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終戦時、設計図や資料、及び組み立て途中の2、3号機と十数号機までの部品類が海軍の命令で焼却されたが、1号機は蓆田飛行場の格納庫に保管された。のち占領軍の命令により破壊された風防などが復元され(敗戦に憤慨した工員が破壊したといわれている)、さらに飛行させてみよという命令も出たが、これは果たせなかった。1号機は昭和20年10月に船便にてアメリカへ運ばれた。また九州飛行機本社以外の分工場に保管されていた資料類も英訳してアメリカ軍に引き渡された。1号機は[[国立航空宇宙博物館]]の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されていたが、2017年現在は[[:en:Steven F. Udvar-Hazy Center|スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター]](国立航空宇宙博物館別館)で操縦席から前の部分のみが展示されている<ref>取材:[[青木謙知]]「米国立航空宇宙博物館ウドバー・ヘイジー・センターの米日独機」『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』第66巻第3号(2017年3月号) 文林堂</ref><ref>[https://www.sankei.com/life/news/171028/lif1710280009-n1.html 【いまも飛ぶ大戦機】“幻”の「震電」と「橘花」 米国に現存する日独軍決戦兵器(1/2ページ)] - [[産経新聞]]</ref>。 |
終戦時、設計図や資料、及び組み立て途中の2、3号機と十数号機までの部品類が海軍の命令で焼却されたが、1号機は蓆田飛行場の格納庫に保管された。のち占領軍の命令により破壊された風防などが復元され(敗戦に憤慨した工員が破壊したといわれている)、さらに飛行させてみよという命令も出たが、これは果たせなかった。1号機は昭和20年10月に船便にてアメリカへ運ばれた。また九州飛行機本社以外の分工場に保管されていた資料類も英訳してアメリカ軍に引き渡された。1号機は[[国立航空宇宙博物館]]の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されていたが、2017年現在は[[:en:Steven F. Udvar-Hazy Center|スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター]](国立航空宇宙博物館別館)で操縦席から前の部分のみが展示されている<ref>取材:[[青木謙知]]「米国立航空宇宙博物館ウドバー・ヘイジー・センターの米日独機」『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』第66巻第3号(2017年3月号) 文林堂</ref><ref>[https://www.sankei.com/life/news/171028/lif1710280009-n1.html 【いまも飛ぶ大戦機】“幻”の「震電」と「橘花」 米国に現存する日独軍決戦兵器(1/2ページ)] - [[産経新聞]]</ref>。 |
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『* 軍用機開発物語―設計者が語る秘められたプロセス<ref> 土井武夫 著 光人社NF文庫 2007年 ISBN |
『* 軍用機開発物語―設計者が語る秘められたプロセス<ref> 土井武夫 著 光人社NF文庫 2007年 ISBN 978-4769823346</ref>』の表紙には、調査に来たアメリカ軍関係者が震電の前で記念撮影した写真が使われている。 |
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== 登場作品 == |
== 登場作品 == |
2018年9月29日 (土) 00:04時点における版
J7W1 震電
震電(しんでん)は第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。
歴史
研究開発
1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた[1]。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野正敬技術大尉の存在によって、震電の開発が動き出した[2]。
前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した形態の飛行機である。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、前翼自体も揚力を発生させることから(通常機の尾翼は巡航時、揚力をほとんど発生させていない)、主翼をコンパクトにすることが出来、全体的に機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった[注釈 1]。現実にはライトフライヤー号を始め初期の航空機の多くは推進式であったが、プロペラ同調装置が実用化されると戦闘機でのメリットは薄くなり、牽引式が主流となっていた。
初となる前翼型戦闘機の試みであったが、陸軍は1943年に満州飛行機に対し九九式襲撃機の後継機となる推進式を採用したキ98の試作指示を行っていた。ただしキ98は双胴であり空戦より襲撃機(攻撃機)としての能力が重視され、研究機としての性格も強かった。後に試作機整理の対象となり計画は中止された。
