「木村庄之助 (38代)」の版間の差分
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{{複数の問題 |
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|存命人物の出典明記 = 2017年5月 |
|存命人物の出典明記 = 2017年5月 |
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{{Infobox 行司 |
{{Infobox 行司 |
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|名前 = 38代木村庄之助<br>38th Kimura Shonosuke |
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|説明 = [[住吉大社]]での[[横綱土俵入り]]にて<br>(2017年3月4日) |
|説明 = [[住吉大社]]での[[横綱土俵入り]]にて<br>(2017年3月4日、[[三太夫 (行司)|式守勘太夫]]時代) |
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|行司名 = 木村英樹 → 木村和一郎 → 11代式守勘太夫 |
|行司名 = 木村秀樹 → 木村英樹 → 木村和一郎 → 11代[[式守勘太夫]] → 41代[[式守伊之助]] → 38代[[木村庄之助]] |
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|本名 = <small>いまおか ひでき</small><br /> 今岡 英樹 |
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|没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1959|9|22|||}}テンプレートを使用 --> |
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|出身 = {{JPN}}・[[島根県]][[出雲市]] |
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|所属部屋 = [[高田川部屋]] |
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|現在の階級 = 引退 |
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|最高位 = 立行司(木村庄之助) |
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|初土俵 = 1975年5月 |
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|初土俵 = [[1975年]]5月 |
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|作成日時 = 2024年9月22日 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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[[島根県]][[出雲市]]出身。少年時代は[[高砂部屋]]の元[[大関]][[前の山太郎|前の山]](8代[[高田川 (相撲)|高田川]])のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行司志望だった訳ではなく、親方に手紙を書いているうちに「 |
[[島根県]][[出雲市]]出身。少年時代は[[高砂部屋]]の元[[大関]][[前の山太郎|前の山]](8代[[高田川 (相撲)|高田川]])のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行司志望だった訳ではなく(身長が160cmで力士規定に満たないため)、どうしても親方に裏方でもいいから弟子入りしたいと自己PRの手紙を書いているうち、最後の一文に「行司になりたい」と書いてしまったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM1B53X8M1BUTQP011.html |title=行司の頂点、新・式守伊之助 差し違えなら「切腹」覚悟 |website=朝日新聞デジタル |date=2019-01-12 |accessdate=2019-01-21 |language=ja}}</ref>。 |
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[[1975年]]5月場所、木村 |
[[1975年]]5月場所、木村秀樹の名で[[初土俵]]。[[式守伊之助_(40代)|40代式守伊之助]]の1場所後輩に当たる。40代伊之助より上の世代とは年齢が離れている(伊之助より1枚上だった[[木村正直 (4代)|4代木村正直]](2013年1月死去)とは6歳差)ということもあり、彼とは付き合いが深いようで、新弟子時代は何度も相撲を取って勝負していたという。 |
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1975年11月場所、木村英樹に改名。[[1977年]]1月場所、序二段格昇進。[[1978年]]11月場所、三段目格昇進。[[1984年]]1月場所、幕下格昇進。[[1991年]]11月場所、木村和一郎に改名。[[1982年]]1月場所、十両格昇進。[[2005年]]9月場所、幕内格昇進。 |
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大柄な体格が印象的で、[[ニワトリ]]の首を絞めたような、やや詰まり気味で太めの掛け声が特徴である。その体格のためか、[[椎間板ヘルニア]]による[[休場]]が稀にあるが、裁きそのものは全般的に無難にこなしている。しかし、時折土俵下に転落や土俵上で転倒してしまったり、負けた力士に軍配を挙げてしまう等、近年は不運にも悩まされている。 |
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[[2012年]]1月場所に、木村和一郎から11代[[三太夫_(行司)|式守勘太夫]]を襲名{{refnest|group="注釈"|これまでの勘太夫の襲名は、式守與之吉を経て襲名することがほとんどであったが、與之吉を経ず襲名し、大相撲関係者を驚かせた。しかし、前例のケースを経ず襲名するのは、40代式守伊之助(木村吉之輔→11代式守錦太夫。錦太夫は、通常、式守慎之助を経て襲名)のパターンがある。}}。 |
[[2012年]]1月場所に、木村和一郎から11代[[三太夫_(行司)|式守勘太夫]]を襲名{{refnest|group="注釈"|これまでの勘太夫の襲名は、式守與之吉を経て襲名することがほとんどであったが、與之吉を経ず襲名し、大相撲関係者を驚かせた。しかし、前例のケースを経ず襲名するのは、40代式守伊之助(木村吉之輔→11代式守錦太夫。錦太夫は、通常、式守慎之助を経て襲名)のパターンがある。}}。 |
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同年5月場所千秋楽、大相撲史上初となる[[平幕]]同士の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]となった[[前頭]]4枚目[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]-同7枚目[[旭天鵬勝|旭天鵬]]戦(旭天鵬が勝ち初優勝)を、幕内格筆頭行司であった勘太夫が裁いた{{refnest|group="注釈"|優勝決定戦に於いては出場力士の番付最上位の格に合う行司が裁くという規定があるため。この時の栃煌山対旭天鵬戦の場合は共に平幕力士による優勝決定戦であったことから、その当時、幕内格行司の筆頭であった11代勘太夫が務めた<ref> |
