水雷戦隊や第二水雷戦隊の受信では スルト共ニ我艦隊ノ奇襲ヲ策シ )/(ハ)敵潜水艦ハ本州東方海面及千島列島方面ヲ哨戒中ナリ(以下略)</ref>{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=247}}(実際には護衛空母一隻)。

内地で修理や訓練を行っていた[[第一航空戦隊]](瑞鶴、翔鶴、瑞鳳){{Sfn|戦史叢書39|1970|p=159}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=203}}、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=254}}。北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である{{Sfn|大本営海軍部|1982|p=134}}。

5月17日、連合艦隊司令長官[[古賀峯一]]大将及び[[海軍甲事件]]で死亡した[[山本五十六]]大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=146-148|ps=戦死の公表と国葬}}と金剛型戦艦2隻(第三戦隊司令官[[栗田健男]]中将:金剛、榛名)、空母「[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]」([[第二航空戦隊]])、第八戦隊([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]])、駆逐艦5隻<ref group="注">第四水雷戦隊・第27駆逐隊(時雨、有明)、第二水雷戦隊・第24駆逐隊(海風)、第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月)</ref>はトラック泊地を出発、東京湾にむかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}<ref>[[#S18.05経過概要(1)]]p.24(昭和18年5月17日記事)「1200|GF長官ハ武藏 3S(金剛、榛名)2Sf(飛鷹)8S(利根、筑摩)及d×5ヲ直率「トラック」発|南洋|二十二日東京湾着ノ予定」</ref>。

5月18日、大本営はアッツ島増援の中止を内定し、連合艦隊司令部は洋上でこの決定を知った{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=279b-284|ps=アッツ島増援の算立たず}}。

5月22日、連合艦隊司令長官[[古賀峯一]]大将直率の艦隊は東京湾に到着し{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]277頁<ref group="注">(昭和18年)五月二二日(土)晴(略)機動部隊及「武蔵」東京湾着</ref>}}、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した{{Sfn|武藏上|2009|pp=142-143}}。駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った{{Sfn|武藏上|2009|p=144}}。また連合艦隊参謀長は[[宇垣纏]]中将から[[福留繁]]中将に交代した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}。各艦隊司令部が集合して検討した結果、機動部隊の東洋湾出撃は29日を予定とし、北方全般の情勢をみて出撃するか否かの最終判断をくだすことになった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=299}}。

[[幌筵]]では20日までに北方部隊(第五艦隊所属艦および臨時編入艦){{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=213}}の各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=42}}{{Sfn|青春の棺|1979|p=167}}。北方部隊は水上艦船・航空部隊・潜水部隊でアッツ島方面敵艦隊に奇襲をしかけると共に、第1駆逐隊(沼風、神風)によるアッツ島緊急輸送を計画していた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=295}}<ref group="注">[[#S18.05経過概要(2)]]p.8(昭和18年5月21日記事)「HPB幌筵出撃熱田島周辺ノ敵艦奇襲並ニdニ依ル緊急補給実施 主隊 支援隊 掃蕩隊ハX日(二十一日ノ予定)幌筵出撃 X十二日0000A点(167°E 153°6N)ニテ洋上待機 Y日(X十二日ノ見込ナルモ霧ノ状況ニ依リ順延)日没後一時間後北海湾ニ達スル如ク行動ス 輸送隊ハ主隊ニ随伴特令ニ依リ熱田湾口ニ突入急速揚陸離脱 君川丸ハY日以後(飛行機)発進熱田又ハ鳴神ニ空輸ス|北方 HPB|水上部隊ハ成ルベク速ニ(飛行機)及(潜水艦)ニ策応霧ヲ利用熱田島方面艦隊ヲ奇襲撃滅シ此ノ間1sdニ依リ緊急輸送ヲ行フ 主隊 那智摩耶木曽 支援隊 5S五月雨長波 掃蕩隊 阿武隈若葉初霜 輸送隊 1dg(神風、沼風) 水上機部隊 君川丸(観測機8)」</ref>。
この時点での北方部隊は、重巡洋艦4隻(那智、摩耶、妙高{{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|pp=44-45|ps=重巡洋艦『妙高』行動年表}}、羽黒{{Sfn|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989|p=234a|ps=重巡洋艦『羽黒』行動年表}})、軽巡洋艦3隻(木曾、多摩、阿武隈)、駆逐艦(響、五月雨、長波、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉、初春〉)<ref>[[#第五艦隊日誌(3)]]pp.33-34(昭和18年5月)「別紙第二」</ref><ref>[[#第五艦隊日誌(3)]]pp.35-36(昭和18年5月)「指揮下」</ref>、水上機母艦「君川丸」、潜水艦部隊等によって編成されていた<ref>[[#第五艦隊日誌(3)]]pp.31-32(機密北方部隊命令作第七號ノ二別紙)「一、第二軍隊区分ヲ左ノ通定ム(追加)」</ref>。

5月21日、大本営海軍部は大海指第247号により、アッツ島守備隊の収容に努力するよう第五艦隊に対し指示した<ref group="注">○大海指第二四七号 昭和十八年五月二十一日 軍令部総長 永野修身 古賀聯合艦隊司令長官 河瀬第五艦隊司令長官}ニ指示 大海指第二四六号別冊「情勢ニ応ズル北太平洋方面作戦陸海軍中央協定」中二ノ(三)項ノ作戦ハ左ニ依リ実施スベシ  熱田島守備隊ハ最後ノ時機ニ於テ其ノ一部ニテモ潜水艦ニ依リ収容スルニ務ムルモノトス。</ref>{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=294}}。だが第五艦隊の出撃は度々延期され{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただすことになった{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]277-278頁<ref group="注">(昭和18年)五月二四日(月)曇、午後雨(略)5F、出撃取止めし理由、中村武官に御下問。天候、梅雨になりしやの御下問あり。低気圧は梅雨の如き配置なるも、北方の高気圧発達せず、まだ梅雨にならぬ由、上聞。</ref>}}。

北方部隊に編入された第二十四航空戦隊の第一部隊(第752航空隊)陸上攻撃機21機は、5月13日[[幌筵島]]に進出を完了したが、連日の悪天候に悩まされた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=271}}。海防艦「[[石垣 (海防艦)|石垣]]」と「[[八丈 (海防艦)|八丈]]」が気象観測や誘導のため配置された<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.1(昭和18年5月18日記事)「午前|幌筵天候不良flo隊発進出来ズ|北方 24Sf|濃密ナル霧視界200m 石垣 八丈ヲ幌筵熱田間幌筵寄ニ配シ気象観測、(飛行機)警戒、無線誘導ニ任ゼシム」</ref>。5月23日、天候が回復する{{Sfn|市川、キスカ|1983|p=45}}。第752航空隊の陸攻19機(指揮官[[野中五郎]]大尉)はアッツ島方面に対するはじめての航空攻撃を敢行し{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}、駆逐艦1隻撃沈等の戦果を報告した{{Sfn|青春の棺|1979|p=168}}(未帰還機1)<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.12(昭和18年5月23日記事)</ref>。翌24日、野中隊長指揮下の陸攻17機はアッツ島に到達したが霧のため目標を視認できなかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}。邀撃してきた[[P-38 (航空機)|P-38双発戦闘機]]と交戦してP-38撃墜8(不確実2)を報じたが陸攻3機{{Sfn|青春の棺|1979|p=168}}(ほかに着陸時大破1)をうしなった<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.13(昭和18年5月24日記事)「24|0645|flo幌筵発熱田上空ニテ30分捜索セシモ天候不良ニテ發見セズ皈投 P-38×約10ト交戰(七五二fg)|北方 24Sf/12AF|P-38×8(内2不確実)撃墜 自爆flo×2 不時着flo×1(165°E 50°40′N)着陸時大破flo×1」</ref>。
25日以降ふたたび天候が悪化し<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.14(昭和18年5月25日記事)</ref>、その後は航空攻撃の機会を得られなかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=296}}。キスカ島の海軍守備隊(第五十一根拠地隊、司令官[[秋山勝三]]海軍少将)は、アッツ島守備隊激励のため水上機を1回だけ派遣したという{{Sfn|私記キスカ撤退|1988|p=39}}。

25日<ref>[[#S18.05経過概要(2)]]p.25(昭和18年5月31日記事)「前衛部隊(1sd司令官指揮兵力 1Sd長波 木曽、神風、沼風)ハ二十五日幌筵出撃三十日奇襲ノ機会ヲ窺ヒタルモ機ヲ得ズ幌筵帰着」</ref>{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=216|ps=五月二十五日(幌筵海峡)}}、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した{{Sfn|市川、キスカ|1983|pp=46-47}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=200}}。編成は以下の通り。

* 軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|p=60b|ps=木曽年表}}「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」{{Sfn|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990|pp=236b-237|ps=阿武隈年表}}
* 駆逐艦「[[長波 (駆逐艦)|長波]]」「[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]」「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]」「[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]」「[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]」「[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]」「[[沼風 (駆逐艦)|沼風]]」「[[神風 (2代神風型駆逐艦)|神風]]」

