「大井ダム」の版間の差分
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{{ダム |
{{ダム |
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|ダム名=大井ダム |
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|画像=[[ファイル:Oi Dam power station.jpg|300px]]<br />大井ダムと大井・新大井発電所 |
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| 所在地= |
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|左岸 = [[岐阜県]][[恵那市]]大井町字奥戸 |
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|右岸 = 岐阜県[[中津川市]]蛭川 |
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|緯度 = 35 | 緯分 = 28 | 緯秒 = 52.9 |
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|経度 = 137 |経分 = 23 | 経秒 = 46.3 |
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|河川=[[木曽川]]水系木曽川 |
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|ダム湖=[[恵那峡]]<ref>大井ダム湖とその周辺の景観とを総じて「恵那峡」と称している。</ref>【[[ダム湖百選]]】 |
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|ダム形式=[[重力式コンクリートダム]] |
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|堤高=53.38 |
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|堤頂長=275.76 |
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|堤体積=151,753 |
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|総貯水容量=29,400,000 |
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|有効貯水容量=9,250,000 |
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|流域面積=2,083.0 |
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|湛水面積=141.0 |
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|利用目的=[[水力発電|発電]] |
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|事業主体=[[関西電力]] |
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|電気事業者=関西電力 |
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|発電所名(認可出力)=大井発電所 (52,000[[ワット|kW]])<br />新大井発電所 (32,000kW) |
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|施工業者=[[大同電力]] |
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|着工年=1922年 |
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|竣工年=1924年 |
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|備考=<ref name="database1">「[http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=detail&pp=24&OwnerNo=006&AreaNo=04&RiverSys=4090&fd=1 水力発電所データベース 発電所詳細表示 大井]」 一般社団法人電力土木技術協会、2018年7月10日閲覧</ref><ref name="database2">「[http://www.jepoc.or.jp/hydro/index.php?_w=usData&_x=detail&pp=26&OwnerNo=006&AreaNo=04&RiverSys=4090&fd=1 水力発電所データベース 発電所詳細表示 新大井]」 一般社団法人電力土木技術協会、2018年7月10日閲覧</ref><ref>「[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1057 ダム便覧 大井ダム [岐阜県]]」 一般財団法人日本ダム協会、2018年7月10日閲覧</ref> |
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| 備考= |
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'''大井ダム'''(おおいダム)は、[[岐阜県]][[恵那市]]大井町と[[中津川市]]蛭川(旧・[[恵那郡]][[蛭川村]])の境 |
'''大井ダム'''(おおいダム)は、[[木曽川]]本川中流部、[[岐阜県]][[恵那市]]大井町と[[中津川市]]蛭川(旧・[[恵那郡]][[蛭川村]])の境に建設された[[ダム]]である。 |
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[[関西電力|関西電力株式会社]]の[[水力発電]]専用ダムで、'''大井発電所'''(おおいはつでんしょ)ならびに'''新大井発電所'''(しんおおいはつでんしょ)へ送水して最大8万4000[[ワット|キロワット]]の電力を[[発電]]する。 |
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木曽川水系で最初に造られたダムで、[[1924年]](大正13年)に完成。ダムの形式は[[重力式コンクリートダム]]で高さは53.4メートル。日本では[[帝釈川ダム]]([[高梁川]]水系[[帝釈川]])に次ぐ、50メートル超級のダムである。ダムに付設する大井発電所は[[ダム式発電所]]としては日本で初めての例である。さらに[[1983年]](昭和58年)には直下流に新大井発電所が増設され、両発電所による合計の認可出力は8万キロワット(大井48,000kW・新大井32,000kW)である。 |
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== 概要 == |
