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「ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)」の版間の差分

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|人名 = 第8代エルギン伯爵<br />ジェイムズ・ブルース
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|画像説明 = 8代エルギン伯
|画像説明 = 8代エルギン伯
|国略称 ={{GBR3}}
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|死没地 = {{BIN}}、[[パンジャーブ]]州、[[ダラムシャーラー]]
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|出身校 = [[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]
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|称号・勲章 = [[アザミ勲章]]勲爵士 (KT)<br />一等[[バス勲章]]勲爵士 (GCB)<br />[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)
|称号・勲章 = 第8代[[エルギン伯爵]]、第12代[[キンカーディン伯爵]]、キンロスの第8代ブルース卿、トーリーの第12代ブルース卿、エルギンの初代エルギン男爵、[[シッスル勲章]]ナイト(KT)、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCB)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
|親族(政治家) = [[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|第7代エルギン伯爵]](父)<br/>{{仮リンク|チャールズ・カミング=ブルース|en|Charles Cumming-Bruce}}(義父)<br/>[[ジョン・ラムトン (初代ダラム伯爵)|初代ダラム伯爵]](義父)<br/>{{仮リンク|トマス・チャールズ・ブルース|label=トマス・ブルース|en|Thomas Charles Bruce}}(弟)<br/>[[ヴィクター・ブルース (第9代エルギン伯爵)|第9代エルギン伯爵]](長男)<br/>{{仮リンク|ロバート・プレストン・ブルース|label=ロバート・ブルース|en|Robert Preston Bruce}}(次男)
|親族(政治家) = [[ジョン・ラムトン (初代ダラム伯爵)|初代ダラム伯爵]] (義父)
|配偶者 = エリザベス・ブルース<br/>{{仮リンク|メアリー・ルイーザ・ブルース (エルギン伯爵夫人)|label=メアリー・ブルース|en|Mary Louisa Bruce, Countess of Elgin}}
|配偶者 =
|サイン = James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine Signature.svg
|サイン = James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine Signature.svg
|職名 =
|国旗 = GBR
|職名 = {{仮リンク|ジャマイカの知事一覧|label=ジャマイカ総督|en|List of governors of Jamaica}}
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|国旗2 = GBR
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|就任日2 = [[1847年]]
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|国旗5 = GBR
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}}
}}
'''第8代[[エルギン伯爵]]および第12代[[キンカーディン伯爵]]ジェイムズ・ブルース'''({{lang-en-short|'''James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine''', {{postnominals|country=GBR|size=100%|sep=,|KT|GCB|KSI|PC}}}}、[[1811年]][[7月20日]] - [[1863年]][[11月20日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[植民地]][[行政官]]、[[外交官]]。[[スコットランド貴族]]エルギン伯爵[[ブルース氏族|ブルース家]]に生まれ、[[1841年]]に{{仮リンク|サウサンプトン選挙区|en|Southampton (UK Parliament constituency)}}選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員として政界入り。同年爵位を継承。[[1842年]]に植民地行政官に転じ、{{仮リンク|ジャマイカの知事一覧|label=ジャマイカ総督|en|List of governors of Jamaica}}(在職1842年-1846年)、ついで{{仮リンク|連合カナダ植民地総督|en|Governor General of the Province of Canada}}(在職1847年-1854年)に就任した。[[1849年]]に[[連合王国貴族]]エルギン男爵に叙され、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列する。[[1857年]]には特命全権使節として[[中国]]へ派遣され、[[アロー戦争]]で英軍を指揮して[[清]]軍を撃破し、[[1858年]]に[[天津]]へ進撃して[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結。その直後に[[日本]]にも軍艦を率いて現れ[[日英修好通商条約]]を締結した。[[1859年]]に英国に帰国した際に[[第2次パーマストン子爵内閣]]の{{仮リンク|郵政長官 (イギリス)|label=郵政長官|en|United Kingdom Postmaster General}}に就任したが、[[1860年]]のアロー戦争再戦で再び特命全権使節として中国へ派遣されて英軍の指揮を執った。清軍を破って[[北京]]を占領した後、[[北京条約]]の締結を行った。[[1862年]]に[[インド総督|インド副王兼総督]]に就任したが、在任中の[[1863年]]にインドで死去した。
第8代[[エルギン伯爵]]および第12代[[キンカーディン伯爵]]'''ジェイムズ・ブルース'''({{lang|en|'''James Bruce''', 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine}}、[[1811年]][[7月20日]] - [[1863年]][[11月20日]])は、スコットランド系の貴族で[[イギリス]]の[[植民地]][[行政官]]、[[外交官]]。


== 経歴 ==
第7代エルギン伯爵兼第11代キンカーディン伯爵[[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]と、その2人目の妻メアリの間に第1子として生まれる。[[イートン・カレッジ]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]で学ぶ<ref>{{Venn|id=ELGN861J|name=Elgin and Kincardine, James, Earl of.}}</ref>。
=== 生い立ち ===
[[1811年]][[7月20日]]、[[スコットランド貴族]]で外交官の第7代エルギン伯爵・第11代キンカーディン伯爵[[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]と、その2人目の妻メアリ(旧姓オズヴァルド)の間に第1子として生まれる。[[イートン・カレッジ]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]で学ぶ<ref>{{Venn|id=ELGN861J|name=Elgin and Kincardine, James, Earl of.}}</ref>。イートン校で後の首相[[ウィリアム・グラッドストン]]と出会い、二人は生涯の友人となった{{sfn|北政巳|2010|p=3}}。


大学を優秀な成績で卒業した後、地元[[ファイフ]]に帰り父の借金の処理にあたった{{sfn|北政巳|2010|p=4}}。政治家を志し、[[1834年]]には『英国選挙民への書簡』を発表し、人気が下降していた[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首の初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]擁護論を展開した{{sfn|北政巳|2010|p=4}}。
[[1841年イギリス総選挙]]で[[ハンプシャー]]州[[サウサンプトン]]選挙区から当選するが、異母兄と父が相次いで死去したため二男のジェイムズが伯爵位を継ぐことになり、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の議席を失った。[[1842年]]に[[ジャマイカの総督|ジャマイカ総督]]、[[1847年]]に[[カナダの総督|カナダ総督]]就任。英系住民と仏系住民の暴力的対立を調停し、[[1848年]]には自治政府をたちあげた。[[アロー戦争]](1856年 - 1860年)でも遠征軍司令官として大きな役割を果たし、[[1860年]][[10月24日]]、[[清]]軍を破って、[[北京]]に入城し、[[北京条約]]に調印した。


