コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「オゴデイ・ウルス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンクオグルガイミシュを内部リンクに置き換えます
編集の要約なし
(4人の利用者による、間の8版が非表示)
1行目: 1行目:
[[ファイル:Assemblée des fils de Djengiz Khân.jpg|300px|thumb|オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達(『集史』「オゴデイ・カアン紀」パリ写本)]]
{{出典の明記|date=2011年3月}}
'''オゴデイ・ウルス'''('''Ögödei ulus''')とは[[チンギス・カン]]の第3子で、[[モンゴル帝国]]第2代皇帝となった[[オゴデイ]]を始祖とする王家によって支配された[[ウルス]]。


'''オゴデイ・ハン国'''<!--(オゴデイ・ハンこく)-->[[中央アジア]][[エミル川]]流域を中心とする地域(現在の[[中華人民共和国|中国]][[新疆ウイグル自治区]]北部[[ジュンガリア]]地方)に[[13世紀]]前半から[[1306年]]ま一貫して存続してたとかつて想定さた[[モンゴル帝国]]の分枝政権。国名は[[チンギス・カン|チンギス・ハ]]の三男で、[[モンゴル帝]]の第2代[[ハーン]]なった[[オゴデイ]](オゴタイ)の名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。
かつては類似した概念として「'''オゴデイ・ハン国'''(Ögödei Khanate)」いう呼称も用いられていたが研究進展により現在ではほとんど用ることがな。「オデイ・ウルス」及び「オゴデイ・ハン国」という呼称はもに創始者オゴデイの名から取られているが、当時の[[史料]]にある用語ではなく、[[歴史家]]による通称である。

== 概要 ==
かつてのモンゴル史研究では[[中央アジア]]の[[エミル川]]流域を中心とする地域(現在の[[中華人民共和国|中国]][[新疆ウイグル自治区]]北部[[ジュンガリア]]地方)に、[[13世紀]]前半から[[1306年]]まで「'''オゴデイ・ハン国'''」という政権が一貫して存続していたと想定されていた。この「オゴデイ・ハン国」という概念は当時の史料に見える「オゴデイのウルス」という用語を念頭に置いたものであるが、そもそもウルスと近現代的な「[[国家]]」では異なる点が多く、単純にウルス=ハン国とすべきではないという批判が近年のモンゴル史研究者から唱えられている<ref>村岡1992,20-21頁</ref>。

また、特にオゴデイ家の[[カイドゥ]]が治めた政権を指して「オゴデイ・ハン国」と呼称することもあるが、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたものであることが近年の研究によって明らかにされている。また、[[フレグ・ウルス]]で編纂された『[[集史]]』でカイドゥの治める領域が[[ペルシア語]]で「カイドゥの国(mamlakat-i qāīdū'ī)」と呼称されていることや、カイドゥの君主としての称号もハンではなく「兄」を意味する「アカ(aqa)」と呼ばれていたことなどを踏まえ、近年の研究ではカイドゥの治める政権を「オゴデイ・ハン国」ではなく「'''カイドゥの国'''」あるいは「'''カイドゥ・ウルス'''」と呼称するのが一般的である<ref>杉山1996,66-67頁</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== オゴデイ・ウルスの成立 ===
オゴデイは、[[1206年]]にチンギス・ハーンが[[モンゴル高原]]を統一してハーンに即位したとき4個[[ミンガン|千人隊]](4千戸)の[[遊牧民]]を[[ウルス]](所領)として与えられ、モンゴル帝国が西方に拡大するにつれて[[アルタイ山脈]]の西麓、[[イルティシュ川]]の上流を遊牧した長兄[[ジョチ]]と、[[天山山脈]]の[[イリ川]]渓谷に遊牧した次兄[[チャガタイ]]の両ウルスの中間、エミル川流域のジュンガリア盆地一帯の牧地に[[遊牧]]した。
[[ファイル:Genghis Khan empire-en.svg|300px|thumb|チンギス・カンの征服活動]]
オゴデイ・ウルスが成立したのは[[1207年]]から[[1211年]]にかけてのことで、モンゴル帝国が成立してから間もなくのことであった<ref>オゴデイ・ウルスを含むチンギス・カンの諸子弟への分封がいつ行われたか、正確な時期は分かっていない。しかし、『モンゴル秘史』で分封が卯年(1207年)以降のこととされていること、1211年の金朝遠征の際には「諸子の率いる右翼軍」と「諸弟の率いる左翼軍」という図式が完成していることなどから、分封が行われたのは1207年〜1211年頃のことと想定されている(杉山2004,33-34頁)</ref>。チンギス・カンは自らの諸子([[ジョチ]]・[[チャガタイ]]・オゴデイ)に1万2千の兵とモンゴリア西方の領地を、諸弟([[ジョチ・カサル|カサル]]、[[カチウン]]、[[テムゲ・オッチギン|オッチギン]])に同じく1万2千の兵とモンゴリア東方の領地を与え、それぞれ帝国の右翼・左翼と位置づけた<ref>杉山1996A,42-45頁</ref>。

オゴデイには[[イルゲイ|イルゲイ・ノヤン]]の[[ジャライル|ジャライル千人隊]]、[[デゲイ|デゲイ・ノヤン]]の[[ベスト氏|ベスト千人隊]]、[[イレク・トエ]]の[[スルドス|スルドス千人隊]]、[[ダイル]]の[[コンゴタン|コンゴタン千人隊]]からなる4つの[[ミンガン|千人隊]]が分封され、これがオゴデイ・ウルスの原型となった。オゴデイ・ウルスの最初の封土は北方を[[ジョチ・ウルス]]、南方を[[チャガタイ・ウルス]]に囲まれた[[アルタイ山脈]]中部から[[ウルングゥ川]]一帯にあった<ref>最初期のオゴデイ・ウルスの遊牧地を明記した史料は存在しないが、ジョチ・ウルス及びチャガタイ・ウルスとの比較や後述する『長春真人西遊記』の記述などからこの辺りと推測されている(杉山2004،51-53頁)</ref>。

『[[長春真人西遊記]]』には「[[[長春真人]]一行は]中秋の日にアルタイ(金山)東北に至り、しばらく駐留した後再び南行した。その山は高大・深谷で長い坂道があり、かつては車で行くことが出来なかった。三太子(オゴデイ)が軍を出し、始めてこの道を開拓したのである(中秋日、抵金山東北、少駐復南行。其山高大、深谷長阪、車不可行。三太子出軍、始闢其路)」との記述があり、チンギス・カンはアルタイ山を越え西方につながる交易路の開拓・管理を任せる意図の下オゴデイにこの領地が与えたと考えられている<ref>『元史』などの史料ではジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家の諸王を指して「西道諸王」、カサル家、カチウン家、オッチギン家の諸王を指して「[[東道諸王]]」と呼称することもあるが、これは「西道/東道を管理する諸王」というニュアンスも含めた呼称であると考えられている(白石2015,63-65頁)</ref>。

[[1219年]]、中央アジア遠征が始まるとチンギス・カン率いる本隊はオゴデイが開拓したルートを辿って西方に進軍し、オゴデイもこの遠征で[[アルタイ山脈]]の西麓、[[イルティシュ川]]の上流を得た長兄[[ジョチ]]と、[[天山山脈]]の[[イリ川]]渓谷を得た次兄[[チャガタイ]]の両ウルスの中間、エミル川流域のジュンガリア盆地一帯を新たに領土に加えた。これ以後、『[[世界征服者史]]』が「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であった…」と述べるように、オゴデイ・ウルスの本拠地は夏営地を[[エミル川|エミル]]、冬営地を[[コボク]]とする一帯に置かれるようになる<ref>杉山2004،51頁</ref>。

また、エミル・コボク地方の他にもオゴデイは[[第一次対金戦争|金朝遠征]]の戦功として山西の[[大同市|大同]](当時は西京路と呼称)一帯を、[[西夏遠征]]の戦功として[[西涼]]一帯を新たに領土として与えられている<ref>なお、金朝遠征や西夏遠征によって新たに得られた領土は「帝国の分有支配の原理」によってチンギス・カンの子供の中ではジョチ、チャガタイ、オゴデイの3名の間でほぼ均等に分割されていた。例えば、華北で与えられた領土はジョチ家の平陽路が41302戸、チャガタイ家の太原路が47330戸、オゴデイ家の西京路が45945戸でほぼ同規模であった(村岡2002,153頁)</ref>。これらの領土は[[14世紀]]末に至る迄クチュ家やコデン家などオゴデイ・ウルスの遊牧地として存続することとなる。

=== オゴデイ・カーンの治世におけるオゴデイ・ウルス ===
[[ファイル:Ogadai Khan.jpg|thumb|250px|right|オゴデイ・カーン]]
チンギス・カンの死後、遺言によってオゴデイがカーンに即位すると、問題になったのが末弟[[トゥルイ]]の存在であった。オゴデイが僅かに4千人隊しか継承していなかったのに対しトゥルイは父直属の101の千人隊を継承しており、有する領地・兵数はオゴデイよりはるかに上であった<ref>旧来の研究では『モンゴル秘史』に「[チャガタイとトゥルイ]は内地の国民をも同じようにして[オゴデイに]お手渡し申し上げた次第であった…」とあるのに従い、トゥルイは自らの千人隊を全てオゴデイに献上し、それ故にトゥルイ家は金朝征服などで新たに征服地を得なければならなかった、と説明されることもあった。しかし、現在では『集史』の記述などからトゥルイが自らの有する千人隊をオゴデイに献上したという説は誤りであると明らかにされている(松田1980,36-40頁)</ref>。

そこでオゴデイはオゴデイ・ウルス及びトゥルイ・ウルスに多数の変更を加え、自らの立場を強化した。まず、オゴデイは自らの直轄する4千人隊を庶長子[[グユク]]に委ね('''グユク・ウルス'''の成立)<ref>『世界征服者史』は「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であったが、彼は玉座に即くと、ヒタイとウイグル地方との間にある根幹の地に移した。そしてその居所を息子グユクに与えた」と述べる(杉山2004,51頁)</ref>、トゥルイ・ウルスの中から自らに直属する1万の[[ケシク]](親衛隊)を組織した。もともとチンギス・カンが率いていた1万のケシクはそのままトゥルイと縁の深い者ばかりであったので、新編成されたケシクの隊長は全て新しく選抜された者ばかりであった<ref>元来チンギス・カンの1万のケシクの隊長であった者の内、[[オゲレ・チェルビ]]、[[ドゴルク・チェルビ]]、[[トルン・チェルビ]]、[[スイケトゥ・チェルビ]]らはオゴデイのケシクから除かれ、トゥルイ家の千人隊長となっている。一方、テムデル・ノヤン、カダアン・ケプテウル、イェスン・テエらが新たにオゴデイのケシクの隊長として採用されている(村岡1996,76-77頁)</ref>。

次に、オゴデイはトゥルイ・ウルスから4千人隊を引き抜いて自らの息子[[コデン]]に与え、かつて[[西夏遠征]]時に自らの領地としていた[[涼州]]一帯に'''コデン・ウルス'''を成立させた<ref>なお、オゴデイ在世の頃のコデン・ウルスは河西地方のみならず陝西方面にも影響力を持っていたようで、コデンが京兆府のタンマチ長官に命令を下した記録が残っている(松田1996,42-43頁)</ref>。事実上トゥルイ家から牧民を奪うというこの措置にはチンギス・カンの定めた国体を覆すものだ、という批判が[[ノヤン]]たちの中から起こったが、トゥルイの寡婦[[ソルカクタニ・ベキ]]が[[ノヤン]]たちを説得し納得させたという逸話が残っている<ref>ただし、後述するようにオゴデイがトゥルイ・ウルスから一部のノヤンを独立させ独自のウルスを形成させるという施策をとった際には反対が生じていないため、ノヤンたちは単純にチンギス・カンの定めた国体を破ることに怒ったというよりは、自身に益のない施策に怒ったのではないかとも考えられている(村岡1996,79/81頁)</ref>。

また、自らの後継者と位置づけていた[[クチュ]]を[[モンゴル・南宋戦争|南宋攻略]]の司令官に任じると同時に、かつて金朝遠征時に自らの領地としていた山西南部に'''クチュ・ウルス'''を成立させた。クチュのウルスはかつてオゴデイ・ウルスが中央アジア遠征補助のため進軍ルート上に設置されたのと同様、南宋遠征の進軍ルート上にある一帯に設置されていた<ref>クチュ・ウルスの位置については、潞州にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと考えられている(松田1996,44-46頁)</ref>。更に、これと並行して「左手の五投下」に代表される独立性の高いノヤンたちをトゥルイ・ウルスから切り離して独立したウルスと認める、といった施策も行った<ref>丙申年(1236年)に旧金朝領の分割が行われた(丙申年分撥)が、この分撥は「ウルス」を単位として行われており、この時分撥対象となっているノヤンはトゥルイ・ウルスから独立して独自のウルスを形成していたとみられる(村岡1996,70-71頁)</ref>。

以上の措置により、オゴデイ・ウルスはグユク・ウルス、コデン・ウルス、クチュ・ウルスという3つの下位ウルスを有するモンゴル帝国内における最大勢力に成長した。一方、トゥルイ・ウルスに犠牲を強いる形で自身の勢力を強化したことはオゴデイ家とトゥルイ家の遺恨を生み、オゴデイ死後の帝位を巡る内紛を誘発することとなった<ref>他にチンギス・カン死後にウルスの新設を許された皇族は[[ベルグテイ]]、[[コルゲン]]、[[トゥルイ]]らがいるが、トゥルイはチンギス・カンの本領を受け継いだのみで、ベルグテイ、コルゲンらは皇族とはいえ庶出で勢力は小さく、やはりオゴデイ・ウルスの拡大が最も影響力が大きかった(村岡1992,22-23頁)</ref>。

=== オゴデイ家とトゥルイ家の内紛 ===
[[File:Güyük à la fête.jpeg|thumb|グユク(『[[世界征服者の歴史]]』)]]
オゴデイ・カーンの死後、モンゴル帝国では後継者を巡って激しい政争が繰り広げられた。オゴデイの治世に不満を募らせていたトゥルイ家ではトゥルイの長子[[モンケ]]を後継者候補に擁立し、モンケと仲の良い[[バトゥ]]率いるジョチ家もこれを支持した。一方、オゴデイ家では後継者と目されていたクチュが早世していたため、オゴデイの庶長子グユクを後継者候補に立て、チャガタイ家もこれに協力した。

全体としてみると、オゴデイ次代の繁栄を維持しようとするオゴデイ家・チャガタイ家連合と、これに反発するジョチ家・トゥルイ家連合によってモンゴル帝国の派閥は2分されることとなった。

[[1246年]]の[[クリルタイ]]ではオゴデイの寡婦[[ドレゲネ]]の強い後押しによって一旦はグユクがカーン位に即いた。しかし帝国の重鎮たるバトゥはグユクの即位を認めておらず、帝国全体の総意として即位したオゴデイに比べグユクの立場は甚だ不安定なものであった<ref>杉山1996A,90-95頁</ref>。そのため、グユクはオゴデイのように新たにウルスを創設することもなく、オゴデイ・ウルスはオゴデイ次代とさして変わらないままに留め置かれた。

2年後の[[1248年]]にグユクはエミルの自分の所領に巡幸中に急死したが、折しもジョチ・ウルスのバトゥも東方へと移動していおり、この時オゴデイ・ウルスとジョチ・ウルスの間で軍事衝突が起きる寸前であったのではないか、とする説も存在する<ref>杉山1996A,95-98頁</ref>。

グユクの死後、[[1251年]]のクリルタイでバトゥとソルカクタニの後押しの下、今度こそモンケがカーン位に即いた。モンケの即位直後、オゴデイ・ウルスの有力者たちの間でクチュの息子[[シレムン]]をカーン位に就けんとするクーデター計画が進められたが、露見して多くの者が捕縛・処刑された<ref>杉山1996A,98-100頁</ref>。

この一連の政変によって失脚した有力者は多く、イルゲイや[[ジェルメ]]といったチンギス・カン時代からの著名な将軍でありながらその子孫が残っていない人物は、この時オゴデイ家側について没落してしまったものと考えられている<ref>村上1972,356頁</ref>。

=== モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割 ===
[[File:Mengeser Noyan interrogeant les conjurés.png|300px|thumb|[[モンケサル|モンケサル・ノヤン]]によるオゴデイ諸子の審問・処刑(『集史』「モンケ・カアン紀」パリ写本)]]
シレムンのクーデター計画鎮圧を切っ掛けとしてモンケはかつての政敵たるオゴデイ家・チャガタイ家の大弾圧を行い、オゴデイ・ウルスはオゴデイ〜グユク時代に比べ大幅に弱体化した。ただし、モンゴル帝国の伝統としてチンギス・カンの定めたウルスは時のカーンであってもなくしてはならないという不文律があり、オゴデイ・ウルスそのものが消滅することはなかった。『元史』の記述によると、モンケ・カーンの命によってオゴデイ諸王家の領土は以下のように定められていたという。

{{Quotation|二年[[壬子]]……夏、駐蹕和林。分遷諸王於各所、各丹于別石八里地、蔑里于葉児的石河、海都於海押立地、別児哥于曲児只地、脱脱于葉密立地、蒙哥都及太宗皇后乞里吉忽帖尼於拡端所居地之西。
[[1252年]]……夏、[モンケ・カーンは][[カラコルム]]に留まった。諸王を各所に分け移し、'''[[カダアン・オグル|カダアン(各丹)]]'''を[[ビシュバリク|ビシュバリク(別石八里)]]の地に、'''[[メリク (オゴデイ家)|メリク(蔑里)]]'''を[[イルティシュ川|イルティシュ河(葉児的石河)]]に、'''[[カイドゥ|カイドゥ(海都)]]'''を[[カヤリク|カヤリク(海押立)]]の地に、[[ベルケ|ベルケ(別児哥)]]を[[グルジャ|グルジャ(曲児只)]]の地に<ref>ここでジョチ家のベルケがオゴデイ系諸王とともに中央アジアで領地を与えられているのは、中央アジアのオゴデイ家・チャガタイ家に対する牽制のためであったと考えられている(村岡1992,27頁)</ref>、'''[[カラチャル (オゴデイ家)|トタク(脱脱)]]'''を[[エミル川|エミル(葉密立)]]の地に<ref>ここではトタクにエミル一帯が遊牧地として与えられたかのように記されているが、エミルは元来グユク・ウルスの遊牧地であることやトタクもシレムンやホージャ・オグルらと同様にクーデター計画に参画していたことを踏まえるとこの措置は不自然である。そこで村岡倫はこの『元史』の記述はクーデター計画に参画したトタクがグユク・ウルス領のエミルに「身柄預かり」になったことを述べているのではないか、と推測している(村岡2002,156頁)。</ref>、'''[[モンゲトゥ (オゴデイ家)|モンゲトゥ(蒙哥都)]]'''及び太宗皇后乞里吉忽帖尼を'''[[コデン|コデン(拡端)]]'''の居住地の西に[定めた]<ref>なお、『集史』「モンケ・カアン紀」には「[モンケは]コデンの諸子、カダアン・オグル、メリク・オグルの各人に、[オゴデイ・]カアンの諸オルド居住地から、オルドを1つずつ、彼の夫人とともに恩師した」とあり、カイドゥとトタクの名は挙がらないものの『元史』憲宗本紀と同じ事実を伝える記事であると考えられている(村岡1992,25頁)</ref>。|『元史』巻3憲宗本紀}}

この措置に対して、従来は「オゴデイ王族の辺境への幽囚である」、「モンケ即位に協力したオゴデイ王族への論功行賞である」という全く異なる2つの評価が為されてきた。しかしモンケ・カーンによる施策で最も注目すべきはオゴデイ・ウルスを統轄する存在が認定されず、オゴデイ諸子のウルスがそれぞれ個別に独立したウルスとして認定されたことであった。そもそもウルスは代替わりのたびに分割継承されていくものであり、ウルスの分割相続自体は自然なことである。問題なのはオゴデイ・ウルスの分割相続がモンケの名の下に行われたことで、これはオゴデイ・ウルス全体を統轄する者の喪失、事実上のオゴデイ・ウルス分割を意味した<ref>村岡1992,24-27頁</ref>。

なお、上記のオゴデイ諸子の中でカダアン家とコデン家のみは他の王家と異なりモンケ即位に協力しており、結果としてモンケの報復人事を免れていた<ref>『集史』「オゴデイ・カアン紀」はコデン家の條において「オゴデイ・カアンとグユク・カンの子供達がモンケ・カアンに謀叛を企んだ時にこれらのコデンの子供達は彼に最上の好意と厚誼を持った故に、その全てを罪に問い、彼等の軍隊を召し上げ、分解した時、彼等には圧迫を加えず、彼等が保持していた軍隊を彼等に定め、タングート地方に彼等の遊牧地があったので、クビライ・カアンと彼の息子テムル・カアンはしっかりとコデンの子孫をそこに置いた。……」と記す(松田1996,25頁)</ref>。カダアン家とコデン家の領地はオゴデイ・ウルスの中でも東方に位置しており、そのためこの時点でオゴデイ・ウルスは東方に位置する親トゥルイ家派と西方に位置する反トゥルイ家派に分裂していたと言える。この親トゥルイ家派と反トゥルイ家派の分裂は[[大元ウルス]]とカイドゥ・ウルスの対立にまで継承されることとなる<ref>杉山2004,311-312頁</ref>。

以上のようなモンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割は当然ながらオゴデイ諸王家の不満と反発を呼び起こし、[[14世紀]]初頭にまで続く「カイドゥの乱」「カイドゥ・ウルス」成立の遠因となった。

=== カイドゥ・ウルスの成立 ===
モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割に不満を抱いていたオゴデイ諸王家にとって、転機となったのがモンケの死に伴う[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]の勃発であった。帝位継承戦争に直接巻き込まれたのは東方の親トゥルイ家派たるカダアン家とコデン家のみであったが、中央政府の手の届かない中で反トゥルイ家派の諸オゴデイ王家は独自に勢力を拡大していった。その中で最も実力があり、野心も大きかったのが[[カシン (オゴデイ家)|カシ]]家の'''カイドゥ'''であった。

カイドゥは「家畜が痩せている」ことを理由に帝位継承戦争後3年にわたってクビライの下を訪れることを拒み<ref>なお、[[マルコ・ポーロ]]の『[[東方見聞録]]』も暗殺されることを恐れたカイドゥがクビライの招集を拒み続けたことが両者の不和の原因になったと伝えている(愛宕1971,263-265頁)</ref>、更に[[オルダ・ウルス]]当主[[コニチ]]の協力を得て勢力を拡大していた<ref>従来、このカイドゥに協力した「コニチ」は単なる将軍と考えられていたが、村田倫の研究によりオルダ・ウルス当主にコニチであると明らかになっている(村岡1999,6-9頁)</ref>。帝位継承戦争後、中央アジアではクビライ派に立ったチャガタイ家の[[アルグ]]が最も有力であったが、そのアルグが1266年に急死するとこれを好機と見たカイドゥはコニチの協力を得てアルタイ山脈を越えてモンケ家の[[ウルン・タシュ]]のウルスを攻撃し、これが長く続く「'''カイドゥの乱'''」の幕開けとなった。

カイドゥはオゴデイ家の中でも非主流の出自であった<ref>カイドゥの父カシは一時「皇太子」にされたこともありその意味では悪い出自ではなかったが、カイドゥの母は[[天山山脈]]東端に住まう[[メクリン]]部の出身で地位が低く、生母の血統の点で不利であった(杉山1996B,51頁)</ref>が、クビライへの宣戦布告後多くのオゴデイ系諸王がカイドゥの下に集結した。その中にはかつて帝位継承戦争でクビライに味方したグユク家のホクやカダアン家のキプチャクらの姿もあり、カイドゥはグユク・ウルス、カシ・ウルス、メリク・ウルスといった「西方オゴデイ・ウルス」の大部分を傘下に収めることとなった。

一方、クチュ・ウルスやコデン・ウルスといった「東方オゴデイ・ウルス」は大元ウルスの統治下に収まり続けたが、クチュ家の[[トゥクルク]]がシリギの乱に乗じて六盤山で挙兵するなど、クビライ政権に逆らいカイドゥに味方する者も存在した。

「西方オゴデイ・ウルス」を率いるカイドゥにとって転機となったのがチャガタイ・ウルス当主[[バラク]]の死と、モンケ家/アリク・ブケ家諸王によって引き起こされた「[[シリギの乱]]」であった。バラクが亡くなるとカイドゥは傀儡君主を立ててチャガタイ・ウルスを事実上乗っ取り、チュベイら反カイドゥ派の諸王は大元ウルスに亡命することになった。ここにおいてチャガタイ・ウルスもオゴデイ・ウルスと同様にカイドゥに従う「西方チャガタイ・ウルス」とクビライに従う「東方チャガタイ・ウルス」に東西分裂することになった<ref>杉山2004,311-312頁/杉山1996B,66-67頁</ref>。

また、「シリギの乱」では叛乱そのものは失敗に終わったが叛乱に参加したモンケ家/アリク・ブケ家の諸王が自らのウルスとともにカイドゥの勢力圏に参入し、これによってカイドゥの支配権はアルタイ山脈を越えてモンゴル高原の[[ハンガイ山脈|ハンガイ山]]一帯にまで広がることとなった。そのため、これ以後カイドゥ・ウルスと大元ウルスの戦争の主戦場は中央アジア方面からモンゴル高原西方に移ることとなる<ref>村岡1985,329頁</ref>。

ここに至り、カイドゥの支配する勢力は西方オゴデイ・ウルス、西方チャガタイ・ウルス、アリク・ブケ・ウルスという3つの大きなウルスからなる独立した政権へと成長した。この政権を指してマルコ・ポーロは「大トゥルキー国」<ref>『東方見聞録』は「大トゥルキー国の王はカイドゥといって、カーンの甥(実際には従兄弟の子)に当たる人物である……」という書き出しからカイドゥと大トゥルキー国について書き起こしている(愛宕1971,263頁)</ref>、『集史』は「カイドゥの国」と呼称しており、現代のモンゴル史研究者は既存のオゴデイ・ウルスの枠に収まらない国家であるという点を踏まえこれを「カイドゥの国」「カイドゥ・ウルス」と呼称する。

=== カイドゥ・ウルスの解体 ===
[[ファイル:Altai mountains aerial (6072994685).jpg|thumb|400px|カイドゥ・ウルスと大元ウルス間の戦争の主戦場となったアルタイ山脈]]
クビライの存命中は大元ウルスとカイドゥ・ウルスとの間の戦線は膠着状態にあったが、[[1294年]]のクビライの死を切っ掛けに事態は急変する。[[1296年]]にアリク・ブケ家の[[ヨブクル]]、モンケ家の[[ウルス・ブカ]]らがカイドゥ・ウルスを見限って大元ウルスに投降するという事件が起こり、大元ウルスは政治的効果を狙って両者を厚遇するとともに、帝国各地にこの一件を大々的に宣伝した<ref>ユブクル、ウルス・ブカらの降伏を受けて、大元ウルス朝廷は「大徳改元詔書」を発布し、元号を[[1297年]]2月に[[元貞]]から[[大徳 (元)|大徳]]に改元した(松田1983,48-50頁)。その年の内の改元は中国史上非常に珍しいものであり、この降伏を大元ウルス朝廷がいかに重要視していたかが窺える(杉山1996B,162
頁)</ref>。

このような情勢に危機感を抱いたカイドゥは大元ウルスに対して大攻勢に出、[[1298年]]には[[ココチュ (寧王)|寧王ココチュ]]らが率いる大元ウルスのモンゴリア駐屯軍がドゥア軍に大敗を喫し、大元ウルスの対カイドゥ戦線は危機的状況に陥った<ref>この戦いについては『集史』「テムル・カアン紀」に詳細な記述があり、ココチュ軍は宴会で酩酊しきっているところに奇襲を受け、コルクズ駙馬のみが奮戦したもののその他の兵士はなすすべもなく敗れてしまったという(松田1982,2-3頁)</ref>。

しかしココチュに代わって[[カイシャン]](後の武宗クルク・カーン)が対カイドゥ・ウルスの司令官に抜擢されると<ref>ココチュらの敗戦が1298年の冬、カイシャンがモンゴリアに派遣されたのは翌[[1299年]]のことであった(松田1982,1-3頁)</ref>、カイシャンはモンゴリアの諸将の人心をよく掴み、カイドゥとの戦闘で次第に優位に立つようになる。大元ウルス軍の圧倒的な物量とカイシャンの奮戦によってカイドゥ軍は劣勢に陥り、遂に[[1301年]]の戦いでカイドゥは矢傷を負って退却し、間もなく亡くなってしまった<ref>『集史』「オゴデイ・カアン紀」は「[ヒジュラ暦]701年(西暦1301-1302年)にカイドゥはバラクの息子のドゥアと一緒に、テムル・カアンの軍隊と戦って撃ち破られた。その戦いで2人とも傷つき、カイドゥはその傷で死んだ。ドゥアはなおその傷で苦しみ、その治癒ができないでいる」と記す(松田1996,28頁)。</ref>。

カイドゥの死後、西方チャガタイ・ウルス当主[[ドゥア]]の後ろ盾の下カイドゥの息子[[チャパル]]がカイドゥの後を継ぎ、両者は大元ウルスに対して融和策に出た。ところがドゥアは独自に大元ウルスと講和を結び、中央アジアからオゴデイ・ウルスを駆逐しようと画策した。こうして[[1306年]]、東方からカイシャン率いる大元ウルス軍が、南方からドゥア率いるチャガタイ・ウルス軍が「西方オゴデイ・ウルス」に攻め込み、チャパルらオゴデイ系諸王は両勢力に挟撃されることになった。この時の戦況を『元史』は以下のように記述する。
{{Quotation|[大徳]十年七月、自脱忽思圈之地逾按台山、追叛王斡羅思、獲其妻孥輜重、執叛王也孫禿阿等及駙馬伯顔。八月、至也里的失之地、受諸降王禿満・明里鉄木児・阿魯灰等降。海都之子察八児逃於都瓦部、尽俘獲其家属営帳。駐冬按台山、降王禿曲滅復叛、与戦敗之、北辺悉平。
[[1306年]]7月、[カイシャンは]脱忽思圈の地よりアルタイ(按台)山を越え、'''[[オロス (オゴデイ家)|叛王オロス(斡羅思)]]'''を追い、その妻孥・輜重を獲得し、叛王'''[[カダアン・オグル|イェスン・トゥア(也孫禿阿)]]'''ら及び駙馬バヤン(伯顔)を捕らえた。8月、イルティシュ(也里的失)の地に至り、諸降王'''[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|トゥマン(禿満)]]'''・[[メリク・テムル|メリク・テムル(明里鉄木児)]]・'''[[シレムン#子孫|アルグイ(阿魯灰)]]'''らの降伏を受けた。カイドゥ(海都)の子チャパル(察八児)は[[トゥヴァ|トゥヴァ(都瓦)部]]に逃れ、チャパルの家属・営帳は全て捕らえられた。冬はアルタイ(按台)山に駐留したが、降王'''[[ホージャ・オグル#グユク王家|トゥクメ(禿曲滅)]]'''が再び叛乱を起こしたので、戦ってこれを破り、北辺は全て平定された。|『元史』巻22武宗本紀1}}
この記述に見られるようにグユク・ウルス(トゥクメ)、クチュ・ウルス(アルグイ)、カダアン・ウルス(イェスン・トゥア)、メリク・ウルス(トゥマン)ら「カイドゥの国」に属していたオゴデイ系諸ウルスはカイシャンの遠征によって残らず大元ウルスに降伏することになり、『元史』の記述によると、大元ウルスに降伏してモンゴル高原に移住してきた牧民の数は100万を越えたという<ref>『元史』巻136列伝23哈剌哈孫伝には「詔曰『和林為北辺重鎮、'''今諸部降者又百餘万'''……』」とある。</ref>。

唯一カシ家のチャパルのみはドゥアに投降して中央アジアに残っていたが、[[1307年]]のドゥアの死を切っ掛けに再び蜂起するも敗れ、遂に大元ウルスに投降した。こうしてオゴデイ・ウルスは中央アジアから一掃されることとなり、かつてオゴデイ・ウルスの遊牧地であったジュンガル盆地一帯の大部分はチャガタイ・ウルスに征服されるに至った。この「西方オゴデイ・ウルス」征服を経てチャガタイ・ウルスは中央アジアに独立した政権を立てることになり、これを後世「'''チャガタイ・ハン国'''」と呼称する。しかし、近年の研究では「チャガタイ・ハン国」は単純にかつてのチャガタイ・ウルスを復興させたものではなく、カイドゥが建設した「カイドゥの国」をそのまま受け継いだものであることが明らかにされている<ref>村岡1988,194-196頁</ref>。

なお、この1306年の戦争によって「オゴデイ・ハン国は滅亡した」とされることもあるが、後述するように投降後のオゴデイ系諸王は大元ウルスの統治下で自らのウルスを率いて生活しており、この時「オゴデイ・ウルス」が滅亡したわけではない<ref>(村岡1992,42-44頁)</ref>。

=== 14世紀以後のオゴデイ・ウルス ===
[[ファイル:オルク・テムル・ハーン.jpg|300px|thumb|オルク・テムル・カーン]]
大元ウルスに降伏したオゴデイ家の諸ウルスは小規模ながら存続を認められ、大元ウルス領内の各地で遊牧生活を送った。大元ウルスの統治下でオゴデイ家の諸王は王号を与えられたが、王号はオゴデイの6子の系統ごとに全く異なる名称が与えられていた<ref>グユク家は「無国邑(王位は与えられているが王号は存在しない)」、コデン家は「荊王」、クチュ家は「靖遠王/襄寧王」、カシ家は「汝寧王」、カダアン家は「隴王」、メリク家は「陽翟王」という王号がそれぞれ与えられていた(村岡1992,35-36頁)</ref>。これはモンケ時代の方針を受け継いで、オゴデイ・ウルスを6子の系統ごとに存続させようとしたためであると考えられている。


ただし、各オゴデイ系ウルスの規模は以前に比べて遙かに小規模であった。例えば、グユク家のオルジェイ・エブゲンの「モンゴル(蒙古)民」は280戸余りであったという<ref>『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年夏四月]癸亥、諸王完者也不干所部蒙古民二百八十餘戸告饑、命河東宣慰司発官粟賑之」(村岡1992,38-39頁)</ref>。また、大元ウルスに移住したオゴデイ系諸王の多くは山西〜河西一帯に居住しており、山西のクチュ・ウルスや河西のコデン・ウルスといった大元ウルスに留まり続けた「東方オゴデイ・ウルス」の遊牧地に収容されていたものと見られる<ref>(村岡1992,40-42頁)</ref>。
[[1229年]]、オゴデイが大ハーンとなると、オゴデイはモンゴル高原の中央である[[ハンガイ山脈]]山麓の[[カラコルム]]地方に移り、エミルの牧地とウルスはオゴデイの長男[[グユク]]に譲られた。グユクは[[1246年]]に父を継いでハーンに即位するが、エミルのウルスは自身で所有したままカラコルムに移った。こうしてオゴデイ・ウルスは大ハーンの直轄領として帝国中央から自立した政権とはますます言い難い状況になるが、2年後の[[1248年]]、グユクはエミルの自分の所領に巡幸中に急死した。


ただし、オゴデイの末子メリクのウルスのみは別格で、『元史』によるとイルティシュ河流域に数十万の大軍勢を擁していたという<ref>『元史』巻45順帝本紀8,「是歳、陽翟王阿魯輝帖木児擁兵数十万、屯於木児古徹兀之地、将犯京畿」</ref>。これはイルティシュ河流域がエミル・コボク地方などと違ってドゥアに併合されなかったこと、イルティシュ河流域がチンギス・カンによって分封されたオゴデイ・ウルスの「初封地」であったことなどが理由と見られる<ref>(村岡1992,40-41頁)</ref>。[[1361年]]にはメリク家の[[アルグ・テムル]]がこの地で叛乱を起こしており、14世紀後半に至ってもオゴデイ・ウルスはイルティシュ河流域で少なからぬ勢力を残していたと見られる。
グユクの死後、実力で第4代ハーンの座を奪取したオゴデイの弟[[トルイ]]の子[[モンケ]]は、権力の座を追われたオゴデイの遺児たちがチャガタイ家と結んでモンケ暗殺をはかった事件をきっかけにオゴデイ家の大粛清を行った。これによりグユクの寡婦[[オグルガイミシュ]]を含むオゴデイ家の有力者が追放・処刑され、グユクが持っていたオゴデイ家の所領も生き残りの王族の間に細分して与えられ、オゴデイ・ウルスは事実上解体した。


大元ウルスの北遷後([[北元]])、[[1402年]]に即位した[[オルク・テムル|オルク・テムル・カーン]]はオゴデイ家出身の人物であった<ref>[[ティムール朝]]で編纂された諸史料によると、北元時代にオゴデイ家の「オルク・テムルUruk Tīmūr」が即位したという。オルク・テムルは「オゴデイの息子カラク・オグルの息子ヌビヤの息子」とされているが、これでは13世紀初頭に活躍したオゴデイの曾孫になってしまい、到底年代があわないためこの系譜自体は疑問視されている。しかし、明朝の漢文史料に「非元裔也(元朝帝室の嫡孫ではない)」とあることなどから、オルク・テムルがオゴデイ家の者であるという説が受入れられている(岡田2010,p368)</ref>。オルク・テムルの本拠地はかつてオゴデイ・ウルスの一部であった河西方面にあったとみられ<ref>明朝の下を訪れたオルク・テムルの使者は[[寧夏]]を通って帰還していること、[[コムル|コムル(哈密)]]に積極的に干渉していることなどから、オルク・テムルの根拠地は河西方面にあったと考えられている(和田1959,207-208頁)</ref>、15世紀初頭まで河西ではオゴデイ・ウルスの一部が残存していたことが確認される。オルク・テムルの息子[[アダイ・ハーン|アダイ]]もカーンに即位したが、[[トゴン|トゴン太師]]率いる[[オイラト|ドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)]]に敗れ、本領の河西地方もオイラトに占領されてしまった<ref>アダイの居住地を明朝は「涼州境外」と記しており、やはりオルク・テムルと同様に河西方面を根拠地にしていたと考えられている(和田1959,233-234頁)</ref>。これ以後、オゴデイ家の人物が史料上に現れることは少なくなり、オゴデイ・ウルスがどのように変化していったかは不明となる<ref>村岡1992,46頁</ref>。
== 滅亡後 ==
=== カイドゥ・ウルス ===
モンケの死後、その弟[[クビライ]]と[[アリクブケ]]がハーン位をめぐって争い、オゴデイ家へかかる圧力が軽減されると、オゴデイ家の諸王子の中からオゴデイの孫[[カイドゥ]]が台頭した。カイドゥはやがてチャガタイ・ウルスやアリクブケの諸子のウルスをまとめる盟主へと成長し、定住民の居住する[[マー・ワラー・アンナフル]]の旧大ハーン直轄領を支配下に収めた。しかし、オゴデイ一門の中でもオゴデイの子[[コデン]]に属するウルスなど、[[河西回廊|河西]]([[甘粛省]])にいた諸王族はクビライの[[元 (王朝)|大元]]に従って、カイドゥらと対立しており、かつてのオゴデイ・ウルスが全ウルスをあげてカイドゥに従ったわけではない。


=== 「カドゥ国」か ===
== オゴデ・ウルス構成 ==
=== 初期の4千人隊 ===
{| class="wikitable"
|-
! 千人隊長
! ペルシア語表記(『集史』)
! 漢字表記(『秘史』)
! 功臣順位
! 部族
! 備考
|-
| [[イルゲイ]](Ilügei)
| یلوکای نویان(īlūkāī nūyān)
| 亦魯該(yìlǔgāi)
| 5
| [[ジャライル]]
| オゴデイの王傅([[アタベク]])を務めるが、息子はモンケ即位後に失脚する
|-
| [[デゲイ]](Degei)
| دوکا(Dūkā)
| 迭該(diégāi)
| 11
| [[ベスト]]
| 息子はコデン家の[[ジビク・テムル]]に仕え、オゴデイ死後の政変を生き残る
|-
| [[ダイル]](Dayir)
| دایر(Dāīr)
| 荅亦児(tàyìér)
| 36
| [[コンゴタン]]
| インド方面のタンマチ初代司令官となり、[[バードギース州|遠征先]]で亡くなった
|-
| [[イレク・トエ]](Ilek töe)
| ایلک توا(Yīlk tūā)
|
|
| [[スルドス]]
| スルドス部の枝族タムガリク部の出身で、『集史』にのみ登場する
|}


=== モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割時(1252年)のオゴデイ系7王家 ===
以上で述べられたように、オゴデイ家のウルスは一体として存続していたチンギス、オゴデイ、グユク、モンケの治世には独立した[[国家]](ハン国)として機能していたか疑わしい。また、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたもので、史料上でも「カイドゥの国」などの名で呼ばれており、当時の人々にカイドゥがオゴデイ家のハンであると見られていたわけではなかったとみなされ、彼自身の君主としての称号もハンではなく、「兄」を意味する「アカ」と呼ばれていたらしい事実が注目されている。したがって、近年の研究では「オゴデイ・ハン国」という呼び方はあまりなされなくなっている。
{| class="wikitable"
|-
! 王家
! 当主
! 遊牧地
! 投下領(戸数)
! 出自
! 備考
|-
| グユク王家
| [[ホク|ホク大王(Hoqu)]]
| [[エミル川|エミル・コバク]]
| [[大名路]](68593戸)
| グユクの末子
| 兄2名が処刑されたため、当主に就任
|-
| コデン王家
| [[モンゲトゥ|モンゲトゥ(Möngetü)]]
| [[西涼|西涼府]]
| [[東昌路]](47741戸)
| コデンの第2子
| クビライと[[パスパ]]の面会に尽力した
|-
| クチュ王家
| [[ソセ|ソセ(Söse)]]
| [[潞州]]
| [[汴梁路]]在城戸→睢州(5214戸)
| シレムンの末子
| シレムンが処刑されたため、当主に就任
|-
| カラチャル王家
| [[カラチャル (オゴデイ家)#概要|トタク(Totaq)]]
| [[エミル川|エミル方面]]
| 未設定
| カラチャルの息子
| オゴデイ7子の中で唯一早い段階で断絶する
|-
| カシ王家
| [[カイドゥ|カイドゥ(Qaidu)]]
| [[カヤリク]]
| 汴梁路在城戸→[[蔡州]](3816戸)
| カシの息子
| 後に独立し、「カイドゥ・ウルス」を建設する
|-
| カダアン王家
| [[カダアン・オグル|カダアン(Qada'an)]]
| [[ビシュバリク]]
| 汴梁路在城戸→[[鄭州]](戸数不明)
| オゴデイの第6子
| モンケ時代に始めてウルスを形成する
|-
| メリク王家
| [[メリク (オゴデイ家)|メリク(Melik)]]
| [[イルティシュ川|イルティシュ河流域]]
| 汴梁路在城戸→[[鈞州]](1584戸)
| オゴデイの末子
| モンケ時代に始めてウルスを形成する
|}
<ref>松田1996,49-50頁</ref>
=== 「カイドゥの乱」終結後、14世紀における大元ウルス統治下のオゴデイ系6王家 ===
{| class="wikitable"
|-
! 王家
! 代表的当主
! 推定遊牧地
! 1319年時点の実有戸数
! 王号
! 備考
|-
| グユク王家
| [[ホージャ・オグル#グユク王家|オルジェイ・エブゲン王(Ölǰei Ebügen)]]
| 山西方面
| [[大名路]](12835戸)
| 無国邑
| [[1331年]]には飢饉に陥ったとの記録あり
|-
| コデン王家
| [[トク・テムル (荊王)|荊王トク・テムル(Toq temür)]]
| 河西[[永昌府]]
| [[東昌路]](17825戸)
| 汾陽王/荊王
| [[1343年]]のトク・テムルの死で断絶した
|-
| クチュ王家
| [[シレムン#子孫|襄寧王アルグイ({{lang|mn|Aluγui}})]]
| 山西[[平陽路]]
| 睢州(1937戸)
| 襄寧王
| オゴデイ時代のクチュ・ウルス領を継承
|-
| カシ王家
| [[チャパル#子孫|汝寧王クラタイ(Qulatai)]]
| 山西方面
| [[蔡州]](388戸)
| 汝寧王
| クラタイは[[天暦の内乱]]で上都派につき、敗れて殺された
|-
| カダアン王家
| [[カダアン・オグル#子孫|隴王コランサ(Qorangsa)]]
| 河西方面
| [[鄭州]](2356戸)
| 隴王
| [[山丹県|山丹]]を拠点とする[[アジキ]]と行動を共にする
|-
| メリク王家
| [[アルグ・テムル|陽翟王アルグ・テムル({{lang|mn|Aruγ Temür}})]]
| [[イルティシュ川|イルティシュ河流域]]
| [[鈞州]](2496戸)
| 陽翟王
| 10万の大軍を擁し、[[1360年]]に叛乱を起こす
|}
<ref>村岡1992,35-41頁</ref>
== 各王家 ==
=== グユク王家 ===
[[ファイル:Dzungaria.png|thumb|400px|グユク・ウルスの位置したジュンガル盆地]]
*'''[[グユク|グユク・カン]]'''(Güyük Qan >貴由/guìyóu,گيوك خان/Guyūk khān)
**'''[[ホージャ・オグル]]'''({{Lang|mn|Khwaja Oγur}} >忽察/hūchá,خواجه اغول/Khwaja Āghūl)
***[[ホージャ・オグル#グユク王家|トゥクメ]](Tükme >توکمه/Tūkme)
***[[ホージャ・オグル#グユク王家|ブスジュ・エブゲン]](Busju Ebügen >بوسجو ابوکانbūsjū ābūkān)
***'''[[トゥクルク|南平王トゥクルク]]'''(Tuqluq >禿魯/tūlŭ,توقلوق/Tūqlūq)
***[[ホージャ・オグル#ホグユク王家|イルゲンツェン王]](Irgendzen >亦児監藏/yìérjiāncáng)
***[[ホージャ・オグル#グユク王家|オルジェイ・エブゲン王]](Ölǰei Ebügen >完者也不干/wánzhĕyĕbùgān)
**'''[[ナク|ナク太子]]'''(Naqu >脳忽/nǎohū,ناقو/Nāqū)
***[[ナク#ナク王家|チャバト]](Čabat >چباتChabāt)
**'''[[ホク|ホク大王]]'''(Hoqu >禾忽/héhū,هوقو/Hūqū)
<ref>松田1996,24-25/34-35頁</ref>
=== コデン王家 ===
[[ファイル:甘肃省武威市凉州区 - panoramio (2).jpg|thumb|400px|コデン・ウルスの中心地の1つ[[涼州]](現在の[[甘粛省]][[武威市]])]]
*'''[[コデン|コデン太子]]'''(Köden >闊端/hédān,كوتان/kūtān)
**'''[[メルギデイ|メルギデイ王]]'''(Mergidei >滅里吉歹/mièlǐjídǎi,كوتان/kūtān)
***[[メルギデイ#子孫|イェス・ブカ大王]](Yes buqa >也速不花/yěsùbúhuā,ییسوبوقا/yīsū būqā)
**'''[[モンゲトゥ (オゴデイ家)|モンゲトゥ大王]]'''(Möngetü >蒙哥都/mēnggēdōu,مونكاتو/mūnkātū)
***[[モンゲトゥ (オゴデイ家)#子孫|イリンチン大王]](Irinǰin >亦憐真/yìliánzhēn,ایرنچان/īrinchān)
**'''[[ジビク・テムル|ジビク・テムル王]]'''(J̌ibig temür >只必帖木児/zhībìtiēmùér,جینك تیمور/jīnk tīmūr)
***[[ジビク・テムル#子孫|テビレ大王]](Tebile >帖必烈/tiēbìliè,ممبوله=تیبوله/tībūle)
***[[ジビク・テムル#子孫|クルク大王]](Külük >曲列魯/qūlièlǔ,كورلوك/kūrlūk)
****[[イェス・エブゲン#出自|汾陽王ベク・テムル]](Bek temür >別帖木児/biétiēmùér)
*****'''[[イェス・エブゲン|荊王イェス・エブゲン]]'''(Yes ebügen >也速也不干/yěsùyěbúgān)
******'''[[トク・テムル (荊王)|荊王トク・テムル]]'''(Toq temür >脱脱木児/tuōtuōmùér)
<ref>松田1996,25/35-36頁</ref><ref>杉山2004,458-473頁</ref>
=== クチュ王家 ===
[[ファイル:长治街景 - panoramio.jpg|400px|thumb|クチュ・ウルスの中心地[[潞州]](現在の[[長治市]])一帯]]
*'''[[クチュ|クチュ太子]]'''(Küčü >闊出/kuòchū,کوچو/Kūchū)
**'''[[シレムン|シレムン太子]]'''(Širemün >昔列門/xīlièmén,شيرامون/Shīrāmūn)
***[[シレムン#子孫|ボラドチ大王]](Boladči >孛羅赤/bóluochì,بولاوجی/Būlāūjī)
****[[シレムン#子孫|クンジ]](Qunǰi >قونجیQūnjī)
****[[シレムン#子孫|靖遠王カダイ]](Qadai >哈歹/hādǎi,قادای/Qādāī)
****[[シレムン#子孫|襄寧王アルグイ]]({{lang|mn|Aluγui}} >阿魯灰/ālǔhuī,القوی/Ālqūī)
****[[シレムン#子孫|サドル]](Sadur >سادور/Sādūr)
**[[クチュ#クチュ王家|ボラドチ大王]](Boladči >孛羅赤/bóluochì,بولاوجی/Būlāūjī)
**'''[[ソセ|ソセ大王]]'''(Söse >小薛/xiǎoxuē,سوسه/Sūse)
<ref>松田1996,26/36-37頁</ref>
=== カラチャル王家 ===
*'''[[カラチャル (オゴデイ家)|カラチャル王]]'''(Qaračar >哈剌察児/hǎlácháér,قراچار/Qarāchār)
**[[カラチャル (オゴデイ家)#概要|トタク大王]](Tötaq >脱脱/tuōtuō,توظاق/Tūṭāq)
<ref>松田1996,26/37頁</ref>
=== カシ王家 ===
*'''[[カシン (オゴデイ家)|カシ大王]]'''(Qaši >合失/héshī,قاشی/qāshī)
**'''[[カイドゥ|カイドゥ大王]]'''(Qaidu >海都/hǎidōu,قايدو/qāīdū)
***'''[[チャパル|汝寧王チャパル]]'''(Čapar >察八児/chábāér,چاپار/chāpār)
****[[チャパル#子孫|汝寧王オルジェイ・テムル]](Ölǰei temür >完者帖木児/wánzhětiēmùér)
*****[[チャパル#子孫|汝寧王クラタイ]](Qulatai >忽剌台/ hūlátái)
***[[カイドゥ#子女|ヤンギチャル]](Yangičar >يانگيچار/yāngīchār)
***'''[[オロス (オゴデイ家)|叛王オロス]]'''(Oros >斡羅思/wòluosī, اوروس/ūrūs)
***[[カイドゥ#子女|サルバン]](Sarban >ساربان/sārbān)
<ref>松田1996,26-31/37-39頁</ref>
=== カダアン王家 ===
[[ファイル:Tianchi Lake of Tian Shan2.jpg|400px|thumb|カダアン・ウルスの中心地[[ビシュバリク]](現在の[[昌吉回族自治州]])一帯]]
*'''[[カダアン・オグル|カダアン大王]]'''({{Lang|mn|Qada'an oγul}} >合丹/hédān,قدان اغور/Qadān āghūr)
**[[カダアン・オグル#子孫|ドルジ王]](Dorǰi >覩爾赤/dǔěrchì,دورجی/Dūrjī)
***[[カダアン・オグル#子孫|ソセ大王]](Söse >小薛/xiǎoxuē,سوسه/Sūse)
****[[カダアン・オグル#子孫|シンギバル大王]](Singgibal >星吉班/xīngjíbān)
***[[カダアン・オグル#子孫|アスキバ]](Askiba >اسکبه/Askiba)
**[[カダアン・オグル#子孫|イェスル大王]](Yesür >也速児/yěsùér,ییسور/Yīsūr)
**'''[[キプチャク (オゴデイ家)|キプチャク]]'''(Qibčaq >قبچاق/Qibchāq)
***[[キプチャク (オゴデイ家)#子孫|クリル]](Quril >قوریل/Qūrīl)
**[[カダアン・オグル#子孫|エブゲン大王]](Ebügen >也不干/yěbúgān,ابوکانAbūkān)
***[[カダアン・オグル#子孫|隴王コランサ]](Qorangsa >火郎撒/huǒlángsā)
**[[カダアン・オグル#子孫|イェスン・トゥア大王]](Yesün tu'a >也孫脱/yěsūntuō)
**[[カダアン・オグル#子孫|コニチ大王]](Qoniči >火你/huǒnǐ)
<ref>松田1996,31-32/39-40頁</ref>
=== メリク王家 ===
[[ファイル:Pavlodar-Fiume Irtysh.JPG|400px|thumb|メリク・ウルスの本拠地イルティシュ川一帯]]
*'''[[メリク (オゴデイ家)|メリク大王]]'''(Melik >滅里/mièlǐ,ملک/Melik)
**[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|陽翟王トゥマン]](Tuman >禿満/tūmǎn,تومان/Tūmān)
***[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|陽翟王クチュン]](Küčün >曲春/qūchūn)
****[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|陽翟王テムルチ]](Temürči >帖木児赤/tiēmùérchì)
*****'''[[アルグ・テムル|陽翟王アルグ・テムル]]'''({{lang|mn|Aruγ Temür}} >阿魯輝帖木児/ālŭhuītiēmùér)
*****[[アルグ・テムル#メリク王家|陽翟王クトゥク・テムル]](Qutuq Temür >忽都帖木児/hūdōutiēmùér)
**[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|トガン・ブカ]]({{lang|mn|Toγan Buqa}} >تگان بوقا/Togān Būqā)
***[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|オルクト]](Olqut >اولوکتو/Ūlūktū)
**[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|トガンチャル]]({{lang|mn|Toγančar}} >توغانچار/Tūghānchār)
**[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|トルチャン]](Torčan >تورجان/Tūrjān)
**[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|トク大王]](Toqu >脱忽/tuōhū,توقو/Tūqū)
**[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|アブドゥッラー大王]](Abdullah >俺都剌/ǎndōulà,عبدالله/Abdullah)
***[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|アヤチ大王]](Ayači >愛牙赤/àiyáchì)
****[[メリク (オゴデイ家)#メリク王家|陽翟王タイピン]](Taiping >太平/tàipíng)
<ref>松田1996,32-33/40-41頁</ref>
== 脚注 ==
{{reflist|2}}


== 参考文献 ==
=== チャガタイ・ハン国 ===
* 愛宕松男訳注『東方見聞録 1』平凡社、1970年
カイドゥの死から5年後の[[1306年]]、カイドゥに従っていたチャガタイ家の[[ドゥア]]はカイドゥの遺児を追ってオゴデイ家の支配を覆すことに成功した。こうしてチャガタイ家に乗っ取られた後の「カイドゥの国」を歴史家は[[チャガタイ・ハン国]]と呼んでいる。
* 愛宕松男訳注『東方見聞録 2』平凡社、1970年
* 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇 ―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』東京大学出版会、2013年
* 白石典之『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年
* 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年
* 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
* 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996A)
* 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996B)
* 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会, 1991年
* 松田孝一「カイシャンの西北モンゴリア出鎮」『東方学』、1982年
* 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
* 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
* 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
* 村岡倫「カイドゥと中央アジア:タラスのクリルタイをめぐって」『東洋史苑』第30/31合併号、1988年
* 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
* 村岡倫「トルイ=ウルスとモンゴリアの遊牧諸集団」『龍谷史壇』 第105号、1996年
* 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』(全6巻、佐口透ほか訳注, 平凡社東洋文庫)、1968-1979年


{{DEFAULTSORT:おこていはんこく}}
{{DEFAULTSORT:おこていうるす}}
[[Category:モンゴル帝国]]
[[Category:モンゴル帝国]]
[[Category:オゴデイ家|*うるす]]

2018年8月17日 (金) 08:36時点における版

オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達(『集史』「オゴデイ・カアン紀」パリ写本)

オゴデイ・ウルスÖgödei ulus)とはチンギス・カンの第3子で、モンゴル帝国第2代皇帝となったオゴデイを始祖とする王家によって支配されたウルス

かつては類似した概念として「オゴデイ・ハン国(Ögödei Khanate)」という呼称も用いられていたが、研究の進展により現在ではほとんど用いられることがない。「オゴデイ・ウルス」及び「オゴデイ・ハン国」という呼称はともに創始者オゴデイの名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。

概要

かつてのモンゴル史研究では中央アジアエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に、13世紀前半から1306年まで「オゴデイ・ハン国」という政権が一貫して存続していたと想定されていた。この「オゴデイ・ハン国」という概念は当時の史料に見える「オゴデイのウルス」という用語を念頭に置いたものであるが、そもそもウルスと近現代的な「国家」では異なる点が多く、単純にウルス=ハン国とすべきではないという批判が近年のモンゴル史研究者から唱えられている[1]

また、特にオゴデイ家のカイドゥが治めた政権を指して「オゴデイ・ハン国」と呼称することもあるが、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたものであることが近年の研究によって明らかにされている。また、フレグ・ウルスで編纂された『集史』でカイドゥの治める領域がペルシア語で「カイドゥの国(mamlakat-i qāīdū'ī)」と呼称されていることや、カイドゥの君主としての称号もハンではなく「兄」を意味する「アカ(aqa)」と呼ばれていたことなどを踏まえ、近年の研究ではカイドゥの治める政権を「オゴデイ・ハン国」ではなく「カイドゥの国」あるいは「カイドゥ・ウルス」と呼称するのが一般的である[2]

歴史

オゴデイ・ウルスの成立

チンギス・カンの征服活動

オゴデイ・ウルスが成立したのは1207年から1211年にかけてのことで、モンゴル帝国が成立してから間もなくのことであった[3]。チンギス・カンは自らの諸子(ジョチチャガタイ・オゴデイ)に1万2千の兵とモンゴリア西方の領地を、諸弟(カサルカチウンオッチギン)に同じく1万2千の兵とモンゴリア東方の領地を与え、それぞれ帝国の右翼・左翼と位置づけた[4]

オゴデイにはイルゲイ・ノヤンジャライル千人隊デゲイ・ノヤンベスト千人隊イレク・トエスルドス千人隊ダイルコンゴタン千人隊からなる4つの千人隊が分封され、これがオゴデイ・ウルスの原型となった。オゴデイ・ウルスの最初の封土は北方をジョチ・ウルス、南方をチャガタイ・ウルスに囲まれたアルタイ山脈中部からウルングゥ川一帯にあった[5]

長春真人西遊記』には「[長春真人一行は]中秋の日にアルタイ(金山)東北に至り、しばらく駐留した後再び南行した。その山は高大・深谷で長い坂道があり、かつては車で行くことが出来なかった。三太子(オゴデイ)が軍を出し、始めてこの道を開拓したのである(中秋日、抵金山東北、少駐復南行。其山高大、深谷長阪、車不可行。三太子出軍、始闢其路)」との記述があり、チンギス・カンはアルタイ山を越え西方につながる交易路の開拓・管理を任せる意図の下オゴデイにこの領地が与えたと考えられている[6]

1219年、中央アジア遠征が始まるとチンギス・カン率いる本隊はオゴデイが開拓したルートを辿って西方に進軍し、オゴデイもこの遠征でアルタイ山脈の西麓、イルティシュ川の上流を得た長兄ジョチと、天山山脈イリ川渓谷を得た次兄チャガタイの両ウルスの中間、エミル川流域のジュンガリア盆地一帯を新たに領土に加えた。これ以後、『世界征服者史』が「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であった…」と述べるように、オゴデイ・ウルスの本拠地は夏営地をエミル、冬営地をコボクとする一帯に置かれるようになる[7]

また、エミル・コボク地方の他にもオゴデイは金朝遠征の戦功として山西の大同(当時は西京路と呼称)一帯を、西夏遠征の戦功として西涼一帯を新たに領土として与えられている[8]。これらの領土は14世紀末に至る迄クチュ家やコデン家などオゴデイ・ウルスの遊牧地として存続することとなる。

オゴデイ・カーンの治世におけるオゴデイ・ウルス

ファイル:Ogadai Khan.jpg
オゴデイ・カーン

チンギス・カンの死後、遺言によってオゴデイがカーンに即位すると、問題になったのが末弟トゥルイの存在であった。オゴデイが僅かに4千人隊しか継承していなかったのに対しトゥルイは父直属の101の千人隊を継承しており、有する領地・兵数はオゴデイよりはるかに上であった[9]

そこでオゴデイはオゴデイ・ウルス及びトゥルイ・ウルスに多数の変更を加え、自らの立場を強化した。まず、オゴデイは自らの直轄する4千人隊を庶長子グユクに委ね(グユク・ウルスの成立)[10]、トゥルイ・ウルスの中から自らに直属する1万のケシク(親衛隊)を組織した。もともとチンギス・カンが率いていた1万のケシクはそのままトゥルイと縁の深い者ばかりであったので、新編成されたケシクの隊長は全て新しく選抜された者ばかりであった[11]

次に、オゴデイはトゥルイ・ウルスから4千人隊を引き抜いて自らの息子コデンに与え、かつて西夏遠征時に自らの領地としていた涼州一帯にコデン・ウルスを成立させた[12]。事実上トゥルイ家から牧民を奪うというこの措置にはチンギス・カンの定めた国体を覆すものだ、という批判がノヤンたちの中から起こったが、トゥルイの寡婦ソルカクタニ・ベキノヤンたちを説得し納得させたという逸話が残っている[13]

また、自らの後継者と位置づけていたクチュ南宋攻略の司令官に任じると同時に、かつて金朝遠征時に自らの領地としていた山西南部にクチュ・ウルスを成立させた。クチュのウルスはかつてオゴデイ・ウルスが中央アジア遠征補助のため進軍ルート上に設置されたのと同様、南宋遠征の進軍ルート上にある一帯に設置されていた[14]。更に、これと並行して「左手の五投下」に代表される独立性の高いノヤンたちをトゥルイ・ウルスから切り離して独立したウルスと認める、といった施策も行った[15]

以上の措置により、オゴデイ・ウルスはグユク・ウルス、コデン・ウルス、クチュ・ウルスという3つの下位ウルスを有するモンゴル帝国内における最大勢力に成長した。一方、トゥルイ・ウルスに犠牲を強いる形で自身の勢力を強化したことはオゴデイ家とトゥルイ家の遺恨を生み、オゴデイ死後の帝位を巡る内紛を誘発することとなった[16]

オゴデイ家とトゥルイ家の内紛

グユク(『世界征服者の歴史』)

オゴデイ・カーンの死後、モンゴル帝国では後継者を巡って激しい政争が繰り広げられた。オゴデイの治世に不満を募らせていたトゥルイ家ではトゥルイの長子モンケを後継者候補に擁立し、モンケと仲の良いバトゥ率いるジョチ家もこれを支持した。一方、オゴデイ家では後継者と目されていたクチュが早世していたため、オゴデイの庶長子グユクを後継者候補に立て、チャガタイ家もこれに協力した。

全体としてみると、オゴデイ次代の繁栄を維持しようとするオゴデイ家・チャガタイ家連合と、これに反発するジョチ家・トゥルイ家連合によってモンゴル帝国の派閥は2分されることとなった。

1246年クリルタイではオゴデイの寡婦ドレゲネの強い後押しによって一旦はグユクがカーン位に即いた。しかし帝国の重鎮たるバトゥはグユクの即位を認めておらず、帝国全体の総意として即位したオゴデイに比べグユクの立場は甚だ不安定なものであった[17]。そのため、グユクはオゴデイのように新たにウルスを創設することもなく、オゴデイ・ウルスはオゴデイ次代とさして変わらないままに留め置かれた。

2年後の1248年にグユクはエミルの自分の所領に巡幸中に急死したが、折しもジョチ・ウルスのバトゥも東方へと移動していおり、この時オゴデイ・ウルスとジョチ・ウルスの間で軍事衝突が起きる寸前であったのではないか、とする説も存在する[18]

グユクの死後、1251年のクリルタイでバトゥとソルカクタニの後押しの下、今度こそモンケがカーン位に即いた。モンケの即位直後、オゴデイ・ウルスの有力者たちの間でクチュの息子シレムンをカーン位に就けんとするクーデター計画が進められたが、露見して多くの者が捕縛・処刑された[19]

この一連の政変によって失脚した有力者は多く、イルゲイやジェルメといったチンギス・カン時代からの著名な将軍でありながらその子孫が残っていない人物は、この時オゴデイ家側について没落してしまったものと考えられている[20]

モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割

モンケサル・ノヤンによるオゴデイ諸子の審問・処刑(『集史』「モンケ・カアン紀」パリ写本)

シレムンのクーデター計画鎮圧を切っ掛けとしてモンケはかつての政敵たるオゴデイ家・チャガタイ家の大弾圧を行い、オゴデイ・ウルスはオゴデイ〜グユク時代に比べ大幅に弱体化した。ただし、モンゴル帝国の伝統としてチンギス・カンの定めたウルスは時のカーンであってもなくしてはならないという不文律があり、オゴデイ・ウルスそのものが消滅することはなかった。『元史』の記述によると、モンケ・カーンの命によってオゴデイ諸王家の領土は以下のように定められていたという。

二年壬子……夏、駐蹕和林。分遷諸王於各所、各丹于別石八里地、蔑里于葉児的石河、海都於海押立地、別児哥于曲児只地、脱脱于葉密立地、蒙哥都及太宗皇后乞里吉忽帖尼於拡端所居地之西。 1252年……夏、[モンケ・カーンは]カラコルムに留まった。諸王を各所に分け移し、カダアン(各丹)ビシュバリク(別石八里)の地に、メリク(蔑里)イルティシュ河(葉児的石河)に、カイドゥ(海都)カヤリク(海押立)の地に、ベルケ(別児哥)グルジャ(曲児只)の地に[21]トタク(脱脱)エミル(葉密立)の地に[22]モンゲトゥ(蒙哥都)及び太宗皇后乞里吉忽帖尼をコデン(拡端)の居住地の西に[定めた][23] — 『元史』巻3憲宗本紀

この措置に対して、従来は「オゴデイ王族の辺境への幽囚である」、「モンケ即位に協力したオゴデイ王族への論功行賞である」という全く異なる2つの評価が為されてきた。しかしモンケ・カーンによる施策で最も注目すべきはオゴデイ・ウルスを統轄する存在が認定されず、オゴデイ諸子のウルスがそれぞれ個別に独立したウルスとして認定されたことであった。そもそもウルスは代替わりのたびに分割継承されていくものであり、ウルスの分割相続自体は自然なことである。問題なのはオゴデイ・ウルスの分割相続がモンケの名の下に行われたことで、これはオゴデイ・ウルス全体を統轄する者の喪失、事実上のオゴデイ・ウルス分割を意味した[24]

なお、上記のオゴデイ諸子の中でカダアン家とコデン家のみは他の王家と異なりモンケ即位に協力しており、結果としてモンケの報復人事を免れていた[25]。カダアン家とコデン家の領地はオゴデイ・ウルスの中でも東方に位置しており、そのためこの時点でオゴデイ・ウルスは東方に位置する親トゥルイ家派と西方に位置する反トゥルイ家派に分裂していたと言える。この親トゥルイ家派と反トゥルイ家派の分裂は大元ウルスとカイドゥ・ウルスの対立にまで継承されることとなる[26]

以上のようなモンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割は当然ながらオゴデイ諸王家の不満と反発を呼び起こし、14世紀初頭にまで続く「カイドゥの乱」「カイドゥ・ウルス」成立の遠因となった。

カイドゥ・ウルスの成立

モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割に不満を抱いていたオゴデイ諸王家にとって、転機となったのがモンケの死に伴う帝位継承戦争の勃発であった。帝位継承戦争に直接巻き込まれたのは東方の親トゥルイ家派たるカダアン家とコデン家のみであったが、中央政府の手の届かない中で反トゥルイ家派の諸オゴデイ王家は独自に勢力を拡大していった。その中で最も実力があり、野心も大きかったのがカシ家のカイドゥであった。

カイドゥは「家畜が痩せている」ことを理由に帝位継承戦争後3年にわたってクビライの下を訪れることを拒み[27]、更にオルダ・ウルス当主コニチの協力を得て勢力を拡大していた[28]。帝位継承戦争後、中央アジアではクビライ派に立ったチャガタイ家のアルグが最も有力であったが、そのアルグが1266年に急死するとこれを好機と見たカイドゥはコニチの協力を得てアルタイ山脈を越えてモンケ家のウルン・タシュのウルスを攻撃し、これが長く続く「カイドゥの乱」の幕開けとなった。

カイドゥはオゴデイ家の中でも非主流の出自であった[29]が、クビライへの宣戦布告後多くのオゴデイ系諸王がカイドゥの下に集結した。その中にはかつて帝位継承戦争でクビライに味方したグユク家のホクやカダアン家のキプチャクらの姿もあり、カイドゥはグユク・ウルス、カシ・ウルス、メリク・ウルスといった「西方オゴデイ・ウルス」の大部分を傘下に収めることとなった。

一方、クチュ・ウルスやコデン・ウルスといった「東方オゴデイ・ウルス」は大元ウルスの統治下に収まり続けたが、クチュ家のトゥクルクがシリギの乱に乗じて六盤山で挙兵するなど、クビライ政権に逆らいカイドゥに味方する者も存在した。

「西方オゴデイ・ウルス」を率いるカイドゥにとって転機となったのがチャガタイ・ウルス当主バラクの死と、モンケ家/アリク・ブケ家諸王によって引き起こされた「シリギの乱」であった。バラクが亡くなるとカイドゥは傀儡君主を立ててチャガタイ・ウルスを事実上乗っ取り、チュベイら反カイドゥ派の諸王は大元ウルスに亡命することになった。ここにおいてチャガタイ・ウルスもオゴデイ・ウルスと同様にカイドゥに従う「西方チャガタイ・ウルス」とクビライに従う「東方チャガタイ・ウルス」に東西分裂することになった[30]

また、「シリギの乱」では叛乱そのものは失敗に終わったが叛乱に参加したモンケ家/アリク・ブケ家の諸王が自らのウルスとともにカイドゥの勢力圏に参入し、これによってカイドゥの支配権はアルタイ山脈を越えてモンゴル高原のハンガイ山一帯にまで広がることとなった。そのため、これ以後カイドゥ・ウルスと大元ウルスの戦争の主戦場は中央アジア方面からモンゴル高原西方に移ることとなる[31]

ここに至り、カイドゥの支配する勢力は西方オゴデイ・ウルス、西方チャガタイ・ウルス、アリク・ブケ・ウルスという3つの大きなウルスからなる独立した政権へと成長した。この政権を指してマルコ・ポーロは「大トゥルキー国」[32]、『集史』は「カイドゥの国」と呼称しており、現代のモンゴル史研究者は既存のオゴデイ・ウルスの枠に収まらない国家であるという点を踏まえこれを「カイドゥの国」「カイドゥ・ウルス」と呼称する。

カイドゥ・ウルスの解体

カイドゥ・ウルスと大元ウルス間の戦争の主戦場となったアルタイ山脈

クビライの存命中は大元ウルスとカイドゥ・ウルスとの間の戦線は膠着状態にあったが、1294年のクビライの死を切っ掛けに事態は急変する。1296年にアリク・ブケ家のヨブクル、モンケ家のウルス・ブカらがカイドゥ・ウルスを見限って大元ウルスに投降するという事件が起こり、大元ウルスは政治的効果を狙って両者を厚遇するとともに、帝国各地にこの一件を大々的に宣伝した[33]

このような情勢に危機感を抱いたカイドゥは大元ウルスに対して大攻勢に出、1298年には寧王ココチュらが率いる大元ウルスのモンゴリア駐屯軍がドゥア軍に大敗を喫し、大元ウルスの対カイドゥ戦線は危機的状況に陥った[34]

しかしココチュに代わってカイシャン(後の武宗クルク・カーン)が対カイドゥ・ウルスの司令官に抜擢されると[35]、カイシャンはモンゴリアの諸将の人心をよく掴み、カイドゥとの戦闘で次第に優位に立つようになる。大元ウルス軍の圧倒的な物量とカイシャンの奮戦によってカイドゥ軍は劣勢に陥り、遂に1301年の戦いでカイドゥは矢傷を負って退却し、間もなく亡くなってしまった[36]

カイドゥの死後、西方チャガタイ・ウルス当主ドゥアの後ろ盾の下カイドゥの息子チャパルがカイドゥの後を継ぎ、両者は大元ウルスに対して融和策に出た。ところがドゥアは独自に大元ウルスと講和を結び、中央アジアからオゴデイ・ウルスを駆逐しようと画策した。こうして1306年、東方からカイシャン率いる大元ウルス軍が、南方からドゥア率いるチャガタイ・ウルス軍が「西方オゴデイ・ウルス」に攻め込み、チャパルらオゴデイ系諸王は両勢力に挟撃されることになった。この時の戦況を『元史』は以下のように記述する。

[大徳]十年七月、自脱忽思圈之地逾按台山、追叛王斡羅思、獲其妻孥輜重、執叛王也孫禿阿等及駙馬伯顔。八月、至也里的失之地、受諸降王禿満・明里鉄木児・阿魯灰等降。海都之子察八児逃於都瓦部、尽俘獲其家属営帳。駐冬按台山、降王禿曲滅復叛、与戦敗之、北辺悉平。 1306年7月、[カイシャンは]脱忽思圈の地よりアルタイ(按台)山を越え、叛王オロス(斡羅思)を追い、その妻孥・輜重を獲得し、叛王イェスン・トゥア(也孫禿阿)ら及び駙馬バヤン(伯顔)を捕らえた。8月、イルティシュ(也里的失)の地に至り、諸降王トゥマン(禿満)メリク・テムル(明里鉄木児)アルグイ(阿魯灰)らの降伏を受けた。カイドゥ(海都)の子チャパル(察八児)はトゥヴァ(都瓦)部に逃れ、チャパルの家属・営帳は全て捕らえられた。冬はアルタイ(按台)山に駐留したが、降王トゥクメ(禿曲滅)が再び叛乱を起こしたので、戦ってこれを破り、北辺は全て平定された。 — 『元史』巻22武宗本紀1

この記述に見られるようにグユク・ウルス(トゥクメ)、クチュ・ウルス(アルグイ)、カダアン・ウルス(イェスン・トゥア)、メリク・ウルス(トゥマン)ら「カイドゥの国」に属していたオゴデイ系諸ウルスはカイシャンの遠征によって残らず大元ウルスに降伏することになり、『元史』の記述によると、大元ウルスに降伏してモンゴル高原に移住してきた牧民の数は100万を越えたという[37]

唯一カシ家のチャパルのみはドゥアに投降して中央アジアに残っていたが、1307年のドゥアの死を切っ掛けに再び蜂起するも敗れ、遂に大元ウルスに投降した。こうしてオゴデイ・ウルスは中央アジアから一掃されることとなり、かつてオゴデイ・ウルスの遊牧地であったジュンガル盆地一帯の大部分はチャガタイ・ウルスに征服されるに至った。この「西方オゴデイ・ウルス」征服を経てチャガタイ・ウルスは中央アジアに独立した政権を立てることになり、これを後世「チャガタイ・ハン国」と呼称する。しかし、近年の研究では「チャガタイ・ハン国」は単純にかつてのチャガタイ・ウルスを復興させたものではなく、カイドゥが建設した「カイドゥの国」をそのまま受け継いだものであることが明らかにされている[38]

なお、この1306年の戦争によって「オゴデイ・ハン国は滅亡した」とされることもあるが、後述するように投降後のオゴデイ系諸王は大元ウルスの統治下で自らのウルスを率いて生活しており、この時「オゴデイ・ウルス」が滅亡したわけではない[39]

14世紀以後のオゴデイ・ウルス

ファイル:オルク・テムル・ハーン.jpg
オルク・テムル・カーン

大元ウルスに降伏したオゴデイ家の諸ウルスは小規模ながら存続を認められ、大元ウルス領内の各地で遊牧生活を送った。大元ウルスの統治下でオゴデイ家の諸王は王号を与えられたが、王号はオゴデイの6子の系統ごとに全く異なる名称が与えられていた[40]。これはモンケ時代の方針を受け継いで、オゴデイ・ウルスを6子の系統ごとに存続させようとしたためであると考えられている。

ただし、各オゴデイ系ウルスの規模は以前に比べて遙かに小規模であった。例えば、グユク家のオルジェイ・エブゲンの「モンゴル(蒙古)民」は280戸余りであったという[41]。また、大元ウルスに移住したオゴデイ系諸王の多くは山西〜河西一帯に居住しており、山西のクチュ・ウルスや河西のコデン・ウルスといった大元ウルスに留まり続けた「東方オゴデイ・ウルス」の遊牧地に収容されていたものと見られる[42]

ただし、オゴデイの末子メリクのウルスのみは別格で、『元史』によるとイルティシュ河流域に数十万の大軍勢を擁していたという[43]。これはイルティシュ河流域がエミル・コボク地方などと違ってドゥアに併合されなかったこと、イルティシュ河流域がチンギス・カンによって分封されたオゴデイ・ウルスの「初封地」であったことなどが理由と見られる[44]1361年にはメリク家のアルグ・テムルがこの地で叛乱を起こしており、14世紀後半に至ってもオゴデイ・ウルスはイルティシュ河流域で少なからぬ勢力を残していたと見られる。

大元ウルスの北遷後(北元)、1402年に即位したオルク・テムル・カーンはオゴデイ家出身の人物であった[45]。オルク・テムルの本拠地はかつてオゴデイ・ウルスの一部であった河西方面にあったとみられ[46]、15世紀初頭まで河西ではオゴデイ・ウルスの一部が残存していたことが確認される。オルク・テムルの息子アダイもカーンに即位したが、トゴン太師率いるドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)に敗れ、本領の河西地方もオイラトに占領されてしまった[47]。これ以後、オゴデイ家の人物が史料上に現れることは少なくなり、オゴデイ・ウルスがどのように変化していったかは不明となる[48]

オゴデイ・ウルスの構成

初期の4千人隊

千人隊長 ペルシア語表記(『集史』) 漢字表記(『秘史』) 功臣順位 部族 備考
イルゲイ(Ilügei) یلوکای نویان(īlūkāī nūyān) 亦魯該(yìlǔgāi) 5 ジャライル オゴデイの王傅(アタベク)を務めるが、息子はモンケ即位後に失脚する
デゲイ(Degei) دوکا(Dūkā) 迭該(diégāi) 11 ベスト 息子はコデン家のジビク・テムルに仕え、オゴデイ死後の政変を生き残る
ダイル(Dayir) دایر(Dāīr) 荅亦児(tàyìér) 36 コンゴタン インド方面のタンマチ初代司令官となり、遠征先で亡くなった
イレク・トエ(Ilek töe) ایلک توا(Yīlk tūā) スルドス スルドス部の枝族タムガリク部の出身で、『集史』にのみ登場する

モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割時(1252年)のオゴデイ系7王家

王家 当主 遊牧地 投下領(戸数) 出自 備考
グユク王家 ホク大王(Hoqu) エミル・コバク 大名路(68593戸) グユクの末子 兄2名が処刑されたため、当主に就任
コデン王家 モンゲトゥ(Möngetü) 西涼府 東昌路(47741戸) コデンの第2子 クビライとパスパの面会に尽力した
クチュ王家 ソセ(Söse) 潞州 汴梁路在城戸→睢州(5214戸) シレムンの末子 シレムンが処刑されたため、当主に就任
カラチャル王家 トタク(Totaq) エミル方面 未設定 カラチャルの息子 オゴデイ7子の中で唯一早い段階で断絶する
カシ王家 カイドゥ(Qaidu) カヤリク 汴梁路在城戸→蔡州(3816戸) カシの息子 後に独立し、「カイドゥ・ウルス」を建設する
カダアン王家 カダアン(Qada'an) ビシュバリク 汴梁路在城戸→鄭州(戸数不明) オゴデイの第6子 モンケ時代に始めてウルスを形成する
メリク王家 メリク(Melik) イルティシュ河流域 汴梁路在城戸→鈞州(1584戸) オゴデイの末子 モンケ時代に始めてウルスを形成する

[49]

「カイドゥの乱」終結後、14世紀における大元ウルス統治下のオゴデイ系6王家

王家 代表的当主 推定遊牧地 1319年時点の実有戸数 王号 備考
グユク王家 オルジェイ・エブゲン王(Ölǰei Ebügen) 山西方面 大名路(12835戸) 無国邑 1331年には飢饉に陥ったとの記録あり
コデン王家 荊王トク・テムル(Toq temür) 河西永昌府 東昌路(17825戸) 汾陽王/荊王 1343年のトク・テムルの死で断絶した
クチュ王家 襄寧王アルグイ(Aluγui) 山西平陽路 睢州(1937戸) 襄寧王 オゴデイ時代のクチュ・ウルス領を継承
カシ王家 汝寧王クラタイ(Qulatai) 山西方面 蔡州(388戸) 汝寧王 クラタイは天暦の内乱で上都派につき、敗れて殺された
カダアン王家 隴王コランサ(Qorangsa) 河西方面 鄭州(2356戸) 隴王 山丹を拠点とするアジキと行動を共にする
メリク王家 陽翟王アルグ・テムル(Aruγ Temür) イルティシュ河流域 鈞州(2496戸) 陽翟王 10万の大軍を擁し、1360年に叛乱を起こす

[50]

各王家

グユク王家

グユク・ウルスの位置したジュンガル盆地

[51]

コデン王家

コデン・ウルスの中心地の1つ涼州(現在の甘粛省武威市

[52][53]

クチュ王家

クチュ・ウルスの中心地潞州(現在の長治市)一帯

[54]

カラチャル王家

[55]

カシ王家

[56]

カダアン王家

カダアン・ウルスの中心地ビシュバリク(現在の昌吉回族自治州)一帯

[57]

