「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の版間の差分
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'''初代[[モントローズ公爵|モントローズ侯爵]]ジェイムズ・グラハム'''({{lang|en|James Graham, 1st Marquess of Montrose}}, [[1612年]] - [[1650年]][[5月21日]])は、[[清教徒革命]]期の[[スコットランド貴族]]である |
'''初代[[モントローズ公爵|モントローズ侯爵]]ジェイムズ・グラハム'''({{lang|en|James Graham, 1st Marquess of Montrose}}, [[1612年]] - [[1650年]][[5月21日]])は、[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])期の[[スコットランド貴族]]である。父は第4代モントローズ伯[[ジョン・グラハム (第4代モントローズ伯爵)|ジョン・グラハム]]、母は初代ガウリ伯[[ウィリアム・リヴァン (初代ガウリ伯爵)|ウィリアム・リヴァン]]の娘マーガレットで、ダンディー子爵[[ジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)|ジョン・グラハム]]は同族に当たる。 |
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[[国民盟約]]の成立に主導的役割をはたし、始めは[[カヴェナンター|盟約派]]、後に[[騎士党|王党派]]として{{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}}の戦いを指揮した。一時はスコットランド平定に迫ったが、敵となった盟約派の反撃で敗北、再起を図るも失敗し最終的に処刑された。 |
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== 生涯 == |
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[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の[[イギリス国教会]]形式の[[祈祷書]]実施に強く反発し、有志を募り'''国民盟約'''を結成してスコットランドを平定した。その後盟約派は二派に分かれ、スコットランドの自治を主張する者(強硬派)と[[長老制]]教会制度さえ確保できれば国王のもとにあるべきとする者(穏健派)に分裂し、モントローズ侯は穏健派の代表格であった。 |
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=== 国王の宗教政策に反抗 === |
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[[イングランド王国|イングランド]]王兼[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の[[イングランド国教会]]形式の[[聖公会祈祷書|祈祷書]]実施と[[監督制]]強行に強く反発し、有志を募って[[1638年]]に[[アーガイル公爵|アーガイル伯爵]](後に侯爵)[[アーチボルド・キャンベル (初代アーガイル侯爵)|アーチボルド・キャンベル]]と[[アレクサンダー・レスリー (初代リーヴン伯)|アレクサンダー・レスリー]](後にリーヴン伯爵)らと共に国民盟約を結成して[[長老派教会]]([[長老制]])堅持と監督制阻止を掲げた。チャールズ1世は盟約派討伐のため軍をスコットランドに向かわせ翌[[1639年]]から2度に渡る[[主教戦争]]が勃発した<ref name="松村484">松村、P484。</ref><ref>トランター、P272 - P274、清水、P31 - P32。</ref>。 |
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盟約派内の対立は内戦になり、モントローズら盟約穏健派は国王側についた。[[インヴァロッヒーの戦い]]・[[キルシスの戦い]]などで連戦連勝を重ねたが、[[イングランド]]議会軍の後押しを受けたリーヴン伯[[アレクサンダー・レスリー (初代リーヴン伯)|アレクサンダー・レスリー]]の軍に[[フィリップホフの戦い]]で敗れ、大陸に亡命した。 |