同年5月場所千秋楽、大相撲史上初となる[[平幕]]同士の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]となった[[前頭]]4枚目[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]-同7枚目[[旭天鵬勝|旭天鵬]]戦(旭天鵬が勝ち初優勝)を、幕内格筆頭行司であった勘太夫が裁いた{{refnest|group="注釈"|優勝決定戦に於いては出場力士の番付最上位の格に合う行司が裁くという規定があるため。この時の栃煌山対旭天鵬戦の場合は共に平幕力士による優勝決定戦であったことから、その当時、幕内格行司の筆頭であった11代勘太夫が務めた<ref>{{Cite tweet|author=佐々木一郎 |user=Ichiro_SUMO |number=204236975471984641 |title=優勝決定戦。行司は勘太夫さん、呼び出しは重夫さんが務めた。… |accessdate=2023-12-25 }}</ref>。}}。 |
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[[2013年]]3月17日の理事会において、4月25日付で[[三役]] |
[[2013年]]3月17日の理事会において、4月25日付で[[三役格行司|三役格]]に昇進することが決まった<ref>{{Cite web|和書|date=2013-03-17 |url=https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20130317-1099002.html |title=相撲協会が理事会 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2013-03-17}}</ref>。これは同年1月場所後に4代正直が亡くなったうえ、5月場所後に[[立行司]][[木村庄之助 (36代)|36代木村庄之助]]が定年を迎えることによる。 |
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[[番付]]序列と年齢の関係上、序列上位の[[立行司]]である40代伊之助が11代勘太夫より誕生日が3か月遅いため、11代勘太夫は立行司となり定年となる65歳まで務めあげたとしても立行司の最高位である[[木村庄之助]]を襲名することなく |
[[番付]]序列と年齢の関係上、序列上位の[[立行司]]である40代伊之助が11代勘太夫より誕生日が3か月遅いため、11代勘太夫は立行司となり定年となる65歳まで務めあげたとしても立行司の最高位である[[木村庄之助]]を襲名することなく定年退職するものと見込まれていたが、40代伊之助が[[2017年]]冬巡業最終日に不祥事を起こしたことにより、その責任を取る形で[[2018年]]の1月場所から5月場所まで出場停止・謹慎した上、5月場所終了後の同月28日付で辞職願が受理され、同月末日付で退職した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201806010000159.html |title=セクハラ式守伊之助の辞職で24年ぶり立行司不在に |newspaper=ニッカンスポーツ・コム |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2018-06-01 |accessdate=2018-06-04 }}</ref>。 |
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先代伊之助退職後も立行司昇格は見送られていた<ref>次期立行司昇格に向けての最初の場所初日に土俵裁きでいきなりの差し違えや軍配の迷いが時折あったり、他の三役行司も差し違い等があり、立行司に求められる点での失点があり、すぐには決まらなかった。勘太夫本人も「手つき不十分」での行司待ったでは体を張って両力士の間に割って止めるなど、筆頭行司としての役目はしっかり果たしていた。</ref>が、2018年9月27日の理事会で、 |
先代伊之助退職後も立行司昇格は見送られていた<ref group="注釈">次期立行司昇格に向けての最初の場所初日に土俵裁きでいきなりの差し違えや軍配の迷いが時折あったり、他の三役行司も差し違い等があり、立行司に求められる点での失点があり、すぐには決まらなかった。勘太夫本人も「手つき不十分」での行司待ったでは体を張って両力士の間に割って止めるなど、筆頭行司としての役目はしっかり果たしていた。</ref>が、2018年9月27日の理事会で、2019年1月場所番付発表日の12月25日付で立行司に昇格し、41代[[式守伊之助]]を襲名することが決定した<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201809270000765.html |title=三役格行司の式守勘太夫が41代式守伊之助に昇進 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2018-09-27 |accessdate=2018-09-27 }}</ref>。定年まで務め上げると約6年近く行司の最高位を務めることになる。2023年9月28日の理事会で、2024年1月場所番付発表日の12月25日付の人事で38代[[木村庄之助]]を襲名することが決定した<ref name="nikkan230928">{{Cite news |和書 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202309280000910.html |title=立行司の41代式守伊之助が38代木村庄之助に昇進 庄之助空位9年で終了、在位は9カ月の見通し |newspaper=日刊スポーツ |date=2023-09-28 |access-date=2023-09-28 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/general/2023/12/25/0017164992.shtml |title= 木村庄之助が9年ぶり復活 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2023-12-25 |accessdate= 2023-12-25 }}</ref>。 |
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立行司に昇格後も、毎日のウォーキングにスクワット100回など、行司として取組の細部をよく見える一番良い位置に、また土俵上での攻防に巻き込まれずに素早く移動できるよう、年齢に負けないように鍛錬を重ねていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/column/sumo/news/201901250000116.html |title=41代式守伊之助59歳 日課はスクワット100回 - 大相撲裏話 |website=nikkansports.com |date=2019-01-26 |accessdate=2019-01-28 |language=ja}}</ref>。 |
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2024年9月場所限りで定年退職。同場所14日目に行われた定年に際しての記者会見では、およそ50年に渡る行司人生を振り返って、「めげる時もありましたけど、拍手で送り出された…」「そこには帰れないと思うと…」と号泣していた<ref>[https://hochi.news/articles/20240921-OHT1T51130.html?page=1 今場所で引退の立行司・木村庄之助が号泣会見 「めげる時もありました。拍手で送り出された場所に戻れないと思うと…」] 2024年9月21日 15時5分スポーツ報知 (2024年9月21日閲覧)</ref><ref>{{Cite Tweet|user=sumokyokai|author=日本相撲協会公式|number=1837440316288520444|title=<木村庄之助 会見>|accessdate=2024-09-22}}</ref>。会見では「反省の繰り返しが行司の人生。長かったです」とのコメントも残していた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2024/09/22/kiji/20240921s00005000443000c.html 今場所限りで退職の第38代木村庄之助 涙の会見「反省の繰り返しが行司の人生」] スポニチ 2024年9月22日 04:50</ref>。同場所千秋楽が丁度65歳の定年日となり、その日の結びの一番であった大関[[琴櫻将傑|琴櫻]]-大関[[豊昇龍智勝|豊昇龍]]戦の裁きを最後に土俵を去った。 |
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== エピソード == |
== エピソード == |