=== 議会入り ===
エルギン伯には日本との通商条約を締結する役目も与えられていた。[[1858年]][[7月30日]]に[[上海]]を4隻の艦隊で出発、[[8月3日]]([[安政]]5年6月24日)に[[長崎港|長崎]]に到着、8月12日(7月4日)には[[品川港|品川]]沖に停泊した。およそ1ヶ月前に[[日米修好通商条約]]が調印されていたこともあり、交渉は比較的スムーズに進み、[[8月26日]](7月18日)に[[日英修好通商条約]]が調印された。このとき、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の名で、艦隊の1隻であった[[蟠竜丸|エンペラー号]]を幕府に寄贈している。
[[1839年]]に{{仮リンク|ファイフ選挙区|en|Fife (UK Parliament constituency)}}から庶民院議員選挙に出馬するも落選{{sfn|北政巳|2010|p=4}}。しかし[[1841年]]の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=総選挙|en|1841 United Kingdom general election}}で[[ハンプシャー]]州の{{仮リンク|サウサンプトン選挙区|en|Southampton (UK Parliament constituency)}}から当選し、独立会派の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となった<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3685.htm#i36850|title= James Bruce, 12th Earl of Kincardine|accessdate= 2019-05-12 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。


1840年に異母兄ジョージが死去したため、エルギン伯爵位の[[法定推定相続人]]となり{{sfn|北政巳|2010|p=3}}、翌年[[11月14日]]に父が死去したことで爵位を継承した。継承した爵位は全てスコットランド貴族だったのでこの継承で[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に転じることはなかった。
[[1859年]]には、秘書の[[ローレンス・オリファント]]が中国・日本滞在中の記録をまとめた本を出版した(日本の部分のみ『エルギン卿遣日使節録』として日本語訳されている)。


=== ジャマイカ総督 ===
[[1861年]]、[[インドの総督|インド総督]]に任命されたが、着任の翌年、心筋梗塞で同地で没した。
[[1842年]]には保守党政権の[[陸軍・植民地大臣]]のスタンリー卿[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]の要請を受け入れて庶民院議員を辞して{{仮リンク|ジャマイカの知事一覧|label=ジャマイカ総督|en|List of governors of Jamaica}}に就任した{{sfn|北政巳|2010|p=4}}。

{{仮リンク|スコットランド啓蒙主義|en|Scottish Enlightenment}}を掲げてジャマイカ統治に臨み、ジャマイカの近代化・市民社会化を目指した。スコットランドから導入した手法、例えば農業促進協会を設置しての新農業の普及、聖書や訓育書の学習の普及、職業技術向上のための職業訓練学校の創設、西インド諸島全域の行政機構の効率化などに努めた。黒人奴隷解放後の混乱する社会情勢の中、公正な態度により[[白人]]植民者からも[[黒人]]からも広く尊敬される総督となった{{sfn|北政巳|2010|p=4}}。

[[1846年]]に帰国。[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]政権の陸軍・植民地大臣第3代[[グレイ伯爵]][[ヘンリー・グレイ (第3代グレイ伯爵)|ヘンリー・グレイ]]からジャマイカ総督再任を要請されたが断った{{sfn|北政巳|2010|p=5}}。

=== カナダ総督 ===
[[File:James Bruce, Lord Elgin - Theophile Hamel.JPG|180px|thumb|1849年に描かれたエルギン伯の肖像]]
ホイッグ党政権からも高く評価されていたため、[[1847年]]1月には{{仮リンク|連合カナダ植民地総督|en|Governor General of the Province of Canada}}に着任した{{sfn|北政巳|2010|p=5}}。

カナダでは[[1841年]]の[[アッパー・カナダ]]と[[ローワー・カナダ]]が統合されて{{仮リンク|連合カナダ植民地|en|Province of Canada}}となっていた。この統合はローワー・カナダに多いフランス系住民をイギリス系住民が圧倒・吸収することを目指したものだったが、当時のカナダの政治情勢はそのような意図が実現できる状態ではなかった。それを見て取ったエルギン伯爵は、[[1848年]]にカナダ東部 (旧ローワーカナダ)の{{仮リンク|ルイ・ラフォンテーヌ|en|Louis-Hippolyte Lafontaine}}とカナダ西部 (旧アッパーカナダ)の{{仮リンク|ロバート・ボールドウィン (カナダ首相)|label=ロバート・ボールドウィン|en|Robert Baldwin}}に共同組閣を依頼し、{{仮リンク|カナダ共同首相|en|List of Joint Premiers of the Province of Canada}}に就任してもらって{{仮リンク|責任政府|en|Responsible government}}を立ち上げた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%80%A3%E5%90%88%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%80%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0-152086 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「連合カナダ植民地」] [[コトバンク]]. 2019年5月8日閲覧。</ref>。

自由貿易信奉者であるエルギン伯爵は、カナダの殖産興業に努め、自国と競合する方向性を打ち出した{{sfn|北政巳|2010|p=5}}。また英系住民と仏系住民の対立の緩和のため、カナダ公文書には英語・フランス語双方を認め、彼自身も[[カナダ議会]]では英語フランス語双方の言葉で演説した{{sfn|北政巳|2010|p=5}}。

また[[アメリカ合衆国]]との関係を重視し、[[1854年]][[6月5日]]には[[アメリカ合衆国国務長官|アメリカ国務長官]][[ウィリアム・マーシー]]との間に小麦、穀物、家禽類、魚類、羊毛・木綿、鉱石・貴金属などの商品取引、[[セントローレンス川]]や[[ミシガン湖]]の航行権などを取り決めた{{sfn|北政巳|2010|p=6}}。

