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<nowiki>#</nowiki>: 国有化と同時に廃止<!--新廃止国有化よりも先では??-->
<nowiki>#</nowiki>: 新田駅は苦竹駅の新設伴い廃止<ref name="仙台市史特9-291"/>。<br/><nowiki>#</nowiki>: 富山駅は国有化の際に廃止。
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'''宮城電気鉄道'''(みやぎでんきてつどう)は、かつて[[宮城県]]に存在した[[鉄道事業者]]である。略称は'''宮電'''。[[1922年]]([[大正]]11年)に設立され、現在の[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[仙石線]]にあたる路線を[[1925年]](大正14年)から順次開通させが、[[1944年]]([[昭和]]19年)に[[戦時買収私鉄]]に指定され国有化された
'''宮城電気鉄道'''(みやぎでんきてつどう)は、かつて[[宮城県]]に存在した[[鉄道事業者]]である。略称は'''宮電'''。現在の[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[仙石線]]にあたる路線を運営していた。元々は商社の[[高田商会]]が余剰電力を活用するために計画した鉄道で、[[1922年]]([[大正]]11年)に設立された。しかし、鉄道の建設中に高田商会はこの鉄道事業から手を引き、それ以後は宮城電気鉄道が独自に資金を調達して鉄道の建設を続けた。[[1925年]](大正14年)に[[仙台駅 (宮城電気鉄道)|仙台駅]]から[[西塩釜駅]]の区間が開業し、[[1928年]](昭和3年)に[[石巻駅]]までの全線が開通。戦中の[[1944年]]([[昭和]]19年)に国有化されて仙石線となった([[戦時買収私鉄]]


== 沿革 ==
== 歴史 ==
{{座標一覧}}
{{座標一覧}}
=== 発足までの経緯 ===
=== 高田商会と余剰電力 ===
高田商会は1881年([[明治]]14年)に貿易会社として設立された。創業者は[[高田慎蔵]]である。後に高田商会は宮城県[[栗原郡]][[鶯沢町|鶯沢村]](現在の[[栗原市]])の[[細倉鉱山]]<ref group="注">細倉鉱山は1987年(昭和62年)に閉山した。鉱山跡を活用したテーマパーク「[[細倉マインパーク]]」が1990年(平成2年)に開業した。({{ウィキ座標|38|48|34.7|N|140|54|2.1|E|region:JP|地図|name=細倉鉱山(高田鉱山)/細倉マインパーク}})</ref>の経営にも関わるようになり、これが高田商会の宮城県との関わりの端緒とされる<ref name="石巻の歴史2-326-327">『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)326-327頁。</ref>。高田商会の資本参加により細倉鉱山は高田鉱山とも呼ばれるようになった<ref>[http://www.hosokura.co.jp/corporate2.html 沿革](細倉金属鉱業)</ref>。この鉱山の所長だった山本豊次こそが、後に宮城電気鉄道の社長となる人物である<ref name="石巻の歴史5-783-786"/>。
[[1914年]][[7月28日]][[ヨーロッパ]]を主戦場とする[[第一次世界大戦]]が始まると、[[日本]]一時的な[[不景気]]になったものの、[[1915年]][[大正]]4年)下半期から商品[[輸出]]により「[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]」と呼ばれる[[好景気]]となった。同1915年、[[東京府]](現・[[東京都]])の[[高田商会]]が[[宮城県]][[栗原郡]][[鶯沢町|鶯沢村]](現・[[栗原市]])に所有していた高田鉱山([[細倉鉱山]])<ref group="※">細倉鉱山は、1898年(明治31年)から1928年(昭和3年)まで高田鉱山と呼ばれた。1987年(昭和62年)閉山。1990年(平成2年)以降は[[細倉マインパーク]]({{ウィキ座標|38|48|34.7|N|140|54|2.1|E|region:JP|地図|name=細倉鉱山(高田鉱山)→ 細倉マインパーク}})となっている。</ref><ref>[http://www.hosokura.co.jp/corporate2.html 沿革](細倉金属鉱業)</ref>では、[[軍需産業|軍用需要]]の高まりをみせていた[[亜鉛]]の[[電気分解]]に山本豊次所長が成功し<ref name="HIM">{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/press/20071130005/isangun.pdf 近代化産業遺産群33]}}([[経済産業省]])</ref>、翌[[1916年]](大正5年)には、猪苗代第一発電所<ref group="">1912年(明治45年)建設開始、1914年(大正3年)10月運転開始。当時の出力は37,000[[キロワット|kW]]。現在は、[[東京電力]]猪苗代第一発電所({{ウィキ座標|37|32|38.5|N|140|0|6.6|E|region:JP|地図|name=猪苗代第一発電所}})となっている。</ref><ref>[http://www.tepco.co.jp/life/elect-dict/file/zz_b09-j.html 東京電力の水力発電所一覧(福島県)(平成19年7月現在)](東京電力)</ref><ref name="bandai">[http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10051.101.bandai/html/00106.html わたしたちのきょう土 磐梯町 -106/116page](磐梯町教育委員会)</ref>および建設中(当時)の猪苗代第二発電所<ref group="">1914年(大正3年)建設開始、1918年(大正7年)6月運転開始。現在は東京電力猪苗代第二発電所({{ウィキ座標|37|33|9.1|N|139|59|2.8|E|region:JP|地図|name=猪苗代第二発電所}})となっている。</ref><ref name="bandai"/>(両発電所とも[[水力発電]])に隣接する[[福島県]][[耶麻郡]]磐梯村(現・[[磐梯町]])に設置した高田商会大寺精錬所<ref group="">1928年9月に[[日本曹達]]と合併し、現在は日本曹達の100%子会社である日曹金属化学の会津工場({{ウィキ座標|37|33|20.8|N|139|59|22.2|E|region:JP|地図|name=高田商会大寺精錬所(現・日曹金属化学会津工場)}})となっている。</ref><ref>[http://www.nmcc.co.jp/comp_frm.html 会社概要](日曹金属化学)</ref><ref>{{PDFlink|[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/133938/1/eca1301-2_021.pdf 日本曹達の工場展開 -日曹コンツェルン形成史(2)-]}}([[京都大学]])</ref>にて亜鉛の[[湿式精錬]]開始た<ref name="bandai"/><ref name="FukushimaUniv">{{PDFlink|[http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1350/1/6-84.pdf 東北地方における電気事業の展開と工業の発達 -1950年以前の場合を主として-]}}([[福島大学]])</ref>。鉱山亜鉛生産は[[1917年]](大正6年)および[[1918年]](大正7年)に最盛期を迎えたため同商会は亜鉛輸送を目的に鉱山から東北本線・[[石越駅]]までを結ぶ栗原軌道([[くりはら田園鉄道]])を設立した<ref name="HIM"/>。た、1918年(大正7年)に猪苗代から東京府[[東京市]](現・東京都)まで[[電線路|高圧送電線]]が完成し<ref name="FukushimaUniv"/>、[[帝都]]の電力需要をまかなうことになったため、商会は代わりに鉱山近くの江合水電との間で発電開始後10年間の電力買取契約をした<ref name="TohokuUniv">{{PDFlink|[http://aoba-trfc.sakura.ne.jp/contents/sp/gakusaiaoba/pdf/gakusaiaoba2012.pdf 研究テーマ:仙石線]}}([[東北大学]]鉄道研究会)</ref>。しかし、1918年[[11月11日]]に第一次世界大戦が終結すると亜鉛の需要は激減、その一方で[[1919年]](大正8年)に江合水電からの電力供給体制が整ってしまう<ref name="TohokuUniv"/>。


