コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ドイツ共産党」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
14行目: 14行目:
|後継政党 = [[ドイツ社会主義統一党]](SED)(東)<br />[[ドイツ共産党 (DKP)|ドイツ共産党]] (DKP)(西)
|後継政党 = [[ドイツ社会主義統一党]](SED)(東)<br />[[ドイツ共産党 (DKP)|ドイツ共産党]] (DKP)(西)
|本部所在地 = {{仮リンク|ベルリン・ミッテ地区|de|Berlin-Mitte}}・{{仮リンク|カール・リープクネヒト・ハウス|de|Karl-Liebknecht-Haus}}
|本部所在地 = {{仮リンク|ベルリン・ミッテ地区|de|Berlin-Mitte}}・{{仮リンク|カール・リープクネヒト・ハウス|de|Karl-Liebknecht-Haus}}
|政治的思想・立場 = [[共産主義]]([[マルクス・レーニン主義]]、[[スターリニズム|スターリン主義]])<br>反[[ヴァイマル共和政]]<br>反[[ヴェルサイユ条約]]
|政治的思想・立場 = [[共産主義]]([[マルクス・レーニン主義]]、[[スターリニズム|スターリン主義]]){{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52-53}}<br>[[プロレタリア独裁]]{{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}<br>[[民主集中制]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=25}}<br>[[反資本主義]]{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}<br>反[[社会民主主義]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=44}}<br>[[反ファシズム]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=44}}<br>反[[ヴァイマル共和政]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=44}}<br>反[[ヴェルサイユ条約]]{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=133}}
|機関紙 = {{仮リンク|ローテ・ファーネ|label=ローテ・ファーネ(赤旗)|de|Die Rote Fahne}}
|機関紙 = {{仮リンク|ローテ・ファーネ|label=ローテ・ファーネ(赤旗)|de|Die Rote Fahne}}
|公式カラー = [[赤]]
|公式カラー = [[赤]]
297行目: 297行目:
しかし1929年から1930年にかけて共産党の反社民党機運が高まったことでADGBへの反対派を糾合して共産党系の労働組合を作ろうという試みが盛んにおこなわれるようになり、{{仮リンク|革命的労働組合反対派|de|Revolutionäre Gewerkschafts-Opposition}}(RGO)が結成された{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=263}}。そのため1931年8月から9月のADGB第11回大会から共産党の代議員は一人もいなくなった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=264}}。
しかし1929年から1930年にかけて共産党の反社民党機運が高まったことでADGBへの反対派を糾合して共産党系の労働組合を作ろうという試みが盛んにおこなわれるようになり、{{仮リンク|革命的労働組合反対派|de|Revolutionäre Gewerkschafts-Opposition}}(RGO)が結成された{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=263}}。そのため1931年8月から9月のADGB第11回大会から共産党の代議員は一人もいなくなった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=264}}。


RGOは1932年11月には31万2000人の組合員を有していたとされ、確かに一定の影響力はもっていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=265}}。しかし結局のところADGBの協力無くしては大規模なストライキは覚束ないレベルでしかなかった{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。共産党はストライキについて「大きなストの大衆的ストとをゼネストにまで喚起しかつするとと最終的に勝利を導くことに成功したみ意味を持つ」と繰り返し言明していRGO単独はせいぜいところ地方的ストを呼び起こせにすぎずも大半は失敗に終わっている。1932年7月にパーペン内閣が成立した時や1933年1月にヒトラー内閣が成立し時に共産党ゼネストを呼び時もそれは反響も呼び起こさなかった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=264}}。
RGOは1932年11月には31万2000人の組合員を有していたとされ、確かに一定の影響力はもっていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=265}}。しかし結局のところADGBの協力無くしては大規模なストライキは覚束ないレベルでしかなかった{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。RGO、1930年のマンスフェルトやベルリン金属工ストなど大規模ストライキの際スト全体を共産党意図する方向へ誘導しよう労働組合に先んじてストに突入するのが常だったが、労働合がストの指導を開始するとんどの労働者が組合のストライキ事務所登録した。これはストライキ期間中の生活保障やストライキ終了後の職場復帰のためには正規の交渉団体ある労働組合のストライキ・カードが必要だっからであり交渉資格を認められていないRGOのストライキカドでは何の効力もなかっ。また財政貧弱なRGOではスト中の生活保障も現金で渡すことができなそれゆえにRGO単独でストはほとんどできなかった{{sfn|斎藤晢|1997|p=129}}。

共産党はストライキについて「大きなストの波と大衆的ストとをゼネストにまで喚起しかつ組織するとともに最終的に勝利を導くことに成功した時のみ意味を持つ」と繰り返し言明していたが、RGO単独ではせいぜいのところ地方的ストを呼び起こせたにすぎず、それも大半は失敗に終わっている。1932年7月にパーペン内閣が成立した時や1933年1月にヒトラー内閣が成立した時に共産党がゼネストを呼びかけた時もそれは何の反響も呼び起こさなかった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=264}}。


=== 世界恐慌と共産党の台頭 ===
=== 世界恐慌と共産党の台頭 ===
307行目: 309行目:
1933年1月30日にナチ党党首[[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領から首相に任命された{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}、2月4日には野党の行動を制限する「{{仮リンク|ドイツ国民保護のための大統領緊急令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutze des Deutschen Volkes}}」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた{{sfn|モムゼン|2001|p=481/485}}。
1933年1月30日にナチ党党首[[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領から首相に任命された{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}、2月4日には野党の行動を制限する「{{仮リンク|ドイツ国民保護のための大統領緊急令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutze des Deutschen Volkes}}」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた{{sfn|モムゼン|2001|p=481/485}}。


さらに選挙期間中の2月27日に[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]が発生し、オランダ共産党員[[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]が犯人として逮捕されると、プロイセン内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に制定された事実上の戒厳令「{{仮リンク|国民及び国家保護のための大統領緊急令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat}}」に基づき、共産党員4000人逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した<ref>{{harvnb|阿部良男|2001|p=220-221}}, {{harvnb|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}</ref>。
さらに選挙期間中の2月27日に[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]が発生し、オランダ共産党員[[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]が犯人として逮捕されると、プロイセン内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に事実上の戒厳令「{{仮リンク|国民及び国家保護のための大統領緊急令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat}}」が制定された。この大統領緊急令より共産党員は「保護拘禁」(Schutzhaft)されることになり同日中に共産党員4000人逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した<ref>{{harvnb|阿部良男|2001|p=220-221}}, {{harvnb|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}, {{harvnb|高橋三郎|2000|p=25}}</ref>。


追いつめられた共産党は「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り、社民党から拒絶された{{sfn|モムゼン|2001|p=485}}。テールマンは国会議事堂放火事件直後の[[3月3日]]にベルリンの自宅で[[逮捕]]され、11年間[[裁判]]抜きで拘束された後、[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]で[[1944年]][[8月17日]]に処刑された{{sfn|阿部良男|2001|p=221-222}}。[[3月5日]]の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の[[3月9日]]に共産党の国会議員が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した{{sfn|阿部良男|2001|p=222}}。
追いつめられた共産党は「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り、社民党から拒絶された{{sfn|モムゼン|2001|p=485}}。テールマンは国会議事堂放火事件直後の[[3月3日]]にベルリンの自宅で[[逮捕]]され、11年間[[裁判]]抜きで拘束された後、[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]で[[1944年]][[8月17日]]に処刑された{{sfn|阿部良男|2001|p=221-222}}。[[3月5日]]の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の[[3月9日]]に共産党の国会議員が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した{{sfn|阿部良男|2001|p=222}}。


[[3月23日]]に全権委任法が成立した後、共産党は[[3月31日]]に制定された『[[ラントとライヒの均制化に関する暫定法律]]』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された{{sfn|阿部良男|2001|p=228}}。
[[3月23日]]に全権委任法が成立した後、共産党は[[3月31日]]に制定された『[[ラントとライヒの均制化に関する暫定法律]]』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された{{sfn|阿部良男|2001|p=228}}。
[[File:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr 2110.jpg|180px|thumb|テールマンが逮捕された後の共産党指導者{{仮リンク|ヨーン・シェー|de|John Schehr}}(東ドイツの切手)]]
[[File:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr 2110.jpg|180px|thumb|テールマンが逮捕された後の共産党指導者{{仮リンク|ヨーン・シェー|de|John Schehr}}(東ドイツの切手)]]
地下に潜った共産党はテールマンに代わって{{仮リンク|ヨーン・シェー|de|John Schehr}}によって指導されるようになったが、シェーは1934年2月1日に警察に発見されて逮捕され、逃亡を図ったところを射殺されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=461}}。
地下に潜った共産党はテールマンに代わって{{仮リンク|ヨーン・シェー|de|John Schehr}}によって指導されるようになったが、シェーは1934年2月1日に警察に発見されて逮捕され、逃亡を図ったところを射殺されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=461}}。


共産党は地下組織になっても依然としてコミンテルンの「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので、1933年5月には「国家機関から社会ファシストが完全に締め出され、また社民党系の組織や新聞に野蛮な弾圧が加えられているからと言って、それらが資本独裁の社会的支柱であるという事実はなんら変わるものではない」と声明{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52}}。また「現在のヒトラー時代は社民党が支配したヴァイマール共和国時代、あるいは[[ハインリヒ・ブリューニング|ブリューニング]]時代(1930年以降の{{仮リンク|大統領内閣|de|Präsidialkabinett}}時代)と比べてどれほどの差があるというのか」という議論にふけっていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}。
共産党は地下組織になっても依然としてコミンテルンの「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので、1933年5月には「国家機関から社会ファシストが完全に締め出され、また社民党系の組織や新聞に野蛮な弾圧が加えられているからと言って、それらが資本独裁の社会的支柱であるという事実はなんら変わるものではない」と声明{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52}}。また「現在のヒトラー時代は社民党が支配したヴァイマール共和国時代、あるいは[[ハインリヒ・ブリューニング|ブリューニング]]時代(1930年以降の{{仮リンク|大統領内閣|de|Präsidialkabinett}}時代)と比べてどれほどの差があるというのか」という議論にふけっていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}。
321行目: 323行目:
1936年には地下組織共産党の最後の指導者{{仮リンク|ヴィルヘルム・ファール|de|Wilhelm Firl}}が逮捕され、[[人民法廷]]にかけられて死刑判決を受け、1937年に刑死している{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。
1936年には地下組織共産党の最後の指導者{{仮リンク|ヴィルヘルム・ファール|de|Wilhelm Firl}}が逮捕され、[[人民法廷]]にかけられて死刑判決を受け、1937年に刑死している{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。


保護拘禁された共産党員たちは[[強制収容所 (ナチス)|ナチス強制収容所]]へ収監され、収容所内では政治犯を示す「赤」のバッジを着けた。収容所内では共産党員は[[強制収容所 (ナチス)#囚人の役職|囚人役職]]を務めていることが多かった。収容所の管理者たる[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)が共産主義者の「規律、団結、勇気、冷酷さ」による秩序維持能力を高く買っていたためといわれる{{sfn|高橋三郎|2000|p=159-160}}。事実「緑」(刑事犯)に囚人役職を任せた収容所より「赤」に囚人役職を任せた収容所の方が秩序だった自主管理が行われていたといわれる。ただし「赤」を囚人役職に据えると自分たちの政治的同志ばかり贔屓する不公正な運営を行うことが多かったという{{sfn|高橋三郎|2000|p=160}}。共産党員が囚人役職に登用されやすかったのは、彼らが収容所内のグループの中で最も組織だっていたためでもある。「囚人の中の結束力の強いグループは、収容所内のインフォーマルな組織を掌握することによって、ゲシュタポをひそかに操作することができた」といわれており、囚人職を巡る権力維持闘争においてライバルとなる者を組織的に排除するのが一番容易な立場だった{{sfn|高橋三郎|2000|p=165}}。
党員にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは[[1937年]]頃から始まった[[ヨシフ・スターリン]]の[[大粛清]]で処刑されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。レンメレ、ノイマン、エーベルライン等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。さらに1939年8月に[[独ソ不可侵条約]]が締結されるとスターリンの命令に従ってウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。

共産党員によって囚人職が独占された収容所の代表格が[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]である。フランスでレジスタンス活動をして[[ゲシュタポ]]に逮捕されたイギリス空軍将校ヨウ・トーマスはブーヘンヴァルトに収容された際に他の囚人から最初に注意されたのは「この収容所内で権力を握っている共産主義者たちは将校や資本家を好まぬから前歴を隠すように」だったことを回想している{{sfn|高橋三郎|2000|p=161-162}}。囚人役職に就いた共産党員たちの中には他の囚人たちの死に深く関与した者たちが多い。親衛隊から実質的に死を意味する人選を命じられた時も彼らは冷徹に自分たちの同志以外の者を指定人数選別しては親衛隊に引き渡した。またPアルクールは「彼ら(囚人役職に就く共産党員)のヘゲモニーに抵抗する手の負えない犯罪者や政治的敵対者が病棟に近づくと、不思議なことに病気にかかり、そして死んだものだった」と回想している{{sfn|高橋三郎|2000|p=164}}。

党員の中にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは[[1937年]]頃から始まった[[ヨシフ・スターリン]]の[[大粛清]]で処刑されている{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。レンメレ、ノイマン、エーベルライン等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。さらに1939年8月に[[独ソ不可侵条約]]が締結されるとスターリンの命令に従ってウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=462}}。


=== 戦後 ===
=== 戦後 ===
332行目: 338行目:
1945年秋になるとソ連占領当局は社共を統一させてドイツ分裂阻止の要とすることを企図するようになり、その意を汲んだ共産党は社民党との合同に向けたキャンペーンを展開した。社民党党首[[オットー・グローテヴォール]]が「ロシアの銃剣で突っつかれている」と嘆いたように、それは実質的には強制合併の圧力に他ならなかった。1946年4月に共産党は社民党を合併し、[[ドイツ社会主義統一党]](SED)と改名した。しかしこれは西側の反発を招き、東西分裂を促進する結果となった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=439-440}}。
1945年秋になるとソ連占領当局は社共を統一させてドイツ分裂阻止の要とすることを企図するようになり、その意を汲んだ共産党は社民党との合同に向けたキャンペーンを展開した。社民党党首[[オットー・グローテヴォール]]が「ロシアの銃剣で突っつかれている」と嘆いたように、それは実質的には強制合併の圧力に他ならなかった。1946年4月に共産党は社民党を合併し、[[ドイツ社会主義統一党]](SED)と改名した。しかしこれは西側の反発を招き、東西分裂を促進する結果となった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=439-440}}。


社会主義統一党結党の際には社共同権が謡われたが、冷戦が深まってくる中の1948年頃から社会主義統一党はソ連共産党を模範とした「幹部政党」への転換と社会民主主義者の排除を押し進めるようになった。1949年には社共同権原則が正式に破棄され、旧社民党員の粛清が吹き荒れた。やがて粛清の嵐は旧社民党員だけではなく旧共産党員にも広がっていった。この時期の粛清の激しさは1948年から1952年にかけて党員数が80万人減少していることからもうかがえる。党を追放された者の多くは監獄やソ連の強制収容所へ送られていった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=441}}。
社会主義統一党結党の際には社共同権が謡われたが、冷戦が深まってくる中の1948年頃から社会主義統一党はソ連共産党を模範とした「幹部政党」への転換と社会民主主義者の排除を押し進めるようになった。1949年には社共同権原則が正式に破棄され、旧社民党員の粛清が吹き荒れた。やがて粛清の嵐は旧社民党員だけではなく旧共産党員にも広がっていった。この時期の粛清の激しさは1948年から1952年にかけて党員数が80万人減少していることからもうかがえる。党を追放された者の多くは監獄や[[ラーゲリ|ソ連の強制収容所]]へ送られていった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=441}}。


1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国宣言に対抗し、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国宣言が行われた。以降社会主義統一党は[[1989年]]の[[東欧革命]]で打倒されるまで同国において[[民主集中制]]と[[ヘゲモニー政党制]]による独裁体制を敷くことになる{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=446-447}}。
1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国宣言に対抗し、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国宣言が行われた。以降社会主義統一党は[[1989年]]の[[東欧革命]]で打倒されるまで同国において[[民主集中制]]と[[ヘゲモニー政党制]]による独裁体制を敷くことになる{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=446-447}}。
358行目: 364行目:
なお、かつてドイツ共産党の本部だった建物{{仮リンク|カール・リープクネヒト・ハウス|de|Karl-Liebknecht-Haus}}は現在左翼党が使用している。
なお、かつてドイツ共産党の本部だった建物{{仮リンク|カール・リープクネヒト・ハウス|de|Karl-Liebknecht-Haus}}は現在左翼党が使用している。


== 選挙結果 ==
== 党の思想 ==
{{仮リンク|オシップ・フレヒトハイム|de|Ossip K. Flechtheim}}は、ほぼ1925年以来固められた共産党の共産主義的信条の本質的教義を以下のとおりに要約している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=322}}。
=== 国会(Reichstag) ===
*全ての歴史は階級闘争の歴史である。現在は資本家とプロレタリアートが不倶戴天の敵として対立している。独占資本主義と帝国主義の時代においては、階級闘争が革命と内乱とになるのは不可避である。
[[ヴァイマル共和政]]期から[[ナチス・ドイツ|ナチス政権]]期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および[[国会 (ドイツ)|国会]](Reichstag)における共産党の党勢。
*国家は常に階級国家である。民主主義的共和国もまた資本主義独裁の一形態に過ぎない。社会主義の樹立はブルジョワ的国家機構の破壊を前提とする。プロレタリア国家は革命的暴力によってのみ作り出すことが可能である。プロレタリア独裁は共産党に指導された全体的国家において体現され、ブルジョワ民主主義より高次の民主主義の形態である。
*選挙制度は[[比例代表制]]<ref name="村田">{{cite web|author=村田孝雄|url=https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11565&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=ワイマール憲法下における選挙制定の歴史的考察|work= [https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/ 中京大学学術情報リポジトリ] |accessdate=2018年5月29日}}</ref>
*共産党は唯一の、真にプロレタリア的、社会主義的およびマルクス主義的政党である。人類の最も進歩的な階級の前衛として、共産党はプロレタリア的階級意識の唯一の担い手である。最高の認識は党の最高首脳に集中しており、党の最高首脳もしくは党指導部はそれゆえに誤りを犯すことはない。
*選挙権は20歳以上の男女<ref name="村田"/>
*真に社会主義の最も本質的な標識は、共産党によって統治されている国家における生産手段の国有化である。共産党指導部は、搾取の消滅と階級なき社会への発展を保証する。
*ソ連は唯一の社会主義者社会である。同国は長期短期にわたって結託している世界資本主義による脅威を常に受けている。世界の労働者階級を「全勤労大衆の社会主義的祖国」の防衛のために動員することは、あらゆる国々の共産主義者の任務である。
*資本主義と社会主義との間の闘争は、来たるべき数年ないし数十年の間に世界的規模において決定される。歴史の不変の法則にしたがい、一連の流血の内乱、革命、蜂起および国際戦争の中で帝国主義的ブルジョワジーの支配は地球全土において打倒され、共産党の支配により解体される。この過程の終局においてソヴィエト・ロシアが社会主義的世界レーテ(ソヴィエト)共和国へ転化するであろうということは極めて明白である。

== 党の分析・評価 ==
共産党は「唯一の労働者党」を自称し、労働者階級の多数派を自党の下に置くことを目指した。しかし労働者階級の多数の獲得を目標を掲げていること自体、共産党が労働者の少数派しか獲得できていないことを示している。またヴァイマル共和政末期についていえば共産党の党員の大多数は失業者であって、経営に属する労働者はわずかしかいなかった(詳しくは[[#党員の職業考察|後述]]){{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}。

選挙結果で見ると共産党に投票した層は明らかに労働者階級の範囲を超えている。ナチスほどではないにせよ、共産党にも包括政党の面があった事は否定できない{{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}。[[1932年]]に[[ジグムント・ノイマン]]は、共産党の性質についてその独裁体質と階級を超えた不満層の包括政党になっている面から、ナチ党とともに「絶対主義的統合政党」に分類する分析を行った{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52-53}}。