第五艦隊は米艦隊の包囲網を突破、駆逐艦2隻(神風、沼風)は5月28日{{Sfn|青春の棺|1979|p=169}}(陸軍部への通告では27日)にアッツ島へ到着し補給を行う予定であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=301}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]279頁<ref group="注">(昭和18年)五月二八日(金)小雨 戦況。○熱田島補給のd×2 今夕現地着の予定。(以下略)</ref>}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]279頁<ref group="注">(昭和18年)五月二九日(土)曇 一六三〇、軍令部総長拝謁。○アッツ島補給のd×2 其後の状況不明、天候不良にて難航?(以下略)</ref>}}。27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=302}}。

5月28日、第五艦隊参謀江本少佐(アッツ島)は「漸次急迫シツツアリ 本日ノ輸送ハ是非実行サレ度」と電報したが、第一水雷戦隊は既に作戦中止の意向であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=302}}。旧式駆逐艦の上に大量の物件を搭載していた第1駆逐隊(神風、沼風)は悪天候の中で航行困難となり、命令により幌筵に帰投した{{Sfn|青春の棺|1979|p=170}}。
5月29日朝、連合艦隊は機動部隊の出撃を取りやめた<ref group="注">○聯合艦隊電令作第五八〇号(機密第290926番電、昭和18年5月29日午前9時26分発)一 機動部隊ノ北太平洋作戦参加ヲ取止ム 同隊ハ約一ヶ月ノ予定ヲ以テ急速戦力ヲ練成スベシ/二 北方部隊及第二基地航空部隊(註、第十二航空艦隊)ハ現作戦ヲ実施シツツ陸軍ト共同機宜「ケ」号作戦ヲ開始スベシ/三 第十九潜水隊(伊号第一五六、伊号第一五七潜水艦)、伊号第一五五潜水艦ヲ北方部隊指揮官ノ作戦指揮下ニ入ル 北方部隊指揮官ハ右兵力ヲシテ約二十日間作戦行動後呉ニ帰投セシムベシ/四 六月五日附呂号第一〇四、呂号第一〇五潜水艦ヲ、六月十日附 第十駆逐隊ヲ各北方部隊ニ編入ス/五 六月十日附 第三戦隊、第七戦隊、第二航空戦隊(欠隼鷹)、第二十七駆逐隊、第十六駆逐隊(雪風)、谷風、濱風、日章丸ヲ前進部隊ニ編入。</ref>{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=303a-307|ps=機動部隊の出撃を取りやむ}}。
同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も30日0230「行動ヲ中止シ幌筵ニ帰投ス」を発令し、引き返した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=306}}。連合艦隊は第五艦隊に「潜水艦ヲ以テ熱田島残留者(報告者ノミニテモ可)収容ノ手段ヲ講ゼラレタシ」と下令した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=306}}。この命令により伊号第24潜水艦がアッツ島に向かったが収容に失敗し、同艦は6月11日に撃沈された{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=472b|ps=付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊24 18.6.11キスカ方面}}。江本少佐以下4名もアッツ島で死亡した(前述){{Sfn|私記キスカ撤退|1988|p=126}}。


== 分析 ==
== 分析 ==
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* 米軍が[[アムチトカ島]]へ進攻し、飛行場を建設してアッツ、キスカ両島へ空襲を行うようになっても何の施策も行わず、無為に過ごした。
* 米軍が[[アムチトカ島]]へ進攻し、飛行場を建設してアッツ、キスカ両島へ空襲を行うようになっても何の施策も行わず、無為に過ごした。


当時聨合艦隊の先任参謀であった[[黒島亀人]]大佐は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が{{読み仮名|逼迫|ひっぱく}}し軍令部からも注意があった等のためである」と回想している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=338}}。
当時聨合艦隊は4月18日[[海軍甲事件]]で[[山本五十六]]聯合艦隊司令長官や参謀複数が戦死、[[宇垣纏]]聯合艦隊参謀長も重傷を負い、新司令長官[[古賀峯一]]海軍大将は着任したばかり指揮系統が混乱してい{{Sfn|流氷の海|1994|p=272}}。[[黒島亀人]]大佐(当時、聯合艦隊先任参謀)は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が{{読み仮名|逼迫|ひっぱく}}し軍令部からも注意があった等のためである」と回想している{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=338}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=305}}。


聨合艦隊参謀長の[[宇垣纏]]は5月13日の時点で日記に以下のように書いている{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=348}}。
聨合艦隊参謀長の[[宇垣纏]]は5月13日の時点で日記に以下のように書いている{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=348}}。
{{Quotation|思ふに如何に優勢なる敵が来襲したりとも断じて寄せつけぬ準備出来て然る可きなり。今更これを確保したりとするも敵はカムチャッカ方面に飛行場を急速に整備するは必定にして、反之当方は何等飛行場を有せざることとなるは明かなり。夫れ故にガ島([[ガダルカナル島]]のこと)よりも戦況我に不利なり。斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり}}
{{Quotation|思ふに如何に優勢なる敵が来襲したりとも断じて寄せつけぬ準備出来て然る可きなり。今更これを確保したりとするも敵はカムチャッカ方面に飛行場を急速に整備するは必定にして、反之当方は何等飛行場を有せざることとなるは明かなり。夫れ故にガ島([[ガダルカナル島]]のこと)よりも戦況我に不利なり。斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり}}


アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊が[[い号作戦]]で消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。
アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊が[[い号作戦]]で消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。また日本軍機動部隊が出動しても機動部隊同士の艦隊決戦生起の公算が少ないと判断されたこと、北方の天候と母艦搭乗員の練度不足、米軍基地航空圏下での作戦になり[[レーダー]]の性能差もあって海上決戦に不利であることも要素であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=305}}


特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。
特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の[[田中新一]]少将が参謀本部第1部長室にて[[佐藤賢了]]軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて[[東條英機]]首相に対して罵倒事件([[バカヤロー発言]])を起こした結果辞任する事態になっていた。


1943年(昭和18年)5月28日の大本営陸海軍部合同研究会で、山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=552-553}}{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=302}}。
この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の[[田中新一]]少将が参謀本部第1部長室にて[[佐藤賢了]]軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて[[東條英機]]首相に対して罵倒事件([[バカヤロー発言]])を起こした結果辞任する事態になっていた。
{{Quotation|今内地には燃料は30万屯程度しか手持がない。然るに聨合艦隊が無為にしていても毎月四万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動二十数万屯は要るものと思はねばならぬ。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない。}}


この事情により日本海軍の空母機動部隊(一航戦〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、二航戦〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉)は1943年中盤までほとんど活動できなかった。
1943年5月末には山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=552-553}}。
{{Quotation|今内地に燃料は30万屯程度しか手持がない。然るに聨合艦隊が無為にしていても毎月四万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動二十数万屯は要るものと思はねばならぬ。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない。}}


海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあった。アッツ島上陸直前の5月8日、連合艦隊旗艦「武蔵」で大本営海軍部([[伊藤整一]]軍令部次長、[[山本親雄]]第一課長)を交えておこなわれた作戦研究で、連合艦隊は「艦隊決戦のためなら離島守備隊もあえて捨て石にする」と決定し、前線部隊も「至極当然のこと」と受け止めていた{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=170-173|ps=聯合艦隊等の作戦研究}}。大本営陸軍部も同意見であったが「果たして連合艦隊は出撃するのか、出撃しても成算はあるのか」と疑っていたという{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=173}}。アッツ島戦後、陸軍参謀総長[[杉山元]]及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=553}}。
この事情により翔鶴、瑞鶴などの空母機動部隊は1943年前半はほとんど活動できなかった。

海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあったという証言があり、陸軍参謀総長[[杉山元]]及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=553}}。


== 影響 ==
== 影響 ==
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さらにアッツ島での玉砕の報を聞いた時に[[東条英機]]首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いた<ref>幾山河―瀬島龍三回想録 1996/7</ref>。
さらにアッツ島での玉砕の報を聞いた時に[[東条英機]]首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いた<ref>幾山河―瀬島龍三回想録 1996/7</ref>。
昭和天皇の陸海軍に対する評価は以下のとおり{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=307}}。

{{Quotation|陸海軍ハ真ニ肚ヲ打チ明ケテ協同作戦ヲヤツテ居ルノカ、一方ガ元気ヨク要求シ、他方ガ成算モ無イノニ無責任ニ引キ受ケルト言フコトハナイカ、話合ヒノ出来タコトハ必ズ実行セヨ。見透シノツケ方ニ無理ガアツタ様ダ。今度ノ如キ戦況ノ出現ハ前カラ見透シガツイテ居タ筈、然ルニ十二日ノ上陸以来一週間カカッテ対応策ノ[[小田原評定]]ヲヤリ、ソノ結果トハ。}}