またカナダ総督在任中の[[1849年]][[11月13日]]に[[連合王国貴族]]爵位のエルギンのエルギン男爵に叙され、貴族院議員に列している。

[[1854年]]12月に{{仮リンク|エドムンド・ウォーカー・ヘッド|en|Edmund Walker Head}}準男爵と交代して英国へ帰国した{{sfn|北政巳|2010|p=6}}。

=== アロー戦争 天津条約まで ===
[[1856年]]10月に[[清]]で[[アロー号事件]]が発生。英国首相の第3代[[パーマストン子爵]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・テンプル]]はこれを機に清政府に更なる市場開放を迫る[[南京条約|条約]]改正を狙い、[[1857年]]春の{{仮リンク|1857年イギリス総選挙|label=総選挙|en|1857 United Kingdom general election}}に勝利して議会から中国出兵の許可を得た後、[[1857年]][[3月25日]]にエルギン伯を中国に送る特命全権使節に任じた{{sfn|横井勝彦|2004|p=162}}。

エルギン伯はフランスに渡って英仏軍共同での中国出兵を確認した後、[[5月9日]]に5000人の遠征軍とともに中国へ出発した{{sfn|横井勝彦|2004|p=162}}。しかしその間に[[インド]]で[[セポイの反乱]]が発生したため、[[6月3日]]にエルギン伯が[[シンガポール]]に到着した際、[[インド総督]][[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・カニング]]の要請で中国遠征軍の一部を[[カルカッタ]]へ送ることになった。そのため7月2日に[[香港]]に到着した際にエルギン伯が率いる中国遠征軍は1500人規模まで縮小されていた{{sfn|横井勝彦|2004|p=162}}。本国の外相第4代[[クラレンドン伯爵]][[ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|ジョージ・ヴィリアーズ]]もインド危機の前には中国遠征など二義的な問題であるとして、当面武力行使は[[広東]]に限定して[[北京]]への進攻は見合わせるようエルギン伯爵への訓令を修正した{{sfn|横井勝彦|2004|p=163}}。

10月16日にフランス特命全権使節[[ジャン・バティスト・ルイ・グロ]]が香港に到着し、11月からはインドの補充部隊も到着して英仏連合軍5600人、汽走砲艦30隻から成る戦力が整った。{{仮リンク|東インド=中国艦隊|label=東インド艦隊司令長官|en|East Indies and China Station}}{{仮リンク|マイケル・シーモア (1802-1887)|label=サー・マイケル・シーモア|en|Michael Seymour (Royal Navy officer, born 1802)}}提督が抗英闘争の激化で撤退を余儀なくされた[[河南]]の再占領を決定したエルギン伯は12月12日に広東入城許可、条約義務履行、損害賠償支払いを求める最後通牒を清政府に発した{{sfn|横井勝彦|2004|p=163}}。

清側の[[両広総督]]の[[葉名チン|葉名琛]]にそれを受諾する権限はなかったため、英軍はただちに河南を占領して11月28日に広東砲撃を開始し、翌日に陥落させると英仏連合軍5700人が上陸して広東を占領した{{sfn|横井勝彦|2004|p=163}}。1858年2月12日にエルギン伯は北京に照会を送り、3月末までに[[上海]]において条約改正交渉を開始することを要求したが、清側は交渉窓口は広東のみという姿勢を崩さなかった。その時の英海軍は占領下広東やその他条約港の権益保護に忙殺されていて北京まで進撃するのは困難な状況だったが、エルギン伯は北航が遅れて清政府にあなどられることを恐れて北京への武力行使を決定した{{sfn|横井勝彦|2004|p=164-166}}。

インドの反乱や広東抗英闘争の余波で吃水の浅い小型汽走砲艦の[[海河|白河]]口への結集が遅れた上、エルギン伯とシーモア提督の間で意見対立が発生し、なかなか戦略が決まらなかったが、5月18日になって白河封鎖と[[天津]]侵攻の方針が決まった。その2日後に英仏軍は[[大沽砲台]]を占領し、[[5月30日]]にはエルギン伯とグロは天津に到着することができた{{sfn|横井勝彦|2004|p=167-169}}。

[[6月26日]]に清政府との間に[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結し、北京に公使を駐在させること、キリスト教布教を公認すること、国内河川航行権を許可すること、賠償金支払い、アヘン輸入公認などを清政府に認めさせた{{sfn|北政巳|2010|p=7}}。しかし北京での皇帝との会見や天津に占領軍を駐屯させることは求めず、6週間後には全軍を南方へ撤収させた{{sfn|横井勝彦|2004|p=170}}。これは天津に占領軍を置けるほど戦力的余裕がなかったことと、依然として広東は英軍占領下にあるから、それによって清政府に対する条約履行強制力は確保できるという考えに加え、[[太平天国の乱]]が激化する中、北京を占領して清朝の威信を傷つければ清朝そのものが崩壊する恐れが高かったことがある。たとえ衰退する専制封建主義体制であっても、イギリスにとって中国貿易を保証する「安定した中央政府」の存在は不可欠だったのである{{sfn|横井勝彦|2004|p=170-171}}。

=== 日本との通商条約 ===
[[File:Earl of Elgin & the Japanese Commissioners.jpg|thumb|250px|江戸幕府と条約交渉を行うエルギン伯を描いた絵画]]
本国外相クラレンドン伯の訓令によりエルギン伯には日本と通商条約を締結する役目も与えられていた。そのため1858年[[7月6日]]に天津を退去したエルギン伯は日本へ向かうことになった。[[7月30日]]に[[上海]]を4隻の艦隊で出発、[[8月3日]]([[安政]]5年6月24日)に[[長崎港|長崎]]に到着、8月12日(7月4日)には[[品川港|品川]]沖に停泊した。