フレヒトハイムは、ドイツ共産党は他国の共産党と違って[[十月革命|ロシア10月革命]]の直接の影響から生まれたわけではなく、戦争で生じたドイツの国内状況から独自に誕生したため、モスクワから独立した立場を取りうる余地があったことを指摘したうえで「結党直後のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘスの非業の死はその後のドイツ共産党の発展の方向を決定的に変えてしまった。彼ら ―特にローザ・ルクセンブルク― の死が避けられたのならば、その後のドイツ共産党は一方ではコミンテルンに隷従する党にはならなかっただろうし、他方では[[ルクセンブルク主義]]の発展の基礎としてプロレタリア大衆の自発性を重んじつつ、ヴァイマール体制内で自主的かつ現実的な政策を打ち出していただろう」としてローザ・ルクセンブルクの死を惜しんでいる{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=350}}。

== 他党との関係 ==
共産党は自党以外の全ての政治勢力を攻撃した。とりわけ[[ドイツ社会民主党|社民党]](SPD)や[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)とは労働者階級の利益をめぐって激しい競合関係にあった。この3党の対立関係はイデオロギーだけではなく、経営や街頭における労働者や失業者の組織のうえでも激しいものだった{{sfn|斎藤晢|1997|p=117}}。

共産党は自らのことをブルジョワと「ブルジョワ的労働者党、労働官僚、労働貴族」(社民党)に対抗する唯一のプロレタリア政党であると自称してきたが、社民党はこの悪宣伝に対抗して共産党のことを「失業者、零落者、破産者、[[ルンペンプロレタリアート]]の党、もしくは都市部の暗黒街の住民の党」と批判した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=317-318}}。

ブルジョワ政党からも共産党は蛇蝎のごとく嫌われており、大連合(大連立)政権を作るための枠組み交渉において常に対象外という政界の鼻つまみ者のようになっていた。例えばヴァイマル共和政の中心的政党の一つである中央党はその中道的立場から社民党や民主党とも、保守右派政党とも(人民党、国家人民党、最後にはナチスとも)幅広く連携したが、共産党とだけは部分的・一時的連携すら断固として拒否した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=204}}。

== 党の組織 ==
=== 党組織に関する党規約 ===
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
!選挙日!!得票!!得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
|-
! style="white-space:nowrap" rowspan="4" |6条
|[[1920年ドイツ国会選挙|1920年6月6日]]||align="right"|589,454票||align="right"|2.1%||align="right"|4議席 (459議席)||第8党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[ドイツ人民党]](DVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) 、[[ドイツ民主党]](DDP)、[[バイエルン人民党]](BVP)に次ぐ}}
| colspan="2"|ドイツ共産党は、コミンテルンの全ての支部と同じく[[民主集中制|民主主義的中央集権主義(民主集中制)]]の原理に基づいて構成されている。その基本原理は次のとおりである。
|-
|-
|style="white-space:nowrap"|a項
|[[1924年5月ドイツ国会選挙|1924年5月4日]]||align="right"|3,693,280票||align="right"|12.6%||align="right"|62議席 (472議席)||第4党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) に次ぐ|name=注釈1}}
|下級および上級の党機関の選挙は全党員集会、全国協議会、ならびに党大会で行われる。
|-
|-
|style="white-space:nowrap"|b項
|[[1924年12月ドイツ国会選挙|1924年12月7日]]||align="right"|2,709,086票||align="right" |8.9%||align="right"|45議席 (493議席)||第5党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum)、[[ドイツ人民党]](DVVP)に次ぐ}}
|党機関の会計報告は、その選挙に先立って定期的に行われる。
|-
|-
|style="white-space:nowrap"|c項
|[[1928年ドイツ国会選挙|1928年5月20日]]||align="right"|3,264,793票||align="right"|10.6%||align="right"|54議席 (491議席)||第4党{{efn|name=注釈1}}
|上級機関の決議の下級機関による承認の義務、厳格な党規律、コミンテルン中央執行委員会及び指導的党機関の決議の迅速で確実な履行。その活動をある種の地域に及ぼす機関は、その活動を単にこの地域の個々の部分に限る機関に対し、上級機関とみなされる。党問題についての論争は党員によって当該機関による決定までの間のみなされる。コミンテルン大会、党大会もしくは指導部的党機関によって決議がなされたのちは、この決議は党員の一部もしくは地方的党機関の一部がそれに同意しない時においても無条件に実行されなければならない。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |7条
|[[1930年ドイツ国会選挙|1930年9月14日]]||align="right"|4,590,160票||align="right"|13.1%||align="right"|77議席 (577議席)||第3党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)に次ぐ}}
| colspan="2"|異常の状態の下においては、下部党機関の上部党機関による任命もしくは上級党機関の承認による指導部の自己補充は許される。この処置は、そのための可能性が存するやただちに、後から機関に提出し決議を得なければならない。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |8条
|[[1932年7月ドイツ国会選挙|1932年7月31日]]||align="right"|5,282,636票||align="right"|14.3%||align="right"|89議席 (608議席)||第3党{{efn|[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)に次ぐ|name=注釈2}}
| colspan="2"|党機関は、コミンテルンおよび党の既存の決議の枠内において地方問題においては自立的である。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |9条
|[[1932年11月ドイツ国会選挙|1932年11月6日]]||align="right"|5,980,239票||align="right"|16.9%||align="right"|100議席 (584議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
| colspan="2"|あらゆる機関の最高決定機関は党員集会、協議会もしくは党大会である。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |10条
|[[1933年3月ドイツ国会選挙|1933年3月5日]]||align="right"|4,848,058票||align="right"|12.3%||align="right"|81議席 (647議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
| colspan="2"|全員集会、協議会もしくは党大会は、その中間の期間の指導機関として、当該機関の日常の活動を行う当該指導部を選出する。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" rowspan="8" |11条
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Uebersicht_RTW.html Gonschior.de]
| colspan="2"|党構成の図式は次のとおりである。
|-
|style="white-space:nowrap"|a項
|個々の工場、作業場、事務所、店舗、農場、市街等々については細胞集会―細胞指導部。
|-
|style="white-space:nowrap"|b項
|小都市、村落等の地域については、地区細胞会議(村落細胞会議)もしくは地区集会(村落集会)―地区指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|c項
|市区の地域については、市区協議会―市区指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|d項
|下位地方地域については、下位地域会議―下位地域指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|e項
|地域については、地域大会―地域指導部
|-
|style="white-space:nowrap"|f項
|国土全域については、党大会―中央委員会
|-
| colspan="2"|注 経営細胞の次の上位の組織段階は細胞グループである。市区の大きさによっては、一つの市区の中に多くの細胞グループのあることもある。 組織のこれ以上の区分は、組織の特別の状態と個々の地区の特殊の情勢に応じて規整されなければならない。
|-
| align="center" colspan=3|1925年の第10回ドイツ共産党大会決定の規約{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=348-355/445}}
|}
|}


== 党の財政 ==
=== 大統領選挙(Reichspräsidentenwahl) ===
共産党の金庫には「うなる程の[[ルーブル]]がある」という噂があったが、{{仮リンク|リヒャルト・レヴィンゾーン|de|Richard Lewinsohn}}は著書の中で「モスクワの中央部は、大きな特別行動のために時には資金を出すことはある。だがコミンテルンは、幾百万ルーブルという大金を浪費はしない。というのはコミンテルン自身の財政と言えども限られたものであって、モスクワからの比較的大きな援助は、急進的な労働者大衆がまだ組織されていないところへだけ向けられるのが常だからである」としてこの噂を否定している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=232-233}}

共産党の財政は党費と寄付が主だったと見られる。党費は1923年には月額1時間分の賃金と規定されたが、1924年には三段階(20ペニヒ、15ペニヒ、5ペニヒの三段階)に分けられた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。1925年にはさらに引き上げられる形で最低平均収入の1%と規定された{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=354}}。しかし共産党の党員は収入の少ない労働者や失業者が大半であるため、党費から得られる収入はさほど多くなかった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。これに対して議員による党への拠金はかなりの金額に及んだ。共産党の国会議員は月々の750ライヒスマルクの歳費のうち約300ライヒスマルクを党会計に納入することが義務付けられていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。

募金からもかなりの金額を集めていた。特に選挙前になると党の各居住グループと地区が競い合うように党のシンパを使って募金の調達を行った{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。1928年5月の総選挙直前に党中央機関紙『ローテ・ファーネ』は「ベルリンで1万2547ライヒスマルクが集まった」と報じている{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。

さらに党は自営の企業群を保有していた。その重要なものは党機関紙にかかるもので、1923年10月時点で党は34の日刊紙と19の印刷所を持っていた。印刷所のうち16は党所有の建物の中に存在した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。だが1929年に赤色戦線戦士同盟が非合法化された後、党指導部は国家による党財産の接収を恐れるようになり、党の主要財産、特に党機関紙と党本部カール・リープクネヒト・ハウスを守るために名目上の売却を行って「脱政治化」に着手した。その際に党本部と印刷所の価格は850万ライヒスマルクと評価されている。しかしこのような偽装も1933年に成立したナチ党政権には通用せず、結局党財産は接収されることになった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=233}}。

== 党員について ==
=== 党員に関する党規約 ===
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
!選挙日!!党の大統領候補!!得票!!得票率!!結果
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |2条
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年3月29日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,871,815票||align="right"|7.0%||落選{{efn|{{仮リンク|カール・ヤーレス|de|Karl Jarres}}、[[オットー・ブラウン]]、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|コミンテルンおよび共産党の綱領と規約を承認し、党の基本的下部組織の成員で、ここにおいて積極的に活動し、党内におけるコミンテルンの全ての決議に服従し、規則正しく党費を収める者は党員たりうる。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |3条
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年4月26日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,931,151票||align="right"|6.4%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|新しい党員の採用は党細胞によってなされる。新採用は都市地区指導部もしくは地区指導部の確認を要する
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |4条
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年3月13日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|4,938,341票||align="right"|13.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|他の政治組織のまとまったグループもしくは政治組織全体が共産党に入党しようとするときには中央委員会の決議による。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |5条
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年4月10日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|3,706,759票||align="right"|10.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|勤務先を変更するときは経営細胞党員は、経営細胞指導部に報告すべき義務を負う。居住地の変更に際して党員は、細胞グループ指導部に報告すべき義務を有する。他州へ移住する際には党の中央委員会の許可を得なければならない。これに関する照会は党機関を通してなされる。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |42条
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Praesidenten.html Gonschior.de]
|党規律違反は当該党組織の側での罰則をともなう。(略)個々の党員には次の罰則が適用される。党内戒告、外部への戒告、活動の停止、期限付き除名、決定的除名。
|}

=== 連邦議会(Bundestag) ===
[[西ドイツ]]の[[ドイツ連邦議会|連邦議会]](Bundestag)における共産党の党勢。
*選挙制度は[[小選挙区比例代表併用制]]
*選挙権は21歳以上の男女<ref name="国立">{{cite web|author1=佐藤令|author2=大月晶代|author3=落美都里|author4=澤村典子|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2008/200806.pdf|title=主要国の各種法定年齢 選挙権年齢・成人年齢引下げの経緯を中心に|work= 国立国家図書館調査及び立法考査局|accessdate=2018年5月29日}}</ref>
{| class="wikitable"
!選挙日!!選挙区得票<br>比例得票!!選挙区得票率<br>比例得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |44条
|[[1949年ドイツ連邦議会選挙|1949年8月14日]]||align="right"|1,361,706票||align="right"|5,7%||align="right"|15議席 (402議席)||第6党{{efn|[[ドイツキリスト教民主同盟]]/[[キリスト教社会同盟]](CDU/CSU)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)、[[バイエルン民族党]](BP)、[[ドイツ党]](DP)に次ぐ}}
|党員除名の問題は当該党機関(細胞)の集会によってその上級の党指導部に提案される。除名決議は地域指導部が承認したのちに効力を発する。控訴は最高機関にまですることができる。除名の確認がなされるまでは、当該者は党活動を停止される。除名決議は通例党機関紙に公表される。除名された者の再入党は除名を行った組織が再入党を認めたときのみ為すことができる。
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |47条
|[[1953年ドイツ連邦議会選挙|1953年9月6日]]||align="right"|611,317票<br>607,860票||align="right"|2.2%<br>2.2%||align="right"|0議席 (509議席)||議席無
|党費は最低平均収入の1%とする。(以下略)
|-
|-
! style="white-space:nowrap" |48条
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.election.de/cgi-bin/content.pl?url=/btw.html Bundestagswahlen]
|十分な理由を示すことなしに三か月にわたって党費を納入しない党員は、警告を行っても効果のないとき、離党したものと見做される。このことは党員集会および当該党員に通報される。
|-
| align="center" colspan=2| 1925年の第10回ドイツ共産党大会決定の規約{{sfn|フレヒトハイム|1971|p=348-355/445}}
|}
|}


== 党の思想 ==
=== 党職業考察 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-00888, Berlin, Wahlwerbung für KPD.jpg|thumb|1924年12月の[[1924年12月ドイツ国会選挙|国会選挙]]で活動する共産党員たち]]
ほぼ1925年以来固められた共産主義的信条の本質的教義は以下のとおりである{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=322}}。
1929年の世界恐慌以前の共産党の党員は工場労働者を主として構成されていた。1927年の党員点検によれば党員の68%は工場労働者であったという。これは社民党の同比率より高い数字を示す。農業労働者や職人も加えれば広義の労働者は共産党全党員の80%に及ぶと見られる。また党員の53%が経営に属していたが、そのうち36%(つまり全党員の約19%)は従業員数50人以下の小経営に属しており、従業員数1000人以上の大経営に属する党員は全党員の15%にとどまる。大経営の中における共産党の足場は極めて脆弱であった{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}。
*全ての歴史は階級闘争の歴史である。現在は資本家とプロレタリアートが不倶戴天の敵として対立している。独占資本主義と帝国主義の時代においては、階級闘争が革命と内乱とになるのは不可避である。
*国家は常に階級国家である。民主主義的共和国もまた資本主義独裁の一形態に過ぎない。社会主義の樹立はブルジョワ的国家機構の破壊を前提とする。プロレタリア国家は革命的暴力によってのみ作り出すことが可能である。プロレタリア独裁は共産党に指導された全体的国家において体現され、ブルジョワ民主主義より高次の民主主義の形態である。
*共産党は唯一の、真にプロレタリア的、社会主義的およびマルクス主義的政党である。人類の最も進歩的な階級の前衛として、共産党はプロレタリア的階級意識の唯一の担い手である。最高の認識は党の最高首脳に集中しており、党の最高首脳もしくは党指導部はそれゆえに誤りを犯すことはない。
*真に社会主義の最も本質的な標識は、共産党によって統治されている国家における生産手段の国有化である。共産党指導部は、搾取の消滅と階級なき社会への発展を保証する。
*ソ連は唯一の社会主義者社会である。同国は長期短期にわたって結託している世界資本主義による脅威を常に受けている。世界の労働者階級を「全勤労大衆の社会主義的祖国」の防衛のために動員することは、あらゆる国々の共産主義者の任務である。
*資本主義と社会主義との間の闘争は、来たるべき数年ないし数十年の間に世界的規模において決定される。歴史の不変の法則にしたがい、一連の流血の内乱、革命、蜂起および国際戦争の中で帝国主義的ブルジョワジーの支配は地球全土において打倒され、共産党の支配により解体される。この過程の終局においてソヴィエト・ロシアが社会主義的世界レーテ(ソヴィエト)共和国へ転化するであろうということは極めて明白である。


1929年の世界恐慌を期にこの状況は一変する。失業者党員が急速に増加し、経営における共産党員を狙い撃ちにした解雇も増えた{{sfn|斎藤晢|1998|p=110}}。1931年末には党員のうち工場労働者はわずかに21%であり、失業者は78%に及んだ。更に1932年4月には失業者の割合は85%に達している。世界恐慌後の共産党は「労働者党」というより「失業者党」と化していた<ref>{{harvnb|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54/310}}、{{harvnb|斎藤晢|1997|p=119/121}}</ref>。この時期の社共対立も比較的裕福な労働者を支持基盤とする社民党と最貧層の失業者を支持基盤とする共産党の対立という側面があった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=174}}。ただし世界恐慌以前から共産党には失業者が多い傾向があった(例えば1924年9月のベルリン=ブランデンブルク地方の党員の四分の一は失業者であり、1925年の中部ライン地方の党員の50%が失業者だった){{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54}}。
== 党の分析・評価 ==
[[1932年]]に[[ジグムント・ノイマン]]は共産党の性質について、その独裁体質と不満層の貯水槽になっている面から、ナチ党と同様の「絶対主義的統合政党」であると分析している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=52-53}}。


共産党は1931年まで経営に属していない党員の調査を行っていなかったが、これは党の重点はあくまで経営の中にあるべきと党が考えていたためである。それがヴァイマル末期になって経営外党員の調査を開始したことは、党自身がもはや党の重点は経営の中にないことを認めたに他ならない{{sfn|斎藤晢|1997|p=119}}。ただ失業者党員は25歳から40歳が中心を占めていたので、就労経験を持つ者が多かった。そのため法的には失業者であっても意識の上では自分を「労働者」と捉えている者が多かったといわれる{{sfn|斎藤晢|1997|p=123-124}}。
{{仮リンク|オシップ・フレヒトハイム|de|Ossip K. Flechtheim}}は、ドイツ共産党は他国の共産党と違って[[十月革命|ロシア10月革命]]の直接の影響から生まれたわけではなく、戦争で生じたドイツ国内状況から誕生したため、モスクワから独立した立場を取りうる余地があったことを指摘したうえで「結党直後のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘスの非業の死はその後のドイツ共産党の発展の方向を決定的に変えてしまった。彼ら ―特にローザ・ルクセンブルク― の死が避けられたのならば、その後のドイツ共産党は一方ではコミンテルンに隷従する党にはならなかっただろうし、他方では[[ルクセンブルク主義]]の発展の基礎としてプロレタリア大衆の自発性を重んじつつ、ヴァイマール体制内で自主的かつ現実的な政策を打ち出していただろう」としてローザ・ルクセンブルクの死を惜しんでいる{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=350}}。


フレヒトハイムはヴァイマル末期の共産党の極左コースは労働者よりも失業者を引き付け、飢えた失業者党員が党をさらに左に追いやっていたのではないかと推測しているが{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=310}}、{{仮リンク|ハルトマン・ヴンデラー|de|Hartmann Wunderer}}は失業から直ちに特定の政治的な行動形態が生まれるわけではないとしてヴァイマル末期の共産党の急進的行動を失業者党員の増加から説明づけることに反対している{{sfn|斎藤晢|1997|p=119}}。
== 他党との関係 ==
共産党は自らのことをブルジョワと「ブルジョワ的労働者党、労働官僚、労働貴族」(社民党)に対抗する唯一のプロレタリア政党であると自称してきたが、社民党はこの悪宣伝に対抗して共産党のことを「失業者、零落者、破産者、[[ルンペンプロレタリアート]]の党、もしくは都市部の暗黒街の住民の党」と批判した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=317-318}}。


=== 党員の年齢層考察 ===
社民党以外からも共産党は蛇蝎のごとく嫌われており、政界の鼻つまみ者のようになっていた。ヴァイマル共和政の中心的政党の一つである中央党はその中道的立場から社民党や民主党とも、保守右派政党とも(人民党、国家人民党、最後にはナチスとも)幅広く連携したが、共産党とだけは部分的・一時的連携すら断固として拒否した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=204}}。
[[File:Bundesarchiv Bild 102-13592, Berlin, Verhaftung von Demonstranten.jpg|thumb|デモを起こして警察に逮捕される共産党員(1932年6月ベルリン)]]
共産党の党員は若年層が多かった。1927年時の全党員の中に占める40歳以下の党員の割合は63.5%であり{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}、この比率は、総人口中に占める40歳以下の比率と比較すると二倍以上である{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。


