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:[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェン]] |
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:[[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]] |
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|commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<BR />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|20px]] [[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン・ランヌ|ランヌ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ミシェル・ネイ|ネイ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]<BR />[[ファイル:Flag of Sweden.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベルナドット|ベルナドット]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ガブリエル・スーシェ|スーシェ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ピエール・オージュロー|オージュロー]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[エドゥアール・モルティエ|モルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベシェール|ベシェール]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[オーギュスト・マルモン|マルモン]] |
|commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<BR />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|20px]] [[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン・ランヌ|ランヌ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ミシェル・ネイ|ネイ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]<BR />[[ファイル:Flag of Sweden.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベルナドット|ベルナドット]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ガブリエル・スーシェ|スーシェ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ピエール・オージュロー|オージュロー]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[エドゥアール・モルティエ|モルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベシェール|ベシェール]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[オーギュスト・マルモン|マルモン]] |
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[[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|294x294px|古参近衛隊]] |
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'''大陸軍'''(だいりくぐん、{{lang-fr|''Grande Armée''}}、グランド・アルメ)は、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が命名した[[フランス軍]]を中核とする軍隊の名称である。「大・陸軍」即ち偉大な陸軍という意味が込められていた。最初の記録に現れるのは1805年のイギリス本土侵攻に向けて[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に総勢18万の大軍を集結させた時であった。大陸軍の名称は兵士達を鼓舞したが結局イギリス上陸作戦は中止となり内陸部でオーストリア、ロシアと交戦した。その後も1806年から1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年からの[[半島戦争|スペイン戦争]]、1809年のオーストリアとの決戦、1812年の[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。最終的に大陸軍はフランス帝国とその勢力圏諸国から動員された多国籍軍隊の総称となった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997</ref>。 |
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'''大陸軍'''(だいりくぐん、{{lang-fr|''Grande Armée''}}、'''グランダルメ'''またはグランド・アルメ、{{lang-en|''The Great Army''}})あるいは'''大陸連合'''は、[[1805年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が命名した[[フランス軍]]を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、[[イギリス]]侵攻のために[[イギリス海峡]]に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方の[[オーストリア帝国|オーストリア]]および[[ロシア帝国|ロシア]]に対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、[[1806年]]から[[1807年]]、[[1812年]]、および[[1813年]]から[[1814年]]の各作戦においてもこの名称が使われており、[[19世紀]]初頭にナポレオンが作戦を実行するために自らの勢力圏の国々から召集した多国籍軍の総称である。<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997</ref>フランス語の''{{lang|fr|armée}}''という語には「陸軍」とともに「軍隊」という意味もあり、「大軍隊」と日本語訳することも可能である。 |