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* 十両格昇進時から20年間(1992年1月場所 - 2011年11月場所)名乗った行司名は木村和一郎(きむら わいちろう)であったが、その和一郎の名は前の山(8代高田川)の本名「和一」からとったものである。 |
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* 部屋の若い力士の[[四股名]]をつけることが得意であるという。中でも[[剣晃敏志|剣晃]]の四股名は入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願って |
* 部屋の若い力士の[[四股名]]をつけることが得意であるという。中でも[[剣晃敏志|剣晃]]の四股名は入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願って木村英樹(当時)自身が名づけたが、その剣晃は[[小結]]まで進むも30歳で病死した。 |
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* 高田川部屋所属の力士・前乃勝 |
* 長男の凜太郎は、高田川部屋所属の力士・前乃勝だったが、2011年3月下旬、稽古場で[[クモ膜下出血]]で倒れ、5月の[[技量審査場所]]から休場。土俵復帰を目指していたが、2012年6月、ドクターストップが掛かり、19歳で引退した。部屋での[[断髪式]]では自ら介添え役の行司を務める一方、娘と共に餞のハサミを入れた。引退後は父の故郷である島根県出雲市で[[画家]]として活動している<ref>{{cite news|title=元力士、絵画とがっぷり四つ 父の故郷で再出発|url=https://mainichi.jp/articles/20180502/k00/00e/040/304000c|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2018-05-02|accessdate=2019-03-02}}</ref>。 |
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* [[三役格行司|三役格]]時代に二度[[水入り]]の取り組みを裁いたことがある([[2015年]]1月場所14日目の東前頭二枚目[[照ノ富士]] - 西関脇[[逸ノ城]]と同年3月場所13日目の東関脇照ノ富士 - 西前頭筆頭逸ノ城)。 |
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* [[2009年]]1月場所の9日目、前頭7枚目[[北勝力英樹|北勝力]]-同9枚目[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]]の取組中に北勝力の足に躓き、土俵下に転落した。すぐに土俵に戻り、[[軍配]]を挙げることはできたが、会場は爆笑に包まれた。これは、翌日の[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]に掲載されるほどの珍事であった。 |
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* [[2013年]]5月場所5日目、前頭3枚目[[宝富士大輔|宝富士]]-同4枚目[[碧山亘右|碧山]]戦で、碧山が宝富士を[[引き落とし]]に破ったが、勘太夫は碧山に「宝富士~」と四股名を誤って勝ち名乗りを上げてしまい、いったん土俵下に降りた碧山を呼び戻し、改めて勝ち名乗りを上げ直した<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=k2f1NLBt8Xo 碧山 行司に 宝富士と呼ばれる - YouTube]</ref>。碧山は初日から5連勝であったが、なぜか翌日から白星に見放され千秋楽まで10連敗し、この場所5勝10敗の成績であった。 |
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* 同年9月場所3日目、[[関脇]][[妙義龍泰成|妙義龍]]-小結[[高安晃|髙安]]戦で、髙安が左上手からの[[上手捻り]]で妙義龍を横転させた際、妙義龍の足が勘太夫に危うく接触しかけたが、避ける間もなくバランスを崩し自らも倒れるハプニングがあった<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=50FHpsfXLuI 妙義龍vs高安 2013/9/17 - YouTube]</ref>。 |
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* [[2019年]]1月場所8日目、第125代天皇[[明仁]]が在位中としては最後となる天覧相撲の結びの一番の触れで、歴代の立行司は「この相撲一番にて、結び」と言ってきたが、41代伊之助は「結びにござります」と触れあげた。その理由について、(陛下に対する敬語として)「結び」よりも「結びにござります」のほうがより丁寧な印象があるから、と取組前のNHKの取材に答えている。 |
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* [[2015年]]1月場所14日目、および同年3月場所14日目の照ノ富士-逸ノ城戦で、2場所連続水入りとなる取り組みを裁いたが、足の位置を決める動作は良かったものの(1月場所は水入りの場合の確認手順不足もあり、足の位置も十分な確認はとれていないまま水に分かれてしまった)、水入り前の両者の廻しの位置の確認が十分ではない状態で勝負を再開してしまった{{refnest|group="注釈"|両者の態勢の最終的な決定はビデオ室からの情報を基に勝負審判が決めることとなっているため、行司が勝負審判(特に正面審判長)の了解なしの状況では勝負再開はできないが、勝負審判が体勢不十分のまま取組再開の合図を出してしまったため。}}。 |
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* 2017年の[[平成29年7月九州北部豪雨|九州北部豪雨]]で被災していた[[大行司駅]]が[[2019年]]に再建されるのに際して、駅名にちなんで伊之助が看板の文字を書いている<ref >{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/region/news/191222/rgn1912220005-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191222064020/https://www.sankei.com/smp/region/news/191222/rgn1912220005-s1.html|title=鉄道復旧願い駅舎再生 JR日田彦山線大行司駅|newspaper=産経新聞|date=2019-12-22|accessdate=2023-07-02|archivedate=2019-12-22}}</ref>。 |
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*立行司昇進後、腰に差している短刀は、兄弟子である[[木村玉光 (16代)|木村玉光]]から託されたものである<ref>{{Cite web|和書|date=2019-01-28 |url=http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20190123131590005.html |title=伊之助 兄弟子継ぐ短刀 |publisher=朝日新聞デジタル |accessdate=2022-01-18}}</ref>。 |
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* [[2020年]]5月には脳梗塞で倒れ入院し、2020年7月場所は全休した。一時は歩行が困難な状態にまで陥ったが、リハビリを重ね9月場所からは行司としての復帰を果たした。 |
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* 2018年1月場所初日、横綱[[稀勢の里寛|稀勢の里]]-小結[[貴景勝光信|貴景勝]]戦、同年7月場所12日目、関脇[[御嶽海久司|御嶽海]]-大関髙安戦、同年11月場所4日目、横綱稀勢の里-平幕[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]戦でそれぞれ物言いがつき、協議の結果、行司軍配差し違えとなった。 |