== 戦後 ==
== 戦後 ==
1950年にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=455}}。
1950年(昭和25年)8月にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された{{Sfn|戦史叢書21|1968|p=455}}{{Sfn|私記キスカ撤退|1988|p=123}}。
{{Quotation|「第二次世界大戦 1943年
{{Quotation|「第二次世界大戦 1943年


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第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。1950年8月」}}
第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。1950年8月」}}

1953年(昭和28年)には日本の慰霊団がアッツ島を訪問し、アメリカが建てた記念碑の近くに石碑を建立した{{Sfn|私記キスカ撤退|1988|p=123}}。
[[1968年]](昭和43年)7月29日、[[札幌護国神社]]において「アッツ島玉砕雄魂之碑」の除幕式と慰霊祭がおこなわれた{{Sfn|流氷の海|1994|p=487}}。除幕式には、防衛庁長官や北海道知事をはじめ、桶口(元北方軍司令官)や山崎隊長長男など関係者多数が参列した{{Sfn|流氷の海|1994|pp=496-498|ps=アッツ雄魂の碑}}。
1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘(Engineer Hill)に建てられた。
1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘(Engineer Hill)に建てられた。
[[ファイル:Attu peace monument.jpg|thumb|200px|北太平洋戦没者の碑]]
[[ファイル:Attu peace monument.jpg|thumb|200px|北太平洋戦没者の碑]]

[[2019年]][[5月29日]]、[[札幌市]]でアッツ島戦没者慰霊祭が行われ、「戦没者慰霊の会」が設立された<ref>{{Cite web |date=2019-05-30 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/310132 |title=アッツ島玉砕 戦没者悼む 札幌の遺族ら「慰霊の会」結成 |publisher=北海道新聞 |accessdate=2019-06-02}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{commonscat|Battle of Attu}}
<!-- 著者名五十音順 -->
<!-- 著者名五十音順 -->
*<!-- アガワ 1988 -->{{Cite book|和書|author=[[阿川弘之]]|coauthors=|date=1988-06|origyear=|chapter=|title=私記キスカ撤退|publisher=株式会社文藝春秋|series=文春文庫|isbn=4-16-714606-1|ref={{SfnRef|私記キスカ撤退|1988}}}}
*<!-- イケダ 2002 -->{{Cite book|和書|author=[[池田清 (政治学者)|池田清]]|coauthors=|date=2002-01|origyear=1986|chapter=|title=重巡摩耶 {{small|元乗組員が綴る栄光の軌跡}}|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901110-X|ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}}}}
*<!-- イチカワ 1983 -->{{Cite book|和書|author={{small|元「阿武隈」主計長 海軍主計少佐}}市川浩之助(アッツ島戦時の君川丸主計長)|coauthors=|date=1983-08|origyear=|chapter=I 北邊の護り|title=キスカ 〈日本海軍の栄光〉|publisher=コンパニオン出版|series=|isbn=|ref={{SfnRef|市川、キスカ|1983}}}}
*<!-- ウシジマ 1999 -->{{Cite book |和書 |author=[[牛島秀彦]] |year=1999 |title=アッツ島玉砕戦 われ凍土の下に埋もれ |publisher=[[潮書房光人社|光人社]] |series=光人社NF文庫 |isbn=4769822472 |ref=harv}}
*<!-- ウシジマ 1999 -->{{Cite book |和書 |author=[[牛島秀彦]] |year=1999 |title=アッツ島玉砕戦 われ凍土の下に埋もれ |publisher=[[潮書房光人社|光人社]] |series=光人社NF文庫 |isbn=4769822472 |ref=harv}}
*<!-- オカムラ1979 -->{{Cite book|和書|author=岡村治信|coauthors=|authorlink=|year=1979|month=12|title=青春の棺 {{small|生と死の航跡}}|chapter=第四章 暗黒の怒濤|publisher=光人社|ISBN=|ref={{SfnRef|青春の棺|1979}}}}(岡村は木曾主計長としてアッツ島の戦いに参加)
*<!-- オカモト2014 -->{{Cite book|和書|author=岡本孝太郎|authorlink=|year=2014|month=5|title=舞廠造機部の昭和史|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-14246-3|ref={{SfnRef|舞廠造機部|2014}} }}
*<!-- キマタ 1977 -->{{Cite book |和書 |author=[[木俣滋郎]] |year=1977 |title=日本空母戦史 |publisher=図書出版社 |ref=harv}}
*<!-- キマタ 1977 -->{{Cite book |和書 |author=[[木俣滋郎]] |year=1977 |title=日本空母戦史 |publisher=図書出版社 |ref=harv}}
*<!-- サガラ 1994 -->{{Cite book|和書|author=相良俊輔|coauthors=|date=1994-01|origyear=1973|chapter=|title=流氷の海 {{small|ある軍司令官の決断}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2033-X|ref={{SfnRef|流氷の海|1994}}}}
*<!-- ジョウ 1982 -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}}
*<!-- ジョウ 1982 -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}}
*<!-- ショウグチ 2012 -->{{Cite book|和書|author=将口泰浩|coauthors=|date=2012-08|origyear=2009|chapter=第六章 アッツ島玉砕|title=キスカ島奇跡の撤退 {{smaller|木村昌福中将の生涯}}|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4-10-138411-5|ref={{SfnRef|将口、キスカ|2012}}}}
*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=01|origyear=1956|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }}
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*<!-- テヅカ 2009 -->{{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2009|month=8|title=軍艦武藏 上巻|publisher=新潮文庫|isbn=9784101277714|ref={{SfnRef|武藏上|2009}}}}
*<!-- ニシジマ 1991 -->{{Cite book |和書 |author=西島照男 |year=1991 |title=アッツ島玉砕 十九日間の戦闘記録 |publisher=[[北海道新聞社]] |isbn=4893636162 |ref=harv}}
*<!-- ニシジマ 1991 -->{{Cite book |和書 |author=西島照男 |year=1991 |title=アッツ島玉砕 十九日間の戦闘記録 |publisher=[[北海道新聞社]] |isbn=4893636162 |ref=harv}}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=C・W・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|authorlink=|year=1962|month=12|origyear=|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} }}
*<!--ハラ2014-12-->{{Cite book|和書|author=[[原為一]]ほか|year=2014|month=12|title=軽巡二十五隻 {{small|駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1580-8|ref={{SfnRef|軽巡二十五隻|2014}}}}
**(52-61頁){{small|当時「木曽」艦長・海軍大佐}}川井巌『太平洋戦争最大の奇跡を演じた木曽の戦い {{small|球磨型五番艦の艦長が綴る第一水雷戦隊の霧の中の撤収作戦}}』
*<!-- ボウエイ 1968 -->{{Cite book |和書 |editor=[[防衛省|防衛庁]][[防衛研究所|防衛研修所]] 編 |year=1968 |title=北東方面陸軍作戦 |volume=1 (アッツの玉砕) |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]21 |ref={{SfnRef|戦史叢書21|1968}} }}
*<!-- ボウエイ 1968 -->{{Cite book |和書 |editor=[[防衛省|防衛庁]][[防衛研究所|防衛研修所]] 編 |year=1968 |title=北東方面陸軍作戦 |volume=1 (アッツの玉砕) |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]21 |ref={{SfnRef|戦史叢書21|1968}} }}
*<!-- ボウエイ 1969 -->{{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所 編 |year=1969 |title=北東方面海軍作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書29 |ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}} }}
*<!-- ボウエイ 1969 -->{{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所 編 |year=1969 |title=北東方面海軍作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書29 |ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}} }}
*<!-- ホウエイ 1970 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<4> {{small|―第三段作戦前期―}}|volume=第39巻|year=1970|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書39|1970}}}}
*<!-- ホウエイ 1974 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> {{small|―昭和18年2月まで―}}|volume=第77巻|year=1974|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書77|1974}}}}
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*<!--マル1989-5巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1989|month=11|title=写真 日本の軍艦 {{small|重巡 I}} 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達|volume=第5巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0455-5|ref={{SfnRef|写真日本の軍艦(5)重巡(I)|1989}}}}
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*<!--マル1990-8巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1990|month=3|title=写真 日本の軍艦 {{small|軽巡I}} 天龍型・球磨型・夕張・長良型|volume=第8巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0458-X|ref={{SfnRef|写真日本の軍艦(8)軽巡(I)|1990}}}}
*<!-- モリヤマ 2004 -->{{Cite book |和書 |author=太平洋戦争研究会 編 |author2=森山康平 |year=2004 |title=図説・玉砕の戦場 太平洋戦争の戦場 |publisher=[[河出書房新社]] |series=ふくろうの本 |isbn=4309760457 |ref={{SfnRef|玉砕の戦場|2004}} }}
*<!-- モリヤマ 2004 -->{{Cite book |和書 |author=太平洋戦争研究会 編 |author2=森山康平 |year=2004 |title=図説・玉砕の戦場 太平洋戦争の戦場 |publisher=[[河出書房新社]] |series=ふくろうの本 |isbn=4309760457 |ref={{SfnRef|玉砕の戦場|2004}} }}
*<!--ヤマモトチカオ1982-12 -->{{Cite book|和書|author=[[山本親雄]]|coauthors=|year=1982|month=12|origyear=|title=大本営海軍部|chapter=第4章 攻勢防御ならず|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|isbn=4-257-17021-2|ref={{SfnRef|大本営海軍部|1982}}}}
*<!--ヤマモトチカオ1982-12 -->{{Cite book|和書|author=[[山本親雄]]|coauthors=|year=1982|month=12|origyear=|title=大本営海軍部|chapter=第4章 攻勢防御ならず|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|isbn=4-257-17021-2|ref={{SfnRef|大本営海軍部|1982}}}}

* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120635700|title=昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)/18年5月1日~18年5月17日|ref=S18.05経過概要(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120635800|title=昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)/18年5月18日~18年5月31日|ref=S18.05経過概要(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030019100|title=昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(2)|ref=第五艦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030019200|title=昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(3)|ref=第五艦隊日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030019300|title=昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌 AL作戦(4)|ref=第五艦隊日誌(4)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[太宰治]] - アッツ島で戦死した知人をしのんだ作品『[[散華 (小説)|散華]]』を発表した。
* [[太宰治]] - アッツ島で戦死した知人をしのんだ作品『[[散華 (小説)|散華]]』を発表した。


== 外部リンク ==
{{commonscat|Battle of Attu}}
* [http://s-gokoku-jinja.sakura.ne.jp/ 札幌護国神社] - 公式サイト


{{太平洋戦争・詳細}}
{{太平洋戦争・詳細}}

2019年6月2日 (日) 07:22時点における版

アッツ島の戦い

アッツ島を守る日本軍の高射砲
戦争太平洋戦争
年月日1943年5月12日 - 5月29日
場所アッツ島アメリカ
結果:アメリカ軍の勝利
日本軍守備隊の玉砕
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
大日本帝国 山崎保代   アメリカ合衆国 トーマス・キンケイド
戦力
約2,650 約11,000
損害
潜水艦1喪失
戦死 2,638
生存 28
戦死 600
戦傷 1200
アリューシャン方面の戦い

アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年昭和18年)5月12日アメリカ軍アッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊5月29日玉砕した。

概要

アッツ島の戦いは、太平洋戦争におけるアリューシャン方面の戦いにともない1943年(昭和18年)5月中旬から下旬にかけてアッツ島でおこなわれた戦闘。アメリカ軍はアリューシャン列島の奪回を目指して、5月12日にアッツ島上陸を開始した[1]山崎保代陸軍大佐指揮下の日本陸軍がアッツ島(当時の日本側呼称は熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった[注 1][2]。 北方方面を担当する日本海軍第五艦隊も、アメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず[3]、またアッツ島への補給や救援に失敗した[4]。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された[5]連合艦隊は空母機動部隊[6]大和型戦艦を含む主力艦部隊[7]本州横須賀方面に集結させたが、反撃には出なかった[8][9]大本営は西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念[10]。5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した[11]。アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日玉砕した[12]。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

本記事では、アッツ島攻防戦に至る経緯、アッツ島地上戦闘の様相、日本軍が西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)放棄を決定するに至った経緯を記述する。

背景

連合軍が1942年(昭和17年)4月18日に敢行したB-25爆撃機による日本本土空襲は日本軍に大きな衝撃を与えた[13]ドーリットル空襲[14]。日本軍は同年5月下旬に実施されたミッドウェー作戦陽動作戦として、また北東方面からの連合軍空襲阻止を企図しアリューシャン群島西部要地の攻略または破壊を目的として、さらに米ソ連絡遮断を企図して[15]アリューシャン作戦を発動した[注 2][16]。 日本陸軍の北海支隊はアリューシャン列島アッツ島を、舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊はキスカ島を攻略することになった[17]。アッツ島は「熱田島」、キスカ島は「鳴神島」と改称された[18]大本営陸海軍部、連合艦隊(司令長官山本五十六海軍大将)、第五艦隊(司令長官細萱戊子郎海軍中将)の防衛方針は統一されておらず、アッツ島玉砕の原因は攻略計画立案時から内包されていた[16]。たとえば大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」「飛行場を造るつもりはない」と考えていたが、第五艦隊や日本陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていた[19]

この時期、アメリカ軍がアリューシャン方面に配備していた兵力は貧弱であった[20]。日本軍の暗号解読により攻勢を察知したアメリカ軍は、巡洋艦5隻・駆逐艦14隻・潜水艦6隻をアリューシャン方面に派遣した[21]。一方の日本軍は第五艦隊と第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母龍驤隼鷹)を基幹とする機動部隊と攻略部隊でアリューシャン方面に進撃する。6月7日、アッツ島攻略部隊(第一水雷戦隊〈阿武隈[22]若葉初霜初春〉、輸送船〈衣笠丸〉)は第7師団の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名を乗せてアッツ島に到達、同島に上陸して6月8日占領した[23][24]。キスカ島の守備は日本海軍の陸上部隊が、アッツ島の守備は北海支隊(支隊長穂積松年陸軍少佐)が行うことになった[24][25]。 6月23日、大本営は西部アリューシャン群島の長期確保を指示した[注 3][26]。 アメリカ軍はウムナック島の基地から大型爆撃機で空襲をおこない、また潜水艦を投入して日本軍に損害を与えた(7月5日の海戦など)[27][28]

8月8日、巡洋艦を基幹とするアメリカ艦隊はキスカ島に来襲し、艦砲射撃を敢行した[29]ガダルカナル島攻防戦の生起にともない大本営の関心はソロモン諸島に集中しており、大本営陸海軍部は特に検討することなく北海支隊のキスカ島移駐を命じた[注 4][30]。第五艦隊の協力下、穂積支隊はキスカ島への転進を完了した[30][31]。この時点で北海支隊は第五艦隊の指揮下に入った[30]。日本軍の防衛方針は、相変わらず統一されていなかった[32]

10月18日、日本軍はアメリカのラジオ放送からアムチトカ島が占領されたと判断し(実際は誤報であった)、急遽アッツ島の再占領を決定した[注 5][33]。 10月20日より、アッツ島の再占領がはじまる[注 6][34]。 24日、大陸命第七百八号と第七百九号により北海守備隊が新編され、第五艦隊司令長官の指揮下に入った[注 7][34]。北海守備隊司令官には峯木十一郎陸軍少将(陸士28期)が任命され、札幌の守備隊司令部に着任した[35]。 一方、占守島を守備していた米川浩陸軍中佐(陸士第31期)[36]が率いる北千島第89要塞歩兵隊の2,650名がアッツ島に配備される。米川部隊は第五艦隊の軽巡洋艦や駆逐艦に分乗してアッツ島へ移動、10月29日に上陸した[37][34]。 11月1日、大本営は各方面に陸海軍中央協定を指示する[38]。第五艦隊司令長官が北海守備隊を指揮すること[39]。キスカ島とセミチ島に陸上航空基地を、キスカ島とアッツ島に水上航空基地を建設すること[39]。陸上航空基地の建設は陸軍の担任であること[39]。急速輸送は海軍艦艇が、その他は陸軍輸送船が担任し「右陸軍輸送船(軍需品ヲ含ム)ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ本則トス」[39]。以上のような項目が定められた。

この方針により、西部アリューシャン列島の各島で飛行場の建設と陣地強化がはじまった[40]。鳴神地区隊(キスカ島)は北海守備隊司令官が担任し、熱田地区隊は北千島要塞歩兵隊長が担任する[41]。だが地形や補給の関係から飛行場の建設は遅々として進まず、キスカ島・アッツ島とも飛行場の完成前に米軍の反攻に晒されることになった[42]。また一年のほとんどが時化という気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。さらに絶え間ない空襲によるストレスや艦砲射撃の恐怖、補給不足による栄養失調が重なった[43]

11月25日、アッツ第二次輸送作戦(阿武隈[44]、木曾[45]、若葉)[46]が行われて成功したが、セミチ島攻略部隊は輸送船「ちえりぼん丸」がアッツ島で空襲をうけ擱座したため中止された[47]。各島への輸送と部隊配備は12月末までに終了する計画だったが、輸送船の被害や、水上戦闘機の進出が遅れたことが重なり、昭和18年3月末まで延期された[48]

1943年(昭和18年)初頭になるとアメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された[49][50]。また輸送船にも被害が続出した[51]。1月6日にはアッツ到着目前の「琴平丸」が空襲で沈没する[52]。同日、キスカ行の「もんとりーる丸」が空襲で沈没する[52]。1月24日、日本軍は米軍がアムチトカ島に進出したのを発見した[53]。2月になると、米軍はアムチトカ飛行場の使用を開始し、日本軍の水上戦闘機では対抗できなくなった[53]。アリューシャン方面の制空権は連合軍のものとなった[54]