エルギン伯の日本遠征には当初東インド艦隊司令長官シーモア提督も十分な海軍力を率いて同行する予定であった。ところがシーモア提督は訓令を無視して10隻以上の艦船を上海から香港へ帰還させ、自身も一時長崎に寄港したもののすぐに香港へ引き返してしまった{{sfn|横井勝彦|2004|p=171}}。そのためエルギン伯に率いられて日本にやってきた艦船はわずかに蒸気船3隻、蒸気フリゲート艦レトリビューション号、フュリアス号、リー号、そして江戸幕府に贈呈した快速船[[蟠竜丸|エンペラー号]]だけという大国イギリスとしては貧弱な戦力となった。それでもエルギン伯はもし締結を拒むなら50隻の艦船を率いて戻ってくることになるだろうと江戸幕府を脅迫して、[[8月26日]]には[[日英修好通商条約]]を締結することに成功した{{sfn|横井勝彦|2004|p=172}}。[[江戸]]に駐在公使を置くこと、[[下田]]・[[箱館]]・[[長崎]]・[[新潟]]・[[兵庫]]を開港して江戸と[[大阪]]を開市し、駐在領事を置くこと、輸出・輸入に制限は設けないこと、駐日英国民の[[領事裁判権]]を認めること、[[信教の自由]]を尊重すること、日本側には[[関税自主権]]はないことなどを認めさせた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E6%94%BF%E4%BA%94%E3%83%B5%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84-29226#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「安政五ヵ国条約」] [[コトバンク]]. 2019年5月18日閲覧。</ref>。

一度中国へ戻らねばならないという時間的制約がある中、条約交渉が清政府に対するそれより容易に進んだこともあって、日本に対してはいい印象をもって離日したようである。「この忌まわしい東洋に着任して以来、愛惜の念をもって離れる唯一の土地」と友人への手紙の中で書いている{{sfn|浜渦哲雄|1999|p=113-114}}。

=== アロー戦争 北京条約まで ===
[[File:The State Entry of Lord Elgin into Peking.jpg|thumb|250px|[[北京]]に入城するエルギン伯を描いた絵画]]
[[File:Earl of Elgin's entrance into Peking.jpg|thumb|250px|北京に入城するエルギン伯を描いた絵画]]
日本を離れ、1858年9月3日に上海に戻ったエルギン伯は、上海会議において税率改定、内地通過税の限定、アヘン貿易の合法化を内容とする[[通商章程善後条約]]を清政府との間に締結した。天津条約で開港された[[揚子江]]流域の[[鎮江]]、[[九江]]、[[漢口]]を視察した後、1859年3月にイギリスへの帰国の途に就いた{{sfn|横井勝彦|2004|p=172}}。

帰国後、エルギン伯は[[第2次パーマストン子爵内閣|パーマストン子爵内閣]]の{{仮リンク|郵政長官 (イギリス)|label=郵政長官|en|United Kingdom Postmaster General}}に就任した{{sfn|浜渦哲雄|1999|p=114}}。また1859年には、秘書の[[ローレンス・オリファント]]が中国・日本滞在中の記録をまとめた本を出版した(日本の部分のみ『エルギン卿遣日使節録』として日本語訳されている){{sfn|北政巳|2014|p=66}}。

ところが、清政府にとって天津条約は英仏連合軍の北京進攻を防ぐための便宜的手段でしかなかったから、その後も条約を守ろうとしなかった。特に公使の北京駐留、内地旅行、内港開港については実行する意思をまるで見せなかった。そのため英仏連合軍は再度武力行使する必要に迫られた{{sfn|横井勝彦|2004|p=172-173}}。

[[1860年]][[3月8日]]に英仏両国は清政府に最後通牒を発し、4月にはエルギン伯とグロが再度特命全権使節に任命されて中国に派遣された。この時にはインド反乱も鎮圧されていたためカルカッタから大規模な戦力を集めることができ、7月末までにはイギリス軍1万3000人・艦船70隻、フランス軍7000人・艦船30隻という中国遠征軍が整えられた。英仏連合軍は8月31日には再度大沽砲台を占領。連合軍は8月24日の天津交渉と9月18日の通州交渉をいずれも破談させ、交渉場所を徐々に北京へ近づけていき、ついに北京を無血占領した{{sfn|横井勝彦|2004|p=174-175}}。この際にエルギン伯はイギリス人捕虜が虐待された報復として[[円明園]]を破壊させた。

[[10月24日]]に清政府との間に[[北京条約]]を調印し、天津条約の批准書を交換した{{sfn|横井勝彦|2004|p=175}}。賠償金増額、新たに天津の開港、[[九竜半島]]割譲などを清政府に認めさせた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84-129209 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「北京条約」] [[コトバンク]]. 2019年5月8日閲覧。</ref>。

[[1861年]]4月に再びイギリスへ帰国した{{sfn|浜渦哲雄|1999|p=114}}。

=== インド総督 ===
帰国後一か月もたたないうちにカニングの後任として[[インドの総督|インド副王兼総督]]に任命され、[[1862年]]3月に[[カルカッタ]]に着任した{{sfn|浜渦哲雄|1999|p=114}}。

ジャマイカやカナダの統治と同様にスコットランド啓蒙主義と自由貿易主義を旨としてインド統治に臨んだ。母国スコットランド人の技師をインドに招来し、運河・道路・湾岸・鉄道など[[インフラ]]建設を押し進めた{{sfn|北政巳|2014|p=67}}。特に鉄道はカルカッタを中心とした鉄道網ネットワークを提唱するなど熱心に取り組んだ{{sfn|北政巳|2014|p=68}}。エルギン伯が招来したスコットランド技師たちはインドから中国・日本・[[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]]にも流れていった{{sfn|北政巳|2014|p=68}}。

また[[パンジャーブ]]州の[[シク]]教徒が中国遠征で勇戦したことを考慮してシクを重用する人事を行った{{sfn|北政巳|2014|p=68}}。

カルカッタの酷暑に耐えられず、1863年2月には避暑地[[シムラー (インド)|シムラ]]へ移り、9月まで同地に滞在した。その帰途にパンジャーブ州・[[ダラムシャーラー]]で心筋梗塞を起こして死去した。もっとも在任期間の短いインド総督だった{{sfn|浜渦哲雄|1999|p=113-114}}。爵位は長男の[[ヴィクター・ブルース (第9代エルギン伯爵)|ヴィクター・ブルース]]が継承した<ref name="CP EE"/>。