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しかし第1次主教戦争でほとんど戦闘は行われず、戦況不利を見て取った王党派のスコットランド貴族[[ハミルトン公爵|ハミルトン侯爵]](後に公爵)[[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]の働きかけでベリックの和約が結ばれた。この間モントローズ伯は北へ向かい、同じく王党派の貴族で北東の都市[[アバディーン]]を乗っ取った[[ハントリー侯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (第2代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 2nd Marquess of Huntly}}をディー橋の戦いで捕らえ、アバディーンを奪還しハントリー侯を[[エディンバラ]]へ送っている<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P274 - P275、清水、P32。</ref>。 |
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チャールズ1世が処刑されると、[[1650年]]に[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ]]王太子のために[[オークニー諸島]]で挙兵した。しかし王太子の裏切りにあって孤立し、カービーズデールで盟約軍の奇襲を受けて捕えられ、[[エディンバラ]]でアーガイル侯[[アーチボルド・キャンベル (アーガイル侯)|アーチボルド・キャンベル]]によって処刑され、遺体は各地にばらばらに分散された。[[イングランド王政復古|王政復古]]の後アーガイルは処刑され、モントローズの遺体は集められて英雄とされた。 |
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[[1640年]]の第2次主教戦争はレスリーが国王軍を[[ニューバーンの戦い]]で撃破したことによりリポン条約が結ばれ、盟約派はチャールズ1世から領土割譲と賠償金、監督制撤回を勝ち取りスコットランドを平定した。だが戦後に盟約派は二派に分かれ、スコットランドの自治を主張する者(強硬派)と長老制さえ確保できれば国王のもとにあるべきとする者(穏健派)に分裂し、モントローズ伯は穏健派の代表格であったが強硬派のアーガイル伯と対立、逮捕・監禁されてしまった。[[1641年]]に盟約派との和睦を求めたチャールズ1世の介入で釈放、アーガイル伯は侯爵に昇叙、レスリーもリーヴン伯爵に叙せられスコットランドとイングランドは表面的に平和になったが、主教戦争の戦費を巡りチャールズ1世は[[イギリスの議会|イングランド議会]]([[短期議会]]・[[長期議会]])と対立、両者の対立はイングランド内戦へと繋がった<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P275 - P276、清水、P33 - P34。</ref>。 |
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=== 王党派へ転向 === |
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盟約派内の対立は内戦になったばかりか、[[1642年]]から始まった{{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}}の余波がスコットランドにもおよび、モントローズ伯ら穏健派は王党派についた。一方のアーガイル侯・リーヴン伯ら強硬派は[[円頂党|議会派]]と連携することを計画、[[1643年]][[9月25日]]にアーガイル侯の主導で盟約派と議会派が{{仮リンク|厳粛な同盟と契約|en|Solemn League and Covenant}}を締結、リーヴン伯率いる援軍がイングランドへ派遣された。対するモントローズ伯はスコットランドが盟約派の下で反王党派が優勢になる中、勢力が弱い王党派に属し孤立していたが、同盟締結前の2月にイングランドへ行き[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]にいた王妃[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]と接触しスコットランドでの蜂起を提案した<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P276、ウェッジウッド、P143 - P144、P174 - P175、P183 - P184。</ref>。 |