1914年([[大正]]3年)7月28日に[[第一次世界大戦]]が始まると、日本は1915年(大正4年)下半期から商品輸出の影響で「[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]」と呼ばれる好景気となった。この年、高田鉱山では、[[軍需産業|軍用需要]]の高まりをみせていた[[亜鉛]]の[[電気分解]]に山本豊次が成功し<ref name="HIM">{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/press/20071130005/isangun.pdf 近代化産業遺産群33]}}([[経済産業省]])</ref>1916年(大正5年)に猪苗代第一発電所<ref group="">水力発電。1912年(明治45年)建設開始、1914年(大正3年)10月運転開始。当時の出力は3万7000[[キロワット]]。現在は、[[東京電力]]猪苗代第一発電所({{ウィキ座標|37|32|38.5|N|140|0|6.6|E|region:JP|地図|name=猪苗代第一発電所}})となっている。</ref><ref>[http://www.tepco.co.jp/life/elect-dict/file/zz_b09-j.html 東京電力の水力発電所一覧(福島県)(平成19年7月現在)](東京電力)</ref><ref name="bandai">[http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10051.101.bandai/html/00106.html わたしたちのきょう土 磐梯町 -106/116page](磐梯町教育委員会)</ref>および当時建設中の猪苗代第二発電所<ref group="">水力発電。1914年(大正3年)建設開始、1918年(大正7年)6月運転開始。現在は東京電力猪苗代第二発電所({{ウィキ座標|37|33|9.1|N|139|59|2.8|E|region:JP|地図|name=猪苗代第二発電所}})となっている。</ref><ref name="bandai"/>に隣接する[[福島県]][[耶麻郡]][[磐梯町|磐梯村]]高田商会大寺精錬所<ref group="">1928年9月に[[日本曹達]]と合併し、現在は日本曹達の100%子会社である日曹金属化学の会津工場({{ウィキ座標|37|33|20.8|N|139|59|22.2|E|region:JP|地図|name=高田商会大寺精錬所(現・日曹金属化学会津工場)}})となっている。</ref><ref>[http://www.nmcc.co.jp/comp_frm.html 会社概要](日曹金属化学)</ref><ref>{{PDFlink|[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/133938/1/eca1301-2_021.pdf 日本曹達の工場展開 -日曹コンツェルン形成史(2)-]}}([[京都大学]])</ref>亜鉛の[[湿式精錬]]開始された<ref name="bandai"/><ref name="FukushimaUniv">{{PDFlink|[http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1350/1/6-84.pdf 東北地方における電気事業の展開と工業の発達 -1950年以前の場合を主として-]}}([[福島大学]])</ref>。高田鉱山においても亜鉛生産が行われ、1917年(大正6年)および1918年(大正7年)に最盛期を迎えた。<!-- 高田商会は亜鉛輸送を目的に高田鉱山から東北本線・[[石越駅]]までを結ぶ栗原軌道([[くりはら田園鉄道]])を設立した<ref name="HIM"/>。(これは不正確かと。高田鉱山と石越の間に軌道があっのは事実ですがこれは鉱山専用の馬車軌道で、その運営は地元の人が行っていたみたいです。これを活用して一般の鉄道路線にしたのが栗原軌道なのですが、その発起人の一人として山本豊次が出てくるものの、高田商会の関与を嫌う逸話が紹介されており、高田商会がこの軌道会社の発足を主導していたとは資料からは読めませんでした。以上は『宮城懸史5』『サヨナラ!くりでん 栗原田園鉄道公式メモリアルブック』によります。) -->1918年(大正7年)に猪苗代から当時の東京府[[東京市]]まで[[電線路|高圧送電線]]が完成し<ref name="FukushimaUniv"/>、[[帝都]]の電力需要をまかなうことになったため、高田商会はこの代わりに高田鉱山近くの江合水電との間で発電開始後10年間の電力買取契約をした<ref name="TohokuUniv">{{PDFlink|[http://aoba-trfc.sakura.ne.jp/contents/sp/gakusaiaoba/pdf/gakusaiaoba2012.pdf 研究テーマ:仙石線]}}([[東北大学]]鉄道研究会)</ref>。
大量の余剰電力を抱え込むことになった同商会の高田釜吉や山本らは、仙台 - 松島間の高規格電気鉄道路線敷設を行うことを発案した。[[仙台市|仙台]]から[[日本三景]]・[[松島]]へは、[[日本鉄道]]本線([[1909年]]に[[東北本線]]に改称)の開通により[[1887年]]([[明治]]20年)に初代の塩竈駅<ref group="※">後の[[塩釜線]]・[[塩釜埠頭駅]]({{ウィキ座標|38|19|8.4|N|141|1|34.1|E|region:JP|地図|name=(初代)塩竈駅 → 塩釜港駅 → (廃止) → 塩釜埠頭駅 → 廃止(跡地は「イオンタウン塩釜ショッピングセンター」)}})</ref>が、[[1890年]]([[明治]]23年)に初代の[[松島駅]]<ref group="※">初代の松島駅の位置({{ウィキ座標|38|23|57.4|N|141|3|22.2|E|region:JP|地図|name=(初代)松島駅(1890年~1962年)}})</ref>が開業していたが、松島観光の中心地の[[五大堂]]や[[瑞巌寺]]からは両駅とも離れていた。国有鉄道の運営と私設鉄道の監督を当時行っていた[[鉄道省]]では、仙台から[[塩竈市|塩竈]]辺りまで東北本線と並行する計画に当初難色を示したと言われているが、結局は免許を交付した。それによって[[1922年]](大正11年)に設立されたのが'''宮城電気鉄道'''であった。


しかし、1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦が終結すると、亜鉛の需要は激減する一方で、1919年(大正8年)に江合水電からの電力供給体制が整い<ref name="TohokuUniv"/>、亜鉛の精錬用だった電力が過剰に余るようになった。山本は1920年(大正9年)に宮城送電興業と旭紡績の二つの会社を設立して余剰電力の約8割を消費することができたが、余剰電力の約2割に当たる700キロワットの消費先がさらに必要だった<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編785頁。</ref>。
=== 建設に際して ===
[[ファイル:Sendai map circa 1930.PNG|thumb|right|250px|<!--地図にある旧字体が読めない人のため、本文に旧字体を使用し、当用漢字との対応は内部リンクで補完した。-->[[1927年]]([[昭和]]2年)頃の[[仙台市|仙臺市]]および近郊[[地図]]。<br />宮城電鐵が「[[製糸業|製糸]]場<ref group="※" name=katakura>片倉仙台製糸所とも呼ばれた。[[1905年]]操業開始、[[1956年]]閉鎖。</ref>」を避けて北に迂回し、[[宮城野撓曲]](地図番号30.[[歩兵第4連隊|步兵第四聯隊]]營、31.[[釈迦|釋迦]]堂、32.[[榴岡公園]]などがある[[撓曲]][[丘陵]])を避けて南に迂回している。]]
設立に貢献した高田商会が開業前に倒産したことや、[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]に発生した[[大正関東地震]]([[関東大震災]])の影響で資材搬入が遅れるなど、建設時からその道のりは険しいものであった。また、仙台駅から[[陸前原ノ町駅]]付近までは、仙台駅の東側に敷地[[面積]]2万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]で広がる[[片倉工業|片倉]][[製糸業|製糸]]工場<ref group="※" name=katakura/>を避けて北側に迂回し、続いて[[宮城野撓曲]]を避けて南側に迂回したため<!--苦しい財政状況から用地買収に対する費用を抑えたこともあって-->、曲線が多い蛇行[[線形 (路線)|線形]]になった。


=== 鉄道路線の建設 ===
一方[[鉄道の電化|電化方式]]には日本では1922年(大正11年)に[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](現[[近鉄南大阪線]])で開始されたばかりの[[直流電化|直流1500V]]用い、[[線路 (鉄道)|レール]]にはその当時における国鉄幹線級の37kg、さらに踏切などではそれを上回る50kgのもの使用た。加えて[[鉄道信号機|色灯式自動信号機]]採用するなど、設備に関しては一流といってよいほど近代的な鉄道となっていた。
この残りの余剰電力を消費するために計画されたのが宮城電気鉄道だった。当初の計画では、宮城県[[仙台市]]の宮城県庁付近を起点として、当時の[[宮城郡]][[原町 (宮城県)|原町]]、[[岩切村]]、[[高砂村]]、[[多賀城市|多賀城村]]、[[塩竈市|塩竈町]]を経て[[松島町|松島村]]に至る鉄道路線だった<ref name="石巻の歴史5-781-783">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編781-783頁。</ref><ref name="仙台市史7-321-322">『仙台市史』通史編7(近代2)321-322頁。</ref>。建設費は270万円と見込まれていた。収支の概算では仙台と塩竈の間の旅客が主要な利用客と見なされ、貨物については塩竈と松島の間は一切考慮されていなかった<ref name="石巻の歴史5-781-783"/>。


