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「ベラ湾夜戦」の版間の差分

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|casualties2=魚雷艇1沈没、戦死数不明|
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'''ベラ湾夜戦'''(ベラわんやせん)は、[[太平洋戦争]]中の1943年8月6日、[[ソロモン諸島]][[ベラ湾]]で生起した日本軍とアメリカ軍との間で行われた[[海戦]]である。日本軍の[[コロンバンガラ島]]への輸送部隊がアメリカ軍の攻撃で壊滅した。アメリカ軍側の呼称は'''ヴェラ湾海'''(Battle of Vella Gulf)。なお、ここでは海戦前の7月23日夜および8月1日夜行わたコロンバンガラ島への輸送作戦および[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[駆逐艦]][[天霧 (駆逐艦)|天霧]]と後の[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ジョン・F・ケネディ]]中尉艇長の[[魚雷艇]]「{{仮リンク|PT-109 (魚艇)|label=PT-109|en|Motor Torpedo Boat PT-109}}」との衝突についても簡単に述べる
'''ベラ湾夜戦'''(ベラわんやせん)は、[[太平洋戦争]]中の[[1943年]](昭和18年)[[8月6日]]、[[ソロモン諸島]][[ベラ湾]]で生起した[[海戦]]{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=371|ps=ソロモン駆逐艦戦}}。日本軍の[[コロンバンガラ島]]への輸送部隊がアメリカ軍の水雷邀撃され、日本駆逐艦3隻沈没した{{Sfn|歴群19、水戦隊II|1998|p=149a|ps=〈表4〉昭和18年、中・北部ソロモンの駆逐艦の海戦}}。
アメリカ軍側の呼称は'''ヴェラ湾海戦'''(Battle of Vella Gulf){{Sfn|海軍駆逐隊|2016|pp=196-197|ps=▽ベラ湾海戦(ベラ湾夜戦)}}<ref name="叢書四〇449">[[#叢書40|戦史叢書40巻]]、449-450頁「集成見上大隊の輸送」</ref>。

== 概要 ==
'''ベラ湾夜戦'''は、[[太平洋戦争]]中盤の[[1943年]](昭和18年)8月6日、[[ニュージョージア島の戦い]]において[[ソロモン諸島]]の[[コロンバンガラ島]]と[[ベララベラ島]]近海の[[ベラ湾]]で生起した夜間水上戦闘{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=149b-150|ps=〔ベラ湾夜戦〕}}。コロンバンガラ島の日本軍守備隊を増強するため、第4駆逐隊司令[[杉浦嘉十]]大佐指揮下の[[駆逐艦]]4隻(輸送隊〈[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、物資90トンと陸兵合計約940名分乗〉、警戒隊〈[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]〉)はコロンバンガラ島に向かった{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=86}}([[鼠輸送]]/東京急行){{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=83-84|ps=▽ベラ湾夜戦}}{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=378a-379|ps=ヴェラ湾夜戦}}。
アメリカ海軍は[[フレデリック・ムースブラッガー]]中佐指揮下の駆逐艦6隻で待ち伏せており、[[レーダー]]を活用して夜間奇襲攻撃を敢行する{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=86}}{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=378b|ps=図表(ヴェラ湾夜戦図)}}。日本側駆逐艦3隻(萩風{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=萩風(はぎかぜ)}}、嵐{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93b|ps=嵐(あらし)}}、江風{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=|ps=江風(かわかぜ)}})は一方的に撃沈され{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=206-208|ps=米駆逐隊、完勝}}、時雨のみ生還した{{Sfn|海軍駆逐隊|2016|pp=175-176|ps=▽ベラ湾海戦}}<ref name="叢書三九397">[[#叢書39|戦史叢書39巻]]、397-398頁「ムンダ地区の戦況悪化と陸兵増強の検討」</ref>。夜間水雷戦闘において完敗したことは、日本海軍に大きな衝撃を与えた<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]524-525頁(欄外解説より)</ref>。

なお、本記事では海戦前の7月23日夜および8月1日夜に行われたコロンバンガラ島への輸送作戦および、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]](駆逐艦長[[花見弘平]]少佐){{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=280|ps=天霧(あまぎり)}}と[[ジョン・F・ケネディ]]中尉(後の[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]])が艇長を務めた[[魚雷艇]]「{{仮リンク|PT-109 (魚雷艇)|label=PT-109|en|Motor Torpedo Boat PT-109}}」{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=89|ps=天霧(あまぎり)}}との衝突についても簡単に述べる{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=199}}。


==背景==
==背景==
===7月下旬の輸送作戦===
===7月下旬のソロモン諸島方面輸送作戦===
{{seealso|コロンバンガラ島沖海戦#海戦の後}}
{{seealso|コロンバンガラ島沖海戦#海戦の後}}
6月30日にアメリカ軍は[[レンドバ島]]に上陸し、7月5日には[[ニュージョージア島]]へ上陸した。その過程の中で、7月5日夜に[[クラ湾夜戦]]、7月12日夜には[[コロンバンガラ島沖海戦]]と二つの海戦が生起した。この二つの海戦を経て、日本海軍は[[駆逐艦]][[新月 (駆逐艦)|新月]][[軽巡洋艦]][[神通 (軽巡洋艦)|神通]]を失い、アメリカ海軍は軽巡洋艦[[ヘレナ (軽巡洋艦)|へレナ]] (''USS Helena, CL-50'') を失った他、他の軽巡洋艦が多大なる損害を受けた。二度の海戦で日本艦隊と戦いを交えた第36.1任務群([[ヴォールデン・L・エインスワース]]少将)は戦力が著しく衰退し、ソロモン方面で活動を続けていたもう一つの有力な水上部隊である第36.9任務群([[アーロン・S・メリル]]少将)<ref name="a">{{Cite web|url=http://www.hazegray.org/navhist/denver/logjul43.htm|title=USS DENVER (CL 58) Deck Log and War Diary July 1943|publisher=Naval History Information Center|language=英語|accessdate=2011-07-23}}</ref>は、日本艦隊と会敵する事なく[[エスピリトゥサト]]近で行動していた<ref name="a" />。日本海軍はこの好機に乗じて[[重巡洋艦]]を繰り出してアメリカ艦隊と対決しようとしたが空振りに終わり、夜間爆撃を受けて退却した<ref>『外南洋部隊夜部隊戦斗詳報』C08030047800, pp.30,34,36</ref>。昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、日本海軍はこれ以降コロンバンガラ島への輸送作に使用するルートを[[ベラ湾]]、[[ブラケット海峡|ブラケット水道]]経由に切り替える事を余儀なくされた<ref name="nimitz1">ニミッツ、ポッター, 172ページ</ref>
6月30日にアメリカ軍は[[レンドバ島]]に上陸し<ref>[[#叢書39|戦史叢書39巻]]、365-366頁</ref>、7月5日には[[ニュージョージア島]]へ上陸した<ref>[[#叢書40|戦史叢書40巻]]、274-275頁</ref>。その過程の中で、7月5日夜に[[クラ湾夜戦]]、7月12日夜には[[コロンバンガラ島沖海戦]]と二つの海戦が生起した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=371|ps=ソロモン駆逐艦戦}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=197-198|ps=戦場は中部ソロモン}}。この二つの海戦において、日本海軍は秋月型駆逐艦[[新月 (駆逐艦)|新月]]{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=327|ps=新月(にいづき)}}(クラ湾夜戦、第三水雷戦隊司令官[[秋山輝男]]少将戦死){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=148a|ps=〔クラ湾夜戦〕}}{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=113-116|ps=「クラ湾夜戦」で司令官以下300名戦死}}と軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]](コロンバンガラ島沖海戦、第二水雷戦隊司令官[[伊崎俊二]]少将戦死){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148-149b|ps=〔コロンバンガラ島沖海戦〕}}{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=118-119}}を失い、アメリカ海軍は軽巡洋艦[[ヘレナ (軽巡洋艦)|へレナ]] (''USS Helena, CL-50'') を失った他{{Sfn|海軍駆逐隊|2016|p=195a|ps=▽クラ湾の海戦(クラ湾夜戦/昭和18年7月6日)}}、他の軽巡洋艦が多大なる損害を受けた{{Sfn|海軍駆逐隊|2016|p=195b|ps=▽コロバンガラ沖海戦(コロンバンガラ島沖夜戦/昭和18年7月13日)}}
二度の海戦で日本艦隊と戦いを交えた第36.1任務群([[ヴォールデン・L・エインスワース]]少将)は戦力が著しく衰退し、ソロモン方面で活動を続けていたもう一つの有力な水上部隊である第36.9任務群([[アーロン・S・メリル]]少将)<ref name="a">{{Cite web|url=http://www.hazegray.org/navhist/denver/logjul43.htm|title=USS DENVER (CL 58) Deck Log and War Diary July 1943|publisher=Naval History Information Center|language=英語|accessdate=2011-07-23}}</ref>は、日本艦隊と会敵する事なく[[エスピリトゥサント]]近海で行動していた<ref name="a" />。
日本海軍はこの好機に乗じて重巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、鳥海)と水雷戦隊を繰り出してアメリカ艦隊と対決しようとしたが空振りに終わり{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=172-173}}、夜間爆撃を受けて重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]](第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将)大破・駆逐艦2隻(初春型駆逐艦[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=291|ps=夕暮(ゆうぐれ)}}、夕雲型駆逐艦[[清波 (駆逐艦)|清波]]{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=318|ps=清波(きよなみ)}})沈没という損害を受けてしまった<ref>『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp.30,34,36</ref>{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、486-490頁(1943年7月21日記事)<ref group="注釈">「○五、被害「夕暮」船体切断沈没。「清波」、「夕暮」救助ニ向ヒタルマヽ0230以後消息ナシ。「熊野」艦尾魚雷命中、浸水、舵操舵不能。」</ref>}}。昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、日本海軍はこれ以降コロンバンガラ島への輸送作戦に使用するルートを[[ベラ湾]]、[[ブラケット海峡|ブラケット水道]]経由に切り替える事を余儀なくされた<ref name="nimitz1">ニミッツ、ポッター, 172ページ</ref>。