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だが他の王党派とそりが合わず、[[オックスフォード]]で滞在していたチャールズ1世の側近で因縁があるハミルトン公と対スコットランド戦略で対立、ヘンリエッタ・マリアとも不仲になりヨークを離れ、一旦スコットランドに帰国した。そこで聞いた盟約派と議会派の同盟と援軍の話を国王に伝えるため再びイングランドへ行き、オックスフォードでチャールズ1世の側近となり、ハミルトン公と弟のラナーク伯爵[[ウィリアム・ハミルトン (第2代ハミルトン公爵)|ウィリアム・ハミルトン]]を讒言で失脚させ、代わりに王党派に加わった[[アイルランド王国|アイルランド]]・[[マクドナルド氏族]]首長で[[アイルランド貴族]]のアントリム伯{{仮リンク|ランダル・マクドネル (初代アントリム侯爵 1645年創設)|en|Randal MacDonnell, 1st Marquess of Antrim (1645 creation)|label=ランダル・マクドネル}}と共にスコットランド挙兵計画を練り上げた<ref>トランター、P276、ウェッジウッド、P211 - P212、P239 - P240、P278、P284 - P285。</ref>。 |
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[[1644年]]、チャールズ1世から侯爵に昇叙されたモントローズ伯はスコットランド総督に任命され、1月から北イングランドで挙兵の準備を進めた(アントリム伯はアイルランドで徴兵)。3月に主教戦争で敵だったハントリー侯が再びアバディーンを占領すると呼応、徴集した兵を率いて国境を越えスコットランドへ侵入した。ところが盟約派が素早く軍を差し向けたためハントリー侯は逃亡、モントローズ侯もイングランド国境の[[カーライル (イングランド)|カーライル]]へ撤退した。王党派の蜂起は防がれアイルランドからの援軍も来ない中カーライルで待機、7月にアントリム伯が親戚の{{仮リンク|アラスデア・マッコーラ|en|Alasdair Mac Colla}}と共に1100人と少数ながら援軍を連れてスコットランドに上陸すると、僅か3人だけで変装して再び越境、北上した末にスコットランド中部で[[テイ川]]流域の町{{仮リンク|ブレア・アソル|en|Blair Atholl}}でアントリム伯らと合流、8月に国王の軍旗を掲げ改めて挙兵した<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P276 - P278、ウェッジウッド、P295、P320 - P324、P359 - P361、P374 - P376。</ref>。 |
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=== スコットランド平定に邁進 === |
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モントローズ侯の軍はアイルランド兵と[[ハイランド地方]]の兵([[ハイランダー]])からなる少数かつ寄せ集めの部隊で、指揮権はそれぞれ独立している、装備も貧弱という問題が多かったが、モントローズ侯は地形を利用した作戦とゲリラでカバーする方針に出た。緒戦の{{仮リンク|ティパミュアの戦い|en|Battle of Tippermuir}}は湿地帯に誘い込んで相手の騎兵隊の動きを止め勝利に繋げ、{{仮リンク|アバディーンの戦い (1644年)|en|Battle of Aberdeen (1644)|label=アバディーンの戦い}}でも盟約派を破り、スコットランド中を荒らし回りつつ山や沼などに潜伏して追跡をかわし、冬に入ると強行軍で山越えで西部へ進出、アーガイル侯の拠点[[アーガイル・アンド・ビュート]]でも略奪し盟約派を大いに動揺させた<ref name="松村484"></ref><ref name="清水94">清水、P94。</ref><ref>トランター、P278、ウェッジウッド、P376 - P378、P386 - P389、P405 - P408。</ref>。 |
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アーガイル侯が奪還に向かうと一旦[[ネス湖]]へ北上、そこから南下し[[1645年]][[2月2日]]の[[インヴァロッヒーの戦い (1645年)|インヴァロッヒーの戦い]]でアーガイル侯の軍を撃破した。それから{{仮リンク|ウィリアム・ベイリー|en|William Baillie (soldier)}}の追跡を振り切って北や東へ転戦した後に南下、[[8月15日]]の[[キルシスの戦い]]で大勝を飾り、アーガイル侯ら盟約派がイングランドへ逃亡した後はエディンバラへ入りチャールズ1世の名で議会召集を図るまでになり、連戦連勝を重ねたモントローズ侯の軍事的名声は絶頂に達した。しかしここに至るまで犠牲も大きく、モントローズ侯の息子の1人が行軍中に死亡、ハントリー侯に代わり王党派に合流した長男のジョージ・ゴードン卿が[[7月2日]]の{{仮リンク|アルフォードの戦い|en|Battle of Alford}}で戦死するなど王党派の被害は少なくなかった。チャールズ1世はモントローズ侯に期待して合流すべく北上したが、先立つ[[6月14日]]の[[ネイズビーの戦い]]で議会派に大敗、再起が難しい状況になっていた<ref name="松村484"></ref><ref name="清水94"></ref><ref>トランター、P278 - P279、ウェッジウッド、P426 - P433、P386 - P389、P455 - P456、P478 - P480、P495 - P504。</ref>。 |