一方帝政時代から活動している党員が多い社民党は党員高齢化が深刻化しており{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}、社民党員のうち40歳以下の者の割合は44.6%(1930年時)に過ぎなかった{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}。国会議員層を見ても社民党の国会議員の過半数が50代以上だったのに対し、共産党の議員で50代以上は1割にも満たなかった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。
== 党員について ==
共産党の党員は1928年の時点では産業労働者が70%以上を占めていた。そのうち40%が熟練労働者で28%が未熟練労働者だった。熟練労働者の中では金属と建築関連の労働者が多かったといわれる{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=307}}。


この傾向は右派側にもみられ、帝政時代からの伝統を引き継ぐ既存右派政党([[ドイツ国家人民党|国家人民党]]など)の党員は高齢化していたのに対し、ナチ党員は若者が多かった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。
しかし1929年の世界恐慌を期にこの状況は一変する。失業者が急速に増大し、1931年末には党員のうち工場労働者はわずかに21%であり、対して失業者は78%にも達している。更に1932年4月には失業者の割合は85%に達した。もはや「労働者の党」というより「失業者の党」と化していた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54/310}}。ヴァイマル共和政末期の共産党の極左コースは労働者よりも失業者を引き付け、飢えた失業者党員が党をさらに左に追いやっていたことが推測される{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=310}}。この時期の社共対立も比較的裕福な労働者を支持層とする社民党と失業者を支持層とする共産党の対立という側面があった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=174}}。


共産党とナチ党を比較すると、ナチ党の方がより若者が多い傾向があった。ナチ党は党員の69.9%が40歳以下(1933年時)であり、この数字は共産党を上回る。ナチ党は25歳以下の青年層からも根強い支持を受けていたが、共産党は25歳以下については最もわずかな数しか組織できなかった。恐慌期に党員が急増していた時期でさえ25歳以下の青年層が共産党へ流れてくることはほとんどなかった{{sfn|斎藤晢|1997|p=120}}。
ただし世界恐慌以前から共産党には失業者が多い傾向があった(例えば1924年9月のベルリン=ブランデンブルク地方の党員の四分の一は失業者であり、1925年の中部ライン地方の党員の50%が失業者だった){{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=54}}。


=== 党員の性別的考察 ===
年齢層でいうと若年層の党員が多かった。全党員の中に占める40歳未満の党員の比率は、総人口中に占める40歳未満の比率と比較すると二倍以上である{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。一方帝政時代から活動している党員が多い社民党は党員高齢化が深刻化していた{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。国会議員層を見ても、社民党の国会議員の過半数が50代以上だったのに対し、共産党の議員は50代以上は1割にも満たなかった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。この傾向は右派側にもみられ、帝政時代からの伝統を引き継ぐ既存右派政党([[ドイツ国家人民党|国家人民党]]など)の党員は高齢化していたのに対し、ナチ党員は若者が多かった{{sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=162}}。
共産党の党員中の女性の比率は最も高い1929年末でも17%に留まる。また1933年までの全ての選挙で共産党に投票したのは男性が女性より20%多かった。党員と支持者どちらの構成から見ても共産党は圧倒的に「男性の党」だったということができる{{sfn|斎藤晢|1997|p=107-108}}。


共産党は「女性解放」を掲げて、男女の経済的・社会的・文化的・政治的な同権、妊産婦と母性の保護、中絶の自由、結婚生活における妻の自己決定権などを要求していたが、共産党が女性に受け入れられたとは言い難い{{sfn|斎藤晢|1998|p=107}}。女性労働者の間では共産党に対する不安や恐怖感がきわめて根強かった{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}。

党指導部は女性党員を積極的に党活動に参加させる必要性を繰り返し強調したものの、党員レベルでは自分の妻が家の外で働いたり、党集会に参加したり、政治に関わりを持つことを好まない人が多かった{{sfn|斎藤晢|1998|p=109}}。ヴァイマル共和政期のドイツ社会は、一次大戦の戦時中の女性就労、1920年代に現れた所謂「新しい女性」の登場などによりジェンダーの混乱が見られた時期で、少なくない人々がその状況に不安を抱いていた。共産党の「女性解放」運動もそうした混乱に拍車をかける物として捉えられて忌避される傾向があった{{sfn|斎藤晢|1998|p=115}}。

さらに共産党の党活動はストライキや街頭闘争(敵対政治勢力や警察との暴力闘争を伴う)を重視するものであるため、どうしても男性中心にならざるをえなかった{{sfn|斎藤晢|1998|p=110-111}}。特に街頭闘争は完全に男性の暴力頼みの党活動なので女性から忌避されていたと見られる{{sfn|斎藤晢|1998|p=131-132}}。

=== 党員の地域的考察 ===
共産党の勢力・党員構成は地区ごとに大きな差異があった。1929年時点で27の地区党のうち8か所({{仮リンク|ベルリン=ブランデンブルク|de|Berlin-Brandenburg}}、{{仮リンク|ハレ=メルゼブルク県|label=ハレ=メルゼブルク|de|Provinz Halle-Merseburg}}、沿海地域、[[ライン川|ライン]]下流、[[エルツ山地]]={{仮リンク|フォークトラント|de|Vogtlandkreis}}、[[ルール地方|ルール]]、西[[ザクセン]]、[[テューリンゲン]])に党員の三分の二が集中していた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。中部ドイツやライン=ルール、ベルリン、ハンブルクといった人口が密集した工業地域に共産党員が多かったのだが、同時にそれらの地域には共産党反対派(KPD-O)も根を張っていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。
共産党の勢力・党員構成は地区ごとに大きな差異があった。1929年時点で27の地区党のうち8か所({{仮リンク|ベルリン=ブランデンブルク|de|Berlin-Brandenburg}}、{{仮リンク|ハレ=メルゼブルク県|label=ハレ=メルゼブルク|de|Provinz Halle-Merseburg}}、沿海地域、[[ライン川|ライン]]下流、[[エルツ山地]]={{仮リンク|フォークトラント|de|Vogtlandkreis}}、[[ルール地方|ルール]]、西[[ザクセン]]、[[テューリンゲン]])に党員の三分の二が集中していた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。中部ドイツやライン=ルール、ベルリン、ハンブルクといった人口が密集した工業地域に共産党員が多かったのだが、同時にそれらの地域には共産党反対派(KPD-O)も根を張っていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=55}}。


=== 党員変動の激しさ ===
党員の出入りが激しく、党指導部は絶えざる党員変動に悩まされた{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。1927年時点の党員で1920年から党員だったのはわずかに四分の一である。世界恐慌後はさらに激しくなり、党の公式報告によれば、1931年には38%、1932年には54%の党員に変動があったという{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=56}}。
共産党は党員の出入りが激しい党であり、党指導部は絶えざる党員変動に悩まされた{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。1927年時点の党員で1920年から党員だったのはわずかに四分の一にすぎない{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=56}}。世界恐慌後には党員変動はさらに激しくなった。例えば1930年1月時点での党員数は13万3000人であり、この年に14万3000人の新規入党があったにもかかわらず、年末の党員数は18万人にとどまっている。すわなち9万5000人以上が離党している計算になる{{sfn|斎藤晢|1997|p=121}}。党の公式報告によっても、1931年には38%、1932年には54%の党員に変動があったことを認めている{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=56}}。

毎年膨大な離党者が出ることは党にとっても深刻な問題だったので党組織の様々なレベルで離党理由の調査が行われた。それらの調査によれば離党理由で最も多いのは「金にならないから」だった。これは共産党入党者のうち少なくない数の者が何らかの経済的事情の好転を期待して入党したことを意味する。共産党への入党で就職が有利になるということはありえないため、党活動への参加に対する物質的な見返りがないこと、あるいは有給の党専従職員になる道が極めて狭き門だったことに対する不満だったと考えられる{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}。

ナチ党の[[突撃隊]]は失業中の同志に対してバラックや簡単な給養の提供を行うことで知られていた。そのため共産党員の間にもそうした給付への期待感は強かったと思われる{{sfn|斎藤晢|1997|p=128}}。党自身もあたかもそうした期待に応えられるかのようなプロパガンダを行っていた。しかし実際にはほとんど期待に応えることはできなかったため、直接的利益を期待して入党してきた者たちからはすぐに愛想をつかされてしまったのである{{sfn|斎藤晢|1997|p=129}}。


=== 党員数の変遷 ===
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
|+ 共産党の党員数の変遷
|+ 共産党の党員数の変遷
469行目: 544行目:
|-
|-
|1928年末||align="right"|130,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|1928年末||align="right"|130,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|-
|1930年1月||align="right"|133,000人||{{sfn|斎藤晢|1997|p=121}}
|-
|-
|1930年9月||align="right"|120,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|1930年9月||align="right"|120,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|-
|1930年末||align="right"|180,000人||{{sfn|斎藤晢|1997|p=121}}
|-
|-
|1931年初頭||align="right"|200,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|1931年初頭||align="right"|200,000人||{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=337}}
|-
|-
|1932年11月||align="right"|360,000人||<ref name="Epstein"/>
|1932年11月||align="right"|360,000人||<ref name="Epstein"/>
|}

== 選挙結果 ==
=== 国会(Reichstag) ===
[[ヴァイマル共和政]]期から[[ナチス・ドイツ|ナチス政権]]期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および[[国会 (ドイツ)|国会]](Reichstag)における共産党の党勢。
*選挙制度は[[比例代表制]]<ref name="村田">{{cite web|author=村田孝雄|url=https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11565&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=ワイマール憲法下における選挙制定の歴史的考察|work= [https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/ 中京大学学術情報リポジトリ] |accessdate=2018年5月29日}}</ref>
*選挙権は20歳以上の男女<ref name="村田"/>
{| class="wikitable"
!選挙日!!得票!!得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
|[[1920年ドイツ国会選挙|1920年6月6日]]||align="right"|589,454票||align="right"|2.1%||align="right"|4議席 (459議席)||第8党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[ドイツ人民党]](DVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) 、[[ドイツ民主党]](DDP)、[[バイエルン人民党]](BVP)に次ぐ}}
|-
|[[1924年5月ドイツ国会選挙|1924年5月4日]]||align="right"|3,693,280票||align="right"|12.6%||align="right"|62議席 (472議席)||第4党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum) に次ぐ|name=注釈1}}
|-
|[[1924年12月ドイツ国会選挙|1924年12月7日]]||align="right"|2,709,086票||align="right" |8.9%||align="right"|45議席 (493議席)||第5党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[ドイツ国家人民党]](DNVP)、[[中央党 (ドイツ)|中央党]](Zentrum)、[[ドイツ人民党]](DVVP)に次ぐ}}
|-
|[[1928年ドイツ国会選挙|1928年5月20日]]||align="right"|3,264,793票||align="right"|10.6%||align="right"|54議席 (491議席)||第4党{{efn|name=注釈1}}
|-
|[[1930年ドイツ国会選挙|1930年9月14日]]||align="right"|4,590,160票||align="right"|13.1%||align="right"|77議席 (577議席)||第3党{{efn|[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)に次ぐ}}
|-
|[[1932年7月ドイツ国会選挙|1932年7月31日]]||align="right"|5,282,636票||align="right"|14.3%||align="right"|89議席 (608議席)||第3党{{efn|[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)に次ぐ|name=注釈2}}
|-
|[[1932年11月ドイツ国会選挙|1932年11月6日]]||align="right"|5,980,239票||align="right"|16.9%||align="right"|100議席 (584議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
|-
|[[1933年3月ドイツ国会選挙|1933年3月5日]]||align="right"|4,848,058票||align="right"|12.3%||align="right"|81議席 (647議席)||第3党{{efn|name=注釈2}}
|-
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Uebersicht_RTW.html Gonschior.de]
|}

=== 大統領選挙(Reichspräsidentenwahl) ===
{| class="wikitable"
!選挙日!!党の大統領候補!!得票!!得票率!!結果
|-
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年3月29日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,871,815票||align="right"|7.0%||落選{{efn|{{仮リンク|カール・ヤーレス|de|Karl Jarres}}、[[オットー・ブラウン]]、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|-
|[[1925年ドイツ大統領選挙|1925年4月26日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|1,931,151票||align="right"|6.4%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[ヴィルヘルム・マルクス]]に次ぐ得票}}
|-
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年3月13日]](一次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|4,938,341票||align="right"|13.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|-
|[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年4月10日]](二次投票)||[[エルンスト・テールマン]]||align="right"|3,706,759票||align="right"|10.2%||落選{{efn|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]](当選者)、[[アドルフ・ヒトラー]]に次ぐ得票}}
|-
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.gonschior.de/weimar/Deutschland/Praesidenten.html Gonschior.de]
|}

=== 連邦議会(Bundestag) ===
[[西ドイツ]]の[[ドイツ連邦議会|連邦議会]](Bundestag)における共産党の党勢。
*選挙制度は[[小選挙区比例代表併用制]]
*選挙権は21歳以上の男女<ref name="国立">{{cite web|author1=佐藤令|author2=大月晶代|author3=落美都里|author4=澤村典子|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2008/200806.pdf|title=主要国の各種法定年齢 選挙権年齢・成人年齢引下げの経緯を中心に|work= 国立国家図書館調査及び立法考査局|accessdate=2018年5月29日}}</ref>
{| class="wikitable"
!選挙日!!選挙区得票<br>比例得票!!選挙区得票率<br>比例得票率!!議席 (総議席)!!順位
|-
|[[1949年ドイツ連邦議会選挙|1949年8月14日]]||align="right"|1,361,706票||align="right"|5,7%||align="right"|15議席 (402議席)||第6党{{efn|[[ドイツキリスト教民主同盟]]/[[キリスト教社会同盟]](CDU/CSU)、[[ドイツ社会民主党]](SPD)、[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)、[[バイエルン民族党]](BP)、[[ドイツ党]](DP)に次ぐ}}
|-
|[[1953年ドイツ連邦議会選挙|1953年9月6日]]||align="right"|611,317票<br>607,860票||align="right"|2.2%<br>2.2%||align="right"|0議席 (509議席)||議席無
|-
| align="center" colspan=5| 出典:[http://www.election.de/cgi-bin/content.pl?url=/btw.html Bundestagswahlen]
|}
|}


486行目: 621行目:
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=阿部良男|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=阿部良男|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=[[斎藤晢]]|year=1997|title=ヴァイマル共和国時代末期のドイツ共産党とその経営内活動|url=https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/10506|format=PDF|journal=明治大学社会科学研究所紀要36巻1号|publisher=[[明治大学]]|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=斎藤晢|year=1998|title=ヴァイマル時代末期のドイツ共産党とジェンダー|url=https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/8409|format=PDF|journal=政經論叢67巻1-2号|publisher=明治大学|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[佐瀬昌盛]]|year=1979|title=西ドイツ戦う民主主義 ワイマールは遠いか|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569203171|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[佐瀬昌盛]]|year=1979|title=西ドイツ戦う民主主義 ワイマールは遠いか|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569203171|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[高橋三郎 (社会学者)|高橋三郎]]|year=2000|title=強制収容所における「生」|series=SEKAISHISO SEMINAR|publisher=[[世界思想社]]|isbn=978-4790708285|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[成瀬治]]|author2=[[山田欣吾]]|author3=[[木村靖二]]|year=1997|title=ドイツ史〈3〉1890年~現在|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461406|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[成瀬治]]|author2=[[山田欣吾]]|author3=[[木村靖二]]|year=1997|title=ドイツ史〈3〉1890年~現在|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461406|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first1=ジャン=ジャック|last1=ベッケール|first2=ゲルト|last2=クルマイヒ|translator=[[剣持久木]]、[[西山暁義]]|year=2001上|title=仏独共同通史 第一次世界大戦(上)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000237963|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first1=ジャン=ジャック|last1=ベッケール|first2=ゲルト|last2=クルマイヒ|translator=[[剣持久木]]、[[西山暁義]]|year=2001上|title=仏独共同通史 第一次世界大戦(上)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000237963|ref=harv}}

2018年9月19日 (水) 10:46時点における版

ドイツの旗 ドイツ国政党
ドイツ共産党
Kommunistische Partei Deutschlands
成立年月日 1918年12月30日 - 1919年1月1日
前身政党 スパルタクス団
ドイツ国際共産主義ドイツ語版
ドイツ独立社会民主党左派
解散年月日 1946年ソ連占領地区、後の東ドイツ
1956年西ドイツ
解散理由 社会民主党との合併による改称(東)
連邦憲法裁判所の解散命令(西)
後継政党 ドイツ社会主義統一党(SED)(東)
ドイツ共産党 (DKP)(西)
本部所在地 ベルリン・ミッテ地区ドイツ語版カール・リープクネヒト・ハウスドイツ語版
党員・党友数
360,000人[1]
(1932年11月時)
政治的思想・立場 共産主義(マルクス・レーニン主義スターリン主義)[2]
プロレタリア独裁[3]
民主集中制[4]
反資本主義[5]
社会民主主義[6]
反ファシズム[6]
ヴァイマル共和政[6]
ヴェルサイユ条約[7]
機関紙 ローテ・ファーネ(赤旗)ドイツ語版
シンボル 党旗:
公式カラー
国際組織 コミンテルン
テンプレートを表示

ドイツ共産党(ドイツきょうさんとう、ドイツ語: Kommunistische Partei Deutschlands、略称:KPD(カー・ペー・デー))は、かつて存在したドイツ共産主義政党第一次世界大戦中の非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命直後の頃に結党され、ヴァイマル共和政期に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)とドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ第三党まで上り詰めたが、1933年にナチ党が政権を獲得すると禁止された。第二次世界大戦後に西ドイツでも東ドイツでも再興したが、西ドイツでは1956年に禁止され、東ドイツでは1946年に社民党を強制合併してドイツ社会主義統一党(SED)となり、東欧革命で倒されるまで独裁体制を敷いた。

概要

第一次世界大戦中、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発した急進左派カール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクらが創設した非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命でスパルタクス団指導者たちが釈放されるとスパルタクス団はロシア十月革命に倣った革命扇動を開始したが、反革命化を強めていた社民党政権と対立を深めた(前史)。1918年12月30日から1919年1月1日にかけての創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」を結成し、直後の1919年1月にスパルタクス団蜂起を起こすも社民党政権が出動させた義勇軍に殲滅されて失敗(ドイツ共産党の創設、→スパルタクス団蜂起(1月蜂起))。

リープクネヒトとルクセンブルクが義勇軍に虐殺されたので、代わってパウル・レヴィが党の指導者となる。1919年にはコミンテルンに加盟し、1920年7月にはコミンテルン参加に賛成するドイツ独立社会民主党(USPD)左派と合同してドイツ統一共産党ドイツ語版(VKPD)と改名した(翌1921年に「ドイツ共産党」の党名に戻る)。蜂起失敗の反省からレヴィは一揆主義者の追放を断行し、社民党や労働組合の中の反指導部層との共闘を図るという「統一戦線戦術」を推し進めたが、コミンテルンの方針に異を唱えたことからコミンテルンの不興を買って1921年2月に失脚した(レヴィ体制、→コミンテルン参加、→独立社民党左派の合流、→「統一戦線戦術」、→レヴィ失脚とブランドラー体制成立)。

代わってハインリヒ・ブランドラードイツ語版が党の指導者となる。1921年3月、ソ連の国内事情からドイツ革命を欲したコミンテルンの指示を受けてマンスフェルト武装蜂起ドイツ語版を起こしたが、中央政府が派遣してきた軍に鎮圧されて失敗した(1921年3月闘争の失敗)。

その後コミンテルンの方針変換を受けて、1921年8月の党大会で再び「統一戦線戦術」へ復帰したが、1923年のハイパー・インフレで生活困窮した労働者が急進化する中、その受け皿となるチャンスを逃しかねない「統一戦線戦術」への批判が党内左派から噴出。1923年秋にはコミンテルンが再び暴力革命路線へ転じたため、ブランドラーは1923年10月に「統一戦線戦術」に基づいてザクセン州テューリンゲン州の社民党左派の政権に共産党員を入閣させつつ、そこを拠点に革命軍事行動を開始しようとしたが、中央政府が送ってきた軍に鎮圧されて失敗(「統一戦線戦術」の復活、→1923年10月の蜂起計画の失敗)。