大本営海軍部(軍令部)では一部で撤退意見があったものの、福留繁軍令部第一部長をはじめ大多数はアリューシャン列島の保持という方針を堅持した[55]。 同年2月5日、大本営は北部軍司令部を改変し、北方軍司令部(司令官樋口季一郎陸軍中将)を編成した[56][57]。この改変にともない、北海守備隊は第五艦隊司令長官の指揮下を離れ、北方軍の隷下に入った[58]。すなわち西部アリューシャンの防衛は、北方軍と第五艦隊、千島方面の防衛は北方軍と大湊警備府の担当となった[59]。アッツ島に陸上航空基地を建設することが決まり、飛行場完成は3月末を目標とした[60]。飛行場や防御施設の整備は進んでいなかったが、現地を視察した日本陸軍上層部は海軍に「キスカやアッツ島の陸海軍は仲良く協調し、糧食も十分、飛行場整備も大いに進捗、さして心配はいらぬ」と説明しており、後日のアッツ島上陸の報をうけた宇垣纏連合艦隊参謀長は「彼等(日本陸軍)の楽観説には誠に恐れ入るものあり」と評している[61]

2月11日、大本営陸軍部は北海守備隊(司令官峯木十一郎陸軍少将、キスカ在)の編成を改正し、キスカ島を担当する第一地区隊(歩兵三コ大隊、地区隊長佐藤政治陸軍大佐)と、アッツ島を担当する第二地区隊(歩兵一コ大隊、地区隊長は米川浩中佐から山崎保代陸軍大佐に交代)を区分した[62][63]。同時に人員・武器弾薬・物資の増援が計画されたが、海防艦「八丈」に護衛されていたアッツ行輸送船「あかがね丸」がアメリカ艦隊により撃沈された[54][64]。日本軍は戦略の転換をせまられ、第五艦隊の護衛による集団輸送方式に転換した[65]。 3月10日、第五艦隊と第一次増援輸送船団(君川丸[66]粟田丸、崎戸丸)がアッツ島に到着して輸送に成功した[67]。 続いて第二次増援輸送として第五艦隊と輸送船3隻(アッツ行/山崎大佐以下第二地区隊本部、砲兵大隊および高射砲大隊本部、増援一個中隊、野戦病院の一部と軍需品。キスカ行/北海守備隊司令部、未進出部隊ほか[68]。輸送船/淺香丸、崎戸丸、三興丸)[69]は北千島を出撃した。しかし3月27日にアメリカ水上艦隊と遭遇してアッツ島沖海戦(連合軍呼称はコマンドルスキー諸島海戦)[70]が生起し第五艦隊旗艦「那智」が小破[71]、第五艦隊は撤退して輸送作戦は中止された[72][73]。山崎保代大佐も上陸できなかった[67]。この海戦の後、第五艦隊司令長官は細萱中将から河瀬四郎海軍中将に交替した[68]。山崎大佐は4月18日に「伊31」潜水艦に便乗してアッツ島に到着した[注 8][74]。これ以降、アッツ島に対する水上艦の輸送は悪天候や米軍機の妨害により実施できず、潜水艦による輸送に限定された[75]

山崎保代大佐

アメリカ軍のアッツ島攻略部隊の全指揮はトーマス・C・キンケード海軍少将がとり、ロックウェル海軍少将とブラウン陸軍少将の上陸部隊を指揮する[76]。当初はキスカ島に上陸予定だったが、アメリカ軍の兵力不足、各島防備状況等を考慮し、統合参謀本部は上陸目標のアッツ島変更を承認した[77]。アッツ島への上陸作戦は5月7日と定められた[76]。アッツ島周辺は一年霧に覆われているが、この時機は濃霧期の直前であった[76][78]。米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった[79]。アメリカ海軍省は西部アリューシャンの奪回と時機を公表して宣伝しており、報道を知った日本軍は警戒を強めていた[80][81]。アメリカ艦隊は4月27日にアッツ島を砲撃し、5月9日には潜水艦で北海道幌別村(室蘭北東16km)[82]に砲撃を加えるなど、活発に行動していた[83]

軍令部第一課長山本親雄大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している[84]。4月11日に東京でおこなわれた中央関係者・北方軍・第五艦隊の懇談会で、北方軍は「米軍の反攻作戦は霧期前(4月~5月)におこなわれ、キスカ島への反攻は必至で間近い」と意見している[85]。第五艦隊は北方軍の主張するアッツ中心主義に同調したが、霧期前の強行輸送には同意しなかった[86]源田実大本営海軍部参謀は「海軍機の現地飛行場進出は7月中旬、それまでは水上戦闘機で対処。陸軍戦闘機の(アッツ、キスカ)進出は無理」と述べている[86]

経過

アッツ島地上戦

青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路

1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊が[78]アラスカのコールド湾を出港した。編成は以下の通り。

上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。

上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した[87]。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、海岸に橋頭堡を築くことに成功した[1]

アッツ島に上陸したアメリカ軍

日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。海軍部隊の指揮は、5月10日に伊31潜水艦でアッツ島に到着した第五艦隊参謀江本弘少佐がとった[2]。守備隊は電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った[88]

「全力を揮つて敵を撃摧げきさいすへし 隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」

アメリカ軍は戦艦部隊でアッツ島の日本軍守備隊に対し艦砲射撃をおこなったが、有効な損害を与えられなかった[1]。 地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。 2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。

一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという[89]。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。

険しい地形がアメリカ軍を阻んだ

各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。 16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。

ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が代わりの指揮を執った[90]

5月20日、大本営は北方軍に対しアッツ島への増援計画の中止を通告し、北方軍司令部は大きな衝撃を受けた[91]。5月21日、大本営陸軍部(参謀本部)の秦彦三郎参謀次長は自ら札幌の北方軍司令部を訪ね、北方軍司令官樋口季一郎陸軍中将にアッツ島増援中止に至った事情を説明した[92][93]。秦次長の帰京時の説明は以下のとおり[93]

“軍司令官以下克ク事情ヲ諒承シ「大命アリシ上ハ何モ申上グル事ナシ コノ上ハ大命ヲ遺憾ナク完遂スル以外ニナシ」 軍司令官モ「アッツ」ヲ攻略スルコトハ大ナル困難アリト考ヘテ居タ、ヨッテコノ大英断ヲトラレタ上ハ同感デアル 第七師団ニハ軍司令部ヨリモ少シク執着ガアル”

戦史叢書には樋口の回想が記載されている[94]

“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。 私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。”

21日、北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電した[95]。山崎隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した[96][97]。 23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った[98]

「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

命令電の中で、はじめて玉砕の言葉が使われた[99]。これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉(御嘉賞)が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという[100]

アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労をねぎらった後に最後の電報を東京大本営へ宛てて最後に打電した[101][102]

二十九日一四三五、海軍五一通信完了、一九三〇北海守備隊受領

「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(前線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり

二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす

三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり(以下略)」
北二区電第九二号(一八四〇、海軍五一通より通報) 「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」

当時のアッツ島の様子を伝える貴重な史料である辰口信夫曹長の日記もこの日が最後となっている。最後の突撃の直前、山崎部隊長はほとんどの書類を焼却したため、当時の様子を偲ばせる数少ない資料である[102]

“夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。

聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。

敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。”

第五艦隊の江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉は戦況報告のため最後の突撃から外され、アッツ湾東岬に移動して潜水艦による回収を待つことになった[103]。 熱田島守備隊は無線機を破壊した[104]。日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃であった[105]。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した[106]。日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている[107]。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している[108][109]

「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」
日本軍は雀ヶ丘(Engineer Hill)で全滅した

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった[110]。江本少佐の収容にむかった伊号第二十四潜水艦は6月上旬に幾度かアッツ島へ突入したが、連絡に失敗した[111]。その後、6月11日に哨戒機とパトロール艇により撃沈された[112]。江本少佐以下4名は、戦後になりアッツ島東海岸突端の洞窟内で遺体となって発見された[111]。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった[113]

大本営の対応

5月12日午前中、大本営海軍部では第一部(作戦)・第三部(情報)・特務班(通信諜報)関係者があつまり、太平洋方面の情況判断をおこなった[2]。大本営陸軍部では、北方軍作戦参謀安藤尚志陸軍大佐が、参謀次長秦彦三郎陸軍中将・作戦部長綾部橘樹陸軍少将・作戦課長服部卓四郎陸軍大佐と北部太平洋方面の情況と今後の作戦について検討していた[114]。同日午後、大本営陸海軍部はアメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、アッツ島確保の方針を打ち出した[76][115]。アッツ島への増援部隊は、第七師団(師団長鯉登行一陸軍中将)から抽出する予定であった[116]。 翌13日、陸海軍部はアッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していたが、連合艦隊は微妙な態度であった[117]。 5月14日、海軍部はアッツ島への緊急輸送につき「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」の具体的研究を進めた[118]。午後4時より行われた宮中大本営戦況交換会で、アッツ島守備隊は善戦しているが至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した[119]大型運貨筒の準備もはじまった[119](水上機母艦日進により5月28日~29日アッツ島着予定)[120]。日本陸軍の一部では、落下傘部隊と潜水艦によるアムチトカ島奇襲「テ」号作戦の研究がすすめられた[121]。落下傘部隊だけによる奇襲は「ヒ」号作戦と呼称された[122]