== 栄典 ==
=== 爵位 ===
[[1841年]][[11月14日]]の父[[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]の死去により以下の爵位を継承した<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/elgin1633.htm|title=Elgin, Earl of (S, 1633)|accessdate= 2016-4-21 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
*'''第8代[[エルギン伯爵]]''' {{small|(8th Earl of Elgin)}}
*:([[1633年]][[6月21日]]の[[勅許状]]による[[スコットランド貴族]]爵位)
*'''第12代[[キンカーディン伯爵]]''' {{small|(12th Earl of Kincardine)}}
*:([[1647年]][[12月26日]]の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
*'''キンロスの第8代ブルース卿''' {{small|(8th Lord Bruce of Kinloss)}}
*:(1633年6月21日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
*'''トーリーの第12代ブルース卿''' {{small|(12th Lord Bruce of Torry)}}
*:(1647年12月26日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
[[1849年]][[11月13日]]に以下の爵位を新規に叙される<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE"/>。
*'''エルギンの初代エルギン男爵''' {{small|(1st Baron Elgin, of Elgin)}}
*:(勅許状による[[連合王国貴族]]爵位)

=== 勲章 ===
*[[1847年]]、[[シッスル勲章]]ナイト {{small|(Knight, Order of the Thistle. KT)}}<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE"/>
*[[1858年]]、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス {{small|(Knight Grand Cross, Order of the Bath. GCB)}}<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE"/>
*[[1862年]]、[[インドの星勲章]]ナイト・コンパニオン{{small|(Knight Companion,Order of the Star of India. KSI)}}<ref name="CP EE"/>

=== その他名誉職 ===
*[[1854年]]-[[1863年]]、{{仮リンク|ファイフ統監|en|Lord Lieutenant of Fife}}<ref name="CP EE"/>
*[[1857年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]{{small|(Privy Counsellor. PC)}}<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE"/>

== 家族 ==
[[1841年]][[4月22日]]、保守党の庶民院議員{{仮リンク|チャールズ・カミング=ブルース|en|Charles Cumming-Bruce}}の娘'''エリザベス・メアリー・カミング=ブルース'''{{small|(Elizabeth Mary Cumming-Bruce,生年不詳-1843)}}と最初の結婚をした。彼女との間に以下の娘を儲けた<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE"/>。
*第1子(長女)'''エルマ・ブルース'''{{small|(Lady Elma Bruce, 生年不詳-1923) - 自由党の政治家第5代{{仮リンク|サーロー男爵|en|Baron Thurlow}}{{仮リンク|トマス・ホヴェル=サーロー=カミング=ブルース (第5代サーロー男爵)|label=トマス・ホヴェル=サーロー=カミング=ブルース|en|Thomas Hovell-Thurlow-Cumming-Bruce, 5th Baron Thurlow}}と結婚}}

最初の妻エリザベスはエルギン伯がジャマイカ総督として着任した後、ジャマイカにおいて急逝{{sfn|北政巳|2010|p=4}}。

[[1846年]]にホイッグ党急進派の政治家の初代[[ダラム伯爵]][[ジョン・ラムトン (初代ダラム伯爵)|ジョン・ラムトン]]の娘'''{{仮リンク|メアリー・ルイーザ・ブルース (エルギン伯爵夫人)|label=メアリー・ルイーザ・ラムトン|en|Mary Louisa Bruce, Countess of Elgin}}'''{{small|(Lady Mary Louisa Lambton, 生年不詳-1898)}}と再婚。彼女との間に以下の3男を儲けた<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP EE"/>。
*第2子(長男)'''[[ヴィクター・ブルース (第9代エルギン伯爵)|ヴィクター・アレグザンダー・ブルース]]'''{{small|(Victor Alexander Bruce,1849-1917) - 第9代エルギン伯爵位を継承。自由党の政治家。}}
*第3子(次男)'''{{仮リンク|ロバート・プレストン・ブルース|en|Robert Preston Bruce}}'''{{small|(Hon. Robert Preston Bruce, 1851-1893) - 自由党の庶民院議員}}
*第4子(三男)'''フレデリック・ジョン・ブルース'''{{small|(Hon. Frederick John Bruce, 1854-1920)}}


== 出典 ==
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=[[北政巳]]|year=2010|title=第8代エルギン伯爵と大英帝国の世界|url=https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=35674&item_no=1&page_id=13&block_id=68|format=PDF|journal=創価経済論集39(1-4), 1-16|publisher=[[創価大学]]経済学会|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=[[北政巳]]|year=2014|title=ヴィクトリア期英帝国の繁栄とエルギン伯爵一族の歴史 ―スコットランド貴族の参画と貢献―|url=https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=35705&item_no=1&page_id=13&block_id=68|format=PDF|journal=創価経済論集 43(1/2/3/4)|publisher=[[創価大学]]経済学会|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[横井勝彦]]|date=2004年|title=アジアの海の大英帝国|series=講談社学術文庫|publisher=講談社|isbn=978-4061596412|ref=harv}}。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=4324 BRUCE, JAMES, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine] - [[:en:Dictionary of Canadian Biography|the ''Dictionary of Canadian Biography Online'']] {{en icon}}
* [http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=4324 BRUCE, JAMES, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine] - [[:en:Dictionary of Canadian Biography|the ''Dictionary of Canadian Biography Online'']] {{en icon}}
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2019年5月24日 (金) 20:14時点における版

第8代エルギン伯爵
ジェイムズ・ブルース
James Bruce, 8th Earl of Elgin
8代エルギン伯
生年月日 1811年7月20日
出生地 イギリスの旗 イギリスロンドン
没年月日 1863年11月20日 (52歳没)
死没地 イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国パンジャーブ州、ダラムシャーラー
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 無所属
称号 第8代エルギン伯爵、第12代キンカーディン伯爵、キンロスの第8代ブルース卿、トーリーの第12代ブルース卿、エルギンの初代エルギン男爵、シッスル勲章ナイト(KT)、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、枢密顧問官(PC)
配偶者 エリザベス・ブルース
メアリー・ブルース英語版
親族 第7代エルギン伯爵(父)
チャールズ・カミング=ブルース英語版(義父)
初代ダラム伯爵(義父)
トマス・ブルース英語版(弟)
第9代エルギン伯爵(長男)
ロバート・ブルース英語版(次男)
サイン