当時は各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例として米国のXP-55 アセンダー、イタリアのアンブロシーニ SS.4、英国のマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[注釈 2]。しかし、米国新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[注釈 1]。
1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[注釈 3]。既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向した。
要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避け、アメリカ軍のP-51やP-38と同じく高速性を生かした一撃離脱戦法をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐からも「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野正敬は要求性能をまとめられた[3]。
海軍では1939年頃から雷電の後継機として、ハ43を採用した推進式の局地戦闘機閃電の計画が存在し三菱重工業で開発が行われていた。閃電は最高時速 750 km/h以上、上昇力は高度 8,000 mまで10分、武装は機関銃を30 mm ×1と20 mm×2、爆弾を二個搭載という要求を満たすため、機体形状はサーブ 21のような単発中翼双胴を予定してた。三菱にとって開発経験の無い機体だったことから問題対処に時間がかかってる間に震電の計画に見通しが付いたため、機種整理の対象となり1944年7月に試作中止となった。
試作
1944年(昭和19年)5月、B-29の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[注釈 4]。
1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。開発班は撃墜機を実地見学。
1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。指導により大量生産を考慮した改造図面の作成に着手。
1944年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。
1945年(昭和20年)3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。
1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)
1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。
特徴
最大速度400ノット(約740km/h)以上目標として開発されたため、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型(エンテ型)[4]の設計とするなど、速度性能を追求した設計となった。
実戦での戦術としては、速力を生かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機銃4門を斉射しつつ、護衛の戦闘機を速力で振り切り再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うとされた[注釈 1]。これはドイツ軍のメッサーシュミット Me262がB-17の編隊と護衛のP-51B/Cに対し一定の効果を挙げていた戦術とほぼ同等である。
開発目標が達成されれば当時B-29護衛の主力であったP-51Dの速力(約708 km/h)をも凌駕するため、十分に振り切れると判断された[注釈 5]。(だが、アメリカ軍は1945年11月から計画していたダウンフォール作戦(「日本本土上陸作戦」)において爆撃機の護衛をより高速化したP-51H型(約760km/h)に統一する予定であったため、仮にこの作戦が始まった場合には震電はP-51H型に数値上では最高速度が若干劣ることとなる)
- 推進式プロペラ
- 直径を増さずに高空での大馬力を活かすため、6翅のプロペラが採用された。しかしながら可変ピッチ機構の複雑さから、量産型では直径はそのままにブレード一枚辺りの面積を5割増しにした幅広の4翅プロペラへ変更する予定であった。
- プロペラ飛散装置
- 震電は推進式のため、プロペラは操縦席の後方に位置しており、緊急脱出の際にパイロットがプロペラに巻き込まれる恐れがあった。そこで試作2号機からはハブ内に火薬爆破式の減速機・プロペラ飛散装置を備える予定であった。
- 生産性に対する工夫
- その後の量産化を考慮して、生産性を重視した構造・工法の採用も特徴的であり、以下のような工夫が見られた。
- 3. は彩雲に倣ったものである。彩雲は厚板を採用することで零戦の1/2以下のリベット本数で組み立てられている。
性能諸元に関する計画値は別表に記載する通りである。3回の試飛行ではエンジンは全開にせず、降着装置(脚)を出したままの状態であるが、水平飛行中に最大速度293.5km/hを記録している。しかしプロペラのカウンタートルクを相殺しきれず右に傾いたままの飛行となり、これがまず調整の大きな課題と目された。また機首が下がり気味であったこと、及び油温の上昇なども報告されている。ただし雷電で問題になった延長軸の震動はとりあえず低速では起こらず、横安定の方はきわめて良好であった[5]。
