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2018年1月29日 (月) 00:08時点における版
第4代グレイ伯爵 アルバート・グレイ Albert Grey 4th Earl Grey | |
---|---|
カナダ総督時代のグレイ伯爵 | |
生年月日 | 1851年11月28日 |
出生地 | イギリス ロンドン |
没年月日 | 1917年8月29日(65歳没) |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
所属政党 | 自由党 |
称号 | 第4代グレイ伯爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス(GCVO)、枢密顧問官(PC) |
親族 | 第2代グレイ伯爵(祖父) |
在任期間 | 1904年 - 1911年[1] |
国王 | エドワード7世、ジョージ5世 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
南ノーサンバーランド選挙区 タインサイド選挙区 |
在任期間 |
1880年3月31日 - 1885年11月24日 1885年11月24日 - 1886年7月1日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1894年10月9日 - 1917年8月29日[2] |
第4代グレイ伯爵アルバート・ヘンリー・ジョージ・グレイ(英語: Albert Henry George Grey, 4th Earl Grey, GCB, GCMG, GCVO, PC、1851年11月28日 - 1917年8月29日)は、イギリスの政治家、貴族。
1904年から1911年にかけてカナダ総督を務めた。英首相の第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイの孫にあたる。
経歴
1851年11月28日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で生まれる[3]。父は第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(元首相)の次男である陸軍中将チャールズ・グレイ。母はその夫人キャロライン(第2代準男爵サー・トマス・ハーヴィー・フォークワーの娘)。アルバートは次男であるが、兄チャールズは1855年に早世している[4]。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学し、マスター・オブ・ローズ(LLM)の学位を取得[3][5]。
1880年から1885年にかけて南ノーサンバーランド選挙区から選出されて自由党所属の庶民院議員を務める。ついで1885年から1886年にかけてはタインサイド選挙区から選出される[5][3]。1894年10月9日に伯父の第3代グレイ伯爵ヘンリー・グレイから第4代グレイ伯爵の爵位を継承した[5][3]。
南ローデシア行政官や勅許会社の社長を経て、1904年からカナダ総督に就任し、1911年まで務めた[5][3]。総督として1906年から1908年にかけてはケベック市創設300周年記念行事に尽力した。1907年には日本皇族伏見宮貞愛親王を出迎え、その翌年にはケベックで皇太子ジョージ(後のジョージ5世)を出迎えている[6]。1907年には「演劇音楽グレイコンクール」を創設した[6]。総督官邸リドー・ホールに総督用の書斎と温室を追加した[6]。
1911年の退任後、イギリスへ帰国。王立植民地協会の会長などを務めた[6]。
栄典
爵位
- 1894年10月9日、第4代グレイ伯爵(1806年創設連合王国貴族爵位)[5]
- 1894年10月9日、第4代ホーウィック子爵(1806年創設連合王国貴族)[5]
- 1894年10月9日、第4代ホーウィックのグレイ男爵(1801年創設連合王国貴族爵位)[5]
勲章
- 1904年、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)[5][3]
- 1908年7月23日、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス(GCVO)[7]
- 1911年10月23日、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)[8]
名誉職その他
- 1894年10月9日、第5代カウンティ・ノーサンバーランドにおけるホーウィックのグレイ准男爵(1746年創設グレートブリテン準男爵)[5]
- 1899年-1904年、ノーサンバーランド総督[5]
- 1909年6月29日、枢密顧問官(PC)[9]
家族
1877年にアリス・ホルフォード(庶民院議員ロバート・スタイナー・ホルフォードの娘)と結婚し、彼女との間に以下の1男4女を儲けた[5]。
- 第1子(長女)ヴィクトリア・シビル・メアリー(1878-1907)
- 第2子(長男)チャールズ・ロバート}(1879-1963):第5代グレイ伯爵位を継承。
- 第3子(次女)シビル(1882-1966)
- 第4子(三女)イヴェリン・アリス(1886-1971)
- 第5子(四女)リリアン・ウィニフレッド(1891-1895)
脚注
注釈
出典
- ^ 秦(2001) p.567
- ^ a b UK Parliament. “Mr Albert Grey” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年12月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g "Grey, Albert Henry George (GRY870AH)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ Lundy, Darryl. “Lt.-Gen. Hon. Charles Grey” (英語). thepeerage.com. 2015年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l Lundy, Darryl. “Albert Henry George Grey, 4th Earl Grey” (英語). thepeerage.com. 2015年3月13日閲覧。
- ^ a b c d カナダ総督府. “The Governor General > Former Governors General > British > Earl Grey 1904-1911” (英語). 2015年3月13日閲覧。
- ^ "No. 28166". The London Gazette (英語). 11 August 1908. 2015年3月13日閲覧。
- ^ "No. 28544". The London Gazette (英語). 24 October 1911. 2015年3月13日閲覧。
- ^ "No. 28265". The London Gazette (英語). 29 June 1909. 2015年3月13日閲覧。
参考文献
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Earl Grey
官職 | ||
---|---|---|
先代 リアンダー・スター・ジェームソン |
南ローデシア行政官 1896年–1898年 |
次代 ウィリアム・ヘンリー・ミルトン (南ローデシア首席行政官) |
先代 第4代ミントー伯爵 |
カナダ総督 1904年-1911年 |
次代 コノート公 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 ウェントワース・ボーモント エドワード・リドリー |
南ノーサンバーランド選挙区選出庶民院議員 1880年–1885年 同一選挙区同時当選者 ウェントワース・ボーモント |
選挙区廃止 |
新設 | タインサイド選挙区選出庶民院議員 1885年–1886年 |
次代 ウェントワース・ボーモント |
名誉職 | ||
先代 第6代ノーサンバーランド公爵 |
ノーサンバーランド総督 1899年–1904年 |
次代 第7代ノーサンバーランド公爵 |
イギリスの爵位 | ||
先代 ヘンリー・グレイ |
第4代グレイ伯爵 1894年–1917年 |
次代 チャールズ・グレイ |