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大井ダムは[[木曽川]]を横断する形で築造されたダムである。[[落合ダム]]の下流、[[笠置ダム]]の上流に位置する。[[関西電力]]が保有する発電専用ダムであり、ダム附設の発電所は、ダム建設とともに設置された大井発電所(出力5万2,000キロワット・ダム水路式発電所<ref name="kanden-list">「[https://web.archive.org/web/20170802052826/http://www.kepco.co.jp/energy_supply/energy/newenergy/water/plant/list.html 関西電力の水力発電所 水力発電所一覧]」 関西電力、2017年8月2日時点の[http://www.kepco.co.jp/energy_supply/energy/newenergy/water/plant/list.html オリジナル]よりアーカイブ。2018年7月10日閲覧</ref>)と、河川利用率向上のため[[1983年]](昭和58年)に追加された新大井発電所(出力3万2,000キロワット・ダム式発電所<ref name="kanden-list"/>)の2か所がある。ダムによって形成された調整池周辺の渓谷は「[[恵那峡]]」と呼ばれる。 |
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木曽川は急流である上に水量が豊富な事から、[[水力発電]]には絶好の適地であった。[[1911年]](大正元年)には電気事業法が制定され、一挙に水力発電の開発機運は高まった。だが当時は氾濫を繰り返し木曽川本川のダム建設は困難極まりなかった。木曽川に目をつけたのは、後に「日本の電力王」と渾名された[[福澤桃介]]である。[[慶應義塾大学]]創設者・[[福澤諭吉]]の養子であった桃介は、木曽川の電源開発を企図しこの地にダムによる水力発電を計画した。建設は「半川締切工法」で行われたが、度重なる洪水による資材流出など困難を極めた。だが、日本初の[[俳優|女優]]・[[川上貞奴|マダム貞奴]](さだやっこ)の援助等もあり、苦難の末完成させた。この偉業は、当時世界のビッグ・プロジェクトの一つに数えられた。 |
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木曽川水系で最初に造られたダムで、[[1924年]](大正13年)に完成。高さ53.4メートルの[[重力式コンクリートダム]]であり、日本では[[帝釈川ダム]]([[高梁川]]水系[[帝釈川]])に続く50メートル超級のダムである。建設時の電力会社は、[[大同電力]]という大正・昭和期の大手電力会社で、「電力王」と呼ばれた実業家[[福澤桃介]]が建設を主導した。 |
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福澤桃介はこの後も木曽川水系の電源開発を進めていき、後に当時の五大電力資本となる[[大同電力]]を設立し社長に就任する。これが後に[[関西電力]]株式会社の礎となっていく。現在でも、木曽川における発電水利権は王滝川を含めて関西電力が一手に握っている。桃介の偉業は、[[長野県]][[木曽郡]][[南木曽町]]にある木造の[[吊り橋]]で国の[[重要文化財]]に[[1994年]]([[平成]]6年)に指定された[[桃介橋]]にその名を留めている。桃介はその後[[天竜川]]水系の開発に乗り出し、後の天竜川電源開発への道筋を付けて事業から引退している。 |
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2007年度(平成19年度)に、中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして、大井ダムならびに大井発電所が[[経済産業省]]によって「[[近代化産業遺産]]」に認定された<ref>「[http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/nipponsaikoh/nipponsaikohsangyouisan.html 近代化産業遺産]」 経済産業省、2018年7月13日閲覧</ref>。 |
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==周辺== |
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大井ダムによって誕生した人造湖によって、[[恵那峡]]という新たなる名勝が誕生した。10キロメートル以上にわたって奇岩・絶壁が湖の両岸にそびえ、春の桜や秋の紅葉の時期は絶景の一言である。遊覧船で30分程度のクルーズが楽しめる。下流の[[丸山ダム]]によって出来た丸山蘇水湖と共に、[[飛騨木曽川国定公園]]に指定されている。[[2005年]](平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターより、恵那市の推薦を得て[[ダム湖百選]]に指定されている。 |
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== 設備構成 == |
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大井発電所と新大井発電所はダム直下右岸に並んでいる。左岸にも小さな発電所があるが、これは[[中部電力]]の'''奥戸発電所'''である。大井ダム直下で木曽川へ合流する[[阿木川]]の上流で取水し、最大500キロワットの電力を発生するもので、大井ダムから取水するものではない。 |
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=== ダム === |
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[[ファイル:Oi Dam.jpg|thumb|left|大井ダムの堤体]] |
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形式は直線型[[重力式コンクリートダム]]<ref name="daido-104">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]104-107頁</ref>。ダムの堤高(基礎岩盤から非越流部堤頂までの高さ)は53.384メートル、堤頂長(頂上部長さ)は洪水吐ゲートのある越流部が199.136メートル、非越流部が76.622メートルで合計275.758メートル<ref name="epce173">[[#epce173|「新大井水力発電所新設工事の概要」]]</ref>。堤頂幅(頂上部の幅)は越流部で6.364メートル、非越流部で5.150メートルある<ref name="epce173"/>。堤体積(堤体の[[体積]])は元は15万3,268[[立方メートル]]であったが、新大井発電所取水口の建設に際して非越流部の一部、1,515立方メートルを取り壊しており<ref name="epce173"/>、15万1,753立方メートルに減少している<ref name="database1"/>。ゲートは幅7.6メートル・高さ6.4メートルの[[ラジアルゲート|テンターゲート(ラジアルゲート)]]で、計21門並ぶ<ref name="daido-104"/>。 |
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<gallery mode="packed" heights="115px"> |
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Image:Oi power station.jpg|大井発電所 |
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ダムによって形成される調整池の総貯水量は2940万[[立方メートル]]で、そのうち満水位標高258.48メートルから6.06メートル以内の有効貯水量は925万立方メートルとなっている(数字は2008年3月末時点)<ref name="database1"/>。また湛水面積は1.4[[平方キロメートル]]に及ぶ(同左)<ref name="database1"/>。 |