この10月敗北の責任はブランドラーの「統一戦線戦術」に帰せられ、ブランドラーは失脚。代わってルート・フィッシャーアルカディ・マズロードイツ語版など党内左派を中心とする指導部が発足した。しかしまもなくソ連ヨシフ・スターリンが左派レフ・トロツキーとの闘争を開始した関係で1925年にコミンテルンは再び「統一戦線戦術」に回帰。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われて1925年秋に失脚した(ブランドラー失脚と左派指導部の成立、→左派指導部と極左派の対立)。

代わってスターリンに忠実な親コミンテルン左派エルンスト・テールマンが党の指導者となった。テールマンははじめ中間派と指導部を形成して左派反対派を抑え込んだが、1928年になると左派政敵を始末したスターリンがブハーリンら右派政敵との闘争を開始したため、コミンテルンが再び左旋回。スターリンとテールマンは党内右派を粛清していき、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させ、もはやいかなる反対派も党内に存在する事は許されなくなった。また党の極左化で「社会ファシズム論」に基づく社民党排斥を強化するようになり、その闘争においては国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)とも共闘するようになった。社民党系のドイツ労働組合総同盟ドイツ語版(ADGB)への敵意も強め、その分裂を促して共産党系の革命的労働組合反対派ドイツ語版(RGO)を結成させた(フィッシャー失脚とテールマン体制の成立、→党内派閥抗争激化、→テールマン個人独裁のスターリン主義政党へ、→「社会ファシズム論」とナチスとの共闘、→革命的労働組合反対派

1929年の世界恐慌以降、急速に支持を拡大させ、国会選挙でも勝利を続け、ナチスや社民党に次ぐ第三党の地位を確立したが、1933年1月にヒトラー内閣が成立すると禁止されて地下に潜った(世界恐慌と共産党の台頭、→ナチス政権下)。

第二次世界大戦後に一時復興したが、西ドイツにおいては1956年に連邦憲法裁判所から禁止命令が出されて解散させられた。東ドイツにおいては、終戦後の1946年に社民党を強制合併して、東ドイツの独裁政党社会主義統一党(SED)となり、1989年の東欧革命で倒されるまで独裁体制を敷いた(戦後)。

党史

前史

スパルタクス団

1914年8月1日ドイツロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した[8]ドイツ社会民主党(SPD)は党派争い停止(「城内平和」)を求める政府の呼びかけに応じて戦争を支持した[9]

スパルタクス団の指導者であるローザ・ルクセンブルク(左)とカール・リープクネヒト(右)

しかしこの戦争を「帝国主義戦争」と捉えていたローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトフランツ・メーリングクララ・ツェトキンら党内の急進左派は反発し、1914年9月10日にもスイスで発行していた社民党系新聞紙上において党の戦争支持方針への公然たる反対声明を出した[10]。この社民党急進左派勢力がドイツ共産党の源流となる。

戦争が長期化する中、反戦思想は徐々に大衆に浸透しはじめた。その状況をエルンスト・マイヤーは次のように語っている。「食糧危機の増大、住民が兵役と軍需品工場での労働にますます激しく駆り立てられること、ブルジョワ的併合論者が厚かましく立ち現れるようになったことが、反対派のための有利な土壌を作り出した。非合法のビラがますます大量にばらまかれるようになった。ツィンマーヴァルト会議[注釈 1]のためにリープクネヒトが作った『城内平和でなく城内戦争を!』というスローガンは扇動的に大衆の中に染み込んでいった」[11]

反戦運動を行う非合法結社の創設を目指す急進左派勢力は、1916年1月1日にリープクネヒトの事務所に集まって全国協議会を開き、当時投獄されていたルクセンブルクが獄中からひそかに送った指針(戦争を支持したドイツ社民党、フランス社会党およびイギリス労働党は国際社会主義・労働者運動の裏切者であり、新しい労働者インターナショナルの創設が必要とする指針)を運動方針として採択するとともに『スパルタクス』という非合法書簡を発行することを決議した。この書簡ははじめ複写で広められたが、1916年9月からはレオ・ヨギヘスが警察の目を掻い潜りながら印刷で流布するようになった。この書簡の名から、この非合法結社は「スパルタクスロイテ」と呼ばれるようになった[12]

しかしリープクネヒトは1916年4月のデモで戦争反対を宣言して逮捕され、1年の懲役を終えて出獄していたルクセンブルクも7月に再び逮捕され、8月にはメーリングも逮捕された(ツェトキンはこの前年に逮捕)[13]。主要指導者が軒並み逮捕されたことでスパルタクスの運動は停滞した。

独立社会民主党

一方、社民党の主流派閥である「中央派」の中にも「城内平和」に否定的な者が徐々に増えていき、社民党の共同党首フーゴー・ハーゼを中心に平和主義的中央派「ハーゼ・グループ」が形成されるようになった。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老がハーゼを支持するようになり「ハーゼ・グループ」が勢いを増した[14]

この亀裂は帝国議会本会議における戦時公債の採決での社民党議員団の分裂という形で現れるようになり、1917年4月に潜水艦作戦とロマノフ帝政崩壊後のロシアに関する論争が起きたことで分裂は決定的となり、ハーゼを党首とする独立社会民主党(USPD)が分党した[14]

スパルタクス団はこの新党についても批判を加えていたが、一応参加することになった。その理由についてリープクネヒトは「我々が独立社民党に参加したのは同党を前進させ、同党を我々の鞭の届く範囲におき、最善の分子を同党から引き抜くためであった」と後に語っている[15]

革命的オプロイテ

「スパルタクス団」と並ぶ急進左派勢力として「革命的オプロイテ(Revolutionäre Obleute)」がある。これはリヒャルト・ミュラードイツ語版エミール・バルトドイツ語版が指導するベルリンの金属労働組合の代表者の集まりであり、組合の公式の指導部に造反して軍需工場内において抵抗運動を拡大させ、1916年以降ドイツ全土にその組織を広げていた勢力である[16][17]。1916年のリープクネヒトの判決の際にはストライキを組織し[18]、1917年と1918年のストライキも彼らが主導した[16]

彼らも一応独立社民党に所属していたが、同党幹部会の決定には従わず、むしろ同党に自分たちの意見を押し付けることを目指した[17]

スパルタクス団がマルクス主義理論家集団でしかなく、労働者大衆と直接結びついていなかったのに対し、革命的オプロイテは多数の労働者大衆を掌握しているという特徴があった。そのためスパルタクス団は宣伝を専らとしてアジテーションで民衆を街頭に駆り立てようとするが、オプロイテは秘密裏に革命計画を推進しようとする違いがあり、スパルタクス団の派手な宣伝活動はオプロイテにとっては迷惑だった(計画が熟しないうちに警察に発見されて摘発される恐れがあるので)。オプロイテはスパルタクス団を「一揆主義者(プッチスト)」と批判し、スパルタクス団の方はオプロイテを「臆病者」と批判し合っていた[19]

ブレーメン左派

カール・ラデック

急進左派勢力としてもう一つ重要な勢力にブレーメン左派ドイツ語版があった。彼らは機関紙の名前から『労働者政策ドイツ語版』グループとも呼ばれた[17]ヨハン・クニーフドイツ語版パウル・フレーリヒドイツ語版が『労働者政策』の編集員を務めていたが、その理論的立場はロシアのボルシェヴィキ指導者、ウラジーミル・レーニンニコライ・ブハーリン、そしてとりわけカール・ラデックから広範な指示を受けていた[17]

この派の影響力は専らブレーメンハンブルクに限られ[17]、独立社民党には当初から参加しなかった[15]

1918年11月には「ドイツ国際共産主義ドイツ語版(IKD)」と改名した[20]

ドイツ革命

1918年10月4日に連合国との講和を目的とするバーデン大公マクシミリアン内閣が発足し、社民党と中央党進歩人民党が政権に参加した。マクシミリアンはアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために議院内閣制導入など様々な改革を実施した[21]。その一環で政治犯釈放が行われ、リープクネヒトやルクセンブルクなど反戦運動で投獄されていた急進左派人士が続々と釈放された。彼らは釈放後、前年に起きたロシア十月革命を模範とした革命扇動を開始した[22]

11月3日から4日にかけて、無謀な作戦への動員を命じられたキール軍港の水兵たちが反乱をおこし、労働者がこれに加わって大勢力となり、キールは「レーテ」(労兵評議会)により実効支配された。他の主要都市でも次々と蜂起が起き、レーテが各主要都市を掌握するに至った[23][24]。この「ドイツ革命」と呼ばれる反乱は兵士と労働者による自然発生的な大衆革命運動であり、スパルタクス団や革命的オプロイテなど急進左派勢力が組織したものではないが、レーテはロシア革命のソヴィエト(評議会)に酷似していたため、急進左派勢力は大いに沸き、これを推進すべくますます激しい革命扇動を行うようになった[25]

11月9日にマクシミリアンはヴィルヘルム2世の退位を発表して社民党党首フリードリヒ・エーベルトに内閣を譲って退任した。この日の午後2時頃に社民党政権のシャイデマンが共和国宣言を行ったが、これに対抗してリープクネヒトは午後4時頃に「社会主義共和国」宣言を行っている[26]

1918年11月23日のスパルタクス団機関紙『ローテ・ファーネ(赤旗)ドイツ語版

また同日スパルタクス団は『ベルリン・ローカル・アンツァイガードイツ語版』紙の編集局を占拠してスパルタクス団機関紙『ローテ・ファーネ(赤旗)ドイツ語版』編集局に変えた[27]。ついで11月11日にスパルタクス団は指導部を創設し、リープクネヒト、ルクセンブルク、メーリング、ヨギヘス、マイヤー、パウル・レヴィヴィルヘルム・ピークヘルマン・ドゥンカードイツ語版ケーテ・ドゥンカードイツ語版パウル・ランゲドイツ語版ベルタ・タールハイマードイツ語版フーゴ・エーベルラインドイツ語版がそのメンバーとなった。このうちリープクネヒト、ルクセンブルク、タールハイマー、レヴィ、ランゲは『ローテ・ファーネ』編集局を構成し、ヨギヘスは全国指導部(組織部)、エーベルラインは労働組合部、ドゥンカー夫妻は夫人及び青年工作、ピークはベルリンでの工作、マイヤーは広報をそれぞれ担当した[28]

社民党政権と急進左派の対立

1918年11月10日、エーベルト社民党政権は独立社民党に政権参加を呼びかけたが、独立社民党は政権参加の条件としてレーテによる全権掌握を要求、社民党は「一階級の一部の独裁であり、民主主義の原則に反する」としてこれに反対し、国民議会を招集すべきした。結局、独立社民党が譲歩し国民議会招集を急がないことのみを条件として政権参加し、社民党と独立社民党が3名ずつ代表を出し合う仮政府「人民代表評議会ドイツ語版」が創設された[29]

一方レーテ全権掌握(議会排除)を独立社民党以上に強力に要求する立場だったスパルタクス団や革命的オプロイテなど在野の急進左派勢力は、仮政府創設に反発を強めた。革命的オプロイテは別政府を作ろうと労兵評議会の扇動を開始したが、仮政府も対抗して労兵評議会の多数派工作を行い、結果11月10日に「ツィルクス・ブッシュ」で開かれたベルリン労兵評議会は人民代表評議会を承認する決議を出した[30]。仮政府議長エーベルトは国民議会召集を急いでいたが、革命的オプロイテのミュラーはこれに反対し「国民議会への道は我が屍の彼方にある」と演説して「屍(ライヘン)ミュラー」と呼ばれた[31]

スパルタクス団のルクセンブルクも議会政治に反対してレーテ全権掌握を主張したが、彼女はロシア革命においてレーニンが取った手法には反民主的な物が含まれることを認め、それに批判を加えていた[32]。そのため彼女は12月14日の『ローテ・ファーネ』紙上において発表したスパルタクス団綱領の中で国民議会かレーテかという対比から出発しつつ「プロレタリア革命は少数派の絶望的な試みではなく、何百万という人民の行動であり、その目的のためには何らのテロも必要としない」と宣言した[33]

しかしこの綱領は急進化するスパルタクス団の団員の革命熱を抑えることはできなかった。スパルタクス団は戦時中にはマルクス主義理論家を中心に構成されていたが、1918年11月の革命後は、革命的情熱こそ強いが政治経験や理論的思索が皆無の若い労働者、帰還兵、失業者などが大量に入団して多数を占めるようになっていたためである[34]

ドイツ共産党の創設

1918年12月24日にベルリンで開かれたスパルタクス団の全国協議会には、ドイツ国際共産主義(ブレーメン左派)の指導者カール・ラデックが出席し、スパルタクス団とドイツ国際共産主義の合同が提案されたが、リープクネヒト以下スパルタクス団幹部の多数がそれを支持し、合同が決議された[35]

そして12月30日から1919年1月1日にわたって開かれた創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」が正式に創設された[36]。革命を続行せよというレーニンの要求に無条件に従い、レーテによるプロレタリア独裁を目指すことが決議されるとともに[37]、最初の中央委員にはリープクネヒト、ルクセンブルク、ヨギヘス、レヴィ、ピーク、ドゥンカー夫妻、エーベルライン、ランゲ、タールハイマー、マイヤー、フレーリヒが選出された[38]

初期の共産党は独裁政党ではなく、内部に意見対立が存在していた。この創立大会でもマルクス主義理論家(ルクセンブルク、リープクネヒトら)とそれより左の急進的活動家の対立が目立った[39]。とりわけそれが顕著だったのが国民議会選挙参加問題の論争だった。リープクネヒトやルクセンブルクは国民議会選挙に参加することに賛成したが、代議員の多数を占める急進派はレーテ体制への信奉を急進的な反議会主義と解していたため、これに反対した。彼らに押される形で選挙参加戦術は圧倒的多数で否決されている[40]

この創立大会の後、革命的オプロイテにも「ドイツ共産党・スパルタクス団」への参加が要請されたが、彼らはその条件として選挙ボイコット決議の撤回、一揆主義の放棄、同等の立場での綱領作成、スパルタクス団という名称の削除を要求、スパルタクス団がこれを拒否したため決裂した(ただ革命的オプロイテは1920年以降ほとんど影響力を失い、そのメンバーの多くは共産党に参加している)[41]

スパルタクス団蜂起(1月蜂起)

蜂起するスパルタクス団員。

1918年12月24日、極左の人民海兵団ドイツ語版が起こした反乱の鎮圧をめぐって社民党が発砲を許可したことに反発した独立社民党は社民党政権から離脱した[42]。独立社民党はプロイセン州の社民党政権からも離脱したが、このときに革命的オプロイテに近い独立社民党のベルリン警視総監エミール・アイヒホルンドイツ語版が辞職を拒否したので、1919年1月4日に社民党政権は彼を罷免した[43]

これに反発した独立社民党、共産党、革命的オプロイテは労働者にデモを呼びかけることを決定した。この呼びかけに応じて1月5日にベルリンの街上に20万人を超える人々が結集し、社民党政権を糾弾する大規模デモが起きた[44]。この日、警視庁にはオプロイテと共産党の指導者(共産党代表はリープクネヒトとピーク)が集まっていたが、予想外のデモの集まりの良さを見て、これを政府転覆の暴力革命へ転化させるべきか否かが論じられた。オプロイテのミュラーは反対したが、共産党のリープクネヒトや独立社民党の長老でオプロイテに近かったゲオルク・レーデブールドイツ語版は革命の時と主張した。結局政府転覆を目指す事が決議され、リープクネヒト、レーデブール、パウル・ショルツェドイツ語版をメンバーとする革命委員会が設置された。革命委員会はエーベルト政権の終焉と革命政府の樹立を宣言した[45]

デモ隊は夜には大部分が解散したが、一部は新聞街へ進撃し、社民党機関紙『フォアヴェルツドイツ語版』編集局などを占拠した。これは革命委員会が予期した事態ではなく、革命委員会は夜通しで次の行動を議論したが、結局デモとゼネストの決定にとどまった[46]

翌6日には前日を上回る数の人々がデモに参加し、警視庁前に集まって革命委員会の命令を待ったが、革命委員会は終日協議を続けて結論を出せなかった[46]。共産党指導部も分裂しており、リープクネヒトとピークを含む少数派は「武装蜂起による政府打倒」に固執したが、多数派は見込みがないとしてそれに反対した[47]。夜になるとデモ隊は再び解散、革命の機運は雲散霧消した。革命委員会が結論を出せずにこの日を無為に過ごしたことは致命的となった[46]

その間、社民党政府はグスタフ・ノスケに最高指揮権を与えて反徒掃討のための義勇軍(フライコール)を編成していた。1月8日に義勇軍が出動し、建物を占拠している反徒たちへの攻撃を開始した。反徒たちは孤立無援の中でよく戦ったが、12日までには大勢は決した。その後は掃討戦となり、多くの反乱関与嫌疑者が十分な捜査もなく銃殺されていった。リープクネヒトとルクセンブルクも15日に市内の隠れ家で逮捕され、連行の途中で虐殺された[48]。ちなみにルクセンブルクはリープクネヒトと違ってこの蜂起に反対していたが、リープクネヒトが決起した後には公然と彼を批判することができず、大衆に向けてはこの挙が成功するよう支援を呼び掛けるという曖昧な立場だった[49]

ミュンヘン・レーテ共和国

バイエルンミュンヘンでは1918年11月8日の革命でヴィッテルスバッハ王政が打倒された後、独立社民党に所属するクルト・アイスナーを首相とする社民党と独立社民党の連合政権が作られた。アイスナー政権はレーテを敵視せず、むしろそれを積極的に自己の基盤としたためバイエルンの政情は比較的安定していた[50]

バイエルンにおける在野の極左勢力としては当初アナーキスト勢力があり、彼らが「ボルシェヴィスト」「スパルタキスト」と呼ばれたが、それはミュンヘンにおける共産主義者の結集が遅かったためだった[51]。ミュンヘンにスパルタクス団グループが生まれたのは、1918年12月11日になってのことであり、当初マックス・レヴィーンドイツ語版によって指導された。レヴィーンは、反組織的な(=プロレタリアの革命的意思を特定の政党の下に置くことに反対する)アナーキストとも共闘行動をとったが、それはスパルタクス団がまだミュンヘンに十分な基盤を持っておらず、また「前衛党による排他的指導」という後年の思想を確立させていなかったためだった[52]

第二期の共産主義的レーテ共和国を指導したオイゲン・レヴィーネ

1919年2月21日にアイスナーが暗殺されると行動委員会が執行権を引き継いだが、レヴィーンもこの委員会の委員の一人に就任している。この事実はすでに共産党がミュンヘンにおいて無視できない勢力になっていたことを意味する[53]。3月初めにベルリンからオイゲン・レヴィーネが送られてきて共産党を指導するようになると共産党は独自路線を取るようになり、原則として独立社民党やアナーキストの共闘を拒否するようになった[54]

事前のレーテの決議に基づいて3月17日のバイエルン議会で社民党のヨハネス・ホフマンが首相に選出されたが、ホフマンはレーテの決議を無視して独自の閣僚人事を行ったためレーテ勢力(独立社民党、アナーキスト、共産党)と対立を深めた[55]エルンスト・トラーを中心とした独立社民党やアナーキスト勢力はホフマン政権を倒してレーテ共和国を作る策動を開始したが、共産党は指導権が自分たちに属する計画のみに加わるとして参加を拒否した[56]。4月7日にトラーがレーテ共和国の樹立を宣言するとホフマン政権はバンベルクへ亡命し[57]、4月11日にはレーテ共和国とホフマン政権の間で交戦が始まり、バイエルンは内乱状態に突入した[21]

一方このレーテ共和国を「似非レーテ」と批判していた共産党は、オプロイテとともに新しいレーテを結成し、4月13日のレーテにおいて、現在のレーテ共和国の罷免と改めて共産主義的なレーテ共和国を樹立することを宣言した。この第二期の共産主義レーテ共和国を主導したのはレヴィーネと赤軍司令官に就任したルドルフ・エーゲルホーファードイツ語版(キール軍港反乱の際の反乱水兵たちのリーダー)だった[58]