上記の飛行時の安定性に加えて、以下の問題もあった。
- 三本の長大な降着装置、30mm機関砲4門の重武装、長いエンジン延長軸とその先端に配置された減速機と強制冷却ファン、撃ち殻(射撃後の薬莢と装弾子)がプロペラに巻き込まれないよう機内に収納する箱、プロペラ飛散装置、訓練用7.9mm機銃の別装備などのため単発単座戦闘機としては重く、速度、高高度性能など計画値の性能が出たか疑問が残る。
- 構造的に脆弱な長い降着装置、高い離着陸速度[注釈 6]、さらに推進式は主脚車輪のはねた泥、小石などがプロペラに当たる野戦飛行場には向かないため、整備された長大な滑走路が必要であり、実際に運用できる飛行場が限定される可能性が大きい。
- 目標とされた性能は優れた品質管理により信頼性の高いマーリンエンジンを搭載したP-51Dを一部凌駕するものであるが、ハ43は大戦末期の日本の大馬力エンジンに共通する諸問題(主に信頼性)が解決できずにいた[注釈 7]。
- エンジンの冷却は、冷却空気を胴体両サイドから取り入れ、エンジン後方に設置した強制冷却ファンで空気を導く方式だったが、試験飛行では全力を出していないにもかかわらずエンジンの油温が上昇しており、ハ43がカタログ通りの性能を発揮しても冷却が追いつかないことが予想された[注釈 8]。
この他にもMe262で戦果を挙げた爆撃機に対する一撃離脱戦法は、機体特性を熟知し経験も豊富な精鋭パイロットによるものであり、見越し射撃を自動化した新型射撃管制装置を装備したB-29と、無線通話で連携するP-51Dに対しては劣勢を強いられ、ベテランが消耗し未熟な新兵が操縦するようになると被害が増加しているなど、機体のコンセプト自体が資材だけでなく人員も消耗していた当時の日本に向いていたのかは疑問が残る。
諸元
制式名称 | 震電 |
---|---|
機体略号 | J7W1 |
乗員 | 1名 |
全幅 | 11.114m |
全長 | 9.76m |
全高 | 3.55m、3.92m |
主翼面積 | 20.50m² |
翼面荷重 | |
自重 | 3,525kg、3,465kg |
正規全備重量 | 4,950kg |
発動機 | 三菱重工業製 ハ-43-42(MK9D改) 星形複列18気筒 (燃料噴射式・延長軸・強制空冷・フルカン接手過給機) |
出力 | 2130HP 1590kW |
最高速度 | 750km/h 高度8,700m時 |
巡航速度 | 425km/h |
航続距離 | 1000~2000km (装備で変動) |
実用上昇限度 | 12000m |
上昇率 | 750m/min |
最大離陸 | 5,272kg |
離陸滑走距離 | 560m |
着陸滑走距離 | 580m |
武装 | 五式 30mm 固定機銃一型乙(機銃一門あたり弾丸60発携行、発射速度は毎秒6発から9発) ×4 訓練用 7.9mm 固定機銃×2 写真銃×1 |
爆装 | 60kg×4 30 kg×4 |
- 動力:単発、推進式(プッシャ)
- プロペラ:VDM 定速、6翅(量産型では4翅に簡略化予定)
- プロペラ直径:3.40m
- 主翼:低翼、単葉
- 動翼:前翼型式
- 構造:全金属製、応力外皮構造、主翼・層流翼型、前翼・開閉式スロット翼
- 降着装置:引き込み脚、前輪式
ジェット機化
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震電には「震電改」(略符号J7W2)として将来ジェット化する構想があったという説がある[6]。この震電のジェット化構想説の根拠は、元九州飛行機設計部第1設計課副課長清原邦武の航空雑誌への寄稿である。
清原は寄稿で「1944年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。」[7]と証言している。
しかし、その他には震電についてはジェット化を考慮して設計された具体的な記録が見つかっていない。また、震電の動力艤装班主任を務めた西村三男もジェット化の話があったことは認めているが、実現に向けては「具体的には何ら進んでいなかった」とも証言している。搭載予定であった当時試作中のジェットエンジン、ネ130の開発の進行状況も終戦近くにようやく全力試験にとりかかった段階であり、実際に運用できる状況でなかった。
原因として、その前身であるネ20は様々な致命的欠陥[注釈 9]を抱えており、この欠陥の結果設計時全力運転でわずか15時間[注釈 10]と非常に耐久寿命が短い状態であったが、当時震電と並行して開発されていた橘花の試験飛行時でもこの欠陥が露呈しており、解決には向かっていなかったという。この欠陥はネ20のみでなく開発中のネ130にも起こっており、もちろん震電に搭載できる状況では無かった。
更に言えば、戦争末期の日本には最早ジェットエンジンに必要不可欠な耐熱金属を作るための希少金属(ニッケル、クロムなど)がほぼ枯渇しており、よく言われる排気タービンもこの資源不足による耐熱性の高い代替金属の開発が一つの大きな壁となっていた。従って、仮に試作エンジンが完成したとしても量産はほぼ不可能であったと考えられる[8]。
現存する機体