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* [[2022年]]7月場所8日目、横綱照ノ富士-平幕若元春戦で若元春の廻しが緩んでしまい廻し待ったをしようとしたが、若元春がそれに気づかず照ノ富士を寄り切ってしまったため物言いがつき、協議の結果、まわし待ったをかけた位置からやり直しとなった。伊之助(当時)の声のかけ方や廻し待ったのタイミング、若元春が寄って出た際の行司としての態度に問題があったとして、NHK大相撲中継解説の[[舞の海秀平]]や[[北の富士勝昭]]からは苦言を呈された。 |
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* 木村庄之助在位中、本来の結びの一番が一方の休場、他方の不戦勝となったために、不戦勝の勝ち名乗りを与えたのみで実際に取組を裁くことなく一日が終わり、実質の結びの一番を[[木村容堂 (3代)|木村容堂]]が裁いたケースを次のように複数回経験している。 |
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** 2024年1月場所14日目 本来の結び:[[豊昇龍]]休場、[[照ノ富士]]不戦勝 実質の結び:[[霧島鐵力|霧島]]対[[琴ノ若傑太|琴ノ若]] |
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** 同年3月場所7日目 本来の結び:[[照ノ富士]]休場、[[翔猿]]不戦勝 実質の結び:[[貴景勝]]対[[錦木徹也|錦木]] |
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** 同年5月場所2日目 本来の結び:[[照ノ富士]]休場、[[大栄翔]]不戦勝 実質の結び:[[熱海富士]]対[[琴櫻将傑|琴櫻]] |
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* 次に示すように軍配差し違え、また他にも土俵からの転落や土俵上での転倒、さらには草履が脱げたり、他にも勝ち名乗りの間違いや、懸賞金を落とししてしまったり、顔触れ言上の紙を落としてしまうなどのミスや失態が度々生じていることから、なかなか木村庄之助への昇進が叶わず、40代式守伊之助もミスや失態が度々生じて結局不祥事を起こして退職したこともあり、木村庄之助空位の状態が長期化する原因となっていたが、[[2024年]]1月場所より38代木村庄之助を襲名することが決まり、庄之助不在状態は解消されることになった<ref name="nikkan230928" />。これについてはある若手親方の話によると、停年退職への花道として昇格させたとしている。庄之助在位は定年退職までの9ヶ月間、本場所にして2024年1月場所 - 9月場所の5場所のみとなった。 |
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* 2024年5月場所4日目の結びの一番の豊昇龍対[[平戸海雄貴|平戸海]]戦で足がもつれて取組中に転倒。平戸海に乗りかかられながらも、軍配を豊昇龍に上げた<ref>{{Cite news|url=https://www.msn.com/ja-jp/sports/other/%E7%AB%8B%E8%A1%8C%E5%8F%B8%E3%81%AE%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%BA%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%81%8C%E5%80%92%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%BE%E8%BB%8D%E9%85%8D-%E5%B9%B3%E6%88%B8%E6%B5%B7%E3%81%AE%E8%B6%B3%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%8E%E5%80%92%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%82%E5%8B%99%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%86/ar-BB1mqiQu?ocid=BingNewsSerp l |title= 木村庄之助が倒れたまま軍配 平戸海の足になぎ倒される 勝った豊昇龍「2回も倒れた?へー」 |newspaper= 日刊スポーツ |date= 2024-05-15 |accessdate= 2024-05-16}}</ref>。 |
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* その翌日の5日目には、琴櫻が翔猿を寄り倒した際、勝ち名乗りの琴櫻の四股名を誤って前場所までの「琴ノ若」と呼んでしまった<ref>[https://www.daily.co.jp/general/2024/05/16/0017660351.shtml 大相撲 2日連続結びの一番でハプニング 琴桜の勝ち名乗りを「琴ノ若~」と呼び間違う 前日は転倒したまま軍配の木村庄之助] デイリースポーツ 2024年5月16日</ref>。 |
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=== 軍配差し違え === |
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== 20年ぶりの「三役格行司」の結びの一番 == |
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* [[2020年]]1月場所8日目 大関[[豪栄道豪太郎|豪栄道]]-小結阿炎戦 |
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* 2015年11月場所、8日目から3日間の出場停止となった[[式守伊之助 (40代)|40代式守伊之助]]に代わり、結びまでの2番を裁いた。[[立行司]]以外が結びの一番を裁くのは、[[木村庄之助]]と[[式守伊之助]]が不在だった[[1994年]]3月場所以来<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00324_V11C15A1000000/ 式守勘太夫が結びの裁き 伊之助の出場停止で代役:日本経済新聞]</ref>。 |
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** 阿炎が土俵際で豪栄道を叩き込んだが、豪栄道に軍配があがったため物言いがつき、差し違えとなった<ref>{{Cite web|和書|title=立行司の式守伊之助、結びの一番で軍配差し違え謝罪 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202001190000605.html |website=nikkansports.com |date=2020-01-19 |access-date=2022-09-26 }}</ref>。 |
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* 2度目は、2017年5月場所7日目から10日目まで、立行司40代式守伊之助が咽頭炎のため休場{{refnest|group="注釈"|伊之助の声の不調は初日からであったが、日を追うにつれ悪化し、休場前日の6日目は伊之助本来の甲高い発声と程遠い声で異変に気付く人も多かった。}}。それに伴い、2015年11月場所9日目以来となる、結び2番を裁くことになった。なお、11日目より40代伊之助が復帰したため、1994年3月場所以来、23年ぶりとなる「三役格行司」が千秋楽の触れを行うことはなかった{{refnest|group="注釈"|当時、千秋楽の触れを行ったのは、序列上位であった3代[[木村善之輔]](後の29代式守伊之助)。}}。 |
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* 同年3月場所14日目 横綱[[鶴竜力三郎|鶴竜]]-関脇[[朝乃山英樹|朝乃山]]戦 |
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* 3度目は、2018年1月場所は前述の通り立行司40代式守伊之助が不祥事により出場停止のため、再び結び2番を裁くことになり、23年ぶりに「三役格行司」が千秋楽の触れを行った。40代伊之助は不祥事発覚直後に提出していた辞職願が出場停止処分が明けた5月末日をもって正式に受理され、退職した。そのため7月場所からは番付上でも立行司が空位となり、2019年1月場所に41代式守伊之助を襲名するまでの間、三役格行司として結び2番を裁くこととなる。 |
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** 土俵際で投げの打ち合いとなり、軍配は朝乃山に上がったが、朝乃山の肘が先についており、差し違えとなった<ref>{{Cite web|和書|title=立行司の式守伊之助、4度目の軍配差し違えで進退伺 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202003220000058.html |website=nikkansports.com |date=2020-03-22 |access-date=2023-12-25 |language=ja |archiveurl= https://web.archive.org/web/20200322101144/https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202003220000058.html |archivedate= 2020-03-22 }}</ref>。 |
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* [[2021年]]1月場所11日目 平幕[[隠岐の海歩|隠岐の海]]-大関[[正代直也|正代]]戦 |
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** この一番では一度目の相撲でも物言いがつき、取り直しとなった。取り直し後の相撲では、隠岐の海が正代を寄り倒したかに見え軍配も隠岐の海に上がったが、隠岐の海に勇み足があったため差し違えとなった。打ち出し後、八角理事長に口頭で進退伺を申し出たが慰留された。2019年1月場所場所の立行司昇格後、5度目の差し違え<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202101200000764.html |title= 結び正代戦差し違え式守伊之助が進退伺 理事長慰留 |newspaper= 日刊スポーツ |date= 2021-01-20 |accessdate= 2021-01-21 }}</ref>。 |
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* 同年5月場所14日目 平幕[[遠藤聖大|遠藤]]-大関[[照ノ富士春雄|照ノ富士]]戦 |
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** 投げの打ち合いで両者が倒れた際、照ノ富士に軍配を上げたが、3分半にわたる協議の末、照ノ富士の肘が先についているとの判断で、軍配差し違えで遠藤の勝ちとなった。これで立行司昇格後6度目の差し違えとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2021-05-22 |url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20210522-OYT1T50250/ |title=立行司の式守伊之助が進退伺、照ノ富士―遠藤戦で差し違え |publisher=読売新聞オンライン |accessdate=2022-01-18}}</ref>。 |
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* [[2022年]]1月場所9日目 小結[[明生力|明生]]-大関正代戦 |
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** 土俵際で正代が[[うっちゃり]]気味に明生を投げたものの、正代の体が明らかに先に落ちており、NHKの解説でも明生の勝ちと放送した。しかし伊之助の軍配は正代に上がり、物言いの結果、軍配差し違えで明生の勝ちとなった。伊之助は「明生が勝ったのは分かっていたけど、東西が分からなかった」と説明した。立行司が一場所中に二度目の差し違いをする異例の事態となった。これに対して[[北勝海信芳|八角理事長]]は、「(4日目の)勇み足は仕方ないけど、今日のはしっかりしなければ駄目だ」などと苦言を呈した<ref>{{Cite web|和書|date=2022-01-17 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202201170000792.html |title=式守伊之助また軍配差し違え「しっかりしなければ駄目だ」八角理事長 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2022-01-18}}</ref>。取組後、進退伺を協会に提出したが、八角理事長から慰留を受けた<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2022/01/17/kiji/20220117s00005000454000c.html |title= 第41代式守伊之助が1場所2度の差し違え 打ち出し後に進退伺い提出も理事長慰留 |newspaper= Sponichi Annex |date= 2022-01-17 |accessdate= 2022-01-20 }}</ref>。際どい相撲でないにも拘らず差し違えたことから、一部相撲ファンからも進退論が取り沙汰された<ref>{{Cite news|url= https://npn.co.jp/article/detail/200018874 |title= 大相撲、また正代戦でミス「わざとやってんのか」厳しい指摘も 八角理事長も苦言、相次ぐ差し違え・接触に引退待望論も |newspaper= リアルライブ |publisher= 株式会社アンカード |date= 2022-01-18 |accessdate= 2022-03-26 }}</ref>。 |
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* 同年3月場所3日目 平幕[[宇良和輝|宇良]]-横綱照ノ富士戦 |
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** 照ノ富士が宇良を押し込んだが、宇良が肩透かしに行ったため土俵際でもつれ、ほぼ同時に土俵を割った。伊之助は照ノ富士の足が先に出たと見て宇良に軍配を挙げたが、物言いがつき、協議の結果、宇良の踵が先に土俵を割っていたとして軍配差し違えとなった。これで立行司昇格後9回目、実質的な首席として結びの一番を裁くようになってから12回目の差し違え<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/acf1d2973b2afed286a36c833e49476c058cf88b|title=式守伊之助が結びで軍配差し違え 大相撲、八角理事長に進退伺(共同通信)|website=Yahoo!ニュース|date=2022-03-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220928153818/https://news.yahoo.co.jp/articles/acf1d2973b2afed286a36c833e49476c058cf88b|archivedate=2022-09-28|accessdate=2023-09-19}}</ref>。 |
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*2023年9月場所9日目 関脇[[琴ノ若傑太|琴ノ若]]-大関[[豊昇龍智勝|豊昇龍]]戦 |
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** 打ち出し後に進退伺を八角理事長に出したが、「微妙な一番だけど堂々とさばいて」など注意を受け慰留された<ref>{{Cite news |url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20230918-OYT1T50120/ |title=式守伊之助が差し違えで「進退伺」、八角理事長に慰留される…結びの豊昇龍―琴ノ若戦 |newspaper=読売新聞 |date=2023-09-18 |accessdate=2023-09-19}}</ref>。 |
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*2024年3月場所千秋楽 大関[[霧島鐵力|霧島]]-大関[[琴ノ若傑太|琴ノ若]]戦 |
