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「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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|埋葬日 ={{RUS1883}}、[[サンクトペテルブルク]]、[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトロパヴロフスキー大聖堂]]
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[File:Carolus Petrus Ulricus Princeps Holsatia.jpg|left|150px|thumb|幼少期のカール・ペーター・ウルリヒ]]
[[File:Elizabeth of Russia by L.Caravaque (1750, GRM).jpg|right|thumb|ロシア女帝エリザヴェータ(1750年、[[ルイ・カラヴァク]]作)]]
1728年2月21日、ドイツの[[キール (ドイツ)|キール]]で、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|ホルシュタイン=ゴットルプ]][[シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧|公]][[カール・フリードリヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]]と、[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]の長女[[アンナ・ペトロヴナ]]の間に生まれた<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Peter III.}}</ref>。父方の曽祖父はスウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]、父の従弟にスウェーデン王[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]がいる。母アンナはペーターを産んで間もなく[[産褥]]で死去した<ref>生まれたばかりのペーターが洗礼を受けた数日後、城の前で祝賀の花火が上げられたが、その際火薬箱に火が回り大勢の死傷者が出た。ペーターの不吉な前兆だと言う者がいたが、すぐに大きな不幸が訪れた。侍女たちが「体に障る」と引き止めたにもかかわらず、母・アンナは「私達ロシア人はあなた方のように甘やかされていない」と笑い、非常に冷たい風の吹き付ける開け放った窓辺に立ち、花火と灯火を見ていた。そして風邪を引き高熱を出して10日後に亡くなった。夏、ペテルブルクから迎えに来た帆船に乗せられ、アンナの遺体は故国に帰って行った。(アレクサンドル・ミリニコフ著「ピョートル3世」よりヤコブ・シュテリンの回想録)</ref>。

母のいないペーターは幼少時代をホルシュタイン公の城で将兵達に囲まれて過ごした。生まれた時からスウェーデンの王位継承の有力な候補と考えられていたため、スウェーデン語を教えられ、[[ルーテル教会]]の信仰の中で育てられた。7歳から周囲の将兵らによって[[軍事学]]を教えられ、軍隊式の行進や射撃を習い、[[観兵式]]の参観も許された。ペーターは分列行進を特に喜んで見ていたという<ref>勉強中に窓の外を少人数の兵士たちが行進すると、少年は本とペンを放り出し、窓の方に走って行った。兵士たちの行進が続く限り、彼を窓から引き離すことは不可能だった。(アレクサンドル・ミリニコフ著「ピョートル3世」よりヤコブ・シュテリンの回想録)</ref>。しかしペーターが11歳の時に父親が死去、孤児となった彼は公位を継ぎ、リューベック司教アドルフ・フレドリクの元に引き取られた。だがペーターはそこで『軍人としては有能だが、教育者としては無能』のオットー・ブリュメル元帥による厳しい体罰(殴打、鞭打ち、食事を与えない、ロバの耳を付けて硬いエンドウ豆を撒いた床に30分以上跪かせる等)を伴う非常に厳格で愛情に欠ける教育を受ける事になる。ペーターにとって恐ろしさよりも廷臣たちの前でこれらの罰が行われた事が大変な屈辱であったというが、元々心身ともに虚弱で神経質な少年だった彼は、これによって精神の健全な発育を阻害され、後世に[[気分循環性障害]]と分析される性質が形作られたとされる。廷臣たちは元帥が『馬小屋の馬と同じ方法で公子を育てていた』と非難した<ref name=pokrov>{{cite web|url=https://pokrov.pro/carskaya-usypalnica/|title=Царская усыпальница|publisher=ПОКРОВ|accessdate=2019-01-21}}</ref>。こうしてペーターは学問を嫌悪するようになったと言われる。体系化された教育を受けられなかった彼は13歳になってもフランス語を少し話せるのみで、特に[[ラテン語]]を嫌い、後にロシア皇帝になった時自分の図書館にラテン語の本を置くことを禁じたという逸話もある<ref>{{cite web|url=http://rushist.com/index.php/russia/213-petr-iii|title=Петр III Федорович|publisher=Русская историческая библиотека|accessdate=2019-01-16}}</ref>。しかし最近(1990年代後半以降)の研究は帝政時代の歴史家[[ヴァシリー・クリュチェフスキー]]、{{仮リンク|セルゲイ・ソロヴィヨフ|ru|Соловьёв, Сергей Михайлович}}以来のこうした『ピョートル3世神話』を否定する方向にある。ペーターはキール大学の学長から英才教育を受けており、実際は語学も堪能であったという。[[:ru:Ораниенбаум (дворцово-парковый ансамбль)#Картинный дом|カルチンヌイ・ドーム]](ロシア・[[ロモノーソフ]])の彼の図書目録は[[ロシア国立図書館 (サンクトペテルブルク)|ロシア国立図書館]]に現存し、キールから持ち込まれた図書を含む1,000冊以上の目録の中にはラテン語を始め多くの外国語の書籍が登録されている。当時は翻訳本が少なく、彼は原語の本を読んでいたのだ<ref name=13ошибок>{{cite web|url=https://snob.ru/selected/entry/77298|title=Царь Петр III, или 13 ошибок историка Ключевского. Часть1|date=2014-06-13|publisher=Сноб|accessdate=2019-02-02}}</ref>。

ペーターはまた絵画とイタリアの音楽を好み、ヴァイオリンの演奏に時間を忘れて熱中した。ドイツでは子供の音楽教育にはオルガンが使われる事が常だったが、ペーターは難しいヴァイオリンを選んだ。5歳の時に猟場の番人が弾くヴァイオリンを偶然聞いて以来、彼はヴァイオリニストになりたがっていた<ref name=inna>{{cite web|url=https://innadocenko.livejournal.com/13683.html|title=Император Петр III|date=2015-06-03|publisher=livejournal|accessdate=2019-01-21}}</ref>。本職の楽団に入れる程の腕前だったという。

1741年12月、叔母の[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]がクーデターでロシア女帝の位につくと、未婚で子供の無い彼女はすぐにペーターを養子にし、後継者に指名した。ロシア帝国の開祖・ピョートル大帝の血を引く男子はペーターただ1人だったからである。ところがペーターは母親がロシア皇女だったにも拘らず、幼い頃から受けていたスウェーデン王位継承者としての愛国教育で、スウェーデンの長年の敵対国ロシアへの敵愾心を涵養していた<ref name=vidania>{{cite web|url=http://www.vidania.ru/personnel/petr_3_fedorovich.html|title=Петр III Федорович|date=2017-11-01|publisher=vidania.ru|accessdate=2019-01-14}}</ref>。

=== ロシア皇太子として===
[[File:Зимний дворец Петра I - фрагмент Махаева.jpg|thumb|right|ピョートルが来た当時の[[冬宮殿]]。木造だったが、1754年から現行の冬宮殿の建設が始まる。絵画は[[エルミタージュ美術館]]所蔵。]]
[[File:Summer Palace St Petersburg.jpeg|thumb|right|エリザヴェータ女帝の{{仮リンク|エリザヴェータの夏の宮殿|ru|Летний дворец Елизаветы Петровны|en|Summer Palace (Rastrelli)|label=夏の宮殿}}(1756年)。モイカ運河畔に建てられていた。]]
[[File:Equestrian portrait of Peter III by Grooth (1742-44 (?), Russian museum).jpg|right|thumb|ロシアに来た頃のピョートル(1742~44年?、{{仮リンク|ゲオルク・クリストフ・グロート|de|Georg Christoph Grooth}}作)]]
1742年2月5日、13歳のペーターは[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]に連れて来られた。

周囲は初めて見るピョートル大帝の孫に興味津々だったが、エリザヴェータはペーターの貧弱な体と不健康そうな顔色に驚いた。その際、エリザヴェータが「おお神よ、何という無知な子なのだ」と嘆いたというが、この「невежество」という言葉は古くは「無作法」を意味し、決して「知能が劣る」という意味ではない。同月、エリザヴェータの戴冠式のために共に[[モスクワ]]<ref>ロマノフ王朝の戴冠式は初代[[ミハイル・ロマノフ]]以来モスクワの[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー大聖堂]]で行われるのが慣例。</ref>に赴き、5月6日の式では女帝の傍らに特別に設けられた場所に立った。ついで11月18日に[[正教]]に改宗し、'''ピョートル・フョードロヴィチ大公'''を名乗った。
しかし皇太子となり名を変えたところで、ロシアは彼にとって完全に異国であった。祖父がピョートル大帝である事以外は価値が無いかのような周囲の視線は彼の自尊心を傷つけるものだった。そんな中、ペテルブルクの[[ネフスキー大通り]]には[[ハンザ同盟]]の事務所と[[ルーテル聖ペテロ教会]]があり、ドイツ人経営の店も2ヶ所あった。14歳になった少年はその数少ない場所で故郷の言葉を聞き、不安を紛らわせていたらしい<ref name=reading>{{cite web|url=http://www.e-reading.club/chapter.php/1022984/12/Grigoryan_-_Carskie_sudby.html|title=Петр III|publisher=e-reading.club|accessdate=2019-01-21}}</ref> 。

ピョートルはロシアでも良い教育を受けられなかったとされる。女帝エリザヴェータの母親・[[エカチェリーナ1世]]は[[リヴォニア]]の農民出身で酒を好み、生涯文盲であったと言われる。その娘であるエリザヴェータは優しく気の良い女性であったが、反面激しやすく、些細なことで廷臣や召使い達を口汚く罵ったという。また、ダンスに長じ、旅行、観劇、仮装舞踏会に明け暮れ、聖書以外の本を読んだことがなく、大国の元首でありながら地理にも疎く、ロシアからイギリスまで地続きで行けるものと生涯信じていた程である<ref name=悲運の王家>新人物往来社"皇女アナスタシアとロマノフ王朝-数奇な運命を辿った悲運の王家-"p103-p104</ref>。ピョートルは皇太子として女帝の仮装舞踏会や長期の旅行に付き合わされる事になった。こうした勤勉とは程遠い享楽的な環境が思春期のピョートルに影響を与え、養育係・{{仮リンク|ヤコブ・シュテリン|ru|Штелин, Якоб}}が不安視した怠惰と虚栄心、動物への虐待といった生来の幼児性を増幅させていったとされる<ref name=russiapedia>{{cite web|url=http://www.vidania.ru/personnel/petr_3_fedorovich.html|title=Prominent Russians: Peter III|date=2017-11-01|publisher=Russiapedia|accessdate=2019-01-14}}</ref> 。彼はロシア語を覚えようとせずドイツ語で話し、正教会の儀式やロシア人の信仰心を公然と嘲笑した。教会での祈祷中に聖職者の真似をするという非常に無礼な振舞いをすることもあった<ref name=artmuseum>{{cite web|url=http://www.artmuseum.by/ru/vyst/virt/imperator-petr-iii/|title=Император Петр III |publisher=Национальный художественный музей Республики Беларусь|accessdate=2019-01-14}}</ref>。ピョートルはロシアの皇位継承者でありながら、ロシア人やロシア的なものを軽蔑していたのである。特に嫌ったのはロシア式サウナ・[[バーニャ]]であった。

一方でホルシュタイン=ゴットルプ公でもあった彼は、プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]に心酔しており、彼のミニチュアの肖像の指輪を嵌め、廷臣たちの前で胸像に恭しく接吻したり、肖像画の前で跪いたりした。当然、反プロイセン政策をとるエリザヴェータとしばしば衝突した。歴史家クリュチェフスキーによると、ピョートルは『本物の勇敢なプロイセン戦士』になるために連日酒宴を開いて大酒を飲み<ref>[[痔]]を患った原因とも言われる。家庭教師による授業中も長く椅子に座っている事が困難で、室内を歩き回ったという。しかし彼の飲酒についてはエカチェリーナ以外は誰も触れておらず、ピョートルはむしろ酒を飲まなかったのではないかという研究者もいる。</ref>、夕方まで素面でいることは少なく<ref name=悲運の王家/>、エリザヴェータは彼を後継者に選んだ事を早々に後悔したが、姉の忘れ形見である彼の行動を大目に見ていたという<ref name=vidania/>。

皇太子ピョートルの『奇行』の数々は、これまで専門家の間でも定説として長く語られ続けていた。しかしそれは「怠惰で知能が低い」「[[:ru:Русофобия|ルソフォビア]]([[反露]])」と印象付けるためのクーデター側による[[プロパガンダ]]である可能性が高いと、{{仮リンク|アレクサンドル・ミリニコフ|ru|Мыльников, Александр Сергеевич}}以降多くの研究者が指摘している。
上述の彼が10代で既に[[アルコール依存症]]だったという話も、彼を『惨めな酔っ払いのホルシュタイン兵士』と嘲っていた[[エカチェリーナ2世]]による作話だと考えられている<ref>エカチェリーナは1753年11月1日、モスクワのゴロヴィンスキー宮殿(現{{仮リンク|エカテリーナ宮殿 (モスクワ)|ru|Екатерининский дворец (Москва)|en|Catherine Palace (Moscow)|label=エカテリーナ宮殿}})で火災が起きた際、ピョートルの寝室から運び出された家具の中はワインで一杯だったという話を自叙伝に記しているが、これも恐らく作話であろう。11月のモスクワでは室内に保存されたワインは凍るのである。ワインは地下のワインセラーで温度管理される事をエカチェリーナは知らなかったと思われる。</ref>。ピョートルの最も身近で彼を良く知っていた養育係シュテリン(1785年没)は回顧録を残す際、保身に走り真実を著さなかったのである<ref>{{cite web|url=https://histrf.ru/lyuboznatelnim/history-delusions/b/pietr-iii-byl-poloumnym|title=Петр ΙΙΙ был полоумным|date=2014-09-07|publisher=История России|accessdate=2019-02-11}}</ref>。

=== 結婚 ===
[[ファイル:Peter III and Catherine II by Grooth (copy in Odessa).jpg|right|thumb|ピョートルとエカチェリーナ、{{仮リンク|ゲオルク・クリストフ・グロート|de|Georg Christoph Grooth}}作、1745年頃。]]
[[ファイル:Peter III and Catherine II by Grooth (copy in Odessa).jpg|right|thumb|ピョートルとエカチェリーナ、{{仮リンク|ゲオルク・クリストフ・グロート|de|Georg Christoph Grooth}}作、1745年頃。]]
[[File:Ораниенбаум. Дворец Петра Федоровича. Вид с северо-востока.jpg|thumb|right|結婚の際に与えられたオラニエンバウムの宮殿。この後2年をかけて修復され、現在では往時の美しさを取り戻している<ref name=Дворец>{{cite web|url=https://peterhofmuseum.ru/news/2018/862|title=Дворец Петра III открылся после реставрации|publisher=ГМЗ «Петергоф»|date=2018-05-24|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>{{cite web|url=https://karpovka.com/2018/05/30/362500/|title=Дом при крепости: в Ораниенбауме отреставрировали дворец Петра III||date=2018-05-30|publisher=карповка|accessdate=2019-01-30}}</ref>。]]
1728年2月21日、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|ホルシュタイン=ゴットルプ]][[シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧|公]][[カール・フリードリヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]]と、[[ピョートル1世]]の長女[[アンナ・ペトロヴナ]]の間でで生まれた<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Peter III.}}</ref>。父の従弟にスウェーデン王[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]がいる。幼くして両親を失い、1739年に公位を継承した。1741年12月、未婚で子供の無い叔母のロシア女帝[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]がロシア女帝の位を確保すると、彼女はすぐにカール・ペーター・ウルリヒを養子にした<ref name="EB1911" />。カール・ペーター・ウルリヒは1742年11月18日に[[正教]]に改宗し、ピョートル・フョードロヴィチを名乗った<ref name="EB1911" />。1745年8月21日、エリザヴェータの指示で父方の又従妹[[エカチェリーナ2世|ゾフィー・アウグスタ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプスト]]と結婚<ref name="EB1911" />、彼女は改宗してエカチェリーナ・アレクセーエヴナと名乗った<ref name="EB1911" />。2人は5年後にはお互いの興味も気性も受け入れられないことがわかったが、ピョートルは皇帝に即位した直後にもエカチェリーナの債務を理由も聞かずに支払い、4月のエカチェリーナの誕生日には毎年1万ポンドの収入相当の領地を与えた<ref name="EB1911" />。ピョートルは[[ミハイル・ヴォロンツォフ]]伯爵の姪{{仮リンク|エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ|ru|Воронцова, Елизавета Романовна|en|Elizaveta Vorontsova}}を愛人としたが、エカチェリーナも[[グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ]]を愛人とした<ref name="EB1911" />。
[[File:Peter III's letter (1746) 02.jpg|thumb|right|結婚から半年後、ピョートルがエカチェリーナに送った手紙(フランス語)。妻に拒絶されている様子が伺え、ピョートル側の事情で結婚後何年も夫婦関係は無かったとするエカチェリーナの主張を覆す証拠である。]]
[[File:Elizaveta Vorontsova by A.Antropov (GIM, 1762).jpg|right|thumb|ピョートルの愛人・エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ(1762年、{{仮リンク|アレクセイ・アントロポフ|en|Aleksey Antropov}}作)。ピョートル同様に天然痘の痘痕は描かれておらず、美化された肖像画である。]]
1744年7月9日、16歳になったピョートルはエリザヴェータの指示で父方の又従妹[[エカチェリーナ2世|ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプスト]]と婚約、彼女は改宗して'''エカチェリーナ・アレクセーエヴナ'''と名乗った。しかしその年の秋、ピョートルは[[胸膜炎]]を患い、続いて[[水痘]]、そして[[天然痘]]に罹った。ピョートルは隔離され、回復して宮殿に戻ったのは翌年2月末だったが、その姿はやつれ、変わり果てていた。顔に酷い痘瘡が残り、髪は抜け落ち、宮廷の女性の中には彼を見て気を失う者もいたという<ref>{{cite web|url=http://www.ropshapalace.info/publ/knigi/viktor_monja_ropsha/imperator_petr_iii_i_ekaterina_alekseevna/10-1-0-93|title=Император Петр III и Екатерина Алексеевна.|date=2011-10-29|publisher=Три века Ропшинской усадьбы|accessdate=2019-01-28}}</ref>。ピョートルは自分の容貌に強いコンプレックスを抱いた。数多く残る彼の肖像画に痘痕は描かれていない。