在任期間 1842年 - 1846年
女王 ヴィクトリア

在任期間 1847年 - 1854年
女王 ヴィクトリア

内閣 第2次パーマストン子爵内閣
在任期間 1859年 - 1860年

在任期間 1862年3月21日 - 1863年11月20日
女帝 ヴィクトリア

選挙区 サウサンプトン選挙区英語版
在任期間 1841年 - 1842年

その他の職歴
イギリスの旗 貴族院議員
1849年 - 1863年
テンプレートを表示

第8代エルギン伯爵および第12代キンカーディン伯爵ジェイムズ・ブルース: James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine, KT, GCB, KSI, PC1811年7月20日 - 1863年11月20日)は、イギリス政治家植民地行政官外交官スコットランド貴族エルギン伯爵ブルース家に生まれ、1841年サウサンプトン選挙区英語版選出の庶民院議員として政界入り。同年爵位を継承。1842年に植民地行政官に転じ、ジャマイカ総督英語版(在職1842年-1846年)、ついで連合カナダ植民地総督英語版(在職1847年-1854年)に就任した。1849年連合王国貴族エルギン男爵に叙され、貴族院議員に列する。1857年には特命全権使節として中国へ派遣され、アロー戦争で英軍を指揮して軍を撃破し、1858年天津へ進撃して天津条約を締結。その直後に日本にも軍艦を率いて現れ日英修好通商条約を締結した。1859年に英国に帰国した際に第2次パーマストン子爵内閣郵政長官英語版に就任したが、1860年のアロー戦争再戦で再び特命全権使節として中国へ派遣されて英軍の指揮を執った。清軍を破って北京を占領した後、北京条約の締結を行った。1862年インド副王兼総督に就任したが、在任中の1863年にインドで死去した。

経歴

生い立ち

1811年7月20日スコットランド貴族で外交官の第7代エルギン伯爵・第11代キンカーディン伯爵トマス・ブルースと、その2人目の妻メアリ(旧姓オズヴァルド)の間に第1子として生まれる。イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[1]。イートン校で後の首相ウィリアム・グラッドストンと出会い、二人は生涯の友人となった[2]

大学を優秀な成績で卒業した後、地元ファイフに帰り父の借金の処理にあたった[3]。政治家を志し、1834年には『英国選挙民への書簡』を発表し、人気が下降していた保守党党首の初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー擁護論を展開した[3]

議会入り

1839年ファイフ選挙区英語版から庶民院議員選挙に出馬するも落選[3]。しかし1841年総選挙英語版ハンプシャー州のサウサンプトン選挙区英語版から当選し、独立会派の庶民院議員となった[4]

1840年に異母兄ジョージが死去したため、エルギン伯爵位の法定推定相続人となり[2]、翌年11月14日に父が死去したことで爵位を継承した。継承した爵位は全てスコットランド貴族だったのでこの継承で貴族院議員に転じることはなかった。

ジャマイカ総督

1842年には保守党政権の陸軍・植民地大臣のスタンリー卿エドワード・スミス=スタンリーの要請を受け入れて庶民院議員を辞してジャマイカ総督英語版に就任した[3]

スコットランド啓蒙主義英語版を掲げてジャマイカ統治に臨み、ジャマイカの近代化・市民社会化を目指した。スコットランドから導入した手法、例えば農業促進協会を設置しての新農業の普及、聖書や訓育書の学習の普及、職業技術向上のための職業訓練学校の創設、西インド諸島全域の行政機構の効率化などに努めた。黒人奴隷解放後の混乱する社会情勢の中、公正な態度により白人植民者からも黒人からも広く尊敬される総督となった[3]

1846年に帰国。ホイッグ党政権の陸軍・植民地大臣第3代グレイ伯爵ヘンリー・グレイからジャマイカ総督再任を要請されたが断った[5]

カナダ総督

1849年に描かれたエルギン伯の肖像

ホイッグ党政権からも高く評価されていたため、1847年1月には連合カナダ植民地総督英語版に着任した[5]

カナダでは1841年アッパー・カナダローワー・カナダが統合されて連合カナダ植民地英語版となっていた。この統合はローワー・カナダに多いフランス系住民をイギリス系住民が圧倒・吸収することを目指したものだったが、当時のカナダの政治情勢はそのような意図が実現できる状態ではなかった。それを見て取ったエルギン伯爵は、1848年にカナダ東部 (旧ローワーカナダ)のルイ・ラフォンテーヌ英語版とカナダ西部 (旧アッパーカナダ)のロバート・ボールドウィン英語版に共同組閣を依頼し、カナダ共同首相英語版に就任してもらって責任政府を立ち上げた[6]

自由貿易信奉者であるエルギン伯爵は、カナダの殖産興業に努め、自国と競合する方向性を打ち出した[5]。また英系住民と仏系住民の対立の緩和のため、カナダ公文書には英語・フランス語双方を認め、彼自身もカナダ議会では英語フランス語双方の言葉で演説した[5]

またアメリカ合衆国との関係を重視し、1854年6月5日にはアメリカ国務長官ウィリアム・マーシーとの間に小麦、穀物、家禽類、魚類、羊毛・木綿、鉱石・貴金属などの商品取引、セントローレンス川ミシガン湖の航行権などを取り決めた[7]

またカナダ総督在任中の1849年11月13日連合王国貴族爵位のエルギンのエルギン男爵に叙され、貴族院議員に列している。

1854年12月にエドムンド・ウォーカー・ヘッド英語版準男爵と交代して英国へ帰国した[7]

アロー戦争 天津条約まで

1856年10月にアロー号事件が発生。英国首相の第3代パーマストン子爵ヘンリー・テンプルはこれを機に清政府に更なる市場開放を迫る条約改正を狙い、1857年春の総選挙英語版に勝利して議会から中国出兵の許可を得た後、1857年3月25日にエルギン伯を中国に送る特命全権使節に任じた[8]

エルギン伯はフランスに渡って英仏軍共同での中国出兵を確認した後、5月9日に5000人の遠征軍とともに中国へ出発した[8]。しかしその間にインドセポイの反乱が発生したため、6月3日にエルギン伯がシンガポールに到着した際、インド総督チャールズ・カニングの要請で中国遠征軍の一部をカルカッタへ送ることになった。そのため7月2日に香港に到着した際にエルギン伯が率いる中国遠征軍は1500人規模まで縮小されていた[8]。本国の外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズもインド危機の前には中国遠征など二義的な問題であるとして、当面武力行使は広東に限定して北京への進攻は見合わせるようエルギン伯爵への訓令を修正した[9]