5月16日から17日にかけての大本営陸海軍合同研究会は、徐々に悲観的な空気に包まれていった[123]。旧式戦艦(扶桑山城)と第五艦隊各艦および落下傘部隊でアムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、もはや時機を逸しており成算も疑問視された[124]

5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を内定した[10][125]。当時の参謀次長秦彦三郎中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している[126]

翌19日、昭和天皇は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した[127]。大本営は北海守備隊を如何にして撤退させるかの検討に入った[128]。キスカ島については潜水艦を主力とし駆逐艦と巡洋艦を併用する方向であったが、アッツ島に関しては「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、「ボート」一隻モナシ、午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ(現地の日出0122、日没1652)。ココハ最後ハ玉砕ヤムナシト云フ案モアル。五月末集メ得ル潜水艦ハ全部デ十隻、海軍全部デ四〇席、ソノ三分之一ガ行動可能」であった[129]

5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した[130]。大本営陸海軍部は、中央協定を結ぶ[131]。アッツ島守備部隊は機会を見て潜水艦により撤退、キスカ島守備部隊は潜水艦・駆逐艦・輸送船による逐次撤退と定められた[注 11][132]。大本営陸軍部は20日付大陸命第793号と大陸指第1517号等の発令をもって、中央協定を示達した[93]。大本営海軍部はアッツ島守備隊について、一部だけでも潜水艦で収容する方針を示した[注 12][133]

5月28日午前中、大本営陸海軍部は宮中で戦況交換をおこなう[134]。午後、大本営陸海軍部と連合艦隊参謀があつまり、戦局全般の研究会が開かれた[134]。 5月30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し[135]、初めて「玉砕」の表現を使った。それまでフロリダ諸島の戦いなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また山本五十六元帥戦死公表の直後だったため(5月21日午後3時、大本営発表)[136]、日本国民に大きな衝撃を与えた[137]

大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した[138]が、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。この件に関し、北海守備隊の峯木司令官は東條英機陸軍大臣や富永恭次陸軍次官から「アッツの山崎大佐は何等救援の請求をしなかったが、司令官(峯木)が執拗に兵力増援をもとめたのはけしからん」として叱られたという[139]。またアッツ島海軍部隊を指揮していた第五艦隊参謀の江本弘少佐も、たびたびアッツ島への緊急輸送や増援の必要性を訴えている[11]

同年9月29日、アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた[140]

日本海軍の対応

アメリカ軍のアッツ島来攻時、日本海軍において北方方面を担任していたのは第五艦隊(司令長官河瀬四郎海軍中将)であり、第五艦隊司令長官は北方部隊指揮官を兼ねていた。当時の北方部隊の軍隊区分は、主隊(北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官直率:重巡摩耶、第二十一戦隊〈木曾、多摩〉)、支援部隊(妙高、羽黒)、水雷戦隊(第一水雷戦隊〈司令官森友一海軍少将:阿武隈、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊〉、長波、五月雨、響)、潜水部隊、航空部隊(第二十四航空戦隊司令官、第752航空隊、飛行艇隊)であった[141]。 従来、第五艦隊は重巡洋艦「那智」を旗艦としていたが、同艦はアッツ島沖海戦で損傷し内地へ帰投[142]横須賀海軍工廠で損傷修理とレーダー装備工事をおこなっていた[143][144]。「那智」は5月11日に横須賀を出発し、北方へ向け移動中であった(5月15日、幌筵着)[145]。那智不在の間、第五艦隊旗艦は軽巡洋艦「多摩」や重巡洋艦「摩耶[146]が務めた。 また第五艦隊隷下の第一水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦「阿武隈」であったが、アッツ島来攻時の同艦は舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなっていた[44][147]。「阿武隈」は急遽出渠し[148]、5月17日に舞鶴を出発、5月20日幌筵島片岡湾に到着した[149][44]。第五艦隊の主力艦として開戦時より北方で活動していた軽巡洋艦「多摩」も舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなっており、同艦も5月20日に舞鶴を出発、幌筵片岡湾着は22日であった[150]

日本海軍は北方部隊に複数の伊号潜水艦を配備して、哨戒や索敵任務のほかに、アッツ島やキスカ島への輸送に投入していた[注 14][151]

5月11日[152]水上機輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」[153][154]、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向け幌筵を出撃した[155]。米軍のアッツ島上陸の報告を受けてアッツ行を中止、偵察を試みたが悪天候により水上機を発進できなかった[156][157]。各艦の幌筵帰投は5月15日であった[153]

5月12日のアッツ島上陸をうけて、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「摩耶」に将旗を掲げ[158]、アメリカ艦隊攻撃のため幌筵を出撃した[159][160]。だが霧で視界が効かず、アメリカ艦隊と交戦することなく引き返した(5月15日、幌筵帰投)[161]。並行して、北方部隊指揮官はアリューシャン方面で輸送任務についていた潜水艦をアッツ島に向かわせた[3]。また連合艦隊は複数の潜水艦を北方部隊に編入した[注 15][162]。 北方部隊のうち、キスカ輸送を終えた2隻(伊31、伊34)は同島からアッツ島にむかった[162]。「伊35」は幌筵を出撃し、アッツ島にむかった[162]。 5月13日、「伊31」は米戦艦「ペンシルベニア」を雷撃したが命中せず[163](伊31は魚雷2本命中と報告)[164]、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された[5]。「伊34」[165](資料によっては伊34のほかに伊35も損傷と記述する)[166]も爆雷攻撃で損傷し、避退した[163][167]

アメリカ軍アッツ島上陸の速報により、連合艦隊は内地回航中の戦艦「大和」と空母2隻および巡洋艦部隊[168]から4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)を抽出して北方部隊に増強し、第二十四航空戦隊と第801海軍航空隊(飛行艇6機)も北方部隊に増強した[169]。つづいて内地所在の機動部隊や艦艇を関東地方に移動させ、北方情勢に備えた[169]。連合艦隊は、アッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと評価した[注 17][61](実際には護衛空母一隻)。

内地で修理や訓練を行っていた第一航空戦隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)[8][170]、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した[119]。北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である[171]

5月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将及び海軍甲事件で死亡した山本五十六大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「武蔵[136]と金剛型戦艦2隻(第三戦隊司令官栗田健男中将:金剛、榛名)、空母「飛鷹」(第二航空戦隊)、第八戦隊(利根筑摩)、駆逐艦5隻[注 18]はトラック泊地を出発、東京湾にむかった[172][173]

5月18日、大本営はアッツ島増援の中止を内定し、連合艦隊司令部は洋上でこの決定を知った[125]

5月22日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の艦隊は東京湾に到着し[172][174]、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した[175]。駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った[176]。また連合艦隊参謀長は宇垣纏中将から福留繁中将に交代した[172]。各艦隊司令部が集合して検討した結果、機動部隊の東洋湾出撃は29日を予定とし、北方全般の情勢をみて出撃するか否かの最終判断をくだすことになった[177]

幌筵では20日までに北方部隊(第五艦隊所属艦および臨時編入艦)[178]の各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた[179][180]。北方部隊は水上艦船・航空部隊・潜水部隊でアッツ島方面敵艦隊に奇襲をしかけると共に、第1駆逐隊(沼風、神風)によるアッツ島緊急輸送を計画していた[93][注 20]。 この時点での北方部隊は、重巡洋艦4隻(那智、摩耶、妙高[181]、羽黒[182])、軽巡洋艦3隻(木曾、多摩、阿武隈)、駆逐艦(響、五月雨、長波、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉、初春〉)[183][184]、水上機母艦「君川丸」、潜水艦部隊等によって編成されていた[185]

5月21日、大本営海軍部は大海指第247号により、アッツ島守備隊の収容に努力するよう第五艦隊に対し指示した[注 21][133]。だが第五艦隊の出撃は度々延期され[172]、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただすことになった[186]

北方部隊に編入された第二十四航空戦隊の第一部隊(第752航空隊)陸上攻撃機21機は、5月13日幌筵島に進出を完了したが、連日の悪天候に悩まされた[187]。海防艦「石垣」と「八丈」が気象観測や誘導のため配置された[188]。5月23日、天候が回復する[189]。第752航空隊の陸攻19機(指揮官野中五郎大尉)はアッツ島方面に対するはじめての航空攻撃を敢行し[172]、駆逐艦1隻撃沈等の戦果を報告した[190](未帰還機1)[191]。翌24日、野中隊長指揮下の陸攻17機はアッツ島に到達したが霧のため目標を視認できなかった[172]。邀撃してきたP-38双発戦闘機と交戦してP-38撃墜8(不確実2)を報じたが陸攻3機[190](ほかに着陸時大破1)をうしなった[192]。 25日以降ふたたび天候が悪化し[193]、その後は航空攻撃の機会を得られなかった[172]。キスカ島の海軍守備隊(第五十一根拠地隊、司令官秋山勝三海軍少将)は、アッツ島守備隊激励のため水上機を1回だけ派遣したという[194]