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Image:Shin'oi power station.jpg|新大井発電所 |
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Image:Okudo power station.jpg|奥戸発電所 |
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=== 発電所 === |
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Image:Oi Dam and new Shinonome Bridge.JPG|[[恵那峡]]から望む大井ダムと新[[東雲橋 (木曽川)|東雲橋]] |
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[[ファイル:Oi power station.jpg|thumb|大井発電所]] |
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[[ファイル:Shin'oi power station.jpg|thumb|新大井発電所]] |
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大井ダム附設の発電所は大井発電所({{ウィキ座標|35|28|55|N|137|23|37.5|E|region:JP|name=大井発電所|地図}})と新大井発電所({{ウィキ座標|35|28|55.1|N|137|23|41.7|E|region:JP|name=新大井発電所|地図}})の2つがある。大井発電所は最大使用水量139.13[[立方メートル毎秒]]・有効落差42.42メートルにて最大5万2,000[[ワット|キロワット]]、新大井発電所は最大使用水量85.00立方メートル毎秒・有効落差43.96メートルにて最大3万2,000キロワットをそれぞれ発電する<ref name="kandenweb">「[https://web.archive.org/web/20170817124315/http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/jigyou/imawatarid.html 東海電力部・東海支社の概要 今渡電力所の紹介]」関西電力、2017年8月17日時点の[http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/jigyou/imawatarid.html オリジナル]よりアーカイブ。2018年7月10日閲覧</ref>。 |
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ダムとともに建設された大井発電所は、ダム右岸上流約80メートルの場所に取水口を設ける<ref name="daido-104"/>。ここから約300メートルの圧力トンネルによる導水路で[[サージタンク]]へ導水し、約65 - 70メートルの水圧鉄管4条にて水を落として4組の[[水車発電機]]を稼働させる<ref name="daido-104"/>。[[発電用水車|水車]]は立軸単輪単流渦巻[[フランシス水車]]を採用し<ref name="daido-104"/><ref name="soran1">[[#soran|『電力発電所設備総覧』平成12年新版]]201頁</ref>、発電機は容量1万3,800[[ボルトアンペア|キロボルトアンペア]]のものを備える<ref name="soran1"/>。[[商用電源周波数|周波数]]は60[[ヘルツ]]を採用する<ref name="daido-104"/><ref name="soran1"/>。発電所建屋は[[鉄筋コンクリート構造]]2階建てで<ref name="daido-104"/>、面積は1,168.9平方メートル<ref name="database1"/>。 |
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1983年になって設置された新大井発電所は、ダム右岸非越流部を一部切り欠いた場所に取水口を設ける<ref name="epce173"/>。発電所建屋も取水口と同様、既設大井発電所よりもダム寄りに位置することから、取水口と発電所の距離を短縮しつつ効率的に落差を確保すべく、導水路を省いて取水口に水圧管路を直結させる方式を採る<ref name="epce173"/>。水圧管路の長さは134.7メートルで、埋設[[コンクリート]]による上部水平部分、埋設水圧鉄管による立坑部分ならびに下部水平部分からなる<ref name="epce173"/>。水車発電機は[[富士電機]]製で1組のみ設置<ref name="soran2">[[#soran|『電力発電所設備総覧』平成12年新版]]209頁</ref>。水車形式は立軸単輪単流渦巻フランシス水車、発電機容量は3万6,000キロボルトアンペアである<ref name="soran2"/>。発電所建屋は半地下式で<ref name="epce173"/>、面積は390.9平方メートル<ref name="database2"/>。 |
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== 歴史 == |
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=== ダム建設準備 === |
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[[ファイル:Shizumo power station.jpg|thumb|大井ダム上流に建設された[[賤母発電所|賤母(しずも)発電所]]]] |
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大井ダムおよび大井発電所は、大正から昭和戦前期にかけての大手電力会社[[大同電力]]によって建設された。 |
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大同電力が岐阜県内において木曽川の[[水利権]]を取得したのは、前身[[木曽電気製鉄|木曽電気興業]]時代の[[1920年]](大正9年)3月のことである<ref name="daido-79">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]79-86頁</ref>。「大井」地点はこのときに許可を受けた5地点のうちの一つで<ref name="daido-79"/>、許可当初は[[恵那郡]][[中津町 (岐阜県)|中津町]]駒場(現・[[中津川市]]駒場)に取水口を、その下流約11キロメートル地点の恵那郡[[大井町 (岐阜県)|大井町]]字奥戸(現・[[恵那市]]大井町字奥戸)に放水口をそれぞれ設けるという水路式発電所による計画であった<ref name="daido-104"/>。だが上流の[[賤母発電所|賤母地点]]や[[読書発電所|読書地点]]においては木曽川の[[河床勾配]]は約100分の1であるが、大井地点においては280分の1に過ぎず、水路式発電所を設けるには有利な地点でないので、その後の調査でダム式発電所に変更し[[尖頭負荷発電所|尖頭負荷を持たせる]]ことが適切と結論付けられた<ref name="daido-104"/>。そして[[1921年]](大正10年)8月、「大井」地点をダム式発電所に変更する計画変更許可を得た<ref name="daido-79"/>。 |
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ダム建設が決まったものの、堤高50メートル級のダム建設の経験は当時の日本にはなく、しかも下流に[[濃尾平野]]を控えるという立地のため、その設計・施工には周到な調査研究が必要であった<ref name="daido-104"/>。そこで大同電力では[[地質学|地質学者]]の[[巨智部忠承]]に委嘱して地質調査を実施し、3か所の候補地を精査、その中からダム建設に最も適するとして最下流の場所を選定した<ref name="daido-104"/>。調査結果を踏まえ、[[1922年]](大正11年)4月、ダム・発電所の建設場所を大井町字奥戸から恵那郡[[蛭川村]]字弓場(現・中津川市蛭川字弓場)へと移す設計変更許可を得た<ref name="daido-79"/><ref name="daido-104"/>。またダム調査のため技師畠山好伸を[[アメリカ合衆国]]へと派遣した<ref name="daido-104"/>。 |
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大井ダム・発電所の着工は1922年7月<ref name="daido-104"/>。建設所長には日本最初のコンクリートダムである[[布引五本松ダム]]([[神戸市]])などを手掛けた技術者[[佐野藤次郎]]を招聘し、アメリカからも技術顧問団を招いた<ref name="sympo">[[#sympo|馬渕浩一「大井発電所の建設」]]</ref>。ところが工事中、所長の佐野がダム建設用コンクリートに用いる[[骨材]]の採取場所をめぐって会社と対立し辞任するというトラブルが発生した<ref name="sympo"/>。後任建設所長にはアメリカでのダム調査から帰国した畠山好伸が就き、同じくアメリカから帰国した[[石川栄次郎]]が建設次長となった<ref name="sympo"/>。 |
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=== 工事の様相 === |
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[[ファイル:Oi Dam power station oldphoto.jpg|thumb|戦前撮影の大井ダムと大井発電所]] |
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[[ファイル:Fukuzawa Momosuke 57-year-old.jpg|thumb|upright|大同電力社長[[福澤桃介]]。1924年、米国からの帰国後に大井ダム前で撮影されたもの。]] |
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建設工事は積極的に機械化された<ref name="sympo"/>。資材輸送の手段として、最寄の[[中央本線]]大井駅(現・[[恵那駅]])とダム建設地左岸を結ぶ全長4.3キロメートルの[[専用鉄道]]を敷設し、木曽川を横断する[[索道]]2本を架設した<ref name="daido-104"/>。鉄道終端とダムの間にある傾斜地には[[砕石]]・コンクリート工場を設置<ref name="daido-104"/>。コンクリート打込み作業は、4台のミキサーにより[[生コンクリート]]を練りだしてトロッコに積み込み、それを[[ガソリン機関車]]牽引でダム上部に架橋された[[トレッスル橋]]上へ運搬、そこからシュートを利用して流し込み、下でケーブル[[クレーン]]によって玉石を打ちこむ、という流れであった<ref name="sympo"/>。これらのミキサー・機関車・ケーブルクレーンや蒸気[[油圧ショベル|ショベル]]はアメリカからの輸入品である<ref name="sympo"/>。これらの機械化作業により1か月に最大1万2,300立方メートルのコンクリート打設が施工された<ref name="sympo"/>。 |
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工事中、度重なる[[洪水]]被害が工事の支障となり、さらに金融面でも[[1923年]](大正12年)9月の[[関東大震災]]で金融梗塞が生じた<ref name="daido-104"/>。このころ、大同電力では大井ダム工事に要する追加資金、次に着手した[[落合ダム]]工事の資金、短期[[社債]]の借り換えなどで多額の資金を必要としていたことから、翌[[1924年]](大正13年)5月に[[外債]]発行を決定する<ref name="daido-276">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]276-277頁</ref>。そして社長の[[福澤桃介]]自ら渡米して交渉を重ね、同年8月外債1500万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]の発行を実現させた<ref name="daido-276"/>。 |
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着工から2年1か月後の1924年[[8月16日]]、大井ダムの湛水が開始され、同年[[11月28日]]に大井発電所の運転が開始された<ref name="epce173"/>。大井発電所の主要機器はすべてアメリカからの輸入品であり、水車は{{仮リンク|アリス・チャルマーズ|en|Allis-Chalmers}}製、発電機は[[ゼネラル・エレクトリック]] (GE) 製、[[変圧器]]は[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]製のものが設置されている<ref name="daido-104"/>。当初の発電所出力は4万2,900キロワットで、前年竣工の[[読書発電所]] (出力4万700キロワット)を抜いて当時日本最大の発電所となった<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]183-185頁</ref>。送電線は木曽川筋から[[大阪府]]へと至る「大阪送電線」が接続し<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]151-152頁</ref>、大井発電所の発生電力は[[須原発電所 (長野県)|須原]]・読書両発電所の発生電力とともに関西地方へと送電された<ref name="daido-104"/>。 |
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=== 建設後の大井発電所の変遷 === |
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大井発電所の使用水量は、建設当初最大4,500[[才|立方尺]]毎秒(125.22立方メートル毎秒)に設定されていたが、設備能力に余裕があるため5,000立方尺毎秒(139.13立方メートル毎秒)へと引き上げる許可を得て<ref name="daido-79"/>、[[1938年]](昭和13年)9月に発電所出力を4万8,000キロワット<!--『沿革史』は48,200kW-->へと増強した<ref>[[#nenkan1939|『電気年鑑』昭和14年版]]16頁。{{NDLJP|1115068/29}}</ref>。 |
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翌[[1939年]](昭和14年)[[4月1日]]、電力国家管理の担い手として国策電力会社[[日本発送電]]が設立された。同社設立に関係して、大同電力は「[[電力管理に伴う社債処理に関する法律]]」第4条・第5条の適用による日本発送電への[[社債]]元利支払い義務継承ならびに社債[[担保]]電力設備([[工場財団]]所属電力設備)の強制買収を前年12月に政府より通知される<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]414-418頁</ref>。買収対象には大井発電所など14か所の水力発電所が含まれており、これらは日本発送電設立の同日に同社へと継承された<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]424-426・452-543頁</ref>。 |