一方バンベルクのホフマン政権はベルリン政府に援軍を求め、それに応じて政府軍がバイエルンに派遣されてきた。武力介入の危機を前にレーテ共和国内は内部分裂を起こし、4月27日には激論の末に共産党が行動委員会から退き、レヴィーネも退任することになった[59]。代わりにトラーが議長に就任し、ホフマン政権との妥協交渉を開始したが、ホフマン政権から拒絶された[21]

4月28日には赤軍が行動委員会を解散させ、ミュンヘンへ向けて進軍中の政府軍との決戦に備えた。政権から退いていた共産党も赤軍に依拠してこの絶望的な決戦に参加するしかなかった[60]。4月30日にはミュンヘンが政府軍に包囲され、赤軍は人質として捕らえた者たちを銃殺した。5月1日から5月4日にかけてミュンヘン市内と郊外で政府軍と赤軍の戦闘が開始された[61]。結局赤軍は破れてレーテ共和国は壊滅。その後ミュンヘン市内では政府軍による白色テロが吹き荒れた。レヴィーネも6月3日に軍法会議にかけられて死刑判決を受け、6月5日に銃殺された[61]。レヴィーネは死刑判決を受けた際「我々共産主義者は皆、死によって休息するのだ」と述べたという[62]

レヴィ体制

一揆主義者を党から追放したパウル・レヴィ

1919年1月蜂起でリープクネヒトとルクセンブルクが殺害された後、パウル・レヴィが党を指導するようになった[63]。彼はルクセンブルクの信奉者であり、党の多数を占める極左分子の一揆主義には反対していた[49]

1919年3月にベルリンでゼネストと人民海兵団の蜂起があり、社民党政府は一月蜂起の時と同様に義勇軍を動員して武力鎮圧した。この際にレヴィ指導下の共産党は『ローテ・ファーネ』紙上でゼネストを呼びかけつつも武装蜂起には一貫して反対した[64]。しかしその呼びかけもむなしく、多くの一揆主義者の共産党員が蜂起に参加し、義勇軍による反徒掃討を受けて多くの共産党員が虐殺された。その中には共産党指導者の一人ヨギヘスも含まれた。社民党政権は共産党を非合法化し、『ローテ・ファーネ』も発禁処分にした。4月からは戒厳令が布告され、多数の共産党員が党員であるというだけで投獄されるようになった[65]

このような状況下でレヴィは一揆主義者を党から追放する必要があると痛感した[66]。1919年10月に非合法裡に開いた第2回党大会でレヴィは党の新方針を定め、その中で国会選挙参加方針を打ち出した(党内の反発を抑えるため、選挙参加は議会政治容認ではなく「革命的闘争への準備的手段」にすぎないと定義した)。また党は中央集権的組織でなければならないとし、「方針に賛成しない党員は党から排除される」と定めた[67]

一揆主義者はこの新方針に反発し、続々と共産党から離党した(彼らは1920年4月にドイツ共産主義労働者党ドイツ語版(KAPD)として結集した)。分裂前には10万7000人を数えた党員数は、この分裂によって半分にまで落ち込んだ。特にベルリンの党員は反レヴィ派が多かったので大多数が離党している[68]

コミンテルン参加

ロシアのボルシェヴィキは1918年から社会民主主義者の第2インターナショナルとは別の新しいインターナショナル(「コミンテルン」)を作ろうと策動していた。スパルタクス団のローザ・ルクセンブルクは新インターナショナル創設には賛成していたものの、それがロシアの道具となることには反対していた[69]

その立場からレヴィ指導下のドイツ共産党もコミンテルン創設には当初反対の立場を取った。1919年3月にモスクワで開催された「国際会議」にドイツ共産党代表として出席したエーベルラインは「我々はいまだ脆弱であるので第2インターナショナルと張り合ってはならない」と主張したが、それに対してロシア共産党(ボルシェヴィキ)のグリゴリー・ジノヴィエフは「我々は一つの大きな国で勝利したプロレタリア革命を持ち、さらに二つの国々で勝利に向かいつつある革命を持っている。だのに『我々はまだ弱い』とは!」と激高し、レーニンも「全世界におけるプロレタリア革命の勝利は確実である。国際的レーテ共和国は樹立されるであろう」と断じた[70]。結局ドイツ共産党は圧迫されて反対票を投じることができず、コミンテルン創設が決議され、エーベルライン帰国後にはドイツ共産党はロシア以外の共産党として初めてコミンテルンに加盟することになった[71]

反ヴァイマール共和政・反ヴェルサイユ条約

1919年1月19日に行われた国民議会選挙に共産党はボイコットしていたため、2月6日からヴァイマールで開かれた国民議会に共産党議員はいなかった。国民議会では6月22日にヴェルサイユ条約が批准され、7月23日には当時世界で最も民主的と言われれたヴァイマール憲法が可決されてヴァイマール共和政の基本体制が築かれた[72]。共産党はヴァイマール憲法はブルジョワ共和政の憲法として批判し、ヴェルサイユ条約は西方帝国主義への抵抗とソヴィエト・ロシアとの連携という立場から反対した[73]

このヴェルサイユ条約反対の立場のために共産党はインターナショナルを標榜しながらナショナリスティックに振舞うことがあった[7]

独立社民党左派の合流

1863年から1933年のドイツ左翼政党の変遷図

独立社民党には右派と左派があったが、左派は共産党と大差がなく、とりわけ一月蜂起以降は共産党がレヴィの指導下に右派的な方針を取るようになったため、意見の違いがほとんど見られなくなっていた[74]

1920年7月のコミンテルン第2回世界大会には独立社民党も出席したが、この大会で独立社民党はコミンテルンからコミンテルン参加の条件として21か条を突き付けられ、コミンテルンへの絶対服従や「悪名高き日和見主義者」の追放(カウツキーやヒルファーディングなどの幹部の実名を例示していた)などを要求された[75]

10月の独立社民党大会は、コミンテルンがあらかじめ多数派工作を行っていたため、コミンテルン参加と共産党との合同が決議されたが、右派はこれに反発して独立社民党に留まることになった。コミンテルンの高圧的態度は左派からも反発を招いており、結局共産党へ移った独立社民党員は党員80万人のうち30万人、国会議員では4分の1にとどまった[75]

1920年12月4日から7日にかけて開かれた共産党と独立社民党左派の合流大会において共産党は「ドイツ統一共産党ドイツ語版」(Vereinigte Kommunistische Partei Deutschlands, 略称VKPD)と改名した(1921年8月の党大会で「ドイツ共産党」の党名に戻っている)[76]。新たな中央部には議長としてレヴィとエルンスト・ドイミヒドイツ語版、書記としてツェトキン、ヴィルヘルム・コェーネンドイツ語版ハインリヒ・ブランドラードイツ語版オットー・ブラースドイツ語版ヴォルター・シュトェッカードイツ語版、ピーク、ヘルマン・レンメレドイツ語版、部員としてアドルフ・ホフマンドイツ語版、タールハイマー、クルト・ガイヤードイツ語版フリッツ・ヘッケルトドイツ語版オットー・ガエベルドイツ語版が就任。独立社民党と共産党それぞれ半数ずつで指導部を構成する形となった[77]

「統一戦線戦術」

レヴィは1921年1月に労働組合や社民党・独立社民党の組織との「統一戦線戦術」を打ち出し、共同活動のための最低綱領を「公開書簡」としてまとめ、その中に「賃金をインフレに適応させること」「プロレタリアの自衛組織を作ること」「ロシアとの関係を認めること」「経営レーテによる生産管理」などの条件を盛り込んだ。社民党執行部はこれを拒否したが、社民党の地方機関では公開書簡に基づく共同活動に賛成する者が多かったため、レヴィは社民党執行部の拒否の書簡を公表して統一戦線の宣伝をつづけた[78]

しかしその直後にレヴィが失脚する事件が発生した。

レヴィ失脚とブランドラー体制成立

1921年初めに開かれたイタリア社会党(同党は大戦中に反戦を貫いたためドイツ社民党のような左右分裂が起きなかった)の党大会においてコミンテルンから派遣されたハンガリー人ラーコシ・マーチャーシュは同党から右派を追放してコミンテルンに加入させようとしたが、このやり口は右派のみならず中央派の怒りも買い、結局左派がイタリア共産党として分党することになった。この党大会にはレヴィも参加していたが、彼もラーコシに反対した。その後ラーコシはドイツにやって来てドイツ共産党に支持を求めたが、そこでレヴィは公然たるラーコシ批判を行った[79]。レヴィはコミンテルンのやり口はセクトの利益のために大衆政党の発展を妨げていると考えていた[80]

しかし共産党内におけるコミンテルンの権威は絶対であったので[81]、ラーコシを批判したレヴィは「調停派」「日和見主義者」とのレッテルを貼られるようになった[80]。コミンテルンから送られてきたラーコシとクリスト・カバクチェフが中央委員会の過半数を獲得し、1921年2月の中央委員会総会においてレヴィ、ドイミヒ、ツェトキン、ホフマン、ブラースが指導部から解任された[80]

代わって「左派」(親ラデック派)や「ソヴィエト派」(ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ、シュトェッカー)が主導権を握るようになり、とりわけブランドラーによって党が指導されるようになった[82]

1921年3月闘争の失敗

警察に連行される3月闘争ドイツ語版で蜂起した共産党員

1921年3月にロシアでクロンシュタットの反乱が起こり、ソヴィエト体制は崩壊寸前に陥った。コミンテルンはソヴィエト体制を救うにはドイツ革命を起こすしかないとし、ハンガリー革命指導者クン・ベーラをドイツへ派遣。このクン・ベーラの指揮のもと、ブランドラー指導下のドイツ共産党は統一戦線戦術を破棄して、1921年3月に共産党が優勢な鉱山都市マンスフェルトを中心に3月闘争ドイツ語版と呼ばれる武装蜂起を起こした。マンスフェルトを数日間支配することに成功したものの、中央政府が派遣してきた軍に掃討され、壊滅的失敗に終わった[81]

レヴィは小冊子『我々の道、一揆主義に抗して(Unser Weg. Wider den Putschismus)』を発刊して、3月闘争を一揆主義と批判し、それを扇動したコミンテルンやボルシェヴィキも批判した。しかし4月の中央委員会総会は「3月闘争は1919年闘争のごとき一揆主義ではなかった」とする見解を採択し、レヴィを中央委員会から追放した[83]。5月に入るとツェトキンがレーニンを説得して3月闘争の失敗を認めさせ、クン・ベーラら攻勢主義者に有罪が申し渡されたが、レヴィの復権は認められなかった[84]。その理由についてレーニンは「レヴィの言うことはすべて正しい。しかし彼は小冊子を書くことで党への裏切りを犯した」と述べている[85]

この騒動で党を追われることになったレヴィ、ドイミヒ、ブラース、ホフマン、ハインリヒ・マルツァーンドイツ語版らは共産主義労働者団ドイツ語版(KAG)を結成した(同党は1922年に独立社民党に合流している)[84]

クン・ベーラも失脚し、コミンテルンの対ドイツ責任者はラデックに戻った[86]

「統一戦線戦術」の復活

1921年6月から7月にかけてのコミンテルン第3回世界大会は、3月闘争について誤謬があったとしつつも「自らの力で革命の進展に関与し、革命を促進し、それによって大衆に対する指導権を獲得しようとした最初の試み」と評価し、コミンテルンやロシア共産党への批判は許さず、レヴィの除名を承認した。そのうえで改良主義者との「統一戦線戦術」を進めることをドイツ共産党に指令した。この指令を受けてブランドラー率いるドイツ共産党は1921年8月の党大会で統一戦線戦術に立ち戻ることを決定した[87]

以降共産党は、統一戦線戦術のもと広範な階級闘争(賃金闘争、税金闘争、八時間労働とストライキ権の防衛など)に参加するようになり、労働組合や経営レーテにおいて勢力を拡大させた。社民党系の労働者陣営にも着実に浸食し、1921年後半から1922年にかけて(とりわけ1922年中)党は著しく強化された[86]

1921年終わり頃にザクセン州テューリンゲン州の社民党員の間で共産党との提携を望む声が高まっていたことを受けて、1922年1月22日と23日の共産党中央委員会は社民党との連合政権を念頭にした「労働者政府」というスローガンを決定した[86]。共産党がこれまで散々「裏切り者」扱いしてきた社民党最高幹部層との連合はさすがに不可能だったが、社民党の下部指導者や反幹部層と連合政権を作ることは可能との判断だった[88]

1922年6月24日にヴァルター・ラーテナウ外相が右翼テロ組織コンスルに暗殺されると反動に対抗してヴァイマル共和政を護ろうという大衆デモが広まった。共産党は「ブルジョワ共和政」を守る立場ではないが、統一戦線戦術に基づきこの運動に対する影響力を獲得しようとした。そのためブランドラーは党内左派の反対を押し切って、労働組合や社会主義諸政党との間に「共和国の民主化」(共和国保護法制定、軍事的秘密組織の解体、行政・司法・軍から反動を追放する等)を目指す「ベルリン協定」を締結した。しかし当時の共産党は貧弱な勢力だったし、社民党もブルジョワ諸政党との連立政策を放棄してまで徹底したいと思っていなかった。結局、この協定の内容で実現したのは1922年7月に成立した共和国保護法だけだったが、この法律も警察や司法は君主制復古主義者に対してではなく、専ら共産党に対して適用した[89]

ルール闘争

1923年1月11日、ヴェルサイユ条約不履行を理由にフランス軍がルール地方を占領した。この横暴にドイツ中で怒りが巻き起こり、ヴィルヘルム・クーノを首相とするドイツ政府(中央党、民主党、人民党、バイエルン人民党というブルジョワ諸政党の連立政権)は「消極的抵抗」(占領地内の公務員に占領軍の命令に従うことを禁じ、またドイツ人が石炭の提供と運搬を行うことを禁止)を呼びかけた。この呼びかけは国民から熱烈に支持され、社民党もブルジョワ諸政党も軒並み支持した[90]

一方共産党はルール占領に先立つ1月7日の独仏共産党代表者会議でフランス帝国主義の危険に対抗して独仏の革命勢力を結集させる事に合意していたため、「ポアンカレをルールで、クーノをシュプレー川で打倒せよ」というスローガンのもとに独仏双方のブルジョワに対する闘争を開始したが、まもなくドイツ共産党はドイツ政府に対する闘争を二の次にしてフランスに対する消極的抵抗を徹底的に支援するという方針に切り替えた[90]。これは1922年4月にソ連政府とドイツ政府の間にラッパロ条約が結ばれて以来、ソ連がドイツよりも英仏を危険視してフランスによるルール占領を批判していたためである[91]。今やソ連はドイツ革命を起こすことよりもドイツ全体を反西欧闘争に駆り立てる方が自分たちの利益になると考えていたのである[92]

ルール闘争中、ドイツにハイパー・インフレが到来した[93]。インフレは労働者の生活を困窮させ、労働者大衆を先鋭化させた。社民党指導部はその救済手段を打ち出せなかったので、共産党がこうした層を取り込むのは容易なはずであった。ところが当時共産党が掲げていた「統一戦線戦術」「労働者政府」方針は、革命行動を抑える物であったので、先鋭化している大衆の受け皿になるチャンスを逃しかねない物だった。これを危惧したルート・フィッシャーアルカディ・マズロードイツ語版エルンスト・テールマンらは、あまりにコミンテルンに忠実なブランドラーの右派的方針を批判して党内左派を形成するようになった[92]

1923年10月の蜂起計画の失敗

1923年10月のザクセン。軍によって逮捕される共産党員

1923年秋にドイツ政府がルール闘争を中止して英仏と手を結ぼうとしていることが明らかになるに及んで、コミンテルンは再びドイツに暴力革命を起こす方針に転換した[94]モスクワに召還されてその指令を受けたブランドラー以下ドイツ共産党指導部は同地で武装蜂起計画を練ってから10月初めにドイツへ帰国。その計画とはザクセン州やテューリンゲン州の社民党政権に参加して各部署を引き継いだ後、中部ドイツから軍事的出撃を行うことだった[95]

ザクセン州ではルール闘争中に社民党左派エーリヒ・ツァイグナーを首相とする内閣が組閣していたので共産党の入閣は容易であり[94]、10月10日にも共産党のブランドラー、ヘッケルト、パウル・ベトヒャードイツ語版が入閣した。ついで10月16日には、同じく社民党左派のアウグスト・フレーリヒドイツ語版が首相を務めているテューリンゲン州政府に共産党のカール・コルシュテオドール・ノイバウアードイツ語版アルビン・テンナードイツ語版が入閣した[96]。共産党はこの2州で赤色軍事組織の編成を開始し、その指揮を執るためにソ連から数百人の将校が送り込まれた[94]

事態を危険視したベルリン政府は10月20日にも大統領緊急令によりザクセン政府の解任を宣言し、国防軍をザクセンへ出動させた。共産党はこれに対抗してゼネストと武装闘争を決定したが、社民党左派から武装蜂起の同意を得られなかったため、共産党も退却を決定するしかなくなった[95]。しかしこの武装蜂起中止の決定より早くハンブルクに伝令が送られてしまい、10月24日から26日にかけてハンブルクで数百人の共産党員が武装蜂起を起こした。この蜂起は大衆から孤立しており、数万人のスト中のドック労働者すら蜂起に参加させられないまま警察に鎮圧された[97]

国防軍はさしたる抵抗にあうこともなく10月29日にザクセン首都ドレスデンへ入城し、10月30日にザクセン州政府を解体した。数日後にはテューリンゲン州政府も同様の末路をたどった[98]。ザクセン州政府解任に抗議する共産党のゼネストアピールも全国で弱弱しい反響しか引き起こさなかった[97]

蜂起計画はまたも完全な失敗に終わり、11月23日には中央政府によって共産党は再び非合法化された[97]

ブランドラー失脚と左派指導部の成立

左派指導部の中心となったルート・フィッシャー

武装蜂起を命じたコミンテルンやロシア共産党は例によって責任を取らず、責任はブランドラーが取らされることとなった[94]。それに乗じて、もともと「統一戦線戦術」に批判的だった党内左派は、10月敗北の原因を右派ブランドラー指導部が「統一戦線戦術」で社民党との連携を重視して革命を裏切ったためだと批判するようになった[99]

コミンテルン内ではラデックが依然としてブランドラーを擁護したが、ジノヴィエフは左派と手を結ぶ用意を始めていた。折しもソ連ではレーニンの後継者を巡る権力闘争の最中であり、トロイカ(ジノヴィエフ、カーメネフスターリン)とトロツキー及びその友人ラデックの対立が起きていた。そのため両陣営間で10月敗北の責任の押し付け合いが発生し、最終的にはブランドラーとラデックに全責任があるとされた[100]

たださしあたってブランドラーは解任されず、ブランドラーを中心とする右派、テールマン、フィッシャー、マズローら左派、その間の中間派で派閥抗争が行われるようになった。しかしまもなく左派が圧倒的に有利となっていった[101]。1924年2月19日のハレでの第4回中央委員会ではテールマンがブランドラーを激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議した[102]

1924年3月1日に共産党禁止が解除されたが、依然として共産党指導者には逮捕令が出ている者が多かったので4月7日にフランクフルトで開かれた党大会は非合法理に行われた。党大会の代議士は四分の三を左派が占めたため、左旋回の方針が採択された。これまでの右派の方針、すなわち日常的スローガン(賃上げ要求など)から過渡的諸要求(生産管理、労働者の武装など)を経て最終目標(プロレタリア独裁、武装蜂起)へ向かうことで大衆を改良主義の「低地」から革命的共産主義の「高地」へ導くことができるとする方針は「大衆の改良主義的幻想を強めただけだった」として否定され、「政権奪取、すなわちブルジョワの打倒、ブルジョワ国家機構の破壊、レーテ独裁樹立と社会主義建設は、進化によってではなく革命によってのみ生まれる」「共産主義者は資本家、国粋主義者および改良主義者に反対し、ドイツ労働者階級をブルジョワジーに対する勝利に、またレーテ権力の樹立に導くであろう」と定めた。これにより共産党は再び「統一戦線戦術」を放棄して社民党の完全な解体を目指すことになった[103]。党指導部の選出も左派が圧倒的多数を占め、テールマンもこの際に政治局入りを果たした。党の指導権はフィッシャーとマズローによって握られるようになった[104]