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** 土俵際で投げの打ち合いになった際、琴ノ若に軍配を上げたが、同体ではないかと物言いがつき、協議の結果、琴ノ若の体が先に落ちているとの判断で、行司軍配差し違えで上手投げで霧島の勝ちとなった。木村庄之助昇格後では初の軍配差し違えとなった<ref>[https://www.daily.co.jp/general/2024/03/24/0017467152.shtml 千秋楽結びの一番で行事差し違え 霧島が上手投げで琴ノ若との大関対決を制す] デイリー 2024年3月24日</ref>。 |
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==== 疑惑の三番 ==== |
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* 2022年5月場所8日目 小結[[豊昇龍智勝|豊昇龍]]-大関正代戦 |
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* [[1975年]][[5月]] - 木村英樹で初土俵。 |
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** 正代が豊昇龍を寄り倒さんとしたが、土俵際で豊昇龍が突き落とし、正代の足の甲が返るのがやや早かった。しかし伊之助の軍配は正代に上がり、物言いがつかなかったためそのまま正代の勝ちとなった<ref name="#1">{{Cite web|url= https://smart-flash.jp/sports/182176/ |title= 大乱調の五月場所で微妙な判定続出…大相撲審判に「物言いつけろ」の声声声 |website= Smart FLASH |publisher= 光文社 |date= 2022-05-17 |accessdate= 2023-12-25 }}</ref><ref name="#2">{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202205170001156.html |title= 夏場所の誤審騒動 なぜ物言いがつかなかったのか、なぜビデオ係は指摘できなかったのかを検証 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツNEWS |date= 2022-05-18 |accessdate= 2023-12-25 }}</ref>。 |
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* [[1992年]][[1月]] - [[十両]]格に昇格、木村和一郎に改名。 |
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* 同年同場所9日目 関脇若隆景-大関貴景勝戦 |
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* [[2005年]][[9月]] - [[幕内]]格に昇格。 |
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** 取組中に若隆景が右手を土俵についたように見えたが、行司も審判も止めなかったため、勝負は続行。その後若隆景が貴景勝を叩き込み、伊之助は軍配を若隆景に上げた。この一番でも取り組み後に物言いをつける者はいなかったため、そのまま若隆景の勝ちとなった<ref name="#1"/><ref name="#2"/>。 |
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* [[2012年]][[1月]] - 11代[[三太夫_(行司)|式守勘太夫]]襲名。 |
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* 2024年9月場所3日目 大関琴櫻-平幕翔猿戦 |
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* [[2012年]][[5月]] - [[大相撲]]史上初となる、[[平幕]]同士の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]の行司を担当。 |
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** 土俵際、翔猿の下手投げに琴櫻が手をついたが、翔猿も飛び出していたため琴櫻に軍配。スロー再生では琴櫻の手がつくのが早かったものの、物言いはなくそのまま琴櫻の勝ちとなった。なお、Youtube日本相撲協会公式チャンネルは場所中、上位陣を中心に取組の動画をアップロードしているが、この一番の動画は公開されなかった。 |
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* [[2013年]][[5月]] - [[三役]]格に昇格。 |
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*** 上記の三番はその後すぐさま誤審騒動となり、問題となった<ref name="#1" /><ref name="#2" /><ref>{{Cite web |title=琴桜「こういう白星を大事にしたい」物言いなし…翔猿との際どい勝負制し初日から3連勝 - 大相撲 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202409100001234.html |website=nikkansports.com |access-date=2024-09-11 |language=ja |last=奥岡幹浩}}</ref>。 |
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*** 2024年9月場所3日目の取組で物言いが付かなかったのは、この場所限りで停年退職する庄之助に花を持たせるためと、一部報道で推測されている<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/360406/2 「負けた」はずの琴桜が「勝った」ウラ事情…疑惑の軍配が大炎上《翔猿がかわいそう》 (2ページ目)] 日刊ゲンダイDIGITAL 2024/09/11 06:00 (2024年9月11日閲覧)</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
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{{先代次代|[[式守勘太夫]] (11代)|2012年 - |[[木村庄之助 (36代)|式守勘太夫 (10代)]]|(在任中)}} |
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* [https://www.sumo.or.jp/Profile/gyoji/1984/ 行司プロフィール 木村 庄之助] - [[日本相撲協会]] |
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2024年11月6日 (水) 14:20時点における最新版
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基礎情報 | ||||
行司名 | 木村秀樹 → 木村英樹 → 木村和一郎 → 11代式守勘太夫 → 41代式守伊之助 → 38代木村庄之助 | |||
本名 |
いまおか ひでき 今岡 英樹 | |||
生年月日 | 1959年9月22日(65歳) | |||
出身 | 日本・島根県出雲市 | |||
所属部屋 | 高田川部屋 | |||
データ | ||||
現在の階級 | 引退 | |||
最高位 | 立行司(木村庄之助) | |||
初土俵 | 1975年5月 | |||
幕内格 | 2005年9月 | |||
三役格 | 2013年5月 | |||
立行司 | 2019年1月 | |||
引退 | 2024年9月 | |||
備考 | ||||
2024年9月22日現在 |
38代 木村 庄之助(さんじゅうはちだい きむら しょうのすけ、1959年9月22日 - )は、大相撲の元立行司。引退時は高田川部屋所属。本名は今岡 英樹(いまおか ひでき)。
人物
[編集]島根県出雲市出身。少年時代は高砂部屋の元大関前の山(8代高田川)のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行司志望だった訳ではなく(身長が160cmで力士規定に満たないため)、どうしても親方に裏方でもいいから弟子入りしたいと自己PRの手紙を書いているうち、最後の一文に「行司になりたい」と書いてしまったという[1]。
1975年5月場所、木村秀樹の名で初土俵。40代式守伊之助の1場所後輩に当たる。40代伊之助より上の世代とは年齢が離れている(伊之助より1枚上だった4代木村正直(2013年1月死去)とは6歳差)ということもあり、彼とは付き合いが深いようで、新弟子時代は何度も相撲を取って勝負していたという。
1975年11月場所、木村英樹に改名。1977年1月場所、序二段格昇進。1978年11月場所、三段目格昇進。1984年1月場所、幕下格昇進。1991年11月場所、木村和一郎に改名。1982年1月場所、十両格昇進。2005年9月場所、幕内格昇進。
2012年1月場所に、木村和一郎から11代式守勘太夫を襲名[注釈 1]。
同年5月場所千秋楽、大相撲史上初となる平幕同士の優勝決定戦となった前頭4枚目栃煌山-同7枚目旭天鵬戦(旭天鵬が勝ち初優勝)を、幕内格筆頭行司であった勘太夫が裁いた[注釈 2]。
2013年3月17日の理事会において、4月25日付で三役格に昇進することが決まった[3]。これは同年1月場所後に4代正直が亡くなったうえ、5月場所後に立行司36代木村庄之助が定年を迎えることによる。
番付序列と年齢の関係上、序列上位の立行司である40代伊之助が11代勘太夫より誕生日が3か月遅いため、11代勘太夫は立行司となり定年となる65歳まで務めあげたとしても立行司の最高位である木村庄之助を襲名することなく定年退職するものと見込まれていたが、40代伊之助が2017年冬巡業最終日に不祥事を起こしたことにより、その責任を取る形で2018年の1月場所から5月場所まで出場停止・謹慎した上、5月場所終了後の同月28日付で辞職願が受理され、同月末日付で退職した[4]。
先代伊之助退職後も立行司昇格は見送られていた[注釈 3]が、2018年9月27日の理事会で、2019年1月場所番付発表日の12月25日付で立行司に昇格し、41代式守伊之助を襲名することが決定した[5]。定年まで務め上げると約6年近く行司の最高位を務めることになる。2023年9月28日の理事会で、2024年1月場所番付発表日の12月25日付の人事で38代木村庄之助を襲名することが決定した[6][7]。
立行司に昇格後も、毎日のウォーキングにスクワット100回など、行司として取組の細部をよく見える一番良い位置に、また土俵上での攻防に巻き込まれずに素早く移動できるよう、年齢に負けないように鍛錬を重ねていた[8]。
2024年9月場所限りで定年退職。同場所14日目に行われた定年に際しての記者会見では、およそ50年に渡る行司人生を振り返って、「めげる時もありましたけど、拍手で送り出された…」「そこには帰れないと思うと…」と号泣していた[9][10]。会見では「反省の繰り返しが行司の人生。長かったです」とのコメントも残していた[11]。同場所千秋楽が丁度65歳の定年日となり、その日の結びの一番であった大関琴櫻-大関豊昇龍戦の裁きを最後に土俵を去った。
エピソード
[編集]- 十両格昇進時から20年間(1992年1月場所 - 2011年11月場所)名乗った行司名は木村和一郎(きむら わいちろう)であったが、その和一郎の名は前の山(8代高田川)の本名「和一」からとったものである。
- 部屋の若い力士の四股名をつけることが得意であるという。中でも剣晃の四股名は入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願って木村英樹(当時)自身が名づけたが、その剣晃は小結まで進むも30歳で病死した。
- 長男の凜太郎は、高田川部屋所属の力士・前乃勝だったが、2011年3月下旬、稽古場でクモ膜下出血で倒れ、5月の技量審査場所から休場。土俵復帰を目指していたが、2012年6月、ドクターストップが掛かり、19歳で引退した。部屋での断髪式では自ら介添え役の行司を務める一方、娘と共に餞のハサミを入れた。引退後は父の故郷である島根県出雲市で画家として活動している[12]。
- 三役格時代に二度水入りの取り組みを裁いたことがある(2015年1月場所14日目の東前頭二枚目照ノ富士 - 西関脇逸ノ城と同年3月場所13日目の東関脇照ノ富士 - 西前頭筆頭逸ノ城)。
- 2015年3月場所限りで37代木村庄之助が定年退職し、立行司が40代式守伊之助1人となったため、同年5月場所より現在に至るまで1日2番裁く取組のうち1番が横綱の取組となること(場所終盤で横綱同士の取組があるときは該当しない)、各場所千秋楽の「これより三役」の触れとその直後の1番を行っている[注釈 4]。
- 2017年1月場所後に、大関・稀勢の里が横綱に昇進したため、次期41代式守伊之助が誕生するまでの間、場所終盤までの裁く2番は横綱戦となる(19年前の4横綱時代、立行司は2人いたが、立行司が裁く取組は3番のため、場所終盤前までは、三役格が1番裁いた。当時裁いた行司は8代式守勘太夫[注釈 5])。
- 2019年1月場所8日目、第125代天皇明仁が在位中としては最後となる天覧相撲の結びの一番の触れで、歴代の立行司は「この相撲一番にて、結び」と言ってきたが、41代伊之助は「結びにござります」と触れあげた。その理由について、(陛下に対する敬語として)「結び」よりも「結びにござります」のほうがより丁寧な印象があるから、と取組前のNHKの取材に答えている。
- 2017年の九州北部豪雨で被災していた大行司駅が2019年に再建されるのに際して、駅名にちなんで伊之助が看板の文字を書いている[13]。
- 立行司昇進後、腰に差している短刀は、兄弟子である木村玉光から託されたものである[14]。
- 2020年5月には脳梗塞で倒れ入院し、2020年7月場所は全休した。一時は歩行が困難な状態にまで陥ったが、リハビリを重ね9月場所からは行司としての復帰を果たした。
- 2022年7月場所8日目、横綱照ノ富士-平幕若元春戦で若元春の廻しが緩んでしまい廻し待ったをしようとしたが、若元春がそれに気づかず照ノ富士を寄り切ってしまったため物言いがつき、協議の結果、まわし待ったをかけた位置からやり直しとなった。伊之助(当時)の声のかけ方や廻し待ったのタイミング、若元春が寄って出た際の行司としての態度に問題があったとして、NHK大相撲中継解説の舞の海秀平や北の富士勝昭からは苦言を呈された。
- 木村庄之助在位中、本来の結びの一番が一方の休場、他方の不戦勝となったために、不戦勝の勝ち名乗りを与えたのみで実際に取組を裁くことなく一日が終わり、実質の結びの一番を木村容堂が裁いたケースを次のように複数回経験している。
- 次に示すように軍配差し違え、また他にも土俵からの転落や土俵上での転倒、さらには草履が脱げたり、他にも勝ち名乗りの間違いや、懸賞金を落とししてしまったり、顔触れ言上の紙を落としてしまうなどのミスや失態が度々生じていることから、なかなか木村庄之助への昇進が叶わず、40代式守伊之助もミスや失態が度々生じて結局不祥事を起こして退職したこともあり、木村庄之助空位の状態が長期化する原因となっていたが、2024年1月場所より38代木村庄之助を襲名することが決まり、庄之助不在状態は解消されることになった[6]。これについてはある若手親方の話によると、停年退職への花道として昇格させたとしている。庄之助在位は定年退職までの9ヶ月間、本場所にして2024年1月場所 - 9月場所の5場所のみとなった。
- 2024年5月場所4日目の結びの一番の豊昇龍対平戸海戦で足がもつれて取組中に転倒。平戸海に乗りかかられながらも、軍配を豊昇龍に上げた[15]。
- その翌日の5日目には、琴櫻が翔猿を寄り倒した際、勝ち名乗りの琴櫻の四股名を誤って前場所までの「琴ノ若」と呼んでしまった[16]。
軍配差し違え
[編集]- 2020年1月場所8日目 大関豪栄道-小結阿炎戦
- 阿炎が土俵際で豪栄道を叩き込んだが、豪栄道に軍配があがったため物言いがつき、差し違えとなった[17]。
- 同年3月場所14日目 横綱鶴竜-関脇朝乃山戦
- 土俵際で投げの打ち合いとなり、軍配は朝乃山に上がったが、朝乃山の肘が先についており、差し違えとなった[18]。
- 2021年1月場所11日目 平幕隠岐の海-大関正代戦
- この一番では一度目の相撲でも物言いがつき、取り直しとなった。取り直し後の相撲では、隠岐の海が正代を寄り倒したかに見え軍配も隠岐の海に上がったが、隠岐の海に勇み足があったため差し違えとなった。打ち出し後、八角理事長に口頭で進退伺を申し出たが慰留された。2019年1月場所場所の立行司昇格後、5度目の差し違え[19]。
- 同年5月場所14日目 平幕遠藤-大関照ノ富士戦
- 投げの打ち合いで両者が倒れた際、照ノ富士に軍配を上げたが、3分半にわたる協議の末、照ノ富士の肘が先についているとの判断で、軍配差し違えで遠藤の勝ちとなった。これで立行司昇格後6度目の差し違えとなった[20]。
- 2022年1月場所9日目 小結明生-大関正代戦