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この頃になると盟約派も反撃を考え、イングランドからリーヴン伯の派遣軍がスコットランドに戻ることが決まると、モントローズ侯も迎え撃とうとしたが、麾下のハイランダーやマッコーラが勝手に軍から離脱、急速に弱体化してしまった。それでも迎撃しようとしたが[[9月13日]]、リーヴン伯の甥[[デビッド・レスリー (初代ニューアーク卿)|デビッド・レスリー]]の軍に[[フィリップホフの戦い]]で敗れ、姿をくらました。モントローズ侯の脅威は未だ消えず、盟約派はしばらくモントローズ侯の再起に怯え、王党派は合流の希望を捨てなかったが、やがて敗報が届くとチャールズ1世は合流を諦めオックスフォードへ戻り、[[1646年]]4月にオックスフォードも危険になると脱出したが盟約派の軍に連行された。モントローズ侯は尚もスコットランドで戦い続けたが、盟約派の捕虜となったチャールズ1世の命令で軍を解体、[[ノルウェー]]へ亡命した<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P279 - P280、清水、P94 - P95、ウェッジウッド、P517 - P520、P576 - P582、P629、P637。</ref>。 |
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=== 再起、処刑 === |
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亡命してからは行く先々で英雄として歓迎され、大陸を転々とした末に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]で[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ]][[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]](後のチャールズ2世)に迎えられて他の王党派と合流した。[[1649年]][[1月30日]]にチャールズ1世が処刑されると悲憤のあまり議会派への憎悪を込めた短詩を書いている。チャールズ1世処刑はスコットランドの大部分で反発を引き起こし、かつて敵であったアーガイル侯・リーヴン伯・レスリーら盟約派も王党派と手を組み、チャールズ2世の即位を承認し[[イングランド共和国]]打倒を目指した<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P280、清水、P155、P172 - P173。</ref>。 |
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だが、盟約派は国教会主義の放棄とイングランド・スコットランド・アイルランドを含む長老派教会の受け入れおよびモントローズ侯ら王党派の排除をチャールズ2世に迫り、後ろ盾がないチャールズ2世は屈して条件を受け入れた。翌1650年に[[オークニー諸島]]で挙兵したモントローズ侯はチャールズ2世のこの裏切りにあって孤立し、[[4月27日]]の{{仮リンク|カービスデイルの戦い|en|Battle of Carbisdale}}で再びレスリー率いる盟約軍の奇襲を受けて敗走、オークニー諸島へ戻る途中で捕えられ、馬上に括り付けられ見世物にされる屈辱を強いられた。そして5月21日にエディンバラでアーガイル侯によって処刑され、遺体は各地にばらばらに分散された<ref>トランター、P280 - P282、松村、P484 - P485、清水、P156、P174。</ref>。 |
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== 死後 == |
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王党派を排除してチャールズ2世を手中に収めた盟約派はスコットランドの実権を握ったが、それも長く続かなかった。{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}が勃発し[[オリバー・クロムウェル]]率いる共和国軍がスコットランドへ侵攻したからであり、[[9月3日]]の[[ダンバーの戦い (1650年)|ダンバーの戦い]]で敗北した盟約派は体制を立て直そうとチャールズ2世の戴冠式を挙行したが、[[1651年]]9月3日の[[ウスターの戦い]]でまたもスコットランド軍は共和国軍に敗れチャールズ2世は大陸へ亡命、打つ手を無くしたアーガイル侯ら盟約派は[[1652年]]に降伏しスコットランドとイングランドは合同された。アーガイル侯は共和国の下で生き延びたが[[1660年]]に[[イングランド王政復古|王政復古]]で共和国が終焉、チャールズ2世が復帰した翌[[1661年]]に処刑され、モントローズ侯の遺体は集められて英雄とされた。現在は両者共に[[セント・ジャイルズ大聖堂]]で埋葬されている<ref name="松村484"></ref><ref>トランター、P282 - P284、清水、P174 - P185。</ref>。 |