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[[太平洋戦争]]後、[[1951年]](昭和26年)[[5月1日]]実施の電気事業再編成では、大井発電所はほかの木曽川の発電所とともに供給区域外ながら[[関西電力]]へと継承された<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]939頁</ref>。日本発送電設備の帰属先を発生電力の主消費地によって決定するという「潮流主義」の原則に基づき、木曽川筋の発電所が関西電力所管となったことによる<ref>[[#kansai|『関西地方電気事業百年史』]]504・606頁</ref>。 |
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関西電力時代、[[1963年]](昭和38年)から[[1969年]](昭和44年)にかけて、大井発電所では水車が4台とも[[三菱重工業]]製のものに更新された<ref name="sympo"/>。更新前のアリス・チャルマーズ製水車4台のうち1台は、1968年に[[名古屋市科学館]]で開催された「電力王・福沢桃介生誕100年展」を機に同科学館へと寄贈されている<ref name="sympo"/>。また水圧鉄管についても[[1977年]](昭和52年)に、[[川崎造船所]]製の[[リベット]]接合管から三菱重工業製の全[[溶接]]管へと更新された<ref name="sympo"/>。さらに[[1997年]](平成9年)11月にはリフレッシュ工事が竣工し、発電所出力が4,000キロワット引き上げられた<ref>「[https://web.archive.org/web/20160309115818/http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/jigyou/refresh.html 東海電力部・東海支社の概要 発電所のリフレッシュ]」 関西電力、2016年3月9日時点の[http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/tokai/jigyou/refresh.html オリジナル]よりアーカイブ。2018年7月12日閲覧</ref>。以後発電所出力は5万2,000キロワットとなっている。 |
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=== 新大井発電所建設 === |
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[[ファイル:Makio Dam.jpg|thumb|王滝川の[[牧尾ダム]]]] |
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木曽川水系上流部の[[王滝川]]では、[[1943年]](昭和18年)に[[三浦ダム]]、[[1961年]](昭和36年)には[[牧尾ダム]]が完成して2つの[[貯水池]]が出現した<ref name="epce173"/>。その結果、木曽川の河川流量を年間を通じて調整できるようになり、下流部における流況が改善された<ref name="epce173"/>。従って大井ダム地点においても、流況は建設当初に比べ大きく変化した<ref name="epce173"/>。具体的な値で見ると、大井発電所の最大使用水量(139.13立方メートル毎秒)は、昭和40年代の10か年平均流況では豊水量を下回る110日流量(年間を通して110日はこれを下回らない流量)にほぼ相当しており、まだ発電する余地があったのである<ref name="epce173"/>。 |
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関西電力では、[[1971年]](昭和46年)の[[丸山ダム|新丸山発電所]]建設以降木曽川開発を中断していたが、[[オイルショック]]を機に新規水力開発の経済性が相対的に向上し、また純国産エネルギーとして水力発電を見直す機運が高まったことから、1970年代後半より木曽川開発を再開した<ref name="do166">[[#do166|「木曽川における電源開発の歴史と新大井発電所の建設」]]</ref>。木曽川本川では、大井ダム上流に位置する既設落合ダムにて新落合発電所が[[1980年]](昭和55年)に運転を開始<ref name="do166"/>。次いで大井ダムの余力を利用する新大井発電所の計画が立てられ、[[1981年]](昭和56年)[[3月2日]]新大井発電所建設所の発足とともに工事が開始された<ref name="epce173"/>。 |
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着工から2年後の[[1983年]](昭和58年)[[4月27日]]より、新大井発電所は出力3万2,000キロワットにて運転を開始した<ref name="do166"/>。新発電所建設の結果、大井ダムにおける河水利用率は72パーセントから84パーセントへと上昇している<ref name="do166"/>。 |
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== 周辺 == |
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大井ダムによって誕生した人造湖によって、「[[恵那峡]]」という新たなる名勝が誕生した。10キロメートル以上にわたって奇岩・絶壁が湖の両岸にそびえ、春の桜や秋の紅葉の時期の景勝で知られる。下流の[[丸山ダム]]によってできた「丸山蘇水湖」とともに[[飛騨木曽川国定公園]]に指定されている。[[2005年]](平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターより、恵那市の推薦を得て[[ダム湖百選]]に指定されている。 |
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大井発電所と新大井発電所はダム直下右岸に並んでいる。左岸にも小さな発電所があるが、これは[[中部電力]]の奥戸発電所である。大井ダム直下で木曽川へ合流する[[阿木川]]の上流で取水し、最大500キロワットの電力を発生するもので、大井ダムから取水するものではない。 |
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ファイル:Okudo power station.jpg|奥戸発電所 |
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ファイル:Oi Dam and new Shinonome Bridge.JPG|[[恵那峡]]側から望む大井ダムと[[東雲大橋]] |
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==関連項目== |
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*[[重力式コンクリートダム]] - [[日本の重力式ダム一覧]] |
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*[[大同電力]] - [[日本発送電]] - [[関西電力]] |
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*[[福澤桃介]] |
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*[[恵那峡]] |
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*[[北恵那鉄道大井線]] |