続く数か月で左派指導部は中間派を解体し、ハレ=メクセブルクドイツ語版エルツ山地フォークトラントドイツ語版のような、なおも指導部に反抗していた地区を従わせることに成功した[104]

コミンテルン第5回大会(1924年6月17日-1924年7月8日)ではドイツ共産党代表団は、一致団結して右派(特にラデック、ブランドラー、ツェトキン)を批判した[105]

左派指導部と極左派の対立

1925年3月の大統領選挙で選挙活動するドイツ共産党員たち。

しかしドイツはじめ西ヨーロッパはすでに戦後混乱期を抜けて安定期に入っており、もはや左派の持論たる世界革命の芽は無くなりつつあった。1924年10月になるとスターリンがトロツキーの世界革命論と袂を分かち、孤立したロシアにおける社会主義建設とその他の世界における資本主義の一時的安定が並存するという見解を有するようになった。それに伴ってコミンテルンやソ連外共産主義の役割も、世界革命ではなく、ロシアにおけるボルシェヴィキの支配を強化し、また世界におけるソ連の地位の確立に貢献することへと変化していった[106]

その立場から1925年3月から4月のコミンテルン執行委員会拡大総会は、ブランドラーとタールハイマーの除名を宣言すると同時にフィッシャー、マズローのグループに対して右旋回を受け入れるよう圧力をかけた。すなわち社民党系労働者と連携して社民党指導部と対決し、ソ連を包囲しようとする企図に対抗する統一戦線を構築しなければならないとする方針である。フィッシャーは権力を手放すまいとコミンテルンの再度の「統一戦線戦術」の方針に従ったが、ヴェルナー・ショーレムら「極左派」は反発し、左派指導部が分裂することになった[107]

このスターリンとコミンテルンの態度変化に直面して左派を支援していたジノヴィエフもついに「ドイツにおける資本主義の一時的安定」の事実を認め、「ドイツにおける第二の革命を準備する基盤にあくまで踏みとどまる」ことを要求するようになり、極左派を批判するようになった[108]

後ろ盾をなくした極左派は不利になり、1925年7月の党大会ではフィッシャー、マズロー、テールマンら左派指導部が極左派に対して勝利を収めた。そして党大会は「社会民主主義的反革命を打ち破ることは共産党の主要任務」「共産党が唯一の労働者政党としてプロレタリアートの指導権を獲得しなければならない」としながらも、社民党系組織が反ボルシェヴィキ扇動に反対するならば連携する用意があることを決議した[109]

フィッシャー失脚とテールマン体制の成立

1926年にフリードリヒスフェルデ中央墓地ドイツ語版に建設された革命記念碑ドイツ語版の前で演説するテールマン(1926年6月13日)

しかしスターリンはドイツ共産党左派に不信感を持っており、フィッシャーやマズローはその日和見主義にもかかわらず、依然として「左翼的」自信を有しており、党の右旋回を拒否するだろうと感じていた。そのため1925年7月の党大会で選出された左派指導部はその直後から「コミンテルンとの一致において欠けるところあり」と批判されるようになった[110]

コミンテルン執行委員会は1925年8月にもドイツ共産党員に宛てて「公開書簡」を出した。この書簡は、コミンテルン執行委員会に対するマズロー=フィッシャーグループの二心的態度によってドイツ共産党内に反モスクワ的・反レーニン主義的理論が出現していることを指摘したうえで、分派としての左派は解体して全ての見解をコミンテルン路線へ結集することを要求していた。このモスクワからの圧力により、フィッシャーとマズローは党内で孤立を深め、1925年秋には党指導部から追放された[111]

フィッシャーと手を切ってモスクワに絶対忠誠を誓ったテールマンやフィリップ・デンゲルドイツ語版オットーマル・ゲシュケドイツ語版エルンスト・シュネラードイツ語版ら親コミンテルン左派が代わって指導部を掌握することになった。とりわけテールマンによって党は指導されていくことになった[112]。テールマン指導部はドイツにおけるスターリン派となっていく一方、フィッシャーやマズローらはジノヴィエフと通じた左翼反対派を形成するようになった[113]

テールマン体制下での最初の新コースは、ブランドラーとフィッシャーの「左右の行き過ぎ」を避けて中間的な路線を取るものであり、この路線は1928年から1929年頃に極左路線に転換するまで維持されることになった。これはトロツキーとジノヴィエフに対する闘争でニコライ・ブハーリンら右派の協力を得ながらも左派回帰の可能性も閉ざしていなかったスターリンの方針に並行するものだった[114]

統一戦線戦術に立ち返った共産党は、1925年末に旧王侯財産無償没収ドイツ語版を国民請願で立法化することを社民党に呼びかけた。社民党支持層の間でも旧王侯への反感が強まっていた時期だったため、社民党は「それぞれ独自に活動する」という条件で共産党の提案に合意せざるをえなかった。1926年3月の国民請願の結果、1200万票の賛成票を得て国会に提出されることになったが、6月に国会で拒否されたため、国民決定に付されることになり、その投票で1560万票の賛成票を得たが、有権者過半数に達しなかったため失敗に終わった。この運動の最中、共産党は全国農村同盟ドイツ語版の財産没収反対運動に対抗しようと街宣活動を地方に拡大させたため、農村地域に反共主義が拡大した[115]

党内派閥抗争激化

1926年と1927年に共産党内の派閥抗争が激化した。これらは1928年から1929年のスターリン主義化の時期に諸分派が党から締め出されてスターリン主義による一元支配が確立されるに及んで収束に向かうことになるが、それまで共産党内には以下のような派閥が存在した[116]

  • 右派 - ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒらを中心とする「統一戦線戦術」を重視する派閥で1923年まで党指導部を掌握した。1924年以降党機関から締め出されて弱体化。1928年から1929年にほとんど全部の右派が党から追放された。彼らは追放後共産党反対派ドイツ語版(KPD-O)として結集した。
  • 調停派 - 右派と左派のどちらにも与さないエルンスト・マイヤーに率いられた中間派の派閥。エーベルラインやアーサー・エーヴェルトドイツ語版ゲアハルト・アイスラードイツ語版らが属した。1924年から1925年までフィッシャー指導部に反対し、1926年から1928年まではテールマンら親コミンテルン左派と連携して党指導部を占めたが、調停派はブハーリンと結んでいたため[117]、1928年から1929年にかけて党から追放され、1930年のマイヤーの死後、指導部に降伏した(一部は共産党内で非公然活動を継続)
  • 左派 - 1924年にフィッシャー、マズロー、テールマン、ショーレムらを中心としてブランドラー反対派として生まれた派閥。1924年から1925年にかけて党指導部を掌握したが、1925年春にショーレムら極左派が分離し、さらに同年秋に親コミンテルン左派(テールマン、デンゲル、ゲシュケ、シュネラー)と新しい左翼反対派(フィッシャー、マズロー、パウル・シュレヒトドイツ語版ら)に分裂。左翼反対派をレーニン同盟ドイツ語版として結集しようとした企図は失敗し、同派は一分派として存続した。
  • 極左派 - ショーレム、イヴァン・カッツドイツ語版アルトゥル・ローゼンベルクらを中心として1925年に左派から分裂してできた派閥。さらに様々な意見の派閥に分裂し、党から締め出されていき、1928年までには影響力を喪失した。1929年以降は党自体が極左コースを取るようになったのでその存在意義を無くした。
  • 党機関員 - 専従党職員は特定の傾向に同調せず、その時々の支配的分派に従った。特に「スペシャリスト」(国会議員、地方議員、宣伝部員、農業スペシャリストなど)は各種の分派活動に巻き込まれないよう注意を払う者が多かった。重要ポストにありながら、舞台裏でのみ活動した党幹部ヴァルター・ウルブリヒトフランツ・ダーレムドイツ語版らが該当する。この「スペシャリスト」が親コミンテルン左派と結びつくことによって党のスターリン主義化が促進された。

「公開書簡」後の指導部は、テールマン、デンゲル、ゲシュケ、シュネラーら親コミンテルン左派によって支配されたが、1926年末には調停派のマイヤーが加わり、1927年時点では党最高首脳部である政治書記局は、テールマン、デンゲル、マイヤー、エーヴェルトによって構成されていた(翌1928年にはテールマン、デンゲル、シュネラー、エーヴェルトになっている)[118]

つまり1926年から1928年の共産党の指導部は親コミンテルン左派と調停派による連立体制であり、左派反対派と極左反対派を党から締め出そうとするものだった。それゆえにこの時期の党は反左派的な現実政策を追求することになり、国会選挙や労働運動において党の強化が図れた面もある[118]

テールマン個人独裁のスターリン主義政党へ

スターリン主義に基づく党指導を行ったエルンスト・テールマン

しかし1928年になるとコミンテルンはスターリンの指示で再び左旋回した[118]。これは1926年のイギリスゼネスト英語版が失敗に終わったり、1927年に中華民国国共合作を結んでいた蒋介石が反共に転じて中国共産党弾圧を開始するなど、国際的に「統一戦線戦術」の破綻が続いていることもあったが、それ以上にソ連の国内事情があった。すなわちトロツキーやジノヴィエフ、カーメネフなど左派の政敵を片付けたスターリンが、ブハーリンら右派の政敵の排撃を開始し、ネップの中止、五カ年計画の開始という左派コースを取り始めたことである[119]。ブハーリンはジノヴィエフ解任後にコミンテルンの第一人者となっていたため、その排撃の影響はすぐにコミンテルンとその支部(各国の共産党)に波及した[120]

1928年2月のコミンテルン執行委員会拡大総会でドイツ共産党とソ連共産党の間に秘密協定が結ばれ、その中で「右派共産主義者は主敵である」と宣告された[118]。左旋回が公然化したのは1928年7月から8月にかけての第6回コミンテルン世界大会だった。資本主義の安定期は終わり、遠からず資本主義体制は危機に陥り、世界中で革命が起きるとしたうえで、資本主義体制を延命させる社会民主主義こそが最大の主敵と定める方針が採択された[121]

これ以降右派と調停派は計画的にポストから追放されていった[118]。追いつめられた右派と調停派はテールマンに近いハンブルク地区党書記・中央委員ヨーン・ウィトルフドイツ語版が党の公金を横領し、テールマンがそれをもみ消した事件を中央委員会で取り上げることで反撃に打って出た。1928年9月25日と26日の中央委員会は調停派エーベルラインや右派エーリヒ・ハウゼンドイツ語版らの主導でテールマンに有罪判決を下し、テールマンの職務の停止を決議した[122]

しかしここでスターリンが介入し、テールマンを失脚させてはならぬとの指令がレンメレを通じてドイツ共産党に下され、10月6日にはコミンテルン執行委員会幹部会もテールマン復権を決議している[122]。中央委員の大多数は、このモスクワからの圧力に怯え、テールマンの職務停止を解除するとともに「右派と調停派はハンブルク事件を利用した」とする決議を出した。スターリンとテールマンは間髪入れず右派と調停派に対して殲滅的攻撃を開始し、右派と調停派はことごとく中央委員会から叩き出され、テールマン、レンメレ、ハインツ・ノイマンドイツ語版の「三頭政治」が党を引き継いだ[123]

1928年から1929年にかけて粛清が吹き荒れ右派全員(ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ、ヤコブ・ワルヒャードイツ語版ハンス・ティテルドイツ語版、ハウゼンら)が党から除名され、調停派も解任された[123]。これ以降もはやいかなる反対派も党内に存在することは許されなくなり、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させた[124]。組織された反対派が消されたことにより、党内抗争はなくなり、指導部の方針への逸脱は個々の除名、処分によって阻止されるようになった[125]。ここにドイツ共産党はソ連共産党のスターリン体制をそのまま移植したテールマンの独裁政党となったのだった[126]

またソ連で盛んになりつつあったスターリン個人崇拝に倣ったテールマン個人崇拝も進んだ。この点において共産党は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)の総統アドルフ・ヒトラーにライバル意識を燃やしていた。ヒトラーに対してテールマンを「プロレタリアートの総統」として対抗させることができるし、させなければならぬと考えていた[127]

1932年中にはテールマンと指導部を形成してきたノイマンとレンメレも指導部から遠ざけられ、テールマン独裁はますます強まった[125]

「社会ファシズム論」とナチスとの共闘

カール・リープクネヒト・ハウスドイツ語版と呼称された党本部(1932年)。現在の左翼党本部

コミンテルンは、1924年のコミンテルン第5回世界大会以来、ファシズムと社会民主主義を同一視する「社会ファシズム論」をとっていたが、1928年のコミンテルン第6回世界大会では、より踏み込んで「(ファシズムより)社会民主主義こそが主要な敵」とする極左戦術を採択した。このコミンテルンの極左戦術以降、共産党の過激化は強まり、とりわけ党の実力組織である赤色戦線戦士同盟(RFB)は、ナチスの突撃隊(SA)や社民党の国旗団との武力衝突を頻繁に起こすようになった[128]

1929年5月1日から4日にかけてベルリンで、社民党政権(ヘルマン・ミュラー内閣)内相カール・ゼーフェリンクとベルリン警察長官カール・ツェルギーベルドイツ語版が禁止していた共産党のデモが非合法デモとして強行されたが、警察の挑発的発砲などにより暴動に発展し、31名死亡、数百人負傷、1200人逮捕という惨事になった(血のメーデー事件)。この事件を巡る批判合戦や赤色戦線戦士同盟非合法化などで社共対立は絶頂に達し、共産党は「社会ファシズム論」にますます傾斜した[129]

共産党は、ナチ党と社民党を同類としながらも主敵は権力を握る社民党に定めていた。ナチ党については、共産党がその気になればいつでも腕づくで始末できる小物に過ぎないと見下しており、彼らへの対策は「ファシストは、出会いしだい殴り倒せ!」という街頭闘争スローガンだけで十分と判断されていた[130]

のみならず、共産党は社民党に対する闘争の範囲内においては、ナチ党との共闘も厭わなかった。1931年夏には所謂「国民反対派」(ナチ党、国家人民党鉄兜団など)がプロイセン州の社民党政権の打倒を狙ってプロイセン州議会解散を求める国民請願を開始したが、共産党も彼らと統一戦線を張って請願運動に参加している[131]

さらに1932年1月にはコミンテルンから派遣されたスターリンの側近ドミトリー・マヌイルスキーが「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べ、これを受けてドイツ共産党のレンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べている[132]

またこの時期の共産党は明らかにナチスの民族主義宣伝に感化されており、党の声明には「強盗的なヴェルサイユ条約粉砕」「ドイツを奴隷化するヤング案粉砕」「国民革命(プロレタリア革命と同義であると説明を付けているが)」といったナチスまがいの民族主義的語調が増えていく[133]。こうした党の民族主義化を熱心に推進したのは、とりわけノイマンだった。彼は中間層の票をナチ党から奪取するためには、民族主義化が必要だと考えていた。彼はナチ党のゲッベルスの集会に潜り込んで「青年社会主義者諸君!民族のための勇敢な戦士諸君!共産主義者は国家社会主義者との骨肉相食む闘争を欲しない!」という演説すらしたと言われる[134]

革命的労働組合反対派

共産党が社民党に対する闘争と並行して行ったのが、社民党系労組ドイツ労働組合総同盟ドイツ語版(ADGB)に対する闘争である。当初共産党がADGBに対してできた闘争は「下だけの統一戦線」、つまり改良主義的な組合指導部を「無視」することだけだったが、社民党と共産党では組合内での力に差がありすぎて、実際には無視することすら満足にできていなかった[135]

しかし1929年から1930年にかけて共産党の反社民党機運が高まったことでADGBへの反対派を糾合して共産党系の労働組合を作ろうという試みが盛んにおこなわれるようになり、革命的労働組合反対派ドイツ語版(RGO)が結成された[136]。そのため1931年8月から9月のADGB第11回大会から共産党の代議員は一人もいなくなった[137]

RGOは1932年11月には31万2000人の組合員を有していたとされ、確かに一定の影響力はもっていた[138]。しかし結局のところADGBの協力無くしては大規模なストライキは覚束ないレベルでしかなかった[139]。RGOは、1930年のマンスフェルトやベルリン金属工ストなど大規模ストライキの際にはスト全体を共産党の意図する方向へ誘導しようと労働組合に先んじてストに突入するのが常だったが、労働組合がストの指導を開始するとほとんどの労働者が組合のストライキ事務所に登録した。これはストライキ期間中の生活保障やストライキ終了後の職場復帰のためには、正規の交渉団体である労働組合のストライキ・カードが必要だったからであり、交渉資格を認められていないRGOのストライキカードでは何の効力もなかった。また財政が貧弱なRGOではスト中の生活保障も現金で渡すことができなかった。それゆえにRGOは単独でのストはほとんどできなかった[140]

共産党はストライキについて「大きなストの波と大衆的ストとをゼネストにまで喚起しかつ組織するとともに最終的に勝利を導くことに成功した時のみ意味を持つ」と繰り返し言明していたが、RGO単独ではせいぜいのところ地方的ストを呼び起こせたにすぎず、それも大半は失敗に終わっている。1932年7月にパーペン内閣が成立した時や1933年1月にヒトラー内閣が成立した時に共産党がゼネストを呼びかけた時もそれは何の反響も呼び起こさなかった[137]

世界恐慌と共産党の台頭

1929年に勃発した世界恐慌による不況が深刻化する中で、ドイツではヴァイマル共和政への失望が高まり、共産党は、下層階級を支持基盤に急速に勢力を拡大させ、世界でも有数の共産主義政党に成長した。共産党の宣伝手法、特に壁を埋め尽くすポスターなどのインパクトや整然とした行進を行う赤色戦線戦士同盟など視覚的なプロパガンダには優れたものがあり、後の国民啓蒙・宣伝大臣であるナチ党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスが賞賛したり、社民党の国旗団と並んでナチス(突撃隊など)が真似したくらいであった[141]

1930年9月14日の国会選挙では、共産党は社民党支持層の票を吸って得票を133万票増加させて13.1%の得票率を得て77議席(総議席577議席)を獲得し、社民党とナチ党に次ぐ第3党となった。1932年7月31日の国会選挙では得票率14.3%へ増やし、89議席(総議席608議席)を獲得、同年11月6日の国会選挙でも得票率16.8%に増やし、100議席(総議席584議席)を獲得し、ナチ党と社民党に次ぐ第3党の地位を維持し続けた[142]。とりわけナチ党も社民党も得票を減らして共産党だけが得票を伸ばした1932年11月6日の選挙は首都ベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党[143]となったこともあって共産党を有頂天にさせ、党はこの成功を過大評価した[139]

ナチス政権下

1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命された[144]。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが[144]、2月4日には野党の行動を制限する「ドイツ国民保護のための大統領緊急令ドイツ語版」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた[145]

さらに選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、オランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベが犯人として逮捕されると、プロイセン内相ヘルマン・ゲーリングは国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に事実上の戒厳令「国民及び国家保護のための大統領緊急令ドイツ語版」が制定された。この大統領緊急令により共産党員は「保護拘禁」(Schutzhaft)されることになり、同日中に共産党員4000人が逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した[146]

追いつめられた共産党は「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り、社民党から拒絶された[147]。テールマンは国会議事堂放火事件直後の3月3日にベルリンの自宅で逮捕され、11年間裁判抜きで拘束された後、ブーヘンヴァルト強制収容所1944年8月17日に処刑された[148]3月5日の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の3月9日に共産党の国会議員が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した[149]

3月23日に全権委任法が成立した後、共産党は3月31日に制定された『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された[150]

ファイル:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr 2110.jpg
テールマンが逮捕された後の共産党指導者ヨーン・シェールドイツ語版(東ドイツの切手)

地下に潜った共産党はテールマンに代わってヨーン・シェールドイツ語版によって指導されるようになったが、シェールは1934年2月1日に警察に発見されて逮捕され、逃亡を図ったところを射殺されている[151]