25日[195][196]、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した[197][86]。編成は以下の通り。

第五艦隊は米艦隊の包囲網を突破、駆逐艦2隻(神風、沼風)は5月28日[198](陸軍部への通告では27日)にアッツ島へ到着し補給を行う予定であった[199][200][201]。27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった[134]

5月28日、第五艦隊参謀江本少佐(アッツ島)は「漸次急迫シツツアリ 本日ノ輸送ハ是非実行サレ度」と電報したが、第一水雷戦隊は既に作戦中止の意向であった[134]。旧式駆逐艦の上に大量の物件を搭載していた第1駆逐隊(神風、沼風)は悪天候の中で航行困難となり、命令により幌筵に帰投した[202]。 5月29日朝、連合艦隊は機動部隊の出撃を取りやめた[注 25][9]。 同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も30日0230「行動ヲ中止シ幌筵ニ帰投ス」を発令し、引き返した[203]。連合艦隊は第五艦隊に「潜水艦ヲ以テ熱田島残留者(報告者ノミニテモ可)収容ノ手段ヲ講ゼラレタシ」と下令した[203]。この命令により伊号第24潜水艦がアッツ島に向かったが収容に失敗し、同艦は6月11日に撃沈された[112]。江本少佐以下4名もアッツ島で死亡した(前述)[204]

分析

戦史叢書ではアッツ島の守備隊が全滅した理由として以下の理由を挙げている。

  • アッツ島の占領目的が陸海軍で一致していなかった。
  • 離島防御への認識が不十分で、「守備兵がおれば確保が可能である」という程度のものだった。
  • 航空機に関して、アリューシャン方面の分担区分が明確でなかった。
  • 米軍の反攻に対する誤判断。
  • 米軍がアムチトカ島へ進攻し、飛行場を建設してアッツ、キスカ両島へ空襲を行うようになっても何の施策も行わず、無為に過ごした。

当時、聨合艦隊は4月18日の海軍甲事件山本五十六聯合艦隊司令長官や参謀複数が戦死、宇垣纏聯合艦隊参謀長も重傷を負い、新司令長官古賀峯一海軍大将は着任したばかりで指揮系統が混乱していた[205]黒島亀人大佐(当時、聯合艦隊先任参謀)は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が逼迫ひっぱくし軍令部からも注意があった等のためである」と回想している[206][207]

聨合艦隊参謀長の宇垣纏は5月13日の時点で日記に以下のように書いている[208]

思ふに如何に優勢なる敵が来襲したりとも断じて寄せつけぬ準備出来て然る可きなり。今更これを確保したりとするも敵はカムチャッカ方面に飛行場を急速に整備するは必定にして、反之当方は何等飛行場を有せざることとなるは明かなり。夫れ故にガ島(ガダルカナル島のこと)よりも戦況我に不利なり。斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり

アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊がい号作戦で消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。また日本軍機動部隊が出動しても機動部隊同士の艦隊決戦生起の公算が少ないと判断されたこと、北方の天候と母艦搭乗員の練度不足、米軍基地航空圏下での作戦になりレーダーの性能差もあって海上決戦に不利であることも要素であった[207]

特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の田中新一少将が参謀本部第1部長室にて佐藤賢了軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて東條英機首相に対して罵倒事件(バカヤロー発言)を起こした結果辞任する事態になっていた。

1943年(昭和18年)5月28日の大本営陸海軍部合同研究会で、山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している[209][134]

今内地には燃料は30万屯程度しか手持がない。然るに聨合艦隊が無為にしていても毎月四万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動二十数万屯は要るものと思はねばならぬ。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない。

この事情により日本海軍の空母機動部隊(一航戦〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、二航戦〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉)は1943年中盤までほとんど活動できなかった。

海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあった。アッツ島上陸直前の5月8日、連合艦隊旗艦「武蔵」で大本営海軍部(伊藤整一軍令部次長、山本親雄第一課長)を交えておこなわれた作戦研究で、連合艦隊は「艦隊決戦のためなら離島守備隊もあえて捨て石にする」と決定し、前線部隊も「至極当然のこと」と受け止めていた[210]。大本営陸軍部も同意見であったが「果たして連合艦隊は出撃するのか、出撃しても成算はあるのか」と疑っていたという[211]。アッツ島戦後、陸軍参謀総長杉山元及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している[212]

影響

アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した[213]

アリューシャン戦線のこのアッツ島の戦いにおいて、鹵獲した大型上陸用舟艇の大発動艇を使用するアメリカ軍

アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた(上述)。森山康平によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。

昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電された[214]

しかし、5月30日の陸軍少将眞田穣一郎(当時参謀本部第一部長、のち陸軍省軍務局長)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。眞田第一部長はこの上奏を起案した瀬島龍三の直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはずである。よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある。

また上記のエピソードの出典は瀬島龍三の回顧録である場合が多い。

さらにアッツ島での玉砕の報を聞いた時に東条英機首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いた[215]。 昭和天皇の陸海軍に対する評価は以下のとおり[216]

陸海軍ハ真ニ肚ヲ打チ明ケテ協同作戦ヲヤツテ居ルノカ、一方ガ元気ヨク要求シ、他方ガ成算モ無イノニ無責任ニ引キ受ケルト言フコトハナイカ、話合ヒノ出来タコトハ必ズ実行セヨ。見透シノツケ方ニ無理ガアツタ様ダ。今度ノ如キ戦況ノ出現ハ前カラ見透シガツイテ居タ筈、然ルニ十二日ノ上陸以来一週間カカッテ対応策ノ小田原評定ヲヤリ、ソノ結果トハ。

戦後

1950年(昭和25年)8月にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された[217][218]

「第二次世界大戦 1943年

日本の山崎陸軍大佐はこの地点の近くの戦闘によって戦死せられた。

山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。

場所 エンジニアヒル クレヴシー峠

第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。1950年8月」

1953年(昭和28年)には日本の慰霊団がアッツ島を訪問し、アメリカが建てた記念碑の近くに石碑を建立した[218]1968年(昭和43年)7月29日、札幌護国神社において「アッツ島玉砕雄魂之碑」の除幕式と慰霊祭がおこなわれた[219]。除幕式には、防衛庁長官や北海道知事をはじめ、桶口(元北方軍司令官)や山崎隊長長男など関係者多数が参列した[220]。 1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘(Engineer Hill)に建てられた。

北太平洋戦没者の碑

2019年5月29日札幌市でアッツ島戦没者慰霊祭が行われ、「戦没者慰霊の会」が設立された[221]