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最初の大陸軍は6個[[軍団]]で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの覇権がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年夏に[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を始めた時がその |
最初の大陸軍はナポレオン麾下の陸軍元帥(''{{lang|fr|Maréchal}}'')と上級の将軍の指揮下にある6個[[軍団]]で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの覇権がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年の夏に[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を始めた時がその最大であり、兵力は700,000名を数えた。 |
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ロシア |
ロシアでの壊滅後もナポレオンは兵力を再編し、1813年の[[ライプツィヒ]]での[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]、1814年のすさまじいフランス防衛戦および1815年の[[ワーテルローの戦い]]で新しい軍隊を率いたが、ナポレオン軍は1812年[[6月]]の大陸軍の高みまで戻ることはなかった。 |
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== 組織 == |
== 組織 == |
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大陸軍の成功の最も重要な要因のひとつは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1個軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団(''{{lang|fr|Corps d'Armée}}'')はそれぞれに、下記のような各兵種と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の行程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥、[[軍団陸将]](''{{lang|fr|Général en chef}}''、[[上将]])または[[師団陸将]](''{{lang|fr|Général de division}}''、[[中将]])によって指揮された。 |
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ナポレオンは彼の軍団の指揮官を大変信頼しており、彼の戦略目標の範囲内で行動し、協働してそれを達成するのであれば、通常は広い範囲で指揮官達に行動の自由を与えた。仮に指揮官達が失敗して彼を満足させることができなかった場合は、躊躇することなく叱責あるいは解任し、多くの場合彼自身がその軍団の指揮を執った。[[1800年]]に[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー]]将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりであった。これは一時的な分け方であり、[[1804年]]までにナポレオンが恒久的な組織とした。ナポレオンは個々の軍団に騎兵を設け、歩兵によって動きが鈍くならないよう素早い離合集散を図った。 |
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=== 軍団と師団 === |
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[[ファイル:Grande-armee en.svg|サムネイル|200x200ピクセル|大陸軍の組織階層]] |
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大陸軍が成功した特筆すべき要因の一つは組織の優れた柔軟性と機動性であり、それは[[軍団]](Corps d'Armée)と[[師団]](Division)の編成単位を常設しそれぞれに管理部門と補給部門を持たせる事で実現されていた。独自の兵站機能を備えた軍団と師団は個々に独立して活動出来たので軍隊の多元的な運用が可能となった。他のヨーロッパ諸国の軍隊は、封建領地ごとに組織されていた[[連隊]](Régiment)を、戦時の際に複数集めて結成した[[旅団]](Brigade)が最大編成単位であり、戦争が始まると管理部門と補給部門を持つ軍司令官がそれらの雑多な旅団を動かすという一元的な運用しか出来なかったのでこの違いは大きかった。戦争が進むにつれて旧態依然だった各国も師団以上の編成を取り入れるようになった。 |
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'''軍団 - 師団 - 旅団 - 連隊 - 大隊 - 中隊''' |
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大陸軍は複数の軍団に分割されて運用された。軍団の兵員数は10,000万名から50,000万名の間であり、歩兵を中心にして騎兵および砲兵の各兵科を持ち、更に全体を維持する為の支援部隊と輜重部隊を併せ持つ連合型の小軍隊であった。典型的な軍団編成は3個歩兵師団と1個騎兵師団と軍団砲兵というものだった。軍団は単独でも作戦行動が可能であり、更に他の軍団とも互いに連携した行動を取れた。ナポレオンは軍団指揮官に対して彼の作戦の範囲内における幅広い行動の自由権を与えていた。1800年に[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]]将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりと言われておりこれは一時的な分割編成であったが、このヒントを得たナポレオンが1804年までに常設の編成単位とした。 |
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軍団は、1812年に騎兵予備集団が分割されて騎兵軍団ができたことから、従来の軍団は歩兵軍団と呼ばれるようになった。軍団(歩兵軍団)は通常「3個の歩兵師団+1個の軽騎兵師団+軍団砲兵」とされた。騎兵軍団は通常「1個の重騎兵師団+1個の軽騎兵師団」とされた。軍団砲兵は、1個徒歩砲兵中隊+1個騎馬砲兵中隊が標準だった。 |