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*[[国鉄1225形蒸気機関車]] |
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木材運搬施設の整備はダム工事に伴う仮締切工事までに完成させる必要があったが、単に裏木曽御料林からの木材輸送を行うのでは不経済であるため、地元と協議の上で一般旅客・貨物を扱う[[地方鉄道法]]による鉄道にその役割を担わせることとなり<ref name="daido-89"/>、大同電力は地元有志その他との折半出資によって[[1922年]](大正11年)2月北恵那鉄道(現・[[北恵那交通]])を設立<ref name="daido-379">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]379-381頁</ref>。そして同社を通じて中津川から[[下付知駅|下付知]]に至る22.1キロメートルの[[北恵那鉄道線|鉄道路線]]を[[1924年]](大正13年)8月に完成させ、さらに自社負担で終点下付知付近の付知川に木材陸揚場を整備した<ref name="daido-379"/>。こうして木材運搬施設が整備されたが、陸揚場は後に[[付知森林鉄道|森林鉄道]]が整備されたため使用されなくなり<ref name="daido-379"/>、鉄道路線も[[1978年]](昭和53年)に廃止されて現存しない。 |
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大同電力が出資する北恵那鉄道は、大同電力が大井ダム建設資材輸送用に敷設した[[専用鉄道]]も譲り受け、[[1928年]](昭和3年)12月より地方鉄道の「[[北恵那鉄道大井線|大井線]]」として営業を開始した<ref name="daido-379"/>。この路線は中央本線大井駅と大井ダム左岸、天端より約30メートル上の地点を結び、全長は4.3キロメートルであった<ref name="daido-104"/>。だが営業は4年間のみで、[[1932年]](昭和7年)9月に大同電力において他に流用するためとして廃止された<ref name="daido-379"/>。 |
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== 参考文献 == |
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* 書籍 |
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** {{Cite book|和書|author=関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)|title=関西地方電気事業百年史 |publisher=関西地方電気事業百年史編纂委員会 |year=1987 |ref=kansai }} |
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** {{Cite book|和書|author=大同電力社史編纂事務所(編) |title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力社史編纂事務所 |year=1941 |ref=daido }} |
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** {{Cite book|和書|author=電気之友社(編) |title=電気年鑑 |volume=昭和14年版(第24回) |publisher=電気之友社 |year=1939 |ref=nenkan1939 }} |
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** {{Cite book|和書|author=日本動力協会 |title=日本の発電所 |volume=中部日本篇 |publisher=工業調査協会 |year=1937 |ref=jps |id={{NDLJP|1257061}}}} |
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** {{Cite book|和書|author= |title=電力発電所設備総覧 |volume=平成12年新版 |publisher=日刊電気通信社 |year=2000 |ref=soran }} |
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* 記事 |
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** {{Cite journal|和書|author=竹内貞一・黒田禎夫 |title=新大井水力発電所新設工事の概要 |journal=電力土木 |number=173 |publisher=電力土木技術協会 |date=1981-07 |pages=12-23 |ref=epce173 }} |
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** {{Cite journal|和書|author=馬渕浩一 |title=大井発電所の建設 |journal=シンポジウム中部の電力のあゆみ |volume=第2回講演報告資料集(福沢桃介の活きた時代)|publisher=中部産業遺産研究会 |year=1994-05 |pages=39-62 |ref=sympo }} |
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** {{Cite journal|和書|author=渡部威 |title=木曽川における電源開発の歴史と新大井発電所の建設 |journal=動力 |number=166 |publisher=日本動力協会 |date=1984-05 |pages=39-45 |ref=do166 }} |
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== 関連項目 == |
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* [[日本のダム]] |
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* [[重力式コンクリートダム]] - [[日本の重力式ダム一覧]] |
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* [[電力会社管理ダム]] - [[日本の発電用ダム一覧]] |
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* [http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1057 大井ダム[岐阜県] - ダム便覧] - 一般財団法人日本ダム協会 |
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* [https://www.kankou-ena.jp/enakyo/ 恵那市観光協会 :: 大井ダム] |
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2018年7月22日 (日) 15:42時点における版
大井ダム | |
---|---|
大井ダムと大井・新大井発電所 | |
左岸所在地 | 岐阜県恵那市大井町字奥戸 |
右岸所在地 | 岐阜県中津川市蛭川 |
位置 | |
河川 | 木曽川水系木曽川 |
ダム湖 | 恵那峡[1]【ダム湖百選】 |
ダム諸元 | |