この鉄道の免許申請は1921年(大正10年)5月に行われた。当初の発起人には高田釜吉<ref group="注">釜吉は高田商会の創業者高田慎蔵の養子である。</ref>や山本豊次など、高田商会の関係者10名が名を連ねた。『松島町史』では、宮城電気鉄道の発起人として伊沢平左衛門、中村梅三、松良善熙、遊佐寿助、大宮司雅之輔、齋藤宗蔵、西条芳三郎、高城畊造が挙げられているが<ref>『松島町史』通史編1、676頁。</ref>、これについては宮城電気鉄道の計画の進展に伴って発起人が高田商会の関係者から地元の有力者に移されていった結果ではないだろうかと『石巻の歴史』は推し量っている。また、翌年に200名近くの発起人が追加された<ref>『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)328頁。</ref>。この鉄道計画は1921年(大正10年)12月に許可され<ref name="石巻の歴史5-781-783"/>、これから間もない1922年(大正11年)3月に松島から石巻までの区間の追加申請が行われた<ref name="石巻の歴史5-783-786">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編783-786頁。</ref>。この路線の延長は、当初から構想としてあったものとも<ref name="石巻の歴史5-783-786"/>、石巻の実業家の働きかけの結果とも言われている<ref>『塩竈市史2』本編2、288頁。</ref>。石巻への延長の許可は1923年(大正12年)3月におりた<ref name="石巻の歴史5-783-786"/>。一方で、宮城県庁から省線の仙台駅までの区間は、[[仙台市電]]の建設計画に影響を受けて断念された<ref name="仙台市史7-321-322"/>。
=== 日本で最初の地下鉄道 ===
{{Main|仙台駅 (宮城電気鉄道)}}
{{|
[[ファイル:Sendai station 2nd main building early Showa era.jpg|thumb|none|宮電仙台駅の地上駅舎(写真左)と、国鉄仙台駅駅舎(写真右)]]
[[ファイル:Underground Platform Sendai Station 1920s.jpg|thumb|none|宮電仙台駅 地下ホーム (1920年代)]]
}}
[[1925年]](大正14年)に開業した[[仙台駅 (宮城電気鉄道)|宮電・仙台駅]]({{ウィキ座標|38|15|40.8|N|140|52|54.8|E|region:JP|地図|name=宮電・仙台駅(地下駅)のおおよその位置}})は、同駅における[[東北本線]]との交差のために地下駅として建設された。それに伴い、仙台駅に至る数百メートルの区間地下路線となっていた。この開業は、日本初の地下鉄とされる東京地下鉄道(現在の[[東京地下鉄]][[東京メトロ銀座線|銀座線]])開通よりも2年半早く、また郊外電車の地下乗り入れとしても神戸有馬電気鉄道(現在の[[神戸電鉄]][[神戸電鉄有馬線|有馬線]])の湊川地下線開通よりも3年早いものであった。


鉄道会社の創設のために10万株が募集された。発起人引き受け分が5万560株、賛成人引き受け分が4万9440株、株主は合計2976人となった<ref name="石巻の歴史5-783-786"/>。1922年(大正11年)9月、[[仙台市民会館|仙台市公会堂]]で宮城電気鉄道の創立総会が行われた。ここで、社長に山本豊次が選ばれ、相談役に高田釜吉が就いた。資本金は500万円だった<ref name="石巻の歴史5-783-786"/><ref>『塩竈市史2』本編2、289頁。</ref>。当時、松島には[[東北本線]]の松島駅(初代)<ref group="注">当時の松島駅は現在の松島駅より内陸側にあった。({{ウィキ座標|38|23|57.4|N|141|3|22.2|E|region:JP|地図|name=(初代)松島駅(1890年~1962年)}})</ref>があり、また[[塩竈市|塩竈]]には[[塩釜線|塩竈線]]の塩竈駅<ref group="注">当時の塩竈駅は現在の塩釜駅とは異なる駅で、塩竈港の近くにあった。後に[[塩釜埠頭駅]]となった。({{ウィキ座標|38|19|8.4|N|141|1|34.1|E|region:JP|地図|name=(初代)塩竈駅 → 塩釜港駅 → (廃止) → 塩釜埠頭駅 → 廃止(跡地は「イオンタウン塩釜ショッピングセンター」)}})</ref>があって、それぞれ鉄道で仙台駅と結ばれていたが、山本は国有の幹線鉄道とは異なる都市型の近郊鉄道を目指していたとされる<ref name="石巻の歴史5-783-786"/>。
この地下駅と地下路線の設置は、高田商会が開業前に招聘した外国人技師を現場に案内し、駅を仙台駅東口に設ける計画を示したところ「By tube!」(地下鉄で!)と西口までの線路延伸を強く提案したことが契機で、さらに将来の県庁附近への延伸も視野に入れたものであった。鉄道省としては経験・実績がなく一度は躊躇したものの、新規技術の提案として認めた。結果的にトンネル掘削をした場所は地盤が固すぎる位で、鉄道省の心配した落盤事故は生じ得なかったが、逆に宮城電気鉄道側にしては、予想外に工事費がかさみ苦しい財政状況もあって、駅前のターミナルまで掘り本格的地下駅舎を作る予算がなくなった。やむを得ず、このトンネルが複線断面であることを逆手にとり一線とそのプラットホームをトンネルに設けた結果、地下駅の最初の形態がトンネルの中という形に落ち着いた。


こうして鉄道の敷設に取り掛かることになった宮城電気鉄道だったが、その前途は多難だった。1923年(大正12年)3月、高田鉱山で大火災が発生し、同年9月1日には[[大正関東地震]]([[関東大震災]])が発生した。この影響で宮城電気鉄道の後ろ盾だった高田商会の経営は傾き、宮城県の事業から手を引いた。また、東京の株主からの払い込みも滞った<ref>『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)325-326頁。</ref>。資材の搬入も遅れた<ref name="塩竈市史2-291-292">『塩竈市史2』本編2、291-292頁。</ref>。こうした困難な状況の中で、山本は宮城電気鉄道に残り、鉄道の建設に専念する道を選んだ。高田商会の撤退で資金繰りに困った宮城電気鉄道はまず[[富士銀行|安田銀行]]に相談したが、これは結実しなかった。宮城電気鉄道に救いの手を差し伸べたのは[[日本生命保険]]の[[弘世助太郎]]で<ref name="塩竈市史2-291-292"/>、日本生命保険は宮城電気鉄道に100万円を融資した。ただしこれは、開業後の1926年(大正15年)に仙台駅から西塩釜駅までの区間を担保として行われたものである。宮城電気鉄道は石巻までの全線開通までに、やはり路線自体を担保に日本生命保険から合計300万円を借り入れた<ref name="石巻の歴史5-783-786"/>。
=== 開業と副業 ===
[[File:1930s Japan Travel Poster - 02.jpg|thumb|[[松島]]行きの旅客で宮電と競合する[[東北本線]]を運行する[[鉄道省]]仙台鉄道局[[東日本旅客鉄道仙台支社]]のポスター(1930年代)。]]
[[1925年]](大正14年)に[[仙台駅 (宮城電気鉄道)|宮電仙台]] - [[西塩釜駅|西塩釜]]間でまず営業を開始し、[[1927年]]([[昭和]]2年)に松島公園駅(後の[[松島海岸駅]])まで、[[1928年]](昭和3年)[[石巻駅]]までが開業、全通となった。


=== 開業とその後の経緯 ===
前述のような財政状況や、[[昭和恐慌]]による乗客減少も伴って、宮電の経営は当初から苦境に立たされた。無[[配当]]の状況が[[1932年]](昭和7年)まで継続したと言われている。
[[ファイル:Sendai station 2nd main building early Showa era.jpg|thumb|right|250px|宮電仙台駅の地上駅舎(写真左)と、省線の仙台駅駅舎(写真右)]]
[[ファイル:Sendai map circa 1930.PNG|thumb|right|250px|1927年(昭和2年)頃の仙台市および近郊地図。宮城電気鉄道が地図の中央付近から右側にかけて描かれている。[[榴岡公園]]のある丘陵地<ref group="注">地質学の論文なので宮城野撓曲とも呼ばれる。</ref>や[[片倉工業|片倉製糸工場]]<ref group="注">1905年(明治38年)操業開始、1956年(昭和31年)閉鎖。</ref>を避けるように線路が蛇行している。]]
宮城電気鉄道は1925年(大正14年)6月4日に[[仙台駅 (宮城電気鉄道)|仙台駅]]から[[西塩釜駅]]の間で開業した。この二つの駅のほかには[[仙台東口駅|東七番丁駅]]<ref group="注">東七番丁駅は後に仙台東口駅へと駅名が変わり、1952年(昭和27年)まで存在した。</ref>、[[榴ケ岡駅]]、[[陸前原ノ町駅]]、[[福田町駅]]、[[陸前高砂駅]]、[[多賀城駅]]があった<ref name="石巻の歴史2-333-334">『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)333-334頁。</ref>。仙台駅と西塩釜駅の間の運賃については3等が25銭で2等はその倍だった。回数券や定期券も存在し、手荷物や小荷物、貨物の取り扱いがあった。仙台発の始発列車が5時35分発、最終列車が23時24分発、西塩釜発の始発列車が5時20分発、最終列車が23時12分発で、1日に29往復というダイヤだった<ref name="石巻の歴史2-333-334"/>。車両については、電気機関車1両、旅客用電車5両、貨車10両をもって開業を迎えた<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編787頁。</ref>。西塩釜駅の立地の悪さがあったにもかかわらず多くの旅客が利用し、開業初年度の旅客数は当初の予測に対して2倍近いものだった。この後、宮城電気鉄道は1926年(大正15年)4月14日に[[本塩釜駅]]まで延びて<ref name="塩竈市史2-293">『塩竈市史2』本編2、293頁。</ref>、それにともなって旅客も順調に増えた<ref name="石巻の歴史5-790-793">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編790-793頁。</ref>。<!-- 以前の版で開業から無配当が続いたという記述がありましたが、『石巻の歴史』5に載っている資料を読むと、少なくとも開業3年間は配当があったようです。 -->