1745年8月21日、ピョートルはエカチェリーナと結婚した。しかし2人の間にはドイツ語で話せる以外何の共通点も無く、お互いの興味も気性も受け入れられない事が判るのにさほど時間を要しなかった。エカチェリーナは驚異的な頭脳の持ち主であり、ロシア語、ロシア正教、ロシアの風俗・慣習などを人一倍熱心に学び、意識してロシア人のように振舞い、ロシアに溶け込もうとした。一方、ピョートルの養育係ヤコブ・シュテリンはこの結婚を期に退職した<ref name=s.petersburg.com>{{cite web|url=http://www.saint-petersburg.com/royal-family/peter-iii/|title=Peter III|publisher=SAINT-PETERSBURG.COM|accessdate=2019-01-15}}</ref>。シュテリンはその後もピョートルと親しく交流し、彼の治世最後の日を記録に残している<ref>{{cite web|url=http://elcocheingles.com/Memories/Texts/Perevorot/Schtelin/Schtelin.htm|title=Штелин. Записка о последних днях царствования Петра III|publisher=Российский мемуарий|accessdate=2019-02-11}}</ref>。

ピョートルは結婚祝いとして[[ロモノーソフ|オラニエンバウム]]に[[:ru:Дворец Петра III|宮殿]]を与えられたが、彼はそこにホルシュタイン軍の分隊を呼び、[[プロイセン王国|プロイセン]]の軍服を着せて守備隊とした。駐屯している兵士の数はやがて1,500名にも上り、ピョートルは彼らにプロイセン式の軍事教練を施した。彼は幼い頃からプロフェッショナルの軍事司令官としての教育を受けており、後にエリザヴェータから[[:ru:Первый кадетский корпус (Санкт-Петербург)|第一士官学校]]の理事長に任命されている。

ピョートルの「神話」は数多いが、中でも軍事に関するエピソードは特によく知られている。彼は銃弾が飛び交う本物の戦場はもとより、射撃の音や大砲の発射音も怖れていた、などといった嘲笑的なものである<ref>{{cite web|url=http://historythings.com/historys-nutcases-peter-iii-of-russia/|title=History’s Nutcases: Czar Peter III of RussiaI|publisher=History Things|accessdate=2019-01-15}}</ref>。エカチェリーナの回想録によると、ピョートルは夜のプライベートな時間も玩具の部隊を使った戦争のゲームに熱中していたという。彼はベッドの中と下に沢山の兵隊のフィギュアを隠しており、夕食の後、真っ先にベッドに入って寝ているが、エカチェリーナがベッドに入り、侍従が扉の鍵を掛けると同時に起き出して、フィギュアで遊び始めた。木、蝋、鉛で出来た様々なフィギュアは動いたり音が出たりするようピョートルが手を加えていて、中には大きく危険な物もあった。それらを使って夜中の1時や2時まで遊ぶのがピョートルの何よりの楽しみだった。ある晩、時間を掛けてそれらを並べ終わった時にネズミが現れ、兵隊の頭を齧った。ピョートルはそのネズミを捕らえて軍事裁判にかけ、死刑を宣告、専用に作った絞首台で処刑し、テーブルの上に吊るして3日間晒しものにしたという。しかしこのエピソードは誇張されているか作り話である。何故ならネズミは体の構造上、人間のように首を吊ってぶら下げる事は出来ないからだ<ref name=s.petersburg.com>{{cite web|url=http://www.saint-petersburg.com/royal-family/peter-iii/|title=Peter III|publisher=SAINT-PETERSBURG.COM|accessdate=2019-01-15}}</ref><ref name=reading/>。

1751年、養父だったアドルフ・フレドリクがスウェーデンの王座についた。知らせを聞いたピョートルはこう言った。「彼らは私をこの忌々しいロシアに引きずり込んだ、ここでは私は国家の囚人の様なものだが、私の自由にさせてもらえるなら、文明化されたロシア国民の王座につく事になるだろう」。

ピョートルは音楽への情熱を持ち続けていた。彼はエリザヴェータに隠れてプロのイタリア人ヴァイオリニストから指導を受けていた。エリザヴェータにとって音楽家は「賤業」であり、皇位継承者がそのような真似をするなど以ての外であった。一方、当時のロシアの宮廷では、音楽は専らイタリアから招聘した音楽家に頼っていた。歌曲をロシア語で歌える歌手もいなかった。[[バラライカ]]だけがロシア人による演奏であった。ピョートルはこの状況を良しとせず、オラニエンバウムの宮殿内にペテルブルクで最初のオペラ劇場と音楽学校を造った。クレモナ、アマティ、シュタイナーといった良質な楽器を取り寄せ、中流階級の才能のある子供を集め、ピョートル自らヴァイオリンの指導をすることもあった。彼の教え子の中に、後に18世紀ロシア最高のヴァイオリニストとなる[[イワン・ハンドシキン]]がいた。冬の間は週に一度、午後4時から9時までコンサートが開かれた。宮殿内の劇場は[[マクシム・ベレゾフスキー]]の初舞台となった。ピョートルの尽力によってロシアの音楽文化は発展の端緒についたのである<ref name=inna/>。

結婚から9年後の1754年10月1日、最初の子'''[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィチ]]'''が生まれた。夫婦がなかなか子供に恵まれなかった為、噂好きな宮廷の人々の好餌となったが、どの説も(エカチェリーナ自身の回想録での告白も含めて)、はっきりした証拠は無い<ref>最もよく知られた説が、ピョートルの[[包茎]]が原因であり、結婚後も夫婦関係は無かったが手術によって機能を回復したというものである。一方エカチェリーナは回想録で「夫は"方法"を知らなかった」と述懐しているが、ピョートルが結婚の翌年、エカチェリーナに宛てた手紙には「今夜を私と過ごさねばならぬか、などと心配しないで欲しい。私たち2人にとって1つのベッドはもはや狭すぎることになった。お前と二週間断絶したあとで、お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫は・・・(後略)」と書かれている。この内容を見る限り、妻のほうが夫を嫌って遠ざけていたように取れる。{{cite web|url=https://jp.rbth.com/arts/2013/07/09/2_43987|title=エカテリーナ2世がクーデター|date=2013-07-09|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-14}}</ref>。パーヴェルはエリザヴェータの元で育てられる事になり、ピョートルは週に一度、息子に会う事を許された。結局、子供の存在が夫婦を近づける事にはならなかった。

ピョートルは[[ミハイル・ヴォロンツォフ]]伯爵の姪{{仮リンク|エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ|ru|Воронцова, Елизавета Романовна|en|Elizaveta Vorontsova}}を愛人とし、エカチェリーナも{{仮リンク|セルゲイ・サルトゥイコフ|ru|Салтыков, Сергей Васильевич|en|Sergei Saltykov (1726–1765)|label=セルゲイ・サルトゥイコフ公爵}}始め複数の愛人を持った<ref>世継ぎが生まれないことにしびれを切らしたエリザヴェータがエカチェリーナに愛人を持つことを許したと、エカチェリーナは回想録で告白しており、パーヴェルはピョートルの子でなく、サルトゥイコフの子であると示唆している。しかし肖像画に見るピョートルとパーヴェルの風貌には類似点があり、性格も共通するものがある。実はエカチェリーナの最大の脅威であったパーヴェルの、皇帝の座につく正統性を毀損したいがためのエカチェリーナの作話だったと推察する研究者は少なくない。</ref>。ピョートルは未来の皇帝として、宮廷の如何なる美女でも思いのままに選べた筈だが、ヴォロンツォヴァは宮廷で笑い者にされている大変な醜女であった。酒好きの彼女のオリーブ色の顔は痘痕だらけで、フランス大使ファヴィエは「ヴォロンツォヴァの醜さは言葉で言い表せない程である」と著書に記している。しかしヴォロンツォヴァはピョートルがこれまでの人生で一度も得られなかった温かさを持っていた。ピョートルのヴァイオリンを何時間でも聴く事ができ、彼の飼い犬を可愛がり、彼の気まぐれに付き合う事の出来る愉快な女性だった<ref name=reading/><ref>[[アンリ・トロワイヤ]]による伝記を元にした[[池田理代子]]の「女帝エカテリーナ」では、飲んだくれで醜女のヴォロンツォヴァを愛人にすることで、「お前はこのような女にも劣る」と妻のエカチェリーナを侮辱したと解釈されている。</ref>。ピョートルとヴォロンツォヴァ、エカチェリーナとその愛人の[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]の4人で晩餐を共にする事も度々あったという。ポニャトフスキは非常に洗練された物腰の美男であった<ref name=vidania/>。

パーヴェルの誕生から3年後の1757年には女児アンナ・ペトロヴナが生まれたが、エカチェリーナによるとピョートルは妻の妊娠に立腹しており、「妻が何故再び妊娠したのか、神のみぞ知るだ。この子は私の子なのか、それを認めるべきか、全くわからない」と発言したという。アンナはポニャトフスキの子であるとされるが、2年後に亡くなった。

このようにエカチェリーナとの夫婦仲は破綻していたが、それでもピョートルは妻に信頼を寄せ続けており、困難な状況になると妻に助言を求めていた。エカチェリーナは如何なる問題に対しても必ず解決の糸口を見つけたので、彼は妻に皮肉混じりのニックネームを付けた。 Madame la Ressource、「[[リソース]]夫人」という意味である<ref name=russian7>{{cite web|url=http://russian7.ru/post/7-faktov-iz-zhizni-imperatora-petra-iii/|title=7 важных фактов из жизни императора Петра III|date=2016-10-03|publisher=Русская Семерка|accessdate=2019-01-24}}
</ref>。
ピョートルはまた、4月のエカチェリーナの誕生日には毎年1万ポンドの収入相当の領地を与え、皇帝に即位した直後にもエカチェリーナの債務を理由も聞かずに支払った<ref name="EB1911" />。


=== 即位 ===
=== 即位 ===
[[File:Imperial Monogram of Tsar Peter III of Russia.svg|right|thumb|ピョートル3世のモノグラム]]
エリザヴェータ女帝の崩御に伴い、1762年1月5日にピョートル3世としてロシア皇帝に即位した<ref name="EB1911" />。当時のロシアは[[七年戦争]]の最中だったが、ピョートル3世はプロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]を崇拝していたため、彼は5月5日の[[サンクトペテルブルク条約 (1762年)|サンクトペテルブルク条約]]でプロイセンと即時講和して、6月19日にはプロイセンとの攻守同盟を締結した<ref name="EB1911" />。講和ではロシアが多大な人的犠牲と資金を払って勝ち得た領地をすべてプロイセンに返還した<ref name="EB1911" />。さらに[[ウィーン]]の[[ハプスブルク帝国]]宮廷に脅し、プロイセン王の要求を全て受け入れなければ宣戦布告するとした<ref name="EB1911" />。最終的にはロシアの要求を受け入れなかった[[デンマーク=ノルウェー]]に攻撃の矛先を向け、7月6日にロシア軍に[[メクレンブルク]]を通過してデンマークに侵攻するよう命じた<ref name="EB1911" />。この侵攻はロシア軍とデンマーク軍が遭遇する直前にロシア本国の政変により取り消された<ref name="EB1911" />。
[[File:Burov - Shlisselburgskiy Uznik.jpg|thumb|right|[[シュリッセリブルク#要塞|シュリッセリブルク監獄]]にイヴァン6世を訪ねるピョートル3世、1762年(1885年の作品)]]
エリザヴェータ女帝は1757年に[[脳卒中]]で倒れて以来、次第に健康状態が悪化していった。ピョートルはロシアの外交と国内政策に非常に批判的であり、開けっぴろげで感情的な性格から、それを隠そうとしなかった。そして[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]の一員としてロシアの[[七年戦争|参戦]]に公然と反対する発言をしたために、エリザヴェータによって評議会から追い出されていた<ref name=13ошибок/>。その代償として1759年から第一士官学校の理事長に就任した訳だが、ピョートルは教育機関に関わり、科学と科学者を支援する中で[[ミハイル・ロモノーソフ]]らと教育改革について意見を交換する機会を得た。即位後の彼が熱心に教育改革に取り組む事になったのはこの時の経験が大きく影響している。

一方のエリザヴェータは自分の外交方針に断固として同意しないピョートルが後継者であることを非常に不安に思い、孫のパーヴェルに自ら帝王教育を施していた。側近たちも年齢と共に衰えて行く女帝の様体を懸念しながら見守っていた。大宰相[[アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン]]らはピョートルを迂回して7歳のパーヴェルを皇位につけ、母エカチェリーナを摂政とするべきと考えていた。エカチェリーナを女帝の座につける事を考える者もいた。エリザヴェータは後継者変更の意思をピョートル本人も含めて周囲に気取られまいと警戒していたが、1762年1月3日、大発作を起こし、医師から回復は望めないと診断された。そして翌々日、遺言書を残さず崩御してしまった。

エリザヴェータ女帝の崩御に伴い、ピョートルは1762年1月5日に'''ピョートル3世'''として第7代ロシア皇帝(Император インペラートル)に即位した。33歳、初代皇帝ピョートル1世(大帝)が没して以来初の成年男子の皇帝であった<ref name=PyotrFyodorovich>{{cite web|url=http://rushist.com/index.php/russia/213-petr-iii|title=Петр III Федорович|publisher=Русская историческая библиотека|accessdate=2019-01-16}}</ref><ref name=unofficial>{{cite web|url=http://www.unofficialroyalty.com/emperor-peter-iii-of-russia/|title=Peter III, Emperor of All Russia|publisher=Unofficial Royalty|accessdate=2019-01-16}}</ref>。

=== 皇帝としての日々 ===
皇帝となったピョートルは意欲的に国家運営に取り組んだ。彼は自分の目で直接見る事を信条とし、次々と問題点を発見していった。彼は護衛も付けずに一人でペテルブルクを馬で回り、貧しい人々に宮殿の金庫から持ち出した金を与え、彼らに気軽に話し掛けた。宮廷でも使用人に別け隔てなく接したと伝えられている<ref name=reading>{{cite web|url=http://www.e-reading.club/chapter.php/1022984/12/Grigoryan_-_Carskie_sudby.html|title=Петр III|publisher=e-reading.club|accessdate=2019-01-21}}</ref>。

歴史学者ミリニコフによると、ピョートルは午前7時には既に起きており、コーヒーを飲み煙草を燻らせた後、将軍や補佐官からの最新の報告を聞き、8時から廷臣たちを集め会議を開いた。これは通常3時間以上続き、その後[[宮殿広場]]に出て閲兵を行った。ピョートルはプロイセン式の軍服に身を包んでいた。解散後、{{仮リンク|元老院(ロシア帝国)|ru|Здания Сената и Синода|label=元老院}}、[[聖務会院]]、[[旧海軍省 (サンクトペテルブルク)|海軍省]]、{{仮リンク|サンクトペテルブルク造幣局|ru|Монетный двор|label=造幣局}}を訪れ、工場を視察し、着工から8年・完成間近の冬宮殿の建設中に起こった問題を掘り下げた<ref>冬宮殿の建設が完了した後、全域に建設廃棄物が散乱していた。倉庫や建設労働者のバラック小屋も数カ所にそのまま残っていた。復活祭を宮殿広場で祝う為、ピョートルは独創的な方法でそれを解決することを決心した。彼は誰もが広場から無料で何でも取ることが出来ると宣言せよと命じた。すると数千人の市民が集まり、数時間後、すべてのゴミが取り除かれた。{{cite web|url=https://walkspb.ru/ulpl/dvortsovaya_pl.html|title=Дворцовая площадь|publisher=Прогулки по Санкт-Петербургу|accessdate=2019-02-11}}</ref>。午後1時に昼食を外交官、招待された人々と共にするが、エカチェリーナはこの場に滅多に現れなかった。昼食後にようやく休憩を取り、その後は再び執務室に戻るか、懇親会になるかで、コンサートが開かれる事も多く、ピョートルは自らヴァイオリンを手にとった。夜遅くまで続く晩餐では世俗的な会話や冗談の中に重要な問題についての議論が散りばめられていて、外交官はこの場で聞いた話を本国に伝えた。時折、緊急事態に対応するためにピョートルは顧問と共に退出する事があった。自室に戻るのはいつも午前0時を過ぎていたが、どれ程遅くなろうと朝は早く起きた。ピョートルの多方面に渡る精力的な活動は祖父のピョートル大帝を彷彿とさせた。