ダム型式 | 重力式コンクリートダム |
堤高 | 53.38 m |
堤頂長 | 275.76 m |
堤体積 | 151,753 m3 |
流域面積 | 2,083.0 km2 |
湛水面積 | 141.0 ha |
総貯水容量 | 29,400,000 m3 |
有効貯水容量 | 9,250,000 m3 |
利用目的 | 発電 |
事業主体 | 関西電力 |
電気事業者 | 関西電力 |
発電所名 (認可出力) |
大井発電所 (52,000kW) 新大井発電所 (32,000kW) |
施工業者 | 大同電力 |
着手年 / 竣工年 | 1922年 / 1924年 |
備考 | [2][3][4] |
大井ダム(おおいダム)は、木曽川本川中流部、岐阜県恵那市大井町と中津川市蛭川(旧・恵那郡蛭川村)の境に建設されたダムである。
関西電力株式会社の水力発電専用ダムで、大井発電所(おおいはつでんしょ)ならびに新大井発電所(しんおおいはつでんしょ)へ送水して最大8万4000キロワットの電力を発電する。
概要
大井ダムは木曽川を横断する形で築造されたダムである。落合ダムの下流、笠置ダムの上流に位置する。関西電力が保有する発電専用ダムであり、ダム附設の発電所は、ダム建設とともに設置された大井発電所(出力5万2,000キロワット・ダム水路式発電所[5])と、河川利用率向上のため1983年(昭和58年)に追加された新大井発電所(出力3万2,000キロワット・ダム式発電所[5])の2か所がある。ダムによって形成された調整池周辺の渓谷は「恵那峡」と呼ばれる。
木曽川水系で最初に造られたダムで、1924年(大正13年)に完成。高さ53.4メートルの重力式コンクリートダムであり、日本では帝釈川ダム(高梁川水系帝釈川)に続く50メートル超級のダムである。建設時の電力会社は、大同電力という大正・昭和期の大手電力会社で、「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が建設を主導した。
2007年度(平成19年度)に、中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして、大井ダムならびに大井発電所が経済産業省によって「近代化産業遺産」に認定された[6]。
設備構成
ダム
形式は直線型重力式コンクリートダム[7]。ダムの堤高(基礎岩盤から非越流部堤頂までの高さ)は53.384メートル、堤頂長(頂上部長さ)は洪水吐ゲートのある越流部が199.136メートル、非越流部が76.622メートルで合計275.758メートル[8]。堤頂幅(頂上部の幅)は越流部で6.364メートル、非越流部で5.150メートルある[8]。堤体積(堤体の体積)は元は15万3,268立方メートルであったが、新大井発電所取水口の建設に際して非越流部の一部、1,515立方メートルを取り壊しており[8]、15万1,753立方メートルに減少している[2]。ゲートは幅7.6メートル・高さ6.4メートルのテンターゲート(ラジアルゲート)で、計21門並ぶ[7]。
ダムによって形成される調整池の総貯水量は2940万立方メートルで、そのうち満水位標高258.48メートルから6.06メートル以内の有効貯水量は925万立方メートルとなっている(数字は2008年3月末時点)[2]。また湛水面積は1.4平方キロメートルに及ぶ(同左)[2]。
発電所
大井ダム附設の発電所は大井発電所(北緯35度28分55秒 東経137度23分37.5秒)と新大井発電所(北緯35度28分55.1秒 東経137度23分41.7秒)の2つがある。大井発電所は最大使用水量139.13立方メートル毎秒・有効落差42.42メートルにて最大5万2,000キロワット、新大井発電所は最大使用水量85.00立方メートル毎秒・有効落差43.96メートルにて最大3万2,000キロワットをそれぞれ発電する[9]。
ダムとともに建設された大井発電所は、ダム右岸上流約80メートルの場所に取水口を設ける[7]。ここから約300メートルの圧力トンネルによる導水路でサージタンクへ導水し、約65 - 70メートルの水圧鉄管4条にて水を落として4組の水車発電機を稼働させる[7]。水車は立軸単輪単流渦巻フランシス水車を採用し[7][10]、発電機は容量1万3,800キロボルトアンペアのものを備える[10]。周波数は60ヘルツを採用する[7][10]。発電所建屋は鉄筋コンクリート構造2階建てで[7]、面積は1,168.9平方メートル[2]。
1983年になって設置された新大井発電所は、ダム右岸非越流部を一部切り欠いた場所に取水口を設ける[8]。発電所建屋も取水口と同様、既設大井発電所よりもダム寄りに位置することから、取水口と発電所の距離を短縮しつつ効率的に落差を確保すべく、導水路を省いて取水口に水圧管路を直結させる方式を採る[8]。水圧管路の長さは134.7メートルで、埋設コンクリートによる上部水平部分、埋設水圧鉄管による立坑部分ならびに下部水平部分からなる[8]。水車発電機は富士電機製で1組のみ設置[11]。水車形式は立軸単輪単流渦巻フランシス水車、発電機容量は3万6,000キロボルトアンペアである[11]。発電所建屋は半地下式で[8]、面積は390.9平方メートル[3]。
歴史
ダム建設準備
大井ダムおよび大井発電所は、大正から昭和戦前期にかけての大手電力会社大同電力によって建設された。
大同電力が岐阜県内において木曽川の水利権を取得したのは、前身木曽電気興業時代の1920年(大正9年)3月のことである[12]。「大井」地点はこのときに許可を受けた5地点のうちの一つで[12]、許可当初は恵那郡中津町駒場(現・中津川市駒場)に取水口を、その下流約11キロメートル地点の恵那郡大井町字奥戸(現・恵那市大井町字奥戸)に放水口をそれぞれ設けるという水路式発電所による計画であった[7]。だが上流の賤母地点や読書地点においては木曽川の河床勾配は約100分の1であるが、大井地点においては280分の1に過ぎず、水路式発電所を設けるには有利な地点でないので、その後の調査でダム式発電所に変更し尖頭負荷を持たせることが適切と結論付けられた[7]。そして1921年(大正10年)8月、「大井」地点をダム式発電所に変更する計画変更許可を得た[12]。
ダム建設が決まったものの、堤高50メートル級のダム建設の経験は当時の日本にはなく、しかも下流に濃尾平野を控えるという立地のため、その設計・施工には周到な調査研究が必要であった[7]。そこで大同電力では地質学者の巨智部忠承に委嘱して地質調査を実施し、3か所の候補地を精査、その中からダム建設に最も適するとして最下流の場所を選定した[7]。調査結果を踏まえ、1922年(大正11年)4月、ダム・発電所の建設場所を大井町字奥戸から恵那郡蛭川村字弓場(現・中津川市蛭川字弓場)へと移す設計変更許可を得た[12][7]。またダム調査のため技師畠山好伸をアメリカ合衆国へと派遣した[7]。
大井ダム・発電所の着工は1922年7月[7]。建設所長には日本最初のコンクリートダムである布引五本松ダム(神戸市)などを手掛けた技術者佐野藤次郎を招聘し、アメリカからも技術顧問団を招いた[13]。ところが工事中、所長の佐野がダム建設用コンクリートに用いる骨材の採取場所をめぐって会社と対立し辞任するというトラブルが発生した[13]。後任建設所長にはアメリカでのダム調査から帰国した畠山好伸が就き、同じくアメリカから帰国した石川栄次郎が建設次長となった[13]。
工事の様相
建設工事は積極的に機械化された[13]。資材輸送の手段として、最寄の中央本線大井駅(現・恵那駅)とダム建設地左岸を結ぶ全長4.3キロメートルの専用鉄道を敷設し、木曽川を横断する索道2本を架設した[7]。鉄道終端とダムの間にある傾斜地には砕石・コンクリート工場を設置[7]。コンクリート打込み作業は、4台のミキサーにより生コンクリートを練りだしてトロッコに積み込み、それをガソリン機関車牽引でダム上部に架橋されたトレッスル橋上へ運搬、そこからシュートを利用して流し込み、下でケーブルクレーンによって玉石を打ちこむ、という流れであった[13]。これらのミキサー・機関車・ケーブルクレーンや蒸気ショベルはアメリカからの輸入品である[13]。これらの機械化作業により1か月に最大1万2,300立方メートルのコンクリート打設が施工された[13]。