メリク王家

メリク・ウルスの本拠地イルティシュ川一帯

[58]

脚注

  1. ^ 村岡1992,20-21頁
  2. ^ 杉山1996,66-67頁
  3. ^ オゴデイ・ウルスを含むチンギス・カンの諸子弟への分封がいつ行われたか、正確な時期は分かっていない。しかし、『モンゴル秘史』で分封が卯年(1207年)以降のこととされていること、1211年の金朝遠征の際には「諸子の率いる右翼軍」と「諸弟の率いる左翼軍」という図式が完成していることなどから、分封が行われたのは1207年〜1211年頃のことと想定されている(杉山2004,33-34頁)
  4. ^ 杉山1996A,42-45頁
  5. ^ 最初期のオゴデイ・ウルスの遊牧地を明記した史料は存在しないが、ジョチ・ウルス及びチャガタイ・ウルスとの比較や後述する『長春真人西遊記』の記述などからこの辺りと推測されている(杉山2004،51-53頁)
  6. ^ 『元史』などの史料ではジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家の諸王を指して「西道諸王」、カサル家、カチウン家、オッチギン家の諸王を指して「東道諸王」と呼称することもあるが、これは「西道/東道を管理する諸王」というニュアンスも含めた呼称であると考えられている(白石2015,63-65頁)
  7. ^ 杉山2004،51頁
  8. ^ なお、金朝遠征や西夏遠征によって新たに得られた領土は「帝国の分有支配の原理」によってチンギス・カンの子供の中ではジョチ、チャガタイ、オゴデイの3名の間でほぼ均等に分割されていた。例えば、華北で与えられた領土はジョチ家の平陽路が41302戸、チャガタイ家の太原路が47330戸、オゴデイ家の西京路が45945戸でほぼ同規模であった(村岡2002,153頁)
  9. ^ 旧来の研究では『モンゴル秘史』に「[チャガタイとトゥルイ]は内地の国民をも同じようにして[オゴデイに]お手渡し申し上げた次第であった…」とあるのに従い、トゥルイは自らの千人隊を全てオゴデイに献上し、それ故にトゥルイ家は金朝征服などで新たに征服地を得なければならなかった、と説明されることもあった。しかし、現在では『集史』の記述などからトゥルイが自らの有する千人隊をオゴデイに献上したという説は誤りであると明らかにされている(松田1980,36-40頁)
  10. ^ 『世界征服者史』は「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であったが、彼は玉座に即くと、ヒタイとウイグル地方との間にある根幹の地に移した。そしてその居所を息子グユクに与えた」と述べる(杉山2004,51頁)
  11. ^ 元来チンギス・カンの1万のケシクの隊長であった者の内、オゲレ・チェルビドゴルク・チェルビトルン・チェルビスイケトゥ・チェルビらはオゴデイのケシクから除かれ、トゥルイ家の千人隊長となっている。一方、テムデル・ノヤン、カダアン・ケプテウル、イェスン・テエらが新たにオゴデイのケシクの隊長として採用されている(村岡1996,76-77頁)
  12. ^ なお、オゴデイ在世の頃のコデン・ウルスは河西地方のみならず陝西方面にも影響力を持っていたようで、コデンが京兆府のタンマチ長官に命令を下した記録が残っている(松田1996,42-43頁)
  13. ^ ただし、後述するようにオゴデイがトゥルイ・ウルスから一部のノヤンを独立させ独自のウルスを形成させるという施策をとった際には反対が生じていないため、ノヤンたちは単純にチンギス・カンの定めた国体を破ることに怒ったというよりは、自身に益のない施策に怒ったのではないかとも考えられている(村岡1996,79/81頁)
  14. ^ クチュ・ウルスの位置については、潞州にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと考えられている(松田1996,44-46頁)
  15. ^ 丙申年(1236年)に旧金朝領の分割が行われた(丙申年分撥)が、この分撥は「ウルス」を単位として行われており、この時分撥対象となっているノヤンはトゥルイ・ウルスから独立して独自のウルスを形成していたとみられる(村岡1996,70-71頁)
  16. ^ 他にチンギス・カン死後にウルスの新設を許された皇族はベルグテイコルゲントゥルイらがいるが、トゥルイはチンギス・カンの本領を受け継いだのみで、ベルグテイ、コルゲンらは皇族とはいえ庶出で勢力は小さく、やはりオゴデイ・ウルスの拡大が最も影響力が大きかった(村岡1992,22-23頁)
  17. ^ 杉山1996A,90-95頁
  18. ^ 杉山1996A,95-98頁
  19. ^ 杉山1996A,98-100頁
  20. ^ 村上1972,356頁
  21. ^ ここでジョチ家のベルケがオゴデイ系諸王とともに中央アジアで領地を与えられているのは、中央アジアのオゴデイ家・チャガタイ家に対する牽制のためであったと考えられている(村岡1992,27頁)
  22. ^ ここではトタクにエミル一帯が遊牧地として与えられたかのように記されているが、エミルは元来グユク・ウルスの遊牧地であることやトタクもシレムンやホージャ・オグルらと同様にクーデター計画に参画していたことを踏まえるとこの措置は不自然である。そこで村岡倫はこの『元史』の記述はクーデター計画に参画したトタクがグユク・ウルス領のエミルに「身柄預かり」になったことを述べているのではないか、と推測している(村岡2002,156頁)。
  23. ^ なお、『集史』「モンケ・カアン紀」には「[モンケは]コデンの諸子、カダアン・オグル、メリク・オグルの各人に、[オゴデイ・]カアンの諸オルド居住地から、オルドを1つずつ、彼の夫人とともに恩師した」とあり、カイドゥとトタクの名は挙がらないものの『元史』憲宗本紀と同じ事実を伝える記事であると考えられている(村岡1992,25頁)
  24. ^ 村岡1992,24-27頁
  25. ^ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」はコデン家の條において「オゴデイ・カアンとグユク・カンの子供達がモンケ・カアンに謀叛を企んだ時にこれらのコデンの子供達は彼に最上の好意と厚誼を持った故に、その全てを罪に問い、彼等の軍隊を召し上げ、分解した時、彼等には圧迫を加えず、彼等が保持していた軍隊を彼等に定め、タングート地方に彼等の遊牧地があったので、クビライ・カアンと彼の息子テムル・カアンはしっかりとコデンの子孫をそこに置いた。……」と記す(松田1996,25頁)
  26. ^ 杉山2004,311-312頁
  27. ^ なお、マルコ・ポーロの『東方見聞録』も暗殺されることを恐れたカイドゥがクビライの招集を拒み続けたことが両者の不和の原因になったと伝えている(愛宕1971,263-265頁)
  28. ^ 従来、このカイドゥに協力した「コニチ」は単なる将軍と考えられていたが、村田倫の研究によりオルダ・ウルス当主にコニチであると明らかになっている(村岡1999,6-9頁)
  29. ^ カイドゥの父カシは一時「皇太子」にされたこともありその意味では悪い出自ではなかったが、カイドゥの母は天山山脈東端に住まうメクリン部の出身で地位が低く、生母の血統の点で不利であった(杉山1996B,51頁)
  30. ^ 杉山2004,311-312頁/杉山1996B,66-67頁
  31. ^ 村岡1985,329頁
  32. ^ 『東方見聞録』は「大トゥルキー国の王はカイドゥといって、カーンの甥(実際には従兄弟の子)に当たる人物である……」という書き出しからカイドゥと大トゥルキー国について書き起こしている(愛宕1971,263頁)
  33. ^ ユブクル、ウルス・ブカらの降伏を受けて、大元ウルス朝廷は「大徳改元詔書」を発布し、元号を1297年2月に元貞から大徳に改元した(松田1983,48-50頁)。その年の内の改元は中国史上非常に珍しいものであり、この降伏を大元ウルス朝廷がいかに重要視していたかが窺える(杉山1996B,162 頁)
  34. ^ この戦いについては『集史』「テムル・カアン紀」に詳細な記述があり、ココチュ軍は宴会で酩酊しきっているところに奇襲を受け、コルクズ駙馬のみが奮戦したもののその他の兵士はなすすべもなく敗れてしまったという(松田1982,2-3頁)
  35. ^ ココチュらの敗戦が1298年の冬、カイシャンがモンゴリアに派遣されたのは翌1299年のことであった(松田1982,1-3頁)
  36. ^ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」は「[ヒジュラ暦]701年(西暦1301-1302年)にカイドゥはバラクの息子のドゥアと一緒に、テムル・カアンの軍隊と戦って撃ち破られた。その戦いで2人とも傷つき、カイドゥはその傷で死んだ。ドゥアはなおその傷で苦しみ、その治癒ができないでいる」と記す(松田1996,28頁)。
  37. ^ 『元史』巻136列伝23哈剌哈孫伝には「詔曰『和林為北辺重鎮、今諸部降者又百餘万……』」とある。
  38. ^ 村岡1988,194-196頁
  39. ^ (村岡1992,42-44頁)
  40. ^ グユク家は「無国邑(王位は与えられているが王号は存在しない)」、コデン家は「荊王」、クチュ家は「靖遠王/襄寧王」、カシ家は「汝寧王」、カダアン家は「隴王」、メリク家は「陽翟王」という王号がそれぞれ与えられていた(村岡1992,35-36頁)
  41. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年夏四月]癸亥、諸王完者也不干所部蒙古民二百八十餘戸告饑、命河東宣慰司発官粟賑之」(村岡1992,38-39頁)
  42. ^ (村岡1992,40-42頁)
  43. ^ 『元史』巻45順帝本紀8,「是歳、陽翟王阿魯輝帖木児擁兵数十万、屯於木児古徹兀之地、将犯京畿」
  44. ^ (村岡1992,40-41頁)
  45. ^ ティムール朝で編纂された諸史料によると、北元時代にオゴデイ家の「オルク・テムルUruk Tīmūr」が即位したという。オルク・テムルは「オゴデイの息子カラク・オグルの息子ヌビヤの息子」とされているが、これでは13世紀初頭に活躍したオゴデイの曾孫になってしまい、到底年代があわないためこの系譜自体は疑問視されている。しかし、明朝の漢文史料に「非元裔也(元朝帝室の嫡孫ではない)」とあることなどから、オルク・テムルがオゴデイ家の者であるという説が受入れられている(岡田2010,p368)
  46. ^ 明朝の下を訪れたオルク・テムルの使者は寧夏を通って帰還していること、コムル(哈密)に積極的に干渉していることなどから、オルク・テムルの根拠地は河西方面にあったと考えられている(和田1959,207-208頁)
  47. ^ アダイの居住地を明朝は「涼州境外」と記しており、やはりオルク・テムルと同様に河西方面を根拠地にしていたと考えられている(和田1959,233-234頁)
  48. ^ 村岡1992,46頁
  49. ^ 松田1996,49-50頁
  50. ^ 村岡1992,35-41頁
  51. ^ 松田1996,24-25/34-35頁
  52. ^ 松田1996,25/35-36頁
  53. ^ 杉山2004,458-473頁
  54. ^ 松田1996,26/36-37頁
  55. ^ 松田1996,26/37頁
  56. ^ 松田1996,26-31/37-39頁
  57. ^ 松田1996,31-32/39-40頁
  58. ^ 松田1996,32-33/40-41頁

参考文献

  • 愛宕松男訳注『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 愛宕松男訳注『東方見聞録 2』平凡社、1970年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇 ―中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』東京大学出版会、2013年
  • 白石典之『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年
  • 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996A)
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996B)
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会, 1991年
  • 松田孝一「カイシャンの西北モンゴリア出鎮」『東方学』、1982年
  • 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
  • 村岡倫「カイドゥと中央アジア:タラスのクリルタイをめぐって」『東洋史苑』第30/31合併号、1988年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 村岡倫「トルイ=ウルスとモンゴリアの遊牧諸集団」『龍谷史壇』 第105号、1996年
  • 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』(全6巻、佐口透ほか訳注, 平凡社東洋文庫)、1968-1979年