10月16日にフランス特命全権使節ジャン・バティスト・ルイ・グロが香港に到着し、11月からはインドの補充部隊も到着して英仏連合軍5600人、汽走砲艦30隻から成る戦力が整った。東インド艦隊司令長官英語版サー・マイケル・シーモア英語版提督が抗英闘争の激化で撤退を余儀なくされた河南の再占領を決定したエルギン伯は12月12日に広東入城許可、条約義務履行、損害賠償支払いを求める最後通牒を清政府に発した[9]

清側の両広総督葉名琛にそれを受諾する権限はなかったため、英軍はただちに河南を占領して11月28日に広東砲撃を開始し、翌日に陥落させると英仏連合軍5700人が上陸して広東を占領した[9]。1858年2月12日にエルギン伯は北京に照会を送り、3月末までに上海において条約改正交渉を開始することを要求したが、清側は交渉窓口は広東のみという姿勢を崩さなかった。その時の英海軍は占領下広東やその他条約港の権益保護に忙殺されていて北京まで進撃するのは困難な状況だったが、エルギン伯は北航が遅れて清政府にあなどられることを恐れて北京への武力行使を決定した[10]

インドの反乱や広東抗英闘争の余波で吃水の浅い小型汽走砲艦の白河口への結集が遅れた上、エルギン伯とシーモア提督の間で意見対立が発生し、なかなか戦略が決まらなかったが、5月18日になって白河封鎖と天津侵攻の方針が決まった。その2日後に英仏軍は大沽砲台を占領し、5月30日にはエルギン伯とグロは天津に到着することができた[11]

6月26日に清政府との間に天津条約を締結し、北京に公使を駐在させること、キリスト教布教を公認すること、国内河川航行権を許可すること、賠償金支払い、アヘン輸入公認などを清政府に認めさせた[12]。しかし北京での皇帝との会見や天津に占領軍を駐屯させることは求めず、6週間後には全軍を南方へ撤収させた[13]。これは天津に占領軍を置けるほど戦力的余裕がなかったことと、依然として広東は英軍占領下にあるから、それによって清政府に対する条約履行強制力は確保できるという考えに加え、太平天国の乱が激化する中、北京を占領して清朝の威信を傷つければ清朝そのものが崩壊する恐れが高かったことがある。たとえ衰退する専制封建主義体制であっても、イギリスにとって中国貿易を保証する「安定した中央政府」の存在は不可欠だったのである[14]

日本との通商条約

江戸幕府と条約交渉を行うエルギン伯を描いた絵画

本国外相クラレンドン伯の訓令によりエルギン伯には日本と通商条約を締結する役目も与えられていた。そのため1858年7月6日に天津を退去したエルギン伯は日本へ向かうことになった。7月30日上海を4隻の艦隊で出発、8月3日安政5年6月24日)に長崎に到着、8月12日(7月4日)には品川沖に停泊した。

エルギン伯の日本遠征には当初東インド艦隊司令長官シーモア提督も十分な海軍力を率いて同行する予定であった。ところがシーモア提督は訓令を無視して10隻以上の艦船を上海から香港へ帰還させ、自身も一時長崎に寄港したもののすぐに香港へ引き返してしまった[15]。そのためエルギン伯に率いられて日本にやってきた艦船はわずかに蒸気船3隻、蒸気フリゲート艦レトリビューション号、フュリアス号、リー号、そして江戸幕府に贈呈した快速船エンペラー号だけという大国イギリスとしては貧弱な戦力となった。それでもエルギン伯はもし締結を拒むなら50隻の艦船を率いて戻ってくることになるだろうと江戸幕府を脅迫して、8月26日には日英修好通商条約を締結することに成功した[16]江戸に駐在公使を置くこと、下田箱館長崎新潟兵庫を開港して江戸と大阪を開市し、駐在領事を置くこと、輸出・輸入に制限は設けないこと、駐日英国民の領事裁判権を認めること、信教の自由を尊重すること、日本側には関税自主権はないことなどを認めさせた[17]

一度中国へ戻らねばならないという時間的制約がある中、条約交渉が清政府に対するそれより容易に進んだこともあって、日本に対してはいい印象をもって離日したようである。「この忌まわしい東洋に着任して以来、愛惜の念をもって離れる唯一の土地」と友人への手紙の中で書いている[18]

アロー戦争 北京条約まで

北京に入城するエルギン伯を描いた絵画
北京に入城するエルギン伯を描いた絵画

日本を離れ、1858年9月3日に上海に戻ったエルギン伯は、上海会議において税率改定、内地通過税の限定、アヘン貿易の合法化を内容とする通商章程善後条約を清政府との間に締結した。天津条約で開港された揚子江流域の鎮江九江漢口を視察した後、1859年3月にイギリスへの帰国の途に就いた[16]

帰国後、エルギン伯はパーマストン子爵内閣郵政長官英語版に就任した[19]。また1859年には、秘書のローレンス・オリファントが中国・日本滞在中の記録をまとめた本を出版した(日本の部分のみ『エルギン卿遣日使節録』として日本語訳されている)[20]

ところが、清政府にとって天津条約は英仏連合軍の北京進攻を防ぐための便宜的手段でしかなかったから、その後も条約を守ろうとしなかった。特に公使の北京駐留、内地旅行、内港開港については実行する意思をまるで見せなかった。そのため英仏連合軍は再度武力行使する必要に迫られた[21]

1860年3月8日に英仏両国は清政府に最後通牒を発し、4月にはエルギン伯とグロが再度特命全権使節に任命されて中国に派遣された。この時にはインド反乱も鎮圧されていたためカルカッタから大規模な戦力を集めることができ、7月末までにはイギリス軍1万3000人・艦船70隻、フランス軍7000人・艦船30隻という中国遠征軍が整えられた。英仏連合軍は8月31日には再度大沽砲台を占領。連合軍は8月24日の天津交渉と9月18日の通州交渉をいずれも破談させ、交渉場所を徐々に北京へ近づけていき、ついに北京を無血占領した[22]。この際にエルギン伯はイギリス人捕虜が虐待された報復として円明園を破壊させた。