[[ファイル:1930s Japan Travel Poster - 02.jpg|thumb|松島行きの旅客で宮気鉄道と競合する[[鉄道省]]仙台鉄道局<ref group="注">在の[[東日本旅客鉄道仙台支社]]に繋がる。</ref>のポスター(1930年代)。]]
その後、[[満州事変]]などに伴う景気持ち直しもあって乗客数は増加し、宮電は[[松島町]]に遊園を開設したり、[[バス (交通機関)|バス]](乗合自動車)事業の開始、当線の開業で乗客が減少し当時休止となっていた[[松島電車]]((旧)松島駅 - 松島海岸、[[1944年]]に正式廃止)の買収を行う([[1939年]])など、積極的な経営ができるようになった。戦時体制に入ると、沿線に軍需工場が多く建設されるようになり、通勤輸送で今度は活況を見せることになる。例えば、[[苦竹駅]]隣接地に東京第一[[陸軍造兵廠]]仙台製造所([[連合国軍占領下の日本|占領期]]は[[進駐軍]]の''Camp Schimmelpfennig''、現在は[[陸上自衛隊]]・[[仙台駐屯地]]など)が設置され、宮電から[[引き込み線]]も設けていた。また、[[多賀城駅]]の周辺には多賀城[[海軍工廠]](現在は陸上自衛隊・[[多賀城駐屯地]]など)が設置された。ただし、多賀城海軍工廠への引き込み線([[仙台港]]建設の際に[[仙台臨海鉄道臨海本線]]に転用)は、[[東北本線]]・[[陸前山王駅]]から分岐した。[[矢本駅]]隣接地にも[[海軍航空隊]]の基地(現在の[[航空自衛隊]]・[[松島基地]])が設置された。
宮城電気鉄道は1927年([[昭和]]2年)4月18日に松島公園駅(現在の[[松島海岸駅]])へと延伸した<ref name="塩竈市史2-293"/>。この松島延伸にあわせて、宮城電気鉄道は劇場や食堂、浴場、人形の家からなる松島遊園の建設を計画していた。この施設は松島公園内の県有地1800坪を借りて建設され、松島公園駅開業から約3箇月後の8月1日に開園した<ref name="石巻の歴史5-793-794">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編793-794頁。</ref>。宮城電気鉄道は雑誌に行楽広告を載せて松島への観光客の誘致を図っていたが<ref>『仙台市史』通史編7(近代2)239頁。</ref>、松島遊園の事業は赤字でも黒字でもなくとんとんだったという<ref name="石巻の歴史5-793-794"/>。また、実業家の高橋良作による[[マリンピア松島水族館|松島水族館]]が松島公園駅開業とほぼ同時期の4月に開園している<ref name="石巻の歴史5-793-794"/>。

1928年(昭和3年)4月10日に宮城電気鉄道は[[陸前小野駅]]まで延び、同年11月22日には[[石巻駅]]までの全線開通を果たした<ref name="塩竈市史2-293"/>。仙台駅と石巻駅の間の3等運賃は1円50銭であり、1930年(昭和5年)時点のダイヤで仙台駅と石巻駅の間を走る列車は6往復あって、その所要時間は1時間40分だった<ref name="石巻の歴史2-333-334"/>。こうして全線が開通した宮城電気鉄道だったが、全線を乗り通す旅客は想定より少なく、旅客の大部分は仙台と塩竈の間に集中した<ref name="石巻の歴史2-334-336">『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)334-336頁。</ref>。山本の言葉によれば、[[鳴瀬川]]を境に旅客の移動が分かれていると評される状態だったという<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編797頁。</ref>。また、石巻には[[小牛田駅]]と石巻駅を結ぶ仙北軽便鉄道が大正時代初めに開通しており、これが国有化されて[[石巻線]]となっていた。石巻における貨物輸送については石巻線が主流のままだった<ref name="石巻の歴史2-334-336"/>。その後、[[昭和恐慌]]の影響で1930年(昭和5年)に宮城電気鉄道の旅客数は大きく減少し、その後も低調な状態が続いた。1935年(昭和10年)から業績が再び伸びるようになり、戦時体制下になるにつれ活況を呈するようになった<ref name="石巻の歴史5-794-796">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編794-796頁。</ref>。

1933年(昭和8年)、松島観光のための展望車が宮城電気鉄道に導入された<ref name="石巻の歴史5-794-796"/>。列車にガイドガールが添乗し、旅客に紅茶をふるまうサービスが行われていたという<ref>『仙臺文化』第4号20-21頁。</ref>。1939年(昭和14年)時点のダイヤでは、仙台から塩竈<!-- 出典の『石巻の歴史』に何塩釜駅と書いていないのでこの表現としています。有力な資料がありましたら書き換えてください。 -->まで15分間隔で1日60往復、松島まで30分間隔で38往復、石巻まで1時間間隔で18往復の列車が運転されるようになっていた<ref name="石巻の歴史2-333-334"/>。また、東七番丁駅から陸前原ノ町駅までの区間が1942年(昭和17年)に複線となった<ref name="石巻の歴史2-326-327"/>(1943年に複線化とも<ref name="TohokuUniv"/>)<!-- もし正い複線化の時期が確定できる有力な資料がありましたら、間違った年を削除して下さい。 -->。山本は東七番丁駅から西塩釜駅までの区間を複線化した上で、7分間隔の列車運行を考えていたという<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編798頁。</ref>。

=== 支線の建設と松島電車の買収 ===
宮城電気鉄道は1937年(昭和12年)に新たな路線の許可申請を行った。これは石巻駅近くの山下付近から旧北上川河口付近の石巻港に至る臨港線である。宮城電気鉄道が自ら願い出た形の申請だったが、実際には石巻市からの積極的な働きかけがあったと言われる。この臨港線は貨客共に取り扱う路線として計画されていた<ref name="石巻の歴史5-787-790">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編787-790頁。</ref>。この申請の最中に、石巻市は[[日本製紙]]の前身に当たる東北振興パルプの誘致に成功し、その工場がこの臨港線の沿線に建設されることになった。これを受けて宮城電気鉄道は、東北振興パルプの工場へ引き込み線を設けることを、臨港線の計画に加えて請願した。工場の建設に必要な物資や、稼動後の工場で使う資材などの輸送を行うことと引き換えに、宮城電気鉄道は東北振興パルプから資金を借りる計画にもなっていた。臨港線の認可は1938年(昭和13年)に下り、さらに工場の建設を急ぐために臨港線の工区を分割して、山下から工場付近までの区間を先に工事することが認められた。臨港線の分岐点となる宮電山下駅(現在の[[陸前山下駅]])が1939年(昭和14年)2月1日にまず開業し、同年11月4日に東北振興パルプ工場の近くの釜駅(現在の[[石巻港駅]])までの区間の営業が始まった<ref name="石巻の歴史5-787-790"/>。

釜駅から旧北上川河口付近の石巻港に至る区間の工事については、石巻港の計画が不確定である、また資材の調達が困難である、という理由で建設期限の延期が繰り返されていた。石巻港まで線路の敷設は行われていたが、開業できないまま国有化を向かえ、後に線路が撤去されたという。この区間は戦後に貨物線として改めて建設されることになる<ref name="石巻の歴史5-787-790"/>。

臨港線が開業した1939年(昭和14年)、宮城電気鉄道は[[松島電車]]を買収した。松島電車は宮城電気鉄道の開業より前の1922年(大正11年)に営業を始めていた鉄道で、東北本線の松島駅(初代)から松島の五大堂付近を結んでいた。しかし、宮城電気鉄道の開業に影響を受けて松島電車は経営難に陥り、電車の運行が出来ない状態になっていた。買収の表向きの理由は、景勝地である松島の交通機関が失われることは忍びがたいというものだったが、実際には鉄道省や松島電車から宮城電気鉄道へ働きかけがあったという。宮城電気鉄道は、松島電車の路線のうち東北本線の松島駅(初代)から宮城電気鉄道の新富山駅までの区間を地方鉄道として再生する構想を立てた。しかし、この構想は実現する事無く、宮城電気鉄道は国有化を向かえた<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編796-797頁。</ref>。