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なお、爵位は息子[[ジェイムズ・グラハム (第2代モントローズ侯爵)|ジェイムズ・グラハム]]が相続、曾孫の第4代侯爵[[ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ公爵)|ジェイムズ・グラハム]]は[[1707年]]のイングランド・スコットランド合同に際してイングランドからの取引に応じ合同を支持、公爵に昇叙された<ref>トランター、P309。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』[[大修館書店]]、1997年。 |
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* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。 |
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* [[清水雅夫]]『<small>王冠のないイギリス王</small> オリバー・クロムウェル<small>―ピューリタン革命史</small>』[[リーベル出版]]、2007年。 |
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* [[シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド]]著、[[瀬原義生]]訳『イギリス・ピューリタン革命<small>―王の戦争―</small>』[[文理閣]]、2015年。 |
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== 関連項目 == |
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* [[ダンディー (スコットランド)]] |
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* [[ドゥーン城]] |
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2018年10月29日 (月) 11:27時点における版
初代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハム(James Graham, 1st Marquess of Montrose, 1612年 - 1650年5月21日)は、清教徒革命(イングランド内戦)期のスコットランド貴族である。父は第4代モントローズ伯ジョン・グラハム、母は初代ガウリ伯ウィリアム・リヴァンの娘マーガレットで、ダンディー子爵ジョン・グラハムは同族に当たる。
国民盟約の成立に主導的役割をはたし、始めは盟約派、後に王党派としてスコットランド内戦の戦いを指揮した。一時はスコットランド平定に迫ったが、敵となった盟約派の反撃で敗北、再起を図るも失敗し最終的に処刑された。
生涯
国王の宗教政策に反抗
1626年、父の死によって襲爵し第5代モントローズ伯となり、セント・アンドルーズ大学に学んだ。17歳でマグダレーナ・カーネギーと結婚、4人の子を儲けた。
イングランド王兼スコットランド王チャールズ1世のイングランド国教会形式の祈祷書実施と監督制強行に強く反発し、有志を募って1638年にアーガイル伯爵(後に侯爵)アーチボルド・キャンベルとアレクサンダー・レスリー(後にリーヴン伯爵)らと共に国民盟約を結成して長老派教会(長老制)堅持と監督制阻止を掲げた。チャールズ1世は盟約派討伐のため軍をスコットランドに向かわせ翌1639年から2度に渡る主教戦争が勃発した[1][2]。
しかし第1次主教戦争でほとんど戦闘は行われず、戦況不利を見て取った王党派のスコットランド貴族ハミルトン侯爵(後に公爵)ジェイムズ・ハミルトンの働きかけでベリックの和約が結ばれた。この間モントローズ伯は北へ向かい、同じく王党派の貴族で北東の都市アバディーンを乗っ取ったハントリー侯爵ジョージ・ゴードンをディー橋の戦いで捕らえ、アバディーンを奪還しハントリー侯をエディンバラへ送っている[1][3]。
1640年の第2次主教戦争はレスリーが国王軍をニューバーンの戦いで撃破したことによりリポン条約が結ばれ、盟約派はチャールズ1世から領土割譲と賠償金、監督制撤回を勝ち取りスコットランドを平定した。だが戦後に盟約派は二派に分かれ、スコットランドの自治を主張する者(強硬派)と長老制さえ確保できれば国王のもとにあるべきとする者(穏健派)に分裂し、モントローズ伯は穏健派の代表格であったが強硬派のアーガイル伯と対立、逮捕・監禁されてしまった。1641年に盟約派との和睦を求めたチャールズ1世の介入で釈放、アーガイル伯は侯爵に昇叙、レスリーもリーヴン伯爵に叙せられスコットランドとイングランドは表面的に平和になったが、主教戦争の戦費を巡りチャールズ1世はイングランド議会(短期議会・長期議会)と対立、両者の対立はイングランド内戦へと繋がった[1][4]。