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師団は、軍団の担当地域内で実際に敵軍勢と衝突する場面に対応した編成単位であった。歩兵中心の歩兵師団と騎兵のみの騎兵師団があった。師団も独自の輜重部隊を備えていた。歩兵師団の兵員数は4,000名から10,000名であり、2ないし3個旅団または3ないし5個連隊で構成され、それに師団砲兵が付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名であり、2個騎兵旅団または2ないし3個騎兵連隊で構成され、騎乗砲兵の師団砲兵を持つものもあった。師団の発案者は[[フランス革命戦争]]時の陸軍大臣[[ラザール・カルノー]]であり、ナポレオンはこの智慧を受け継いで大軍隊構築の土台とした事になる。 |
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歩兵師団(4000~6000名)は通常「3~6個の歩兵連隊+師団砲兵」とされた。騎兵師団は通常「2~4個の騎兵連隊+師団砲兵」とされた。歩兵師団砲兵は1個徒歩砲兵中隊、騎兵師団砲兵は1個騎馬砲兵中隊が標準だった。歩兵連隊は2~6個大隊とされた。騎兵連隊は1~4個大隊とされた。戦場での基本行動単位は大隊である。歩兵大隊は平均500名くらいで、騎兵大隊は平均150騎くらいだった。連隊は通常の大隊管理組織であり、旅団は戦場での大隊指揮組織であった。 |
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=== 皇帝軍事宮廷 === |
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[[ファイル:Napoleon bivouac Wagram.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]] |
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皇帝軍事宮廷(''Maison Militaire de l'Empereur'')は、皇帝直属の侍従武官(aide-de-camp)とその秘書達および常任士官(officier d'ordonnance)で構成されたナポレオンの戦争指導を支える為の統帥機関であった。帝国内閣閣僚と宮廷総監(Grand Marshal of the Palace)、馬事総監(''Grand Écuyer'')などの重臣連もそれに加わっていた。侍従武官たちはヨーロッパ全土の様々な情報を収集し、遠征区域の地理地形を調べ上げてナポレオンの作戦立案を助けていた。侍従武官になったのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の将軍と将校たちだった。密偵を駆使するなどして緻密で広大な情報網を張り巡らしていた彼らは文字通りナポレオンの目となり耳となってその戦略構想に多大な影響を及ぼしており、将軍のみならず元帥でさえも侍従武官には敬意を払って彼らの助言に耳を傾けていた。ナポレオンのワーカホリックを満足させる為に宮廷スタッフは日勤と夜勤のシフトを組み24時間体制で勤務していた。侍従武官は専ら日勤で、夜勤の方は秘書と常任士官が半々で担当した。皇帝直属の侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。侍従武官はそれぞれが秘書を持ち自身の業務を助けさせた。彼らは将軍階級の制服を着て肩から飾緒を下げていた。侍従武官が長期間在任し続ける事は少なく一定期間が過ぎると前線司令官や総督に転任され、ナポレオンの指示があればまた復任するのが普通だった。常任士官は偵察や伝令など主に遠隔地への往来を担当し、馬事総監の管理下にあったが1809年に廃止されてその職務は各侍従武官の秘書、補佐官に引き継がれた。 |
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旅団は、実質的には師団長配下の旅団長とその副官数名であり、旅団長は、予め割り当てられた連隊の各大隊の戦場指揮をまかされる役職だった。師団は0~3個の旅団を持った。例えば歩兵師団下連隊の全大隊は、戦場では左翼旅団と右翼旅団に編制されるなどした。旅団長が各大隊を動かす場合の連隊長は、自連隊の第1大隊を率いた。旅団を持たない師団では、連隊長が配下大隊を戦場指揮した。騎兵連隊の各大隊は、従軍時の消耗による人馬の数の変動が激しかったので、会戦時は騎兵旅団というカバー単位による再編成を必要とした。騎兵大隊は2個中隊だった。歩兵大隊は1807年まで9個中隊で、1808年から6個中隊になった。中隊は100名くらいと考えてよい。 |
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=== 参謀総監 === |
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[[ファイル:Louisberthier1.jpg|サムネイル|214x214px|参謀総監ベルティエ]] |
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参謀総監(''Major-Général'')は皇帝軍事宮廷とはまた独立した権限と機能を持ち、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的に実現する為の事務統括者であった。[[百日天下]]を除く帝国の全期間を通して[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]が在任し続けており参謀総監とベルティエはほとんど同義の言葉となった。参謀総監は運輸、事務、会計、諜報の4つの部局を持ち、自身もまた秘書を雇って業務を遂行した。参謀総監の役目は、皇帝から発せられた戦争指導を具体的な内容に書き表して命令書に記述しそれを各司令官に届ける事であった。その司令官が部隊を率いて移動するルートを策定し、それに伴う補給物資の貯蔵庫の準備と円滑な物資運送の手配をする事もまた重要な役割であった。早期からナポレオンと共に二人三脚で軍隊を動かしてきたベルティエは深く信頼され、ナポレオンは彼の職分を尊重し、皇帝でさえ参謀総監とその部下の業務には介入しない事になった。各地の司令官からの皇帝宛の報告書は全てベルティエが目を通しており、必要とあらば彼が代わりに返信し、また必要と思われるレポートだけを取捨選択して皇帝に伝える事もあったので、軍隊運営における彼はほとんどナポレオンの化身であった。しかしロシア遠征時の[[ボロジノの戦い|ボロディノの戦い]]以降はそれまでの様な全面的委託は避けられたという。なお、参謀総監の仕事は決して安全なオフィスワークなどではなく、時には前線に立って砲弾に身を晒しながら命令書を書き続けるという場面もあった。 |
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== 大陸軍の戦力 == |
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=== 皇帝近衛隊 === |
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[[ファイル:Grenadier Pied 1 1812 Revers.png|サムネイル|200x200ピクセル|近衛歩兵隊のマーク]] |