=== 鉄道線の国有化 ===
=== 鉄道線の国有化 ===
戦時色が濃くなるにつれて、日本では国家による交通機関の統制が行われるようになり、1940年(昭和15年)には[[陸運統制令]]が施行された。これによって政府命令による交通機関の統合や買収が日本各地で進められるようになった。宮城電気鉄道も買収の対象となり、1944年(昭和19年)5月に国有の仙石線となった。この頃の宮城電気鉄道の沿線では、東京第一[[陸軍造兵廠]]仙台製造所<ref group="注">戦後の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]に[[進駐軍]]のキャンプシンメルフェニヒとなり、現在は[[陸上自衛隊]]の[[仙台駐屯地]]の敷地となっている。</ref>、多賀城[[海軍工廠]]<ref group="注">現在は陸上自衛隊の[[多賀城駐屯地]]などの敷地となっている。多賀城海軍工廠への引き込み線もあったが、これは東北本線の多賀城前駅([[陸前山王駅]])から分岐していた。これが後の[[仙台臨海鉄道]]の建設に活かされることになる。</ref>、矢本飛行場<ref group="注">現在では[[航空自衛隊]]の[[松島基地]]となっている。</ref>が稼動していた。東京第一陸軍造兵廠仙台製造所への工員輸送のために[[新田駅 (宮城電気鉄道)|新田駅]]を移設する形で[[苦竹駅]]が設置され<ref name="仙台市史特9-291">『仙台市史』特別編9(地域史)291頁。</ref>、また矢本駅から矢本飛行場へ軍用線が引き込まれ、航空燃料の輸送が行われていた<ref>『矢本町史』第3巻431頁。</ref>。こうした軍事関係の物資の輸送、工員の通勤を鑑みた買収だったとされる<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編800頁。</ref>。会社としての宮城電気鉄道は関係官庁の指導で証券保有会社としてひとまず存続したが、官庁の指導方針が変わったことで同年12月に宮城電気鉄道は解散を申請した<ref name="石巻の歴史5-826-828">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編826-828頁。</ref>。買収価格は2400万5946円(国債交付額2476万500円)だったが<ref>『日本国有鉄道百年史 第11巻』1973年、887頁</ref>、国債は後に戦後のインフレで紙くず同然になった。また、買収により宮城電気鉄道の職員69名は国有鉄道の職員となった<ref>『東北の鉄道』272頁。</ref>。
[[1944年]](昭和19年)、前述した軍需工場への通勤・貨物輸送を国家主導で効率よく行う観点と(同様の買収例に、[[南武線|南武鉄道]]や[[鶴見線|鶴見臨港鉄道]]などがある)、改正[[鉄道敷設法]]([[1922年]]制定)の「81.宮城縣松島ヨリ石巻ヲ經テ女川ニ至ル鐡道」の一部を担う路線であったことから、国家買収の対象となり[[戦時買収私鉄|国有化]]され、仙石線となった。なおこの時の買収価格は、24,005,946円(国債交付額24,760,500円)であった<ref>『日本国有鉄道百年史 第11巻』1973年、887頁</ref>。国債は戦後のインフレで紙くず同然になった。


戦後、宮城電気鉄道の私鉄へ復帰を求める元株主の動きがあり、元社長の中村梅三がこれに努めた。しかし、沿線の自治体は国有鉄道としての仙石線を望み、また国有鉄道の労働組合も私鉄への復帰に反対したという。会社として存続していなかったこともあって、宮城電気鉄道の復活はならなかった<ref name="石巻の歴史5-826-828"/>。国有化からしばらく経った1956年(昭和31年)、仙石線に管理所が発足した。管理所制度は国鉄が非採算線区の経営改善ために起こしたもので、仙石線管理所はその初となる事例だった。この中で責任者である所長は、宮城電気鉄道の元幹部から話を聞き、仙石線の経営改善に活かしたという<ref name="石巻の歴史5-826-828"/>。
また宮城電気鉄道買収と同じ年には、勾配緩和のため東北本線の貨物用迂回線が[[陸前山王駅]] - [[品井沼駅]]間に建設され([[岩切駅]] - 陸前山王駅間の[[塩釜線|塩竈線]]も同時に編入)、後にこちらの方が本線となったことから、仙台 - 松島間で東北本線と仙石線が並行する現在の形が形成された。


なお路線沿革の詳細は[[仙石線]]の項目を参照のこと。
なお国有化以後の詳細は[[仙石線]]の項目を参照のこと。


=== 年表 ===
=== 年表 ===
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** [[12月27日]]、宮電山下 - 釜間旅客運輸開始<ref>[{{NDLDC|2960488/18}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1940年4月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[12月27日]]、宮電山下 - 釜間旅客運輸開始<ref>[{{NDLDC|2960488/18}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1940年4月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[5月1日]]、国有化され仙石線となる<ref>[{{NDLDC|2961684/7}} 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[5月1日]]、国有化され仙石線となる<ref>[{{NDLDC|2961684/7}} 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。

== 日本で最初の地下鉄道 ==
{{Main|仙台駅 (宮城電気鉄道)}}
{{|
[[ファイル:Underground Platform Sendai Station 1920s.jpg|thumb|none|宮電仙台駅 地下ホーム (1920年代)]]
}}
1925年(大正14年)に開業した宮城電気鉄道仙台駅({{ウィキ座標|38|15|40.8|N|140|52|54.8|E|region:JP|地図|name=宮電・仙台駅(地下駅)のおおよその位置}})は、省線の[[東北本線]]との交差のために地下駅として建設された。それに伴い、仙台駅に至る数百メートルの区間地下路線となっていた。この区間の開業は、日本初の地下鉄とされる東京地下鉄道(現在の[[東京地下鉄]][[東京メトロ銀座線|銀座線]])開通よりも2年半早く、また郊外電車の地下乗り入れとしても神戸有馬電気鉄道(現在の[[神戸電鉄]][[神戸電鉄有馬線|有馬線]])の湊川地下線開通よりも3年早いものであった。

この地下駅と地下路線の設置は、高田商会が開業前に招聘した外国人技師を現場に案内し、駅を仙台駅東口に設ける計画を示したところ「By tube!」(地下鉄で!)と西口までの線路延伸を強く提案したことが契機で、さらに将来の県庁附近への延伸も視野に入れたものであった。鉄道省としては経験・実績がなく一度は躊躇したものの、新規技術の提案として認めた。結果的にトンネル掘削をした場所は地盤が固すぎる位で、鉄道省の心配した落盤事故は生じ得なかったが、逆に宮城電気鉄道側にしては、予想外に工事費がかさみ苦しい財政状況もあって、駅前のターミナルまで掘り本格的地下駅舎を作る予算がなくなった。やむを得ず、このトンネルが複線断面であることを逆手にとり一線とそのプラットホームをトンネルに設けた結果、地下駅の最初の形態がトンネルの中という形に落ち着いた。

ほかにも宮城電気鉄道は立派な鉄道設備が用いられていた。[[鉄道の電化|電化方式]]には日本では1922年(大正11年)に[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](現在の[[近鉄南大阪線]])で使わ始めたばかりの[[直流電化|直流1500ボルト]]用いられ、[[線路 (鉄道)|レール]]にはその当時における国鉄幹線級の37キログラム、さらに踏切などではそれを上回る50キログラムのもの使用されていた。加えて[[鉄道信号機|色灯式自動信号機]]採用されていた。


== 運行概要 ==
== 運行概要 ==
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{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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=== 参考文献 ===
== 参考文献 ==
*{{Cite book | 和書 | pages = pp. 265-266 | title = 昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧 | author = [[鉄道省]] | publisher = 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)| date = 1937年(覆刻:1986年) | location = 東京(覆刻:大阪) | id = ISBN 4-88540-048-1 }}
*{{Cite book | 和書 | pages = pp. 265-266 | title = 昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧 | author = [[鉄道省]] | publisher = 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)| date = 1937年(覆刻:1986年) | location = 東京(覆刻:大阪) | id = ISBN 4-88540-048-1 }}
*{{Cite book | 和書 | volume = 2 東北 | title = 日本鉄道旅行地図帳 | author = 今尾恵介(監修) | year = 2008 | publisher = 新潮社 | id = ISBN 978-4-10-790020-3 }}
*{{Cite book | 和書 | volume = 2 東北 | title = 日本鉄道旅行地図帳 | author = 今尾恵介(監修) | year = 2008 | publisher = 新潮社 | id = ISBN 978-4-10-790020-3 }}
* 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2) 石巻市、1998年。
* 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編 石巻市、1996年。
* 塩竈市史編纂委員会 『塩竈市史2』本編2 塩竈市、1986年。
* 松島町史編纂委員会 『松島町史』通史編1 松島町、1991年。
* 矢本町教育委員会 『矢本町史』第3巻 矢本町、1976年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編7(近代2) 仙台市、2009年。
* 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』特別編9(地域史) 仙台市、2014年。
* 高橋善三郎(著)、高橋和雄(編)、高橋ハルエ(発行) 『東北の鉄道』 1998年。
* 渡邊慎也(編) 『仙臺文化』第4号 仙臺文化編集室、2006年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[日本鉄道]]
* [[日本鉄道]]
* [[東京地下鉄道]]/[[東京メトロ銀座線]] - 日本初の地下鉄
*[[仙北軽便鉄道]]
*[[東京地下鉄道]]/[[東京メトロ銀座線]] - 日本初の地下鉄