10月24日に清政府との間に北京条約を調印し、天津条約の批准書を交換した[23]。賠償金増額、新たに天津の開港、九竜半島割譲などを清政府に認めさせた[24]

1861年4月に再びイギリスへ帰国した[19]

インド総督

帰国後一か月もたたないうちにカニングの後任としてインド副王兼総督に任命され、1862年3月にカルカッタに着任した[19]

ジャマイカやカナダの統治と同様にスコットランド啓蒙主義と自由貿易主義を旨としてインド統治に臨んだ。母国スコットランド人の技師をインドに招来し、運河・道路・湾岸・鉄道などインフラ建設を押し進めた[25]。特に鉄道はカルカッタを中心とした鉄道網ネットワークを提唱するなど熱心に取り組んだ[26]。エルギン伯が招来したスコットランド技師たちはインドから中国・日本・オーストラリアニュージーランドにも流れていった[26]

またパンジャーブ州のシク教徒が中国遠征で勇戦したことを考慮してシクを重用する人事を行った[26]

カルカッタの酷暑に耐えられず、1863年2月には避暑地シムラへ移り、9月まで同地に滞在した。その帰途にパンジャーブ州・ダラムシャーラーで心筋梗塞を起こして死去した。もっとも在任期間の短いインド総督だった[18]。爵位は長男のヴィクター・ブルースが継承した[27]

栄典

爵位

1841年11月14日の父トマス・ブルースの死去により以下の爵位を継承した[4][27]

1849年11月13日に以下の爵位を新規に叙される[4][27]

  • エルギンの初代エルギン男爵 (1st Baron Elgin, of Elgin)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

勲章

その他名誉職

家族

1841年4月22日、保守党の庶民院議員チャールズ・カミング=ブルース英語版の娘エリザベス・メアリー・カミング=ブルース(Elizabeth Mary Cumming-Bruce,生年不詳-1843)と最初の結婚をした。彼女との間に以下の娘を儲けた[4][27]

最初の妻エリザベスはエルギン伯がジャマイカ総督として着任した後、ジャマイカにおいて急逝[3]

1846年にホイッグ党急進派の政治家の初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンの娘メアリー・ルイーザ・ラムトン英語版(Lady Mary Louisa Lambton, 生年不詳-1898)と再婚。彼女との間に以下の3男を儲けた[4][27]

出典

  1. ^ "Elgin and Kincardine, James, Earl of. (ELGN861J)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  2. ^ a b 北政巳 2010, p. 3.
  3. ^ a b c d e f 北政巳 2010, p. 4.
  4. ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “James Bruce, 12th Earl of Kincardine” (英語). thepeerage.com. 2019年5月12日閲覧。
  5. ^ a b c d 北政巳 2010, p. 5.
  6. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「連合カナダ植民地」 コトバンク. 2019年5月8日閲覧。
  7. ^ a b 北政巳 2010, p. 6.
  8. ^ a b c 横井勝彦 2004, p. 162.
  9. ^ a b c 横井勝彦 2004, p. 163.
  10. ^ 横井勝彦 2004, p. 164-166.
  11. ^ 横井勝彦 2004, p. 167-169.
  12. ^ 北政巳 2010, p. 7.
  13. ^ 横井勝彦 2004, p. 170.
  14. ^ 横井勝彦 2004, p. 170-171.
  15. ^ 横井勝彦 2004, p. 171.
  16. ^ a b 横井勝彦 2004, p. 172.
  17. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「安政五ヵ国条約」 コトバンク. 2019年5月18日閲覧。
  18. ^ a b 浜渦哲雄 1999, p. 113-114.
  19. ^ a b c 浜渦哲雄 1999, p. 114.
  20. ^ 北政巳 2014, p. 66.
  21. ^ 横井勝彦 2004, p. 172-173.
  22. ^ 横井勝彦 2004, p. 174-175.
  23. ^ 横井勝彦 2004, p. 175.
  24. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「北京条約」 コトバンク. 2019年5月8日閲覧。
  25. ^ 北政巳 2014, p. 67.
  26. ^ a b c 北政巳 2014, p. 68.
  27. ^ a b c d e f g h i j Heraldic Media Limited. “Elgin, Earl of (S, 1633)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年4月21日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
アベル・ロース・ドッティン英語版
ダンカン子爵英語版
サウサンプトン選挙区英語版選出庶民院議員
1841年–1842年
同職:チャールズ・セシル・マーティン英語版
次代
ハンフリー・セント・ジョン=マイルドメイ英語版
ジョージ・ウィリアム・ホープ英語版
公職
先代
第2代コルチェスター男爵英語版
郵政長官英語版
1859年–1860年
次代
アルダリーの第2代スタンリー男爵英語版
官職
先代
サー・チャールズ・メトカーフ準男爵英語版
ジャマイカ総督英語版
1842年 - 1846年
次代
ジョージ・バークリー英語版
先代
第2代キャスカート伯爵英語版
連合カナダ植民地総督英語版
1847年 - 1854年
次代
サー・エドムンド・ウォーカー・ヘッド準男爵英語版
先代
初代カニング伯爵
インド総督
1862年 - 1863年
次代
サー・ロバート・ネイピア英語版
(代理)
名誉職
先代
ジェイムズ・アースキン・ウィームス英語版
ファイフ統監
1854年–1863年
次代
ジェイムズ・ヘイ・アースキン・ウィームス英語版
学職
先代
第2代キャスカート伯爵英語版
キングスカレッジ総長
1847年–1849年
次代
ピーター・ボイル・ド・ブラキエール英語版
(トロント大学総長)
先代
初代リットン男爵
グラスゴー大学学長英語版
1859年1862年
次代
第3代パーマストン子爵
スコットランドの爵位
先代
トマス・ブルース
第8代エルギン伯爵
第12代キンカーディン伯爵

1841年 - 1863年
次代
ヴィクター・ブルース
イギリスの爵位
爵位創設 エルギンの初代エルギン男爵
1849年–1863年
次代
ヴィクター・ブルース