だが、ピョートルが熱意を持って取り組んだ改革はロシアの大半を占める保守層の猛烈な反発を招き、即位から僅か半年で彼の治世は終止符を打たれる事になる。

=== 国内政策 ===
[[File:Russia 1762 10 Roubles.jpg|right|thumb|肖像が刻まれた10ルーブル金貨(1762年)]]
ピョートルはまずエリザヴェータが追放した政治犯達を赦免し、人々から恐れられていた秘密警察を廃止し、拷問も禁止した。中でも最も重要とされる法令が、貴族の国家への奉仕義務と軍務を撤廃し国外旅行の自由を保証する『貴族の自由に関するマニフェスト』([[:ru:Манифест о вольности дворянства|Манифест о вольности дворянства]])である。これはロシア貴族が様々な便益を特権的に独占し続ける基礎となった。一方でピョートル大帝の時代から激しい迫害を受け国外に脱出した[[古儀式派]]の帰国を許すなど、[[信教の自由]]を認める宗教改革にも着手した。教会の領地を国有化し、彼らの財政基盤の弱体化を通じて、ピョートル大帝の統治の間でさえも深刻な問題であった[[聖務会院]]の政治への影響力を弱めようとした。これらは当然聖務会院から大きな反発を買った。教会から[[イエス・キリスト|キリスト]]以外の[[イコン]]を外し、聖職者に髭(知恵と伝統の象徴)を剃ってルーテル教会の牧師の服装をするよう強要したという話は、現代の作家によって創られたフィクションである。エカチェリーナはピョートルが[[国教]]をルーテル教会に変えようとしていたと回顧録の中で述べているが、これも全く信憑性に乏しい。その他に塩税<ref>{{cite web|url=https://jp.rbth.com/arts/2017/07/31/813940|title=ロシア文化における塩|date=2017-07-31|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-17}}</ref>の廃止、都市の改善に関する法令(石造りの住居の促進、防火対策、衛生および医療事業など)、500万ルーブルを投じてのロシア初の紙幣の発行、貿易・産業活動を活性化させるための{{仮リンク|ロシア帝国国立銀行|ru|Государственный банк Российской империи|en|Central Bank of Russia|label=国立銀行}}の設立など、ピョートルは僅か186日間の治世で192もの法令を出し改革を断行した。しかし後世、ピョートルは『改革者』として名声を得る事が一番の目的であり、彼に確固たる信念があったわけでなく、全ての法令は『人気取り』が目的だったと言われる事になる。先帝エリザヴェータよりも優れた皇帝であることを証明したかったに過ぎないと帝政時代の歴史家クリュチェフスキーは述べている。

文化面では、外国の有名な作曲家と劇作家をペテルブルクに招こうとし、愛好家によるアマチュアコンサートも奨励した。クーデターの直前、ピョートルは[[ナポリ]]から旧知の{{仮リンク|フランチェスコ・アラヤ|it|Francesco Araja|en|Francesco Araja}}を再び召喚した。アラヤはこの夏に{{仮リンク|ロプシャ宮殿|ru|Ропшинский дворец}}で上演されるオペラの依頼を受けた<ref name=PyotrFyodorovich/><ref name=russiapedia/><ref>アレクサンドル・ミリニコフ「ピョートル3世」2001年。</ref>。

=== 外交政策 ===
[[File:Hoge Orde van de Zwarte Adelaar Pruissen.jpg|right|thumb|150px|プロイセンの黒鷲勲章]]
ピョートルはエリザヴェータが行ってきた反プロイセン的な外交政策を放棄した<ref name=vidania/>。当時のロシアは[[七年戦争]]の最中だったが、ピョートルは前述の通り、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたため、彼は5月5日の[[サンクトペテルブルク条約 (1762年)|サンクトペテルブルク条約]]でプロイセンと即時講和して、6月19日にはプロイセンとの攻守同盟を締結した。講和ではロシアが多大な人的犠牲と資金を払って勝ち得た領地をすべてプロイセンに返還した<ref name="EB1911" />。連敗を重ね、首都ベルリンも陥落寸前、自殺を考えるまでに追い詰められていたフリードリヒはこれによって救われた。賠償金も要求しなかったため、ロシア国内及びにロシア軍内から怨嗟の声が上がった。当のピョートルはフリードリヒから黒鷲勲章を贈られて感激していた。また、軍隊の規律や制服をプロイセン風に改めたため、伝統的に反プロイセン感情の強い軍部の反感を買った<ref>ロシア軍の主戦場・西ヨーロッパとトルコの気候にはプロイセン式の短いジャケットが最も合っていた。ピョートルは盲目的にプロイセン式を取り入れた訳ではなかった。また、プロイセンとの戦争が長引けばロシアは金融危機に陥り経済が崩壊していたとする見方も現在では存在する{{cite web|url=https://internasionale.livejournal.com/89694.html|title=Петр Третий: реформатор или дурак?|date=2013-09-1|publisher=LIVEJOURNAL1|accessdate=2019-01-27}}
</ref>。さらに[[ウィーン]]の[[ハプスブルク帝国]]宮廷に脅しをかけ、プロイセン王の要求を全て受け入れなければ宣戦布告するとした<ref name="EB1911" />。一方で自らの領する[[ホルシュタイン]]に関心を持ち、父の代に奪われていたシュレースヴィヒ<ref>1720年にスウェーデンとデンマーク=ノルウェーが[[フレデリクスボー条約]]を締結した結果、[[カール・フリードリヒ]]は、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]領の北部地域に相当するシュレースヴィヒを失った(→[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]])</ref>を、ロシア軍を投入してデンマークから奪回しようと計画<ref name=russiapedia/>、来たる7月6日に[[メクレンブルク]]を通過してデンマークに侵攻するようロシア軍に命じた<ref name="EB1911" />。この計画は当時、ロシアにとって何らの利益ももたらさないものであるとされた。しかしながらこの土地は戦略的価値があり、バルト海と北海の権益をロシアにもたらす拠点となり得た<ref name=inna/>。だが侵攻はロシア軍がデンマーク軍と遭遇する直前にロシア本国の政変により取り消された。

ピョートルの外交政策に堪忍袋の緒が切れた軍部がついに決起したのである。クーデターの陰の首謀者は皇后エカチェリーナであった。

=== クーデターによる廃位 ===
[[File:3268. Peterhof. Monplaisir Palace.jpg|thumb|right|エカチェリーナが滞在していたペテルゴフのモン・プレジール宮殿]]
[[File:Екатерина на балконе.jpg|thumb|right|近衛兵と群衆に迎えられ冬宮殿のバルコニーに立つエカチェリーナ]]
[[File:Макет Петерштадта.jpg|thumb|right|オラニエンバウムの遊戯要塞(模型)。殆どが木造であり、18世紀末に解体された<ref>{{cite web|url=https://www.spb-guide.ru/page_20390.htm|title=Дворец Петра III в Ораниенбауме|publisher=СПбГид|accessdate=2019-02-06}}</ref>。宮殿のみが現存。]]
[[File:Ropsha palace photo before1917.jpg|thumb|right|ロプシャ宮殿(1917年)]]
[[File:Ропшинский дворец. Январь 2015 года.jpg|thumb|right|火災に遭った後、倒壊が進むロプシャ宮殿(2015年)]]
[[File:Peter III's letter to wife (28 june 1768, RGADA).jpg|thumb|right|ピョートルが軟禁中のロプシャで書いた生涯最後の手紙。他国へ行かせて欲しいとエカチェリーナに訴えている。この手紙に返事は無かった。]]
ピョートルとエカチェリーナの関係は破綻を通り越し、終焉を迎えようとしていた。

4月、大勢の賓客が集まる宴席でエカチェリーナを「Folle(馬鹿)」と怒鳴って侮辱した。ピョートルが乾杯の音頭を取った際、エカチェリーナが酒を飲もうとしなかったのが理由だった。この直前、彼女は愛人の近衛士官[[グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ|グリゴリー・オルロフ]]の子を密かに産んでいた。夫婦関係が完全に無くなっていたため、エカチェリーナも妊娠を表沙汰に出来なかったのである。出産が始まった時、エカチェリーナの召使はペテルブルクの自宅に火を放った。当時のペテルブルクの街は大半が木造建築であり、延焼が懸念された。お膝元で起きた火災に、ピョートルは宮殿を離れて現場に向かった。現地へ行き自分の目で確かめるのがピョートルの信条だった。その間にエカチェリーナは出産を終えたのである<ref name=Preobrazhenie>{{cite web|url=http://www.pravzhurnal.ru/Preobrazhenie/Istoriya/petr-III-i-ekaterina-II.html|title=Пётр III и Екатерина II|publisher=Православный интернет-журнал|accessdate=2019-01-26}}
</ref>。しかしこの話は後世に「<ins>火事見物が趣味の</ins>ピョートルが現場に釘付けになっている間に」と歪めて伝えられる事になる。また、エカチェリーナの妊娠出産をピョートルは知っていたという説もある。たとえ不義の子であっても皇位継承権があるため、ピョートルはエカチェリーナとの離婚を急いだというのだ。


正妻を修道院に幽閉して愛人と再婚したピョートル大帝に倣い、ピョートルはエカチェリーナを修道院に入れ愛人のヴォロンツォヴァと再婚する意思を公言し始めた。決意を表明するかのように6月20日、プロイセンとの攻守同盟締結の祝賀会で、后妃の証と言って良い{{仮リンク|聖エカテリーナ勲章|en|Order of Saint Catherine|ru|Орден Святой Екатерины}} <ref>{{cite web|url=https://jp.rbth.com/articles/2012/12/07/40335|title=ピョートル1世が妻のために聖エカテリーナ勲章を創設|date=2012-12-07|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-25}}
</ref>をヴォロンツォヴァに与えた。さらに、冬宮殿の私室の隣にヴォロンツォヴァの居室を設けた。

一方で、これまで彼が次々と打ち出した政策は軍部と正教会にとって敵対行為とも取れるものだった。『プロイセンかぶれの裏切り者』ピョートルへの強い反感は『ロシア人よりもロシア人らしい』皇后エカチェリーナへの支持と結びついていった。

5月、クーデターの動きがあるという情報がもたらされたが、ピョートルは深刻に受け止めず、何の対策も講じなかった。

夏の間宮廷はオラニエンバウムに移り、ピョートルと家臣らはペテルブルクを離れた。エカチェリーナも[[ペテルゴフ]]に移り、首都ペテルブルクは空(から)になっていた。

1762年7月9日(旧暦6月28日)、翌日はピョートルの[[聖名祝日]]であり、エカチェリーナ主催の祝賀会がペテルゴフで盛大に行われる予定であった。その祝賀会について意見を求められたピョートルはエカチェリーナに会うため、オラニエンバウムからペテルゴフに出向いた。しかし、そこに妻の姿は無かった。エカチェリーナは早朝、グリゴリー・オルロフの弟で同じく近衛士官の[[アレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ|アレクセイ・オルロフ]]から「準備万端整った」と、クーデターを今日実行に移すと知らされ、急遽ペテルブルクに戻っていた。そしてピョートル不在の隙を突く形で近衛連隊<ref>近衛連隊はイズマイロフスキー、セミョノフスキー、プレオブラジェンスキーの3連隊があり、プレオブラジェンスキー連隊はクーデターに参加しなかった。</ref>が{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}を敢行した。近衛連隊はこれまで幾度となく繰り返された皇帝の交替、宮廷革命の度に主役を担ってきた。今回、エリザヴェータ時代の緑色の軍服に着替えた近衛連隊は、グリゴリー、[[フョードル・グリゴリエヴィチ・オルロフ|フョードル]]、アレクセイのオルロフ兄弟が中心となって動いた。エカチェリーナ擁立に大いに貢献したグリゴリー・オルロフは、エカチェリーナ女帝の下で権勢をほしいままにする事になる。他に有力な政治家・将官らも早くからクーデターの準備に加担していた。[[ニキータ・パーニン]]、{{仮リンク|ミハイル・ヴォルコンスキー|ru|Волконский, Михаил Никитич}}、{{仮リンク|キリル・ラズモフスキー|ru|Разумовский, Кирилл Григорьевич}}らである。中でもニキータ・パーニンはピョートルの外交政策に強く反対していた。

全軍がエカチェリーナに忠誠を誓い、[[カザン聖堂]]で礼拝が行われ、エカチェリーナの即位および皇位継承者がパーヴェルである事が宣言された。エカチェリーナは冬宮殿に赴き、元老院と聖務会院も即位を承認したが、大宰相ヴォロンツォフは自分の姪と結婚することを公にしていたピョートルに義理立てしエカチェリーナに忠誠を誓うことを拒否、自宅に軟禁された。

クーデターとエカチェリーナ即位の報に驚愕、狼狽したピョートルは側近の老将軍[[ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ|ブルクハルト・ミュンニヒ]]から即刻[[クロンシュタット]]<ref>ロシア軍が駐屯している[[ポメラニア]]という説もある。</ref>(ペテルブルク沖にある島。要塞と海軍基地がある)へ避難するよう助言されたが、これを拒否、オラニエンバウムの{{仮リンク|ペテルシュタット|ru|Петерштадт|label=遊戯要塞}}に立て籠もり、私兵であるホルシュタインの守備隊に防衛させる作戦をとった。同日夕、エカチェリーナと近衛連隊が大挙してオラニエンバウムに向かって来ていると知ると、作戦を放棄、ヴォロンツォヴァなど女性を含む廷臣たちと共に[[ガレー船]]でクロンシュタットに向かったが、クロンシュタットの部隊は既にクーデター側に寝返っていた。接近するピョートルの船に「引き返さなければ発砲する」と岸から警告してきたため、船は係留も諦め、やむなく引き返した。(この時期は[[白夜]]であり、日没は午後10時を過ぎ、日没後も薄明が長く続く事に留意されたい)。

翌7月10日、ピョートルらはどうした訳かオラニエンバウムに戻った。船には食料、衣類などの生活物資が相当な量積み込まれており<ref>荷物の手配と積込みに時間がかかり出港が遅れた。</ref>、そのまま亡命も出来た筈だったが。そしてホルシュタインの守備隊を突然解散させてエカチェリーナに恭順の意を表明した。ピョートルと共にいた廷臣たちは、ペテルブルクの様子を確かめて来ると言って出掛けたまま帰らなかった。彼らはペテルブルクでエカチェリーナに忠誠を誓っていた。

正午、ピョートルは『故郷のホルシュタインに戻り、哲学者<ref>フリードリヒ2世はまたの名を「哲人王」といった。</ref>となってヴォロンツォヴァと共に静かな生活を送る』という願望を抱きながら{{仮リンク|グリゴリー・テプロフ|ru|Теплов, Григорий Николаевич|en|Grigory Teplov}}<ref>エカチェリーナの助言役。</ref>が用意した退位宣言に署名した<ref name=reading/>。この退位宣言では後継者指名がされていなかった。ピョートルはエカチェリーナでなく息子パーヴェルの即位を強く望んでいたと思われる。(譲位と引き換えにピョートルを故郷のキールに帰すという、エカチェリーナの空約束が署名の前にあったと見る研究者もいる)。そして自ら出向いてエカチェリーナに慈悲を乞うよう、ただ一人残ったミュンニヒ<ref>彼はエリザヴェータ女帝の時代にシベリアに追放されていたが、即位したピョートルにより名誉回復され、重用されていた。</ref>に説得されペテルゴフに向かったが<ref>途中、馬車の中で失神したという説もある。</ref>、到着したところで逮捕された<ref name=vidania/>。ピョートルは力無く椅子に座り込み、涙を流していたと伝えられる。同行していた愛人ヴォロンツォヴァは懇願むなしく連れ去られた。同日夜、ピョートルは首都郊外のロプシャ宮殿に送られ軟禁状態におかれた。アレクセイ・オルロフを筆頭に約100名の近衛兵が警戒に当たった。ピョートルは愛犬の[[パグ]]と自分のヴァイオリンを届けて欲しいと願ったが却下され、部屋から出ることはおろか、窓辺に近づくことさえ許されなかったという。

明けて11日、ピョートルは精神的な打撃のために前夜から頭痛と吐き気を訴え、水で薄めたワイン1杯しか摂れていない状態であった<ref name=paradox>{{cite web|url=http://history-paradox.ru/petrIII.php|title=Тайна убийства российского императора Петра III|publisher=ПАРАДОКСЫ ИСТОРИИ|accessdate=2019-01-17}}</ref>。翌12日に医師の派遣を要請する書簡をペテルブルクに送った<ref name=den-za-dnem>{{cite web|url=http://www.den-za-dnem.ru/page.php?article=877|title=Тайна смерти императора Петра III|date=2012-12-15|publisher=ДЕНЬ за ДНЁМ|accessdate=2019-01-14}}</ref>。最初はエカチェリーナ2世の宮廷もピョートルの処遇について悩み、廃帝[[イヴァン6世]]の如く終身[[シュリッセリブルク]]に投獄する、故郷ホルシュタインに送還する、といった案が出されたが、いずれも危険すぎるとして却下された<ref name="EB1911" />。

だが、ピョートルは17日に突然死去した。

=== 突然の死 ===
[[File:Orlov-Chesmenskiy.jpg|thumb|right|アレクセイ・オルロフ、[[ウィギリウス・エリクセン]]作。]]
[[File:Фёдор Рокотов (1760е) Портрет Никиты Ивановича Панина.jpeg|thumb|right|ニキータ・パーニン(フョードル・ロコトフ画、1760年)]]
ピョートルの死は公式には持病の[[痔]]の激痛による発作死と発表され、ヨーロッパ諸国の嘲笑を買った<ref name=paradox/>。

しかし、一連の状況下で彼が体調をかなり悪化させていたのは疑いようもないが、余りに突然であり、ピョートルは'''暗殺'''されたのだという噂が当初からしきりに囁かれていた。
その後の研究でアレクセイ・オルロフと{{仮リンク|フョードル・バリャチンスキー|ru|Барятинский, Фёдор Сергеевич}}によって絞殺されたとの見方が長らく(約200年間)定説となっていた。[[ソビエト連邦共産党|ソヴィエト政権下]](1922年 - 1991年)に於いて国内・国外の歴史学者達は歴史資料の入手が困難となり、[[ロシア帝国の歴史|帝政時代]]に関する研究は滞ることを余儀なくされていた事も大きな要因であろう<ref name=reading/>。ところが、オルロフらによる殺害説の根拠とされたオルロフのエカチェリーナ宛の手紙<ref>ピョートルの死から34年後、エカチェリーナの崩御後に見つかったとされる。カードゲーム中に酒に酔った将校達と乱闘になりピョートルが死んだ事を知らせるものだが、原物はパーヴェル1世が破棄したとされ、これは写しであった。しかしこの手紙にあるような事が起き、100人体制で見張っておきながらピョートルを死なせたと言うなら、その後誰ひとり処分されていないのは異様である。しかもオルロフはこの後伯爵位と財産を授かっている。</ref>は偽造されたものであるとの言語学者による研究結果が1995年に発表され、ピョートルの死は再び謎に包まれてしまった<ref name=den-za-dnem/><ref name=statehistory>{{cite web|url=https://statehistory.livejournal.com/68725.html|title=Смерть Петра III|date=2012-12-15|publisher=LIVEJOURNAL|accessdate=2019-01-14}}</ref> 。また、同研究者はピョートルが死亡したのは17日ではなく14日以前だったと主張している。というのは14日にペテルブルクからロプシャに派遣された外科医が、治療薬ではなく解剖用の道具と防腐剤を持って向かっていたからであり、この事は14日の時点でピョートルの死が既にペテルブルクに知れていた証拠であるという<ref name=den-za-dnem/>。

