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「第七艦隊 (日本海軍)」の版間の差分

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'''第七艦隊'''(だいななかんたい)は[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の艦隊の一つ[[太平洋戦争]]末期に、西内海地域の[[関門海峡|関門]]、[[対馬峡|対馬]]、[[朝鮮海峡|朝鮮]]各海峡防衛と船舶安全輸送確保為に編制された艦隊であ艦隊司令部は[[福岡県]][[北九州港#門司港地区|門司]]に設置された。
'''第七艦隊'''(だいななかんたい)は[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の艦隊の一つであり、[[太平洋戦争]]末期の1945年4月に編制された。1945年3月末からアメリカ軍が[[九州]]沿に大量の[[機雷]]を投下したで、それへ対抗策として急遽編制された艦隊であった。九州周辺の海上輸送路の防衛が主任務にされ、もっぱら[[掃海|掃海活動]]に従事した。


日本海軍の中で最後に編制された艦隊組織になったが、第七を飛び越して[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]、[[第九艦隊 (日本海軍)|第九艦隊]]、[[第十方面艦隊]]がすでに存在していた。一説には[[南遣艦隊]]が第七艦隊扱いされていたので最後まで第七が空席になっていたという。
== 概要 ==
== 概要 ==
第七艦隊の編成は、[[1945年]](昭和20年)3月末に[[アメリカ軍]]よる[[機雷]]攻撃([[飢餓作戦]])が開始されたこと、急遽行われた。これは、西内海を防備範囲とするはずの[[呉鎮守府]]に大規模な航空機雷敷設に対処する能力無いことから採られた措置である。
[[1945年]](昭和20年)3月末からアメリカ軍は、西日本の海上輸送を機能不全追い込むための[[飢餓作戦]]開始し、九州周辺の海上大量の[[機雷]]をばら巻いていた。管轄する広島県[[呉市]]の[[呉鎮守府]]に大規模な[[掃海]]部門が無かったので、これを代替するための第七艦隊急遽編制されることになり、翌4月に福岡県[[北九州港#門司港地区|門司]]に艦隊司令部が置かれた。[[関門海峡]]、[[対馬海峡]]、[[豊予海峡]]、[[朝鮮海峡]]などを管轄にし、機雷を除去す[[掃海]]活動と[[哨戒艦艇|哨戒]]活動に従事した


形式的には[[連合艦隊]]の所属であ、任務の性質上、実質的には[[海上護衛総司令部]]の指揮下にあった。ため、初代司令長官は、[[海上護衛隊#第一護衛艦隊|第一護衛艦隊]]司令長官で海上護衛総司令部参謀長を務めたこともある[[岸福治]][[中将]]が兼任し、じく参謀長の[[後藤光太郎]]少将も第一護衛艦隊参謀長と兼任だった<ref group="注釈">後に第一護衛艦隊の司令部要員は[[舞鶴鎮守府]]司令長官ほかが兼任に変わる。</ref>。
当初第一護衛艦隊に担当させる案と、[[海上護衛総司令部]]下の第三護衛艦隊を新編制する計画が出されていたが、任務上の重要性から士気を上げる為に、[[連合艦隊]]正規艦隊にする事が決まり、空席になっていた第七艦隊として発足した。表向きは[[連合艦隊]]所属であったが、実には[[海上護衛総司令部]]の指揮下にあった。編制時の初代司令長官と参謀長は、[[海上護衛隊#第一護衛艦隊|第一護衛艦隊]]司令長官[[岸福治]]中将同参謀長の[[後藤光太郎]]少将がそれぞれ兼任していた<ref group="注釈">後に第一護衛艦隊の司令部要員は[[舞鶴鎮守府]]司令長官ほかが兼任に変わる。</ref>。


== 編制 ==
== 編制 ==
1945年6月1日時点
1945年6月1日時点

*第18戦隊:[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]・[[高栄丸]]・永城丸(※1945年6月5日に解隊、3隻とも第七艦隊附属となる)
司令部附属
*附属:[[丁型海防艦|第102・104・106・154海防艦]]

**下関防備隊
* [[丁型海防艦|第102海防艦]]
* 第104海防艦
* 第106海防艦
* 第154海防艦

第18戦隊(1945年6月5日に解隊され3隻とも司令部附属となる)

* 機雷敷設艦 [[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]
* 機雷敷設艦 [[高栄丸]]
* 機雷敷設艦 永城丸

下関防備隊


== 歴代司令長官 ==
== 歴代司令長官 ==
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* 日本近代史料研究会(編) 『日本陸海軍の制度・組織・人事』 [[東京大学出版会]]、1971年。
* 日本近代史料研究会(編) 『日本陸海軍の制度・組織・人事』 [[東京大学出版会]]、1971年。
* [[大井篤]] 「海上護衛総司令部」『[[歴史と人物 (雑誌)|歴史と人物]]』昭和60年冬号、中央公論社、1985年。
* [[大井篤]] 「海上護衛総司令部」『[[歴史と人物 (雑誌)|歴史と人物]]』昭和60年冬号、中央公論社、1985年。
* [http://www.geocities.jp/boat_sparrowhawk/ 日本海軍人事手帳(?)]
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2022年5月14日 (土) 18:50時点における最新版

第七艦隊(だいななかんたい)は旧日本海軍の艦隊の一つであり、太平洋戦争末期の1945年4月に編制された。1945年3月末からアメリカ軍が九州沿海に大量の機雷を投下したので、それへの対抗策として急遽編制された艦隊であった。九州周辺の海上輸送路の防衛が主任務にされ、もっぱら掃海活動に従事した。

日本海軍の中で最後に編制された艦隊組織になったが、第七を飛び越して第八艦隊第九艦隊第十方面艦隊がすでに存在していた。一説には南遣艦隊が第七艦隊扱いされていたので最後まで第七が空席になっていたという。

概要

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1945年(昭和20年)3月末からアメリカ軍は、西日本の海上輸送を機能不全に追い込むための飢餓作戦を開始し、九州周辺の海上に大量の機雷をばら巻いていた。同海域を管轄する広島県呉市呉鎮守府には大規模な掃海部門が無かったので、これを代替するための第七艦隊が急遽編制されることになり、翌4月に福岡県門司に艦隊司令部が置かれた。関門海峡対馬海峡豊予海峡朝鮮海峡などを管轄にし、機雷を除去する掃海活動と哨戒活動に従事した。

当初は第一護衛艦隊に担当させる案と、海上護衛総司令部下の第三護衛艦隊を新編制する計画が出されていたが、任務上の重要性から士気を上げる為に、連合艦隊下の正規艦隊にする事が決まり、空席になっていた第七艦隊として発足した。表向きは連合艦隊所属であったが、実際には海上護衛総司令部の指揮下にあった。編制時の初代司令長官と参謀長は、第一護衛艦隊司令長官の岸福治中将と同参謀長の後藤光太郎少将がそれぞれ兼任していた[注釈 1]

編制

[編集]

1945年6月1日時点

司令部附属

第18戦隊(1945年6月5日に解隊され3隻とも司令部附属となる)

  • 機雷敷設艦 常磐
  • 機雷敷設艦 高栄丸
  • 機雷敷設艦 永城丸

下関防備隊

歴代司令長官

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  1. 岸福治中将:1945年4月15日 - 1945年8月20日
  2. 大森仙太郎中将:1945年8月20日 - 1945年9月15日

歴代参謀長

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  1. 後藤光太郎少将:1945年4月15日 - 1945年7月10日
  2. 藤原喜代間少将:1945年7月10日 - 1945年9月15日

脚注

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注釈

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  1. ^ 後に第一護衛艦隊の司令部要員は舞鶴鎮守府司令長官ほかが兼任に変わる。

出典

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参考文献

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