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2019年1月22日 (火) 14:35時点における版

宮城電気鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
宮城県仙台市原町苦竹字町東39[1]
設立 1922年(大正11年)9月9日[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業 船舶業 劇場経営 他[1]
代表者 社長 山本豊次[1]
資本金 5,750,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[1]
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宮城電気鉄道(みやぎでんきてつどう)は、かつて宮城県に存在した鉄道事業者である。略称は宮電。現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)仙石線にあたる路線を運営していた。元々は商社の高田商会が余剰電力を活用するために計画した鉄道で、1922年大正11年)に設立された。しかし、鉄道の建設中に高田商会はこの鉄道事業から手を引き、それ以後は宮城電気鉄道が独自に資金を調達して鉄道の建設を続けた。1925年(大正14年)に仙台駅から西塩釜駅の区間が開業し、1928年(昭和3年)に石巻駅までの全線が開通した。戦中の1944年昭和19年)に国有化されて仙石線となった(戦時買収私鉄)。

歴史

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高田商会と余剰電力

高田商会は1881年(明治14年)に貿易会社として設立された。創業者は高田慎蔵である。後に高田商会は宮城県栗原郡鶯沢村(現在の栗原市)の細倉鉱山[注 1]の経営にも関わるようになり、これが高田商会の宮城県との関わりの端緒とされる[3]。高田商会の資本参加により細倉鉱山は高田鉱山とも呼ばれるようになった[4]。この鉱山の所長だった山本豊次こそが、後に宮城電気鉄道の社長となる人物である[5]

1914年(大正3年)7月28日に第一次世界大戦が始まると、日本では1915年(大正4年)下半期から商品輸出の影響で「大戦景気」と呼ばれる好景気となった。この年、高田鉱山では、軍用需要の高まりをみせていた亜鉛電気分解に山本豊次が成功した[6]。1916年(大正5年)に猪苗代第一発電所[注 2][7][8]および当時建設中の猪苗代第二発電所[注 3][8]に隣接する福島県耶麻郡磐梯村の高田商会大寺精錬所[注 4][9][10]で亜鉛の湿式精錬が開始された[8][11]。高田鉱山においても亜鉛生産が行われ、1917年(大正6年)および1918年(大正7年)に最盛期を迎えた。1918年(大正7年)に猪苗代から当時の東京府東京市まで高圧送電線が完成し[11]帝都の電力需要をまかなうことになったため、高田商会はこの代わりに高田鉱山近くの江合水電との間で発電開始後10年間の電力買取契約を交した[12]

しかし、1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦が終結すると、亜鉛の需要は激減する一方で、1919年(大正8年)に江合水電からの電力供給体制が整い[12]、亜鉛の精錬用だった電力が過剰に余るようになった。山本は1920年(大正9年)に宮城送電興業と旭紡績の二つの会社を設立して余剰電力の約8割を消費することができたが、余剰電力の約2割に当たる700キロワットの消費先がさらに必要だった[13]

鉄道路線の建設

この残りの余剰電力を消費するために計画されたのが宮城電気鉄道だった。当初の計画では、宮城県仙台市の宮城県庁付近を起点として、当時の宮城郡原町岩切村高砂村多賀城村塩竈町を経て松島村に至る鉄道路線だった[14][15]。建設費は270万円と見込まれていた。収支の概算では仙台と塩竈の間の旅客が主要な利用客と見なされ、貨物については塩竈と松島の間は一切考慮されていなかった[14]

この鉄道の免許申請は1921年(大正10年)5月に行われた。当初の発起人には高田釜吉[注 5]や山本豊次など、高田商会の関係者10名が名を連ねた。『松島町史』では、宮城電気鉄道の発起人として伊沢平左衛門、中村梅三、松良善熙、遊佐寿助、大宮司雅之輔、齋藤宗蔵、西条芳三郎、高城畊造が挙げられているが[16]、これについては宮城電気鉄道の計画の進展に伴って発起人が高田商会の関係者から地元の有力者に移されていった結果ではないだろうかと『石巻の歴史』は推し量っている。また、翌年に200名近くの発起人が追加された[17]。この鉄道計画は1921年(大正10年)12月に許可され[14]、これから間もない1922年(大正11年)3月に松島から石巻までの区間の追加申請が行われた[5]。この路線の延長は、当初から構想としてあったものとも[5]、石巻の実業家の働きかけの結果とも言われている[18]。石巻への延長の許可は1923年(大正12年)3月におりた[5]。一方で、宮城県庁から省線の仙台駅までの区間は、仙台市電の建設計画に影響を受けて断念された[15]

鉄道会社の創設のために10万株が募集された。発起人引き受け分が5万560株、賛成人引き受け分が4万9440株、株主は合計2976人となった[5]。1922年(大正11年)9月、仙台市公会堂で宮城電気鉄道の創立総会が行われた。ここで、社長に山本豊次が選ばれ、相談役に高田釜吉が就いた。資本金は500万円だった[5][19]。当時、松島には東北本線の松島駅(初代)[注 6]があり、また塩竈には塩竈線の塩竈駅[注 7]があって、それぞれ鉄道で仙台駅と結ばれていたが、山本は国有の幹線鉄道とは異なる都市型の近郊鉄道を目指していたとされる[5]

こうして鉄道の敷設に取り掛かることになった宮城電気鉄道だったが、その前途は多難だった。1923年(大正12年)3月、高田鉱山で大火災が発生し、同年9月1日には大正関東地震関東大震災)が発生した。この影響で宮城電気鉄道の後ろ盾だった高田商会の経営は傾き、宮城県の事業から手を引いた。また、東京の株主からの払い込みも滞った[20]。資材の搬入も遅れた[21]。こうした困難な状況の中で、山本は宮城電気鉄道に残り、鉄道の建設に専念する道を選んだ。高田商会の撤退で資金繰りに困った宮城電気鉄道はまず安田銀行に相談したが、これは結実しなかった。宮城電気鉄道に救いの手を差し伸べたのは日本生命保険弘世助太郎[21]、日本生命保険は宮城電気鉄道に100万円を融資した。ただしこれは、開業後の1926年(大正15年)に仙台駅から西塩釜駅までの区間を担保として行われたものである。宮城電気鉄道は石巻までの全線開通までに、やはり路線自体を担保に日本生命保険から合計300万円を借り入れた[5]

開業とその後の経緯

宮電仙台駅の地上駅舎(写真左)と、省線の仙台駅駅舎(写真右)
1927年(昭和2年)頃の仙台市および近郊地図。宮城電気鉄道が地図の中央付近から右側にかけて描かれている。榴岡公園のある丘陵地[注 8]片倉製糸工場[注 9]を避けるように線路が蛇行している。

宮城電気鉄道は1925年(大正14年)6月4日に仙台駅から西塩釜駅の間で開業した。この二つの駅のほかには東七番丁駅[注 10]榴ケ岡駅陸前原ノ町駅福田町駅陸前高砂駅多賀城駅があった[22]。仙台駅と西塩釜駅の間の運賃については3等が25銭で2等はその倍だった。回数券や定期券も存在し、手荷物や小荷物、貨物の取り扱いがあった。仙台発の始発列車が5時35分発、最終列車が23時24分発、西塩釜発の始発列車が5時20分発、最終列車が23時12分発で、1日に29往復というダイヤだった[22]。車両については、電気機関車1両、旅客用電車5両、貨車10両をもって開業を迎えた[23]。西塩釜駅の立地の悪さがあったにもかかわらず多くの旅客が利用し、開業初年度の旅客数は当初の予測に対して2倍近いものだった。この後、宮城電気鉄道は1926年(大正15年)4月14日に本塩釜駅まで延びて[24]、それにともなって旅客も順調に増えた[25]

松島行きの旅客で宮城電気鉄道と競合する鉄道省仙台鉄道局[注 11]のポスター(1930年代)。

宮城電気鉄道は1927年(昭和2年)4月18日に松島公園駅(現在の松島海岸駅)へと延伸した[24]。この松島延伸にあわせて、宮城電気鉄道は劇場や食堂、浴場、人形の家からなる松島遊園の建設を計画していた。この施設は松島公園内の県有地1800坪を借りて建設され、松島公園駅開業から約3箇月後の8月1日に開園した[26]。宮城電気鉄道は雑誌に行楽広告を載せて松島への観光客の誘致を図っていたが[27]、松島遊園の事業は赤字でも黒字でもなくとんとんだったという[26]。また、実業家の高橋良作による松島水族館が松島公園駅開業とほぼ同時期の4月に開園している[26]