終戦時、設計図や資料、及び組み立て途中の2、3号機と十数号機までの部品類が海軍の命令で焼却されたが、1号機は蓆田飛行場の格納庫に保管された。のち占領軍の命令により破壊された風防などが復元され(敗戦に憤慨した工員が破壊したといわれている)、さらに飛行させてみよという命令も出たが、これは果たせなかった。1号機は昭和20年10月に船便にてアメリカへ運ばれた。また九州飛行機本社以外の分工場に保管されていた資料類も英訳してアメリカ軍に引き渡された。1号機は国立航空宇宙博物館の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されていたが、2017年現在はスティーブン F. ユードバー=ハジー・センター(国立航空宇宙博物館別館)で操縦席から前の部分のみが展示されている[9][10]。
『* 軍用機開発物語―設計者が語る秘められたプロセス[11]』の表紙には、調査に来たアメリカ軍関係者が震電の前で記念撮影した写真が使われている。
登場作品
脚注
注釈
- ^ a b c 九州地方局で放映された対談番組内における鶴野正敬の談話による。
- ^ 実際には、自然界にもシャロヴィプテリクス(Sharovipteryx)という小型飛行爬虫類の古代生物が存在する。また現代のトビイカは完全に前翼型の飛行可能な生物である
- ^ 本人談話によれば、「(グライダーで)30cm浮いたら(試作機開発を)やる」という冗談めいた話も受けていたという。
- ^ 九州地方局で放映された対談番組内における清原邦武の談話による。
- ^ 日本側は1945年2月に運動性能はD型とほぼ同等のC型を鹵獲し試験飛行を行っていた。
- ^ プロペラ後流によって主翼に揚力が発生しないのが大きな理由。
- ^ 同じエンジンを搭載するキ83でも不具合が報告されている。陸軍の疾風などに搭載された誉の設計が実際の生産・使用・整備体制に合わず、カタログどおりの性能が発揮できたものは少ない。
- ^ P-51は機首にエンジンを搭載しており、マーリンエンジンは液冷で2速式2段のスーパーチャージャーには2段目とエンジンの間にアフタークーラーを搭載するなどの対策を施していた。
- ^ タービン翼取付部の熱による膨張、変形に伴うサージング及びディスクの破断、タービン軸受の焼付きなど。ネ20のタービン翼は溶接で取り付けられていた為、この部分から亀裂が入り、タービンブレードの損傷・飛散・出力低下につながったと言う。
- ^ ジェットエンジン生みの親、ホイットルの造った初期のエンジンでさえ500〜700時間の耐久時間があった。
出典
- ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』
- ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫237-241、250-251頁
- ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』550頁、海空会『海鷲の航跡』287頁
- ^ 「先尾翼機」(せんびよくき)という呼び名もされるが、「尾翼は本来、飛行に必要な揚力を生み出しているわけではないので、このような機体形状に対し、尾翼が前にあると言う意味の“先尾翼”という呼び名は適切ではない」(震電開発者の鶴野正敬氏談 文林堂「世界の傑作機」1982年版No.129震電特集号)という意見もある。
- ^ 『異端の空』前翼型戦闘機「震電」渡辺洋二 文春文庫
- ^ 田中勝利・秋本実『大空の覇者 甦る太平洋戦争の日本の軍用機165』(1999年、ISBN 978-4062690584)171頁
- ^ 清原邦武「九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より引用(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4-87357-049-2 p51、初出:酣燈社『航空情報』1955年2月号)。
- ^ 前間孝則『ジェットエンジンに取り憑かれた男』
- ^ 取材:青木謙知「米国立航空宇宙博物館ウドバー・ヘイジー・センターの米日独機」『航空ファン』第66巻第3号(2017年3月号) 文林堂
- ^ 【いまも飛ぶ大戦機】“幻”の「震電」と「橘花」 米国に現存する日独軍決戦兵器(1/2ページ) - 産経新聞
- ^ 土井武夫 著 光人社NF文庫 2007年 ISBN 978-4769823346
参考文献
- 渡辺洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録』(文春文庫、2000年) ISBN 4-16-724909-X
- 前翼型戦闘機「震電」 p277-p331
- 碇義朗 ほか『日本の軍事テクノロジー 技術者たちの太平洋戦争』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4-7698-2323-1
- 碇義朗『究極のレシプロ機「震電」開発物語』 p7-p36
- 野原茂『日本陸海軍試作/計画機 1924~1945』(グリーンアロー出版社、1999年) ISBN 4-7663-3292-X p234-p241
- 九州飛行機『試製震電計画説明書』の全文
- 渡辺洋二『埋もれた蒼穹 個人としての航空戦史』(文春ネスコ、2004年) ISBN 4-89036-199-5
- 第七章 「震電」の周辺 p127-p146 〔初出:文林堂『航空ファン』2003年6月号 No.606 p79-p83〕
- 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む9 日本海軍戦闘機編』(酣燈社、2005年) ISBN 4-87357-158-8 p132-p139
- 鶴野正敬 写真提供、秋本実 解説「本土決戦用/異形の高速局戦「震電」全機影」
- 潮書房『丸』1994年10月号 No.582 p35-p47