- 土俵際で正代がうっちゃり気味に明生を投げたものの、正代の体が明らかに先に落ちており、NHKの解説でも明生の勝ちと放送した。しかし伊之助の軍配は正代に上がり、物言いの結果、軍配差し違えで明生の勝ちとなった。伊之助は「明生が勝ったのは分かっていたけど、東西が分からなかった」と説明した。立行司が一場所中に二度目の差し違いをする異例の事態となった。これに対して八角理事長は、「(4日目の)勇み足は仕方ないけど、今日のはしっかりしなければ駄目だ」などと苦言を呈した[21]。取組後、進退伺を協会に提出したが、八角理事長から慰留を受けた[22]。際どい相撲でないにも拘らず差し違えたことから、一部相撲ファンからも進退論が取り沙汰された[23]。
- 同年3月場所3日目 平幕宇良-横綱照ノ富士戦
- 照ノ富士が宇良を押し込んだが、宇良が肩透かしに行ったため土俵際でもつれ、ほぼ同時に土俵を割った。伊之助は照ノ富士の足が先に出たと見て宇良に軍配を挙げたが、物言いがつき、協議の結果、宇良の踵が先に土俵を割っていたとして軍配差し違えとなった。これで立行司昇格後9回目、実質的な首席として結びの一番を裁くようになってから12回目の差し違え[24]。
- 2023年9月場所9日目 関脇琴ノ若-大関豊昇龍戦
- 打ち出し後に進退伺を八角理事長に出したが、「微妙な一番だけど堂々とさばいて」など注意を受け慰留された[25]。
- 2024年3月場所千秋楽 大関霧島-大関琴ノ若戦
- 土俵際で投げの打ち合いになった際、琴ノ若に軍配を上げたが、同体ではないかと物言いがつき、協議の結果、琴ノ若の体が先に落ちているとの判断で、行司軍配差し違えで上手投げで霧島の勝ちとなった。木村庄之助昇格後では初の軍配差し違えとなった[26]。
疑惑の三番
[編集]- 2022年5月場所8日目 小結豊昇龍-大関正代戦
- 同年同場所9日目 関脇若隆景-大関貴景勝戦
- 2024年9月場所3日目 大関琴櫻-平幕翔猿戦
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ これまでの勘太夫の襲名は、式守與之吉を経て襲名することがほとんどであったが、與之吉を経ず襲名し、大相撲関係者を驚かせた。しかし、前例のケースを経ず襲名するのは、40代式守伊之助(木村吉之輔→11代式守錦太夫。錦太夫は、通常、式守慎之助を経て襲名)のパターンがある。
- ^ 優勝決定戦に於いては出場力士の番付最上位の格に合う行司が裁くという規定があるため。この時の栃煌山対旭天鵬戦の場合は共に平幕力士による優勝決定戦であったことから、その当時、幕内格行司の筆頭であった11代勘太夫が務めた[2]。
- ^ 次期立行司昇格に向けての最初の場所初日に土俵裁きでいきなりの差し違えや軍配の迷いが時折あったり、他の三役行司も差し違い等があり、立行司に求められる点での失点があり、すぐには決まらなかった。勘太夫本人も「手つき不十分」での行司待ったでは体を張って両力士の間に割って止めるなど、筆頭行司としての役目はしっかり果たしていた。
- ^ これより三役の残り2番は式守伊之助が合わせる。よって、勘太夫は役相撲にかなう力士(勝ち力士)に懸賞がかかっている場合は懸賞金と弓矢の矢を手渡す。
- ^ ただし、当時の29代式守伊之助が体調不良等での休場が続き、2番裁くことが比較的多かった。その場合は、2代木村容堂が1番裁く。
出典
[編集]- ^ “行司の頂点、新・式守伊之助 差し違えなら「切腹」覚悟”. 朝日新聞デジタル (2019年1月12日). 2019年1月21日閲覧。
- ^ 佐々木一郎 [@Ichiro_SUMO] (2012年5月20日). "優勝決定戦。行司は勘太夫さん、呼び出しは重夫さんが務めた。…". X(旧Twitter)より2023年12月25日閲覧。
- ^ “相撲協会が理事会”. 日刊スポーツ (2013年3月17日). 2013年3月17日閲覧。
- ^ “セクハラ式守伊之助の辞職で24年ぶり立行司不在に”. ニッカンスポーツ・コム (日刊スポーツ新聞社). (2018年6月1日) 2018年6月4日閲覧。
- ^ “三役格行司の式守勘太夫が41代式守伊之助に昇進”. 日刊スポーツ. (2018年9月27日) 2018年9月27日閲覧。
- ^ a b 「立行司の41代式守伊之助が38代木村庄之助に昇進 庄之助空位9年で終了、在位は9カ月の見通し」『日刊スポーツ』2023年9月28日。2023年9月28日閲覧。
- ^ “木村庄之助が9年ぶり復活”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2023年12月25日) 2023年12月25日閲覧。
- ^ “41代式守伊之助59歳 日課はスクワット100回 - 大相撲裏話”. nikkansports.com (2019年1月26日). 2019年1月28日閲覧。
- ^ 今場所で引退の立行司・木村庄之助が号泣会見 「めげる時もありました。拍手で送り出された場所に戻れないと思うと…」 2024年9月21日 15時5分スポーツ報知 (2024年9月21日閲覧)
- ^ 日本相撲協会公式 [@sumokyokai] (2024年9月21日). "<木村庄之助 会見>". X(旧Twitter)より2024年9月22日閲覧。
- ^ 今場所限りで退職の第38代木村庄之助 涙の会見「反省の繰り返しが行司の人生」 スポニチ 2024年9月22日 04:50
- ^ “元力士、絵画とがっぷり四つ 父の故郷で再出発”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2018年5月2日) 2019年3月2日閲覧。
- ^ “鉄道復旧願い駅舎再生 JR日田彦山線大行司駅”. 産経新聞. (2019年12月22日). オリジナルの2019年12月22日時点におけるアーカイブ。 2023年7月2日閲覧。
- ^ “伊之助 兄弟子継ぐ短刀”. 朝日新聞デジタル (2019年1月28日). 2022年1月18日閲覧。
- ^ l “木村庄之助が倒れたまま軍配 平戸海の足になぎ倒される 勝った豊昇龍「2回も倒れた?へー」”. 日刊スポーツ. (2024年5月15日) 2024年5月16日閲覧。
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- ^ “立行司の式守伊之助、結びの一番で軍配差し違え謝罪”. nikkansports.com (2020年1月19日). 2022年9月26日閲覧。
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- ^ “結び正代戦差し違え式守伊之助が進退伺 理事長慰留”. 日刊スポーツ. (2021年1月20日) 2021年1月21日閲覧。
- ^ “立行司の式守伊之助が進退伺、照ノ富士―遠藤戦で差し違え”. 読売新聞オンライン (2021年5月22日). 2022年1月18日閲覧。
- ^ “式守伊之助また軍配差し違え「しっかりしなければ駄目だ」八角理事長”. 日刊スポーツ (2022年1月17日). 2022年1月18日閲覧。
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- ^ “大相撲、また正代戦でミス「わざとやってんのか」厳しい指摘も 八角理事長も苦言、相次ぐ差し違え・接触に引退待望論も”. リアルライブ (株式会社アンカード). (2022年1月18日) 2022年3月26日閲覧。
- ^ “式守伊之助が結びで軍配差し違え 大相撲、八角理事長に進退伺(共同通信)”. Yahoo!ニュース (2022年3月15日). 2022年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月19日閲覧。
- ^ “式守伊之助が差し違えで「進退伺」、八角理事長に慰留される…結びの豊昇龍―琴ノ若戦”. 読売新聞. (2023年9月18日) 2023年9月19日閲覧。
- ^ 千秋楽結びの一番で行事差し違え 霧島が上手投げで琴ノ若との大関対決を制す デイリー 2024年3月24日
- ^ a b c “大乱調の五月場所で微妙な判定続出…大相撲審判に「物言いつけろ」の声声声”. Smart FLASH. 光文社 (2022年5月17日). 2023年12月25日閲覧。
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- ^ 奥岡幹浩. “琴桜「こういう白星を大事にしたい」物言いなし…翔猿との際どい勝負制し初日から3連勝 - 大相撲 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2024年9月11日閲覧。
- ^ 「負けた」はずの琴桜が「勝った」ウラ事情…疑惑の軍配が大炎上《翔猿がかわいそう》 (2ページ目) 日刊ゲンダイDIGITAL 2024/09/11 06:00 (2024年9月11日閲覧)
外部リンク
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