1928年(昭和3年)4月10日に宮城電気鉄道は陸前小野駅まで延び、同年11月22日には石巻駅までの全線開通を果たした[24]。仙台駅と石巻駅の間の3等運賃は1円50銭であり、1930年(昭和5年)時点のダイヤで仙台駅と石巻駅の間を走る列車は6往復あって、その所要時間は1時間40分だった[22]。こうして全線が開通した宮城電気鉄道だったが、全線を乗り通す旅客は想定より少なく、旅客の大部分は仙台と塩竈の間に集中した[28]。山本の言葉によれば、鳴瀬川を境に旅客の移動が分かれていると評される状態だったという[29]。また、石巻には小牛田駅と石巻駅を結ぶ仙北軽便鉄道が大正時代初めに開通しており、これが国有化されて石巻線となっていた。石巻における貨物輸送については石巻線が主流のままだった[28]。その後、昭和恐慌の影響で1930年(昭和5年)に宮城電気鉄道の旅客数は大きく減少し、その後も低調な状態が続いた。1935年(昭和10年)から業績が再び伸びるようになり、戦時体制下になるにつれ活況を呈するようになった[30]

1933年(昭和8年)、松島観光のための展望車が宮城電気鉄道に導入された[30]。列車にガイドガールが添乗し、旅客に紅茶をふるまうサービスが行われていたという[31]。1939年(昭和14年)時点のダイヤでは、仙台から塩竈まで15分間隔で1日60往復、松島まで30分間隔で38往復、石巻まで1時間間隔で18往復の列車が運転されるようになっていた[22]。また、東七番丁駅から陸前原ノ町駅までの区間が1942年(昭和17年)に複線となった[3](1943年に複線化とも[12])。山本は東七番丁駅から西塩釜駅までの区間を複線化した上で、7分間隔の列車運行を考えていたという[32]

支線の建設と松島電車の買収

宮城電気鉄道は1937年(昭和12年)に新たな路線の許可申請を行った。これは石巻駅近くの山下付近から旧北上川河口付近の石巻港に至る臨港線である。宮城電気鉄道が自ら願い出た形の申請だったが、実際には石巻市からの積極的な働きかけがあったと言われる。この臨港線は貨客共に取り扱う路線として計画されていた[33]。この申請の最中に、石巻市は日本製紙の前身に当たる東北振興パルプの誘致に成功し、その工場がこの臨港線の沿線に建設されることになった。これを受けて宮城電気鉄道は、東北振興パルプの工場へ引き込み線を設けることを、臨港線の計画に加えて請願した。工場の建設に必要な物資や、稼動後の工場で使う資材などの輸送を行うことと引き換えに、宮城電気鉄道は東北振興パルプから資金を借りる計画にもなっていた。臨港線の認可は1938年(昭和13年)に下り、さらに工場の建設を急ぐために臨港線の工区を分割して、山下から工場付近までの区間を先に工事することが認められた。臨港線の分岐点となる宮電山下駅(現在の陸前山下駅)が1939年(昭和14年)2月1日にまず開業し、同年11月4日に東北振興パルプ工場の近くの釜駅(現在の石巻港駅)までの区間の営業が始まった[33]

釜駅から旧北上川河口付近の石巻港に至る区間の工事については、石巻港の計画が不確定である、また資材の調達が困難である、という理由で建設期限の延期が繰り返されていた。石巻港まで線路の敷設は行われていたが、開業できないまま国有化を向かえ、後に線路が撤去されたという。この区間は戦後に貨物線として改めて建設されることになる[33]

臨港線が開業した1939年(昭和14年)、宮城電気鉄道は松島電車を買収した。松島電車は宮城電気鉄道の開業より前の1922年(大正11年)に営業を始めていた鉄道で、東北本線の松島駅(初代)から松島の五大堂付近を結んでいた。しかし、宮城電気鉄道の開業に影響を受けて松島電車は経営難に陥り、電車の運行が出来ない状態になっていた。買収の表向きの理由は、景勝地である松島の交通機関が失われることは忍びがたいというものだったが、実際には鉄道省や松島電車から宮城電気鉄道へ働きかけがあったという。宮城電気鉄道は、松島電車の路線のうち東北本線の松島駅(初代)から宮城電気鉄道の新富山駅までの区間を地方鉄道として再生する構想を立てた。しかし、この構想は実現する事無く、宮城電気鉄道は国有化を向かえた[34]

鉄道線の国有化

戦時色が濃くなるにつれて、日本では国家による交通機関の統制が行われるようになり、1940年(昭和15年)には陸運統制令が施行された。これによって政府命令による交通機関の統合や買収が日本各地で進められるようになった。宮城電気鉄道も買収の対象となり、1944年(昭和19年)5月に国有の仙石線となった。この頃の宮城電気鉄道の沿線では、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所[注 12]、多賀城海軍工廠[注 13]、矢本飛行場[注 14]が稼動していた。東京第一陸軍造兵廠仙台製造所への工員輸送のために新田駅を移設する形で苦竹駅が設置され[2]、また矢本駅から矢本飛行場へ軍用線が引き込まれ、航空燃料の輸送が行われていた[35]。こうした軍事関係の物資の輸送、工員の通勤を鑑みた買収だったとされる[36]。会社としての宮城電気鉄道は関係官庁の指導で証券保有会社としてひとまず存続したが、官庁の指導方針が変わったことで同年12月に宮城電気鉄道は解散を申請した[37]。買収価格は2400万5946円(国債交付額2476万500円)だったが[38]、国債は後に戦後のインフレで紙くず同然になった。また、買収により宮城電気鉄道の職員69名は国有鉄道の職員となった[39]

戦後、宮城電気鉄道の私鉄へ復帰を求める元株主の動きがあり、元社長の中村梅三がこれに努めた。しかし、沿線の自治体は国有鉄道としての仙石線を望み、また国有鉄道の労働組合も私鉄への復帰に反対したという。会社として存続していなかったこともあって、宮城電気鉄道の復活はならなかった[37]。国有化からしばらく経った1956年(昭和31年)、仙石線に管理所が発足した。管理所制度は国鉄が非採算線区の経営改善ために起こしたもので、仙石線管理所はその初となる事例だった。この中で責任者である所長は、宮城電気鉄道の元幹部から話を聞き、仙石線の経営改善に活かしたという[37]

なお国有化以後の詳細は仙石線の項目を参照のこと。

年表

日本で最初の地下鉄道

宮電仙台駅 地下ホーム (1920年代)

1925年(大正14年)に開業した宮城電気鉄道の仙台駅(北緯38度15分40.8秒 東経140度52分54.8秒)は、省線の東北本線との交差のために地下駅として建設された。それに伴い、仙台駅に至る数百メートルの区間も地下路線となっていた。この区間の開業は、日本初の地下鉄とされる東京地下鉄道(現在の東京地下鉄銀座線)開通よりも2年半早く、また郊外電車の地下乗り入れとしても神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄有馬線)の湊川地下線開通よりも3年早いものであった。

この地下駅と地下路線の設置は、高田商会が開業前に招聘した外国人技師を現場に案内し、駅を仙台駅東口に設ける計画を示したところ「By tube!」(地下鉄で!)と西口までの線路延伸を強く提案したことが契機で、さらに将来の県庁附近への延伸も視野に入れたものであった。鉄道省としては経験・実績がなく一度は躊躇したものの、新規技術の提案として認めた。結果的にトンネル掘削をした場所は地盤が固すぎる位で、鉄道省の心配した落盤事故は生じ得なかったが、逆に宮城電気鉄道側にしては、予想外に工事費がかさみ苦しい財政状況もあって、駅前のターミナルまで掘り本格的地下駅舎を作る予算がなくなった。やむを得ず、このトンネルが複線断面であることを逆手にとり一線とそのプラットホームをトンネルに設けた結果、地下駅の最初の形態がトンネルの中という形に落ち着いた。

このほかにも宮城電気鉄道では立派な鉄道設備が用いられていた。電化方式には日本では1922年(大正11年)に大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線)で使われ始めたばかりの直流1500ボルトが用いられ、レールにはその当時における国鉄幹線級の37キログラム、さらに踏切などではそれを上回る50キログラムのものが使用されていた。加えて色灯式自動信号機が採用されていた。

運行概要

1934年11月1日訂補
列車本数:朝方除き
仙台 - 東塩釜間は5-23時台に30分間隔
東塩釜 - 石巻間は5-22時台に1時間間隔
所要時間
仙台 - 松島公園間49-53分(所要38分の急行もあり)
仙台 - 石巻間1時間39-43分(急行は1時間25分前後)
1942年4月1日訂補
列車本数
仙台 - 本塩釜間は15分間隔
本塩釜 - 松島公園間は30分間隔
松島公園 - 石巻間は1時間間隔(5-23時台)
所要時間
仙台 - 松島公園間49-50分
仙台 - 石巻間1時間41分

輸送・収支実績

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1925 1,543,762 470 246,778 127,385 119,393 配当補足金36,369 55,762
1926 2,282,159 11,804 368,759 142,220 226,539
1927 2,713,254 22,258 468,750 176,736 292,014 松島遊園1,081 98,548
1928 2,977,890 44,905 667,995 256,407 411,588 遊園地3,044 154,969
1929 2,677,952 24,589 732,119 269,220 462,899 自動車3,461
1930 2,123,364 22,820 598,720 297,575 301,145 遊園地自動車10,752雑損償却金172,089 192,226 59,672
1931 2,150,101 26,534 542,251 282,730 259,521 雑損27,735償却金83,354自動車4,391 188,882 49,944
1932 2,041,650 30,140 508,055 262,959 245,096 雑損14,092償却金28,371 160,218 55,296
1933 2,144,391 36,296 533,459 277,574 255,885 雑損7,869遊園地50 163,689 51,965
1934 1,994,364 47,950 501,284 280,770 220,514 雑損償却金78,558自動車9,355 147,191 137,553
1935 2,109,581 52,554 532,819 292,253 240,566 雑損償却金55,574自動車9,700 131,359 135,487
1936 2,335,704 60,016 575,587 299,219 276,368 雑損償却金145,532自動車1,125 98,734 131,568
1937 2,494,333 62,567 609,918 332,200 277,718 自動車5,330雑損138,614 92,359 58,400
1939 4,002,870 106,125
1941 7,218,690 345,358
1943 12,121,028 489,305
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版

車両

1944年昭和19年)5月1日、国有化時の在籍車を記す。電気機関車2形式3両、電車10形式24両、貨車37両であったが、戦後の1946年に宮城電気鉄道が発注した4両が、国有鉄道(運輸省)に納入された。

電気機関車

ED27形 (ED271, 272)
1924年ウェスティングハウス・エレクトリック社製(旧形式キ1形)
ED35形 (ED353)
1942年東京芝浦電気

電車

詳しくは、宮城電気鉄道の電車を参照されたい。

モハニ101形 (101-103)
1925年蒲田車輛製の木造車(旧形式デボハニ101形 → デハニ101形)
モハニ201形 (201)
1925年蒲田車輛製の木造車(旧形式デハニ201形)
モハ220形 (220)
1925年蒲田車輛製の木造車(旧形式デハニ201形 → デモハ220形 → デハ220形)
クハ301形 (301-303)
1926年日本車輌製造東京支店製の木造車(旧形式サハ301形)
クハ401形 (401, 402)
1927年汽車製造東京支店製の半鋼製車(旧形式テサハ401形)
モハ501形 (501, 502)
1928年汽車製造東京支店製の半鋼製車(旧形式テサハ501形)
モハ601形 (601, 602)
1928年汽車製造東京支店製の半鋼製車(旧形式デテロハ601形 → デテハ601形)
クハニ701形 (701, 702)
1928年汽車製造東京支店製の半鋼製車(旧形式テサハニ701形)
モハ801形
801, 802
1937年日本車両製造東京支店製の半鋼製車(旧形式クハ801形)
803 - 805
1941年日本車両製造東京支店製の半鋼製車
806, 807
1941年日本鉄道自動車製の半鋼製車(旧形式クハ881形)
モハ901形 (901)
1938年に旧鉄道省モハ1形モハ1050を譲り受けたもの。木造車。1923年汽車支店製
モハ810形 (810-813)
1946年日車支店製の半鋼製車(宮城電気鉄道発注車を国有化後に購入)

施設

脚注

注釈

  1. ^ 細倉鉱山は1987年(昭和62年)に閉山した。鉱山跡を活用したテーマパーク「細倉マインパーク」が1990年(平成2年)に開業した。(北緯38度48分34.7秒 東経140度54分2.1秒
  2. ^ 水力発電。1912年(明治45年)建設開始、1914年(大正3年)10月運転開始。当時の出力は3万7000キロワット。現在は、東京電力猪苗代第一発電所(北緯37度32分38.5秒 東経140度0分6.6秒)となっている。
  3. ^ 水力発電。1914年(大正3年)建設開始、1918年(大正7年)6月運転開始。現在は東京電力猪苗代第二発電所(北緯37度33分9.1秒 東経139度59分2.8秒)となっている。
  4. ^ 1928年9月に日本曹達と合併し、現在は日本曹達の100%子会社である日曹金属化学の会津工場(北緯37度33分20.8秒 東経139度59分22.2秒)となっている。
  5. ^ 釜吉は高田商会の創業者高田慎蔵の養子である。
  6. ^ 当時の松島駅は現在の松島駅より内陸側にあった。(北緯38度23分57.4秒 東経141度3分22.2秒
  7. ^ 当時の塩竈駅は現在の塩釜駅とは異なる駅で、塩竈港の近くにあった。後に塩釜埠頭駅となった。(北緯38度19分8.4秒 東経141度1分34.1秒
  8. ^ 地質学の論文なので宮城野撓曲とも呼ばれる。
  9. ^ 1905年(明治38年)操業開始、1956年(昭和31年)閉鎖。
  10. ^ 東七番丁駅は後に仙台東口駅へと駅名が変わり、1952年(昭和27年)まで存在した。
  11. ^ 現在の東日本旅客鉄道仙台支社に繋がる。
  12. ^ 戦後の占領期進駐軍のキャンプシンメルフェニヒとなり、現在は陸上自衛隊仙台駐屯地の敷地となっている。
  13. ^ 現在は陸上自衛隊の多賀城駐屯地などの敷地となっている。多賀城海軍工廠への引き込み線もあったが、これは東北本線の多賀城前駅(陸前山王駅)から分岐していた。これが後の仙台臨海鉄道の建設に活かされることになる。
  14. ^ 現在では航空自衛隊松島基地となっている。

出典

  1. ^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 『仙台市史』特別編9(地域史)291頁。
  3. ^ a b 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)326-327頁。
  4. ^ 沿革(細倉金属鉱業)
  5. ^ a b c d e f g h 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編783-786頁。
  6. ^ 近代化産業遺産群33 (PDF)経済産業省
  7. ^ 東京電力の水力発電所一覧(福島県)(平成19年7月現在)(東京電力)
  8. ^ a b c わたしたちのきょう土 磐梯町 -106/116page(磐梯町教育委員会)
  9. ^ 会社概要(日曹金属化学)
  10. ^ 日本曹達の工場展開 -日曹コンツェルン形成史(2)- (PDF)京都大学
  11. ^ a b 東北地方における電気事業の展開と工業の発達 -1950年以前の場合を主として- (PDF)福島大学
  12. ^ a b c 研究テーマ:仙石線 (PDF)東北大学鉄道研究会)
  13. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編785頁。
  14. ^ a b c 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編781-783頁。
  15. ^ a b 『仙台市史』通史編7(近代2)321-322頁。
  16. ^ 『松島町史』通史編1、676頁。
  17. ^ 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)328頁。
  18. ^ 『塩竈市史2』本編2、288頁。
  19. ^ 『塩竈市史2』本編2、289頁。
  20. ^ 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)325-326頁。
  21. ^ a b 『塩竈市史2』本編2、291-292頁。
  22. ^ a b c d 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)333-334頁。
  23. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編787頁。
  24. ^ a b c 『塩竈市史2』本編2、293頁。
  25. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編790-793頁。
  26. ^ a b c 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編793-794頁。
  27. ^ 『仙台市史』通史編7(近代2)239頁。
  28. ^ a b 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)334-336頁。
  29. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編797頁。
  30. ^ a b 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編794-796頁。
  31. ^ 『仙臺文化』第4号20-21頁。
  32. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編798頁。
  33. ^ a b c 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編787-790頁。
  34. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編796-797頁。
  35. ^ 『矢本町史』第3巻431頁。
  36. ^ 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編800頁。
  37. ^ a b c 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編826-828頁。
  38. ^ 『日本国有鉄道百年史 第11巻』1973年、887頁
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  42. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第31回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  43. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1923年3月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
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  49. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年11月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  50. ^ 「鉄道免許取消」『官報』1935年4月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  51. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1938年12月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  52. ^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  53. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1939年12月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
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  55. ^ 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献

  • 鉄道省『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、pp. 265-266頁。ISBN 4-88540-048-1 
  • 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 2 東北、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790020-3 
  • 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2) 石巻市、1998年。
  • 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編 石巻市、1996年。
  • 塩竈市史編纂委員会 『塩竈市史2』本編2 塩竈市、1986年。
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  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』特別編9(地域史) 仙台市、2014年。
  • 高橋善三郎(著)、高橋和雄(編)、高橋ハルエ(発行) 『東北の鉄道』 1998年。
  • 渡邊慎也(編) 『仙臺文化』第4号 仙臺文化編集室、2006年。

関連項目

外部リンク