工事中、度重なる洪水被害が工事の支障となり、さらに金融面でも1923年(大正12年)9月の関東大震災で金融梗塞が生じた[7]。このころ、大同電力では大井ダム工事に要する追加資金、次に着手した落合ダム工事の資金、短期社債の借り換えなどで多額の資金を必要としていたことから、翌1924年(大正13年)5月に外債発行を決定する[14]。そして社長の福澤桃介自ら渡米して交渉を重ね、同年8月外債1500万ドルの発行を実現させた[14]。
着工から2年1か月後の1924年8月16日、大井ダムの湛水が開始され、同年11月28日に大井発電所の運転が開始された[8]。大井発電所の主要機器はすべてアメリカからの輸入品であり、水車はアリス・チャルマーズ製、発電機はゼネラル・エレクトリック (GE) 製、変圧器はウェスティングハウス・エレクトリック製のものが設置されている[7]。当初の発電所出力は4万2,900キロワットで、前年竣工の読書発電所 (出力4万700キロワット)を抜いて当時日本最大の発電所となった[15]。送電線は木曽川筋から大阪府へと至る「大阪送電線」が接続し[16]、大井発電所の発生電力は須原・読書両発電所の発生電力とともに関西地方へと送電された[7]。
建設後の大井発電所の変遷
大井発電所の使用水量は、建設当初最大4,500立方尺毎秒(125.22立方メートル毎秒)に設定されていたが、設備能力に余裕があるため5,000立方尺毎秒(139.13立方メートル毎秒)へと引き上げる許可を得て[12]、1938年(昭和13年)9月に発電所出力を4万8,000キロワットへと増強した[17]。
翌1939年(昭和14年)4月1日、電力国家管理の担い手として国策電力会社日本発送電が設立された。同社設立に関係して、大同電力は「電力管理に伴う社債処理に関する法律」第4条・第5条の適用による日本発送電への社債元利支払い義務継承ならびに社債担保電力設備(工場財団所属電力設備)の強制買収を前年12月に政府より通知される[18]。買収対象には大井発電所など14か所の水力発電所が含まれており、これらは日本発送電設立の同日に同社へと継承された[19]。
太平洋戦争後、1951年(昭和26年)5月1日実施の電気事業再編成では、大井発電所はほかの木曽川の発電所とともに供給区域外ながら関西電力へと継承された[20]。日本発送電設備の帰属先を発生電力の主消費地によって決定するという「潮流主義」の原則に基づき、木曽川筋の発電所が関西電力所管となったことによる[21]。
関西電力時代、1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)にかけて、大井発電所では水車が4台とも三菱重工業製のものに更新された[13]。更新前のアリス・チャルマーズ製水車4台のうち1台は、1968年に名古屋市科学館で開催された「電力王・福沢桃介生誕100年展」を機に同科学館へと寄贈されている[13]。また水圧鉄管についても1977年(昭和52年)に、川崎造船所製のリベット接合管から三菱重工業製の全溶接管へと更新された[13]。さらに1997年(平成9年)11月にはリフレッシュ工事が竣工し、発電所出力が4,000キロワット引き上げられた[22]。以後発電所出力は5万2,000キロワットとなっている。
新大井発電所建設
木曽川水系上流部の王滝川では、1943年(昭和18年)に三浦ダム、1961年(昭和36年)には牧尾ダムが完成して2つの貯水池が出現した[8]。その結果、木曽川の河川流量を年間を通じて調整できるようになり、下流部における流況が改善された[8]。従って大井ダム地点においても、流況は建設当初に比べ大きく変化した[8]。具体的な値で見ると、大井発電所の最大使用水量(139.13立方メートル毎秒)は、昭和40年代の10か年平均流況では豊水量を下回る110日流量(年間を通して110日はこれを下回らない流量)にほぼ相当しており、まだ発電する余地があったのである[8]。
関西電力では、1971年(昭和46年)の新丸山発電所建設以降木曽川開発を中断していたが、オイルショックを機に新規水力開発の経済性が相対的に向上し、また純国産エネルギーとして水力発電を見直す機運が高まったことから、1970年代後半より木曽川開発を再開した[23]。木曽川本川では、大井ダム上流に位置する既設落合ダムにて新落合発電所が1980年(昭和55年)に運転を開始[23]。次いで大井ダムの余力を利用する新大井発電所の計画が立てられ、1981年(昭和56年)3月2日新大井発電所建設所の発足とともに工事が開始された[8]。
着工から2年後の1983年(昭和58年)4月27日より、新大井発電所は出力3万2,000キロワットにて運転を開始した[23]。新発電所建設の結果、大井ダムにおける河水利用率は72パーセントから84パーセントへと上昇している[23]。
周辺
大井ダムによって誕生した人造湖によって、「恵那峡」という新たなる名勝が誕生した。10キロメートル以上にわたって奇岩・絶壁が湖の両岸にそびえ、春の桜や秋の紅葉の時期の景勝で知られる。下流の丸山ダムによってできた「丸山蘇水湖」とともに飛騨木曽川国定公園に指定されている。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターより、恵那市の推薦を得てダム湖百選に指定されている。
大井発電所と新大井発電所はダム直下右岸に並んでいる。左岸にも小さな発電所があるが、これは中部電力の奥戸発電所である。大井ダム直下で木曽川へ合流する阿木川の上流で取水し、最大500キロワットの電力を発生するもので、大井ダムから取水するものではない。
-
奥戸発電所
ダムと鉄道
大同電力が大井地点の水利権を得た際、同社はその付帯条件として岐阜県より木材運搬施設の整備を命ぜられた[24]。当時、付知町を中心に広がる裏木曽の御料林では、伐採した木材を付知川と木曽川本川を使って名古屋方面へと流す「川狩り」が盛んであった[24]。木曽川を横断する大井ダムが完成すればこうした材木輸送は不可能となるため、付知川の木材陸揚設備と、これと中央本線坂下駅ないし中津川駅との間を連絡する軽便鉄道の整備が県より要求されたのである[24]。
木材運搬施設の整備はダム工事に伴う仮締切工事までに完成させる必要があったが、単に裏木曽御料林からの木材輸送を行うのでは不経済であるため、地元と協議の上で一般旅客・貨物を扱う地方鉄道法による鉄道にその役割を担わせることとなり[24]、大同電力は地元有志その他との折半出資によって1922年(大正11年)2月北恵那鉄道(現・北恵那交通)を設立[25]。そして同社を通じて中津川から下付知に至る22.1キロメートルの鉄道路線を1924年(大正13年)8月に完成させ、さらに自社負担で終点下付知付近の付知川に木材陸揚場を整備した[25]。こうして木材運搬施設が整備されたが、陸揚場は後に森林鉄道が整備されたため使用されなくなり[25]、鉄道路線も1978年(昭和53年)に廃止されて現存しない。
大同電力が出資する北恵那鉄道は、大同電力が大井ダム建設資材輸送用に敷設した専用鉄道も譲り受け、1928年(昭和3年)12月より地方鉄道の「大井線」として営業を開始した[25]。この路線は中央本線大井駅と大井ダム左岸、天端より約30メートル上の地点を結び、全長は4.3キロメートルであった[7]。だが営業は4年間のみで、1932年(昭和7年)9月に大同電力において他に流用するためとして廃止された[25]。
脚注
- ^ 大井ダム湖とその周辺の景観とを総じて「恵那峡」と称している。
- ^ a b c d e 「水力発電所データベース 発電所詳細表示 大井」 一般社団法人電力土木技術協会、2018年7月10日閲覧
- ^ a b 「水力発電所データベース 発電所詳細表示 新大井」 一般社団法人電力土木技術協会、2018年7月10日閲覧
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参考文献
- 書籍
- 記事
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