7月21日には、水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]と陽炎型駆逐艦3隻(第4駆逐隊〈萩風、嵐〉、第17駆逐隊〈[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]〉)が南海第四守備隊と軍需物資(戦車、重砲、弾薬)を満載してラバウルを出撃したが<ref name="叢書四〇319">[[#叢書40|戦史叢書40巻]]、319-321頁「海軍側七月下旬の指導方針」</ref>、ブイン到着直前の7月22日正午頃に大規模空襲を受けて{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=122-123}}、日進は撃沈された{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|pp=190-192|ps=増援部隊に編入さる}}{{Sfn|磯風、特年兵|2011|pp=137-138}}。ラバウル帰投後、第十戦隊所属の第4駆逐隊(駆逐隊司令[[杉浦嘉十]]大佐)は外南洋部隊(指揮官[[鮫島具重]]第八艦隊司令長官)隷下の外南洋部隊増援部隊(指揮官[[伊集院松治]]第三水雷戦隊司令官)に編入され、駆逐艦2隻(萩風、嵐)はソロモン諸島に残った{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|pp=192-193}}。
この頃、日本軍上級部隊(大本営陸軍部・海軍部、連合艦隊、第八方面軍、南東方面艦隊)は、遅くても九月中旬ころには中部ソロモンから撤退するという方針を固めていた<ref>[[#叢書39|戦史叢書39巻]]、392-393頁「南東の実情」</ref>。


アメリカ軍はレンドバ島を占領すると、同島に魚雷艇基地を設営して4個魚雷艇隊計52隻と整備兵などを進出させた<ref name="b">木俣, 344ページ</ref>。魚雷艇隊は一隊あたり15隻で編成され<ref name="b" />、コロンバンガラ島の周囲で「[[鼠輸送|東京急行(鼠輸送)]]」に対する哨戒任務にあたっていた。ルート変更後の日本海軍のコロンバンガラ島輸送作戦は7月23日から再開され、駆逐艦[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]が[[第38師団 (日本軍)|第三十八師団]]([[影佐禎昭]]中将)の陸兵782名と物件56トンなどを搭載して[[ラバウル]]を出撃<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.38,39</ref><ref name="c">『戦史叢書96』254ページ</ref>。魚雷艇の襲撃と夜間触接機の[[照明弾]]投下に遭いながらも輸送任務を完了してラバウルに帰投した<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.39</ref>。この時のルートは[[ベララベラ島]]とその南方の[[ラノンガ島]]間のウィルソン海峡および[[ギゾ|ギゾ海峡]]を通過して、ブラケット水道に面したコロンバンガラ島南西部のアリエルに至るものであった<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.38</ref><ref name="c" /><ref>{{Cite web|url=http://dbs.library.tohoku.ac.jp/gaihozu/ghz-imgl.php?ghzno=TH508999|title=ソロモン諸島 ショワズール島|publisher=東北大学外邦図デジタルアーカイブ|language=日本語|accessdate=2011-07-21}}</ref>。続いて、[[サンタイサベル島]]レカタの[[大日本帝国陸軍|陸軍]]部隊を[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]へ輸送する作戦が7月25日から7月27日にかけて行われ、こちらも被害なく作戦を終えた<ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105800, pp.22</ref>。
一方のアメリカ軍はレンドバ島を占領すると、同島に魚雷艇基地を設営して4個魚雷艇隊計52隻と整備兵などを進出させた<ref name="b">木俣, 344ページ</ref>。魚雷艇隊は一隊あたり15隻で編成され<ref name="b" />、コロンバンガラ島の周囲で「[[鼠輸送|東京急行(鼠輸送)]]」に対する哨戒任務にあたっていた。
ルート変更後の日本海軍のコロンバンガラ島輸送作戦は7月23日から再開され、駆逐艦3隻(陽炎型〈[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]睦月型〈[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]]〉)が[[第38師団 (日本軍)|第三十八師団]]([[影佐禎昭]]中将)の陸兵782名と物件56トンなどを搭載して[[ラバウル]]を出撃する<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.38,39</ref><ref name="c">『戦史叢書96』254ページ</ref>。魚雷艇の襲撃と夜間触接機の[[照明弾]]投下に遭いながらも輸送任務を完了してラバウルに帰投した<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.39</ref>{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、499-500頁(1943年7月24日記事)<ref group="注釈">「○第十六駆逐隊(二三-二二四五)揚陸終了、皈途ニ就ク。一部残リタルモノアリ、調査中。《揚陸地ヲ「アリエル」トシタルタメ、大発二十数隻行動中可能ノモ〔ノ〕十八隻ノミ、「雪風」「三日月」「浜風」ナリ。」</ref>}}。この時のルートは[[ベララベラ島]]とその南方の[[ラノンガ島]]間のウィルソン海峡および[[ギゾ|ギゾ海峡]]を通過して、ブラケット水道に面したコロンバンガラ島南西部のアリエルに至るものであった<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.38</ref><ref name="c" /><ref>{{Cite web|url=http://dbs.library.tohoku.ac.jp/gaihozu/ghz-imgl.php?ghzno=TH508999|title=ソロモン諸島 ショワズール島|publisher=東北大学外邦図デジタルアーカイブ|language=日本語|accessdate=2011-07-21}}</ref>。
続いて、[[サンタイサベル島]]レカタの[[大日本帝国陸軍|陸軍]]部隊を[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]へ輸送する作戦が駆逐艦3隻(萩風、嵐、時雨)により7月25日から7月27日にかけて行われた<ref name="叢書四〇319" />。ラバウルかは人員60名と物件77トンを輸送、帰路は陸軍部隊840名をブインに輸送するという内容である<ref name="叢書四〇319" />。基地航空部隊の掩護あり、被害なく作戦を終えた<ref name="叢書四〇319" /><ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105800, pp.22</ref>。


===天霧とPT-109===
===天霧とPT-109===
{{seealso|ジョン・F・ケネディ#PT109}}
{{seealso|ジョン・F・ケネディ#PT109}}
[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]]([[今村均]]中将)は、レカタからブインに移した陸軍部隊をコロンバンガラ島に進出させる事に決する<ref>『戦史叢書96』250ページ</ref>。また、ブイン配備する[[海軍陸戦隊]]をから輸送する事になった<ref name="d">『戦史叢書96』259ページ</ref>。一連の輸送作戦は、以下の艦艇によって行われた<ref name="e">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.41</ref>。
[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]](司令官[[今村均]]中将)は、レカタからブインに移した陸軍部隊をコロンバンガラ島に進出させる事に決する<ref>『戦史叢書96』250ページ</ref>。また外南洋部隊(指揮官:第八艦隊司令長官[[鮫島具重]]中将)は麾下の外南洋部隊増援部隊(指揮官:第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐)対し、陸軍部隊と[[海軍陸戦隊]]の輸送命じた{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、506頁(1943年7月31日記事)<ref group="注釈">「○外南洋部隊(二八-一八四一)作428号 一、増援部隊指揮官ハ駆逐艦四ヲ以テ左ニ依リ海軍部隊ヲRXP(ブイン)ヘ、又陸軍部隊ヲRWN(コロンンガラ)ヘ輸送ス作戦ヲ実施スベシ。(七-三一-二二〇〇、海軍部隊ヲ ラボール ヨリ駆逐艦三ニヨリ ブイン ヘ、ブイン ヨリ陸軍(第二十三聯隊第三大)ヲ コロンバンガラ ニ輸送ス)」</ref>}}<ref name="d">『戦史叢書96』259ページ</ref>。一連の輸送作戦は、以下の艦艇によって行われた<ref name="e">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.41</ref>。第三水雷戦隊所属の第11駆逐隊は損耗が激しく、作戦可能駆逐艦は天霧1隻という状況であった{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=210}}


*輸送隊:駆逐艦[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[嵐 (駆逐艦)|嵐]][[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]
*輸送隊:指揮官[[杉浦嘉十]]大佐(第4駆逐隊司令萩風座乗)
**輸送隊:指揮官[[杉浦嘉十]]第4駆逐隊司令/第4駆逐隊([[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[嵐 (駆逐艦)|嵐]])、第27駆逐隊([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]])
*警戒隊:駆逐艦天霧
**警戒隊:指揮官[[山代勝守]]第11駆逐隊司令/第11駆逐隊(天霧)


陸戦隊員763名と物件54トンを載せた輸送隊は、7月31日朝にラバウルを出撃した<ref name="e" />。ブインに到着後、陸戦隊と物件を降ろし、代わりに陸海軍人員902名と物件73トンを搭載<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.41,42</ref>。8月1日未明にブインを出撃し、同日ラバウルを出撃した警戒隊の天霧と[[ブカ島]]近海で合流してコロンバンガラ島へ向かう<ref name="d" /><ref name="f">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.42</ref>。輸送隊はベラ湾を通過して魚雷艇の襲撃と夜間爆撃を退けウェブスター入江に入泊して輸送物件全量を揚陸し任務を完了する<ref name="d" /><ref name="f" />。任務を終えた輸送隊は、[[九三八海軍航空|第九三八航空隊]]水上偵察機が発見した敵艦隊を避けるため再びベラ湾を経由し、[[ブーゲンビル島]]東方を経てラバウル帰投した<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.42,43</ref>。天霧はウェブスター入江沖で警戒の後、輸送隊の後を追って速力を上げた。8月2日未明、前方に船影を発見した天霧わずかに蛇行した後、至近になって船影が魚雷艇だと気づくも避け切れず、魚雷艇と衝突して真っ二つにしてしまう。衝突の際小さな爆発か閃光らしいものが上がったが、天霧は艦首と[[スクリュー]]を損傷しただけで済んだ<ref>岩崎, 190ページ</ref><ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.43</ref>。こ魚雷艇が「PT-109」であり、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出され<ref name="g">岩崎, 192、193ページ</ref>。2名が戦死したものの、残り11名ともに近くの小島に漂着の後、一週間後に生還して[[第3(アメリカ軍)|第3艦隊]](南太平洋部隊)司令官[[ウィリアム・ハルゼー]]大将から表彰された<ref name="g" />
陸戦隊員763名と物件54トンを載せた輸送隊3隻(萩風〔第4駆逐隊司令杉浦大佐〕、嵐、時雨〔第27駆逐隊司令[[原為一]]大佐〕)は、7月31日朝にラバウルを出撃した<ref name="e" />。ブインに到着後、陸戦隊と物件を降ろし、代わりに陸海軍人員902名と物件73トンを搭載する<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.41,42</ref>。8月1日未明にブインを出撃し、同日ラバウルを出撃して追いかけてきた警戒隊の吹雪型駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]](第11駆逐隊司令山代大佐、天霧駆逐艦長[[花見弘平]]少佐){{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=210}}、[[ブカ島]]近海で合流してコロンバンガラ島へ向かう<ref name="d" /><ref name="f">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.42</ref>。山代(当時、第11駆逐司令)回想よれば、輸送隊は萩風〔旗艦〕・嵐・時雨・天霧の単縦陣であたという{{Sfn|長たち(続篇)|1984|p=211}}