脚注

注釈

  1. ^ アッツ島守備隊。(一)陸軍部隊(北方軍北海守備隊第二地区隊)第二地区隊長山崎保代陸軍大佐 兵力:歩兵一コ大隊半、山砲一コ中隊(6門)、高射砲8門(12門とも)、計2500名、弾薬08会戦分、糧食は半定量として七月中旬まで。(二)海軍部隊 第五十一根拠地隊派遣隊(基地通信隊および電波探信儀設定班)計約100名。第五艦隊参謀(航海)江本弘海軍少佐。
  2. ^ 1942年(昭和17年)5月5日、大本営指示:アリューシャン作戦 「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵ノ機動並ニ航空進攻作戦ヲ困難ナラシム」
  3. ^ 1942年(昭和17年)6月23日、大海指第百六号:一 大海指第九十四号別冊第二「アリューシャン」群島作戦ニ関スル陸海軍中央協定中「アダック」ノ攻略確保ヲ取止メ「キスカ」及「アッツ」ハ確保スルコトニ改ム 聯合艦隊司令長官ハ所要ノ兵力ヲ以テ「キスカ」ヲ確保スルト共ニ陸軍ノ「アッツ」守備ニ協力スベシ/二 六月二十五日午前〇時ヲ以テ第五艦隊司令長官ノ陸軍北海支隊ニ対スル作戦ニ関スル指揮ヲ解ク 
  4. ^ ○大陸命第六七五号(昭和17年8月25日、抜粋)北海支隊長ハ「アッツ」島ヲ撤シ「キスカ」島ニ到リ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ルヘシ 指揮転移ノ時機ハ「アッツ島」出発ノ時トス/同日の大海指第百二十四号:一 第五艦隊司令長官ハ北海支隊「アッツ」島出発後作戦ニ関シ同隊ヲ指揮スベシ/二 第五艦隊司令長官ハ北海支隊ヲ以テ「キスカ」島ノ防衛ヲ強北スベシ 
  5. ^ 十月十八日敵ハ「アムスチッカ」島ヲ占領セルモノノ如シ 之ニ基キ差当リ「アッツ」占領ノ為北千島要塞守備隊ノ一大隊(二中隊欠)ヲ海軍艦艇ニ依リ派遣スル如ク処置ス 敵ノ「アムスチッカ」島占領ノ報ニ対シ山本中佐個人ノ意見 「アムスチッカ」ガ奪回出来ナケレバ根本的ニ此ノ方面ノコトヲ考ヘ直ス必要アルベシ。
  6. ^ ○大陸命第七百六号(昭和17年10月20日付)一 北部軍司令官ハ左記部隊ヲ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入レ速ニ「アッツ」島附近ノ要地ヲ占領確保セシムヘシ 北千島要塞歩兵隊主力/二 指揮転移ハ前項部隊ノ北千島出港ノ時トス/○大海指第百四十八号(昭和17年10月22日付)一 北千島ノ一要塞歩兵隊主力北千島出港以後作戦ニ関シ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ラシム/二 第五艦隊司令長官ハ右陸軍部隊ヲ「アッツ」島ニ進駐セシメ同島附近ノ防備ヲ強化シ之ヲ確保スベシ。
  7. ^ ○大海指第百五十三号(昭和17年10月27日付)一 十月二十四日北海守備隊ヲ編成セラレ作戦ニ関シ第五艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ラシメラル 指揮編入ノ時機ハ北海守備隊司令官内地出発ノ時機トス/二 第五艦隊司令長官ハ右北海守備隊ヲ以テ西部「アリューシャン」列島ノ要地ヲ占領確保スベシ。
  8. ^ 伊31号潜水艦は、4月15日幌筵出発、18日アッツ島に到着して山崎大佐上陸、同日発、21日幌筵帰投。
  9. ^ (昭和18年)五月一九日(水)半晴(略)午前、御召あり、御下問。アッツ島方面の天候、我(飛行機)の飛行しあるや否や。5Fは未だ幌筵にありや、出動せざるや。敵主力南下せる如しとせば、5Fは霧中奇襲しては如何。GFの増援部隊は、如何なる状態なりや。/一五三〇、両総長列立拝謁、明日午前、大本営臨御奏請。/戦況、アッツ島附近、S×3中、二隻は損傷及一隻は連絡なし。敵巡、夜はアッツ島附近に出没す。(以下略)
  10. ^ (昭和18年)五月二〇日(木)雨 当直
  11. ^ 5月21日、陸海軍中央協定(大海指第246号)「熱田島守備部隊ハ好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」「鳴神島守備部隊ハ成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ逐次撤収スルニ努ム 尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」
  12. ^ ○熱田島守備隊収容ニ関スル陸海軍部覚 昭和十八年五月二十日 大本營陸軍部 大本營海軍部 情勢ニ応ズル北太平洋方面作戦陸海軍中央協定中二ノ(三)項ハ左ノ義ト了解ス 熱田島守備隊ハ最後ノ時機ニ於テ其ノ一部ニテモ潜水艦ニ依リ収容スルニ務ムルモノトス。
  13. ^ (昭和18年)五月三〇日(日)半晴 一〇〇〇、参謀総長拝謁。アッツ島守備隊、前夜夜襲、玉砕奏上。一四二〇/二九以来通信杜絶。約二千(海軍約百名、江本参謀〔を含む〕)。一七〇〇、発表さる。守備隊長、山崎陸軍大佐、沈勇壮烈、皇軍の真価発揮。(近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつゝある観あり)。
  14. ^ 米軍のアッツ島進攻時、北方部隊に配備されていた潜水艦一覧。伊34伊35伊31伊168(5月7日先遣部隊に復帰して北方部隊潜水部隊からのぞかれる)、伊169(4月22日先遣部隊に復帰)、伊171(4月22日先遣部隊に復帰)、伊7
  15. ^ 5月12日、伊9伊21伊24を北方部隊に編入。連合艦隊電令作第563号により、第12潜水隊(伊169、伊171、伊175)と伊36を北方部隊に編入。
  16. ^ (昭和18年)五月一六日(日)雨、寒し 戦況。アッツ陸上、北海湾西浦方面の敵艦隊及敵火器により、相当苦戦。当方のS-34〔伊号第三四潜水艦〕は爆雷攻撃により損害、一時避退。
  17. ^ ○連合艦隊機密第122325番電 敵情判断 一 北方方面(イ)敵ハ先ヅ熱田島ヲ攻略鳴神ノ輸送船隊補給ヲ断チ之ガ攻略ヲ企図スベシ/(ロ)敵ノ有力ナル機動部隊(空母三隻乃至四隻、主力艦二隻、巡洋艦数隻、駆逐艦十数隻)ハ「ミッドウェー」北方海面ニ在リテ「アリューシャン」攻略作戦ヲ支援スルト共ニ本土ノ奇襲ヲ策シ当分ノ間同方面ヲ行動スベシ(第一水雷戦隊や第二水雷戦隊の受信では スルト共ニ我艦隊ノ奇襲ヲ策シ )/(ハ)敵潜水艦ハ本州東方海面及千島列島方面ヲ哨戒中ナリ(以下略)
  18. ^ 第四水雷戦隊・第27駆逐隊(時雨、有明)、第二水雷戦隊・第24駆逐隊(海風)、第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月)
  19. ^ (昭和18年)五月二二日(土)晴(略)機動部隊及「武蔵」東京湾着
  20. ^ #S18.05経過概要(2)p.8(昭和18年5月21日記事)「HPB幌筵出撃熱田島周辺ノ敵艦奇襲並ニdニ依ル緊急補給実施 主隊 支援隊 掃蕩隊ハX日(二十一日ノ予定)幌筵出撃 X十二日0000A点(167°E 153°6N)ニテ洋上待機 Y日(X十二日ノ見込ナルモ霧ノ状況ニ依リ順延)日没後一時間後北海湾ニ達スル如ク行動ス 輸送隊ハ主隊ニ随伴特令ニ依リ熱田湾口ニ突入急速揚陸離脱 君川丸ハY日以後(飛行機)発進熱田又ハ鳴神ニ空輸ス|北方 HPB|水上部隊ハ成ルベク速ニ(飛行機)及(潜水艦)ニ策応霧ヲ利用熱田島方面艦隊ヲ奇襲撃滅シ此ノ間1sdニ依リ緊急輸送ヲ行フ 主隊 那智摩耶木曽 支援隊 5S五月雨長波 掃蕩隊 阿武隈若葉初霜 輸送隊 1dg(神風、沼風) 水上機部隊 君川丸(観測機8)」
  21. ^ ○大海指第二四七号 昭和十八年五月二十一日 軍令部総長 永野修身 古賀聯合艦隊司令長官 河瀬第五艦隊司令長官}ニ指示 大海指第二四六号別冊「情勢ニ応ズル北太平洋方面作戦陸海軍中央協定」中二ノ(三)項ノ作戦ハ左ニ依リ実施スベシ  熱田島守備隊ハ最後ノ時機ニ於テ其ノ一部ニテモ潜水艦ニ依リ収容スルニ務ムルモノトス。
  22. ^ (昭和18年)五月二四日(月)曇、午後雨(略)5F、出撃取止めし理由、中村武官に御下問。天候、梅雨になりしやの御下問あり。低気圧は梅雨の如き配置なるも、北方の高気圧発達せず、まだ梅雨にならぬ由、上聞。
  23. ^ (昭和18年)五月二八日(金)小雨 戦況。○熱田島補給のd×2 今夕現地着の予定。(以下略)
  24. ^ (昭和18年)五月二九日(土)曇 一六三〇、軍令部総長拝謁。○アッツ島補給のd×2 其後の状況不明、天候不良にて難航?(以下略)
  25. ^ ○聯合艦隊電令作第五八〇号(機密第290926番電、昭和18年5月29日午前9時26分発)一 機動部隊ノ北太平洋作戦参加ヲ取止ム 同隊ハ約一ヶ月ノ予定ヲ以テ急速戦力ヲ練成スベシ/二 北方部隊及第二基地航空部隊(註、第十二航空艦隊)ハ現作戦ヲ実施シツツ陸軍ト共同機宜「ケ」号作戦ヲ開始スベシ/三 第十九潜水隊(伊号第一五六、伊号第一五七潜水艦)、伊号第一五五潜水艦ヲ北方部隊指揮官ノ作戦指揮下ニ入ル 北方部隊指揮官ハ右兵力ヲシテ約二十日間作戦行動後呉ニ帰投セシムベシ/四 六月五日附呂号第一〇四、呂号第一〇五潜水艦ヲ、六月十日附 第十駆逐隊ヲ各北方部隊ニ編入ス/五 六月十日附 第三戦隊、第七戦隊、第二航空戦隊(欠隼鷹)、第二十七駆逐隊、第十六駆逐隊(雪風)、谷風、濱風、日章丸ヲ前進部隊ニ編入。

出典

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関連項目

  • 辰口信夫 - 日本軍の軍医であり戦闘を記録した日記が残されている。
  • 藤田嗣治 - 日本軍の要請により、戦争画『アッツ島玉砕』を描いた。絵の前には賽銭箱が設えられ、賽銭が入るたび藤田はかしこまり頭を下げたという(野見山暁治 「戦争画とその後」『四百字のデッサン』 河出書房新社、1978年)
  • 太宰治 - アッツ島で戦死した知人をしのんだ作品『散華』を発表した。

外部リンク