共産党は地下組織になっても依然としてコミンテルンの「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので、1933年5月には「国家機関から社会ファシストが完全に締め出され、また社民党系の組織や新聞に野蛮な弾圧が加えられているからと言って、それらが資本独裁の社会的支柱であるという事実はなんら変わるものではない」と声明[152]。また「現在のヒトラー時代は社民党が支配したヴァイマール共和国時代、あるいはブリューニング時代(1930年以降の大統領内閣時代)と比べてどれほどの差があるというのか」という議論にふけっていた[153]

しかし1935年7月のコミンテルン第7回世界大会で「社会ファシズム論」が破棄され、「反ファシズム統一戦線戦術」が採択されたのに伴い、10月にブリュッセルで開かれた党大会ではこれまでの「社会ファシズム論」に基づく党活動を批判的に再検討し、「ヒトラー独裁政権打倒の全勤労者の共同闘争への新しい道」として「人民戦線」戦術を採択した[154]

1936年には地下組織共産党の最後の指導者ヴィルヘルム・ファールドイツ語版が逮捕され、人民法廷にかけられて死刑判決を受け、1937年に刑死している[155]

保護拘禁された共産党員たちはナチス強制収容所へ収監され、収容所内では政治犯を示す「赤」のバッジを着けた。収容所内では共産党員は囚人役職を務めていることが多かった。収容所の管理者たる親衛隊(SS)が共産主義者の「規律、団結、勇気、冷酷さ」による秩序維持能力を高く買っていたためといわれる[156]。事実「緑」(刑事犯)に囚人役職を任せた収容所より「赤」に囚人役職を任せた収容所の方が秩序だった自主管理が行われていたといわれる。ただし「赤」を囚人役職に据えると自分たちの政治的同志ばかり贔屓する不公正な運営を行うことが多かったという[157]。共産党員が囚人役職に登用されやすかったのは、彼らが収容所内のグループの中で最も組織だっていたためでもある。「囚人の中の結束力の強いグループは、収容所内のインフォーマルな組織を掌握することによって、ゲシュタポをひそかに操作することができた」といわれており、囚人職を巡る権力維持闘争においてライバルとなる者を組織的に排除するのが一番容易な立場だった[158]

共産党員によって囚人職が独占された収容所の代表格がブーヘンヴァルト強制収容所である。フランスでレジスタンス活動をしてゲシュタポに逮捕されたイギリス空軍将校ヨウ・トーマスはブーヘンヴァルトに収容された際に他の囚人から最初に注意されたのは「この収容所内で権力を握っている共産主義者たちは将校や資本家を好まぬから前歴を隠すように」だったことを回想している[159]。囚人役職に就いた共産党員たちの中には他の囚人たちの死に深く関与した者たちが多い。親衛隊から実質的に死を意味する人選を命じられた時も彼らは冷徹に自分たちの同志以外の者を指定人数選別しては親衛隊に引き渡した。またPアルクールは「彼ら(囚人役職に就く共産党員)のヘゲモニーに抵抗する手の負えない犯罪者や政治的敵対者が病棟に近づくと、不思議なことに病気にかかり、そして死んだものだった」と回想している[160]

党員の中にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは1937年頃から始まったヨシフ・スターリン大粛清で処刑されている[155]。レンメレ、ノイマン、エーベルライン等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。さらに1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されるとスターリンの命令に従ってウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った[155]

戦後

ソ連占領地域・東ドイツ

1946年3月3日の共産党大会。中央左がウルブリヒト、中央右がピーク。肖像画はテールマン

第二次世界大戦終結後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランスの西側3か国の占領地域とソ連の占領地域に分断された。ソ連占領地域では他の占領地域よりも早い1945年6月に「反ファシズム諸政党と労働組合」の結成を認める布告が出された(ドイツ分断を予期したソ連が統一維持を役割を担う政党と労働組合の創設を急いだという事情が働いていた)[161]

真っ先に再建されたのはドイツ共産党だったが、それを主導したのはモスクワに亡命して大粛清をも掻い潜ったウルブリヒトらのグループであり、彼らはスターリンの忠実な僕としてソ連占領当局の政策の遂行にあたった。共産党はソ連占領地区に於いて占領者から庇護された勢力として1946年4月までに60万人を超える大政党へと成長した[162]。共産党に遅れてドイツ社民党が創設され、ついでブルジョワ政党としてキリスト教民主同盟(CDU)とドイツ自由民主党(LDPD)の創設も許可されたが、この4党はソ連の庇護下で「反ファッショ民主主義政党統一戦線」というブロックを結成させられ、西側諸国におけるような意味での野党の結成は許されなかった。またソ連占領当局は共産党を積極的に支援したため、ブロックの中でも共産党の権力ばかりが高まっていった。共産党が権力を増大させるにつれて下からの民衆運動は厳しく弾圧されるようになっていった[163]

1945年秋になるとソ連占領当局は社共を統一させてドイツ分裂阻止の要とすることを企図するようになり、その意を汲んだ共産党は社民党との合同に向けたキャンペーンを展開した。社民党党首オットー・グローテヴォールが「ロシアの銃剣で突っつかれている」と嘆いたように、それは実質的には強制合併の圧力に他ならなかった。1946年4月に共産党は社民党を合併し、ドイツ社会主義統一党(SED)と改名した。しかしこれは西側の反発を招き、東西分裂を促進する結果となった[164]

社会主義統一党結党の際には社共同権が謡われたが、冷戦が深まってくる中の1948年頃から社会主義統一党はソ連共産党を模範とした「幹部政党」への転換と社会民主主義者の排除を押し進めるようになった。1949年には社共同権原則が正式に破棄され、旧社民党員の粛清が吹き荒れた。やがて粛清の嵐は旧社民党員だけではなく旧共産党員にも広がっていった。この時期の粛清の激しさは1948年から1952年にかけて党員数が80万人減少していることからもうかがえる。党を追放された者の多くは監獄やソ連の強制収容所へ送られていった[165]

1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国宣言に対抗し、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国宣言が行われた。以降社会主義統一党は1989年東欧革命で打倒されるまで同国において民主集中制ヘゲモニー政党制による独裁体制を敷くことになる[166]

西側占領地域・西ドイツ

東ドイツの独裁政党ドイツ社会主義統一党(SED)の党大会に出席する西ドイツ共産党指導者マックス・レイマンドイツ語版(1950年7月22日ベルリン)

西側占領地域でも、比較的早い時期に共産党が再建されたが、1946年春にソ連占領地域でドイツ社会主義統一党が結成されると「ロシアの政党」と認識されて急速に支持を失い、孤立していった[167]。西側社民党の指導者クルト・シューマッハーもヴァイマル共和政崩壊の経験から共産党との連帯は断固拒否した[168]

西ドイツ成立直後の1949年8月の連邦議会選挙で5.7%の得票と15議席を得たが、違憲裁判中の1953年9月の連邦議会選挙では2.2%の得票しか得られず、5%条項に引っかかって議席を獲得できなかった[169]

1949年5月に制定されたボン基本法の21条2項は「政党の内部秩序は、民主的原則に適合していなければならない」「政党で、その目的または党員の行為が自由な民主的基本秩序を侵害もしくは除去し、またはドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指す物は違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所がこれを決定する」と定めており(戦う民主主義[170]1951年11月にコンラート・アデナウアー首相率いる西ドイツ政府は共産党は違憲であるとして連邦憲法裁判所に提訴し、同党の禁止を求めた。裁判は4年10か月の長期に及んだが、1956年8月の判決で西ドイツ政府の主張が認められ、共産党は禁止処分を受けた[169]。判決文の中で連邦憲法裁判所は「自由の敵には無制限の自由は認めない」と述べている[171]。解散年には共産党は7万人の党員を擁していた[172]

ボン基本法下で禁止された政党は共産党が2例目であり、最初に禁止された政党は共産党と協力関係[173]にあったネオナチドイツ社会主義帝国党(SRP)だった(1952年10月に禁止)[174]

後継政党

前述のとおり、東ドイツにおいては、社会主義統一党(SED)が後継政党である。

西ドイツ及び現在の統一ドイツでは、ドイツ共産党(KPD)が禁止された後の1968年に結党した合法政党ドイツ共産党Deutsche Kommunistische Partei,略称:DKP)(党名の「ドイツ」の位置が異なる)が一応後継政党と言える。しかしこの党は連邦選挙でほとんど票を取れず、国政レベルで議席を獲得したことはない。また連邦憲法擁護庁から左翼過激派・反憲法的組織として監視対象になっている[175][176]

ドイツ再統一後は、DKPメンバーの大半が、社会主義統一党からスターリン主義的路線を全面的に放棄し衣替えした民主社会党(PDS)に合流している。その後、社民党左派と合併して左翼党を構成している。旧東ドイツの選挙区では第二党としての地位を占めることもあり、また旧西ドイツ地域では左翼党となって以降、州議会選挙で議席の獲得に必要な5%以上の得票を得る例も出ている。2005年の連邦議会選挙以降、阻止条項を突破して、連邦議会に議席を得ている。また、欧州議会選挙でも議席を獲得、州議会選挙でも北部を中心に多くの州で議席を獲得し、他党と互角にたたかっている。

この他、1990年にはかつてのKPDと全く同名のドイツ共産党 (1990年)ドイツ語版(Kommunistische Partei Deutschlands)が設立されているが、州議会や連邦議会選挙で議席を獲得したことは一度もない。極めて小さな組織だが、エーリッヒ・ホーネッカーSED書記長・東ドイツ国家評議会議長の夫人マルゴット・ホーネッカー元国民教育相が生前に名誉党員として所属し[177]、左翼過激派としてブランデンブルク憲法擁護庁ドイツ語版の監視対象になっている[178]

なお、かつてドイツ共産党の本部だった建物カール・リープクネヒト・ハウスドイツ語版は現在左翼党が使用している。

党の思想

オシップ・フレヒトハイムドイツ語版は、ほぼ1925年以来固められた共産党の共産主義的信条の本質的教義を以下のとおりに要約している[179]

  • 全ての歴史は階級闘争の歴史である。現在は資本家とプロレタリアートが不倶戴天の敵として対立している。独占資本主義と帝国主義の時代においては、階級闘争が革命と内乱とになるのは不可避である。
  • 国家は常に階級国家である。民主主義的共和国もまた資本主義独裁の一形態に過ぎない。社会主義の樹立はブルジョワ的国家機構の破壊を前提とする。プロレタリア国家は革命的暴力によってのみ作り出すことが可能である。プロレタリア独裁は共産党に指導された全体的国家において体現され、ブルジョワ民主主義より高次の民主主義の形態である。
  • 共産党は唯一の、真にプロレタリア的、社会主義的およびマルクス主義的政党である。人類の最も進歩的な階級の前衛として、共産党はプロレタリア的階級意識の唯一の担い手である。最高の認識は党の最高首脳に集中しており、党の最高首脳もしくは党指導部はそれゆえに誤りを犯すことはない。
  • 真に社会主義の最も本質的な標識は、共産党によって統治されている国家における生産手段の国有化である。共産党指導部は、搾取の消滅と階級なき社会への発展を保証する。
  • ソ連は唯一の社会主義者社会である。同国は長期短期にわたって結託している世界資本主義による脅威を常に受けている。世界の労働者階級を「全勤労大衆の社会主義的祖国」の防衛のために動員することは、あらゆる国々の共産主義者の任務である。
  • 資本主義と社会主義との間の闘争は、来たるべき数年ないし数十年の間に世界的規模において決定される。歴史の不変の法則にしたがい、一連の流血の内乱、革命、蜂起および国際戦争の中で帝国主義的ブルジョワジーの支配は地球全土において打倒され、共産党の支配により解体される。この過程の終局においてソヴィエト・ロシアが社会主義的世界レーテ(ソヴィエト)共和国へ転化するであろうということは極めて明白である。

党の分析・評価

共産党は「唯一の労働者党」を自称し、労働者階級の多数派を自党の下に置くことを目指した。しかし労働者階級の多数の獲得を目標を掲げていること自体、共産党が労働者の少数派しか獲得できていないことを示している。またヴァイマル共和政末期についていえば共産党の党員の大多数は失業者であって、経営に属する労働者はわずかしかいなかった(詳しくは後述[3]

選挙結果で見ると共産党に投票した層は明らかに労働者階級の範囲を超えている。ナチスほどではないにせよ、共産党にも包括政党の面があった事は否定できない[3]1932年ジグムント・ノイマンは、共産党の性質についてその独裁体質と階級を超えた不満層の包括政党になっている面から、ナチ党とともに「絶対主義的統合政党」に分類する分析を行った[2]

フレヒトハイムは、ドイツ共産党は他国の共産党と違ってロシア10月革命の直接の影響から生まれたわけではなく、戦争で生じたドイツの国内状況から独自に誕生したため、モスクワから独立した立場を取りうる余地があったことを指摘したうえで「結党直後のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘスの非業の死はその後のドイツ共産党の発展の方向を決定的に変えてしまった。彼ら ―特にローザ・ルクセンブルク― の死が避けられたのならば、その後のドイツ共産党は一方ではコミンテルンに隷従する党にはならなかっただろうし、他方ではルクセンブルク主義の発展の基礎としてプロレタリア大衆の自発性を重んじつつ、ヴァイマール体制内で自主的かつ現実的な政策を打ち出していただろう」としてローザ・ルクセンブルクの死を惜しんでいる[180]

他党との関係

共産党は自党以外の全ての政治勢力を攻撃した。とりわけ社民党(SPD)や国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)とは労働者階級の利益をめぐって激しい競合関係にあった。この3党の対立関係はイデオロギーだけではなく、経営や街頭における労働者や失業者の組織のうえでも激しいものだった[3]

共産党は自らのことをブルジョワと「ブルジョワ的労働者党、労働官僚、労働貴族」(社民党)に対抗する唯一のプロレタリア政党であると自称してきたが、社民党はこの悪宣伝に対抗して共産党のことを「失業者、零落者、破産者、ルンペンプロレタリアートの党、もしくは都市部の暗黒街の住民の党」と批判した[181]

ブルジョワ政党からも共産党は蛇蝎のごとく嫌われており、大連合(大連立)政権を作るための枠組み交渉において常に対象外という政界の鼻つまみ者のようになっていた。例えばヴァイマル共和政の中心的政党の一つである中央党はその中道的立場から社民党や民主党とも、保守右派政党とも(人民党、国家人民党、最後にはナチスとも)幅広く連携したが、共産党とだけは部分的・一時的連携すら断固として拒否した[182]

党の組織

党組織に関する党規約

6条 ドイツ共産党は、コミンテルンの全ての支部と同じく民主主義的中央集権主義(民主集中制)の原理に基づいて構成されている。その基本原理は次のとおりである。
a項 下級および上級の党機関の選挙は全党員集会、全国協議会、ならびに党大会で行われる。
b項 党機関の会計報告は、その選挙に先立って定期的に行われる。
c項 上級機関の決議の下級機関による承認の義務、厳格な党規律、コミンテルン中央執行委員会及び指導的党機関の決議の迅速で確実な履行。その活動をある種の地域に及ぼす機関は、その活動を単にこの地域の個々の部分に限る機関に対し、上級機関とみなされる。党問題についての論争は党員によって当該機関による決定までの間のみなされる。コミンテルン大会、党大会もしくは指導部的党機関によって決議がなされたのちは、この決議は党員の一部もしくは地方的党機関の一部がそれに同意しない時においても無条件に実行されなければならない。
7条 異常の状態の下においては、下部党機関の上部党機関による任命もしくは上級党機関の承認による指導部の自己補充は許される。この処置は、そのための可能性が存するやただちに、後から機関に提出し決議を得なければならない。
8条 党機関は、コミンテルンおよび党の既存の決議の枠内において地方問題においては自立的である。
9条 あらゆる機関の最高決定機関は党員集会、協議会もしくは党大会である。
10条 全員集会、協議会もしくは党大会は、その中間の期間の指導機関として、当該機関の日常の活動を行う当該指導部を選出する。
11条 党構成の図式は次のとおりである。
a項 個々の工場、作業場、事務所、店舗、農場、市街等々については細胞集会―細胞指導部。
b項 小都市、村落等の地域については、地区細胞会議(村落細胞会議)もしくは地区集会(村落集会)―地区指導部
c項 市区の地域については、市区協議会―市区指導部
d項 下位地方地域については、下位地域会議―下位地域指導部
e項 地域については、地域大会―地域指導部
f項 国土全域については、党大会―中央委員会
注 経営細胞の次の上位の組織段階は細胞グループである。市区の大きさによっては、一つの市区の中に多くの細胞グループのあることもある。 組織のこれ以上の区分は、組織の特別の状態と個々の地区の特殊の情勢に応じて規整されなければならない。
1925年の第10回ドイツ共産党大会決定の規約[183]

党の財政

共産党の金庫には「うなる程のルーブルがある」という噂があったが、リヒャルト・レヴィンゾーンドイツ語版は著書の中で「モスクワの中央部は、大きな特別行動のために時には資金を出すことはある。だがコミンテルンは、幾百万ルーブルという大金を浪費はしない。というのはコミンテルン自身の財政と言えども限られたものであって、モスクワからの比較的大きな援助は、急進的な労働者大衆がまだ組織されていないところへだけ向けられるのが常だからである」としてこの噂を否定している[184]

共産党の財政は党費と寄付が主だったと見られる。党費は1923年には月額1時間分の賃金と規定されたが、1924年には三段階(20ペニヒ、15ペニヒ、5ペニヒの三段階)に分けられた[185]。1925年にはさらに引き上げられる形で最低平均収入の1%と規定された[186]。しかし共産党の党員は収入の少ない労働者や失業者が大半であるため、党費から得られる収入はさほど多くなかった[185]。これに対して議員による党への拠金はかなりの金額に及んだ。共産党の国会議員は月々の750ライヒスマルクの歳費のうち約300ライヒスマルクを党会計に納入することが義務付けられていた[185]

募金からもかなりの金額を集めていた。特に選挙前になると党の各居住グループと地区が競い合うように党のシンパを使って募金の調達を行った[185]。1928年5月の総選挙直前に党中央機関紙『ローテ・ファーネ』は「ベルリンで1万2547ライヒスマルクが集まった」と報じている[185]

さらに党は自営の企業群を保有していた。その重要なものは党機関紙にかかるもので、1923年10月時点で党は34の日刊紙と19の印刷所を持っていた。印刷所のうち16は党所有の建物の中に存在した[185]。だが1929年に赤色戦線戦士同盟が非合法化された後、党指導部は国家による党財産の接収を恐れるようになり、党の主要財産、特に党機関紙と党本部カール・リープクネヒト・ハウスを守るために名目上の売却を行って「脱政治化」に着手した。その際に党本部と印刷所の価格は850万ライヒスマルクと評価されている。しかしこのような偽装も1933年に成立したナチ党政権には通用せず、結局党財産は接収されることになった[185]

党員について

党員に関する党規約

2条 コミンテルンおよび共産党の綱領と規約を承認し、党の基本的下部組織の成員で、ここにおいて積極的に活動し、党内におけるコミンテルンの全ての決議に服従し、規則正しく党費を収める者は党員たりうる。
3条 新しい党員の採用は党細胞によってなされる。新採用は都市地区指導部もしくは地区指導部の確認を要する
4条 他の政治組織のまとまったグループもしくは政治組織全体が共産党に入党しようとするときには中央委員会の決議による。
5条 勤務先を変更するときは経営細胞党員は、経営細胞指導部に報告すべき義務を負う。居住地の変更に際して党員は、細胞グループ指導部に報告すべき義務を有する。他州へ移住する際には党の中央委員会の許可を得なければならない。これに関する照会は党機関を通してなされる。
42条 党規律違反は当該党組織の側での罰則をともなう。(略)個々の党員には次の罰則が適用される。党内戒告、外部への戒告、活動の停止、期限付き除名、決定的除名。
44条 党員除名の問題は当該党機関(細胞)の集会によってその上級の党指導部に提案される。除名決議は地域指導部が承認したのちに効力を発する。控訴は最高機関にまですることができる。除名の確認がなされるまでは、当該者は党活動を停止される。除名決議は通例党機関紙に公表される。除名された者の再入党は除名を行った組織が再入党を認めたときのみ為すことができる。
47条 党費は最低平均収入の1%とする。(以下略)
48条 十分な理由を示すことなしに三か月にわたって党費を納入しない党員は、警告を行っても効果のないとき、離党したものと見做される。このことは党員集会および当該党員に通報される。
1925年の第10回ドイツ共産党大会決定の規約[183]