杉浦大佐指揮下の輸送隊部隊はベラ湾を通過して魚雷艇の襲撃(山代大佐によれば、岩礁の誤認){{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=212}}と夜間爆撃を退け、ウェブスター入江に入泊して揚陸を開始した。警戒隊の天霧は分離して、周囲を警戒した{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=212}}。輸送隊は、輸送物件全量を揚陸し任務を完了する<ref name="d" /><ref name="f" />。任務を終えた輸送隊は、[[第九三八海軍航空隊|第九三八航空隊]]の水上偵察機が発見した敵艦隊を避けるため再びベラ湾を経由し、[[ブーゲンビル島]]東方を経てラバウルに帰投した<ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.42,43</ref>。天霧はウェブスター入江沖で警戒の後、輸送隊の後を追って速力を上げた{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=212}}。8月2日未明、天霧は米軍の魚雷艇(PT-109)と遭遇し、衝突して魚雷艇を真っ二つにしてしまう{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|pp=215-216}}。花見艦長は「意図的に体当たりを命じた」と回想するが{{Sfn|完本太平洋戦争、上|1991|pp=355-356|ps=前進全速、体当たりだ}}、山代司令は「花見艦長に回避を命じたが手違いがあり、避けきれずに衝突した」と回想する{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|pp=215-216}}。衝突の際小さな爆発か閃光らしいものが上がったが、天霧は艦首と[[スクリュー]]を損傷しただけで済んだ<ref>岩崎, 190ページ</ref><ref>『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.43</ref>。この魚雷艇が[[ジョン・F・ケネディ]]中尉が艇長を務める「PT-109」であり{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|pp=213-214|ps=ケネディ艇の出現}}{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|pp=194-195|ps=敵魚雷艇を踏みつぶす}}、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された<ref name="g">岩崎, 192、193ページ</ref>{{Sfn|完本太平洋戦争、上|1991|pp=356-358}}。2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後{{Sfn|完本太平洋戦争、上|1991|pp=356-358}}、一週間後に救助された{{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=216-217|ps=粉砕された「PT一〇九号艇」}}([[コースト・ウォッチャーズ]])。[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]](南太平洋部隊)司令官[[ウィリアム・ハルゼー]]大将から表彰された<ref name="g" />{{Sfn|完本太平洋戦争、上|1991|pp=358-359}}。


===アメリカ軍の新戦術===
===アメリカ軍の新戦術===
PT-109とともに行動していた魚雷艇は、どこかへ逃げ去ったり天霧の背後から魚雷を発射したものの命中しなかった<ref name="g" /><ref>木俣, 347ページ</ref>。この戦闘を含めてコロンバンガラ島方面の魚雷艇隊の行動は芳しくなく、連携して攻撃する事もなかった<ref>木俣, 345ページ</ref>。魚雷艇隊は[[大発動艇|大発]]1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害にはなっていなかった<ref name="nimitz1" />。そこで、第三水陸両用部隊司令官[[セオドア・S・ウィルキンソン]]少将は新しい交通遮断の手段として駆逐艦群を投入することになった<ref name="nimitz1" />。しかし、前述のように第36.1任務群は戦力が衰微し、第36.9任務群は遠方にいた。そのため、ウィルキンソン少将が交通遮断のために投入できた戦力は、第31.2任務群の駆逐艦6隻だけだった<ref name="nimitz1" />。
PT-109とともに行動していた魚雷艇は、どこかへ逃げ去ったり天霧の背後から魚雷を発射したものの命中しなかった<ref name="g" /><ref>木俣, 347ページ</ref>。この戦闘を含めてコロンバンガラ島方面の魚雷艇隊の行動は芳しくなく、連携して攻撃する事もなかった<ref>木俣, 345ページ</ref>。魚雷艇隊は[[大発動艇|大発]]1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害にはなっていなかった<ref name="nimitz1" />。そこで、第三水陸両用部隊司令官[[セオドア・S・ウィルキンソン]]少将は新しい交通遮断の手段として駆逐艦群を投入することになった<ref name="nimitz1" />。しかし、前述のように第36.1任務群は戦力が衰微し、第36.9任務群は遠方にいた。そのため、ウィルキンソン少将が交通遮断のために投入できた戦力は、第31.2任務群の駆逐艦6隻だけだった<ref name="nimitz1" />。


第31.2任務群司令[[アーレイ・バーク]]大佐は、かねてから駆逐艦だけで効果的に行える戦術を研究し、その参考資料をはるか昔の[[ポエニ戦争]]に求めていた<ref name="nimitz1" />。
第31.2任務群司令[[アーレイ・バーク]]大佐は、かねてから駆逐艦だけで効果的に行える戦術を研究し、その参考資料をはるか昔の[[ポエニ戦争]]に求めていた<ref name="nimitz1" />{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=200-201|ps=二人の海軍中佐}}


{{Quotation|特に[[スキピオ・アフリカヌス|シピオウ・アフリケイナス]]の戦法は、その実施が合理的で、簡単で、しかも海軍の使用に適合するものとして、私の関心をひいた。この計画は、次ぎ次ぎと奇襲によって敵に攻撃を加えるというところに、その基礎をおいている。これは、二つの駆逐隊が、並行する隊形で航進するように配置することによって達成される。一つの駆逐隊は、夜暗に乗じて敵に近迫、魚雷発射後に避退する。魚雷が命中し、敵が避退する前記駆逐隊に砲撃を開始したならば、第二の駆逐隊は、突如として他の方面から攻撃に移る。混乱した敵がこの新たな予期しなかった攻撃に目を向けたとき、最初の駆逐隊は再び攻撃に転ずる。むろん、ソロモン諸島方面は、多くの島が、第二の駆逐隊に対する敵のレーダーの探知を妨げるのに役立つので、この種の戦法は理想的なものであった。|アーレイ・バーク|[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』172、173ページ}}
{{Quotation|特に[[スキピオ・アフリカヌス|シピオウ・アフリケイナス]]の戦法は、その実施が合理的で、簡単で、しかも海軍の使用に適合するものとして、私の関心をひいた。この計画は、次ぎ次ぎと奇襲によって敵に攻撃を加えるというところに、その基礎をおいている。これは、二つの駆逐隊が、並行する隊形で航進するように配置することによって達成される。一つの駆逐隊は、夜暗に乗じて敵に近迫、魚雷発射後に避退する。魚雷が命中し、敵が避退する前記駆逐隊に砲撃を開始したならば、第二の駆逐隊は、突如として他の方面から攻撃に移る。混乱した敵がこの新たな予期しなかった攻撃に目を向けたとき、最初の駆逐隊は再び攻撃に転ずる。むろん、ソロモン諸島方面は、多くの島が、第二の駆逐隊に対する敵のレーダーの探知を妨げるのに役立つので、この種の戦法は理想的なものであった。|アーレイ・バーク|[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』172、173ページ}}


しかし、バーク大佐はこの新戦術を引っさげて出撃する前に、上級指揮官として転出して第31.2任務群から離れる事になった<ref name="nimitz2">ニミッツ、ポッター, 173ページ</ref>。後任の[[フレデリック・ムースブラッガー|フレデリック・ムースブルッガー]]<ref>ムースブラッガー(『戦史叢書96』261ページ)、モースブラッガー(ニミッツ、ポッター, 173ページ)、モースブリューガー(ポッター, 370、371ページ)、ムースブルーガー(木俣, 349ページ)とも</ref>中佐はバーク大佐の戦術を忠実に継承して戦場に臨む事となった<ref name="nimitz2" />。
しかし、バーク大佐はこの新戦術を引っさげて出撃する前に、上級指揮官として転出して第31.2任務群から離れる事になった<ref name="nimitz2">ニミッツ、ポッター, 173ページ</ref>。後任の[[フレデリック・ムースブラッガー|フレデリック・ムースブルッガー]]<ref>ムースブラッガー(『戦史叢書96』261ページ)、モースブラッガー(ニミッツ、ポッター, 173ページ)、モースブリューガー(ポッター, 370、371ページ)、ムースブルーガー(木俣, 349ページ)とも</ref>中佐はバーク大佐の戦術を忠実に継承して戦場に臨む事となった<ref name="nimitz2" />{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=87}}


===ニュージョージア島方面の戦況===
===ニュージョージア島方面の戦況===
[[File:NewGeorgiaGroupCloseup.png|thumb|ソロモン諸島の地図。ベラ湾は左側のコロンバンガラ島とベララベラ島の間にある]]
[[File:NewGeorgiaGroupCloseup.png|thumb|ソロモン諸島の地図。ベラ湾は左側のコロンバンガラ島とベララベラ島の間にある]]
{{seealso|ニュージョージア島の戦い}}
{{seealso|ニュージョージア島の戦い}}
ニュージョージア島の戦況は一進一退の様相を示していたが、アメリカ軍は8月3日にはムンダ飛行場を占領した。これにより、隣接するコロンバンガラ島{{仮リンク|ヴィラ (ソロモン諸島)|en|Vila, Solomon Islands}}にある日本軍飛行場は無力化されることになる。日本軍はヴィラを中心に約12,400名の陸兵を駐屯させていたが、ムンダ飛行場が制圧された現況では、その行く末も芳しくない事が予期された。第八方面軍はコロンバンガラ島のさらなる防衛強化のため[[第6師団 (日本軍)|第六師団]]([[神田正種]]中将)から六個中隊からなるコロンバンガラ島向けの増援部隊と、残る二個中隊からなるブイン向けの残留部隊をラバウルから送ることにした<ref name="gg">『戦史叢書96』260ページ</ref>。
ニュージョージア島の戦況は一進一退の様相を示していたが、アメリカ軍は8月3日にはムンダ飛行場を占領した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=126-127}}。これにより、隣接するコロンバンガラ島{{仮リンク|ヴィラ (ソロモン諸島)|en|Vila, Solomon Islands}}にある日本軍飛行場は無力化されることになる{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=86}}。日本軍はヴィラを中心に約2,400名の陸兵を駐屯させていたが、ムンダ飛行場が制圧された現況では、その行く末も芳しくない事が予期された。コロンバンガラ島の日本軍第一線兵力は陸軍1400名・海軍600名に減少し、重火器もなく、完全に追い込まれていた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=126-127}}。第八方面軍はコロンバンガラ島のさらなる防衛強化のため補充兵約1200名の増援を決定する(剛方作命甲第407号)<ref name="叢書四〇449" />。[[第6師団 (日本軍)|第六師団]](司令官[[神田正種]]中将)から六個中隊からなるコロンバンガラ島向けの増援部隊と<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.28(SNB機密第〇七〇九四八番電)</ref>、残る二個中隊からなるブイン向けの残留部隊をラバウルから送ることにした<ref name="gg">『戦史叢書96』260ページ</ref>。