ともあれ、エカチェリーナの命令で遺体は[[病理解剖|剖検]]され、重度の心機能不全、腸炎、脳卒中の徴候が認められた。毒殺が疑われたが、胃壁に異常は無かった。生前に頭痛を訴えていたことから、死亡原因は脳卒中、つまり自然死であるとする見方も現在では一定の支持を得ている<ref name=vidania/>。

殺害説をとる研究者の中にはニキータ・パーニンが関わっていると主張する者もいる。彼はパーヴェルの養育係であり、正統な後継者はロマノフの血を引くパーヴェル以外にあり得ないとの信念の下、エカチェリーナの即位には反対で、なおかつオルロフ家の台頭を苦々しく思っていた。エカチェリーナが愛人の一族と組んでピョートル3世を謀殺したとなれば、その玉座は血にまみれているのだ。エカチェリーナとオルロフ家にスキャンダラスな汚名を着せ、エカチェリーナ即位の正当性を損ねる事が出来れば、パーニンにとっては願ったり叶ったりという訳である<ref name=statehistory/>。

しかし実際にエカチェリーナがピョートルの暗殺を命令したかと言えば、これは研究者全てが否定していると言って良い。近衛連隊が再びピョートルを担ぎ出してエカチェリーナに攻撃を仕掛けてくる可能性は皆無に近く、しかも、シュリッセリブルクの監獄内ではまだ[[イヴァン6世]](21歳)が生きていた。『'''夫殺しの皇位簒奪者'''』という不名誉が終生付き纏う命令をエカチェリーナが出すとは考えにくい。実際、ピョートルの死でむしろ不利益を被ったと言える。息子パーヴェルとの親子関係が修復不可能なまでに悪化してしまったのもその一つであろう。ピョートルの死を知らされたエカチェリーナは「私の名誉は地に落ちた!子孫はこの無意味な犯罪を絶対に許さないだろう」と嘆いたと伝えられている。エカチェリーナに落ち度があるとすれば、ピョートルに手出しせぬよう、危険を予測して先に命令を出しておかなかった事であろう
<ref name=vidania/><ref>{{cite web|url=http://www.chuchotezvous.ru/historical-figures/242.html|title=Смерть Петра III: казалось бы разгаданная тайна|publisher=chuchotezvous.ru|accessdate=2019-01-20}}</ref><ref>{{cite web|url=https://diletant.media/articles/34299298/|title=Как убили Петра III|date=2017-02-21|publisher=ДИЛЕТАНТ|accessdate=2019-01-28}}}</ref>。

=== 埋葬 ===
[[File:Peter III of Russia's exgumation.jpg|thumb|right|受胎告知教会に葬られたピョートルの棺は34年後(1796年11月)に開かれた。これはその時の図。]]
ピョートルの葬儀は7月19日に[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]の一角にある[[:ru:Благовещенская церковь Александро-Невской лавры|受胎告知教会]]で行われた。

歴代の皇帝が埋葬されている[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトロパヴロフスキー大聖堂]]でなかったのは、彼が戴冠式を行う前に死亡したため、正式に皇帝の位についていないと判断されたからだった。ここ受胎告知教会は皇族と高位の貴族達の墓所であり、3年前に1歳余りで亡くなったアンナ・ペトロヴナ、イヴァン6世の母アンナ・レオポルドヴナらの墓もここにあった。

粗末な棺の中に横たわるピョートルは白いカフスのついた水色のホルシュタインの竜騎兵の制服を着て、胸に置かれた手には白い大きな手袋が嵌められていた。制服は古ぼけ、手袋には乾いた血痕が付いていた。かつらを着けていない頭の髪はひどく乱れたままだった。元皇帝ですらないとされた彼は『ホルシュタイン竜騎兵隊中尉・ホルシュタイン=ゴットルプ公』であった。目撃者の中には、ピョートルの遺体は顔が青黒く、窒息した形跡があると主張する者もいたが、棺の近くに立ち止まることは禁じられていた。

3日間の[[パニヒダ]]の後、21日にピョートルの棺は[[イコノスタシス]]の王門の真向かい、『娘』アンナ・ペトロヴナの墓の背後に埋葬された<ref name=paradox/>。エカチェリーナはニキータ・パーニンの諫言で体調不良を理由に葬儀に列席しなかった。エカチェリーナはその後、オラニエンバウムのピョートルの劇場も音楽学校も閉鎖した。

ピョートルが尊敬していたフリードリヒは「子供がベッドに連れて行かれるように、皇帝の座から降ろされた」と評した。ピョートルは生涯を通して、権力闘争に備えていなかった。

ピョートルの不可解な死はこの後、民衆の間で根強い生存説を呼び、僭称者がロシア国内だけで40人以上も出現したと記録されている<ref>ピョートルの僭称者は国外にも現れ、その中の1人{{仮リンク|ステファン・マリ|ru|Стефан Малый|en|Šćepan Mali}}は[[モンテネグロ]]の王となった。</ref>。最後の僭称者が逮捕されたのは彼の死から35年後の1797年だった<ref name=russian7/><ref name=Preobrazhenie/>。

== クーデター側によって歪められた実像 ==
=== エカチェリーナの「武器」 ===
[[File:Rokotov paul 1 as child.JPG|thumb|right|皇太子パーヴェル・ペトロヴィチ(フョードル・ロコトフ画、1761年)]]
エカチェリーナのピョートルに対する攻撃は彼の死後も続いた。彼女は権力掌握を様々な方法で正当化しなければならなかった為、彼の人格、行動を嘘で塗り固めて喧伝した。国内で歓迎されていたピョートルの改革も、エリザヴェータ女帝の秘書であったドミートリイ・ヴォルコフらの発案であった事にした。更に、女帝の座を脅かし得る存在を、自身の名誉を傷つけてでも排除しようとした。

エカチェリーナとパーヴェルの親子関係は非常に険悪なものであった事はよく知られているが、パーヴェルはピョートルの子ではないという噂があった。エカチェリーナの当時の愛人セルゲイ・サルトゥイコフが父親だというのだ。しかし研究者達の多くは、この噂は他ならぬエカチェリーナ自身がある意図を持って流したものだと指摘する。

ピョートル3世を倒して玉座についたドイツ人・エカチェリーナにとって、ロマノフの血を引くパーヴェルの存在は、我が子ながら最大の脅威だった。片や母親から離されてエリザヴェータ女帝の元で育てられたパーヴェルもまた、『父・ピョートルのように』エカチェリーナに暗殺されるのではないかという強い猜疑心を抱いていた。エカチェリーナが恐れたのはパーヴェル本人ではなく、彼の後ろ盾のパーニンを始めとする有力な貴族達であった。ロシア帝国は伝統的に貴族の力が強く、彼らの利害関係によって皇帝が次々と交替させられて来た。エカチェリーナが即位出来たのも彼らの力によるものであり、「夫殺し」の噂まで付き纏うエカチェリーナ自身の権力基盤は弱く、今度は自分がピョートルと同じ道を辿る事になるかも知れないのだ。それを防ぐ為には、パーヴェルを自分よりも継承権が無い事にせねばならない。それ故にエカチェリーナはパーヴェルの父親をセルゲイ・サルトゥイコフだとする必要があった。帝政末期の歴史家は以下のように述べている<ref> {{cite web|url=https://www.bagira.guru/russian-history/byl-li-pavel-synom-petra-iii.html|title=Был ли Павел сыном Петра III|publisher=Багира4|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>
{{cite web|url=https://aldanov.livejournal.com/16641.html|title=Кто был отцом Павла I - Петр Федорович или Сергей Салтыков?|date=2007-03-26|publisher=LIVEJOURNAL|accessdate=2019-01-29}}</ref>。
{{Quotation|エカチェリーナの主力武器は「'''嘘'''」であった。<br />彼女は幼少期から老年期まで生涯に渡ってその武器を使い続けた。彼女は[[ヴィルトゥオーソ]](達人)だった。標的は両親、教師、夫、恋人、国民、外国人、同時代の人々と子孫であった。|歴史家{{仮リンク|ヤコブ・バルスコフ|ru|Барсков, Яков Лазаревич}}}}

=== 黄金時代の裏で ===
クーデターから2年後の1764年には、エカチェリーナの皇位に疑問を持つグループによるイヴァン6世を牢獄から奪還する動きがあった。エカチェリーナは有力貴族たちを懐柔するために、彼らを優遇し様々な特権を与えた。それはピョートルの『貴族の自由に関するマニフェスト』を更に強化したものだった。国家への奉仕義務が減った貴族たちは、自身の領地の経営に力を注げるようになった。加えて、エカチェリーナは[[ロシアの農奴制#「エカチェリーナ改革」と農奴制|農奴への暴虐を黙認するような政令]]を発した。結果、農奴たちは文字通り奴隷のように酷使され、領地から生み出される富によって貴族たちはエカチェリーナの治世下で黄金時代を迎える事になった。農奴解放を志していた啓蒙君主はその志とは逆の政策をとる事になってしまった<ref name=Preobrazhenie/><ref name=悲運の王家/>。

== 死後戴冠、そして再埋葬 ==
{{wide image|Peter III of Russia's burial.jpg|1800px|受胎告知教会から冬宮殿に向かうピョートル3世の棺の行列。15メートル超の長大な作品だが、葬列を見たイタリア人画家が記憶を元に描いたもので、背景の建物などは全く不正確である<ref>
{{cite web|url=https://babs71.livejournal.com/196710.html|title=Питерский календарь. 13 декабря.|date=2008-12-13|publisher=LIVEJOURNAL|accessdate=2019-01-28}}</ref>。}}
[[File:Peter III's Casrum Doloris.jpg|thumb|right|ピョートル3世のカストルム・ドロリス]]
[[File:RussianTzarsTumbs-p1030589.jpg|thumb|[[サンクトペテルブルグ|サンクト・ペテルブルク]]の[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトロパヴロフスキー大聖堂]]に安置されたピョートル3世の[[棺]](奥中央)。左隣は[[エカチェリーナ2世]]、右隣は母[[アンナ・ペトロヴナ]]の棺。]]
ピョートルの死から34年後の1796年11月17日、エカチェリーナが崩御すると息子のパーヴェル1世はすぐさま父親の再埋葬式に着手した。

11月25日午前10時、受胎告知教会に出向いたパーヴェルは[[イコノスタシス#王門|王門]]の中へ入り、[[宝座 (正教会)|宝座]]から帝冠([[:ru:Большая императорская корона|Большая императорская корона]])を取って自ら被った。そして[[永遠の記憶]]の祈祷を行い、ピョートルの棺の上に帝冠を置いた。同じ日の午後2時には冬宮殿で皇后[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]がエカチェリーナの遺体にも帝冠を被せ、午後7時に納棺が行われた。

12月1日、ピョートルの墓が受胎告知教会からペトロパヴロフスキー大聖堂に移される事が発表された。

翌12月2日は凍てつくような寒い日で、気温は氷点下30度を記録した。午前11時、受胎告知教会の正門を出発したピョートルの棺は[[冬宮殿]]に向かった。近衛連隊と陸軍部隊が教会から宮殿までのネフスキー大通りの両脇に整列し、葬列を見守った。その際、60歳のアレクセイ・オルロフが棺の前でビロードの枕に載せられた帝冠を素手で捧げ持ち、5キロメートルの道のりを2時間半かけて歩かされたという<ref>アレクセイ・オルロフは直接関わっていないとしてもピョートルが死亡した現場の責任者である。</ref>。棺は宮殿内の礼拝所に運ばれ、エカチェリーナの棺とそれぞれカストルム・ドロリス([[:de:Castrum doloris|Castrum doloris]])に安置された。

12月5日、二つの棺はペトロパヴロフスキー大聖堂に運ばれた。葬列はエカチェリーナの棺を乗せた[[チャリオット]]が前を進み、帝冠が置かれたピョートルの棺を乗せたチャリオットがすぐ後に続いた。『'''皇帝ピョートル3世とその后エカチェリーナ・アレクセーエヴナ'''の葬列』である。更にその後方には皇帝パーヴェルと皇后マリア、皇子皇女達が従った。マリアは泣いていたが、パーヴェルの顔には悲しみではなく怒りの表情が浮かんでいたという。

12月18日、2週間のパニヒダを終え、ピョートルはエカチェリーナと同時に埋葬された。不仲だった夫と妻は死後にようやく並んで眠る事となった。そしてピョートルの隣は彼を産んだ直後に亡くなった母アンナ・ペトロヴナ(享年20)の墓だった。アンナはホルシュタインで亡くなったが、遺言により遺体はロシアに運ばれ、この大聖堂に埋葬されていたのである<ref name=vidania/><ref name=pokrov/>。

== 再評価の動き ==
[[File:Monument of Peter III.jpg|thumb|right|生まれ故郷のキールに立つ銅像。FRIEDEN Миръ(ドイツ語とロシア語で「平和」)と書かれた巻物を持ちサンクトペテルブルクの方角を向いている<ref>{{cite web|url=http://www.imperskiy-fund.com/---------------iii-------.html|title=В Германии установлен памятник Императору Петру III.|publisher=Имперское наследие|accessdate=2019-01-30}}
</ref>。]]
[[File:Памятник Петру III в Ораниенбауме.jpg|thumb|right|オラニエンバウムに2018年に立てられた銅像。プレオブラジェンスキー連隊の制服を着ている。]]
一般的に「軽率で無能な君主」「子供っぽく男性機能も欠陥がある」と評されてきたが、その評価はクーデターを起こしたエカチェリーナ2世の治世に為された、クーデター正当化のプロパガンダ的要素が多分に含まれている。実際には政策の多くが好意的に受け取られ、またエカチェリーナ2世時代に継承された。具体的には[[露普同盟|プロイセンとの同盟は継続され]]、着手しかけていた教会領地の国有化もエカチェリーナ時代に実現している。[[プガチョフの乱]]を起こした[[エメリヤン・プガチョフ]]<ref>妻による暗殺から奇跡的に逃れた前皇帝であると宣伝した。</ref>に代表されるピョートル3世を名乗る人物が多数出現した事実は、彼が一般国民から人気があった証明であるといえる。人物像および政治手腕については再評価されるべき点が多いが、プロイセンとの無償講和で軍隊の信望を失ったことがピョートルの運命を決してしまった<ref name=24СМИ/><ref>{{cite web|url=http://voynablog.ru/2014/09/27/petr-iii/|title=Петр III|publisher=VOYNABLOG|accessdate=2019-01-21}}</ref>。

ロシア生まれ・ドイツ在住の歴史家で作家の{{仮リンク|エレナ・パーマー|en|Elena Palmer}}は、これまで語られてきたピョートルの人物像を完全に否定する。ピョートルは4歳の時に養育係となったキール大学の学長から宗教、哲学、法を学び、同大学の優秀な教授たちが招待されて彼らからラテン語、数学、製図、化学、フランス語、天文学、地理学を10年間学んだという。読書家であり、ラテン語を始めとする語学にも堪能で、あらゆるジャンルの書物を原語で読んでいたという。ロシア帝国最大の歴史家[[ヴァシリー・クリュチェフスキー]]による著作が、『"馬鹿げたホルシュタイン教育学"とその"不幸な犠牲者"』としてのピョートルを印象づけてしまったのは、クリュチェフスキーが他国語を理解できず、ドイツに関する知識が全く無かった為であるという。加えて、芸術の問題にも明らかに無知であり、ピョートルの音楽・文化活動を皮肉を持って説明したと指摘する。またパーマーは、ピョートルについて語る時に欠かせない、彼が常に兵隊のミニチュアで遊んでいたという話は、若いエカチェリーナが『憎しみのプリズム』を通して彼を見たための誤解であったろうと分析する。ミニチュアの兵士や兵器を[[ジオラマ]]の中に並べて軍事作戦を考案するのは、軍の最高司令官である皇帝の地位を約束されたピョートルにとって必須の学問だったのだ<ref name=13ошибок/>。

アレクサンドル・ミリニコフは「ロシアの歴史の中で最も偽造された時代の一つ」であると明言している。19世紀から20世紀にかけて出回ったピョートルの伝記が軽蔑的な観点のみで書かれていたのは、エカチェリーナ、[[エカテリーナ・ダーシュコワ]]、{{仮リンク|ピョートル・パーニン|ru|Панин, Пётр Иванович|en|Petr Ivanovich Panin}}といった、ピョートルを裏切った人々の回顧録のみを資料とし、フランス大使・ファヴィエ等の外国人が残した資料を一切無視していたからである。帝政時代の研究はソビエト時代に停滞・もしくは歪められ、1977年に出版された[[アンリ・トロワイヤ]]の「女帝エカテリーナ」も、そうした旧い伝記を元に書かれたものだった。それ故に、人々の中で彼のイメージは明らかに否定的だった。しかし最近、歴史家たちはこの皇帝がロシアに対して非常に明確な奉仕をしてきたという証拠を発見し、そして彼の支配が長期に渡っていたならば、ロシア帝国の住民に明白な利益をもたらしたであろうという結論に至っている([[#ピョートル3世が取り組んだ改革の一覧|次項]]を参照)<ref name=24СМИ>{{cite web|url=https://24smi.org/celebrity/3531-petr-iii.html|title=Петр III|publisher=24СМИ|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.zarpeteriii.de/zarpeteriii/|title=Zur Person Zar Peter III.|publisher= Kieler Zarenverein|date=2018-01|accessdate=2019-02-07}}</ref>。エレナ・パーマーはピョートルがいなければ[[チャイコフスキー]]も[[グリンカ]]も、[[マリインスキー劇場]]、そして[[ボリショイ劇場]]も存在しなかったであろうと断言する<ref name=13ошибок/>。

2014年6月、再評価の動きに合わせて生まれ故郷のキールにピョートルの銅像が立てられた。募金10万ユーロが一般市民から寄せられ、ロシアの彫刻家アレクサンドル・タラティノフが作成、玉座の横に立つピョートルは手に"FRIEDEN Миръ 1762 Петр Peter"(ロシア語とドイツ語で「平和 1762 ピョートル ペーター」)と書かれた巻物を持っている。ピョートルのピースメーカーとしての側面を讃えたもので、銅像はペテルブルクの方角を向いている。
ドイツに続いて2018年、オラニエンバウム(現・ロモノーソフ)でも銅像が立てられた。第二次大戦で損傷を受けなかった<ref>戦争中は小学校として利用されていた。ピョートルが子供達を戦災から守ったのだとの言い伝えもある。</ref>ピョートルの宮殿は2016年から2018年にかけて1億5800万ルーブルをかけて修復され、完成披露の式典ではピョートル作曲のヴァイオリン曲も演奏された。ピョートルの人物像も現在の[[歴史科学]]において『僅か6ヶ月の間に多くの重要な改革を実行した賢明な君主』という評価に次第に置き換わりつつある<ref>{{cite web|url=http://beiunsinhamburg.de/2014/петр-iii-возвращение-на-родину/|title=В Киле открыт памятник российскому императору Петру Третьему|date=2014-07-09|publisher=ГМЗ «Петергоф»|accessdate=2019-01-30}}</ref><ref name=Дворец/>。


== ピョートル3世が取り組んだ改革の一覧 ==
=== 最後 ===
[[File:Peter III of Russia by Rokotov (1762, Nizhny Novgorod).jpg|right|thumb|400px|ピョートル3世({{仮リンク|フョードル・ロコトフ|en|Fyodor Rokotov|ru|Рокотов, Фёдор Степанович}}画、1762年)]]
[[File:RussianTzarsTumbs-p1030589.jpg|thumb|200px|[[サンクトペテルブルグ|サンクト・ペテルブルク]]の[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|首座使徒ペトル・パウェル大聖堂]]に埋葬されたピョートル3世の[[棺]]。隣は[[エカチェリーナ2世]]の棺。]]
#教育改革
1762年7月9日、皇后エカチェリーナを支持する近衛部隊が{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}を起こし、ピョートル3世は逮捕された。廃位されたピョートルは7月9日の夜から18日の午後まで首都郊外の{{仮リンク|ロプシャ|en|Ropsha}}で軟禁状態におかれた<ref name="EB1911" />。最初はエカチェリーナ2世の宮廷もピョートル3世の処遇について悩み、終身[[シュリッセリブルク]]に投獄する、ホルシュタインに送還する、といった案が出されたが、いずれも危険すぎるとして却下された<ref name="EB1911" />。ピョートル3世は最終的に18日の午後に[[アレクセイ・オルロフ]]と{{仮リンク|フョードル・セルゲイェヴィッチ・バリャチンスキー|ru|Барятинский, Фёдор Сергеевич}}によって殺害された<ref name="EB1911" />。
#*すべての子供たちのための義務教育
#*貴族の子弟のための職業訓練
#*職人のための職業訓練計画
#*教師の資格要件
#経済改革
#*国立銀行の設立
#*輸出促進のためのルーブルの切り下げ
#*貴族のための土地保有独占の廃止
#*塩税の廃止
#*ブルジョア中産階級の推進
#*遠隔地のインフラ
#*対外貿易の自由化によるロシア経済の強化
#教会改革
#*教会の財産の国有化
#*教会の権力者からの農民の解放
#*宗教的寛容と良心の自由
#*教会の腐敗や不祥事の取り締り
#司法と社会の改革
#*拷問の禁止
#*秘密警察の解散
#*貴族の奉仕義務の廃止
#*政治的に迫害された人々に対する恩赦
#*辺境地への追放の代わりに懲役
#*統一ロシアの法律書の計画
#*被告を支援する司法改革
#*ロシアの貴族のための海外旅行と設立の自由
#都市改革
#*石造りの住居の促進
#*防火対策の強化
#*衛生および医療事業の推進


== 登場する作品 ==
== 登場する作品 ==
*女帝エカテリーナ(原題 Catherine la Grande) - 1977、[[アンリ・トロワイヤ]]による伝記。邦訳[[工藤庸子]](1980年)。[[池田理代子]]による劇画版(1982年)もある。
* [[エカテリーナ (テレビドラマ)#シーズン1 「エカテリーナ」(Екатерина)(2014年放送)|エカテリーナ]] - [[2014年]]、[[ロシア1|国営ロシアテレビ]]。ピョートル役は{{仮リンク|アレクサンドル・ヤツェンコ|ru|Яценко, Александр Викторович}}。
*{{仮リンク|ミハイル・ロモノーソフ (映画)|ru|Михайло Ломоносов (фильм, 1986)|label=ミハイル・ロモノーソフ}} - [[1986年]]、[[モスフィルム]]の映画。ピョートル役は{{仮リンク|ボリス・プロトニコフ|ru|Плотников, Борис Григорьевич|en|Boris Plotnikov}}
* {{仮リンク|エカテリーナ大帝 (テレビドラマ)|en|Catherine the Great (TV series)|label=エカテリーナ大帝}} - [[2015年]]、[[チャンネル1 (ロシア)|チャンネル1]]のドラマ。
*{{仮リンク|ヤング・キャサリン|en|Young Catherine}} - [[1991年]]、[[ターナー・ネットワーク・テレビジョン]]制作の英ドラマ。{{仮リンク|リース・ディンズデール|en|Reece Dinsdale}}
*{{仮リンク|女帝キャサリン|en|Catherine the Great (1995 film)}} - [[1995年]]、独・米・豪合作のテレビ映画。{{仮リンク|ハンネス・イェーニッケ|en|Hannes Jaenicke|de|Hannes Jaenicke}}
*{{仮リンク|ファボリート|ru|Фаворит (телесериал)|label=ファボリート(寵臣)}} - [[2005年]]、テレビドラマ。ダニール・シガポフ(Даниил Шигапов)
*[[シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜]] - [[2006年]]、日本のアニメーション。
* {{仮リンク|銀のサムライ|ru|Серебряный самурай}} - [[2007年]]、ロシア映画。{{仮リンク|ダニール・スピヴァコフスキー|ru|Спиваковский, Даниил Иванович}}
* {{仮リンク|ペンと剣|ru|Пером и шпагой}} - [[2007年]]、[[ロシア1]]のドラマ。{{仮リンク|セルゲイ・バルコフスキー|ru|Барковский, Сергей Дмитриевич}}
* {{仮リンク|ロマノフ家 (テレビドラマ)|ru|Романовы (документальный цикл|label=ロマノフ家}} - [[2013年]]、[[チャンネル1 (ロシア)|チャンネル1]]のドキュメンタリードラマ。 {{仮リンク|イリヤ・シェルビニン|ru|Щербинин, Илья Владимирович}}
* [[エカテリーナ (テレビドラマ)#シーズン1 「エカテリーナ(Екатерина)」(2014年放送)|エカテリーナ]] - [[2014年]]、[[ロシア1]]のドラマ。{{仮リンク|アレクサンドル・ヤツェンコ|ru|Яценко, Александр Викторович}}
* {{仮リンク|エカテリーナ大帝 (テレビドラマ)|ru|Великая (телесериал)|en|Catherine the Great (TV series)|label=エカテリーナ大帝}} - [[2015年]]、[[チャンネル1 (ロシア)|チャンネル1]]のドラマ。{{仮リンク|パーヴェル・デレヴャンコ|ru|Деревянко, Павел Юрьевич|en|Pavel Derevyanko}}
* {{仮リンク|血まみれの貴婦人|ru|Кровавая барыня}} - 2018年、[[ロシア1]]のドラマ。{{仮リンク|エフゲニー・クラコフ|ru|Кулаков, Евгений Александрович}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*デビッド・ウォーンズ著、[[栗生澤猛夫|栗生沢猛夫]]監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]] 2001年 ISBN 4-422-21516-7
*デビッド・ウォーンズ著、[[栗生澤猛夫|栗生沢猛夫]]監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]] 2001年 ISBN 4-422-21516-7
*エカチェリーナ2世回顧録(ロシア語) http://elcocheingles.com/Memories/Texts/Ekaterina/Ekaterina.htm
*アレクサンドル・ミリニコフ著 "Петр III. Повествование в документах и версиях" https://royallib.com/book/milnikov_aleksandr/petr_III.html (電子図書館)


== 関連項目 ==
== 参考サイト ==
{{Commonscat}}
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*[http://www.zarpeteriii.de/ キール ツァーリ協会 Kieler Zarenverein 公式サイト]
*


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2019年2月28日 (木) 05:17時点における版

ピョートル3世フョードロヴィチ
Пётр III Фёдорович
ロシア皇帝
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ
ピョートル3世(ルーカス・プファンツェルト[1]、1762年1月、エルミタージュ美術館蔵)
在位 1762年1月5日 - 7月9日ロシア皇帝
1739年6月18日 - 1762年7月17日シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公
別号 Пётр Фёдорович
ピョートル・フョードロヴィチ

全名 Karl Peter Ulrich
カール・ペーター・ウルリヒ
出生 (1728-02-21) 1728年2月21日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ホルシュタインキール
死去 (1762-07-17) 1762年7月17日(34歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルク近郊、ロプシャ英語版
埋葬 ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルクペトロパヴロフスキー大聖堂
配偶者 エカチェリーナ2世
子女 パーヴェル1世アンナ・ペトロヴナロシア語版
家名 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
王朝 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝
父親 カール・フリードリヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ
母親 アンナ・ペトロヴナ・ロマノヴァ
宗教 キリスト教ルーテル教会ロシア正教会
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ピョートル3世フョードロヴィチロシア語: Пётр III Фёдорович, ラテン文字転写: Pyotr III Fyodorovich1728年2月21日 - 1762年7月17日)はロマノフ朝第7代ロシア皇帝(在位:1762年1月5日 - 1762年7月9日)、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ(在位:1739年6月18日 - 1762年7月17日)。ドイツ語名はカール・ペーター・ウルリヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルフドイツ語: Karl Peter Ulrich von Schleswig-Holstein-Gottorf)。

生涯

生い立ち

幼少期のカール・ペーター・ウルリヒ
ロシア女帝エリザヴェータ(1750年、ルイ・カラヴァク作)

1728年2月21日、ドイツのキールで、ホルシュタイン=ゴットルプカール・フリードリヒと、ピョートル大帝の長女アンナ・ペトロヴナの間に生まれた[2]。父方の曽祖父はスウェーデン王カール11世、父の従弟にスウェーデン王アドルフ・フレドリクがいる。母アンナはペーターを産んで間もなく産褥で死去した[3]

母のいないペーターは幼少時代をホルシュタイン公の城で将兵達に囲まれて過ごした。生まれた時からスウェーデンの王位継承の有力な候補と考えられていたため、スウェーデン語を教えられ、ルーテル教会の信仰の中で育てられた。7歳から周囲の将兵らによって軍事学を教えられ、軍隊式の行進や射撃を習い、観兵式の参観も許された。ペーターは分列行進を特に喜んで見ていたという[4]。しかしペーターが11歳の時に父親が死去、孤児となった彼は公位を継ぎ、リューベック司教アドルフ・フレドリクの元に引き取られた。だがペーターはそこで『軍人としては有能だが、教育者としては無能』のオットー・ブリュメル元帥による厳しい体罰(殴打、鞭打ち、食事を与えない、ロバの耳を付けて硬いエンドウ豆を撒いた床に30分以上跪かせる等)を伴う非常に厳格で愛情に欠ける教育を受ける事になる。ペーターにとって恐ろしさよりも廷臣たちの前でこれらの罰が行われた事が大変な屈辱であったというが、元々心身ともに虚弱で神経質な少年だった彼は、これによって精神の健全な発育を阻害され、後世に気分循環性障害と分析される性質が形作られたとされる。廷臣たちは元帥が『馬小屋の馬と同じ方法で公子を育てていた』と非難した[5]。こうしてペーターは学問を嫌悪するようになったと言われる。体系化された教育を受けられなかった彼は13歳になってもフランス語を少し話せるのみで、特にラテン語を嫌い、後にロシア皇帝になった時自分の図書館にラテン語の本を置くことを禁じたという逸話もある[6]。しかし最近(1990年代後半以降)の研究は帝政時代の歴史家ヴァシリー・クリュチェフスキーセルゲイ・ソロヴィヨフ以来のこうした『ピョートル3世神話』を否定する方向にある。ペーターはキール大学の学長から英才教育を受けており、実際は語学も堪能であったという。カルチンヌイ・ドーム(ロシア・ロモノーソフ)の彼の図書目録はロシア国立図書館に現存し、キールから持ち込まれた図書を含む1,000冊以上の目録の中にはラテン語を始め多くの外国語の書籍が登録されている。当時は翻訳本が少なく、彼は原語の本を読んでいたのだ[7]

ペーターはまた絵画とイタリアの音楽を好み、ヴァイオリンの演奏に時間を忘れて熱中した。ドイツでは子供の音楽教育にはオルガンが使われる事が常だったが、ペーターは難しいヴァイオリンを選んだ。5歳の時に猟場の番人が弾くヴァイオリンを偶然聞いて以来、彼はヴァイオリニストになりたがっていた[8]。本職の楽団に入れる程の腕前だったという。

1741年12月、叔母のエリザヴェータがクーデターでロシア女帝の位につくと、未婚で子供の無い彼女はすぐにペーターを養子にし、後継者に指名した。ロシア帝国の開祖・ピョートル大帝の血を引く男子はペーターただ1人だったからである。ところがペーターは母親がロシア皇女だったにも拘らず、幼い頃から受けていたスウェーデン王位継承者としての愛国教育で、スウェーデンの長年の敵対国ロシアへの敵愾心を涵養していた[9]

ロシア皇太子として

ピョートルが来た当時の冬宮殿。木造だったが、1754年から現行の冬宮殿の建設が始まる。絵画はエルミタージュ美術館所蔵。
エリザヴェータ女帝の夏の宮殿ロシア語版英語版(1756年)。モイカ運河畔に建てられていた。
ロシアに来た頃のピョートル(1742~44年?、ゲオルク・クリストフ・グロートドイツ語版作)

1742年2月5日、13歳のペーターはロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに連れて来られた。

周囲は初めて見るピョートル大帝の孫に興味津々だったが、エリザヴェータはペーターの貧弱な体と不健康そうな顔色に驚いた。その際、エリザヴェータが「おお神よ、何という無知な子なのだ」と嘆いたというが、この「невежество」という言葉は古くは「無作法」を意味し、決して「知能が劣る」という意味ではない。同月、エリザヴェータの戴冠式のために共にモスクワ[10]に赴き、5月6日の式では女帝の傍らに特別に設けられた場所に立った。ついで11月18日に正教に改宗し、ピョートル・フョードロヴィチ大公を名乗った。 しかし皇太子となり名を変えたところで、ロシアは彼にとって完全に異国であった。祖父がピョートル大帝である事以外は価値が無いかのような周囲の視線は彼の自尊心を傷つけるものだった。そんな中、ペテルブルクのネフスキー大通りにはハンザ同盟の事務所とルーテル聖ペテロ教会があり、ドイツ人経営の店も2ヶ所あった。14歳になった少年はその数少ない場所で故郷の言葉を聞き、不安を紛らわせていたらしい[11]

ピョートルはロシアでも良い教育を受けられなかったとされる。女帝エリザヴェータの母親・エカチェリーナ1世リヴォニアの農民出身で酒を好み、生涯文盲であったと言われる。その娘であるエリザヴェータは優しく気の良い女性であったが、反面激しやすく、些細なことで廷臣や召使い達を口汚く罵ったという。また、ダンスに長じ、旅行、観劇、仮装舞踏会に明け暮れ、聖書以外の本を読んだことがなく、大国の元首でありながら地理にも疎く、ロシアからイギリスまで地続きで行けるものと生涯信じていた程である[12]。ピョートルは皇太子として女帝の仮装舞踏会や長期の旅行に付き合わされる事になった。こうした勤勉とは程遠い享楽的な環境が思春期のピョートルに影響を与え、養育係・ヤコブ・シュテリンロシア語版が不安視した怠惰と虚栄心、動物への虐待といった生来の幼児性を増幅させていったとされる[13] 。彼はロシア語を覚えようとせずドイツ語で話し、正教会の儀式やロシア人の信仰心を公然と嘲笑した。教会での祈祷中に聖職者の真似をするという非常に無礼な振舞いをすることもあった[14]。ピョートルはロシアの皇位継承者でありながら、ロシア人やロシア的なものを軽蔑していたのである。特に嫌ったのはロシア式サウナ・バーニャであった。

一方でホルシュタイン=ゴットルプ公でもあった彼は、プロイセン王フリードリヒ2世に心酔しており、彼のミニチュアの肖像の指輪を嵌め、廷臣たちの前で胸像に恭しく接吻したり、肖像画の前で跪いたりした。当然、反プロイセン政策をとるエリザヴェータとしばしば衝突した。歴史家クリュチェフスキーによると、ピョートルは『本物の勇敢なプロイセン戦士』になるために連日酒宴を開いて大酒を飲み[15]、夕方まで素面でいることは少なく[12]、エリザヴェータは彼を後継者に選んだ事を早々に後悔したが、姉の忘れ形見である彼の行動を大目に見ていたという[9]

皇太子ピョートルの『奇行』の数々は、これまで専門家の間でも定説として長く語られ続けていた。しかしそれは「怠惰で知能が低い」「ルソフォビア(反露)」と印象付けるためのクーデター側によるプロパガンダである可能性が高いと、アレクサンドル・ミリニコフロシア語版以降多くの研究者が指摘している。 上述の彼が10代で既にアルコール依存症だったという話も、彼を『惨めな酔っ払いのホルシュタイン兵士』と嘲っていたエカチェリーナ2世による作話だと考えられている[16]。ピョートルの最も身近で彼を良く知っていた養育係シュテリン(1785年没)は回顧録を残す際、保身に走り真実を著さなかったのである[17]

結婚

ピョートルとエカチェリーナ、ゲオルク・クリストフ・グロートドイツ語版作、1745年頃。
結婚の際に与えられたオラニエンバウムの宮殿。この後2年をかけて修復され、現在では往時の美しさを取り戻している[18][19]
結婚から半年後、ピョートルがエカチェリーナに送った手紙(フランス語)。妻に拒絶されている様子が伺え、ピョートル側の事情で結婚後何年も夫婦関係は無かったとするエカチェリーナの主張を覆す証拠である。
ピョートルの愛人・エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ(1762年、アレクセイ・アントロポフ英語版作)。ピョートル同様に天然痘の痘痕は描かれておらず、美化された肖像画である。

1744年7月9日、16歳になったピョートルはエリザヴェータの指示で父方の又従妹ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプストと婚約、彼女は改宗してエカチェリーナ・アレクセーエヴナと名乗った。しかしその年の秋、ピョートルは胸膜炎を患い、続いて水痘、そして天然痘に罹った。ピョートルは隔離され、回復して宮殿に戻ったのは翌年2月末だったが、その姿はやつれ、変わり果てていた。顔に酷い痘瘡が残り、髪は抜け落ち、宮廷の女性の中には彼を見て気を失う者もいたという[20]。ピョートルは自分の容貌に強いコンプレックスを抱いた。数多く残る彼の肖像画に痘痕は描かれていない。

1745年8月21日、ピョートルはエカチェリーナと結婚した。しかし2人の間にはドイツ語で話せる以外何の共通点も無く、お互いの興味も気性も受け入れられない事が判るのにさほど時間を要しなかった。エカチェリーナは驚異的な頭脳の持ち主であり、ロシア語、ロシア正教、ロシアの風俗・慣習などを人一倍熱心に学び、意識してロシア人のように振舞い、ロシアに溶け込もうとした。一方、ピョートルの養育係ヤコブ・シュテリンはこの結婚を期に退職した[21]。シュテリンはその後もピョートルと親しく交流し、彼の治世最後の日を記録に残している[22]

ピョートルは結婚祝いとしてオラニエンバウム宮殿を与えられたが、彼はそこにホルシュタイン軍の分隊を呼び、プロイセンの軍服を着せて守備隊とした。駐屯している兵士の数はやがて1,500名にも上り、ピョートルは彼らにプロイセン式の軍事教練を施した。彼は幼い頃からプロフェッショナルの軍事司令官としての教育を受けており、後にエリザヴェータから第一士官学校の理事長に任命されている。

ピョートルの「神話」は数多いが、中でも軍事に関するエピソードは特によく知られている。彼は銃弾が飛び交う本物の戦場はもとより、射撃の音や大砲の発射音も怖れていた、などといった嘲笑的なものである[23]。エカチェリーナの回想録によると、ピョートルは夜のプライベートな時間も玩具の部隊を使った戦争のゲームに熱中していたという。彼はベッドの中と下に沢山の兵隊のフィギュアを隠しており、夕食の後、真っ先にベッドに入って寝ているが、エカチェリーナがベッドに入り、侍従が扉の鍵を掛けると同時に起き出して、フィギュアで遊び始めた。木、蝋、鉛で出来た様々なフィギュアは動いたり音が出たりするようピョートルが手を加えていて、中には大きく危険な物もあった。それらを使って夜中の1時や2時まで遊ぶのがピョートルの何よりの楽しみだった。ある晩、時間を掛けてそれらを並べ終わった時にネズミが現れ、兵隊の頭を齧った。ピョートルはそのネズミを捕らえて軍事裁判にかけ、死刑を宣告、専用に作った絞首台で処刑し、テーブルの上に吊るして3日間晒しものにしたという。しかしこのエピソードは誇張されているか作り話である。何故ならネズミは体の構造上、人間のように首を吊ってぶら下げる事は出来ないからだ[21][11]

1751年、養父だったアドルフ・フレドリクがスウェーデンの王座についた。知らせを聞いたピョートルはこう言った。「彼らは私をこの忌々しいロシアに引きずり込んだ、ここでは私は国家の囚人の様なものだが、私の自由にさせてもらえるなら、文明化されたロシア国民の王座につく事になるだろう」。

ピョートルは音楽への情熱を持ち続けていた。彼はエリザヴェータに隠れてプロのイタリア人ヴァイオリニストから指導を受けていた。エリザヴェータにとって音楽家は「賤業」であり、皇位継承者がそのような真似をするなど以ての外であった。一方、当時のロシアの宮廷では、音楽は専らイタリアから招聘した音楽家に頼っていた。歌曲をロシア語で歌える歌手もいなかった。バラライカだけがロシア人による演奏であった。ピョートルはこの状況を良しとせず、オラニエンバウムの宮殿内にペテルブルクで最初のオペラ劇場と音楽学校を造った。クレモナ、アマティ、シュタイナーといった良質な楽器を取り寄せ、中流階級の才能のある子供を集め、ピョートル自らヴァイオリンの指導をすることもあった。彼の教え子の中に、後に18世紀ロシア最高のヴァイオリニストとなるイワン・ハンドシキンがいた。冬の間は週に一度、午後4時から9時までコンサートが開かれた。宮殿内の劇場はマクシム・ベレゾフスキーの初舞台となった。ピョートルの尽力によってロシアの音楽文化は発展の端緒についたのである[8]

結婚から9年後の1754年10月1日、最初の子パーヴェル・ペトロヴィチが生まれた。夫婦がなかなか子供に恵まれなかった為、噂好きな宮廷の人々の好餌となったが、どの説も(エカチェリーナ自身の回想録での告白も含めて)、はっきりした証拠は無い[24]。パーヴェルはエリザヴェータの元で育てられる事になり、ピョートルは週に一度、息子に会う事を許された。結局、子供の存在が夫婦を近づける事にはならなかった。

ピョートルはミハイル・ヴォロンツォフ伯爵の姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを愛人とし、エカチェリーナもセルゲイ・サルトゥイコフ公爵始め複数の愛人を持った[25]。ピョートルは未来の皇帝として、宮廷の如何なる美女でも思いのままに選べた筈だが、ヴォロンツォヴァは宮廷で笑い者にされている大変な醜女であった。酒好きの彼女のオリーブ色の顔は痘痕だらけで、フランス大使ファヴィエは「ヴォロンツォヴァの醜さは言葉で言い表せない程である」と著書に記している。しかしヴォロンツォヴァはピョートルがこれまでの人生で一度も得られなかった温かさを持っていた。ピョートルのヴァイオリンを何時間でも聴く事ができ、彼の飼い犬を可愛がり、彼の気まぐれに付き合う事の出来る愉快な女性だった[11][26]。ピョートルとヴォロンツォヴァ、エカチェリーナとその愛人のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの4人で晩餐を共にする事も度々あったという。ポニャトフスキは非常に洗練された物腰の美男であった[9]

パーヴェルの誕生から3年後の1757年には女児アンナ・ペトロヴナが生まれたが、エカチェリーナによるとピョートルは妻の妊娠に立腹しており、「妻が何故再び妊娠したのか、神のみぞ知るだ。この子は私の子なのか、それを認めるべきか、全くわからない」と発言したという。アンナはポニャトフスキの子であるとされるが、2年後に亡くなった。

このようにエカチェリーナとの夫婦仲は破綻していたが、それでもピョートルは妻に信頼を寄せ続けており、困難な状況になると妻に助言を求めていた。エカチェリーナは如何なる問題に対しても必ず解決の糸口を見つけたので、彼は妻に皮肉混じりのニックネームを付けた。 Madame la Ressource、「リソース夫人」という意味である[27]。 ピョートルはまた、4月のエカチェリーナの誕生日には毎年1万ポンドの収入相当の領地を与え、皇帝に即位した直後にもエカチェリーナの債務を理由も聞かずに支払った[2]

即位

ピョートル3世のモノグラム
シュリッセリブルク監獄にイヴァン6世を訪ねるピョートル3世、1762年(1885年の作品)

エリザヴェータ女帝は1757年に脳卒中で倒れて以来、次第に健康状態が悪化していった。ピョートルはロシアの外交と国内政策に非常に批判的であり、開けっぴろげで感情的な性格から、それを隠そうとしなかった。そして国家評議会の一員としてロシアの参戦に公然と反対する発言をしたために、エリザヴェータによって評議会から追い出されていた[7]。その代償として1759年から第一士官学校の理事長に就任した訳だが、ピョートルは教育機関に関わり、科学と科学者を支援する中でミハイル・ロモノーソフらと教育改革について意見を交換する機会を得た。即位後の彼が熱心に教育改革に取り組む事になったのはこの時の経験が大きく影響している。

一方のエリザヴェータは自分の外交方針に断固として同意しないピョートルが後継者であることを非常に不安に思い、孫のパーヴェルに自ら帝王教育を施していた。側近たちも年齢と共に衰えて行く女帝の様体を懸念しながら見守っていた。大宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンらはピョートルを迂回して7歳のパーヴェルを皇位につけ、母エカチェリーナを摂政とするべきと考えていた。エカチェリーナを女帝の座につける事を考える者もいた。エリザヴェータは後継者変更の意思をピョートル本人も含めて周囲に気取られまいと警戒していたが、1762年1月3日、大発作を起こし、医師から回復は望めないと診断された。そして翌々日、遺言書を残さず崩御してしまった。

エリザヴェータ女帝の崩御に伴い、ピョートルは1762年1月5日にピョートル3世として第7代ロシア皇帝(Император インペラートル)に即位した。33歳、初代皇帝ピョートル1世(大帝)が没して以来初の成年男子の皇帝であった[28][29]

皇帝としての日々

皇帝となったピョートルは意欲的に国家運営に取り組んだ。彼は自分の目で直接見る事を信条とし、次々と問題点を発見していった。彼は護衛も付けずに一人でペテルブルクを馬で回り、貧しい人々に宮殿の金庫から持ち出した金を与え、彼らに気軽に話し掛けた。宮廷でも使用人に別け隔てなく接したと伝えられている[11]

歴史学者ミリニコフによると、ピョートルは午前7時には既に起きており、コーヒーを飲み煙草を燻らせた後、将軍や補佐官からの最新の報告を聞き、8時から廷臣たちを集め会議を開いた。これは通常3時間以上続き、その後宮殿広場に出て閲兵を行った。ピョートルはプロイセン式の軍服に身を包んでいた。解散後、元老院ロシア語版聖務会院海軍省造幣局ロシア語版を訪れ、工場を視察し、着工から8年・完成間近の冬宮殿の建設中に起こった問題を掘り下げた[30]。午後1時に昼食を外交官、招待された人々と共にするが、エカチェリーナはこの場に滅多に現れなかった。昼食後にようやく休憩を取り、その後は再び執務室に戻るか、懇親会になるかで、コンサートが開かれる事も多く、ピョートルは自らヴァイオリンを手にとった。夜遅くまで続く晩餐では世俗的な会話や冗談の中に重要な問題についての議論が散りばめられていて、外交官はこの場で聞いた話を本国に伝えた。時折、緊急事態に対応するためにピョートルは顧問と共に退出する事があった。自室に戻るのはいつも午前0時を過ぎていたが、どれ程遅くなろうと朝は早く起きた。ピョートルの多方面に渡る精力的な活動は祖父のピョートル大帝を彷彿とさせた。

だが、ピョートルが熱意を持って取り組んだ改革はロシアの大半を占める保守層の猛烈な反発を招き、即位から僅か半年で彼の治世は終止符を打たれる事になる。

国内政策

肖像が刻まれた10ルーブル金貨(1762年)

ピョートルはまずエリザヴェータが追放した政治犯達を赦免し、人々から恐れられていた秘密警察を廃止し、拷問も禁止した。中でも最も重要とされる法令が、貴族の国家への奉仕義務と軍務を撤廃し国外旅行の自由を保証する『貴族の自由に関するマニフェスト』(Манифест о вольности дворянства)である。これはロシア貴族が様々な便益を特権的に独占し続ける基礎となった。一方でピョートル大帝の時代から激しい迫害を受け国外に脱出した古儀式派の帰国を許すなど、信教の自由を認める宗教改革にも着手した。教会の領地を国有化し、彼らの財政基盤の弱体化を通じて、ピョートル大帝の統治の間でさえも深刻な問題であった聖務会院の政治への影響力を弱めようとした。これらは当然聖務会院から大きな反発を買った。教会からキリスト以外のイコンを外し、聖職者に髭(知恵と伝統の象徴)を剃ってルーテル教会の牧師の服装をするよう強要したという話は、現代の作家によって創られたフィクションである。エカチェリーナはピョートルが国教をルーテル教会に変えようとしていたと回顧録の中で述べているが、これも全く信憑性に乏しい。その他に塩税[31]の廃止、都市の改善に関する法令(石造りの住居の促進、防火対策、衛生および医療事業など)、500万ルーブルを投じてのロシア初の紙幣の発行、貿易・産業活動を活性化させるための国立銀行ロシア語版英語版の設立など、ピョートルは僅か186日間の治世で192もの法令を出し改革を断行した。しかし後世、ピョートルは『改革者』として名声を得る事が一番の目的であり、彼に確固たる信念があったわけでなく、全ての法令は『人気取り』が目的だったと言われる事になる。先帝エリザヴェータよりも優れた皇帝であることを証明したかったに過ぎないと帝政時代の歴史家クリュチェフスキーは述べている。

文化面では、外国の有名な作曲家と劇作家をペテルブルクに招こうとし、愛好家によるアマチュアコンサートも奨励した。クーデターの直前、ピョートルはナポリから旧知のフランチェスコ・アラヤイタリア語版英語版を再び召喚した。アラヤはこの夏にロプシャ宮殿ロシア語版で上演されるオペラの依頼を受けた[28][13][32]

外交政策

プロイセンの黒鷲勲章

ピョートルはエリザヴェータが行ってきた反プロイセン的な外交政策を放棄した[9]。当時のロシアは七年戦争の最中だったが、ピョートルは前述の通り、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していたため、彼は5月5日のサンクトペテルブルク条約でプロイセンと即時講和して、6月19日にはプロイセンとの攻守同盟を締結した。講和ではロシアが多大な人的犠牲と資金を払って勝ち得た領地をすべてプロイセンに返還した[2]。連敗を重ね、首都ベルリンも陥落寸前、自殺を考えるまでに追い詰められていたフリードリヒはこれによって救われた。賠償金も要求しなかったため、ロシア国内及びにロシア軍内から怨嗟の声が上がった。当のピョートルはフリードリヒから黒鷲勲章を贈られて感激していた。また、軍隊の規律や制服をプロイセン風に改めたため、伝統的に反プロイセン感情の強い軍部の反感を買った[33]。さらにウィーンハプスブルク帝国宮廷に脅しをかけ、プロイセン王の要求を全て受け入れなければ宣戦布告するとした[2]。一方で自らの領するホルシュタインに関心を持ち、父の代に奪われていたシュレースヴィヒ[34]を、ロシア軍を投入してデンマークから奪回しようと計画[13]、来たる7月6日にメクレンブルクを通過してデンマークに侵攻するようロシア軍に命じた[2]。この計画は当時、ロシアにとって何らの利益ももたらさないものであるとされた。しかしながらこの土地は戦略的価値があり、バルト海と北海の権益をロシアにもたらす拠点となり得た[8]。だが侵攻はロシア軍がデンマーク軍と遭遇する直前にロシア本国の政変により取り消された。

ピョートルの外交政策に堪忍袋の緒が切れた軍部がついに決起したのである。クーデターの陰の首謀者は皇后エカチェリーナであった。

クーデターによる廃位

エカチェリーナが滞在していたペテルゴフのモン・プレジール宮殿
近衛兵と群衆に迎えられ冬宮殿のバルコニーに立つエカチェリーナ
オラニエンバウムの遊戯要塞(模型)。殆どが木造であり、18世紀末に解体された[35]。宮殿のみが現存。
ロプシャ宮殿(1917年)
火災に遭った後、倒壊が進むロプシャ宮殿(2015年)
ピョートルが軟禁中のロプシャで書いた生涯最後の手紙。他国へ行かせて欲しいとエカチェリーナに訴えている。この手紙に返事は無かった。

ピョートルとエカチェリーナの関係は破綻を通り越し、終焉を迎えようとしていた。

4月、大勢の賓客が集まる宴席でエカチェリーナを「Folle(馬鹿)」と怒鳴って侮辱した。ピョートルが乾杯の音頭を取った際、エカチェリーナが酒を飲もうとしなかったのが理由だった。この直前、彼女は愛人の近衛士官グリゴリー・オルロフの子を密かに産んでいた。夫婦関係が完全に無くなっていたため、エカチェリーナも妊娠を表沙汰に出来なかったのである。出産が始まった時、エカチェリーナの召使はペテルブルクの自宅に火を放った。当時のペテルブルクの街は大半が木造建築であり、延焼が懸念された。お膝元で起きた火災に、ピョートルは宮殿を離れて現場に向かった。現地へ行き自分の目で確かめるのがピョートルの信条だった。その間にエカチェリーナは出産を終えたのである[36]。しかしこの話は後世に「火事見物が趣味のピョートルが現場に釘付けになっている間に」と歪めて伝えられる事になる。また、エカチェリーナの妊娠出産をピョートルは知っていたという説もある。たとえ不義の子であっても皇位継承権があるため、ピョートルはエカチェリーナとの離婚を急いだというのだ。


正妻を修道院に幽閉して愛人と再婚したピョートル大帝に倣い、ピョートルはエカチェリーナを修道院に入れ愛人のヴォロンツォヴァと再婚する意思を公言し始めた。決意を表明するかのように6月20日、プロイセンとの攻守同盟締結の祝賀会で、后妃の証と言って良い聖エカテリーナ勲章英語版ロシア語版 [37]をヴォロンツォヴァに与えた。さらに、冬宮殿の私室の隣にヴォロンツォヴァの居室を設けた。

一方で、これまで彼が次々と打ち出した政策は軍部と正教会にとって敵対行為とも取れるものだった。『プロイセンかぶれの裏切り者』ピョートルへの強い反感は『ロシア人よりもロシア人らしい』皇后エカチェリーナへの支持と結びついていった。

5月、クーデターの動きがあるという情報がもたらされたが、ピョートルは深刻に受け止めず、何の対策も講じなかった。

夏の間宮廷はオラニエンバウムに移り、ピョートルと家臣らはペテルブルクを離れた。エカチェリーナもペテルゴフに移り、首都ペテルブルクは空(から)になっていた。

1762年7月9日(旧暦6月28日)、翌日はピョートルの聖名祝日であり、エカチェリーナ主催の祝賀会がペテルゴフで盛大に行われる予定であった。その祝賀会について意見を求められたピョートルはエカチェリーナに会うため、オラニエンバウムからペテルゴフに出向いた。しかし、そこに妻の姿は無かった。エカチェリーナは早朝、グリゴリー・オルロフの弟で同じく近衛士官のアレクセイ・オルロフから「準備万端整った」と、クーデターを今日実行に移すと知らされ、急遽ペテルブルクに戻っていた。そしてピョートル不在の隙を突く形で近衛連隊[38]クーデターロシア語版を敢行した。近衛連隊はこれまで幾度となく繰り返された皇帝の交替、宮廷革命の度に主役を担ってきた。今回、エリザヴェータ時代の緑色の軍服に着替えた近衛連隊は、グリゴリー、フョードル、アレクセイのオルロフ兄弟が中心となって動いた。エカチェリーナ擁立に大いに貢献したグリゴリー・オルロフは、エカチェリーナ女帝の下で権勢をほしいままにする事になる。他に有力な政治家・将官らも早くからクーデターの準備に加担していた。ニキータ・パーニンミハイル・ヴォルコンスキーロシア語版キリル・ラズモフスキーロシア語版らである。中でもニキータ・パーニンはピョートルの外交政策に強く反対していた。

全軍がエカチェリーナに忠誠を誓い、カザン聖堂で礼拝が行われ、エカチェリーナの即位および皇位継承者がパーヴェルである事が宣言された。エカチェリーナは冬宮殿に赴き、元老院と聖務会院も即位を承認したが、大宰相ヴォロンツォフは自分の姪と結婚することを公にしていたピョートルに義理立てしエカチェリーナに忠誠を誓うことを拒否、自宅に軟禁された。

クーデターとエカチェリーナ即位の報に驚愕、狼狽したピョートルは側近の老将軍ブルクハルト・ミュンニヒから即刻クロンシュタット[39](ペテルブルク沖にある島。要塞と海軍基地がある)へ避難するよう助言されたが、これを拒否、オラニエンバウムの遊戯要塞ロシア語版に立て籠もり、私兵であるホルシュタインの守備隊に防衛させる作戦をとった。同日夕、エカチェリーナと近衛連隊が大挙してオラニエンバウムに向かって来ていると知ると、作戦を放棄、ヴォロンツォヴァなど女性を含む廷臣たちと共にガレー船でクロンシュタットに向かったが、クロンシュタットの部隊は既にクーデター側に寝返っていた。接近するピョートルの船に「引き返さなければ発砲する」と岸から警告してきたため、船は係留も諦め、やむなく引き返した。(この時期は白夜であり、日没は午後10時を過ぎ、日没後も薄明が長く続く事に留意されたい)。

翌7月10日、ピョートルらはどうした訳かオラニエンバウムに戻った。船には食料、衣類などの生活物資が相当な量積み込まれており[40]、そのまま亡命も出来た筈だったが。そしてホルシュタインの守備隊を突然解散させてエカチェリーナに恭順の意を表明した。ピョートルと共にいた廷臣たちは、ペテルブルクの様子を確かめて来ると言って出掛けたまま帰らなかった。彼らはペテルブルクでエカチェリーナに忠誠を誓っていた。

正午、ピョートルは『故郷のホルシュタインに戻り、哲学者[41]となってヴォロンツォヴァと共に静かな生活を送る』という願望を抱きながらグリゴリー・テプロフロシア語版英語版[42]が用意した退位宣言に署名した[11]。この退位宣言では後継者指名がされていなかった。ピョートルはエカチェリーナでなく息子パーヴェルの即位を強く望んでいたと思われる。(譲位と引き換えにピョートルを故郷のキールに帰すという、エカチェリーナの空約束が署名の前にあったと見る研究者もいる)。そして自ら出向いてエカチェリーナに慈悲を乞うよう、ただ一人残ったミュンニヒ[43]に説得されペテルゴフに向かったが[44]、到着したところで逮捕された[9]。ピョートルは力無く椅子に座り込み、涙を流していたと伝えられる。同行していた愛人ヴォロンツォヴァは懇願むなしく連れ去られた。同日夜、ピョートルは首都郊外のロプシャ宮殿に送られ軟禁状態におかれた。アレクセイ・オルロフを筆頭に約100名の近衛兵が警戒に当たった。ピョートルは愛犬のパグと自分のヴァイオリンを届けて欲しいと願ったが却下され、部屋から出ることはおろか、窓辺に近づくことさえ許されなかったという。

明けて11日、ピョートルは精神的な打撃のために前夜から頭痛と吐き気を訴え、水で薄めたワイン1杯しか摂れていない状態であった[45]。翌12日に医師の派遣を要請する書簡をペテルブルクに送った[46]。最初はエカチェリーナ2世の宮廷もピョートルの処遇について悩み、廃帝イヴァン6世の如く終身シュリッセリブルクに投獄する、故郷ホルシュタインに送還する、といった案が出されたが、いずれも危険すぎるとして却下された[2]

だが、ピョートルは17日に突然死去した。

突然の死

アレクセイ・オルロフ、ウィギリウス・エリクセン作。
ニキータ・パーニン(フョードル・ロコトフ画、1760年)

ピョートルの死は公式には持病のの激痛による発作死と発表され、ヨーロッパ諸国の嘲笑を買った[45]

しかし、一連の状況下で彼が体調をかなり悪化させていたのは疑いようもないが、余りに突然であり、ピョートルは暗殺されたのだという噂が当初からしきりに囁かれていた。 その後の研究でアレクセイ・オルロフとフョードル・バリャチンスキーロシア語版によって絞殺されたとの見方が長らく(約200年間)定説となっていた。ソヴィエト政権下(1922年 - 1991年)に於いて国内・国外の歴史学者達は歴史資料の入手が困難となり、帝政時代に関する研究は滞ることを余儀なくされていた事も大きな要因であろう[11]。ところが、オルロフらによる殺害説の根拠とされたオルロフのエカチェリーナ宛の手紙[47]は偽造されたものであるとの言語学者による研究結果が1995年に発表され、ピョートルの死は再び謎に包まれてしまった[46][48] 。また、同研究者はピョートルが死亡したのは17日ではなく14日以前だったと主張している。というのは14日にペテルブルクからロプシャに派遣された外科医が、治療薬ではなく解剖用の道具と防腐剤を持って向かっていたからであり、この事は14日の時点でピョートルの死が既にペテルブルクに知れていた証拠であるという[46]

ともあれ、エカチェリーナの命令で遺体は剖検され、重度の心機能不全、腸炎、脳卒中の徴候が認められた。毒殺が疑われたが、胃壁に異常は無かった。生前に頭痛を訴えていたことから、死亡原因は脳卒中、つまり自然死であるとする見方も現在では一定の支持を得ている[9]

殺害説をとる研究者の中にはニキータ・パーニンが関わっていると主張する者もいる。彼はパーヴェルの養育係であり、正統な後継者はロマノフの血を引くパーヴェル以外にあり得ないとの信念の下、エカチェリーナの即位には反対で、なおかつオルロフ家の台頭を苦々しく思っていた。エカチェリーナが愛人の一族と組んでピョートル3世を謀殺したとなれば、その玉座は血にまみれているのだ。エカチェリーナとオルロフ家にスキャンダラスな汚名を着せ、エカチェリーナ即位の正当性を損ねる事が出来れば、パーニンにとっては願ったり叶ったりという訳である[48]

しかし実際にエカチェリーナがピョートルの暗殺を命令したかと言えば、これは研究者全てが否定していると言って良い。近衛連隊が再びピョートルを担ぎ出してエカチェリーナに攻撃を仕掛けてくる可能性は皆無に近く、しかも、シュリッセリブルクの監獄内ではまだイヴァン6世(21歳)が生きていた。『夫殺しの皇位簒奪者』という不名誉が終生付き纏う命令をエカチェリーナが出すとは考えにくい。実際、ピョートルの死でむしろ不利益を被ったと言える。息子パーヴェルとの親子関係が修復不可能なまでに悪化してしまったのもその一つであろう。ピョートルの死を知らされたエカチェリーナは「私の名誉は地に落ちた!子孫はこの無意味な犯罪を絶対に許さないだろう」と嘆いたと伝えられている。エカチェリーナに落ち度があるとすれば、ピョートルに手出しせぬよう、危険を予測して先に命令を出しておかなかった事であろう [9][49][50]

埋葬

受胎告知教会に葬られたピョートルの棺は34年後(1796年11月)に開かれた。これはその時の図。

ピョートルの葬儀は7月19日にアレクサンドル・ネフスキー大修道院の一角にある受胎告知教会で行われた。

歴代の皇帝が埋葬されているペトロパヴロフスキー大聖堂でなかったのは、彼が戴冠式を行う前に死亡したため、正式に皇帝の位についていないと判断されたからだった。ここ受胎告知教会は皇族と高位の貴族達の墓所であり、3年前に1歳余りで亡くなったアンナ・ペトロヴナ、イヴァン6世の母アンナ・レオポルドヴナらの墓もここにあった。

粗末な棺の中に横たわるピョートルは白いカフスのついた水色のホルシュタインの竜騎兵の制服を着て、胸に置かれた手には白い大きな手袋が嵌められていた。制服は古ぼけ、手袋には乾いた血痕が付いていた。かつらを着けていない頭の髪はひどく乱れたままだった。元皇帝ですらないとされた彼は『ホルシュタイン竜騎兵隊中尉・ホルシュタイン=ゴットルプ公』であった。目撃者の中には、ピョートルの遺体は顔が青黒く、窒息した形跡があると主張する者もいたが、棺の近くに立ち止まることは禁じられていた。

3日間のパニヒダの後、21日にピョートルの棺はイコノスタシスの王門の真向かい、『娘』アンナ・ペトロヴナの墓の背後に埋葬された[45]。エカチェリーナはニキータ・パーニンの諫言で体調不良を理由に葬儀に列席しなかった。エカチェリーナはその後、オラニエンバウムのピョートルの劇場も音楽学校も閉鎖した。

ピョートルが尊敬していたフリードリヒは「子供がベッドに連れて行かれるように、皇帝の座から降ろされた」と評した。ピョートルは生涯を通して、権力闘争に備えていなかった。

ピョートルの不可解な死はこの後、民衆の間で根強い生存説を呼び、僭称者がロシア国内だけで40人以上も出現したと記録されている[51]。最後の僭称者が逮捕されたのは彼の死から35年後の1797年だった[27][36]

クーデター側によって歪められた実像

エカチェリーナの「武器」

皇太子パーヴェル・ペトロヴィチ(フョードル・ロコトフ画、1761年)

エカチェリーナのピョートルに対する攻撃は彼の死後も続いた。彼女は権力掌握を様々な方法で正当化しなければならなかった為、彼の人格、行動を嘘で塗り固めて喧伝した。国内で歓迎されていたピョートルの改革も、エリザヴェータ女帝の秘書であったドミートリイ・ヴォルコフらの発案であった事にした。更に、女帝の座を脅かし得る存在を、自身の名誉を傷つけてでも排除しようとした。

エカチェリーナとパーヴェルの親子関係は非常に険悪なものであった事はよく知られているが、パーヴェルはピョートルの子ではないという噂があった。エカチェリーナの当時の愛人セルゲイ・サルトゥイコフが父親だというのだ。しかし研究者達の多くは、この噂は他ならぬエカチェリーナ自身がある意図を持って流したものだと指摘する。

ピョートル3世を倒して玉座についたドイツ人・エカチェリーナにとって、ロマノフの血を引くパーヴェルの存在は、我が子ながら最大の脅威だった。片や母親から離されてエリザヴェータ女帝の元で育てられたパーヴェルもまた、『父・ピョートルのように』エカチェリーナに暗殺されるのではないかという強い猜疑心を抱いていた。エカチェリーナが恐れたのはパーヴェル本人ではなく、彼の後ろ盾のパーニンを始めとする有力な貴族達であった。ロシア帝国は伝統的に貴族の力が強く、彼らの利害関係によって皇帝が次々と交替させられて来た。エカチェリーナが即位出来たのも彼らの力によるものであり、「夫殺し」の噂まで付き纏うエカチェリーナ自身の権力基盤は弱く、今度は自分がピョートルと同じ道を辿る事になるかも知れないのだ。それを防ぐ為には、パーヴェルを自分よりも継承権が無い事にせねばならない。それ故にエカチェリーナはパーヴェルの父親をセルゲイ・サルトゥイコフだとする必要があった。帝政末期の歴史家は以下のように述べている[52][53]

エカチェリーナの主力武器は「」であった。
彼女は幼少期から老年期まで生涯に渡ってその武器を使い続けた。彼女はヴィルトゥオーソ(達人)だった。標的は両親、教師、夫、恋人、国民、外国人、同時代の人々と子孫であった。 — 歴史家ヤコブ・バルスコフロシア語版

黄金時代の裏で

クーデターから2年後の1764年には、エカチェリーナの皇位に疑問を持つグループによるイヴァン6世を牢獄から奪還する動きがあった。エカチェリーナは有力貴族たちを懐柔するために、彼らを優遇し様々な特権を与えた。それはピョートルの『貴族の自由に関するマニフェスト』を更に強化したものだった。国家への奉仕義務が減った貴族たちは、自身の領地の経営に力を注げるようになった。加えて、エカチェリーナは農奴への暴虐を黙認するような政令を発した。結果、農奴たちは文字通り奴隷のように酷使され、領地から生み出される富によって貴族たちはエカチェリーナの治世下で黄金時代を迎える事になった。農奴解放を志していた啓蒙君主はその志とは逆の政策をとる事になってしまった[36][12]

死後戴冠、そして再埋葬

受胎告知教会から冬宮殿に向かうピョートル3世の棺の行列。15メートル超の長大な作品だが、葬列を見たイタリア人画家が記憶を元に描いたもので、背景の建物などは全く不正確である[54]
ピョートル3世のカストルム・ドロリス
サンクト・ペテルブルクペトロパヴロフスキー大聖堂に安置されたピョートル3世の(奥中央)。左隣はエカチェリーナ2世、右隣は母アンナ・ペトロヴナの棺。

ピョートルの死から34年後の1796年11月17日、エカチェリーナが崩御すると息子のパーヴェル1世はすぐさま父親の再埋葬式に着手した。

11月25日午前10時、受胎告知教会に出向いたパーヴェルは王門の中へ入り、宝座から帝冠(Большая императорская корона)を取って自ら被った。そして永遠の記憶の祈祷を行い、ピョートルの棺の上に帝冠を置いた。同じ日の午後2時には冬宮殿で皇后マリア・フョードロヴナがエカチェリーナの遺体にも帝冠を被せ、午後7時に納棺が行われた。

12月1日、ピョートルの墓が受胎告知教会からペトロパヴロフスキー大聖堂に移される事が発表された。

翌12月2日は凍てつくような寒い日で、気温は氷点下30度を記録した。午前11時、受胎告知教会の正門を出発したピョートルの棺は冬宮殿に向かった。近衛連隊と陸軍部隊が教会から宮殿までのネフスキー大通りの両脇に整列し、葬列を見守った。その際、60歳のアレクセイ・オルロフが棺の前でビロードの枕に載せられた帝冠を素手で捧げ持ち、5キロメートルの道のりを2時間半かけて歩かされたという[55]。棺は宮殿内の礼拝所に運ばれ、エカチェリーナの棺とそれぞれカストルム・ドロリス(Castrum doloris)に安置された。

12月5日、二つの棺はペトロパヴロフスキー大聖堂に運ばれた。葬列はエカチェリーナの棺を乗せたチャリオットが前を進み、帝冠が置かれたピョートルの棺を乗せたチャリオットがすぐ後に続いた。『皇帝ピョートル3世とその后エカチェリーナ・アレクセーエヴナの葬列』である。更にその後方には皇帝パーヴェルと皇后マリア、皇子皇女達が従った。マリアは泣いていたが、パーヴェルの顔には悲しみではなく怒りの表情が浮かんでいたという。

12月18日、2週間のパニヒダを終え、ピョートルはエカチェリーナと同時に埋葬された。不仲だった夫と妻は死後にようやく並んで眠る事となった。そしてピョートルの隣は彼を産んだ直後に亡くなった母アンナ・ペトロヴナ(享年20)の墓だった。アンナはホルシュタインで亡くなったが、遺言により遺体はロシアに運ばれ、この大聖堂に埋葬されていたのである[9][5]

再評価の動き

生まれ故郷のキールに立つ銅像。FRIEDEN Миръ(ドイツ語とロシア語で「平和」)と書かれた巻物を持ちサンクトペテルブルクの方角を向いている[56]
オラニエンバウムに2018年に立てられた銅像。プレオブラジェンスキー連隊の制服を着ている。

一般的に「軽率で無能な君主」「子供っぽく男性機能も欠陥がある」と評されてきたが、その評価はクーデターを起こしたエカチェリーナ2世の治世に為された、クーデター正当化のプロパガンダ的要素が多分に含まれている。実際には政策の多くが好意的に受け取られ、またエカチェリーナ2世時代に継承された。具体的にはプロイセンとの同盟は継続され、着手しかけていた教会領地の国有化もエカチェリーナ時代に実現している。プガチョフの乱を起こしたエメリヤン・プガチョフ[57]に代表されるピョートル3世を名乗る人物が多数出現した事実は、彼が一般国民から人気があった証明であるといえる。人物像および政治手腕については再評価されるべき点が多いが、プロイセンとの無償講和で軍隊の信望を失ったことがピョートルの運命を決してしまった[58][59]

ロシア生まれ・ドイツ在住の歴史家で作家のエレナ・パーマー英語版は、これまで語られてきたピョートルの人物像を完全に否定する。ピョートルは4歳の時に養育係となったキール大学の学長から宗教、哲学、法を学び、同大学の優秀な教授たちが招待されて彼らからラテン語、数学、製図、化学、フランス語、天文学、地理学を10年間学んだという。読書家であり、ラテン語を始めとする語学にも堪能で、あらゆるジャンルの書物を原語で読んでいたという。ロシア帝国最大の歴史家ヴァシリー・クリュチェフスキーによる著作が、『"馬鹿げたホルシュタイン教育学"とその"不幸な犠牲者"』としてのピョートルを印象づけてしまったのは、クリュチェフスキーが他国語を理解できず、ドイツに関する知識が全く無かった為であるという。加えて、芸術の問題にも明らかに無知であり、ピョートルの音楽・文化活動を皮肉を持って説明したと指摘する。またパーマーは、ピョートルについて語る時に欠かせない、彼が常に兵隊のミニチュアで遊んでいたという話は、若いエカチェリーナが『憎しみのプリズム』を通して彼を見たための誤解であったろうと分析する。ミニチュアの兵士や兵器をジオラマの中に並べて軍事作戦を考案するのは、軍の最高司令官である皇帝の地位を約束されたピョートルにとって必須の学問だったのだ[7]

アレクサンドル・ミリニコフは「ロシアの歴史の中で最も偽造された時代の一つ」であると明言している。19世紀から20世紀にかけて出回ったピョートルの伝記が軽蔑的な観点のみで書かれていたのは、エカチェリーナ、エカテリーナ・ダーシュコワピョートル・パーニンといった、ピョートルを裏切った人々の回顧録のみを資料とし、フランス大使・ファヴィエ等の外国人が残した資料を一切無視していたからである。帝政時代の研究はソビエト時代に停滞・もしくは歪められ、1977年に出版されたアンリ・トロワイヤの「女帝エカテリーナ」も、そうした旧い伝記を元に書かれたものだった。それ故に、人々の中で彼のイメージは明らかに否定的だった。しかし最近、歴史家たちはこの皇帝がロシアに対して非常に明確な奉仕をしてきたという証拠を発見し、そして彼の支配が長期に渡っていたならば、ロシア帝国の住民に明白な利益をもたらしたであろうという結論に至っている(次項を参照)[58][60]。エレナ・パーマーはピョートルがいなければチャイコフスキーグリンカも、マリインスキー劇場、そしてボリショイ劇場も存在しなかったであろうと断言する[7]

2014年6月、再評価の動きに合わせて生まれ故郷のキールにピョートルの銅像が立てられた。募金10万ユーロが一般市民から寄せられ、ロシアの彫刻家アレクサンドル・タラティノフが作成、玉座の横に立つピョートルは手に"FRIEDEN Миръ 1762 Петр Peter"(ロシア語とドイツ語で「平和 1762 ピョートル ペーター」)と書かれた巻物を持っている。ピョートルのピースメーカーとしての側面を讃えたもので、銅像はペテルブルクの方角を向いている。 ドイツに続いて2018年、オラニエンバウム(現・ロモノーソフ)でも銅像が立てられた。第二次大戦で損傷を受けなかった[61]ピョートルの宮殿は2016年から2018年にかけて1億5800万ルーブルをかけて修復され、完成披露の式典ではピョートル作曲のヴァイオリン曲も演奏された。ピョートルの人物像も現在の歴史科学において『僅か6ヶ月の間に多くの重要な改革を実行した賢明な君主』という評価に次第に置き換わりつつある[62][18]

ピョートル3世が取り組んだ改革の一覧

ピョートル3世(フョードル・ロコトフ英語版ロシア語版画、1762年)
  1. 教育改革
    • すべての子供たちのための義務教育
    • 貴族の子弟のための職業訓練
    • 職人のための職業訓練計画
    • 教師の資格要件
  2. 経済改革
    • 国立銀行の設立
    • 輸出促進のためのルーブルの切り下げ
    • 貴族のための土地保有独占の廃止
    • 塩税の廃止
    • ブルジョア中産階級の推進
    • 遠隔地のインフラ
    • 対外貿易の自由化によるロシア経済の強化
  3. 教会改革
    • 教会の財産の国有化
    • 教会の権力者からの農民の解放
    • 宗教的寛容と良心の自由
    • 教会の腐敗や不祥事の取り締り
  4. 司法と社会の改革
    • 拷問の禁止
    • 秘密警察の解散
    • 貴族の奉仕義務の廃止
    • 政治的に迫害された人々に対する恩赦
    • 辺境地への追放の代わりに懲役
    • 統一ロシアの法律書の計画
    • 被告を支援する司法改革
    • ロシアの貴族のための海外旅行と設立の自由
  5. 都市改革
    • 石造りの住居の促進
    • 防火対策の強化
    • 衛生および医療事業の推進

登場する作品

脚注

  1. ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、94頁。ISBN 978-4-334-03811-3 
  2. ^ a b c d e f Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Peter III." . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
  3. ^ 生まれたばかりのペーターが洗礼を受けた数日後、城の前で祝賀の花火が上げられたが、その際火薬箱に火が回り大勢の死傷者が出た。ペーターの不吉な前兆だと言う者がいたが、すぐに大きな不幸が訪れた。侍女たちが「体に障る」と引き止めたにもかかわらず、母・アンナは「私達ロシア人はあなた方のように甘やかされていない」と笑い、非常に冷たい風の吹き付ける開け放った窓辺に立ち、花火と灯火を見ていた。そして風邪を引き高熱を出して10日後に亡くなった。夏、ペテルブルクから迎えに来た帆船に乗せられ、アンナの遺体は故国に帰って行った。(アレクサンドル・ミリニコフ著「ピョートル3世」よりヤコブ・シュテリンの回想録)
  4. ^ 勉強中に窓の外を少人数の兵士たちが行進すると、少年は本とペンを放り出し、窓の方に走って行った。兵士たちの行進が続く限り、彼を窓から引き離すことは不可能だった。(アレクサンドル・ミリニコフ著「ピョートル3世」よりヤコブ・シュテリンの回想録)
  5. ^ a b Царская усыпальница”. ПОКРОВ. 2019年1月21日閲覧。
  6. ^ Петр III Федорович”. Русская историческая библиотека. 2019年1月16日閲覧。
  7. ^ a b c d Царь Петр III, или 13 ошибок историка Ключевского. Часть1”. Сноб (2014年6月13日). 2019年2月2日閲覧。
  8. ^ a b c Император Петр III”. livejournal (2015年6月3日). 2019年1月21日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h Петр III Федорович”. vidania.ru (2017年11月1日). 2019年1月14日閲覧。
  10. ^ ロマノフ王朝の戴冠式は初代ミハイル・ロマノフ以来モスクワのウスペンスキー大聖堂で行われるのが慣例。
  11. ^ a b c d e f Петр III”. e-reading.club. 2019年1月21日閲覧。
  12. ^ a b c 新人物往来社"皇女アナスタシアとロマノフ王朝-数奇な運命を辿った悲運の王家-"p103-p104
  13. ^ a b c Prominent Russians: Peter III”. Russiapedia (2017年11月1日). 2019年1月14日閲覧。
  14. ^ Император Петр III”. Национальный художественный музей Республики Беларусь. 2019年1月14日閲覧。
  15. ^ を患った原因とも言われる。家庭教師による授業中も長く椅子に座っている事が困難で、室内を歩き回ったという。しかし彼の飲酒についてはエカチェリーナ以外は誰も触れておらず、ピョートルはむしろ酒を飲まなかったのではないかという研究者もいる。
  16. ^ エカチェリーナは1753年11月1日、モスクワのゴロヴィンスキー宮殿(現エカテリーナ宮殿ロシア語版英語版)で火災が起きた際、ピョートルの寝室から運び出された家具の中はワインで一杯だったという話を自叙伝に記しているが、これも恐らく作話であろう。11月のモスクワでは室内に保存されたワインは凍るのである。ワインは地下のワインセラーで温度管理される事をエカチェリーナは知らなかったと思われる。
  17. ^ Петр ΙΙΙ был полоумным”. История России (2014年9月7日). 2019年2月11日閲覧。
  18. ^ a b Дворец Петра III открылся после реставрации”. ГМЗ «Петергоф» (2018年5月24日). 2019年1月30日閲覧。
  19. ^ Дом при крепости: в Ораниенбауме отреставрировали дворец Петра III”. карповка (2018年5月30日). 2019年1月30日閲覧。
  20. ^ Император Петр III и Екатерина Алексеевна.”. Три века Ропшинской усадьбы (2011年10月29日). 2019年1月28日閲覧。
  21. ^ a b Peter III”. SAINT-PETERSBURG.COM. 2019年1月15日閲覧。
  22. ^ Штелин. Записка о последних днях царствования Петра III”. Российский мемуарий. 2019年2月11日閲覧。
  23. ^ History’s Nutcases: Czar Peter III of RussiaI”. History Things. 2019年1月15日閲覧。
  24. ^ 最もよく知られた説が、ピョートルの包茎が原因であり、結婚後も夫婦関係は無かったが手術によって機能を回復したというものである。一方エカチェリーナは回想録で「夫は"方法"を知らなかった」と述懐しているが、ピョートルが結婚の翌年、エカチェリーナに宛てた手紙には「今夜を私と過ごさねばならぬか、などと心配しないで欲しい。私たち2人にとって1つのベッドはもはや狭すぎることになった。お前と二週間断絶したあとで、お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫は・・・(後略)」と書かれている。この内容を見る限り、妻のほうが夫を嫌って遠ざけていたように取れる。エカテリーナ2世がクーデター”. RUSSIA BEYOND (2013年7月9日). 2019年1月14日閲覧。
  25. ^ 世継ぎが生まれないことにしびれを切らしたエリザヴェータがエカチェリーナに愛人を持つことを許したと、エカチェリーナは回想録で告白しており、パーヴェルはピョートルの子でなく、サルトゥイコフの子であると示唆している。しかし肖像画に見るピョートルとパーヴェルの風貌には類似点があり、性格も共通するものがある。実はエカチェリーナの最大の脅威であったパーヴェルの、皇帝の座につく正統性を毀損したいがためのエカチェリーナの作話だったと推察する研究者は少なくない。
  26. ^ アンリ・トロワイヤによる伝記を元にした池田理代子の「女帝エカテリーナ」では、飲んだくれで醜女のヴォロンツォヴァを愛人にすることで、「お前はこのような女にも劣る」と妻のエカチェリーナを侮辱したと解釈されている。
  27. ^ a b 7 важных фактов из жизни императора Петра III”. Русская Семерка (2016年10月3日). 2019年1月24日閲覧。
  28. ^ a b Петр III Федорович”. Русская историческая библиотека. 2019年1月16日閲覧。
  29. ^ Peter III, Emperor of All Russia”. Unofficial Royalty. 2019年1月16日閲覧。
  30. ^ 冬宮殿の建設が完了した後、全域に建設廃棄物が散乱していた。倉庫や建設労働者のバラック小屋も数カ所にそのまま残っていた。復活祭を宮殿広場で祝う為、ピョートルは独創的な方法でそれを解決することを決心した。彼は誰もが広場から無料で何でも取ることが出来ると宣言せよと命じた。すると数千人の市民が集まり、数時間後、すべてのゴミが取り除かれた。Дворцовая площадь”. Прогулки по Санкт-Петербургу. 2019年2月11日閲覧。
  31. ^ ロシア文化における塩”. RUSSIA BEYOND (2017年7月31日). 2019年1月17日閲覧。
  32. ^ アレクサンドル・ミリニコフ「ピョートル3世」2001年。
  33. ^ ロシア軍の主戦場・西ヨーロッパとトルコの気候にはプロイセン式の短いジャケットが最も合っていた。ピョートルは盲目的にプロイセン式を取り入れた訳ではなかった。また、プロイセンとの戦争が長引けばロシアは金融危機に陥り経済が崩壊していたとする見方も現在では存在するПетр Третий: реформатор или дурак?”. LIVEJOURNAL1 (2013年9月1日). 2019年1月27日閲覧。
  34. ^ 1720年にスウェーデンとデンマーク=ノルウェーがフレデリクスボー条約を締結した結果、カール・フリードリヒは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国領の北部地域に相当するシュレースヴィヒを失った(→シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
  35. ^ Дворец Петра III в Ораниенбауме”. СПбГид. 2019年2月6日閲覧。
  36. ^ a b c Пётр III и Екатерина II”. Православный интернет-журнал. 2019年1月26日閲覧。
  37. ^ ピョートル1世が妻のために聖エカテリーナ勲章を創設”. RUSSIA BEYOND (2012年12月7日). 2019年1月25日閲覧。
  38. ^ 近衛連隊はイズマイロフスキー、セミョノフスキー、プレオブラジェンスキーの3連隊があり、プレオブラジェンスキー連隊はクーデターに参加しなかった。
  39. ^ ロシア軍が駐屯しているポメラニアという説もある。
  40. ^ 荷物の手配と積込みに時間がかかり出港が遅れた。
  41. ^ フリードリヒ2世はまたの名を「哲人王」といった。
  42. ^ エカチェリーナの助言役。
  43. ^ 彼はエリザヴェータ女帝の時代にシベリアに追放されていたが、即位したピョートルにより名誉回復され、重用されていた。
  44. ^ 途中、馬車の中で失神したという説もある。
  45. ^ a b c Тайна убийства российского императора Петра III”. ПАРАДОКСЫ ИСТОРИИ. 2019年1月17日閲覧。
  46. ^ a b c Тайна смерти императора Петра III”. ДЕНЬ за ДНЁМ (2012年12月15日). 2019年1月14日閲覧。
  47. ^ ピョートルの死から34年後、エカチェリーナの崩御後に見つかったとされる。カードゲーム中に酒に酔った将校達と乱闘になりピョートルが死んだ事を知らせるものだが、原物はパーヴェル1世が破棄したとされ、これは写しであった。しかしこの手紙にあるような事が起き、100人体制で見張っておきながらピョートルを死なせたと言うなら、その後誰ひとり処分されていないのは異様である。しかもオルロフはこの後伯爵位と財産を授かっている。
  48. ^ a b Смерть Петра III”. LIVEJOURNAL (2012年12月15日). 2019年1月14日閲覧。
  49. ^ Смерть Петра III: казалось бы разгаданная тайна”. chuchotezvous.ru. 2019年1月20日閲覧。
  50. ^ Как убили Петра III”. ДИЛЕТАНТ (2017年2月21日). 2019年1月28日閲覧。}
  51. ^ ピョートルの僭称者は国外にも現れ、その中の1人ステファン・マリモンテネグロの王となった。
  52. ^ Был ли Павел сыном Петра III”. Багира4. 2019年1月30日閲覧。
  53. ^ Кто был отцом Павла I - Петр Федорович или Сергей Салтыков?”. LIVEJOURNAL (2007年3月26日). 2019年1月29日閲覧。
  54. ^ Питерский календарь. 13 декабря.”. LIVEJOURNAL (2008年12月13日). 2019年1月28日閲覧。
  55. ^ アレクセイ・オルロフは直接関わっていないとしてもピョートルが死亡した現場の責任者である。
  56. ^ В Германии установлен памятник Императору Петру III.”. Имперское наследие. 2019年1月30日閲覧。
  57. ^ 妻による暗殺から奇跡的に逃れた前皇帝であると宣伝した。
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  59. ^ Петр III”. VOYNABLOG. 2019年1月21日閲覧。
  60. ^ Zur Person Zar Peter III.”. Kieler Zarenverein (2018年1月). 2019年2月7日閲覧。
  61. ^ 戦争中は小学校として利用されていた。ピョートルが子供達を戦災から守ったのだとの言い伝えもある。
  62. ^ В Киле открыт памятник российскому императору Петру Третьему”. ГМЗ «Петергоф» (2014年7月9日). 2019年1月30日閲覧。

参考文献

参考サイト

ピョートル3世 (ロシア皇帝)

1728年2月21日 - 1762年7月17日

爵位・家督
先代
エリザヴェータ・ペトロヴナ
ロシア皇帝
1762年
ロシア暦: 1761年 - 1762年
次代
エカチェリーナ2世
先代
カール・フリードリヒ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公
1739年 - 1762年
次代
パウル
先代
カール・フリードリヒ
クリスチャン6世
ホルシュタイン公
共同統治者 クリスチャン6世 (1739年 - 1746年)
フレデリク5世 (1746年 - 1762年)
次代
パーヴェル1世
フレデリク5世