王党派へ転向
盟約派内の対立は内戦になったばかりか、1642年から始まった第一次イングランド内戦の余波がスコットランドにもおよび、モントローズ伯ら穏健派は王党派についた。一方のアーガイル侯・リーヴン伯ら強硬派は議会派と連携することを計画、1643年9月25日にアーガイル侯の主導で盟約派と議会派が厳粛な同盟と契約を締結、リーヴン伯率いる援軍がイングランドへ派遣された。対するモントローズ伯はスコットランドが盟約派の下で反王党派が優勢になる中、勢力が弱い王党派に属し孤立していたが、同盟締結前の2月にイングランドへ行きヨークにいた王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスと接触しスコットランドでの蜂起を提案した[1][5]。
だが他の王党派とそりが合わず、オックスフォードで滞在していたチャールズ1世の側近で因縁があるハミルトン公と対スコットランド戦略で対立、ヘンリエッタ・マリアとも不仲になりヨークを離れ、一旦スコットランドに帰国した。そこで聞いた盟約派と議会派の同盟と援軍の話を国王に伝えるため再びイングランドへ行き、オックスフォードでチャールズ1世の側近となり、ハミルトン公と弟のラナーク伯爵ウィリアム・ハミルトンを讒言で失脚させ、代わりに王党派に加わったアイルランド・マクドナルド氏族首長でアイルランド貴族のアントリム伯ランダル・マクドネルと共にスコットランド挙兵計画を練り上げた[6]。
1644年、チャールズ1世から侯爵に昇叙されたモントローズ伯はスコットランド総督に任命され、1月から北イングランドで挙兵の準備を進めた(アントリム伯はアイルランドで徴兵)。3月に主教戦争で敵だったハントリー侯が再びアバディーンを占領すると呼応、徴集した兵を率いて国境を越えスコットランドへ侵入した。ところが盟約派が素早く軍を差し向けたためハントリー侯は逃亡、モントローズ侯もイングランド国境のカーライルへ撤退した。王党派の蜂起は防がれアイルランドからの援軍も来ない中カーライルで待機、7月にアントリム伯が親戚のアラスデア・マッコーラと共に1100人と少数ながら援軍を連れてスコットランドに上陸すると、僅か3人だけで変装して再び越境、北上した末にスコットランド中部でテイ川流域の町ブレア・アソルでアントリム伯らと合流、8月に国王の軍旗を掲げ改めて挙兵した[1][7]。
スコットランド平定に邁進
モントローズ侯の軍はアイルランド兵とハイランド地方の兵(ハイランダー)からなる少数かつ寄せ集めの部隊で、指揮権はそれぞれ独立している、装備も貧弱という問題が多かったが、モントローズ侯は地形を利用した作戦とゲリラでカバーする方針に出た。緒戦のティパミュアの戦いは湿地帯に誘い込んで相手の騎兵隊の動きを止め勝利に繋げ、アバディーンの戦いでも盟約派を破り、スコットランド中を荒らし回りつつ山や沼などに潜伏して追跡をかわし、冬に入ると強行軍で山越えで西部へ進出、アーガイル侯の拠点アーガイル・アンド・ビュートでも略奪し盟約派を大いに動揺させた[1][8][9]。
アーガイル侯が奪還に向かうと一旦ネス湖へ北上、そこから南下し1645年2月2日のインヴァロッヒーの戦いでアーガイル侯の軍を撃破した。それからウィリアム・ベイリーの追跡を振り切って北や東へ転戦した後に南下、8月15日のキルシスの戦いで大勝を飾り、アーガイル侯ら盟約派がイングランドへ逃亡した後はエディンバラへ入りチャールズ1世の名で議会召集を図るまでになり、連戦連勝を重ねたモントローズ侯の軍事的名声は絶頂に達した。しかしここに至るまで犠牲も大きく、モントローズ侯の息子の1人が行軍中に死亡、ハントリー侯に代わり王党派に合流した長男のジョージ・ゴードン卿が7月2日のアルフォードの戦いで戦死するなど王党派の被害は少なくなかった。チャールズ1世はモントローズ侯に期待して合流すべく北上したが、先立つ6月14日のネイズビーの戦いで議会派に大敗、再起が難しい状況になっていた[1][8][10]。
この頃になると盟約派も反撃を考え、イングランドからリーヴン伯の派遣軍がスコットランドに戻ることが決まると、モントローズ侯も迎え撃とうとしたが、麾下のハイランダーやマッコーラが勝手に軍から離脱、急速に弱体化してしまった。それでも迎撃しようとしたが9月13日、リーヴン伯の甥デビッド・レスリーの軍にフィリップホフの戦いで敗れ、姿をくらました。モントローズ侯の脅威は未だ消えず、盟約派はしばらくモントローズ侯の再起に怯え、王党派は合流の希望を捨てなかったが、やがて敗報が届くとチャールズ1世は合流を諦めオックスフォードへ戻り、1646年4月にオックスフォードも危険になると脱出したが盟約派の軍に連行された。モントローズ侯は尚もスコットランドで戦い続けたが、盟約派の捕虜となったチャールズ1世の命令で軍を解体、ノルウェーへ亡命した[1][11]。
再起、処刑
亡命してからは行く先々で英雄として歓迎され、大陸を転々とした末にオランダのハーグでチャールズ王太子(後のチャールズ2世)に迎えられて他の王党派と合流した。1649年1月30日にチャールズ1世が処刑されると悲憤のあまり議会派への憎悪を込めた短詩を書いている。チャールズ1世処刑はスコットランドの大部分で反発を引き起こし、かつて敵であったアーガイル侯・リーヴン伯・レスリーら盟約派も王党派と手を組み、チャールズ2世の即位を承認しイングランド共和国打倒を目指した[1][12]。
だが、盟約派は国教会主義の放棄とイングランド・スコットランド・アイルランドを含む長老派教会の受け入れおよびモントローズ侯ら王党派の排除をチャールズ2世に迫り、後ろ盾がないチャールズ2世は屈して条件を受け入れた。翌1650年にオークニー諸島で挙兵したモントローズ侯はチャールズ2世のこの裏切りにあって孤立し、4月27日のカービスデイルの戦いで再びレスリー率いる盟約軍の奇襲を受けて敗走、オークニー諸島へ戻る途中で捕えられ、馬上に括り付けられ見世物にされる屈辱を強いられた。そして5月21日にエディンバラでアーガイル侯によって処刑され、遺体は各地にばらばらに分散された[13]。
死後
王党派を排除してチャールズ2世を手中に収めた盟約派はスコットランドの実権を握ったが、それも長く続かなかった。第三次イングランド内戦が勃発しオリバー・クロムウェル率いる共和国軍がスコットランドへ侵攻したからであり、9月3日のダンバーの戦いで敗北した盟約派は体制を立て直そうとチャールズ2世の戴冠式を挙行したが、1651年9月3日のウスターの戦いでまたもスコットランド軍は共和国軍に敗れチャールズ2世は大陸へ亡命、打つ手を無くしたアーガイル侯ら盟約派は1652年に降伏しスコットランドとイングランドは合同された。アーガイル侯は共和国の下で生き延びたが1660年に王政復古で共和国が終焉、チャールズ2世が復帰した翌1661年に処刑され、モントローズ侯の遺体は集められて英雄とされた。現在は両者共にセント・ジャイルズ大聖堂で埋葬されている[1][14]。
なお、爵位は息子ジェイムズ・グラハムが相続、曾孫の第4代侯爵ジェイムズ・グラハムは1707年のイングランド・スコットランド合同に際してイングランドからの取引に応じ合同を支持、公爵に昇叙された[15]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 松村、P484。
- ^ トランター、P272 - P274、清水、P31 - P32。
- ^ トランター、P274 - P275、清水、P32。
- ^ トランター、P275 - P276、清水、P33 - P34。
- ^ トランター、P276、ウェッジウッド、P143 - P144、P174 - P175、P183 - P184。
- ^ トランター、P276、ウェッジウッド、P211 - P212、P239 - P240、P278、P284 - P285。
- ^ トランター、P276 - P278、ウェッジウッド、P295、P320 - P324、P359 - P361、P374 - P376。
- ^ a b 清水、P94。
- ^ トランター、P278、ウェッジウッド、P376 - P378、P386 - P389、P405 - P408。
- ^ トランター、P278 - P279、ウェッジウッド、P426 - P433、P386 - P389、P455 - P456、P478 - P480、P495 - P504。
- ^ トランター、P279 - P280、清水、P94 - P95、ウェッジウッド、P517 - P520、P576 - P582、P629、P637。
- ^ トランター、P280、清水、P155、P172 - P173。
- ^ トランター、P280 - P282、松村、P484 - P485、清水、P156、P174。
- ^ トランター、P282 - P284、清水、P174 - P185。
- ^ トランター、P309。
参考文献
- ナイジェル・トランター著、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
- 松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。
- 清水雅夫『王冠のないイギリス王 オリバー・クロムウェル―ピューリタン革命史』リーベル出版、2007年。
- シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド著、瀬原義生訳『イギリス・ピューリタン革命―王の戦争―』文理閣、2015年。
関連項目
スコットランドの爵位 | ||
---|---|---|
先代 ジョン・グラハム |
モントローズ伯爵 1626年 - 1650年 |
次代 ジェイムズ・グラハム |
先代 新設 |
モントローズ侯爵 1644年 - 1650年 |