輸送作戦は8月1日のコロンバンガラ輸送作戦とほぼ同じ顔ぶれで実施される事となったが、修理を必要とする天霧(三水戦、第11駆逐隊){{Sfn|艦長たち(続篇)|1984|p=218}}の代艦として時雨(二水戦、第27駆逐隊)が警戒隊にまわり<ref>木俣, 348ページ</ref>、代わって輸送隊には駆逐艦江風(二水戦、第24駆逐隊)が加入した{{Sfn|原為一|2011|p=97}}{{refnest|[[#S1806二水戦日誌(2)]]pp.5-6<ref group="注釈">「(三)第二十四驅逐隊(涼風、海風略)江風 NTBニ編入中ニシテ前月三十日「トラツク」發今月一日「ラバウル」着爾後同方面作戰行動中ノ處八月六日夜4dg(杯風、嵐)、27dg(時雨)ト共ニ陸兵「コロンバンガラ」輸送任務中敵巡洋艦二以上驅逐艦三及飛行機、魚雷艇多數ノ包囲攻撃ヲ受ケ4dg(萩風、嵐)ト共ニ「コロンバンガラ」島「シヨルダーヒル」ノ三一〇度十九浬附近ニテ遭難沈没ス」</ref>}}。
輸送作戦は8月1日の輸送作戦とほぼ同じ顔ぶれで実施される事となったが、時雨が天霧の代わりに警戒隊にまわり、代わって輸送隊には[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]が加入した<ref>木俣, 348ページ</ref>。これとは別に、第三水雷戦隊旗艦の軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]が司令官[[伊集院松治]]大佐直率の下、ブインへの輸送作戦に任じる事になった<ref name="h">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.44</ref>。
第三水雷戦隊旗艦の軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]が司令官[[伊集院松治]]大佐直率の下、ブインへの輸送作戦に任じる事になった{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=196}}<ref name="h">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.44</ref>。杉浦司令は「コロンバンガラ輸送は敵の予期するところで危険が大きい。ベララベラ島に輸送して、そこからは[[大発動艇]]や海上トラックに切り替えるべき」「途中迄でも川内のような大艦が同行するのは、敵の警戒を増やすだけだ」として反対したが、上級部隊(南東方面艦隊、第八艦隊)の意向を受けた第三水雷戦隊司令部は却下している{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=197}}。作戦実施に際し、第三水雷戦隊司令部の先任参謀[[二反田三郎]]中佐が、萩風に乗艦した{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=199}}。


==参加艦艇==
==参加艦艇==
===日本海軍===
===日本海軍===
*ブイン輸送隊:軽巡洋艦川内<ref name="h" />
*ブイン輸送隊:軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐) 陸軍兵約300名と物件27トン、海軍兵74名と物件70トン<ref name="S1806二水戦(2)30a">[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.30(ZOB戰闘概報第六號)</ref>
*コロンバンガラ輸送隊:駆逐艦萩風、嵐、江風<ref name="h" />
*コロンバンガラ輸送隊:指揮官[[杉浦嘉十]]大佐/第4駆逐隊司令
**輸送隊:第4駆逐隊司令[[杉浦嘉十]]大佐(萩風座乗)、第4駆逐隊(萩風、嵐)、第24駆逐隊(白露型駆逐艦[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]])<ref name="h" />
*警戒隊:駆逐艦時雨<ref name="h" />
**警戒隊:第27駆逐隊司令[[原為一]]大佐:白露型駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]<ref name="h" />
*日本陸軍:指揮官 見上喜三郎大尉<ref name="叢書四〇449" /> 八コ中隊(各中隊、大隊砲1・迫撃砲各1、機関銃2、軽機9、重擲12)
**第一~第四中隊:歩兵第13聯隊配属予定(第四中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定)
**第五~第八中隊:歩兵第229聯隊配属予定(第八中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定)


===アメリカ海軍===
===アメリカ海軍===
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==戦闘経過==
==戦闘経過==
8月6日0時30分、5隻(川内〔第三水雷戦隊司令官、伊集院大佐〕、萩風〔第4駆逐隊司令、杉浦嘉十大佐〕、嵐、江風、時雨〔第27駆逐隊司令、原為一大佐〕)はラバウルを出撃した<ref name="j">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.45</ref>。偽装航路を取ったのち{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=198}}、ブーゲンビル島東方を南下した後の午前9時30分、[[ブカ島]]近海で川内と駆逐艦は解列した<ref name="S1806二水戦(2)30a" />{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=200}}。川内はブインへ、コロンバンガラ輸送隊(輸送隊〈萩風、嵐、江風〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島へと向かう<ref name="j" />。日本側の上空直衛は天候不良のため取止めとなったが、米軍側は大型爆撃機でコロンバンガラ輸送隊を発見している{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=200}}。
8月6日0時30分、輸送隊と警戒隊はラバウルを出撃した<ref name="j">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.45</ref>。ブーゲンビル島東方を南下した後の9時30分にブイン輸送隊の川内はブインへ、コロンバンガラ輸送隊と警戒隊の「時雨」はコロンバンガラ島へと向かう<ref name="j" />。輸送隊と警戒隊は単縦陣で30ノットの速力を持ってベラ湾に入る<ref name="k">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.46</ref>。四番艦「時雨」は敵艦隊の出現を予期して、三番艦との距離を1,000メートルに開き、砲の照準を5,000メートルに、魚雷の深度を2メートルに、射角を20度に設定した<ref >[[帝国海軍の最後]]98ページ</ref>。一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け<ref name="nimitz3">ニミッツ、ポッター, 174ページ</ref>、9時30分に[[ツラギ島]]を出撃する<ref name="l">木俣, 350ページ</ref>。コロンバンガラ島の南西方からベラ湾に入り、探知と発見を避けるためにコロンバンガラ島西部の海岸ぎりぎりに航行する<ref name="nimitz3" />。やがて第12駆逐群は北上して速力を15ノットに落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した<ref name="l" />。ムースブルッガー中佐は、[[ルンガ沖夜戦]]やクラ湾夜戦、魚雷艇隊の夜間襲撃における味方の失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないように発砲制限を徹底させた他、魚雷発射管には光除けのカバーを装着させていた<ref name="l" />。


夕刻、輸送隊と警戒隊は単縦陣(萩風〔旗艦〕、嵐、江風、時雨)を形成した{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=201}}。30ノットの速力を持ってベラ湾に入る<ref name="k">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.46</ref>。単縦陣の最後尾(四番艦)を航行していた「時雨」は敵艦隊の出現を予期して、三番艦との距離を1,000メートルに開き、砲の照準を5,000メートルに、魚雷の深度を2メートルに、射角を20度に設定した{{Sfn|原為一|2011|p=98}}。時雨(第27駆逐隊)の報告によれば、当日の天候は曇り、視界5000~8000mで、東方は特に視界不良だったという<ref name="S1806二水戦(2)30b">[[#S1806二水戦日誌(2)]]pp.30-33(27dg機密第071829番電、27dg戰闘概報)</ref>。
21時33分、ダンラップのレーダーはコロンバンガラ輸送隊を探知する<ref name="l" />。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射を命じる<ref name="m">木俣, 351ページ</ref>。同時に第15駆逐群に西方への移動を命じ、コロンバンガラ輸送隊に対して[[丁字戦法]]の態勢をとらせた<ref name="nimitz3" />。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷を発射した後、[[面舵]]に針路をとって姿を消した<ref name="m" />。コロンバンガラ輸送隊は310度19海里の方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが<ref name="k" />、その刹那、第12駆逐群から発射された魚雷が襲ってくる。魚雷は萩風、嵐、江風にそれぞれ2本以上命中し<ref name="k" />、江風は轟沈して萩風と嵐は航行不能に陥った<ref name="k" />。コロンバンガラ輸送隊が雷撃により立ち往生するのを確認した第15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く<ref name="nimitz3" />。集中砲火を浴びせかけられた萩風と嵐は沈没した<ref name="k" />。萩風、嵐、江風が爆発する様子はまるで「[[花火|仕掛け花火]]のような壮観さ」であり<ref name="nimitz3" />、また、コロンバンガラ島を隔てた[[クラ湾]]で行動していた魚雷艇員の回想では「火山の爆発」を思わせるようなものであったという<ref name="nimitz3" />。第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本は輸送隊の後方にいた時雨にも向かい、1本が舵に命中して穴を開けたものの爆発しなかった<ref name="aa" />。やがて面舵に転舵し、魚雷を8本発射して一旦退却<ref name="gg" />。次発装填後戦場に戻ってきたが様相我に利あらずとして避退した<ref name="gg" />。帰途、ブイン輸送を終えた川内と合流した後、8月7日14時30分にラバウルに帰投した<ref name="n">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.47</ref>。


一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け<ref name="nimitz3">ニミッツ、ポッター, 174ページ</ref>、9時30分に[[ツラギ島]]を出撃する<ref name="l">木俣, 350ページ</ref>。コロンバンガラ島の南西方からベラ湾に入り、探知と発見を避けるためにコロンバンガラ島西部の海岸ぎりぎりに航行する<ref name="nimitz3" />。やがて第12駆逐群は北上して速力を15ノットに落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した<ref name="l" />。ムースブルッガー中佐は、[[ルンガ沖夜戦]]やクラ湾夜戦、魚雷艇隊の夜間襲撃における味方の失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないように発砲制限を徹底させた他、魚雷発射管には光除けのカバーを装着させていた<ref name="l" />{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=202}}。
萩風と嵐の乗員はともに178名が、江風の乗員は169名が戦死した<ref name="aa" />。輸送隊を指揮した第四駆逐隊司令[[杉浦嘉十]]大佐と萩風の艦長の馬越正博少佐はベララベラ島へたどり着いた後生還したが、嵐の艦長の杉岡幸七中佐はベララベラ島へ向かう途中に溺死した<ref name="m" />。江風の艦長の柳瀬善雄少佐も戦死した。また、コロンバンガラ輸送隊が乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して<ref name="gg" />、輸送は完全な失敗に終わった。時雨は反撃により駆逐艦1隻大破を報じたものの<ref name="n" />、第31.2任務群に全く被害はなかった<ref name="nimitz3" />。増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛を事実上放棄してコロンバンガラ島の防衛強化に重点を置くよう命令した<ref>『戦史叢書96』256、257ページ</ref>。
21時33分、ダンラップのレーダーはコロンバンガラ輸送隊を探知する<ref name="l" />。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射を命じる<ref name="m">木俣, 351ページ</ref>。同時に第15駆逐群に西方への移動を命じ、コロンバンガラ輸送隊に対して[[丁字戦法]]の態勢をとらせた<ref name="nimitz3" />。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷を発射した後、[[面舵]]に針路をとって姿を消した{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=204-205}}。

コロンバンガラ輸送隊は310度19海里の方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが<ref name="S1806二水戦(2)30b" /><ref name="k" />、その刹那、第12駆逐群から発射された魚雷が襲ってくる。魚雷は萩風、嵐、江風にそれぞれ2本以上命中し<ref name="k" />{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=206}}、江風は轟沈して{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=210}}、萩風と嵐は航行不能に陥った{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=204-205}}{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=88}}。コロンバンガラ輸送隊が雷撃により立ち往生するのを確認した第15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く<ref name="nimitz3" />。集中砲火を浴びせかけられた萩風と嵐は、まもなく沈没した{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=206-208|ps=米駆逐隊、完勝}}。日本側3隻(萩風、嵐、江風)が爆発する様子はまるで「[[花火|仕掛け花火]]のような壮観さ」であり<ref name="nimitz3" />、また、コロンバンガラ島を隔てた[[クラ湾]]で行動していた魚雷艇員の回想では「火山の爆発」を思わせるようなものであったという<ref name="nimitz3" />。

時雨はアメリカ側駆逐艦を発見後、面舵に転舵して魚雷を発射したが{{Sfn|原為一|2011|pp=100-101}}、命中した魚雷はなかった{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=88}}。その時雨にも、第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本が到達し{{Sfn|原為一|2011|pp=100-101}}、2本は艦底を通過していった<ref name="S1806二水戦(2)30b" />。また魚雷1本が舵に命中して穴を開けたものの爆発しなかった<ref name="aa" />{{Sfn|原為一|2011|p=103}}。魚雷を8本発射した時雨は、煙幕を展開して一旦退却した<ref name="S1806二水戦(2)30b" />{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=204|ps=図表(ベラ湾海戦図)}}。約30分後、次発装填後に戦場に戻ってきたものの「状況極めて不利」と判断し、避退した<ref name="S1806二水戦(2)30b" />{{Sfn|原為一|2011|p=102}}。モースブラッガー中佐指揮下の米駆逐艦3隻は時雨を追跡したが逃げ切られ{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=204|ps=図表(ベラ湾海戦図)}}{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=212}}、ベラ湾に戻ると6隻で45分間にわたり日本軍生存者の救助をおこなった{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=207}}。逃げ切った時雨はブイン輸送を終えた川内(6日21時30分ブイン着、7日00時30分出発)と[[8月7日]]午前8時ころ合流した後、14時30分にラバウルに帰投した<ref name="S1806二水戦(2)30a" /><ref name="n">『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.47</ref>。

アメリカ側は駆逐艦6隻で魚雷合計34本を発射し、推定6~8本が命中した{{Sfn|海軍駆逐隊|2016|pp=175-176|ps=▽ベラ湾海戦}}。
日本側生存者は、萩風と嵐が各70名・江風約40名{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=210}}(合計約190名)、陸兵約120名であった{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、559-560頁(1943年8月28日記事、その1)<ref group="注釈">「○第四駆逐隊(二七-〇八三七)(戦闘経過略)八月二十四日迄ニ判明セシ人員被害 三艦ノ生存者合計、海190、陸120。」</ref>}}。
萩風と嵐の乗員はともに178名(嵐水雷長によれば182名戦死){{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=210}}が、江風の乗員は169名が戦死した<ref name="aa" />{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=207}}。輸送隊を指揮した第4駆逐隊司令[[杉浦嘉十]]大佐と萩風駆逐艦長の馬越正博少佐はベララベラ島へたどりつけたが{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=207}}、嵐駆逐艦長の杉岡幸七中佐はベララベラ島へ向かう途中に溺死した<ref name="m" />{{Sfn|原為一|2011|p=103}}。江風駆逐艦長の柳瀬善雄少佐も戦死した{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=210}}。また、コロンバンガラ輸送隊が乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して<ref name="gg" />{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=208}}、輸送は完全な失敗に終わった{{Sfn|写真太平洋戦争6巻|1995|p=88}}。
時雨は「駆逐艦3隻、魚雷艇、飛行機の包囲攻撃を受けた」と報告する{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]524頁(1943年8月7日記事)<ref group="注釈">「○第二十七駆逐隊(〇六-二二三二)二二〇〇QHF〔ベラ海湾〕海面ニテ敵駆逐艦三、魚雷艇、飛行機ノ包囲攻撃ヲ受ケ、「嵐」「江風」魚雷命中、火災。敵駆逐艦ニ雷撃セシモ効果不明。戦場ヲ一時避退ス。」</ref>}}。また反撃により駆逐艦1隻大破を報じ{{Sfn|原為一|2011|p=102}}<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.6「(四)第二十七驅逐隊 時雨 引續キNTBニ在リ同方面作戰中ニシテ六日4dg(萩風、嵐)江風ト共ニ「コロンバンガラ」輸送任務ニテ敵巡二以上驅逐艦三及飛行機魚雷艇多數ト交戰驅逐艦一ニ魚雷一本命中大破セシム」</ref>、日本側の[[大本営発表]]では「飛行機、魚雷艇と協同する敵水雷戦隊と交戦し駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」とする{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=211|ps=夜戦の真相}}。ただし、第31.2任務群に全く被害はなかった<ref name="nimitz3" />。

増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛を事実上放棄してコロンバンガラ島の防衛強化に重点を置くよう命令した<ref>[[#叢書40|戦史叢書40巻]]、450-452頁「重点コロンバンガラへ移る」</ref><ref>『戦史叢書96』256、257ページ</ref>。日本側生存者が[[大発動艇]]などでブインに到着したのは、8月25日であったという{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=210}}。第4駆逐隊司令から報告を受けた大本営は、連合軍のレーダー活用、優秀駆逐艦のかわりに輸送作戦に投入する高速輸送艦の開発を認識している{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、560頁(1943年8月28日記事、その2)<ref group="注釈">「○所見 (イ)敵ハ「コロンバンガラ」島ヲ背景トシ、狭視界巧ミニ接敵発射、雷撃効果ヲ確メ砲撃セルモノニシテ、早クヨリ電探ヲ使用シ、魚雷戦準備ヲナセルコト確実ナリ。電探、逆探装備ヲ要ス。優秀駆逐艦ヲ輸送作戦ニ使用セズ、優速輸送船ヲツクルコト。砲、人力旋回力ヲ強化スルコト。」</ref>}}。
[[キスカ島撤退作戦]]を終えて瀬戸内海に帰投していた島風型駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.6「(五)島風 HPBニ編入同方面作戰(「ケ」號作戰)ニ從事中ノ處AdBニ復歸(十五日以降YB)幌筵海峡發六日桂島着 九月上旬迄豫定(判読不能)内海西部ニ於テ訓練(研究發射電探射撃其ノ他)及入渠修理等ヲ實施ス」</ref>(第二水雷戦隊所属)も<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.10『(ホ)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>、僚艦と共に電探射撃の研究実施<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.36『二十一(天候略)響32dg〇六三〇出港引続キ出撃準備横須賀ニ向フ|響32dg魚雷発射/島風研究発射側方警戒敵潜掃蕩』</ref>、次期作戦に備えた<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.56『二二日〇三二八軍務局長教育局長(宛略)軍務機密第二一一八四三番電』</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]pp.64-65『二四日一九五五(長官)2F(宛略)2F電令第一二號(略) (イ)主要研究項目 電波探信儀ヲ全幅利用スル驅逐艦射撃及發射』</ref>。。


==海戦の意義==
==海戦の意義==
{{Quotation|ヴェラ湾海戦は、戦術的な集中というものは、部隊が分離して行動しても相互に支援する場合には、これが達成できることを示した適例である。ついにアメリカは、日本の得意とする夜戦において、彼らにまさる戦法を編み出したのである。|[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』174ページ}}
{{Quotation|ヴェラ湾海戦は、戦術的な集中というものは、部隊が分離して行動しても相互に支援する場合には、これが達成できることを示した適例である。ついにアメリカは、日本の得意とする夜戦において、彼らにまさる戦法を編み出したのである。|[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』174ページ}}


ちょうど1年前に起こった1942年8月8日夜から9日未明に生起した[[第一次ソロモン海戦]]以降、1943年3月5日から6日の[[ビラ・スタンモーア夜戦]]を別にすると、日本艦隊に多大な損害を与えながらも、アメリカ艦隊もまた少なからぬ損害を蒙っていた。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦でのエインスワース少将の戦いぶりは進歩の跡を少しは見せていたとはいえ、日本海軍の夜戦の技術とは未だに隔たりがあるとみられていた<ref>ニミッツ、ポッター, 165、170、171ページ</ref>。ベラ湾夜戦の意義はまさに、この[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]の後年の回顧に表されている。ニミッツ元帥はまた、ベラ湾の勝者ムースブルッガー中佐とベラ湾夜戦での戦術を立案したバーク大佐、そしてビラ・スタンモーア夜戦と後の[[ブーゲンビル島沖海戦]]の勝者メリル少将を「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人たち」と評している<ref>ニミッツ、ポッター, 165、166ページ</ref>。ハルゼー大将もベラ湾での勝利を喜び、戦闘の詳細を手記にする手配すら行っている<ref>ポッター, 371ページ</ref>。
ちょうど1年前に起こった1942年8月8日夜から9日未明に生起した[[第一次ソロモン海戦]]以降、1943年3月5日から6日の[[ビラ・スタンモーア夜戦]]を別にすると{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=148c|ps=〔ビラ・スタンモーア夜戦〕}}、日本艦隊に多大な損害を与えながらも、アメリカ艦隊もまた少なからぬ損害を蒙っていた。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦でのエインスワース少将の戦いぶりは進歩の跡を少しは見せていたとはいえ、日本海軍の夜戦の技術とは未だに隔たりがあるとみられていた<ref>ニミッツ、ポッター, 165、170、171ページ</ref>。ベラ湾夜戦の意義はまさに、この[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]の後年の回顧に表されている。ニミッツ元帥はまた、ベラ湾の勝者ムースブルッガー中佐とベラ湾夜戦での戦術を立案したバーク大佐、そしてビラ・スタンモーア夜戦と後の[[ブーゲンビル島沖海戦]]の勝者メリル少将を「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人たち」と評している<ref>ニミッツ、ポッター, 165、166ページ</ref>。ハルゼー大将もベラ湾での勝利を喜び、戦闘の詳細を手記にする手配すら行っている<ref>ポッター, 371ページ</ref>。


なおバーク大佐は、[[ソロモン諸島の戦い]]における最後の海戦である1943年11月24日から25日に生起した[[セント・ジョージ岬沖海戦]]において、自ら考案した戦術を自ら駆使して再度の完勝劇を収めている。
なおバーク大佐は、[[ソロモン諸島の戦い]]における最後の海戦である1943年11月24日から25日に生起した[[セント・ジョージ岬沖海戦]]において、自ら考案した戦術を自ら駆使して再度の完勝劇を収めている{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150a|ps=〔セント・ジョージ岬沖海戦〕}}


==脚注==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
* [[アジア歴史資料センター]]
*<!-- イノウエ2011 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=|year=2011|month=10|origyear=1999|title={{smaller|波濤の中の青春}} 駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2709-2|ref={{SfnRef|磯風、特年兵|2011}}}}
* 岩崎剛二『太平洋戦争海藻録 {{small|海の軍人30人の生涯}}』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0644-2
*<!-- オオクマ2016-10 -->{{Cite book|和書|author=大熊安之助ほか|authorlink=|year=2016|month=10|title=海軍水雷戦隊 {{small|駆逐艦と魚雷と軽巡が織りなす大海戦の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1629-4|ref={{SfnRef|海軍水雷戦隊|2016}}}}
**(159-179頁)「丸」編集部『魚雷&魚雷戦ものしり雑学メモ』
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* 海軍水雷史刊行会(編纂)『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年
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*<!-- キマタ2006 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=|year=2006|month=07|title=駆逐艦入門 {{small|水雷戦の花形徹底研究}}|chapter=|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2217-0|ref={{SfnRef|駆逐艦入門|2006}}}}
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*<!--シガ2016-04 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=04|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref={{SfnRef|駆逐艦物語|2016}}}}
**(63-90頁){{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり {{small|太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情}}』
*<!-- シゲモト2014-10 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref={{SfnRef|重本ほか、陽炎型|2014}}}}
**(188-212頁){{small|当時「嵐」水雷長・海軍大尉}}宮田敬助『第四駆逐隊「嵐」「萩風」ベラ湾夜戦に死す {{small|昭和十八年八月六日夜、コロンバンガラ輸送の途次に魚雷をうけて三隻沈没}}』
**(255-342頁){{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
*!-- タカマツミヤ6巻 -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮六}}
*<!-- タネガシマ2003 -->{{Cite book|和書|author=[[種子島洋二]]|coauthors=|year=2003|month=09|origyear=1975|chapter=|title=ソロモン海「セ」号作戦 {{small|コロンバンガラ島奇蹟の撤収}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2394-0|ref={{SfnRef|セ号作戦|2003}} }}
*<!-- テラウチ2015-09 -->{{Cite book|和書|author=寺内正道ほか|authorlink=|year=2015|month=9|title=海軍駆逐隊 {{small|駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-47698-1601-0|ref={{SfnRef|海軍駆逐隊|2015}}}}
**(58-83頁){{small|当時二十七駆逐隊司令・海軍大佐}}原為一『二十七駆逐隊司令わがソロモン海の戦歴 {{small|旗艦時雨の艦上で指揮したベラ湾夜戦、二次ベララベラ海戦の実相}}』
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
*<!-- ハラ2011 -->{{Cite book|和書|author=[[原為一]]|coauthors=|year=2011|month=07|origyear=1955|chapter=|title=帝国海軍の最後 {{small|復刻新版}}|publisher=河出書房新社|series=|isbn=978-4-309-24557-7|ref={{SfnRef|原為一|2011}} }}<br /> 海戦時、第二十七駆逐隊司令として「時雨」に乗艦。
* ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
*<!--ブンゲイ1991-->{{Cite book|和書|author=文藝春秋編|title=完本・太平洋戦争(上)|year=1991|month=12|publisher=[[文藝春秋]]|chapter=ケネディを沈めた男 花見弘平|isbn=4-16-345930-8|ref={{SfnRef|完本太平洋戦争、上|1991}}}}
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* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
*<!--マル1995-6-->{{Cite book|和書|edior=雑誌「丸」編集部|year=1995|month=5|chapter=佐藤和正「ソロモン方面作戦II」|title=写真 太平洋戦争<第六巻> {{small|ソロモン/ニューギニア作戦II/マーシャル/ギルバート作戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2082-8|ref={{SfnRef|写真太平洋戦争6巻|1995}}}}
*<!-- レキシグンゾウ1998-8 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|chapter=|pages=|title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 {{small|究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第19巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-601918-5|ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} }}
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
**(143-158頁){{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕

* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
:『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030105800(『第三水雷戦隊戦時日誌』)
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:『外南洋部隊戦闘詳報(第一九号) 自昭和十八年六月三十日至昭和十八年八月十五日作戦』 第八艦隊司令部、C08030023200(『外南洋部隊戦闘詳報』)
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:『RX方面邀撃作戦ニ於ケル外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報第一号』第七戦隊司令部、C08030047800(『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』)
:『RX方面邀撃作戦ニ於ケル外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報第一号』第七戦隊司令部、C08030047800(『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』)
:{{Cite book|和書|id=Ref.C08030101100|title=昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1806二水戦日誌(2)}}
* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
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==関連項目==
==関連項目==
99行目: 165行目:
*[[太平洋戦争]] / [[第二次世界大戦]]
*[[太平洋戦争]] / [[第二次世界大戦]]
*[[大日本帝国]] / [[大日本帝国海軍]]
*[[大日本帝国]] / [[大日本帝国海軍]]
*[[第一号型輸送艦]]
*[[海戦]]
*[[第百一号型輸送艦]]
*[[ソロモン諸島]] / [[コロンバンガラ島]]
*[[ソロモン諸島]] / [[コロンバンガラ島]]
*[[ヴェラ・ガルフ (護衛空母)]] 、[[ヴェラ・ガルフ (ミサイル巡洋艦)]] - 共にベラ湾夜戦にちなみ命名された。
*[[ヴェラ・ガルフ (護衛空母)]] 、[[ヴェラ・ガルフ (ミサイル巡洋艦)]] - 共にベラ湾夜戦にちなみ命名された。
*[[レーダー]] - 以下はレーダーがアメリカ軍勝利の要因となった、ソロモン諸島における夜戦。
**[[サボ島沖海戦]]
**[[ビラ・スタンモーア夜戦]]
**[[ブーゲンビル島沖海戦]]
**[[セント・ジョージ岬沖海戦]]

== 外部リンク ==
*[http://shi.na.coocan.jp/wer.experience.00.html 『私の戦争体験記とベララベラ島漂流記』原作:津田貞義(昭和17年10月〜沈没まで駆逐艦「萩風」乗組) 編集:下枝長年]


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2018年11月23日 (金) 07:44時点における版

ベラ湾夜戦

米駆逐艦ステレット
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年8月6~7日
場所:ソロモン諸島、コロンバンガラ島西方沖
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
杉浦嘉十大佐 フレデリック・ムースブラッガー中佐
戦力
駆逐艦4 駆逐艦6
損害
駆逐艦3沈没、戦死1,210[1] 魚雷艇1沈没、戦死数不明
ソロモン諸島の戦い

ベラ湾夜戦(ベラわんやせん)は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月6日ソロモン諸島ベラ湾で生起した海戦[2]。日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊が、アメリカ軍の水雷戦隊に邀撃され、日本側駆逐艦3隻が沈没した[3]。 アメリカ軍側の呼称はヴェラ湾海戦(Battle of Vella Gulf)[4][5]

概要

ベラ湾夜戦は、太平洋戦争中盤の1943年(昭和18年)8月6日、ニュージョージア島の戦いにおいてソロモン諸島コロンバンガラ島ベララベラ島近海のベラ湾で生起した夜間水上戦闘[6]。コロンバンガラ島の日本軍守備隊を増強するため、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦4隻(輸送隊〈萩風江風、物資90トンと陸兵合計約940名分乗〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島に向かった[7]鼠輸送/東京急行)[8][9]。 アメリカ海軍はフレデリック・ムースブラッガー中佐指揮下の駆逐艦6隻で待ち伏せており、レーダーを活用して夜間奇襲攻撃を敢行する[7][10]。日本側駆逐艦3隻(萩風[11]、嵐[12]、江風[13])は一方的に撃沈され[14]、時雨のみ生還した[15][16]。夜間水雷戦闘において完敗したことは、日本海軍に大きな衝撃を与えた[17]

なお、本記事では海戦前の7月23日夜および8月1日夜に行われたコロンバンガラ島への輸送作戦および、日本海軍の駆逐艦天霧(駆逐艦長花見弘平少佐)[18]ジョン・F・ケネディ中尉(後のアメリカ大統領)が艇長を務めた魚雷艇PT-109英語版[19]との衝突についても簡単に述べる[20]

背景

7月下旬のソロモン諸島方面輸送作戦

6月30日にアメリカ軍はレンドバ島に上陸し[21]、7月5日にはニュージョージア島へ上陸した[22]。その過程の中で、7月5日夜にクラ湾夜戦、7月12日夜にはコロンバンガラ島沖海戦と二つの海戦が生起した[2][23]。この二つの海戦において、日本海軍は秋月型駆逐艦新月[24](クラ湾夜戦、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死)[25][26]と軽巡洋艦神通(コロンバンガラ島沖海戦、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将戦死)[27][28]を失い、アメリカ海軍は軽巡洋艦へレナ (USS Helena, CL-50) を失った他[29]、他の軽巡洋艦が多大なる損害を受けた[30]。 二度の海戦で日本艦隊と戦いを交えた第36.1任務群(ヴォールデン・L・エインスワース少将)は戦力が著しく衰退し、ソロモン方面で活動を続けていたもう一つの有力な水上部隊である第36.9任務群(アーロン・S・メリル少将)[31]は、日本艦隊と会敵する事なくエスピリトゥサント近海で行動していた[31]。 日本海軍はこの好機に乗じて重巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、鳥海)と水雷戦隊を繰り出してアメリカ艦隊と対決しようとしたが空振りに終わり[32]、夜間爆撃を受けて重巡熊野(第七戦隊司令官西村祥治少将)大破・駆逐艦2隻(初春型駆逐艦夕暮[33]、夕雲型駆逐艦清波[34])沈没という損害を受けてしまった[35][36]。昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、日本海軍はこれ以降コロンバンガラ島への輸送作戦に使用するルートをベラ湾ブラケット水道経由に切り替える事を余儀なくされた[37]

7月21日には、水上機母艦日進と陽炎型駆逐艦3隻(第4駆逐隊〈萩風、嵐〉、第17駆逐隊〈磯風〉)が南海第四守備隊と軍需物資(戦車、重砲、弾薬)を満載してラバウルを出撃したが[38]、ブイン到着直前の7月22日正午頃に大規模空襲を受けて[39]、日進は撃沈された[40][41]。ラバウル帰投後、第十戦隊所属の第4駆逐隊(駆逐隊司令杉浦嘉十大佐)は外南洋部隊(指揮官鮫島具重第八艦隊司令長官)隷下の外南洋部隊増援部隊(指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官)に編入され、駆逐艦2隻(萩風、嵐)はソロモン諸島に残った[42]。 この頃、日本軍上級部隊(大本営陸軍部・海軍部、連合艦隊、第八方面軍、南東方面艦隊)は、遅くても九月中旬ころには中部ソロモンから撤退するという方針を固めていた[43]

一方のアメリカ軍はレンドバ島を占領すると、同島に魚雷艇基地を設営して4個魚雷艇隊計52隻と整備兵などを進出させた[44]。魚雷艇隊は一隊あたり15隻で編成され[44]、コロンバンガラ島の周囲で「東京急行(鼠輸送)」に対する哨戒任務にあたっていた。 ルート変更後の日本海軍のコロンバンガラ島輸送作戦は7月23日から再開され、駆逐艦3隻(陽炎型〈雪風浜風〉、睦月型〈三日月〉)が第三十八師団影佐禎昭中将)の陸兵782名と物件56トンなどを搭載してラバウルを出撃する[45][46]。魚雷艇の襲撃と夜間触接機の照明弾投下に遭いながらも輸送任務を完了してラバウルに帰投した[47][48]。この時のルートはベララベラ島とその南方のラノンガ島間のウィルソン海峡およびギゾ海峡を通過して、ブラケット水道に面したコロンバンガラ島南西部のアリエルに至るものであった[49][46][50]。 続いて、サンタイサベル島レカタの陸軍部隊をブインへ輸送する作戦が駆逐艦3隻(萩風、嵐、時雨)により7月25日から7月27日にかけて行われた[38]。ラバウルからは人員60名と物件77トンを輸送、帰路は陸軍部隊840名をブインに輸送するという内容である[38]。基地航空部隊の掩護もあり、被害なく作戦を終えた[38][51]

天霧とPT-109

第八方面軍(司令官今村均中将)は、レカタからブインに移した陸軍部隊をコロンバンガラ島に進出させる事に決する[52]。また外南洋部隊(指揮官:第八艦隊司令長官鮫島具重中将)は麾下の外南洋部隊増援部隊(指揮官:第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐)に対し、陸軍部隊と海軍陸戦隊の輸送を命じた[53][54]。一連の輸送作戦は、以下の艦艇によって行われた[55]。第三水雷戦隊所属の第11駆逐隊は損耗が激しく、作戦可能駆逐艦は天霧1隻という状況であった[56]

  • 輸送部隊:指揮官杉浦嘉十大佐(第4駆逐隊司令、萩風座乗)
    • 輸送隊:指揮官杉浦嘉十第4駆逐隊司令/第4駆逐隊(萩風)、第27駆逐隊(時雨
    • 警戒隊:指揮官山代勝守第11駆逐隊司令/第11駆逐隊(天霧)

陸戦隊員763名と物件54トンを載せた輸送隊3隻(萩風〔第4駆逐隊司令杉浦大佐〕、嵐、時雨〔第27駆逐隊司令原為一大佐〕)は、7月31日朝にラバウルを出撃した[55]。ブインに到着後、陸戦隊と物件を降ろし、代わりに陸海軍人員902名と物件73トンを搭載する[57]。8月1日未明にブインを出撃し、同日ラバウルを出撃して追いかけてきた警戒隊の吹雪型駆逐艦天霧(第11駆逐隊司令山代大佐、天霧駆逐艦長花見弘平少佐)と[56]ブカ島近海で合流してコロンバンガラ島へ向かう[54][58]。山代(当時、第11駆逐隊司令)の回想によれば、輸送部隊は萩風〔旗艦〕・嵐・時雨・天霧の単縦陣であったという[59]

杉浦大佐指揮下の輸送隊部隊はベラ湾を通過して魚雷艇の襲撃(山代大佐によれば、岩礁の誤認)[60]と夜間爆撃を退け、ウェブスター入江に入泊して揚陸を開始した。警戒隊の天霧は分離して、周囲を警戒した[60]。輸送隊は、輸送物件全量を揚陸し任務を完了する[54][58]。任務を終えた輸送隊は、第九三八航空隊の水上偵察機が発見した敵艦隊を避けるため再びベラ湾を経由し、ブーゲンビル島東方を経てラバウルに帰投した[61]。天霧はウェブスター入江沖で警戒の後、輸送隊の後を追って速力を上げた[60]。8月2日未明、天霧は米軍の魚雷艇(PT-109)と遭遇し、衝突して魚雷艇を真っ二つにしてしまう[62]。花見艦長は「意図的に体当たりを命じた」と回想するが[63]、山代司令は「花見艦長に回避を命じたが手違いがあり、避けきれずに衝突した」と回想する[62]。衝突の際小さな爆発か閃光らしいものが上がったが、天霧は艦首とスクリューを損傷しただけで済んだ[64][65]。この魚雷艇がジョン・F・ケネディ中尉が艇長を務める「PT-109」であり[66][67]、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[68][69]。2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後[69]、一週間後に救助された[70]コースト・ウォッチャーズ)。第3艦隊(南太平洋部隊)司令官ウィリアム・ハルゼー大将から表彰された[68][71]

アメリカ軍の新戦術

PT-109とともに行動していた魚雷艇は、どこかへ逃げ去ったり天霧の背後から魚雷を発射したものの命中しなかった[68][72]。この戦闘を含めてコロンバンガラ島方面の魚雷艇隊の行動は芳しくなく、連携して攻撃する事もなかった[73]。魚雷艇隊は大発1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害にはなっていなかった[37]。そこで、第三水陸両用部隊司令官セオドア・S・ウィルキンソン少将は新しい交通遮断の手段として駆逐艦群を投入することになった[37]。しかし、前述のように第36.1任務群は戦力が衰微し、第36.9任務群は遠方にいた。そのため、ウィルキンソン少将が交通遮断のために投入できた戦力は、第31.2任務群の駆逐艦6隻だけだった[37]

第31.2任務群司令アーレイ・バーク大佐は、かねてから駆逐艦だけで効果的に行える戦術を研究し、その参考資料をはるか昔のポエニ戦争に求めていた[37][74]

特にシピオウ・アフリケイナスの戦法は、その実施が合理的で、簡単で、しかも海軍の使用に適合するものとして、私の関心をひいた。この計画は、次ぎ次ぎと奇襲によって敵に攻撃を加えるというところに、その基礎をおいている。これは、二つの駆逐隊が、並行する隊形で航進するように配置することによって達成される。一つの駆逐隊は、夜暗に乗じて敵に近迫、魚雷発射後に避退する。魚雷が命中し、敵が避退する前記駆逐隊に砲撃を開始したならば、第二の駆逐隊は、突如として他の方面から攻撃に移る。混乱した敵がこの新たな予期しなかった攻撃に目を向けたとき、最初の駆逐隊は再び攻撃に転ずる。むろん、ソロモン諸島方面は、多くの島が、第二の駆逐隊に対する敵のレーダーの探知を妨げるのに役立つので、この種の戦法は理想的なものであった。 — アーレイ・バーク、C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』172、173ページ

しかし、バーク大佐はこの新戦術を引っさげて出撃する前に、上級指揮官として転出して第31.2任務群から離れる事になった[75]。後任のフレデリック・ムースブルッガー[76]中佐はバーク大佐の戦術を忠実に継承して戦場に臨む事となった[75][77]

ニュージョージア島方面の戦況

ソロモン諸島の地図。ベラ湾は左側のコロンバンガラ島とベララベラ島の間にある

ニュージョージア島の戦況は一進一退の様相を示していたが、アメリカ軍は8月3日にはムンダ飛行場を占領した[78]。これにより、隣接するコロンバンガラ島ヴィラ (ソロモン諸島)英語版にある日本軍飛行場は無力化されることになる[7]。日本軍はヴィラを中心に約2,400名の陸兵を駐屯させていたが、ムンダ飛行場が制圧された現況では、その行く末も芳しくない事が予期された。コロンバンガラ島の日本軍第一線兵力は陸軍1400名・海軍600名に減少し、重火器もなく、完全に追い込まれていた[78]。第八方面軍はコロンバンガラ島のさらなる防衛強化のため補充兵約1200名の増援を決定する(剛方作命甲第407号)[5]第六師団(司令官神田正種中将)から六個中隊からなるコロンバンガラ島向けの増援部隊と[79]、残る二個中隊からなるブイン向けの残留部隊をラバウルから送ることにした[80]

輸送作戦は8月1日のコロンバンガラ輸送作戦とほぼ同じ顔ぶれで実施される事となったが、修理を必要とする天霧(三水戦、第11駆逐隊)[81]の代艦として時雨(二水戦、第27駆逐隊)が警戒隊にまわり[82]、代わって輸送隊には駆逐艦江風(二水戦、第24駆逐隊)が加入した[83][84]。 第三水雷戦隊旗艦の軽巡川内が司令官伊集院松治大佐直率の下、ブインへの輸送作戦に任じる事になった[85][86]。杉浦司令は「コロンバンガラ輸送は敵の予期するところで危険が大きい。ベララベラ島に輸送して、そこからは大発動艇や海上トラックに切り替えるべき」「途中迄でも川内のような大艦が同行するのは、敵の警戒を増やすだけだ」として反対したが、上級部隊(南東方面艦隊、第八艦隊)の意向を受けた第三水雷戦隊司令部は却下している[87]。作戦実施に際し、第三水雷戦隊司令部の先任参謀二反田三郎中佐が、萩風に乗艦した[88]

参加艦艇

日本海軍

  • ブイン輸送隊:軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐) 陸軍兵約300名と物件27トン、海軍兵74名と物件70トン[89]
  • コロンバンガラ輸送隊:指揮官杉浦嘉十大佐/第4駆逐隊司令
    • 輸送隊:第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐(萩風座乗)、第4駆逐隊(萩風、嵐)、第24駆逐隊(白露型駆逐艦江風[86]
    • 警戒隊:第27駆逐隊司令原為一大佐:白露型駆逐艦時雨[86]
  • 日本陸軍:指揮官 見上喜三郎大尉[5] 八コ中隊(各中隊、大隊砲1・迫撃砲各1、機関銃2、軽機9、重擲12)
    • 第一~第四中隊:歩兵第13聯隊配属予定(第四中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定)
    • 第五~第八中隊:歩兵第229聯隊配属予定(第八中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定)

アメリカ海軍

  • 第31.2任務群
第12駆逐群:ダンラップクレイヴンモーリー[90]
第15駆逐群:ラングステレットスタック[90]

戦闘経過

8月6日0時30分、5隻(川内〔第三水雷戦隊司令官、伊集院大佐〕、萩風〔第4駆逐隊司令、杉浦嘉十大佐〕、嵐、江風、時雨〔第27駆逐隊司令、原為一大佐〕)はラバウルを出撃した[91]。偽装航路を取ったのち[92]、ブーゲンビル島東方を南下した後の午前9時30分、ブカ島近海で川内と駆逐艦は解列した[89][93]。川内はブインへ、コロンバンガラ輸送隊(輸送隊〈萩風、嵐、江風〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島へと向かう[91]。日本側の上空直衛は天候不良のため取止めとなったが、米軍側は大型爆撃機でコロンバンガラ輸送隊を発見している[93]

夕刻、輸送隊と警戒隊は単縦陣(萩風〔旗艦〕、嵐、江風、時雨)を形成した[94]。30ノットの速力を持ってベラ湾に入る[95]。単縦陣の最後尾(四番艦)を航行していた「時雨」は敵艦隊の出現を予期して、三番艦との距離を1,000メートルに開き、砲の照準を5,000メートルに、魚雷の深度を2メートルに、射角を20度に設定した[96]。時雨(第27駆逐隊)の報告によれば、当日の天候は曇り、視界5000~8000mで、東方は特に視界不良だったという[97]

一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け[98]、9時30分にツラギ島を出撃する[99]。コロンバンガラ島の南西方からベラ湾に入り、探知と発見を避けるためにコロンバンガラ島西部の海岸ぎりぎりに航行する[98]。やがて第12駆逐群は北上して速力を15ノットに落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した[99]。ムースブルッガー中佐は、ルンガ沖夜戦やクラ湾夜戦、魚雷艇隊の夜間襲撃における味方の失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないように発砲制限を徹底させた他、魚雷発射管には光除けのカバーを装着させていた[99][100]。 21時33分、ダンラップのレーダーはコロンバンガラ輸送隊を探知する[99]。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射を命じる[101]。同時に第15駆逐群に西方への移動を命じ、コロンバンガラ輸送隊に対して丁字戦法の態勢をとらせた[98]。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷を発射した後、面舵に針路をとって姿を消した[102]

コロンバンガラ輸送隊は310度19海里の方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが[97][95]、その刹那、第12駆逐群から発射された魚雷が襲ってくる。魚雷は萩風、嵐、江風にそれぞれ2本以上命中し[95][103]、江風は轟沈して[104]、萩風と嵐は航行不能に陥った[102][105]。コロンバンガラ輸送隊が雷撃により立ち往生するのを確認した第15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く[98]。集中砲火を浴びせかけられた萩風と嵐は、まもなく沈没した[14]。日本側3隻(萩風、嵐、江風)が爆発する様子はまるで「仕掛け花火のような壮観さ」であり[98]、また、コロンバンガラ島を隔てたクラ湾で行動していた魚雷艇員の回想では「火山の爆発」を思わせるようなものであったという[98]

時雨はアメリカ側駆逐艦を発見後、面舵に転舵して魚雷を発射したが[106]、命中した魚雷はなかった[105]。その時雨にも、第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本が到達し[106]、2本は艦底を通過していった[97]。また魚雷1本が舵に命中して穴を開けたものの爆発しなかった[1][107]。魚雷を8本発射した時雨は、煙幕を展開して一旦退却した[97][108]。約30分後、次発装填後に戦場に戻ってきたものの「状況極めて不利」と判断し、避退した[97][109]。モースブラッガー中佐指揮下の米駆逐艦3隻は時雨を追跡したが逃げ切られ[108][110]、ベラ湾に戻ると6隻で45分間にわたり日本軍生存者の救助をおこなった[111]。逃げ切った時雨はブイン輸送を終えた川内(6日21時30分ブイン着、7日00時30分出発)と8月7日午前8時ころ合流した後、14時30分にラバウルに帰投した[89][112]

アメリカ側は駆逐艦6隻で魚雷合計34本を発射し、推定6~8本が命中した[15]。 日本側生存者は、萩風と嵐が各70名・江風約40名[104](合計約190名)、陸兵約120名であった[113]。 萩風と嵐の乗員はともに178名(嵐水雷長によれば182名戦死)[104]が、江風の乗員は169名が戦死した[1][111]。輸送隊を指揮した第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐と萩風駆逐艦長の馬越正博少佐はベララベラ島へたどりつけたが[111]、嵐駆逐艦長の杉岡幸七中佐はベララベラ島へ向かう途中に溺死した[101][107]。江風駆逐艦長の柳瀬善雄少佐も戦死した[104]。また、コロンバンガラ輸送隊が乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して[80][114]、輸送は完全な失敗に終わった[105]。 時雨は「駆逐艦3隻、魚雷艇、飛行機の包囲攻撃を受けた」と報告する[115]。また反撃により駆逐艦1隻大破を報じ[109][116]、日本側の大本営発表では「飛行機、魚雷艇と協同する敵水雷戦隊と交戦し駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」とする[117]。ただし、第31.2任務群に全く被害はなかった[98]

増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛を事実上放棄してコロンバンガラ島の防衛強化に重点を置くよう命令した[118][119]。日本側生存者が大発動艇などでブインに到着したのは、8月25日であったという[104]。第4駆逐隊司令から報告を受けた大本営は、連合軍のレーダー活用、優秀駆逐艦のかわりに輸送作戦に投入する高速輸送艦の開発を認識している[120]キスカ島撤退作戦を終えて瀬戸内海に帰投していた島風型駆逐艦島風[121](第二水雷戦隊所属)も[122]、僚艦と共に電探射撃の研究実施[123]、次期作戦に備えた[124][125]。。

海戦の意義

ヴェラ湾海戦は、戦術的な集中というものは、部隊が分離して行動しても相互に支援する場合には、これが達成できることを示した適例である。ついにアメリカは、日本の得意とする夜戦において、彼らにまさる戦法を編み出したのである。 — C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』174ページ

ちょうど1年前に起こった1942年8月8日夜から9日未明に生起した第一次ソロモン海戦以降、1943年3月5日から6日のビラ・スタンモーア夜戦を別にすると[126]、日本艦隊に多大な損害を与えながらも、アメリカ艦隊もまた少なからぬ損害を蒙っていた。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦でのエインスワース少将の戦いぶりは進歩の跡を少しは見せていたとはいえ、日本海軍の夜戦の技術とは未だに隔たりがあるとみられていた[127]。ベラ湾夜戦の意義はまさに、この太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥の後年の回顧に表されている。ニミッツ元帥はまた、ベラ湾の勝者ムースブルッガー中佐とベラ湾夜戦での戦術を立案したバーク大佐、そしてビラ・スタンモーア夜戦と後のブーゲンビル島沖海戦の勝者メリル少将を「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人たち」と評している[128]。ハルゼー大将もベラ湾での勝利を喜び、戦闘の詳細を手記にする手配すら行っている[129]

なおバーク大佐は、ソロモン諸島の戦いにおける最後の海戦である1943年11月24日から25日に生起したセント・ジョージ岬沖海戦において、自ら考案した戦術を自ら駆使して再度の完勝劇を収めている[130]

脚注

注釈

  1. ^ 「○五、被害「夕暮」船体切断沈没。「清波」、「夕暮」救助ニ向ヒタルマヽ0230以後消息ナシ。「熊野」艦尾魚雷命中、浸水、舵操舵不能。」
  2. ^ 「○第十六駆逐隊(二三-二二四五)揚陸終了、皈途ニ就ク。一部残リタルモノアリ、調査中。《揚陸地ヲ「アリエル」トシタルタメ、大発二十数隻行動中可能ノモ〔ノ〕十八隻ノミ、「雪風」「三日月」「浜風」ナリ。」
  3. ^ 「○外南洋部隊(二八-一八四一)作428号 一、増援部隊指揮官ハ駆逐艦四ヲ以テ左ニ依リ海軍部隊ヲRXP(ブイン)ヘ、又陸軍部隊ヲRWN(コロンバンガラ)ヘ輸送スル作戦ヲ実施スベシ。(七-三一-二二〇〇、海軍部隊ヲ ラボール ヨリ駆逐艦三ニヨリ ブイン ヘ、ブイン ヨリ陸軍(第二十三聯隊第三大)ヲ コロンバンガラ ニ輸送ス)」
  4. ^ 「(三)第二十四驅逐隊(涼風、海風略)江風 NTBニ編入中ニシテ前月三十日「トラツク」發今月一日「ラバウル」着爾後同方面作戰行動中ノ處八月六日夜4dg(杯風、嵐)、27dg(時雨)ト共ニ陸兵「コロンバンガラ」輸送任務中敵巡洋艦二以上驅逐艦三及飛行機、魚雷艇多數ノ包囲攻撃ヲ受ケ4dg(萩風、嵐)ト共ニ「コロンバンガラ」島「シヨルダーヒル」ノ三一〇度十九浬附近ニテ遭難沈没ス」
  5. ^ 「○第四駆逐隊(二七-〇八三七)(戦闘経過略)八月二十四日迄ニ判明セシ人員被害 三艦ノ生存者合計、海190、陸120。」
  6. ^ 「○第二十七駆逐隊(〇六-二二三二)二二〇〇QHF〔ベラ海湾〕海面ニテ敵駆逐艦三、魚雷艇、飛行機ノ包囲攻撃ヲ受ケ、「嵐」「江風」魚雷命中、火災。敵駆逐艦ニ雷撃セシモ効果不明。戦場ヲ一時避退ス。」
  7. ^ 「○所見 (イ)敵ハ「コロンバンガラ」島ヲ背景トシ、狭視界巧ミニ接敵発射、雷撃効果ヲ確メ砲撃セルモノニシテ、早クヨリ電探ヲ使用シ、魚雷戦準備ヲナセルコト確実ナリ。電探、逆探装備ヲ要ス。優秀駆逐艦ヲ輸送作戦ニ使用セズ、優速輸送船ヲツクルコト。砲、人力旋回力ヲ強化スルコト。」

出典

  1. ^ a b c 木俣, 352ページ
  2. ^ a b 駆逐艦入門 2006, p. 371ソロモン駆逐艦戦
  3. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 149a〈表4〉昭和18年、中・北部ソロモンの駆逐艦の海戦
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関連項目

外部リンク