党員の職業考察

1924年12月の国会選挙で活動する共産党員たち

1929年の世界恐慌以前の共産党の党員は工場労働者を主として構成されていた。1927年の党員点検によれば党員の68%は工場労働者であったという。これは社民党の同比率より高い数字を示す。農業労働者や職人も加えれば広義の労働者は共産党全党員の80%に及ぶと見られる。また党員の53%が経営に属していたが、そのうち36%(つまり全党員の約19%)は従業員数50人以下の小経営に属しており、従業員数1000人以上の大経営に属する党員は全党員の15%にとどまる。大経営の中における共産党の足場は極めて脆弱であった[187]

1929年の世界恐慌を期にこの状況は一変する。失業者党員が急速に増加し、経営における共産党員を狙い撃ちにした解雇も増えた[188]。1931年末には党員のうち工場労働者はわずかに21%であり、失業者は78%に及んだ。更に1932年4月には失業者の割合は85%に達している。世界恐慌後の共産党は「労働者党」というより「失業者党」と化していた[189]。この時期の社共対立も比較的裕福な労働者を支持基盤とする社民党と最貧層の失業者を支持基盤とする共産党の対立という側面があった[190]。ただし世界恐慌以前から共産党には失業者が多い傾向があった(例えば1924年9月のベルリン=ブランデンブルク地方の党員の四分の一は失業者であり、1925年の中部ライン地方の党員の50%が失業者だった)[191]

共産党は1931年まで経営に属していない党員の調査を行っていなかったが、これは党の重点はあくまで経営の中にあるべきと党が考えていたためである。それがヴァイマル末期になって経営外党員の調査を開始したことは、党自身がもはや党の重点は経営の中にないことを認めたに他ならない[192]。ただ失業者党員は25歳から40歳が中心を占めていたので、就労経験を持つ者が多かった。そのため法的には失業者であっても意識の上では自分を「労働者」と捉えている者が多かったといわれる[193]

フレヒトハイムはヴァイマル末期の共産党の極左コースは労働者よりも失業者を引き付け、飢えた失業者党員が党をさらに左に追いやっていたのではないかと推測しているが[194]ハルトマン・ヴンデラードイツ語版は失業から直ちに特定の政治的な行動形態が生まれるわけではないとしてヴァイマル末期の共産党の急進的行動を失業者党員の増加から説明づけることに反対している[192]

党員の年齢層考察

デモを起こして警察に逮捕される共産党員(1932年6月ベルリン)

共産党の党員は若年層が多かった。1927年時の全党員の中に占める40歳以下の党員の割合は63.5%であり[187]、この比率は、総人口中に占める40歳以下の比率と比較すると二倍以上である[195]

一方帝政時代から活動している党員が多い社民党は党員高齢化が深刻化しており[196]、社民党員のうち40歳以下の者の割合は44.6%(1930年時)に過ぎなかった[187]。国会議員層を見ても社民党の国会議員の過半数が50代以上だったのに対し、共産党の議員で50代以上は1割にも満たなかった[196]

この傾向は右派側にもみられ、帝政時代からの伝統を引き継ぐ既存右派政党(国家人民党など)の党員は高齢化していたのに対し、ナチ党員は若者が多かった[196]

共産党とナチ党を比較すると、ナチ党の方がより若者が多い傾向があった。ナチ党は党員の69.9%が40歳以下(1933年時)であり、この数字は共産党を上回る。ナチ党は25歳以下の青年層からも根強い支持を受けていたが、共産党は25歳以下については最もわずかな数しか組織できなかった。恐慌期に党員が急増していた時期でさえ25歳以下の青年層が共産党へ流れてくることはほとんどなかった[187]

党員の性別的考察

共産党の党員中の女性の比率は最も高い1929年末でも17%に留まる。また1933年までの全ての選挙で共産党に投票したのは男性が女性より20%多かった。党員と支持者どちらの構成から見ても共産党は圧倒的に「男性の党」だったということができる[197]

共産党は「女性解放」を掲げて、男女の経済的・社会的・文化的・政治的な同権、妊産婦と母性の保護、中絶の自由、結婚生活における妻の自己決定権などを要求していたが、共産党が女性に受け入れられたとは言い難い[198]。女性労働者の間では共産党に対する不安や恐怖感がきわめて根強かった[5]

党指導部は女性党員を積極的に党活動に参加させる必要性を繰り返し強調したものの、党員レベルでは自分の妻が家の外で働いたり、党集会に参加したり、政治に関わりを持つことを好まない人が多かった[199]。ヴァイマル共和政期のドイツ社会は、一次大戦の戦時中の女性就労、1920年代に現れた所謂「新しい女性」の登場などによりジェンダーの混乱が見られた時期で、少なくない人々がその状況に不安を抱いていた。共産党の「女性解放」運動もそうした混乱に拍車をかける物として捉えられて忌避される傾向があった[200]

さらに共産党の党活動はストライキや街頭闘争(敵対政治勢力や警察との暴力闘争を伴う)を重視するものであるため、どうしても男性中心にならざるをえなかった[201]。特に街頭闘争は完全に男性の暴力頼みの党活動なので女性から忌避されていたと見られる[202]

党員の地域的考察

共産党の勢力・党員構成は地区ごとに大きな差異があった。1929年時点で27の地区党のうち8か所(ベルリン=ブランデンブルクドイツ語版ハレ=メルゼブルクドイツ語版、沿海地域、ライン下流、エルツ山地フォークトラントドイツ語版ルール、西ザクセンテューリンゲン)に党員の三分の二が集中していた[195]。中部ドイツやライン=ルール、ベルリン、ハンブルクといった人口が密集した工業地域に共産党員が多かったのだが、同時にそれらの地域には共産党反対派(KPD-O)も根を張っていた[195]

党員変動の激しさ

共産党は党員の出入りが激しい党であり、党指導部は絶えざる党員変動に悩まされた[139]。1927年時点の党員で1920年から党員だったのはわずかに四分の一にすぎない[203]。世界恐慌後には党員変動はさらに激しくなった。例えば1930年1月時点での党員数は13万3000人であり、この年に14万3000人の新規入党があったにもかかわらず、年末の党員数は18万人にとどまっている。すわなち9万5000人以上が離党している計算になる[204]。党の公式報告によっても、1931年には38%、1932年には54%の党員に変動があったことを認めている[203]

毎年膨大な離党者が出ることは党にとっても深刻な問題だったので党組織の様々なレベルで離党理由の調査が行われた。それらの調査によれば離党理由で最も多いのは「金にならないから」だった。これは共産党入党者のうち少なくない数の者が何らかの経済的事情の好転を期待して入党したことを意味する。共産党への入党で就職が有利になるということはありえないため、党活動への参加に対する物質的な見返りがないこと、あるいは有給の党専従職員になる道が極めて狭き門だったことに対する不満だったと考えられる[5]

ナチ党の突撃隊は失業中の同志に対してバラックや簡単な給養の提供を行うことで知られていた。そのため共産党員の間にもそうした給付への期待感は強かったと思われる[5]。党自身もあたかもそうした期待に応えられるかのようなプロパガンダを行っていた。しかし実際にはほとんど期待に応えることはできなかったため、直接的利益を期待して入党してきた者たちからはすぐに愛想をつかされてしまったのである[140]

党員数の変遷

共産党の党員数の変遷
日付 党員数 出典
1919年3月 90,000人 [205]
1920年3月 50,000人 [205]
1920年10月 78,000人 [205]
1921年3月 359,000人 [205]
1922年3月 380,000人 [205]
1923年末 267,000人 [205]
1924年3月 180,000人 [205]
1924年末 180,000人 [205]
1927年1月 150,000人 [205]
1928年末 130,000人 [205]
1930年1月 133,000人 [204]
1930年9月 120,000人 [205]
1930年末 180,000人 [204]
1931年初頭 200,000人 [205]
1932年11月 360,000人 [1]

選挙結果

国会(Reichstag)

ヴァイマル共和政期からナチス政権期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および国会(Reichstag)における共産党の党勢。

選挙日 得票 得票率 議席 (総議席) 順位
1920年6月6日 589,454票 2.1% 4議席 (459議席) 第8党[注釈 2]
1924年5月4日 3,693,280票 12.6% 62議席 (472議席) 第4党[注釈 3]
1924年12月7日 2,709,086票 8.9% 45議席 (493議席) 第5党[注釈 4]
1928年5月20日 3,264,793票 10.6% 54議席 (491議席) 第4党[注釈 3]
1930年9月14日 4,590,160票 13.1% 77議席 (577議席) 第3党[注釈 5]
1932年7月31日 5,282,636票 14.3% 89議席 (608議席) 第3党[注釈 6]
1932年11月6日 5,980,239票 16.9% 100議席 (584議席) 第3党[注釈 6]
1933年3月5日 4,848,058票 12.3% 81議席 (647議席) 第3党[注釈 6]
出典:Gonschior.de

大統領選挙(Reichspräsidentenwahl)

選挙日 党の大統領候補 得票 得票率 結果
1925年3月29日(一次投票) エルンスト・テールマン 1,871,815票 7.0% 落選[注釈 7]
1925年4月26日(二次投票) エルンスト・テールマン 1,931,151票 6.4% 落選[注釈 8]
1932年3月13日(一次投票) エルンスト・テールマン 4,938,341票 13.2% 落選[注釈 9]
1932年4月10日(二次投票) エルンスト・テールマン 3,706,759票 10.2% 落選[注釈 10]
出典:Gonschior.de

連邦議会(Bundestag)

西ドイツ連邦議会(Bundestag)における共産党の党勢。

選挙日 選挙区得票
比例得票
選挙区得票率
比例得票率
議席 (総議席) 順位
1949年8月14日 1,361,706票 5,7% 15議席 (402議席) 第6党[注釈 11]
1953年9月6日 611,317票
607,860票
2.2%
2.2%
0議席 (509議席) 議席無
出典:Bundestagswahlen

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b Catherine Epstein. The last revolutionaries: German communists and their century. Harvard University Press, 2003. Pp. 39.
  2. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 52-53.
  3. ^ a b c d 斎藤晢 1997, p. 117.
  4. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 25.
  5. ^ a b c d 斎藤晢 1997, p. 128.
  6. ^ a b c フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 44.
  7. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 133.
  8. ^ 阿部良男 2001, p. 28-29.
  9. ^ 林健太郎 1963, p. 7.
  10. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 81.
  11. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 86.
  12. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 87-89.
  13. ^ フレヒトハイム 1971, p. 43/426.
  14. ^ a b ベッケール, クルマイヒ & 2001上, p. 123.
  15. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 95.
  16. ^ a b 林健太郎 1963, p. 13.
  17. ^ a b c d e フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 83.
  18. ^ フレヒトハイム 1971, p. 35.
  19. ^ 林健太郎 1963, p. 35.
  20. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 16.
  21. ^ a b c 阿部良男 2001, p. 41.
  22. ^ 林健太郎 1963, p. 13-14.
  23. ^ 林健太郎 1963, p. 9-10/12.
  24. ^ 阿部良男 2001, p. 41-42.
  25. ^ 林健太郎 1963, p. 14, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 106-107
  26. ^ 林健太郎 1963, p. 15-16, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 108
  27. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 113.
  28. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 19.
  29. ^ 林健太郎 1963, p. 17-18.
  30. ^ 林健太郎 1963, p. 19.
  31. ^ 林健太郎 1963, p. 21.
  32. ^ 林健太郎 1963, p. 14.
  33. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 115.
  34. ^ 林健太郎 1963, p. 36, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 115-116
  35. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 120.
  36. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 21/120.
  37. ^ モムゼン 2001, p. 49-50.
  38. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 121.
  39. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 23.
  40. ^ 林健太郎 1963, p. 36, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 21-22/121
  41. ^ 林健太郎 1963, p. 37, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 122
  42. ^ 林健太郎 1963, p. 32-33.
  43. ^ 林健太郎 1963, p. 37, モムゼン 2001, p. 50
  44. ^ 林健太郎 1963, p. 37, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 123
  45. ^ 林健太郎 1963, p. 37, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 123
  46. ^ a b c 林健太郎 1963, p. 38.
  47. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 123.
  48. ^ 林健太郎 1963, p. 39.
  49. ^ a b 林健太郎 1963, p. 41.
  50. ^ 林健太郎 1963, p. 63.
  51. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 36.
  52. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 37.
  53. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 52.
  54. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 59/78.
  55. ^ モーレンツ & 船戸 1978, p. 57-59.
  56. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 68.
  57. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 72.
  58. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 7/79/81-82, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 130
  59. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 81-83, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 130
  60. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 84.
  61. ^ a b モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 8.
  62. ^ モーレンツ & 船戸満之 1978, p. 130.
  63. ^ フレヒトハイム 1971, p. 429.
  64. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 127.
  65. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 127-128.
  66. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 137.
  67. ^ 林健太郎 1963, p. 84, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 137
  68. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 138-139.
  69. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 134.
  70. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 135.
  71. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 134-135.
  72. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 131.
  73. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 131-133.
  74. ^ 林健太郎 1963, p. 82, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 326
  75. ^ a b 林健太郎 1963, p. 83.
  76. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 150.
  77. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 150-151.
  78. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 151.
  79. ^ 林健太郎 1963, p. 85-86.
  80. ^ a b c フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 152.
  81. ^ a b 林健太郎 1963, p. 86.
  82. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 152/154.
  83. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 154-155.
  84. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 155.
  85. ^ 林健太郎 1963, p. 87.
  86. ^ a b c フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 160.
  87. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 150/156.
  88. ^ 林健太郎 1963, p. 111.
  89. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 163-164.
  90. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 164.
  91. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 165-166.
  92. ^ a b 林健太郎 1963, p. 112.
  93. ^ 林健太郎 1963, p. 99-100.
  94. ^ a b c d 林健太郎 1963, p. 113.
  95. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 174-175.
  96. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 176.
  97. ^ a b c フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 179.
  98. ^ 林健太郎 1963, p. 114.
  99. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 181-183/187.
  100. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 183.
  101. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 184/186.
  102. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 186.
  103. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 188-193.
  104. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 193.
  105. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 207.
  106. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 208.
  107. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 36/211-212.
  108. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 216-217.
  109. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 218.
  110. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 220.
  111. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 221.
  112. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 36/40/221.
  113. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 36.
  114. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 222.
  115. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 161, モムゼン 2001, p. 225-228
  116. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 38-39.
  117. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 244.
  118. ^ a b c d e フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 40.
  119. ^ 林健太郎 1963, p. 169-170.
  120. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 239.
  121. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 240-241.
  122. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 40/242.
  123. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 40/243.
  124. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 41.
  125. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 50-51.
  126. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 41-43.
  127. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 243.
  128. ^ モムゼン 2001, p. 221.
  129. ^ 阿部良男 2001, p. 154, モムゼン 2001, p. 221
  130. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 45/265.
  131. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 269-270.
  132. ^ 林健太郎 1963, p. 170-171.
  133. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 266-268.
  134. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 266.
  135. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 262.
  136. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 263.
  137. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 264.
  138. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 265.
  139. ^ a b c モムゼン 2001, p. 447.
  140. ^ a b 斎藤晢 1997, p. 129.
  141. ^ ヴィリー・ミュンツェンベルク/著、星乃治彦/訳『武器としての宣伝』(柏書房、1995年)参照
  142. ^ 阿部良男 2001, p. 169/200-201, モムゼン 2001, p. 287/415/437
  143. ^ Wahlen in der Weimarer Republik website”. Gonschior.de. 2018年7月20日閲覧。
  144. ^ a b 阿部良男 2001, p. 213-216.
  145. ^ モムゼン 2001, p. 481/485.
  146. ^ 阿部良男 2001, p. 220-221, フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 280, 高橋三郎 2000, p. 25
  147. ^ モムゼン 2001, p. 485.
  148. ^ 阿部良男 2001, p. 221-222.
  149. ^ 阿部良男 2001, p. 222.
  150. ^ 阿部良男 2001, p. 228.
  151. ^ フレヒトハイム 1971, p. 461.
  152. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 52.
  153. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 280.
  154. ^ フレヒトハイム 1971, p. 461, 阿部良男 2001, p. 308
  155. ^ a b c フレヒトハイム 1971, p. 462.
  156. ^ 高橋三郎 2000, p. 159-160.
  157. ^ 高橋三郎 2000, p. 160.
  158. ^ 高橋三郎 2000, p. 165.
  159. ^ 高橋三郎 2000, p. 161-162.
  160. ^ 高橋三郎 2000, p. 164.
  161. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 335/432.
  162. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 430-431.
  163. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 432-433.
  164. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 439-440.
  165. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 441.
  166. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 446-447.
  167. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 338.
  168. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 336.
  169. ^ a b 佐瀬昌盛 1979, p. 166.
  170. ^ 佐瀬昌盛 1979, p. 163.
  171. ^ 佐瀬昌盛 1979, p. 167.
  172. ^ A. パーネビアンコ著、村上信一郎訳『政党 組織と権力』ミネルヴァ書房、2005年。
  173. ^ "Encyclopedia of modern worldwide extremists and extremist groups", Stephen E. Atkins. Greenwood Publishing Group, 2004. ISBN 0-313-32485-9, ISBN 978-0-313-32485-7. p. 273-274
  174. ^ 佐瀬昌盛 1979, p. 168.
  175. ^ Bundesministerium des Innern, ed. (2017), [Online Verfassungsschutzbericht 2016] (PDF) (ドイツ語), Berlin, p. 122, ISSN 0177-0357, 2018年1月15日閲覧 {{citation}}: |url=の値が不正です。 (説明); 不明な引数|Comment=が空白で指定されています。 (説明), Format: PDF, KBytes: 3800
  176. ^ Innenministerium NRW, ed. (2017-09), [Online Verfassungsschutzbericht des Landes Nordrhein-Westfalen über das Jahr 2016] (ドイツ語), Düsseldorf, p. 134, 2018-01-15閲覧 {{citation}}: |date=の日付が不正です。 (説明); |url=の値が不正です。 (説明); 不明な引数|Comment=が空白で指定されています。 (説明), Format: PDF, KBytes: 9000
  177. ^ Genossin Margot Honecker gestorben(KPD 2016年5月7日)
  178. ^ Landesamt für Verfassungsschutz Brandenburg Glossar: Kommunistische Partei Deutschlands (KPD), abgerufen am 7. Juli 2014.
  179. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 322.
  180. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 350.
  181. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 317-318.
  182. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 204.
  183. ^ a b フレヒトハイム 1971, p. 348-355/445.
  184. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 232-233.
  185. ^ a b c d e f g フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 233.
  186. ^ フレヒトハイム 1971, p. 354.
  187. ^ a b c d 斎藤晢 1997, p. 120.
  188. ^ 斎藤晢 1998, p. 110.
  189. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 54/310、斎藤晢 1997, p. 119/121
  190. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 174.
  191. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 54.
  192. ^ a b 斎藤晢 1997, p. 119.
  193. ^ 斎藤晢 1997, p. 123-124.
  194. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 310.
  195. ^ a b c フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 55.
  196. ^ a b c 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 162.
  197. ^ 斎藤晢 1997, p. 107-108.
  198. ^ 斎藤晢 1998, p. 107.
  199. ^ 斎藤晢 1998, p. 109.
  200. ^ 斎藤晢 1998, p. 115.
  201. ^ 斎藤晢 1998, p. 110-111.
  202. ^ 斎藤晢 1998, p. 131-132.
  203. ^ a b フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 56.
  204. ^ a b c 斎藤晢 1997, p. 121.
  205. ^ a b c d e f g h i j k l フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 337.
  206. ^ a b 村田孝雄. “ワイマール憲法下における選挙制定の歴史的考察”. 中京大学学術情報リポジトリ. 2018年5月29日閲覧。
  207. ^ 主要国の各種法定年齢 選挙権年齢・成人年齢引下げの経緯を中心に”. 国立国家図書館調査及び立法考査局. 2018年5月29日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク