コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「第二次内乱 (イスラーム史)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ムフタールの反乱: 時系列がおかしかったので、修正しました。後で出典を入れます。
m "Template:" を含むテンプレート呼び出し
(2人の利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox military conflict
イスラーム史において、'''第二次内乱'''(だいにじないらん)は、[[カルバラーの戦い|カルバラーの惨劇]](680年)からイブン・ズバイルの乱の平定(692年)までのイスラーム教ウンマの分裂状態をいう<ref name="イスラームの歴史1" /><ref name="kikuchi2009" />。[[歴史的シリア|シリア]]を根拠地とする[[ウマイヤ朝|ウマイヤ家]]と、[[マッカ]]で蜂起した[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|イブン・ズバイル]]と、[[クーファ]]で{{ill2|ムフタール・サカフィー|en|Mukhtar al-Thaqafi|label=ムフタール}}を中心に蜂起した親[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]勢力の三つ巴の内乱であった<ref name="イスラームの歴史1" /><ref name="kikuchi2009" />。
| conflict = 第二次内乱
| partof =
| image = Brooklyn Museum - Battle of Karbala - Abbas Al-Musavi - cropped.jpg
| image_size = 300
| caption = 第二次内乱の始まりとなった[[カルバラーの戦い]]<br>(アッバース・アル=ムサヴィ画)
| date = [[680年]] - [[692年]]
| place = [[アラビア半島]]、[[歴史的シリア|シリア]]、[[イラクの歴史|イラク]]
| result = ウマイヤ朝の勝利
| combatant1 = [[ウマイヤ朝]]
| combatant2 = ズバイル家
| combatant3 = {{仮リンク|アリー家|en|Alids}}
| combatant4 = [[ハワーリジュ派]]
| commander1 = [[ヤズィード1世]]<br>[[マルワーン1世]]<br>[[アブドゥルマリク|アブドゥルマリク・ブン・マルワーン]]<br>{{仮リンク|ムスリム・ブン・ウクバ|en|Muslim ibn Uqba}}<br>{{仮リンク|ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード|en|Ubayd Allah ibn Ziyad}}<br>(686年){{KIA}}<br>{{仮リンク|ウマル・ブン・サアド|en|Umar ibn Sa'ad}}<br>(686年){{KIA}}<br>[[フサイン・イブン・ヌマイル|フサイン・ブン・ヌマイル]]<br>(686年){{KIA}}<br>{{仮リンク|アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ|label=アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}
| commander2 = [[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]]<br>(692年){{KIA}}<br>{{仮リンク|ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル|en|Mus'ab ibn al-Zubayr}}<br>(691年){{KIA}}<br>[[イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタル|イブラーヒーム・ブン・アル=アシュタル]]<br>(691年){{KIA}}<br>{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・ムティー|en|Abd Allah ibn Muti}}<br>(692年){{KIA}}<br>{{仮リンク|ムハッラブ・ブン・アビー・スフラ|en|Al-Muhallab ibn Abi Sufra}}<br>(ウマイヤ朝に投降)
| commander3 = [[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・ブン・アリー]]<br>(680年){{KIA}}<br>{{仮リンク|スライマーン・ブン・スラド|en|Sulayman ibn Surad}}<br>(685年){{KIA}}<br>[[ムフタール・アッ=サカフィー]]<br>(687年){{KIA}}<br>[[イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタル|イブラーヒーム・ブン・アル=アシュタル]]<br>(ズバイル家に投降)
| commander4 = {{仮リンク|ナーフィ・ブン・アル=アズラク|en|Nafi ibn al-Azraq}}<br>(685年){{KIA}}<br>{{仮リンク|ナジュダ・ブン・アーミル|en|Najda ibn Amir al-Hanafi}}<br>(692年){{KIA}}
| campaignbox = <span style="font-size:93%">{{第二次内乱 (イスラーム史)}}</span>
}}
'''第二次内乱'''(だいにじないらん、{{lang-en|Second Fitna}}、{{lang-ar|الفتنة الثانية}}){{efn2|[[アラビア語]]での呼称である[[フィトナ (曖昧さ回避)|フィトナ]] (فتنة‎) は試練や誘惑を意味し、信者の信仰における試練、特に罪深い行動に対する神の罰を意味するものとして[[クルアーン]]の中に現れる。歴史的には、統一された共同体に亀裂を引き起こし、信者の信仰を危険にさらす内乱、または反乱を意味するようになった{{sfn|Gardet|1965|p=930}}。}}は、[[ウマイヤ朝]]時代の初期に起こったイスラーム共同体([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])の全面的な政治的、軍事的混乱と一連の紛争が続いた時代を指す。この内乱は初代のウマイヤ朝の[[カリフ]]である[[ムアーウィヤ]](ムアーウィヤ1世、在位:[[661年]] - [[680年]])の死後に始まり、およそ12年後の[[692年]]に終結した。内乱における主要な出来事はウマイヤ朝に対する二つの反乱とその鎮圧である。一つはウマイヤ朝による[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・ブン・アリー]]の殺害に対する復讐を求めて{{仮リンク|スライマーン・ブン・スラド|en|Sulayman ibn Surad}}と[[ムフタール・アッ=サカフィー]]が[[イラクの歴史|イラク]]で起こした反乱、もう一つはウマイヤ朝に対抗して[[メッカ]]でカリフを称した[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]]の反乱である{{sfn|菊池|2009|pp=69, 77–78}}{{sfn|佐藤|2010|pp=125, 132}}。


内乱の起源はイスラーム共同体における最初の内乱である{{仮リンク|第一次内乱|en|First Fitna}}の時にさかのぼる。第3代の[[正統カリフ]]である[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン・ブン・アッファーン]]の暗殺後、イスラーム共同体は指導者の地位をめぐり、イスラームの開祖[[ムハンマド]]の従兄弟で娘婿の[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー・ブン・アビー・ターリブ]]と、[[歴史的シリア|シリア]]の総督でウマイヤ家出身のムアーウィヤとの間で最初の内乱を経験した。661年にアリーが暗殺され、同年にアリーの息子で後継者の[[ハサン・ブン・アリー]]がムアーウィヤと和平を結んでカリフの地位を放棄したことで、ムアーウィヤがイスラーム共同体の唯一の支配者となった。しかし、自身の息子である[[ヤズィード1世|ヤズィード]]を生前に後継者として指名するという前例のない世襲の動きに出たために多くの反発を招くことになり、ムアーウィヤの死後に後継者をめぐる緊張が急激に高まった。ハサンの同母弟のフサイン・ブン・アリーがウマイヤ朝を打倒するために[[クーファ]]のアリー家支持派の人々{{efn2|[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー・ブン・アビー・ターリブ]]とその子孫(アリー家)を支持する政治的な党派。イスラームの宗派である[[シーア派]]はこの党派から発展していった{{sfn|Donner|2010|p=178}}{{sfn|Kennedy|2016|p=77}}。}}から招かれたものの、フサインは680年10月にクーファに向かう途上で起こった[[カルバラーの戦い]]で少数の支持者とともにヤズィードの軍隊によって殺害された。さらにヤズィードの軍隊は[[683年]]8月に反乱を起こした[[マディーナ]]を襲撃し、その後アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが独立した勢力を確立していた[[メッカ包囲戦 (683年)|メッカを包囲]]した。しかし、同年11月にヤズィードが死去するとウマイヤ朝の軍隊は撤退し、ウマイヤ朝の支配はシリアの一部を除くイスラーム国家の全域で失われた。
==カルバラーの惨劇==
{{main|カルバラーの戦い}}
ウマイヤ家の[[ムアーウィヤ]]は、西暦680年4月に自身が亡くなる際、預言者ムハンマドの代理人([[ハリーファ]]。以下、カリフと呼ぶ。)の地位を息子の[[ヤズィード1世|ヤズィード]]に継がせた。カリフ位の歴史上初めての世襲である。当時、この世襲を不快に感じたムスリムは多かった。


ほとんどの地域がウマイヤ朝に代わってメッカを本拠地とするアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルをカリフとして認める一方で、フサイン殺害への復讐を求めるアリー家支持派による運動がクーファで起こった。最初にムハンマドの[[サハーバ]](教友)であるスライマーン・ブン・スラドの下でタッワーブーン(悔悟者たち)と呼ばれる集団がウマイヤ朝に対する反乱を起こしたが、タッワーブーンは[[685年]]1月の[[アイン・アル=ワルダの戦い]]でウマイヤ朝軍に敗れて壊滅した。その後は[[ムフタール・アッ=サカフィー]]がアリー家支持派の指導者となってクーファの支配権を握った。ムフタールの軍隊は[[686年]]8月の{{仮リンク|ハーズィルの戦い|en|Battle of Khazir}}で大規模なウマイヤ朝軍に勝利を収めた。しかし、ムフタールはアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルと対立し、その弟の{{仮リンク|ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル|en|Mus'ab ibn al-Zubayr}}との戦いに敗れて[[687年]]4月に殺害された。そして[[691年]]にカリフの[[アブドゥルマリク|アブドゥルマリク・ブン・マルワーン]]に率いられたウマイヤ朝軍が{{仮リンク|マスキンの戦い|en|Battle of Maskin}}でムスアブ・ブン・アッ=ズバイルを破り、ウマイヤ朝がイラクの支配を回復した。さらに翌年には二度目の{{仮リンク|メッカ包囲戦 (692年)|label=メッカの包囲戦|en|Siege of Mecca (692)}}の末にアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが戦死し、内乱は終結した。
[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー・ブン・アビー・ターリブ]]の息子[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]はこの世襲を否認することを公にして居所をマディーナからマッカに移した{{sfn|佐藤|2010|pp=138-139}}。同年9月にアリーの党派が集まるクーファからの招きに応じて、マッカからクーファへ向かった{{sfn|佐藤|2010|pp=138-139}}。クーファの不穏な動きに気づいたヤズィードは、{{仮リンク|ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード|en|Ubayd Allah ibn Ziyad|label=}}を新たなクーファ総督に命じて締め付けを図った{{sfn|佐藤|2010|pp=138-139}}。ウバイドゥッラーは、クーファの民の動きをけん制する一方、ユーフラテス川西岸のカルバラーでフサインを待ち受け、これを討った{{sfn|佐藤|2010|pp=138-139}}。


ウマイヤ朝の勝利によって世襲による統治がイスラーム共同体において確立されることになった。アブドゥルマリクは内乱終結後にカリフの権力の強化と軍の再編、そして官僚機構のアラブ化とイスラーム化を推進した。また、第二次内乱の出来事は[[イスラーム]]における[[メシア]]と[[マフディー]]の思想の登場と宗派の分裂を促すことになり、さまざまな教義が後の[[スンニ派]]と[[シーア派]]へつながる形で発展していった。
==ムフタールの反乱==
{{main|ムフタール・サカフィー|イブン・ハナフィーヤ}}
フサインは、預言者ムハンマドの娘、[[ファーティマ・ザフラー]]の息子であった。信徒の軍が、教祖の孫を一族郎党もろとも殺戮するという事態に、ウンマは動揺した。クーファでは「悔悟者たち」と呼ばれるセクトが、フサインの「殉教」を阻止することができなかったという悔悟を原動力に結集した。「悔悟者たち」の一部は、ウマイヤ朝に対する反乱を実行に移した。後述するイブン・ズバイルがマッカで挙兵すると、同じ頃にクーファでも[[ムフタール・サカフィー]]が挙兵した([[カイサーン派]]の反乱){{sfn|佐藤|2010|p=132}}。


== 背景 ==
ムフタールは、挙兵をマディーナにいた[[イブン・ハナフィーヤ]]の名において実行した。イブン・ハナフィーヤはアリーの息子でありフサインの異母弟である{{sfn|佐藤|2010|p=132}}。イブン・ハナフィーヤには人徳があり、マフディー((神によって正しく)導かれた者)という異名があった。カイサーン派の反乱は軍事的に鎮圧されるが、ウマイヤ家支配への不満や、拡大する不公正への不満はくすぶり続けた。イブン・ハナフィーヤはウマイヤ家への恭順を誓った後、700年に死亡したが、まもなく生存説が噂されるようになった。「マフディー」ことイブン・ハナフィーヤはそう遠くない未来に再び姿を現し、正義と公正をもたらすという噂は、一人歩きし、固有名詞を失い、信者の指導者([[イマーム]])が「救世主」([[マフディー]])として現れ、地上に正義と公正を実現するはずだとする[[マフディー思想]]へと発展した{{sfn|佐藤|2010|p=125}}。
[[656年]]に第3代の[[正統カリフ]]である[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン・ブン・アッファーン]](在位:[[644年]] - 656年)が反乱者の手によってマディーナの私邸で暗殺された後、反乱者とマディーナの住民はイスラームの開祖[[ムハンマド]]の従兄弟で娘婿である[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー・ブン・アビー・ターリブ]]をカリフと宣言した。しかし、ムハンマドの[[サハーバ]](教友)である{{仮リンク|タルハ・ブン・ウバイドゥッラー|en|Talhah}}と[[ズバイル・イブン・アウワーム|アッ=ズバイル・ブン・アル=アウワーム]]、そしてムハンマドの未亡人の[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル]]が率いる[[クライシュ族]]の大半の人々(ムハンマドとそれまでの三人のすべての[[カリフ]]が属していたメッカの部族集団)はアリーを認めることを拒否した{{sfn|蔀|2018|page=249}}。アリーと対立した一派はウスマーンの殺害者に対する復讐と{{仮リンク|シューラー|en|Shura}}(イスラーム世界における合議の場)による新しいカリフの選出を要求した。これらの出来事はイスラーム世界の{{仮リンク|第一次内乱|en|First Fitna}}を引き起こすことになった。アリーは656年11月に[[バスラ]]近郊で発生した[[ラクダの戦い]]でこれらの内乱初期の対立者に勝利を収め、その後イスラーム国家の首都をイラクの軍営都市である[[クーファ]]に移した{{sfn|Donner|2010|pp=157–159}}。[[歴史的シリア|シリア]]の総督でウスマーンが属していたウマイヤ家の一人である[[ムアーウィヤ1世|ムアーウィヤ・ブン・アビー・スフヤーン]]もアリーのカリフとしての正統性を認めず、両者は[[スィッフィーンの戦い]]で激突した。しかし、ムアーウィヤの仲裁の呼びかけに応じた一部のアリーの部隊が戦闘を拒否したために、戦闘は膠着状態のままで終わった。アリーは渋々仲裁に同意したものの、後に[[ハワーリジュ派]]と呼ばれるアリーの軍の一派が抗議して離脱し、アリーが仲裁を受け入れたことを冒涜的な行為であるとして非難した{{sfn|Donner|2010|pp=161–162}}{{efn2|name=A|裁定は神のみに属するという思想に基づいてカリフのアリー・ブン・アビー・ターリブの下から離脱したあと、[[ハワーリジュ派]]はあらゆる中央集権的な統治を拒否し続けた{{sfn|Lewis|2002|p=76}}。歴史家の{{仮リンク|ウィリアム・モントゴメリー・ワット|en|W. Montgomery Watt}}によれば、ハワーリジュ派はイスラーム以前の部族社会への回帰を望んでいた{{sfn|Watt|1973|p=20}}。ウマイヤ朝の総督たちはハワーリジュ派の活動を封じ込めていたが、683年にカリフのヤズィードが死去した結果生じた権力の空白は、ハワーリジュ派が定住地に対して襲撃を繰り返す反政府活動を再開させるきっかけとなった。イスラーム国家がウマイヤ朝のカリフの[[アブドゥルマリク|アブドゥルマリク・ブン・マルワーン]](在位:685年 - 705年)の下で再統一されたのち、ハワーリジュ派は内部抗争と分裂によって大きく弱体化し、反乱はウマイヤ朝の総督の{{仮リンク|ハッジャージュ・ブン・ユースフ|label=アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}によって鎮圧された{{sfn|Lewis|2002|p=76}}{{sfn|Kennedy|2016|p=84}}。}}。仲裁はムアーウィヤとアリーの間の紛争を解決するには至らず、アリーの軍隊が[[657年]]7月に{{仮リンク|ナフラワーンの戦い|en|Battle of Nahrawan}}で多くのハワーリジュ派の人々を殺害した後、[[661年]]1月にハワーリジュ派の人物によってアリーは暗殺された{{sfn|Donner|2010|p=166}}。アリーの長男の[[ハサン・ブン・アリー]]がカリフとなったが、ムアーウィヤはハサンの支配権に異議を唱えてイラクに侵攻した。661年8月にハサンは{{仮リンク|ハサンとムアーウィヤの和約|label=和平を結んで|en|Hasan–Muawiya treaty}}カリフの地位をムアーウィヤへ譲り、第一次内乱を終結させた。そして首都はムアーウィヤの本拠地である[[ダマスカス]]へ移された{{sfn|Donner|2010|p=167}}。


=== 後継者のヤズィード ===
思想史上、アリーの党派は、こうした終末論的マフディー像を得て、いわゆる「[[シーア派]]」へと発展する。政治的には、くすぶり続けた不満が750年の[[アッバース革命]]をもたらす原因になった。
[[File:Second Fitna Battle Map.png|thumb|right|380px|第二次内乱の主要な軍事行動と戦闘を表した地図。]]
ハサンとムアーウィヤとの間で結ばれた和約は一時的な平和をもたらしたものの、カリフの地位の継承に関する枠組みが確立されたわけではなかった{{sfn|Donner|2010|p=177}}{{sfn|Lewis|2002|p=67}}。過去の場合と同様に、地位の継承の問題は将来の禍根となる可能性が残っていた{{sfn|Wellhausen|1927|p=140}}。東洋学者の[[バーナード・ルイス]]は、「イスラームの歴史からムアーウィヤが利用できた先例は合議と内戦だけであった。前者はうまく行きそうにもなく、後者には明白な問題があった。」と指摘している{{sfn|Lewis|2002|p=67}}。ムアーウィヤは自身の息子である[[ヤズィード1世|ヤズィード]](ヤズィード1世、在位:680年 - 683年)を後継者として指名することで生前に問題を解決しようと望み{{sfn|Wellhausen|1927|p=140}}、[[676年]]にヤズィードの指名を公表した{{sfn|Madelung|1997|p=322}}。しかし、イスラームの歴史において世襲による継承は他の継承方法よりも優先権があるとは考えられていなかったため{{sfn|蔀|2018|page=251}}、この指名はさまざまな方面から反発を引き起こし、カリフの地位を君主の性格へと変える腐敗した行為であると見なされた{{sfn|Kennedy|2016|p=76}}。ムアーウィヤはダマスカスでシューラーを召集し、交渉と賄賂を用いてさまざまな地域の代表者を説得した{{sfn|Lewis|2002|p=67}}。その徳のある血筋から同様にカリフの地位を主張することが可能であった[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・ブン・アリー]]、[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]]、{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・ウマル|en|Abdullah ibn Umar}}、そして{{仮リンク|アブドゥッラフマーン・ブン・アビー・バクル|en|Abdul-Rahman ibn Abi Bakr}}といった何人かのムハンマドのサハーバの息子たちはこの指名に反対した{{sfn|Wellhausen|1927|p=145}}{{sfn|Hawting|2000|p=46}}。しかしながら、ムアーウィヤの脅しとイスラーム国家全域にわたるヤズィードの全般的な承認によって、これらのサハーバの息子たちは沈黙を余儀なくされた{{sfn|Wellhausen|1927|pp=141–145}}。


歴史家の{{仮リンク|フレッド・マクグロウ・ドナー|en|Fred Donner}}は、イスラーム共同体の指導者の地位をめぐる論争は第一次内乱では解決されておらず、680年4月のムアーウィヤの死によって再び問題が表面化したと述べている{{sfn|Donner|2010|p=177}}。死の前にムアーウィヤはヤズィードに対してフサイン・ブン・アリーとアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルがヤズィードの支配に異議を唱えるかもしれないと警告し、もしそのような行動に出たならば打倒するように指示した。とりわけイブン・アッ=ズバイルは危険であると考えられており、もしイブン・アッ=ズバイルがヤズィードの継承に同意しないようであれば厳しく対処することになった{{sfn|Lammens|1921|pp=5–6}}。ヤズィードがカリフの地位を継いだ時、ヤズィードは従兄弟で[[マディーナ]]の総督である{{仮リンク|アル=ワリード・ブン・ウトバ・ブン・アビー・スフヤーン|en|Al-Walid ibn Utba ibn Abi Sufyan}}に対し、イブン・アッ=ズバイル、フサイン、イブン・ウマルから必要であれば強要してでも忠誠を確保するように命じた。ワリードはウマイヤ家の親族である[[マルワーン1世|マルワーン・ブン・アル=ハカム]]に助言を求めた。マルワーンは、イブン・アッ=ズバイルとフサインは危険な存在であり、強制的に忠誠を誓わせるべきだとする一方、イブン・ウマルは脅威となるような態度を見せていないため放置しておくべきだと助言した{{sfn|Wellhausen|1927|pp=145–146}}{{sfn|Howard|1990|pp=2–3}}。ワリードはイブン・アッ=ズバイルとフサインを召喚したが、イブン・アッ=ズバイルは[[メッカ]]へ逃亡した。フサインは召喚に応じたものの、内密の会議の場で忠誠を誓うことを拒否し、忠誠の誓いは公の場で行われるべきだと主張した。マルワーンは投獄すると脅したが、ワリードはフサインとムハンマドの血縁関係のためにフサインに対していかなる行動を取ることも望まなかった。数日後、フサインは忠誠を誓うことなくメッカへと去った{{sfn|Howard|1990|pp=5–7}}{{sfn|佐藤|2010|pp=138, 139}}。イスラーム研究家の{{仮リンク|ジェラルド・R・ホーティング|en|G. R. Hawting}}は、「ムアーウィヤによって抑え込まれていた緊張と圧力がヤズィードの治世の間に表面化し、ヤズィードの死後にこれらの問題が一挙に噴出したことでウマイヤ朝の支配が一時的に失われることになった。」と述べている{{sfn|Hawting|2000|p=46}}。
==イブン・ズバイルの反乱==
第一次内乱後、ウマイヤ朝カリフ・[[ヤズィード1世]]の死後、その跡を継いで [[ムアーウィヤ2世]]が即位したのをきっかけに、アブドゥッラー・ブン・ズバイル(以下、イブン・ズバイル)は[[メッカ]]でカリフに即位し、[[ウマイヤ朝]]から独立する。


== ヤズィードに対する反乱 ==
イブン・ズバイルの父は[[ラクダの戦い]]で戦死した[[ズバイル・イブン・アウワーム|ズバイル・ブン・アウワーム]]で、母は初代[[正統カリフ]]、[[アブー・バクル]]の長女{{仮リンク|アスマー・ビント・アビー・バクル|en|Asmā' bint Abi Bakr|label=}}という、カリフを称するのには非常に有利な生まれだったが、彼のカリフ宣言後、ウマイヤ家に不満を抱く各地の[[ムスリム]]([[ヨルダン]]以外の[[歴史的シリア|シリア]]、[[イラク]]、[[エジプト]]などの)が彼のもとに忠誠の誓い(バイア)をし、2人のカリフが存在するという状態が起こった。
=== フサイン・ブン・アリーの反乱 ===
{{Main|カルバラーの戦い}}
[[File:Kerbela Hussein Moschee.jpg|thumb|250px|right|フサインが葬られた地に建つ[[カルバラー]]の{{仮リンク|イマーム・フサイン廟|en|Imam Husayn Shrine}}。]]
フサインはクーファからかなりの支援を得た。クーファの住民は第一次内乱の期間中にウマイヤ家とシリア人のウマイヤ家の同盟者と戦っていた{{sfn|Daftary|1990|p=47}}。また、クーファの人々はハサンの退位に不満を抱き{{sfn|Wellhausen|1901|p=61}}、ウマイヤ朝による支配に強く憤慨していた{{sfn|Daftary|1990|p=48}}。[[669年]]にハサンが死去した後、クーファの人々はムアーウィヤに対する抵抗運動にフサインを参加させようと試みたが、この試みは失敗に終わった{{sfn|Daftary|1990|p=49}}。ムアーウィヤの死去後、クーファのアリー家支持派の人々はヤズィードに対する反乱の指導者として再びフサインを招聘した{{sfn|蔀|2018|page=251}}。メッカに本拠を置くフサインは、状況を見極めるために従兄弟の{{仮リンク|ムスリム・ブン・アキール|en|Muslim ibn Aqil}}をクーファへ派遣した。そこで広く支持を得たイブン・アキールは、フサインに対して支持者の下に加わるように促した。ヤズィードはクーファの総督の{{仮リンク|ヌゥマーン・ブン・バシール|label=ヌゥマーン・ブン・バシール・アル=アンサーリー|en|Nu'man ibn Bashir al-Ansari}}をイブン・アキールの活動に対して何も対応を取らなかったことを理由に更迭し、当時[[バスラ]]の総督であった{{仮リンク|ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード|en|Ubayd Allah ibn Ziyad}}と交代させた。ヤズィードの指示を受けたイブン・ズィヤードは反乱を抑え込んでイブン・アキールを処刑した{{sfn|Donner|2010|p=178}}{{sfn|佐藤|2010|pp=138, 139}}。イブン・アキールの手紙に促されたフサインは、イブン・アキールの処刑を知ることなくクーファへ向かった。イブン・ズィヤードはフサインを追跡するために都市に通じるルートに沿って軍隊を配置した。そしてフサインはクーファの北に位置する砂漠の平原のカルバラーで動きを阻止された。その後およそ4,000人の軍隊が到着し、ヤズィードへの服従を強要した。数日間の交渉と服従の拒否ののち、フサインは680年10月10日の[[カルバラーの戦い]]でおよそ70人の同行者とともに殺害された{{sfn|Donner|2010|p=178}}{{sfn|佐藤|2010|pp=138, 139}}。


=== マディーナとメッカの反抗 ===
そして、イブン・ズバイルはイラク、エジプトでカリフとなり、シリアの半分以上をその最大勢力範囲にするほど勢力が伸張したが、その後[[アブドゥルマリク]]のもとで攻勢に転じた[[ウマイヤ朝]]によって、その領地は取り返されていき、最後にイブン・ズバイルの領地は聖地メッカ周辺だけになった。
{{Main|{{仮リンク|ハッラの戦い|en|Battle of al-Harra}}|メッカ包囲戦 (683年)}}
[[File:Drachm of Yazid I, 676-677.jpg|thumb|right|250px|[[ヒジュラ暦]]57年([[西暦]][[676年]]/[[677年]])に鋳造された[[サーサーン朝]]様式の[[ヤズィード1世]]の[[ディルハム]]銀貨。]]
フサインの死後、ヤズィードは自身の支配に対して増していく[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]](サハーバの[[ズバイル・イブン・アウワーム|アッ=ズバイル・ブン・アル=アウワーム]]の息子で初代正統カリフの[[アブー・バクル]](在位:[[632年]] - [[634年]])の孫にあたる)からの反発に直面することになった。イブン・アッ=ズバイルはメッカで秘密裏に忠誠を獲得し始めたが{{sfn|Wellhausen|1927|pp=148–150}}、表向きは新しいカリフを選出するためのシューラーの開催を要求するだけに留まっていた{{sfn|Kennedy|2016|p=77}}。当初、ヤズィードは和解に至ろうと贈り物や代表団を送ってイブン・アッ=ズバイルを懐柔しようとした{{sfn|Wellhausen|1927|pp=148–150}}。イブン・アッ=ズバイルがヤズィードの承認を拒否すると、ヤズィードはイブン・アッ=ズバイルを捕らえるためにイブン・アッ=ズバイルとは疎遠な関係にあった兄弟のアムルが率いる部隊を送った。しかし部隊は敗北し、アムルは処刑された{{sfn|Donner|2010|p=180}}。さらに、マディーナにおけるイブン・アッ=ズバイルの影響力の高まりに加え、マディーナの住民はウマイヤ朝による支配と政府の歳入を増やすために住民の土地を没収したムアーウィヤの農業政策に幻滅していた{{sfn|Kennedy|2016|p=77}}{{sfn|Kennedy|2016|p=76}}。
[[File:Medina 1926.jpg|thumb|left|250px|イスラームの聖地である[[マディーナ]]の外観(1926年以前の撮影)。マディーナはウマイヤ朝に対する反乱に失敗した後、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの支配下に入った。]]
ヤズィードはマディーナの有力者をダマスカスに招待し、贈り物によって支持を得ようとした。しかしこの行為には説得力がなく、招待された者たちはマディーナに戻ると、飲酒、猟犬を使った狩り、音楽への愛着といった多くの人が不信心であると考えたヤズィードの贅沢な暮らしぶりや習慣について語った。マディーナの住民は{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・ハンザラ|en|Abd Allah ibn Hanzala}}の指導の下でヤズィードへの忠誠を放棄し、当時のマディーナの総督でヤズィードの従兄弟にあたる{{仮リンク|ウスマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アビー・スフヤーン|en|Uthman ibn Muhammad ibn Abi Sufyan}}と街に住むウマイヤ家の人物を追放した。ヤズィードは[[ヒジャーズ]]([[アラビア半島]]西部)を再征服するために、{{仮リンク|ムスリム・ブン・ウクバ|en|Muslim ibn Uqba}}が率いる総勢12,000人の軍隊を派遣した。交渉が失敗に終わったのちに起こった{{仮リンク|ハッラの戦い|en|Battle of al-Harra}}でマディーナの住民は敗北し、都市は3日間にわたって略奪を受けた。ヤズィードの軍隊は反乱者に対して忠誠を再度受け入れるように強要し、その後イブン・アッ=ズバイルが本拠地とするメッカを征服するために進軍した{{sfn|Wellhausen|1927|pp=152–156}}{{sfn|Donner|2010|pp=180–181}}。


ムスリム・ブン・ウクバはメッカへ向かう道中で死去し、[[フサイン・イブン・ヌマイル|フサイン・ブン・ヌマイル]]が指揮を引き継いだ。683年9月に始まった[[メッカ包囲戦 (683年)|メッカの包囲]]は数週間続き、包囲の期間中に[[カアバ]]が炎上した。しかし、同年11月にヤズィードが急死したためにこの軍事作戦は切り上げられることになった。イブン・ヌマイルはイブン・アッ=ズバイルをシリアへ同行させ、そこでカリフへの即位を宣言するように説得を試みたものの、イブン・アッ=ズバイルは要求を拒否し、イブン・ヌマイルは自身の部隊とともにシリアへ去った{{sfn|Hawting|2000|p=48}}。
ウマイヤ朝カリフ、アブドゥルマリクは、ハッジャージュ・ブン・ユースフ司令官の2千のウマイヤ朝軍をメッカのイブン・ズバイルのもとに差し向け、メッカを包囲、弩弓による投石でメッカの守備隊、[[カーバ神殿]]などを攻撃させた。そのため、メッカの守備隊は苦戦を強いられ、壊滅した。カーバ神殿も大きく被害を受けた。[[692年]]、こうした中で、イブン・ズバイルはハッジャージュ・ブン・ユースフによって、メッカを6ヶ月包囲されたのち、戦死を遂げた。


== 対抗のカリフ:アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル ==
その後、ウマイヤ朝は統一と繁栄を手に入れ、アブドゥルマリクから第10代[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク|ヒシャーム]]までの黄金時代を現出する。
{{Main|[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]]}}
ヤズィードの死とシリア軍の撤退によってイブン・アッ=ズバイルは今やヒジャーズとその他のアラビア各地における事実上の支配者となり{{efn2|ただし、当時[[オマーン]]はジュランド族が独立して統治しており、[[ハドラマウト]]の状況については不明である{{sfn|Rotter|1982|p=84}}。}}、公然とカリフの地位を宣言した。その後まもなくイブン・アッ=ズバイルはエジプトとウマイヤ朝の総督のイブン・ズィヤードがアラブ部族の有力者(アシュラーフ)によって追放されたイラクでカリフとして認められた{{sfn|Donner|2010|pp=181–182}}。そしてイブン・アッ=ズバイルの名を刻んだ硬貨が[[ペルシア]]南部の一部([[ファールス]]と[[ケルマーン州|ケルマーン]])で鋳造された{{sfn|Hawting|2000|p=48}}{{sfn|Rotter|1982|p=85}}。


=== シリアの支配をめぐる抗争 ===
==出典==
{{Main|[[マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)|マルジュ・ラーヒトの戦い]]}}
{{reflist|refs=
[[File:Approximate map of areas under Ibn al-Zubayr's control after the death of Muawiya II.png|thumb|right|250px|[[ムアーウィヤ2世]]死去後の時点における[[ウマイヤ朝]](緑色)と[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]](茶色)の勢力図。]]
<ref name="イスラームの歴史1">{{cite book|和書|first=次高 |last=佐藤 |authorlink=佐藤次高 |title=イスラームの歴史〈1〉イスラームの創始と展開 |series=宗教の世界史 |publisher=山川出版社 |date=2010-06-01 |isbn=978-4634431416 }} pp.125,132.</ref>
ヤズィードの死後、息子で後継者に指名された[[ムアーウィヤ2世]]がカリフとなったものの、すでに権力のおよぶ範囲はシリアの特定の地域に限定されていた{{sfn|Wellhausen|1927|pp=168–169}}。さらにムアーウィヤ2世は後継者となる適切なスフヤーン家({{仮リンク|アブー・スフヤーン・ブン・ハルブ|label=アブー・スフヤーン|en|Abu Sufyan ibn Harb}}の子孫でムアーウィヤが属していたウマイヤ家の家系の一つ)の候補者がいないまま即位後わずか20日ほどで死去した{{sfn|蔀|2018|page=253}}。シリア北部の{{仮リンク|カイス|label=カイス族|en|Qays}}(アラブの部族連合の一つ)はイブン・アッ=ズバイルを支持し{{sfn|Wellhausen|1927|p=182}}、シリアの軍管区である{{仮リンク|ジュンド・ヒムス|en|Jund Hims}}(現代の[[ホムス]]周辺)、{{仮リンク|ジュンド・キンナスリーン|en|Jund Qinnasrin}}(現代の[[アレッポ]]周辺)、{{仮リンク|ジュンド・フィラスティーン|en|Jund Filastin}}([[パレスチナ]])の総督も同様にイブン・アッ=ズバイルの支持に回った。{{仮リンク|ジュンド・ディマシュク|en|Jund Dimashq}}([[ダマスカス]])総督の{{仮リンク|ダッハーク・ブン・カイス|label=アル=ダッハーク・ブン・カイス|en|Al-Dahhak ibn Qays al-Fihri}}もイブン・アッ=ズバイル支持に傾き、さらには当時のウマイヤ家の長老格であった[[マルワーン1世|マルワーン・ブン・アル=ハカム]]を含む多くのウマイヤ家の人々もイブン・アッ=ズバイルを承認しようとしていた{{sfn|Hawting|1989|pp=49–51}}。
<ref name="kikuchi2009">{{cite book|和書|first=達也 |last=菊地 |authorlink=菊地達也 |title=イスラーム教「異端」と「正統」の思想史 |series=講談社メチエ |publisher=講談社 |date=2009-08-10 |isbn=978-4-06-258446-3 }} pp.69,77,78.</ref>
}}


一方、ウマイヤ朝支持派の部族、特に{{仮リンク|ジュンド・アル=ウルドゥン|en|Jund al-Urdunn}}を支配していた{{仮リンク|カルブ族|en|Banu Kalb}}はダマスカスでウマイヤ朝を支援していた。このためカルブ族はウマイヤ家の人物の擁立を決意した{{sfn|Hawting|1989|pp=50–51}}。カルブ族の族長の{{仮リンク|イブン・バフダル|en|Ibn Bahdal}}はスフヤーン家のカリフと姻戚関係にあり、部族はウマイヤ朝の下で特権的な地位を保持していた{{efn2|カイス族はシリアにおけるカルブ族の支配権に対抗するために、スフヤーン家のカリフの治世下でアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支援していた{{sfn|Wellhausen|1927|p=170}}。}}。イブン・バフダルはヤズィードの若年の息子である{{仮リンク|ハーリド・ブン・ヤズィード|label=ハーリド|en|Khalid ibn Yazid}}がカリフとなることを望んだ{{sfn|Kennedy|2016|pp=78–79}}。しかしながら、カルブ族以外のウマイヤ朝支持派の部族からはハーリドがカリフとなるにはあまりに若すぎると見なされたため、イブン・ズィヤードがマルワーンに対してカリフの候補者として立候補するように説得した{{sfn|Kennedy|2016|p=78}}。マルワーンは[[684年]]6月に{{仮リンク|ジャービヤ|en|Jabiyah}}のカルブ族の拠点に招集されたウマイヤ朝支持派の部族によるシューラーでカリフとして承認された{{sfn|Wellhausen|1927|p=182}}。イブン・アッ=ズバイル支持派の部族はマルワーンの承認を拒否し、同年8月の[[マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)|マルジュ・ラーヒトの戦い]]で両者は激突した。結果はウマイヤ朝軍がアル=ダッハークの指揮下にあったカイス族の軍隊を完全に打ち破り、アル=ダッハークを含む高位の指導者の多くが戦死した{{sfn|Kennedy|2016|pp=78–79}}。
{{デフォルトソート:ないらん2 いすらむ}}

マルワーンの即位はシリアがウマイヤ朝の下で再統合される契機となり、ウマイヤ朝の焦点が失われた領土の回復に向けられることになった{{sfn|Kennedy|2016|p=80}}。マルワーンと息子の{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・ブン・マルワーン|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn Marwan}}は地元の部族の助けを借りてエジプトのイブン・アッ=ズバイル派の総督を追放した{{sfn|Kennedy|2016|p=80}}。一方でアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟の{{仮リンク|ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル|en|Mus'ab ibn al-Zubayr}}がパレスチナに対する攻撃に向かったが、ウマイヤ朝はこの侵攻を撃退した{{sfn|Wellhausen|1927|pp=185–186}}。反対にヒジャーズの奪還を目指したウマイヤ朝軍の侵攻もマディーナの近郊でイブン・アッ=ズバイル側の軍隊に打ち破られた{{sfn|Hawting|1989|pp=162–163}}。マルワーンはイラクの支配の回復を目指し、イブン・ズィヤードが率いる軍隊を派遣した{{sfn|Wellhausen|1927|pp=185–186}}。マルワーンは685年4月に死去し、息子の[[アブドゥルマリク]]がカリフの地位を継いだ{{sfn|Kennedy|2016|p=80}}。

=== 東方地域の動向 ===
[[File:Second Fitna Territorial Control Map ca 686.svg|thumb|upright=2.05|内乱が最も激しさを増していた686年頃の勢力図。{{legend|#FA738B|[[アブドゥルマリク|アブドゥルマリク・ブン・マルワーン]]([[ウマイヤ朝]])の支配地域}} {{legend|#7FE37F|[[ムフタール・アッ=サカフィー]]の支配地域}} {{legend|#6495ED|[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]](ズバイル家)の支配地域}} {{legend|#ADD8E6|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支持する勢力の支配地域}} {{legend|#EEE40D|[[ハワーリジュ派]]の支配地域}}]]
カリフのヤズィードが死去した頃、{{仮リンク|スィースターン|label=スィジスターン|en|Sistan}}(現代のイラン東部)のウマイヤ朝の総督の{{仮リンク|ヤズィード・ブン・ズィヤード|en|Yazid ibn Ziyad}}は、東方の従属勢力である{{仮リンク|ザーブリスターン|en|Zabulistan}}の[[ズンビール]]の反乱に直面しており、兄弟のアブー・ウバイダが捕えられていた。ヤズィード・ブン・ズィヤードはズンビールを攻撃したものの、敗北して殺害された。[[ホラーサーン]](現代のイラン北東部と中央アジアおよび現代のアフガニスタンの一部)のウマイヤ朝の総督である兄弟の{{仮リンク|サルム・ブン・ズィヤード|en|Salm ibn Ziyad}}は、スィジスターンの新しい総督として{{仮リンク|タルハ・ブン・アブドゥッラー|label=タルハ・ブン・アブドゥッラー・アル=フザーイー|en|Talha ibn Abd Allah al-Khuza'i}}を派遣した。しかし、タルハはアブー・ウバイダの身代金を支払った直後に死去した{{sfn|Dixon|1971|pp=104–105}}{{sfn|Rotter|1982|pp=87–88}}。

中央権力の弱体化は、部族間の派閥争いの急激な増加とイスラーム軍に従軍したアラブ人の移住者が征服した土地に持ち込んだ対立関係を表面化させる結果を招いた。{{仮リンク|ラビーア族|en|Rabi'ah ibn Nizar}}出身のタルハの後継者はすぐに{{仮リンク|ムダル族|en|Mudar}}出身の対抗者によって追放された。その結果、部族間の確執に発展し、この状態は少なくとも685年の終わりにイブン・アッ=ズバイルが派遣した総督のアブドゥルアズィーズ・ブン・アブドゥッラー・ブン・アーミルが到着するまで続いた。イブン・アブドゥッラーは部族間の争いを収束させ、ズンビールの反乱を鎮圧した{{sfn|Dixon|1971|pp=104–105}}{{sfn|Rotter|1982|pp=87–88}}。

一方、ホラーサーンではサルムがカリフのヤズィードの死の情報をしばらくの間伏せていた。その後この情報が知れ渡った時にサルムは自身の軍隊から一時的に忠誠を受けたものの、すぐに軍の離反に遭って追放された。サルムは684年の夏に去る際にムダル族の{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・ハーズィム|en|Abd Allah ibn Khazim al-Sulami}}をホラーサーンの総督に指名した。イブン・ハーズィムはイブン・アッ=ズバイルをカリフとして認めたが、その後ラビーア族とムダル族の抗争に巻き込まれることになった。ラビーア族はムダル族のイブン・ハーズィムに対する憎悪のためにイブン・アッ=ズバイルによる支配に反対した。最終的にイブン・ハーズィムはラビーア族を抑え込んだものの、その後すぐにかつての同盟者であった{{仮リンク|タミーム族|en|Banu Tamim}}による反乱に直面した{{sfn|Dixon|1971|pp=105–108}}{{sfn|Rotter|1982|pp=89–92}}。ホラーサーンの支配をめぐる部族間の抗争は数年間続き、イブン・ハーズィムは691年に殺害された{{sfn|Dixon|1971|p=110}}。

これらの東方地域におけるイブン・アッ=ズバイルの支配は名目的なものであり、特にイブン・ハーズィムが事実上独立して支配していたホラーサーンではその傾向が顕著であった{{sfn|Kennedy|2007|pp=239, 241}}。

=== 各勢力の対立 ===
イブン・アッ=ズバイルは自身の反乱の間にウマイヤ朝とアリー家に敵対した[[ハワーリジュ派]]と同盟を結んでいた。しかし、カリフの地位を主張した後、イブン・アッ=ズバイルはハワーリジュ派の宗教面における見解を非難し、その統治形態の受け入れを拒否したために同盟関係は崩壊していった{{sfn|Hawting|2000|p=49}}。ハワーリジュ派の一部の集団が[[バスラ]]に、残りの集団がアラビア半島中部へ向かい、イブン・アッ=ズバイルの支配を不安定なものにし始めた{{sfn|Hawting|1989|pp=98–102}}{{sfn|Gibb|1960a|p=55}}{{efn2|name=A}}。イブン・アッ=ズバイルは、その頃までクーファの有力者でカリフのヤズィードと対立していたアリー家支持派の人物である[[ムフタール・アッ=サカフィー]]から協力を得ていた。しかし、イブン・アッ=ズバイルは以前にムフタールと合意していた高い公的な地位をムフタールに与えようとしなかった。684年4月にムフタールはイブン・アッ=ズバイルの下を去り、クーファでアリー家を支持する人々の扇動を始めた{{sfn|Dixon|1971|pp=34–35}}。

== アリー家支持派の運動 ==
=== タッワーブーンの蜂起 ===
{{Main|{{仮リンク|タッワーブーンの蜂起|en|Tawwabin uprising}}|アイン・アル=ワルダの戦い}}
[[File:Moavenol-molk - Soleiman ibn Sard.jpg|thumb|250px|right|タッワーブーンの軍隊の様子を描いた[[20世紀]]の[[ケルマーンシャー]]の[[タイル|タイルワーク。]]]]
[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・ブン・アリー]]への支援に失敗したことを罪業とみなし、償いを求めていた少数の著名なアリー家の支持者たちがウマイヤ朝と戦うためにムハンマドの[[サハーバ]]でアリーの協力者であった{{仮リンク|スライマーン・ブン・スラド|en|Sulayman ibn Surad}}の下で運動を開始した。自らをタッワーブーン(悔悟者たち)と呼んだこれらの人々は、ウマイヤ朝がイラクを支配しているあいだ地下組織として潜伏していた。カリフのヤズィードの死とそれに続く総督のイブン・ズィヤードの追放の後、タッワーブーンは公然とフサイン殺害に対する復讐を呼びかけた{{sfn|Wellhausen|1901|pp=71–72}}{{sfn|佐藤|2010|p=132}}。そしてタッワーブーンはクーファで幅広い支持を集めることに成功した{{sfn|Wellhausen|1901|p=72}}。しかしながら、その運動は政治的な計画を欠いており、主だった目標はウマイヤ朝を懲罰するか、さもなければその過程で自らを犠牲にすることにあった{{sfn|Sharon|1983|pp=104–105}}。ムフタールはクーファに戻って以降、都市の支配権を手に入れるための組織的な運動を追求し、タッワーブーンに対してその努力を思いとどまらせようとした。しかし、イブン・スラドには名声があったために、ムフタールの提案はイブン・スラドの支持者には受け入れられなかった{{sfn|Dixon|1971|p=37}}。

タッワーブーンの運動に参加した16,000人のうち4,000人が戦闘のために動員された。684年11月、タッワーブーンはカルバラーのフサインの墓で一日喪に服した後、ウマイヤ朝と対決するために出発した。そして双方の軍隊は685年1月に[[ジャズィーラ]]([[メソポタミア]]北部)で起こった[[アイン・アル=ワルダの戦い]]で激突した。3日間続いた戦闘の末にタッワーブーンの軍隊は敗れ、イブン・スラドを含むほとんどの者が戦死し、生き残った少数の者がクーファへ逃れた{{sfn|Wellhausen|1901|p=73}}。

=== ムフタール・アッ=サカフィーの反乱 ===
{{Main|ムフタール・アッ=サカフィー|{{仮リンク|ハーズィルの戦い|en|Battle of Khazir}}|{{仮リンク|マザールとハルーラーの戦い|en|Battles of Madhar and Harura}}}}
[[File:Kufa Mosque 1.jpg|thumb|right|250px|アラブ軍の軍営都市([[ミスル]])として[[7世紀]]に建設された[[クーファ]]の町と{{仮リンク|クーファの大モスク|label=大モスク|en|Great Mosque of Kufa}}。ムフタールはクーファを本拠地としてアリー家支持派による反ウマイヤ朝の反乱を主導した。]]
ムフタールはクーファに戻って以来、アリーの息子でフサインの異母弟である[[イブン・ハナフィーヤ|ムハンマド・ブン・ハナフィーヤ]]を[[イマーム]]にして[[マフディー]]であると称して自らはその代理人であると宣言し{{sfn|蔀|2018|page=253}}、アリー家のカリフによる政権の樹立とフサインの殺害者に対する復讐を呼びかけていた{{sfn|Daftary|1990|p=52}}{{sfn|佐藤|2010|p=132}}。その後、タッワーブーンの試みが失敗に終わったことで、ムフタールがクーファのアリー家支持派の指導者となった。685年10月、ムフタールとかなりの人数が地元の非アラブ人の改宗者([[マワーリー]])からなっていた支持者たちがイブン・アッ=ズバイル派の総督の{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・ムティー|en|Abd Allah ibn Muti}}を追放してクーファの支配権を掌握した。ムフタールの支配はイラクの大部分とペルシア北西部の一部にまで及んだ{{sfn|Wellhausen|1975|pp=128–130}}{{sfn|Dixon|1971|pp=37–45}}。ムフタールはマワーリーに対して俸給受給の権利などアラブ人と同等の地位を与えたが{{sfn|蔀|2018|page=253}}、この措置はアラブ部族の有力者による反乱を招いた{{efn2|イスラームによる平等が与えられたはずにもかかわらず、ほとんどの地元の改宗者はしばしば二級市民として扱われた。これらの[[マワーリー]]と呼ばれる改宗者は、アラブ人よりも高い税金を支払い、アラブ人よりも低い軍の給与を充てがわれ、戦利品は取り上げられていた{{sfn|Daftary|1990|pp=55–56}}。}}。反乱を鎮圧した後、ムフタールはカルバラーの戦いでフサインを殺害した軍の指揮官の一人である{{仮リンク|ウマル・ブン・サアド|en|Umar ibn Sa'ad}}を含むフサインの殺害に関与したクーファの人々を処刑した。これらの手段に出た結果、何千人ものクーファのアシュラーフがバスラに逃れた{{sfn|Donner|2010|p=185}}。その後、ムフタールはイラクの再征服を目指して接近中であったイブン・ズィヤードが率いるウマイヤ朝軍と対決するために配下の将軍の[[イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタル|イブラーヒーム・ブン・アル=アシュタル]]を派遣した。686年8月に起こった{{仮リンク|ハーズィルの戦い|en|Battle of Khazir}}でムフタール軍はウマイヤ朝軍に対して圧倒的な勝利を収め、イブン・ズィヤードは戦死した{{sfn|Hawting|2000|p=53}}。
[[File:Mokhtar-moaven.JPG|thumb|left|250px|ムフタールが[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・ブン・アリー]]の殺害に関与した人々への処罰を監視している様子を描いたケルマーンシャーのタイルワーク。]]
一方、バスラでは失われた特権を取り戻して自分たちの街へ戻ることを切望していたクーファからの避難民と、その中でも有力者であった{{仮リンク|ムハンマド・ブン・アル=アシュアス|en|Muhammad ibn al-Ash'ath al-Kindi}}とシャバス・ブン・リビーが、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟で[[バスラ]]の総督である{{仮リンク|ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル|en|Mus'ab ibn al-Zubayr}}に対してクーファを攻撃するように説得した{{sfn|Wellhausen|1901|p=85}}。ムフタールはムスアブと対決するために軍隊を派遣したが、バスラとクーファの間の[[ティグリス川]]沿いに位置するマザールで発生した最初の戦闘で敗北した。ムフタールの軍隊はクーファに近い村のハルーラーに撤退したが、そこでの二度目の戦闘でムスアブの軍隊によってムフタール軍は壊滅した。ムフタールと残りの支持者たちはクーファの城砦に避難したものの、ムスアブの軍隊によって城砦を包囲された。そして4か月後の687年4月に出撃を試みたムフタールは戦闘で殺害された。およそ6,000人もしくは7,000人のムフタールの支持者たちが降伏したが、ムスアブはイブン・アル=アシュアスとその息子の{{仮リンク|アブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド|en|Abd al-Rahman ibn Muhammad ibn al-Ash'ath}}、そしてその他のアシュラーフから迫られたためにこれらのムフタールの支持者を処刑した{{sfn|Dixon|1971|pp=73–75}}{{sfn|清水|1995|p=61}}。ムフタールの死によってウマイヤ朝とイブン・アッ=ズバイルが内乱における最後の交戦勢力として残ることになった{{sfn|Hawting|2000|pp=47–49}}。

== ウマイヤ朝の勝利 ==
{{Main|{{仮リンク|マスキンの戦い|en|Battle of Maskin}}|{{仮リンク|メッカ包囲戦 (692年)|en|Siege of Mecca (692)}}}}
[[File:Le Tour du monde-04-p065.jpg|thumb|right|250px|[[ティグリス川]]沿いに位置する[[ジャズィーラ]]の主要都市である[[モスル]]({{仮リンク|ウジェーヌ・フランダン|en|Eugène Flandin}}画、1861年)。]]
684年6月の[[マルワーン1世|マルワーン・ブン・アル=ハカム]]のカリフへの即位に続いてイブン・ズィヤードがイラクを再征服するために派遣された。その後、イブン・ズィヤードは[[アイン・アル=ワルダの戦い]]でタッワーブーンを破った。一方、[[マルジュ・ラーヒトの戦い]]で壊滅的な敗北を喫したカイス族は[[ジャズィーラ]]で勢力を立て直し、イブン・ズィヤードがジャズィーラを再征服しようとする努力を1年にわたって妨げ、イブン・アッ=ズバイルを支援し続けた{{sfn|Wellhausen|1927|pp=185–186}}。イブン・ズィヤードはカイス族の要塞を落とすことができなかったため、ムフタールの総督が支配する[[モスル]]を占領するために移動した。モスルを占領されたムフタールは都市を奪還するために3,000人の騎兵からなる小規模な部隊を送った。686年7月にムフタールの部隊は戦闘で勝利したにもかかわらず、ウマイヤ朝軍が数的に優位な状況であったために撤退した{{sfn|Dixon|1971|pp=59–60}}。その1か月後、イブン・ズィヤードはハーズィルの戦いで増強されたムフタールの軍隊の前に敗れて戦死した{{sfn|Wellhausen|1927|p=186}}。イブン・ズィヤードが死亡したため、カリフの[[アブドゥルマリク]]はイラクを再征服する計画を数年にわたって放棄し、シリアの支配を固めることに焦点を合わせた{{sfn|Kennedy|2016|p=81}}。シリアにおけるアブドゥルマリクの支配は内部の混乱と[[ビザンツ帝国]](東ローマ帝国)との戦争の再開によって脅かされていた{{sfn|Gibb|1960b|p=76}}。それにもかかわらず、アブドゥルマリクは失敗に終わった二度のイラクへの軍事行動([[689年]]と[[690年]])を率い{{sfn|Dixon|1971|pp=126–127}}、工作員を通して[[バスラ]]でイブン・アッ=ズバイルに対する反乱を扇動した。しかしバスラでの反乱は失敗に終わり、バスラのアブドゥルマリクの支持者たちは報復としてムスアブによる弾圧を受けた{{sfn|Dixon|1971|pp=127–129}}。

ビザンツ帝国との停戦を成立させ、内部の対立を克服したのち、アブドゥルマリクはイラクに視線を戻した{{sfn|Gibb|1960b|p=76}}。691年、アブドゥルマリクはジャズィーラに位置する{{仮リンク|キルケシウム|label=カルキースィヤー|en|Circesium}}のカイス族の要塞を包囲した。要塞の攻略に失敗した後、アブドゥルマリクは譲歩を示して恩赦を約束することで味方に引き入れることに成功した{{sfn|Kennedy|2016|p=84}}{{sfn|Dixon|1971|pp=92–93}}。また、アブドゥルマリクはこれらのかつてのイブン・アッ=ズバイルの同盟者を自軍に組み入れることで軍隊を強化し、多くの要因によってイラクでの立場が弱まっていたムスアブを打ち破るために行動を起こした{{sfn|Gibb|1960b|p=76}}。一方、ハワーリジュ派は中央政府による支配が内乱によって崩壊した後、アラビア半島、イラク、そしてペルシアにおける襲撃を再開していた。イラク東部とペルシアではハワーリジュ派の一派である{{仮リンク|アズラク派|en|Azariqa}}が685年にイブン・アッ=ズバイルから[[ファールス (イラン)|ファールス]]と[[ケルマーン州|ケルマーン]]を奪い{{sfn|Rotter|1982|p=84}}、イブン・アッ=ズバイル派の支配地への襲撃を繰り返した{{sfn|Kennedy|2016|p=84}}。クーファとバスラの人々もイブン・アッ=ズバイル派によるムフタールとアブドゥルマリクの支持者に対する虐殺と弾圧、そしてアブドゥルマリクによる懐柔工作のために離反が続いていた{{sfn|Lammens|Pellat|1993|pp=649–650}}{{sfn|清水|1995|pp=61, 62}}。その結果、アブドゥルマリクは多くのイブン・アッ=ズバイル支持派であった人々の亡命者を確保することに成功した。さらに、かなりの数の部隊と配下で最も経験豊富な将軍である{{仮リンク|ムハッラブ・ブン・アビー・スフラ|en|Al-Muhallab ibn Abi Sufra}}がバスラをハワーリジュ派から守るために離れていたため、ムスアブはアブドゥルマリクに対して効果的な反撃に出ることができなかった。結局、ムスアブは691年10月に起こった{{仮リンク|マスキンの戦い|en|Battle of Maskin}}で、自軍の武将の裏切りが重なったこともあり、ムフタールの死後にムスアブの下に降っていたイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルとともにウマイヤ朝軍に敗れて戦死した{{sfn|Gibb|1960b|p=76}}{{sfn|Lammens|Pellat|1993|pp=649–650}}{{sfn|Wellhausen|1975|p=138}}{{sfn|清水|1995|pp=62, 65}}。
[[File:A bird’s eye view of Mecca and surrounding hillsides.jpg|thumb|left|250px|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが本拠地としていた[[メッカ]]と[[カアバ神殿]](1917年8月)。最終的にイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝に敗れ、メッカで戦死したことで内乱は終結した。]]
イラクとその統制下にあった地域{{efn2|イラクの属領は、{{仮リンク|アルミニヤ|en|Arminiya}}、[[アーザルバーイジャーン]]、{{仮リンク|ジバール|en|Jibal}}、[[フーゼスターン州|フーゼスターン]]、[[ホラーサーン]]、{{仮リンク|スィースターン|label=スィジスターン|en|Sistan}}、[[ファールス (イラン)|ファールス]]、[[ケルマーン州|ケルマーン]]を含むイスラーム国家の北部と東部のすべての地域を構成していた。ただし、ファールスとケルマーンについてはしばらくの間ハワーリジュ派の支配下に置かれていた{{sfn|Rotter|1982|pp=84–85}}。}}のほとんどを確保したアブドゥルマリクは、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルに対して将軍の{{仮リンク|ハッジャージュ・ブン・ユースフ|label=アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}を派遣した。当時イブン・アッ=ズバイルは{{仮リンク|ナジュダ・ブン・アーミル|en|Najda ibn Amir al-Hanafi}}に率いられたもう一つのハワーリジュ派の分派であるナジュダ派の軍隊の攻勢を受けてヒジャーズで窮地に立たされていた{{sfn|Kennedy|2016|p=84}}。ナジュダ派は685年に[[ナジュド]]と{{仮リンク|ヤマーマ|en|Al-Yamama}}で独立政権を築き{{sfn|Rotter|1982|p=84}}、[[688年]]に[[イエメン]]と[[ハドラマウト]]、689年には[[ターイフ]]を占領していた{{sfn|Gibb|1960a|p=55}}。アル=ハッジャージュは直接メッカには向かわずにターイフに向かい、抵抗を受けることなくターイフを占領すると、そこに留まっていくつかの小規模な戦闘でイブン・アッ=ズバイルの部隊を破った。その間にシリアのウマイヤ朝の軍隊がイブン・アッ=ズバイル派の総督からマディーナを奪い、その後、692年3月に{{仮リンク|メッカ包囲戦 (692年)|label=メッカを包囲|en|Siege of Mecca (692)}}したアル=ハッジャージュを支援するために進軍した。包囲は6か月から7か月にわたって続き、巡礼期間中も周囲の山から投石を行って攻め立てた{{sfn|蔀|2018|page=253}}。イブン・アッ=ズバイルの軍隊の大部分が降伏し、イブン・アッ=ズバイルは同年10月もしくは11月にアブドゥッラー・ブン・ムティーを含む残った支持者とともに打って出たが、戦闘で殺害された{{sfn|McAuliffe|1995|p=230, note 1082}}{{sfn|Wellhausen|1927|pp=188–189}}{{sfn|Gibb|1960a|p=54}}。イブン・アッ=ズバイルの死によってヒジャーズは再びウマイヤ朝の支配下に置かれることになり、内乱は終結をみた{{sfn|Donner|2010|p=188}}。その後まもなくナジュダ派はアル=ハッジャージュによって打倒され、アズラク派とその他のハワーリジュ派は696年から699年の間に鎮圧されるまでイラクで活動を続けた{{sfn|Gibb|1960b|p=77}}。

== 内乱後の経過と影響 ==
アブドゥルマリクの勝利によってウマイヤ朝が支配を回復し、イスラーム共同体において世襲による統治が確立されることになった。カリフの地位を継いだアブドゥルマリクとその子孫(二人は甥)は、[[750年]]に[[アッバース革命]]によって王朝が打倒されるまで、さらに58年間統治した{{sfn|Kennedy|2016|p=85}}。

=== 行政制度の改革 ===
内乱で勝利した後、アブドゥルマリクはイスラーム国家における重要な行政上の改革を実行した。第二次内乱以前にイスラーム国家を統治していたムアーウィヤは、自身に忠実な人物との個人的な人間関係を通じて支配し、親族には依存していなかった{{sfn|Wellhausen|1927|p=137}}。ムアーウィヤは高度に訓練されたシリア人による軍隊を作り上げたが、このような精鋭軍はビザンツ帝国への襲撃に対してのみ配備されていた。国内では自身の外交的手腕に依存する形で自分の意思を実行に移していた{{sfn|Kennedy|2016|p=72}}。地方の総督と一般市民との仲介者は政府の役人ではなくアシュラーフであった{{sfn|Crone|1980|p=31}}。地方の軍事組織は地元の部族から構成され、その指揮権もアシュラーフに委ねられていた{{sfn|Crone|1980|p=31}}。地方は税収の多くを保持し、ごく一部のみがカリフに送られていた{{sfn|Kennedy|2016|p=72}}{{sfn|Crone|1980|pp=32–33}}。征服された土地に存在した行政制度はそのまま温存されていた。[[サーサーン朝]]のペルシア人、またはビザンツ人の下で働いていた役人は自身の役職を保持し続けていた。地方で用いられていた言語は引き続き公用語として使用され、ビザンツ帝国とサーサーン朝の硬貨も以前のこれらの国の領土で使用されていた{{sfn|Kennedy|2016|pp=75–76}}。
[[File:Gold dinar of Abd al-Malik 697-98.png|thumb|right|250px|ヒジュラ暦78年(西暦[[697年]]/[[698年]])に[[ダマスカス]]で鋳造された[[アブドゥルマリク]]の[[ディナール]]金貨。以前のカリフの肖像を含む様式から銘文のみの様式に改められた{{sfn|Blankinship|1994|pp=28, 94}}。]]
内乱中のアシュラーフ — アル=ダッハーク・ブン・カイスやアブドゥッラー・ブン・ハーズィム、そして一部のイラクの有力者層 — の離反は、アブドゥルマリクにムアーウィヤが敷いていた分権的な統治体制の維持が難しいものであることを確信させた。その結果、アブドゥルマリクは権力の中央集権化に着手することになった{{sfn|Kennedy|2016|p=85}}。シリアの常備軍が強化され、各地方で政府の権力を行使するために活用された{{sfn|Hawting|2000|p=62}}。さらに、アブドゥルマリクは近親者に政府の要職を与え、各地の総督に歳入の余剰分を首都へ送るように要求した{{sfn|Kennedy|2016|pp=85–86}}。そして[[アラビア語]]が官僚機構における公用語となり、単一のイスラーム通貨がビザンツ帝国とサーサーン朝の通貨に取って代った。これらの政策によってウマイヤ朝は一層イスラーム政権としての性格を強めることになった{{sfn|Lewis|2002|p=78}}{{sfn|Gibb|1960b|p=77}}。また、アブドゥルマリクは初期のイスラーム教徒による征服活動に従事した人々への恒久的な年金の支払いを打ち切り、現役軍人のために俸給を支払う制度を確立した{{sfn|Kennedy|2016|p=89}}。アブドゥルマリクの統治モデルはその後の多くのイスラーム政権によって採用された{{sfn|Kennedy|2016|p=85}}。

=== 部族の分裂 ===
内乱中に発生した[[マルジュ・ラーヒトの戦い]]以降にシリアとジャズィーラにおいてカイス族とカルブ族の長期にわたる分断が進行した。この対立関係は、イラクにおいてタミーム族を中核とするムダル族と、これに対立するラビーア族と{{仮リンク|アズド族|en|Azd}}の部族同盟との間で起こっていた分裂と並行して発生していた。これらの対立は、ともにイスラーム国家の各地で二つの部族連合、または「大集団」へと各部族の忠義が再編されていくきっかけとなった。これらの部族連合は、「北アラブ」または「カイス」と呼ばれる一派と、これと対立する「南アラブ」または「ヤマン」と呼ばれる一派に分かれていった。しかしながら、実際には「北部」であったラビーア族は「南部」のヤマンに忠実であったため、厳密にはこれらの用語は地理的なものというよりは政治的なものであった{{sfn|Hawting|2000|pp=54–55}}{{sfn|Kennedy|2001|p=105}}。ウマイヤ朝のカリフは二つの集団間の均衡を維持しようと努めたものの、この分裂と双方の集団間の根深い対抗意識は、もともと特定の同盟関係に属していなかった部族でさえ二つの部族連合のどちらかへ属するように促されることになったため、この分裂はその後の数十年間にわたってアラブ世界で固定化されることになった。この権力と影響力をめぐる絶え間ない争いがウマイヤ朝を巻き込み、地方を不安定化させ、破滅的なものとなった{{仮リンク|第三次内乱|en|Third Fitna}}を助長させるとともに、[[アッバース朝]]の手によるウマイヤ朝の最終的な崩壊に影響を与えることになった{{sfn|Kennedy|2001|pp=99–115}}。この分裂の影響はウマイヤ朝の崩壊後も長期にわたって続いた。歴史家の{{仮リンク|ヒュー・ナイジェル・ケネディ|en|Hugh N. Kennedy}}が記しているように、「19世紀の終わりに至るまで、パレスチナでは自分たちをカイスとヤマンと呼ぶ集団間の争いがまだ続いていた」{{sfn|Kennedy|2001|p=92}}。

=== イスラームの宗派と終末論の発展 ===
[[File:Mourning of Muharram in cities and villages of Iran-342 16 (136).jpg|thumb|right|250px|[[イラン]]の[[ターズィエ]](シーア派イマームの殉教を悼む哀悼行事)におけるフサインの殉教劇。]]
[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・ブン・アリー]]の死は広範囲にわたる激しい抗議を引き起こし、カリフの[[ヤズィード1世|ヤズィード]]への反感がアリー家を支持する人々の強力な願望と結びついて反ウマイヤ朝運動の形で表面化する原因となった{{sfn|Lewis|2002|p=68}}。そして[[カルバラーの戦い]]は後にそれぞれ[[シーア派]]と[[スンニ派]]へとつながっていくイスラームの宗派の決定的な分裂に影響を与えた{{sfn|Halm|1997|p=16}}{{sfn|Daftary|1990|p=50}}。同様にこの事件はそれまで政治的なものであったアリー家支持派の運動が宗教的な事象へと転換していくきっかけとなった{{sfn|Kennedy|2016|p=77}}{{sfn|Halm|1997|p=16}}。この事象は今日に至るまで毎年[[アーシューラー]]の日にシーア派のイスラーム教徒によって行われる追悼行事の形で続いている{{sfn|Hawting|2000|p=50}}。また、この時期にそれまで純粋なアラブ人による運動であったアリー家支持派の運動が、[[ムフタール・アッ=サカフィー]]の反乱によってアラブ人以外の手にも広まることになった{{sfn|Daftary|1990|pp=51–52}}。ムフタールは不当な扱いに対する不満を取り除くことによって、社会的に無視され、経済的に搾取されていた[[マワーリー]]を結集させた。ムフタールの反乱が起こる以前、非アラブ人のイスラーム教徒は全く政治的に重要な役割を担っていなかった{{sfn|Wellhausen|1901|pp=79–80}}{{sfn|Hawting|2000|pp=51–52}}{{sfn|Kennedy|2016|p=83}}。政治的には短期間で失敗に終わったにもかかわらず、ムフタールの運動は、それまでにない神学的、終末論的概念を導入し、シーア派のその後の発展に影響を与えた急進的なシーア派の一派である[[カイサーン派]]に引き継がれた{{sfn|Daftary|1990|pp=59–60}}。のちにアッバース家は[[アッバース革命|ウマイヤ朝を打倒する革命]]においてカイサーン派の布教者の地下組織を活用した{{sfn|Daftary|1990|p=62}}。そして革命の支持者の中で最大の勢力となったのはシーア派と非アラブ人であった{{sfn|Wellhausen|1927|pp=504–506}}。
[[File:Imam Mahdi.png|thumb|left|180px|マディーナの[[預言者のモスク]]に掲げられている[[ムハンマド・ムンタザル|ムハンマド・アル=マフディー]]の名を表した[[イスラームの書法|カリグラフィー]]。]]
また、第二次内乱はその過程でイスラームにおける[[メシア]]と[[マフディー]]の思想を生み出すことになった{{sfn|Arjomand|2016|p=34}}。ムフタールは[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー・ブン・アビー・ターリブ]]の息子の[[イブン・ハナフィーヤ|ムハンマド・ブン・ハナフィーヤ]]に対してマフディーの称号を用いた{{sfn|Arjomand|2016|p=34}}。この称号は以前はムハンマド、アリー、フサインなどに対する敬称として用いられていた。しかし、ムフタールは「イスラームを救うであろう神に導かれた支配者」というメシア(救世主)としての意味でこの言葉を用いた{{sfn|Madelung|1986|p=1231}}{{sfn|Sachedina|1981|p=9}}。一方、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱は、初期のイスラーム共同体の純粋な価値観に回帰しようとする試みとして多くの人々からは見られていた。この反乱はウマイヤ朝の支配に不満を抱いていたさまざまな陣営から歓迎された{{sfn|Hawting|2000|p=49}}{{sfn|Madelung|1971|p=1164}}。そして反乱の支持者にとってイブン・アッ=ズバイルの敗北は、イスラームによる統治の古い理想を取り戻すことへのすべての希望が失われたことを意味していた{{sfn|Madelung|1971|p=1164}}。このような時代の雰囲気の中で、歴史家の{{仮リンク|ウィルファード・マーデルング|en|Wilferd Madelung}}と{{仮リンク|サイード・アミール・アルジョマンド|en|Saïd Amir Arjomand}}によれば、対抗のカリフとしてのイブン・アッ=ズバイルの役割がマフディーの概念のその後の発展を形作ることになった。イブン・アッ=ズバイルの経歴のいくつかの側面は、すでにイブン・アッ=ズバイルの存命中にムハンマドに帰する[[ハディース]]の中で述べられていた — カリフ(ムアーウィヤ1世)の死後のカリフの地位をめぐる争い、マフディーのマディーナからメッカへの脱出、カアバへの避難、母親の部族がカルブ族である人物(ヤズィード1世)からマフディーへ差し向けられた軍隊の撃退、そしてシリアとイラクの正義を奉ずる人々によるマフディーの認知{{sfn|Abu Dawood|2008|pp=509–510}} — これは後にイスラーム共同体の古い栄光を取り戻すために未来において出現するとされるマフディーの特徴としてふさわしいものとされた{{sfn|Madelung|1986|p=1231}}{{sfn|Madelung|1981}}{{sfn|Arjomand|2007|pp=134–136}}。その後マフディーの思想はイスラームにおいて発展し、教義として確立されていった{{sfn|Hawting|2000|p=52}}{{efn2|マフディーの思想は特にシーア派において影響力を持つようになり、シーア派の中心的な教義の一つとなった{{sfn|Hawting|2000|pp=51–52}}。}}。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
*{{Cite book |和書 |author=[[菊地達也]] |translator= | title=イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史 |series=講談社選書メチエ |publisher=[[講談社]] |date=2009-8-11 |isbn=978-4-06-258446-3 |ref={{SfnRef|菊池|2009}}}}
*{{Cite book |和書 |author=[[佐藤次高]] |translator= | title=イスラームの歴史〈1〉イスラームの創始と展開 |series=宗教の世界史 |publisher=[[山川出版社]] |date=2010-6-1 |isbn=978-4634431416 |ref={{SfnRef|佐藤|2010}}}}
*{{Cite book |和書 |author=[[蔀勇造]] |title=物語 アラビアの歴史 |series=[[中公新書]] |publisher=[[中央公論社]] |date=2018-7-25 |isbn=978-4-12-102496-1 |ref={{SfnRef|蔀|2018}}}}
*{{Cite journal |和書 |author=清水和裕 |date=1995 |title=ムスアブ・ブン・アッズバイル墓参詣 ― ブワイフ朝の宗派騒乱と「第二次内乱」―|journal=オリエント |volume=38 |issue=2 |publisher=一般社団法人 日本オリエント学会 |issn=1884-1406 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/38/2/38_2_55/_pdf/-char/ja |accessdate=2020-11-6 |pages=55–72 |ref={{SfnRef|清水|1995}}}}
=== 外国語文献 ===
* {{cite book |ref = harv |last = Abu Dawood |first = Sulaymān ibn al-Ash'ath al-Sijistani |author-link = アブー・ダーウード・シジスターニー|Abu Dawood |title = Sunan Abu Dawud |translator = Nasiruddin al-Khattab |volume = 4 |year = 2008 |publisher = [[:en:Darussalam Publishers|Darussalam]] |location = Riyadh, Saudi Arabia |isbn = 9789960500157 |url = https://archive.org/stream/SunanAbuDawudVol.111160EnglishArabic/Sunan%20Abu%20Dawud%20Vol.%204%20-%203242-4350%20English%20Arabic#page/n507/mode/2up }}
* {{cite encyclopedia |ref = harv |last = Arjomand |first = Saïd A. |author-link = :en:Saïd Amir Arjomand |encyclopedia = Encyclopaedia Iranica |title = The Concept of Mahdi in Sunni Islam |url = http://www.iranicaonline.org/articles/islam-in-iran-vi-the-concept-of-mahdi-in-sunni-islam |year = 2007 |publisher = Encyclopædia Iranica Foundation |volume = 14 |access-date = 2 May 2019 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Arjomand |first = Saïd A. |year = 2016 |title = Sociology of Shiʿite Islam: Collected Essays
|url = https://books.google.com/books?id=rhP0DQAAQBAJ |publisher = [[:en:Brill Publishers|E. J. Brill]] |location = [[ライデン|Leiden]], [[南ホラント州|South Holland]] |isbn = 9789004326279 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Blankinship |first = Khalid Yahya |author-link = :en:Khalid Yahya Blankinship |year = 1994 |title = The End of the Jihâd State: The Reign of Hishām ibn ʻAbd al-Malik and the Collapse of the Umayyads
|url = https://books.google.com.mx/books?id=Jz0Yy053WS4C&redir_esc=y |publisher = State University of New York Press |location = Albany, New York |isbn = 978-0-7914-1827-7 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Crone |first = Patricia |author-link = :en:Patricia Crone |title = Slaves on Horses: The Evolution of the Islamic Polity |url = https://books.google.com.mx/books?id=fOu7XGjKmkAC&redir_esc=y |year = 1980 |publisher = Cambridge University Press |location = Cambridge, England |isbn = 0-521-52940-9 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Daftary |first = Farhad |author-link = :en:Farhad Daftary |title = The Ismāʿı̄lı̄s: Their History and Doctrines |url = https://books.google.com.mx/books?id=kQGlyZAy134C&redir_esc=y |year = 1990 |publisher = Cambridge University Press |location = Cambridge, England |isbn = 978-0-521-37019-6 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Dixon |first = Abd al-Ameer A. |year = 1971 |title = The Umayyad Caliphate, 65–86/684–705 (a Political Study) |publisher = Luzac |location = London, England |isbn = 9780718901493 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Donner |first = Fred M. |author-link = :en:Fred Donner |title = Muhammad and the Believers, at the Origins of Islam |year = 2010 |publisher = [[:en:Harvard University Press]] |location = Cambridge, MA |isbn = 9780674050976 |url = https://books.google.com/books?id=YM8RBAAAQBAJ }}
*{{Citation | last = Gardet | first = Louis | author-link = :en:Louis Gardet | contribution = Fitna | editor1-last = Lewis | editor1-first = B. | editor1-link = バーナード・ルイス | editor2-last = Pellat | editor2-first = Ch. | editor2-link = :en:Charles Pellat | editor3-last = Schacht | editor3-first = J. | editor3-link = :en:Joseph Schacht | editor4-last = | editor4-first = | editor4-link = | title = The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume II: C–G | volume = | pages = 930–931 | publisher = E. J. Brill | place = Leiden | publication-date = 1965 | contribution-url = https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=Fitna&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search | OCLC = 495469475}} {{Subscription required}}
*{{Citation | last = Gibb | first = H. A. R. | author-link = ハミルトン・ギブ | contribution = ʿAbd Allāh ibn al-Zubayr | editor1-last = Gibb | editor1-first = H. A. R. | editor1-link = ハミルトン・ギブ | editor2-last = Kramers | editor2-first = J. H. | editor2-link = :en:Johannes Hendrik Kramers | editor3-last = Lévi-Provençal | editor3-first = E. | editor3-link = :en:Évariste Lévi-Provençal | editor4-last = Schacht | editor4-first = J. | editor4-link = :en:Joseph Schacht | editor5-last = Lewis | editor5-first = B. | editor5-link = バーナード・ルイス | editor6-last = Pellat | editor6-first = Ch. | editor6-link = :en:Charles Pellat | title = The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume I: A–B | volume = | pages = 54–55 | publisher = E. J. Brill | place = Leiden | publication-date = 1960 | contribution-url = https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=ʿAbd+Allāh+ibn+al-Zubayr&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search | OCLC = 495469456}} {{Subscription required}}
*{{Citation | last = Gibb | first = H. A. R. | author-link = | contribution = ʿAbd al-Malik b. Marwān | editor1-last = Gibb | editor1-first = H. A. R. | editor1-link = ハミルトン・ギブ | editor2-last = Kramers | editor2-first = J. H. | editor2-link = :en:Johannes Hendrik Kramers | editor3-last = Lévi-Provençal | editor3-first = E. | editor3-link = :en:Évariste Lévi-Provençal | editor4-last = Schacht | editor4-first = J. | editor4-link = :en:Joseph Schacht | editor5-last = Lewis | editor5-first = B. | editor5-link = バーナード・ルイス | editor6-last = Pellat | editor6-first = Ch. | editor6-link = :en:Charles Pellat | title = The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume I: A–B | volume = | pages = 76–77 | publisher = E. J. Brill | place = Leiden | publication-date = 1960 | contribution-url = https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=ʿAbd+al-Malik+b.+Marwān&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search | OCLC = 495469456}} {{Subscription required}}
* {{cite book |ref = harv |last = Halm |first = Heinz |author-link = :en:Heinz Halm |year = 1997 |title = Shi'a Islam: From Religion to Revolution |translator-first = Allison |translator-last = Brown |publisher = Markus Wiener Publishers |location = Princeton, NJ |isbn = 1558761349 |url-access = registration |url = https://archive.org/details/shiaislamfromrel0000halm }}
* {{citation|ref=harv|editor-last=Hawting |editor-first=G.R. |editor-link=:en:G. R. Hawting |title=The History of al-Ṭabarī, Volume XX: The Collapse of Sufyānid Authority and the Coming of the Marwānids: The Caliphates of Muʿāwiyah II and Marwān I and the Beginning of the Caliphate of ʿAbd al-Malik, A.D. 683–685/A.H. 64–66 |url=https://books.google.com.mx/books?id=8DJAgfOBSDUC&redir_esc=y |year=1989 |publisher=State University of New York Press |location=SUNY Series in Near Eastern Studies. Albany, New York |isbn=978-0-88706-855-3}}
* {{cite book |ref = harv |last = Hawting |first = Gerald R |author-link = :en:G. R. Hawting |title = The First Dynasty of Islam: The Umayyad Caliphate AD 661–750 (Second ed.) |url = https://books.google.com.mx/books/about/The_First_Dynasty_of_Islam.html?id=9C7jREOptikC&redir_esc=y |year = 2000 |publisher = Routledge |location = London and New York |isbn = 0-415-24072-7 }}
* {{The History of al-Tabari |volume = 19 |url = https://books.google.de/books?id=zubkdYvBJpIC }}
* {{cite book |ref = harv |last = Kennedy |first = Hugh |author-link = :en:Hugh N. Kennedy |title = The Armies of the Caliphs: Military and Society in the Early Islamic State |url = https://books.google.com.mx/books?id=UIspERtZEHIC&redir_esc=y |year = 2001 |publisher = Routledge |location = London and New York |isbn = 0-415-25093-5 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Kennedy |first = Hugh |author-link = |title = The Great Arab Conquests: How the Spread of Islam Changed the World We Live In |url = https://books.google.com.mx/books?id=KBQOAQAAMAAJ&redir_esc=y |year = 2007 |publisher = Da Capo Press |location = Philadelphia, Pennsylvania |isbn = 978-0-306-81740-3 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Kennedy |first = Hugh |author-link = |title = The Prophet and the Age of the Caliphates: The Islamic Near East from the 6th to the 11th Century (Third ed.) |url = https://books.google.com.mx/books?id=Kak0CwAAQBAJ&redir_esc=y |year = 2016 |publisher = Routledge |location = Oxford and New York |isbn = 978-1-138-78761-2 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Lammens|first = Henri |author-link = :en:Henri Lammens |title = Le Califat de Yazid Ier |year = 1921 |publisher = Imprimerie Catholique Beyrouth |location = Beirut |oclc = 474534621 |url = https://archive.org/details/LammensYazid |language = fr }}
*{{Citation | last1 = Lammens | first1 = Henri | last2 = Pellat | first2 = Charles | contribution = Mus'ab b. al-Zubayr | editor1-last = Bosworth | editor1-first = C. E. | editor1-link = :en:Clifford Edmund Bosworth | editor2-last = van Donzel | editor2-first = E. | editor2-link = :en:Emeri Johannes van Donzel | editor3-last = Heinrichs | editor3-first = W. P. | editor3-link = :en:Wolfhart Heinrichs | editor4-last = Pellat | editor4-first = Ch. | editor4-link = :en:Charles Pellat | title = The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VII: Mif–Naz | volume = | pages = 649–650 | publisher = E. J. Brill | place = Leiden | publication-date = 1993 | contribution-url = https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=Mus%27ab+b.+al-Zubayr&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search | ISBN = 90-04-09419-9}} {{Subscription required}}
* {{cite book |ref = harv |last = Lewis |first = Bernard |author-link = バーナード・ルイス|Bernard Lewis |title = Arabs in History |url = https://books.google.com/books?id=FPJv_0EfVhIC |year = 2002 |publisher = [[Oxford University Press]] |location = Oxford |isbn = 9780191647161 }}
*{{Citation | last = Madelung | first = Wilferd | author-link = :en:Wilferd Madelung | contribution = Imāma | editor1-last = Lewis | editor1-first = B. | editor1-link = バーナード・ルイス | editor2-last = Ménage | editor2-first = V. | editor2-link = :en:Victor Louis Ménage | editor3-last = Pellat | editor3-first = Ch. | editor3-link = :en:Charles Pellat | editor4-last = Schacht | editor4-first = J. | editor4-link = :en:Joseph Schacht | title = The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume III: H–Iram | volume = | pages = 1163–1169 | publisher = E. J. Brill | place = Leiden | publication-date = 1971 | contribution-url = https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=Imāma&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search | OCLC = 495469525}} {{Subscription required}}
* {{cite journal |ref = harv |last = Madelung |first = Wilferd |title = ʿAbd Allāh b. al-Zubayr and the Mahdi |journal = [[:en:Journal of Near Eastern Studies]] |year = 1981 |volume = 40 |number = 4 |pages = 291–305 |doi = 10.1086/372899 }}
*{{Citation | last = Madelung | first = Wilferd | author-link = | contribution = Al–Mahdi | editor1-last = Bosworth | editor1-first = C. E. | editor1-link = :en:Clifford Edmund Bosworth | editor2-last = van Donzel | editor2-first = E. | editor2-link = :en:Emeri Johannes van Donzel | editor3-last = Lewis | editor3-first = B. | editor3-link = バーナード・ルイス | editor4-last = Pellat | editor4-first = Ch. | editor4-link = :en:Charles Pellat | title = The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume V: Khe–Mahi | volume = | pages = 1230–1238 | publisher = E. J. Brill | place = Leiden | publication-date = 1986 | contribution-url = https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=Al–Mahdi&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search | ISBN = 90-04-07819-3}} {{Subscription required}}
* {{cite book |ref = harv |last = Madelung |first = Wilferd |title = The Succession to Muhammad: A Study of the Early Caliphate |url = https://books.google.com/books?id=2QKBUwBUWWkC |year = 1997 |publisher = Cambridge University Press |location = Cambridge, England |isbn = 0521646960 }}
* {{citation|ref=harv|editor-last=McAuliffe |editor-first=Jane Dammen |editor-link=:en:Jane Dammen McAuliffe |title=The History of al-Ṭabarī, Volume XXVIII: The ʿAbbāsid Authority Affirmed: The Early Years of al-Mansūr, A.D. 753–763/A.H. 136–145 |url=https://books.google.com.mx/books?id=kiiZWe0t9DMC&redir_esc=y |year=1995 |publisher=State University of New York Press |location=SUNY Series in Near Eastern Studies. Albany, New York |isbn=978-0-7914-1895-6}}
* {{cite book |ref = harv |last = Rotter |first = Gernot |year = 1982 |title = Die Umayyaden und der zweite Bürgerkrieg (680–692) |language = de |publisher = Deutsche Morgenländische Gesellschaft |location = Wiesbaden |url = https://books.google.com/books?id=NuANAAAAYAAJ |isbn = 9783515029131 }}
* {{cite book |ref = harv|last = Sachedina |first = Abdulaziz A. |author-link = :en:Abdelaziz Sachedina |title = Islamic Messianism: The Idea of Mahdi in Twelver Shi'ism |url = https://books.google.com/books?id=5zUIYGQT4DwC |year = 1981 |publisher = State University of New York Press |location = Albany, NY |isbn = 9780873954426}}
* {{cite book |ref = harv |last = Sharon |first = Moshe |author-link = :en:Moshe Sharon |title = Black Banners from the East: The Establishment of the ʻAbbāsid State: Incubation of a Revolt |url = https://books.google.com/books?id=NPvZoG6NtLkC |year = 1983 |publisher = [[:en:Jerusalem Studies in Arabic and Islam|JSAI]] |location = Jerusalem |isbn = 9789652235015 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Watt |first = W. Montgomery |year = 1973 |author-link = :en:W. Montgomery Watt |title = The Formative Period of Islamic Thought |publisher = [[:en:Edinburgh University Press]] |location = Edinburgh, Scotland |url = https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.137377/page/n3 |isbn = 9780852242452 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Wellhausen |first = Julius |year = 1901 |author-link = ユリウス・ヴェルハウゼン|Julius Wellhausen |title = Die religiös-politischen Oppositionsparteien im alten Islam |language = de |url = https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.358135 |publisher = Weidmannsche buchhandlung |location = Berlin, Germany |oclc = 453206240 }}
* {{cite book |ref = harv |last = Wellhausen |first = Julius |year = 1927 |author-link = |title = The Arab Kingdom and its Fall |translator = Margaret Graham Weir |language = |url = https://archive.org/details/arabkingdomandit029490mbp/page/n571/mode/2up |publisher = University of Calcutta |location = Calcutta |oclc = 752790641 }}
* {{cite book|ref=harv|last=Wellhausen |first=Julius |author-link= |year=1975 |title=The Religio-political Factions in Early Islam|translator1=Ostle, Robin|translator2=Walzer, Sofie |publisher=[[:en:North-Holland Publishing Company|North-Holland Publishing Company]]|location=Amsterdam |url=https://books.google.de/books/about/The_Religio_political_Factions_in_Early.html?id=p7klNgAACAAJ |isbn=978-0720490053}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たい2しないらんいすらむし}}
[[Category:ウマイヤ朝]]
[[Category:ウマイヤ朝]]
[[Category:内戦]]
[[Category:7世紀の戦争]]
[[Category:7世紀の戦争]]
[[Category:内戦]]

2020年11月27日 (金) 13:33時点における版

第二次内乱

第二次内乱の始まりとなったカルバラーの戦い
(アッバース・アル=ムサヴィ画)
680年 - 692年
場所アラビア半島シリアイラク
結果 ウマイヤ朝の勝利
衝突した勢力
ウマイヤ朝 ズバイル家 アリー家英語版 ハワーリジュ派
指揮官
ヤズィード1世
マルワーン1世
アブドゥルマリク・ブン・マルワーン
ムスリム・ブン・ウクバ
ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード英語版
(686年) 
ウマル・ブン・サアド英語版
(686年) 
フサイン・ブン・ヌマイル
(686年) 
アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版
アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル
(692年) 
ムスアブ・ブン・アッ=ズバイル英語版
(691年) 
イブラーヒーム・ブン・アル=アシュタル
(691年) 
アブドゥッラー・ブン・ムティー英語版
(692年) 
ムハッラブ・ブン・アビー・スフラ英語版
(ウマイヤ朝に投降)
フサイン・ブン・アリー
(680年) 
スライマーン・ブン・スラド英語版
(685年) 
ムフタール・アッ=サカフィー
(687年) 
イブラーヒーム・ブン・アル=アシュタル
(ズバイル家に投降)
ナーフィ・ブン・アル=アズラク英語版
(685年) 
ナジュダ・ブン・アーミル英語版
(692年) 

第二次内乱(だいにじないらん、英語: Second Fitnaアラビア語: الفتنة الثانية‎)[注 1]は、ウマイヤ朝時代の初期に起こったイスラーム共同体(ウンマ)の全面的な政治的、軍事的混乱と一連の紛争が続いた時代を指す。この内乱は初代のウマイヤ朝のカリフであるムアーウィヤ(ムアーウィヤ1世、在位:661年 - 680年)の死後に始まり、およそ12年後の692年に終結した。内乱における主要な出来事はウマイヤ朝に対する二つの反乱とその鎮圧である。一つはウマイヤ朝によるフサイン・ブン・アリーの殺害に対する復讐を求めてスライマーン・ブン・スラド英語版ムフタール・アッ=サカフィーイラクで起こした反乱、もう一つはウマイヤ朝に対抗してメッカでカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱である[2][3]

内乱の起源はイスラーム共同体における最初の内乱である第一次内乱英語版の時にさかのぼる。第3代の正統カリフであるウスマーン・ブン・アッファーンの暗殺後、イスラーム共同体は指導者の地位をめぐり、イスラームの開祖ムハンマドの従兄弟で娘婿のアリー・ブン・アビー・ターリブと、シリアの総督でウマイヤ家出身のムアーウィヤとの間で最初の内乱を経験した。661年にアリーが暗殺され、同年にアリーの息子で後継者のハサン・ブン・アリーがムアーウィヤと和平を結んでカリフの地位を放棄したことで、ムアーウィヤがイスラーム共同体の唯一の支配者となった。しかし、自身の息子であるヤズィードを生前に後継者として指名するという前例のない世襲の動きに出たために多くの反発を招くことになり、ムアーウィヤの死後に後継者をめぐる緊張が急激に高まった。ハサンの同母弟のフサイン・ブン・アリーがウマイヤ朝を打倒するためにクーファのアリー家支持派の人々[注 2]から招かれたものの、フサインは680年10月にクーファに向かう途上で起こったカルバラーの戦いで少数の支持者とともにヤズィードの軍隊によって殺害された。さらにヤズィードの軍隊は683年8月に反乱を起こしたマディーナを襲撃し、その後アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが独立した勢力を確立していたメッカを包囲した。しかし、同年11月にヤズィードが死去するとウマイヤ朝の軍隊は撤退し、ウマイヤ朝の支配はシリアの一部を除くイスラーム国家の全域で失われた。

ほとんどの地域がウマイヤ朝に代わってメッカを本拠地とするアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルをカリフとして認める一方で、フサイン殺害への復讐を求めるアリー家支持派による運動がクーファで起こった。最初にムハンマドのサハーバ(教友)であるスライマーン・ブン・スラドの下でタッワーブーン(悔悟者たち)と呼ばれる集団がウマイヤ朝に対する反乱を起こしたが、タッワーブーンは685年1月のアイン・アル=ワルダの戦いでウマイヤ朝軍に敗れて壊滅した。その後はムフタール・アッ=サカフィーがアリー家支持派の指導者となってクーファの支配権を握った。ムフタールの軍隊は686年8月のハーズィルの戦いで大規模なウマイヤ朝軍に勝利を収めた。しかし、ムフタールはアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルと対立し、その弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル英語版との戦いに敗れて687年4月に殺害された。そして691年にカリフのアブドゥルマリク・ブン・マルワーンに率いられたウマイヤ朝軍がマスキンの戦いでムスアブ・ブン・アッ=ズバイルを破り、ウマイヤ朝がイラクの支配を回復した。さらに翌年には二度目のメッカの包囲戦の末にアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが戦死し、内乱は終結した。

ウマイヤ朝の勝利によって世襲による統治がイスラーム共同体において確立されることになった。アブドゥルマリクは内乱終結後にカリフの権力の強化と軍の再編、そして官僚機構のアラブ化とイスラーム化を推進した。また、第二次内乱の出来事はイスラームにおけるメシアマフディーの思想の登場と宗派の分裂を促すことになり、さまざまな教義が後のスンニ派シーア派へつながる形で発展していった。

背景

656年に第3代の正統カリフであるウスマーン・ブン・アッファーン(在位:644年 - 656年)が反乱者の手によってマディーナの私邸で暗殺された後、反乱者とマディーナの住民はイスラームの開祖ムハンマドの従兄弟で娘婿であるアリー・ブン・アビー・ターリブをカリフと宣言した。しかし、ムハンマドのサハーバ(教友)であるタルハ・ブン・ウバイドゥッラー英語版アッ=ズバイル・ブン・アル=アウワーム、そしてムハンマドの未亡人のアーイシャ・ビント・アブー・バクルが率いるクライシュ族の大半の人々(ムハンマドとそれまでの三人のすべてのカリフが属していたメッカの部族集団)はアリーを認めることを拒否した[6]。アリーと対立した一派はウスマーンの殺害者に対する復讐とシューラー英語版(イスラーム世界における合議の場)による新しいカリフの選出を要求した。これらの出来事はイスラーム世界の第一次内乱英語版を引き起こすことになった。アリーは656年11月にバスラ近郊で発生したラクダの戦いでこれらの内乱初期の対立者に勝利を収め、その後イスラーム国家の首都をイラクの軍営都市であるクーファに移した[7]シリアの総督でウスマーンが属していたウマイヤ家の一人であるムアーウィヤ・ブン・アビー・スフヤーンもアリーのカリフとしての正統性を認めず、両者はスィッフィーンの戦いで激突した。しかし、ムアーウィヤの仲裁の呼びかけに応じた一部のアリーの部隊が戦闘を拒否したために、戦闘は膠着状態のままで終わった。アリーは渋々仲裁に同意したものの、後にハワーリジュ派と呼ばれるアリーの軍の一派が抗議して離脱し、アリーが仲裁を受け入れたことを冒涜的な行為であるとして非難した[8][注 3]。仲裁はムアーウィヤとアリーの間の紛争を解決するには至らず、アリーの軍隊が657年7月にナフラワーンの戦い英語版で多くのハワーリジュ派の人々を殺害した後、661年1月にハワーリジュ派の人物によってアリーは暗殺された[12]。アリーの長男のハサン・ブン・アリーがカリフとなったが、ムアーウィヤはハサンの支配権に異議を唱えてイラクに侵攻した。661年8月にハサンは和平を結んで英語版カリフの地位をムアーウィヤへ譲り、第一次内乱を終結させた。そして首都はムアーウィヤの本拠地であるダマスカスへ移された[13]

後継者のヤズィード

第二次内乱の主要な軍事行動と戦闘を表した地図。

ハサンとムアーウィヤとの間で結ばれた和約は一時的な平和をもたらしたものの、カリフの地位の継承に関する枠組みが確立されたわけではなかった[14][15]。過去の場合と同様に、地位の継承の問題は将来の禍根となる可能性が残っていた[16]。東洋学者のバーナード・ルイスは、「イスラームの歴史からムアーウィヤが利用できた先例は合議と内戦だけであった。前者はうまく行きそうにもなく、後者には明白な問題があった。」と指摘している[15]。ムアーウィヤは自身の息子であるヤズィード(ヤズィード1世、在位:680年 - 683年)を後継者として指名することで生前に問題を解決しようと望み[16]676年にヤズィードの指名を公表した[17]。しかし、イスラームの歴史において世襲による継承は他の継承方法よりも優先権があるとは考えられていなかったため[18]、この指名はさまざまな方面から反発を引き起こし、カリフの地位を君主の性格へと変える腐敗した行為であると見なされた[19]。ムアーウィヤはダマスカスでシューラーを召集し、交渉と賄賂を用いてさまざまな地域の代表者を説得した[15]。その徳のある血筋から同様にカリフの地位を主張することが可能であったフサイン・ブン・アリーアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルアブドゥッラー・ブン・ウマル英語版、そしてアブドゥッラフマーン・ブン・アビー・バクル英語版といった何人かのムハンマドのサハーバの息子たちはこの指名に反対した[20][21]。しかしながら、ムアーウィヤの脅しとイスラーム国家全域にわたるヤズィードの全般的な承認によって、これらのサハーバの息子たちは沈黙を余儀なくされた[22]

歴史家のフレッド・マクグロウ・ドナー英語版は、イスラーム共同体の指導者の地位をめぐる論争は第一次内乱では解決されておらず、680年4月のムアーウィヤの死によって再び問題が表面化したと述べている[14]。死の前にムアーウィヤはヤズィードに対してフサイン・ブン・アリーとアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルがヤズィードの支配に異議を唱えるかもしれないと警告し、もしそのような行動に出たならば打倒するように指示した。とりわけイブン・アッ=ズバイルは危険であると考えられており、もしイブン・アッ=ズバイルがヤズィードの継承に同意しないようであれば厳しく対処することになった[23]。ヤズィードがカリフの地位を継いだ時、ヤズィードは従兄弟でマディーナの総督であるアル=ワリード・ブン・ウトバ・ブン・アビー・スフヤーン英語版に対し、イブン・アッ=ズバイル、フサイン、イブン・ウマルから必要であれば強要してでも忠誠を確保するように命じた。ワリードはウマイヤ家の親族であるマルワーン・ブン・アル=ハカムに助言を求めた。マルワーンは、イブン・アッ=ズバイルとフサインは危険な存在であり、強制的に忠誠を誓わせるべきだとする一方、イブン・ウマルは脅威となるような態度を見せていないため放置しておくべきだと助言した[24][25]。ワリードはイブン・アッ=ズバイルとフサインを召喚したが、イブン・アッ=ズバイルはメッカへ逃亡した。フサインは召喚に応じたものの、内密の会議の場で忠誠を誓うことを拒否し、忠誠の誓いは公の場で行われるべきだと主張した。マルワーンは投獄すると脅したが、ワリードはフサインとムハンマドの血縁関係のためにフサインに対していかなる行動を取ることも望まなかった。数日後、フサインは忠誠を誓うことなくメッカへと去った[26][27]。イスラーム研究家のジェラルド・R・ホーティング英語版は、「ムアーウィヤによって抑え込まれていた緊張と圧力がヤズィードの治世の間に表面化し、ヤズィードの死後にこれらの問題が一挙に噴出したことでウマイヤ朝の支配が一時的に失われることになった。」と述べている[21]

ヤズィードに対する反乱

フサイン・ブン・アリーの反乱

フサインが葬られた地に建つカルバラーイマーム・フサイン廟

フサインはクーファからかなりの支援を得た。クーファの住民は第一次内乱の期間中にウマイヤ家とシリア人のウマイヤ家の同盟者と戦っていた[28]。また、クーファの人々はハサンの退位に不満を抱き[29]、ウマイヤ朝による支配に強く憤慨していた[30]669年にハサンが死去した後、クーファの人々はムアーウィヤに対する抵抗運動にフサインを参加させようと試みたが、この試みは失敗に終わった[31]。ムアーウィヤの死去後、クーファのアリー家支持派の人々はヤズィードに対する反乱の指導者として再びフサインを招聘した[18]。メッカに本拠を置くフサインは、状況を見極めるために従兄弟のムスリム・ブン・アキール英語版をクーファへ派遣した。そこで広く支持を得たイブン・アキールは、フサインに対して支持者の下に加わるように促した。ヤズィードはクーファの総督のヌゥマーン・ブン・バシール・アル=アンサーリー英語版をイブン・アキールの活動に対して何も対応を取らなかったことを理由に更迭し、当時バスラの総督であったウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード英語版と交代させた。ヤズィードの指示を受けたイブン・ズィヤードは反乱を抑え込んでイブン・アキールを処刑した[4][27]。イブン・アキールの手紙に促されたフサインは、イブン・アキールの処刑を知ることなくクーファへ向かった。イブン・ズィヤードはフサインを追跡するために都市に通じるルートに沿って軍隊を配置した。そしてフサインはクーファの北に位置する砂漠の平原のカルバラーで動きを阻止された。その後およそ4,000人の軍隊が到着し、ヤズィードへの服従を強要した。数日間の交渉と服従の拒否ののち、フサインは680年10月10日のカルバラーの戦いでおよそ70人の同行者とともに殺害された[4][27]

マディーナとメッカの反抗

ヒジュラ暦57年(西暦676年/677年)に鋳造されたサーサーン朝様式のヤズィード1世ディルハム銀貨。

フサインの死後、ヤズィードは自身の支配に対して増していくアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(サハーバのアッ=ズバイル・ブン・アル=アウワームの息子で初代正統カリフのアブー・バクル(在位:632年 - 634年)の孫にあたる)からの反発に直面することになった。イブン・アッ=ズバイルはメッカで秘密裏に忠誠を獲得し始めたが[32]、表向きは新しいカリフを選出するためのシューラーの開催を要求するだけに留まっていた[5]。当初、ヤズィードは和解に至ろうと贈り物や代表団を送ってイブン・アッ=ズバイルを懐柔しようとした[32]。イブン・アッ=ズバイルがヤズィードの承認を拒否すると、ヤズィードはイブン・アッ=ズバイルを捕らえるためにイブン・アッ=ズバイルとは疎遠な関係にあった兄弟のアムルが率いる部隊を送った。しかし部隊は敗北し、アムルは処刑された[33]。さらに、マディーナにおけるイブン・アッ=ズバイルの影響力の高まりに加え、マディーナの住民はウマイヤ朝による支配と政府の歳入を増やすために住民の土地を没収したムアーウィヤの農業政策に幻滅していた[5][19]

イスラームの聖地であるマディーナの外観(1926年以前の撮影)。マディーナはウマイヤ朝に対する反乱に失敗した後、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの支配下に入った。

ヤズィードはマディーナの有力者をダマスカスに招待し、贈り物によって支持を得ようとした。しかしこの行為には説得力がなく、招待された者たちはマディーナに戻ると、飲酒、猟犬を使った狩り、音楽への愛着といった多くの人が不信心であると考えたヤズィードの贅沢な暮らしぶりや習慣について語った。マディーナの住民はアブドゥッラー・ブン・ハンザラの指導の下でヤズィードへの忠誠を放棄し、当時のマディーナの総督でヤズィードの従兄弟にあたるウスマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アビー・スフヤーンと街に住むウマイヤ家の人物を追放した。ヤズィードはヒジャーズアラビア半島西部)を再征服するために、ムスリム・ブン・ウクバが率いる総勢12,000人の軍隊を派遣した。交渉が失敗に終わったのちに起こったハッラの戦いでマディーナの住民は敗北し、都市は3日間にわたって略奪を受けた。ヤズィードの軍隊は反乱者に対して忠誠を再度受け入れるように強要し、その後イブン・アッ=ズバイルが本拠地とするメッカを征服するために進軍した[34][35]

ムスリム・ブン・ウクバはメッカへ向かう道中で死去し、フサイン・ブン・ヌマイルが指揮を引き継いだ。683年9月に始まったメッカの包囲は数週間続き、包囲の期間中にカアバが炎上した。しかし、同年11月にヤズィードが急死したためにこの軍事作戦は切り上げられることになった。イブン・ヌマイルはイブン・アッ=ズバイルをシリアへ同行させ、そこでカリフへの即位を宣言するように説得を試みたものの、イブン・アッ=ズバイルは要求を拒否し、イブン・ヌマイルは自身の部隊とともにシリアへ去った[36]

対抗のカリフ:アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル

ヤズィードの死とシリア軍の撤退によってイブン・アッ=ズバイルは今やヒジャーズとその他のアラビア各地における事実上の支配者となり[注 4]、公然とカリフの地位を宣言した。その後まもなくイブン・アッ=ズバイルはエジプトとウマイヤ朝の総督のイブン・ズィヤードがアラブ部族の有力者(アシュラーフ)によって追放されたイラクでカリフとして認められた[38]。そしてイブン・アッ=ズバイルの名を刻んだ硬貨がペルシア南部の一部(ファールスケルマーン)で鋳造された[36][39]

シリアの支配をめぐる抗争

ムアーウィヤ2世死去後の時点におけるウマイヤ朝(緑色)とアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(茶色)の勢力図。

ヤズィードの死後、息子で後継者に指名されたムアーウィヤ2世がカリフとなったものの、すでに権力のおよぶ範囲はシリアの特定の地域に限定されていた[40]。さらにムアーウィヤ2世は後継者となる適切なスフヤーン家(アブー・スフヤーン英語版の子孫でムアーウィヤが属していたウマイヤ家の家系の一つ)の候補者がいないまま即位後わずか20日ほどで死去した[41]。シリア北部のカイス族英語版(アラブの部族連合の一つ)はイブン・アッ=ズバイルを支持し[42]、シリアの軍管区であるジュンド・ヒムス英語版(現代のホムス周辺)、ジュンド・キンナスリーン英語版(現代のアレッポ周辺)、ジュンド・フィラスティーン英語版パレスチナ)の総督も同様にイブン・アッ=ズバイルの支持に回った。ジュンド・ディマシュク英語版ダマスカス)総督のアル=ダッハーク・ブン・カイス英語版もイブン・アッ=ズバイル支持に傾き、さらには当時のウマイヤ家の長老格であったマルワーン・ブン・アル=ハカムを含む多くのウマイヤ家の人々もイブン・アッ=ズバイルを承認しようとしていた[43]

一方、ウマイヤ朝支持派の部族、特にジュンド・アル=ウルドゥン英語版を支配していたカルブ族英語版はダマスカスでウマイヤ朝を支援していた。このためカルブ族はウマイヤ家の人物の擁立を決意した[44]。カルブ族の族長のイブン・バフダル英語版はスフヤーン家のカリフと姻戚関係にあり、部族はウマイヤ朝の下で特権的な地位を保持していた[注 5]。イブン・バフダルはヤズィードの若年の息子であるハーリドがカリフとなることを望んだ[46]。しかしながら、カルブ族以外のウマイヤ朝支持派の部族からはハーリドがカリフとなるにはあまりに若すぎると見なされたため、イブン・ズィヤードがマルワーンに対してカリフの候補者として立候補するように説得した[47]。マルワーンは684年6月にジャービヤ英語版のカルブ族の拠点に招集されたウマイヤ朝支持派の部族によるシューラーでカリフとして承認された[42]。イブン・アッ=ズバイル支持派の部族はマルワーンの承認を拒否し、同年8月のマルジュ・ラーヒトの戦いで両者は激突した。結果はウマイヤ朝軍がアル=ダッハークの指揮下にあったカイス族の軍隊を完全に打ち破り、アル=ダッハークを含む高位の指導者の多くが戦死した[46]

マルワーンの即位はシリアがウマイヤ朝の下で再統合される契機となり、ウマイヤ朝の焦点が失われた領土の回復に向けられることになった[48]。マルワーンと息子のアブドゥルアズィーズ英語版は地元の部族の助けを借りてエジプトのイブン・アッ=ズバイル派の総督を追放した[48]。一方でアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル英語版がパレスチナに対する攻撃に向かったが、ウマイヤ朝はこの侵攻を撃退した[49]。反対にヒジャーズの奪還を目指したウマイヤ朝軍の侵攻もマディーナの近郊でイブン・アッ=ズバイル側の軍隊に打ち破られた[50]。マルワーンはイラクの支配の回復を目指し、イブン・ズィヤードが率いる軍隊を派遣した[49]。マルワーンは685年4月に死去し、息子のアブドゥルマリクがカリフの地位を継いだ[48]

東方地域の動向

内乱が最も激しさを増していた686年頃の勢力図。
  アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(ズバイル家)の支配地域
  アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支持する勢力の支配地域
  ハワーリジュ派の支配地域

カリフのヤズィードが死去した頃、スィジスターン(現代のイラン東部)のウマイヤ朝の総督のヤズィード・ブン・ズィヤード英語版は、東方の従属勢力であるザーブリスターン英語版ズンビールの反乱に直面しており、兄弟のアブー・ウバイダが捕えられていた。ヤズィード・ブン・ズィヤードはズンビールを攻撃したものの、敗北して殺害された。ホラーサーン(現代のイラン北東部と中央アジアおよび現代のアフガニスタンの一部)のウマイヤ朝の総督である兄弟のサルム・ブン・ズィヤード英語版は、スィジスターンの新しい総督としてタルハ・ブン・アブドゥッラー・アル=フザーイー英語版を派遣した。しかし、タルハはアブー・ウバイダの身代金を支払った直後に死去した[51][52]

中央権力の弱体化は、部族間の派閥争いの急激な増加とイスラーム軍に従軍したアラブ人の移住者が征服した土地に持ち込んだ対立関係を表面化させる結果を招いた。ラビーア族英語版出身のタルハの後継者はすぐにムダル族英語版出身の対抗者によって追放された。その結果、部族間の確執に発展し、この状態は少なくとも685年の終わりにイブン・アッ=ズバイルが派遣した総督のアブドゥルアズィーズ・ブン・アブドゥッラー・ブン・アーミルが到着するまで続いた。イブン・アブドゥッラーは部族間の争いを収束させ、ズンビールの反乱を鎮圧した[51][52]

一方、ホラーサーンではサルムがカリフのヤズィードの死の情報をしばらくの間伏せていた。その後この情報が知れ渡った時にサルムは自身の軍隊から一時的に忠誠を受けたものの、すぐに軍の離反に遭って追放された。サルムは684年の夏に去る際にムダル族のアブドゥッラー・ブン・ハーズィム英語版をホラーサーンの総督に指名した。イブン・ハーズィムはイブン・アッ=ズバイルをカリフとして認めたが、その後ラビーア族とムダル族の抗争に巻き込まれることになった。ラビーア族はムダル族のイブン・ハーズィムに対する憎悪のためにイブン・アッ=ズバイルによる支配に反対した。最終的にイブン・ハーズィムはラビーア族を抑え込んだものの、その後すぐにかつての同盟者であったタミーム族英語版による反乱に直面した[53][54]。ホラーサーンの支配をめぐる部族間の抗争は数年間続き、イブン・ハーズィムは691年に殺害された[55]

これらの東方地域におけるイブン・アッ=ズバイルの支配は名目的なものであり、特にイブン・ハーズィムが事実上独立して支配していたホラーサーンではその傾向が顕著であった[56]

各勢力の対立

イブン・アッ=ズバイルは自身の反乱の間にウマイヤ朝とアリー家に敵対したハワーリジュ派と同盟を結んでいた。しかし、カリフの地位を主張した後、イブン・アッ=ズバイルはハワーリジュ派の宗教面における見解を非難し、その統治形態の受け入れを拒否したために同盟関係は崩壊していった[57]。ハワーリジュ派の一部の集団がバスラに、残りの集団がアラビア半島中部へ向かい、イブン・アッ=ズバイルの支配を不安定なものにし始めた[58][59][注 3]。イブン・アッ=ズバイルは、その頃までクーファの有力者でカリフのヤズィードと対立していたアリー家支持派の人物であるムフタール・アッ=サカフィーから協力を得ていた。しかし、イブン・アッ=ズバイルは以前にムフタールと合意していた高い公的な地位をムフタールに与えようとしなかった。684年4月にムフタールはイブン・アッ=ズバイルの下を去り、クーファでアリー家を支持する人々の扇動を始めた[60]

アリー家支持派の運動

タッワーブーンの蜂起

タッワーブーンの軍隊の様子を描いた20世紀ケルマーンシャータイルワーク。

フサイン・ブン・アリーへの支援に失敗したことを罪業とみなし、償いを求めていた少数の著名なアリー家の支持者たちがウマイヤ朝と戦うためにムハンマドのサハーバでアリーの協力者であったスライマーン・ブン・スラド英語版の下で運動を開始した。自らをタッワーブーン(悔悟者たち)と呼んだこれらの人々は、ウマイヤ朝がイラクを支配しているあいだ地下組織として潜伏していた。カリフのヤズィードの死とそれに続く総督のイブン・ズィヤードの追放の後、タッワーブーンは公然とフサイン殺害に対する復讐を呼びかけた[61][62]。そしてタッワーブーンはクーファで幅広い支持を集めることに成功した[63]。しかしながら、その運動は政治的な計画を欠いており、主だった目標はウマイヤ朝を懲罰するか、さもなければその過程で自らを犠牲にすることにあった[64]。ムフタールはクーファに戻って以降、都市の支配権を手に入れるための組織的な運動を追求し、タッワーブーンに対してその努力を思いとどまらせようとした。しかし、イブン・スラドには名声があったために、ムフタールの提案はイブン・スラドの支持者には受け入れられなかった[65]

タッワーブーンの運動に参加した16,000人のうち4,000人が戦闘のために動員された。684年11月、タッワーブーンはカルバラーのフサインの墓で一日喪に服した後、ウマイヤ朝と対決するために出発した。そして双方の軍隊は685年1月にジャズィーラメソポタミア北部)で起こったアイン・アル=ワルダの戦いで激突した。3日間続いた戦闘の末にタッワーブーンの軍隊は敗れ、イブン・スラドを含むほとんどの者が戦死し、生き残った少数の者がクーファへ逃れた[66]

ムフタール・アッ=サカフィーの反乱

アラブ軍の軍営都市(ミスル)として7世紀に建設されたクーファの町と大モスク英語版。ムフタールはクーファを本拠地としてアリー家支持派による反ウマイヤ朝の反乱を主導した。

ムフタールはクーファに戻って以来、アリーの息子でフサインの異母弟であるムハンマド・ブン・ハナフィーヤイマームにしてマフディーであると称して自らはその代理人であると宣言し[41]、アリー家のカリフによる政権の樹立とフサインの殺害者に対する復讐を呼びかけていた[67][62]。その後、タッワーブーンの試みが失敗に終わったことで、ムフタールがクーファのアリー家支持派の指導者となった。685年10月、ムフタールとかなりの人数が地元の非アラブ人の改宗者(マワーリー)からなっていた支持者たちがイブン・アッ=ズバイル派の総督のアブドゥッラー・ブン・ムティー英語版を追放してクーファの支配権を掌握した。ムフタールの支配はイラクの大部分とペルシア北西部の一部にまで及んだ[68][69]。ムフタールはマワーリーに対して俸給受給の権利などアラブ人と同等の地位を与えたが[41]、この措置はアラブ部族の有力者による反乱を招いた[注 6]。反乱を鎮圧した後、ムフタールはカルバラーの戦いでフサインを殺害した軍の指揮官の一人であるウマル・ブン・サアド英語版を含むフサインの殺害に関与したクーファの人々を処刑した。これらの手段に出た結果、何千人ものクーファのアシュラーフがバスラに逃れた[71]。その後、ムフタールはイラクの再征服を目指して接近中であったイブン・ズィヤードが率いるウマイヤ朝軍と対決するために配下の将軍のイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルを派遣した。686年8月に起こったハーズィルの戦いでムフタール軍はウマイヤ朝軍に対して圧倒的な勝利を収め、イブン・ズィヤードは戦死した[72]

ムフタールがフサイン・ブン・アリーの殺害に関与した人々への処罰を監視している様子を描いたケルマーンシャーのタイルワーク。

一方、バスラでは失われた特権を取り戻して自分たちの街へ戻ることを切望していたクーファからの避難民と、その中でも有力者であったムハンマド・ブン・アル=アシュアス英語版とシャバス・ブン・リビーが、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟でバスラの総督であるムスアブ・ブン・アッ=ズバイル英語版に対してクーファを攻撃するように説得した[73]。ムフタールはムスアブと対決するために軍隊を派遣したが、バスラとクーファの間のティグリス川沿いに位置するマザールで発生した最初の戦闘で敗北した。ムフタールの軍隊はクーファに近い村のハルーラーに撤退したが、そこでの二度目の戦闘でムスアブの軍隊によってムフタール軍は壊滅した。ムフタールと残りの支持者たちはクーファの城砦に避難したものの、ムスアブの軍隊によって城砦を包囲された。そして4か月後の687年4月に出撃を試みたムフタールは戦闘で殺害された。およそ6,000人もしくは7,000人のムフタールの支持者たちが降伏したが、ムスアブはイブン・アル=アシュアスとその息子のアブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド英語版、そしてその他のアシュラーフから迫られたためにこれらのムフタールの支持者を処刑した[74][75]。ムフタールの死によってウマイヤ朝とイブン・アッ=ズバイルが内乱における最後の交戦勢力として残ることになった[76]

ウマイヤ朝の勝利

ティグリス川沿いに位置するジャズィーラの主要都市であるモスルウジェーヌ・フランダン英語版画、1861年)。

684年6月のマルワーン・ブン・アル=ハカムのカリフへの即位に続いてイブン・ズィヤードがイラクを再征服するために派遣された。その後、イブン・ズィヤードはアイン・アル=ワルダの戦いでタッワーブーンを破った。一方、マルジュ・ラーヒトの戦いで壊滅的な敗北を喫したカイス族はジャズィーラで勢力を立て直し、イブン・ズィヤードがジャズィーラを再征服しようとする努力を1年にわたって妨げ、イブン・アッ=ズバイルを支援し続けた[49]。イブン・ズィヤードはカイス族の要塞を落とすことができなかったため、ムフタールの総督が支配するモスルを占領するために移動した。モスルを占領されたムフタールは都市を奪還するために3,000人の騎兵からなる小規模な部隊を送った。686年7月にムフタールの部隊は戦闘で勝利したにもかかわらず、ウマイヤ朝軍が数的に優位な状況であったために撤退した[77]。その1か月後、イブン・ズィヤードはハーズィルの戦いで増強されたムフタールの軍隊の前に敗れて戦死した[78]。イブン・ズィヤードが死亡したため、カリフのアブドゥルマリクはイラクを再征服する計画を数年にわたって放棄し、シリアの支配を固めることに焦点を合わせた[79]。シリアにおけるアブドゥルマリクの支配は内部の混乱とビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦争の再開によって脅かされていた[80]。それにもかかわらず、アブドゥルマリクは失敗に終わった二度のイラクへの軍事行動(689年690年)を率い[81]、工作員を通してバスラでイブン・アッ=ズバイルに対する反乱を扇動した。しかしバスラでの反乱は失敗に終わり、バスラのアブドゥルマリクの支持者たちは報復としてムスアブによる弾圧を受けた[82]

ビザンツ帝国との停戦を成立させ、内部の対立を克服したのち、アブドゥルマリクはイラクに視線を戻した[80]。691年、アブドゥルマリクはジャズィーラに位置するカルキースィヤー英語版のカイス族の要塞を包囲した。要塞の攻略に失敗した後、アブドゥルマリクは譲歩を示して恩赦を約束することで味方に引き入れることに成功した[11][83]。また、アブドゥルマリクはこれらのかつてのイブン・アッ=ズバイルの同盟者を自軍に組み入れることで軍隊を強化し、多くの要因によってイラクでの立場が弱まっていたムスアブを打ち破るために行動を起こした[80]。一方、ハワーリジュ派は中央政府による支配が内乱によって崩壊した後、アラビア半島、イラク、そしてペルシアにおける襲撃を再開していた。イラク東部とペルシアではハワーリジュ派の一派であるアズラク派が685年にイブン・アッ=ズバイルからファールスケルマーンを奪い[37]、イブン・アッ=ズバイル派の支配地への襲撃を繰り返した[11]。クーファとバスラの人々もイブン・アッ=ズバイル派によるムフタールとアブドゥルマリクの支持者に対する虐殺と弾圧、そしてアブドゥルマリクによる懐柔工作のために離反が続いていた[84][85]。その結果、アブドゥルマリクは多くのイブン・アッ=ズバイル支持派であった人々の亡命者を確保することに成功した。さらに、かなりの数の部隊と配下で最も経験豊富な将軍であるムハッラブ・ブン・アビー・スフラ英語版がバスラをハワーリジュ派から守るために離れていたため、ムスアブはアブドゥルマリクに対して効果的な反撃に出ることができなかった。結局、ムスアブは691年10月に起こったマスキンの戦いで、自軍の武将の裏切りが重なったこともあり、ムフタールの死後にムスアブの下に降っていたイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルとともにウマイヤ朝軍に敗れて戦死した[80][84][86][87]

アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが本拠地としていたメッカカアバ神殿(1917年8月)。最終的にイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝に敗れ、メッカで戦死したことで内乱は終結した。

イラクとその統制下にあった地域[注 7]のほとんどを確保したアブドゥルマリクは、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルに対して将軍のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版を派遣した。当時イブン・アッ=ズバイルはナジュダ・ブン・アーミル英語版に率いられたもう一つのハワーリジュ派の分派であるナジュダ派の軍隊の攻勢を受けてヒジャーズで窮地に立たされていた[11]。ナジュダ派は685年にナジュドヤマーマ英語版で独立政権を築き[37]688年イエメンハドラマウト、689年にはターイフを占領していた[59]。アル=ハッジャージュは直接メッカには向かわずにターイフに向かい、抵抗を受けることなくターイフを占領すると、そこに留まっていくつかの小規模な戦闘でイブン・アッ=ズバイルの部隊を破った。その間にシリアのウマイヤ朝の軍隊がイブン・アッ=ズバイル派の総督からマディーナを奪い、その後、692年3月にメッカを包囲したアル=ハッジャージュを支援するために進軍した。包囲は6か月から7か月にわたって続き、巡礼期間中も周囲の山から投石を行って攻め立てた[41]。イブン・アッ=ズバイルの軍隊の大部分が降伏し、イブン・アッ=ズバイルは同年10月もしくは11月にアブドゥッラー・ブン・ムティーを含む残った支持者とともに打って出たが、戦闘で殺害された[89][90][91]。イブン・アッ=ズバイルの死によってヒジャーズは再びウマイヤ朝の支配下に置かれることになり、内乱は終結をみた[92]。その後まもなくナジュダ派はアル=ハッジャージュによって打倒され、アズラク派とその他のハワーリジュ派は696年から699年の間に鎮圧されるまでイラクで活動を続けた[93]

内乱後の経過と影響

アブドゥルマリクの勝利によってウマイヤ朝が支配を回復し、イスラーム共同体において世襲による統治が確立されることになった。カリフの地位を継いだアブドゥルマリクとその子孫(二人は甥)は、750年アッバース革命によって王朝が打倒されるまで、さらに58年間統治した[94]

行政制度の改革

内乱で勝利した後、アブドゥルマリクはイスラーム国家における重要な行政上の改革を実行した。第二次内乱以前にイスラーム国家を統治していたムアーウィヤは、自身に忠実な人物との個人的な人間関係を通じて支配し、親族には依存していなかった[95]。ムアーウィヤは高度に訓練されたシリア人による軍隊を作り上げたが、このような精鋭軍はビザンツ帝国への襲撃に対してのみ配備されていた。国内では自身の外交的手腕に依存する形で自分の意思を実行に移していた[96]。地方の総督と一般市民との仲介者は政府の役人ではなくアシュラーフであった[97]。地方の軍事組織は地元の部族から構成され、その指揮権もアシュラーフに委ねられていた[97]。地方は税収の多くを保持し、ごく一部のみがカリフに送られていた[96][98]。征服された土地に存在した行政制度はそのまま温存されていた。サーサーン朝のペルシア人、またはビザンツ人の下で働いていた役人は自身の役職を保持し続けていた。地方で用いられていた言語は引き続き公用語として使用され、ビザンツ帝国とサーサーン朝の硬貨も以前のこれらの国の領土で使用されていた[99]

ヒジュラ暦78年(西暦697年/698年)にダマスカスで鋳造されたアブドゥルマリクディナール金貨。以前のカリフの肖像を含む様式から銘文のみの様式に改められた[100]

内乱中のアシュラーフ — アル=ダッハーク・ブン・カイスやアブドゥッラー・ブン・ハーズィム、そして一部のイラクの有力者層 — の離反は、アブドゥルマリクにムアーウィヤが敷いていた分権的な統治体制の維持が難しいものであることを確信させた。その結果、アブドゥルマリクは権力の中央集権化に着手することになった[94]。シリアの常備軍が強化され、各地方で政府の権力を行使するために活用された[101]。さらに、アブドゥルマリクは近親者に政府の要職を与え、各地の総督に歳入の余剰分を首都へ送るように要求した[102]。そしてアラビア語が官僚機構における公用語となり、単一のイスラーム通貨がビザンツ帝国とサーサーン朝の通貨に取って代った。これらの政策によってウマイヤ朝は一層イスラーム政権としての性格を強めることになった[103][93]。また、アブドゥルマリクは初期のイスラーム教徒による征服活動に従事した人々への恒久的な年金の支払いを打ち切り、現役軍人のために俸給を支払う制度を確立した[104]。アブドゥルマリクの統治モデルはその後の多くのイスラーム政権によって採用された[94]

部族の分裂

内乱中に発生したマルジュ・ラーヒトの戦い以降にシリアとジャズィーラにおいてカイス族とカルブ族の長期にわたる分断が進行した。この対立関係は、イラクにおいてタミーム族を中核とするムダル族と、これに対立するラビーア族とアズド族英語版の部族同盟との間で起こっていた分裂と並行して発生していた。これらの対立は、ともにイスラーム国家の各地で二つの部族連合、または「大集団」へと各部族の忠義が再編されていくきっかけとなった。これらの部族連合は、「北アラブ」または「カイス」と呼ばれる一派と、これと対立する「南アラブ」または「ヤマン」と呼ばれる一派に分かれていった。しかしながら、実際には「北部」であったラビーア族は「南部」のヤマンに忠実であったため、厳密にはこれらの用語は地理的なものというよりは政治的なものであった[105][106]。ウマイヤ朝のカリフは二つの集団間の均衡を維持しようと努めたものの、この分裂と双方の集団間の根深い対抗意識は、もともと特定の同盟関係に属していなかった部族でさえ二つの部族連合のどちらかへ属するように促されることになったため、この分裂はその後の数十年間にわたってアラブ世界で固定化されることになった。この権力と影響力をめぐる絶え間ない争いがウマイヤ朝を巻き込み、地方を不安定化させ、破滅的なものとなった第三次内乱英語版を助長させるとともに、アッバース朝の手によるウマイヤ朝の最終的な崩壊に影響を与えることになった[107]。この分裂の影響はウマイヤ朝の崩壊後も長期にわたって続いた。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ英語版が記しているように、「19世紀の終わりに至るまで、パレスチナでは自分たちをカイスとヤマンと呼ぶ集団間の争いがまだ続いていた」[108]

イスラームの宗派と終末論の発展

イランターズィエ(シーア派イマームの殉教を悼む哀悼行事)におけるフサインの殉教劇。

フサイン・ブン・アリーの死は広範囲にわたる激しい抗議を引き起こし、カリフのヤズィードへの反感がアリー家を支持する人々の強力な願望と結びついて反ウマイヤ朝運動の形で表面化する原因となった[109]。そしてカルバラーの戦いは後にそれぞれシーア派スンニ派へとつながっていくイスラームの宗派の決定的な分裂に影響を与えた[110][111]。同様にこの事件はそれまで政治的なものであったアリー家支持派の運動が宗教的な事象へと転換していくきっかけとなった[5][110]。この事象は今日に至るまで毎年アーシューラーの日にシーア派のイスラーム教徒によって行われる追悼行事の形で続いている[112]。また、この時期にそれまで純粋なアラブ人による運動であったアリー家支持派の運動が、ムフタール・アッ=サカフィーの反乱によってアラブ人以外の手にも広まることになった[113]。ムフタールは不当な扱いに対する不満を取り除くことによって、社会的に無視され、経済的に搾取されていたマワーリーを結集させた。ムフタールの反乱が起こる以前、非アラブ人のイスラーム教徒は全く政治的に重要な役割を担っていなかった[114][115][116]。政治的には短期間で失敗に終わったにもかかわらず、ムフタールの運動は、それまでにない神学的、終末論的概念を導入し、シーア派のその後の発展に影響を与えた急進的なシーア派の一派であるカイサーン派に引き継がれた[117]。のちにアッバース家はウマイヤ朝を打倒する革命においてカイサーン派の布教者の地下組織を活用した[118]。そして革命の支持者の中で最大の勢力となったのはシーア派と非アラブ人であった[119]

マディーナの預言者のモスクに掲げられているムハンマド・アル=マフディーの名を表したカリグラフィー

また、第二次内乱はその過程でイスラームにおけるメシアマフディーの思想を生み出すことになった[120]。ムフタールはアリー・ブン・アビー・ターリブの息子のムハンマド・ブン・ハナフィーヤに対してマフディーの称号を用いた[120]。この称号は以前はムハンマド、アリー、フサインなどに対する敬称として用いられていた。しかし、ムフタールは「イスラームを救うであろう神に導かれた支配者」というメシア(救世主)としての意味でこの言葉を用いた[121][122]。一方、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱は、初期のイスラーム共同体の純粋な価値観に回帰しようとする試みとして多くの人々からは見られていた。この反乱はウマイヤ朝の支配に不満を抱いていたさまざまな陣営から歓迎された[57][123]。そして反乱の支持者にとってイブン・アッ=ズバイルの敗北は、イスラームによる統治の古い理想を取り戻すことへのすべての希望が失われたことを意味していた[123]。このような時代の雰囲気の中で、歴史家のウィルファード・マーデルング英語版サイード・アミール・アルジョマンド英語版によれば、対抗のカリフとしてのイブン・アッ=ズバイルの役割がマフディーの概念のその後の発展を形作ることになった。イブン・アッ=ズバイルの経歴のいくつかの側面は、すでにイブン・アッ=ズバイルの存命中にムハンマドに帰するハディースの中で述べられていた — カリフ(ムアーウィヤ1世)の死後のカリフの地位をめぐる争い、マフディーのマディーナからメッカへの脱出、カアバへの避難、母親の部族がカルブ族である人物(ヤズィード1世)からマフディーへ差し向けられた軍隊の撃退、そしてシリアとイラクの正義を奉ずる人々によるマフディーの認知[124] — これは後にイスラーム共同体の古い栄光を取り戻すために未来において出現するとされるマフディーの特徴としてふさわしいものとされた[121][125][126]。その後マフディーの思想はイスラームにおいて発展し、教義として確立されていった[127][注 8]

脚注

注釈

  1. ^ アラビア語での呼称であるフィトナ (فتنة‎) は試練や誘惑を意味し、信者の信仰における試練、特に罪深い行動に対する神の罰を意味するものとしてクルアーンの中に現れる。歴史的には、統一された共同体に亀裂を引き起こし、信者の信仰を危険にさらす内乱、または反乱を意味するようになった[1]
  2. ^ アリー・ブン・アビー・ターリブとその子孫(アリー家)を支持する政治的な党派。イスラームの宗派であるシーア派はこの党派から発展していった[4][5]
  3. ^ a b 裁定は神のみに属するという思想に基づいてカリフのアリー・ブン・アビー・ターリブの下から離脱したあと、ハワーリジュ派はあらゆる中央集権的な統治を拒否し続けた[9]。歴史家のウィリアム・モントゴメリー・ワット英語版によれば、ハワーリジュ派はイスラーム以前の部族社会への回帰を望んでいた[10]。ウマイヤ朝の総督たちはハワーリジュ派の活動を封じ込めていたが、683年にカリフのヤズィードが死去した結果生じた権力の空白は、ハワーリジュ派が定住地に対して襲撃を繰り返す反政府活動を再開させるきっかけとなった。イスラーム国家がウマイヤ朝のカリフのアブドゥルマリク・ブン・マルワーン(在位:685年 - 705年)の下で再統一されたのち、ハワーリジュ派は内部抗争と分裂によって大きく弱体化し、反乱はウマイヤ朝の総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版によって鎮圧された[9][11]
  4. ^ ただし、当時オマーンはジュランド族が独立して統治しており、ハドラマウトの状況については不明である[37]
  5. ^ カイス族はシリアにおけるカルブ族の支配権に対抗するために、スフヤーン家のカリフの治世下でアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支援していた[45]
  6. ^ イスラームによる平等が与えられたはずにもかかわらず、ほとんどの地元の改宗者はしばしば二級市民として扱われた。これらのマワーリーと呼ばれる改宗者は、アラブ人よりも高い税金を支払い、アラブ人よりも低い軍の給与を充てがわれ、戦利品は取り上げられていた[70]
  7. ^ イラクの属領は、アルミニヤ英語版アーザルバーイジャーンジバール英語版フーゼスターンホラーサーンスィジスターンファールスケルマーンを含むイスラーム国家の北部と東部のすべての地域を構成していた。ただし、ファールスとケルマーンについてはしばらくの間ハワーリジュ派の支配下に置かれていた[88]
  8. ^ マフディーの思想は特にシーア派において影響力を持つようになり、シーア派の中心的な教義の一つとなった[115]

出典

  1. ^ Gardet 1965, p. 930.
  2. ^ 菊池 2009, pp. 69, 77–78.
  3. ^ 佐藤 2010, pp. 125, 132.
  4. ^ a b c Donner 2010, p. 178.
  5. ^ a b c d Kennedy 2016, p. 77.
  6. ^ 蔀 2018, p. 249.
  7. ^ Donner 2010, pp. 157–159.
  8. ^ Donner 2010, pp. 161–162.
  9. ^ a b Lewis 2002, p. 76.
  10. ^ Watt 1973, p. 20.
  11. ^ a b c d Kennedy 2016, p. 84.
  12. ^ Donner 2010, p. 166.
  13. ^ Donner 2010, p. 167.
  14. ^ a b Donner 2010, p. 177.
  15. ^ a b c Lewis 2002, p. 67.
  16. ^ a b Wellhausen 1927, p. 140.
  17. ^ Madelung 1997, p. 322.
  18. ^ a b 蔀 2018, p. 251.
  19. ^ a b Kennedy 2016, p. 76.
  20. ^ Wellhausen 1927, p. 145.
  21. ^ a b Hawting 2000, p. 46.
  22. ^ Wellhausen 1927, pp. 141–145.
  23. ^ Lammens 1921, pp. 5–6.
  24. ^ Wellhausen 1927, pp. 145–146.
  25. ^ Howard 1990, pp. 2–3.
  26. ^ Howard 1990, pp. 5–7.
  27. ^ a b c 佐藤 2010, pp. 138, 139.
  28. ^ Daftary 1990, p. 47.
  29. ^ Wellhausen 1901, p. 61.
  30. ^ Daftary 1990, p. 48.
  31. ^ Daftary 1990, p. 49.
  32. ^ a b Wellhausen 1927, pp. 148–150.
  33. ^ Donner 2010, p. 180.
  34. ^ Wellhausen 1927, pp. 152–156.
  35. ^ Donner 2010, pp. 180–181.
  36. ^ a b Hawting 2000, p. 48.
  37. ^ a b c Rotter 1982, p. 84.
  38. ^ Donner 2010, pp. 181–182.
  39. ^ Rotter 1982, p. 85.
  40. ^ Wellhausen 1927, pp. 168–169.
  41. ^ a b c d 蔀 2018, p. 253.
  42. ^ a b Wellhausen 1927, p. 182.
  43. ^ Hawting 1989, pp. 49–51.
  44. ^ Hawting 1989, pp. 50–51.
  45. ^ Wellhausen 1927, p. 170.
  46. ^ a b Kennedy 2016, pp. 78–79.
  47. ^ Kennedy 2016, p. 78.
  48. ^ a b c Kennedy 2016, p. 80.
  49. ^ a b c Wellhausen 1927, pp. 185–186.
  50. ^ Hawting 1989, pp. 162–163.
  51. ^ a b Dixon 1971, pp. 104–105.
  52. ^ a b Rotter 1982, pp. 87–88.
  53. ^ Dixon 1971, pp. 105–108.
  54. ^ Rotter 1982, pp. 89–92.
  55. ^ Dixon 1971, p. 110.
  56. ^ Kennedy 2007, pp. 239, 241.
  57. ^ a b Hawting 2000, p. 49.
  58. ^ Hawting 1989, pp. 98–102.
  59. ^ a b Gibb 1960a, p. 55.
  60. ^ Dixon 1971, pp. 34–35.
  61. ^ Wellhausen 1901, pp. 71–72.
  62. ^ a b 佐藤 2010, p. 132.
  63. ^ Wellhausen 1901, p. 72.
  64. ^ Sharon 1983, pp. 104–105.
  65. ^ Dixon 1971, p. 37.
  66. ^ Wellhausen 1901, p. 73.
  67. ^ Daftary 1990, p. 52.
  68. ^ Wellhausen 1975, pp. 128–130.
  69. ^ Dixon 1971, pp. 37–45.
  70. ^ Daftary 1990, pp. 55–56.
  71. ^ Donner 2010, p. 185.
  72. ^ Hawting 2000, p. 53.
  73. ^ Wellhausen 1901, p. 85.
  74. ^ Dixon 1971, pp. 73–75.
  75. ^ 清水 1995, p. 61.
  76. ^ Hawting 2000, pp. 47–49.
  77. ^ Dixon 1971, pp. 59–60.
  78. ^ Wellhausen 1927, p. 186.
  79. ^ Kennedy 2016, p. 81.
  80. ^ a b c d Gibb 1960b, p. 76.
  81. ^ Dixon 1971, pp. 126–127.
  82. ^ Dixon 1971, pp. 127–129.
  83. ^ Dixon 1971, pp. 92–93.
  84. ^ a b Lammens & Pellat 1993, pp. 649–650.
  85. ^ 清水 1995, pp. 61, 62.
  86. ^ Wellhausen 1975, p. 138.
  87. ^ 清水 1995, pp. 62, 65.
  88. ^ Rotter 1982, pp. 84–85.
  89. ^ McAuliffe 1995, p. 230, note 1082.
  90. ^ Wellhausen 1927, pp. 188–189.
  91. ^ Gibb 1960a, p. 54.
  92. ^ Donner 2010, p. 188.
  93. ^ a b Gibb 1960b, p. 77.
  94. ^ a b c Kennedy 2016, p. 85.
  95. ^ Wellhausen 1927, p. 137.
  96. ^ a b Kennedy 2016, p. 72.
  97. ^ a b Crone 1980, p. 31.
  98. ^ Crone 1980, pp. 32–33.
  99. ^ Kennedy 2016, pp. 75–76.
  100. ^ Blankinship 1994, pp. 28, 94.
  101. ^ Hawting 2000, p. 62.
  102. ^ Kennedy 2016, pp. 85–86.
  103. ^ Lewis 2002, p. 78.
  104. ^ Kennedy 2016, p. 89.
  105. ^ Hawting 2000, pp. 54–55.
  106. ^ Kennedy 2001, p. 105.
  107. ^ Kennedy 2001, pp. 99–115.
  108. ^ Kennedy 2001, p. 92.
  109. ^ Lewis 2002, p. 68.
  110. ^ a b Halm 1997, p. 16.
  111. ^ Daftary 1990, p. 50.
  112. ^ Hawting 2000, p. 50.
  113. ^ Daftary 1990, pp. 51–52.
  114. ^ Wellhausen 1901, pp. 79–80.
  115. ^ a b Hawting 2000, pp. 51–52.
  116. ^ Kennedy 2016, p. 83.
  117. ^ Daftary 1990, pp. 59–60.
  118. ^ Daftary 1990, p. 62.
  119. ^ Wellhausen 1927, pp. 504–506.
  120. ^ a b Arjomand 2016, p. 34.
  121. ^ a b Madelung 1986, p. 1231.
  122. ^ Sachedina 1981, p. 9.
  123. ^ a b Madelung 1971, p. 1164.
  124. ^ Abu Dawood 2008, pp. 509–510.
  125. ^ Madelung 1981.
  126. ^ Arjomand 2007, pp. 134–136.
  127. ^ Hawting 2000, p. 52.

参考文献

日本語文献

  • 菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』講談社〈講談社選書メチエ〉、2009年8月11日。ISBN 978-4-06-258446-3 
  • 佐藤次高『イスラームの歴史〈1〉イスラームの創始と展開』山川出版社〈宗教の世界史〉、2010年6月1日。ISBN 978-4634431416 
  • 蔀勇造『物語 アラビアの歴史』中央公論社中公新書〉、2018年7月25日。ISBN 978-4-12-102496-1 
  • 清水和裕「ムスアブ・ブン・アッズバイル墓参詣 ― ブワイフ朝の宗派騒乱と「第二次内乱」―」『オリエント』第38巻第2号、一般社団法人 日本オリエント学会、1995年、55–72頁、ISSN 1884-14062020年11月6日閲覧 

外国語文献