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皇帝近衛隊 (''{{lang|fr|Garde Impériale}}'') はフランスの最エリート軍隊であり、前身の執政親衛隊 (''{{lang|fr|Garde des Consuls}}'', ''{{lang|fr|Garde Consulaire}}'') から発展した組織だった。皇帝近衛隊はそれ自体が一つの軍団(''{{lang|fr|Corps d'Armée}}'')であり、歩兵、騎兵、砲兵の三兵科を備えていた。ナポレオンは皇帝近衛隊が全軍隊の模範となる事を望み、常に皇帝と共に従軍して絶対の忠誠を示す事を求めた。 |
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皇帝近衛隊内の各兵種を分類すると'''戦列歩兵科'''は近衛擲弾兵、近衛小銃擲弾兵、近衛狙撃歩兵。'''軽歩兵科'''は近衛猟歩兵、近衛小銃猟歩兵、近衛選抜歩兵。'''重騎兵科'''は近衛騎馬擲弾兵、皇后竜騎兵。'''軽騎兵科'''は近衛猟騎兵、近衛軽槍騎兵となった。 |
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== 皇帝近衛隊 == |
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フランスの皇帝近衛隊 (''{{lang|fr|Garde Impériale}}'') は当時の精鋭部隊であり、執政親衛隊 (''{{lang|fr|Garde des Consuls}}'', ''{{lang|fr|Garde Consulaire}}'') から発展した。これはそれ自体が軍団(''{{lang|fr|Corps d'Armée}}'')であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは近衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。歩兵が戦闘に参加することは希であったが、近衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。 |
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最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1809年からの組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年頃に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設されたが、これは1814年のナポレオン退位時に消滅したままとなった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者である事が多かった。 |
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;古参・中堅・新規近衛隊 |
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:1804年のナポレオン皇帝即位から発足した近衛隊は、1809年の新規近衛隊の創設に伴ない、古参近衛隊と呼ばれるようになった<ref name=":7">[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006</ref>。1810年には中堅近衛隊が新設された<ref name=":8">[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。それぞれの経験と能力の評価に従って、近衛歩兵は連隊別に、近衛騎兵は大隊別に分かれて、古参・中堅・新規近衛隊のいずれかに所属した。 |
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[[ファイル:Montfort - Adieux de Napoleon a la Garde imperiale.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|古参近衛隊との別れ]] |
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* '''[[古参近衛隊]]'''(Vieille Garde)- 近衛擲弾兵、近衛猟歩兵、近衛精鋭憲兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛猟騎兵の古参大隊、皇后竜騎兵、近衛軽槍騎兵の古参大隊、近衛徒歩砲兵の古参、近衛騎馬砲兵 |
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[[古参近衛隊]]({{lang|fr|Vieille Garde}})は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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* '''中堅近衛隊'''(Moyenne Garde)- 近衛小銃猟歩兵、近衛小銃擲弾兵 |
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: 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊 |
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* '''新規近衛隊'''({{仮リンク|Jeune Garde|fr|Jeune Garde}})- 近衛狙撃歩兵、近衛選抜歩兵、近衛海兵、近衛猟騎兵の新参大隊、近衛軽槍騎兵の新参大隊、近衛徒歩砲兵の新参 |
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: 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊 |
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=== 近衛歩兵 === |
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; 近衛擲弾兵({{lang|fr|Grenadiers-à-Pied de la Garde Impériale}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_impgren.html Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref><ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_grenadiers.html Foot Grenadiers in the Imperial Guard], Accessed March 16, 2006</ref> |
|||
: 近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊 |
|||
: 皇帝近衛擲弾歩兵連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年の[[第四次対仏大同盟|ポーランド方面作戦]]では、ナポレオン自身によって「不平屋」(''{{lang|fr|les grognards}}'')という渾名を付けられた。 |
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: 近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第4大隊 |
|||
: 構成員は近衛兵の中でも最も経験を積んだ勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、読み書きができ、勇猛さで表彰され、しかも身長が178 cm以上である必要があった。 |
|||
: 皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊 |
|||
: 皇帝近衛擲弾歩兵連隊は中堅近衛兵や新規近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝近衛擲弾歩兵は4個連隊に拡張された。新しい連隊すなわち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝近衛擲弾歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中堅近衛隊と呼ばれた。 |
|||
: 近衛マムルーク騎兵大隊 |
|||
: [[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]]でイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロイセン軍と戦った。皇帝近衛擲弾歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着て、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。 |
|||
: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第4大隊 |
|||
; 近衛猟歩兵({{lang|fr|Chasseurs-à-Pied de la Garde Impériale}}) |
|||
: 近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第4大隊 |
|||
: 皇帝近衛猟歩兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。[[猟歩兵]]連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。 |
|||
: 近衛偵察騎兵第1連隊の第1大隊 |
|||
: 猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4個連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中堅近衛兵連隊と共に、ワーテルロー会戦の最終段階で近衛隊突撃に加わった。皇帝近衛擲弾歩兵第1連隊と同様に猟歩兵第1連隊もプランスノアの戦いに参加した。 |
|||
: 近衛徒歩砲兵第1連隊 |
|||
: 猟歩兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑が縁の赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも近衛歩兵と同様に、猟歩兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref> |
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: 近衛騎乗砲兵連隊の第1大隊+第2大隊 |
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; 近衛小銃猟歩兵({{lang|fr|Fusiliers-Chasseurs}} de la Garde Impériale) |
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==== 中堅近衛隊 ==== |
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: フュジリエ(火打石銃兵)猟兵は1806年に中堅近衛歩兵の連隊として創設された。中堅近衛隊のすべての兵士は2ないし3回方面作戦に参加した古参兵であり、戦列連隊の下士官に任命された。全近衛隊の中でも問題なく優秀な歩兵であるフュジリエ猟兵連隊猟兵は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ擲弾兵連隊(下記)と共に近衛フュジリエ旅団の一部として戦闘に参加した。 |
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中堅近衛隊({{lang|fr|Moyenne Garde}})<ref>[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の次席格であった。規模的には小さく、新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げてストックし精鋭歩兵団を構成させ、又は古参近衛候補生とし、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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: フュジリエ猟兵連隊は広範な作戦行動に参加し、繰り返しその存在価値を示し続けたが、ナポレオンの退位に続く1814年に解散し、1815年のワーテルロー方面作戦に向けて再編制されることはなかった。 |
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: 近衛小銃猟歩兵連隊 |
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: 制服は赤の折り返しのある濃青のハビット(上着)を着用し、赤い縁で緑の肩章と白の襟章を着けていた。上着の下は白のチョッキと青か茶色のズボンだった。帽子は円筒帽で、白の紐が着き、緑に重ねた赤の羽毛が着いていた。武器は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と[[銃剣]]および短い[[サーベル]]だった。 |
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: 近衛小銃擲弾兵連隊 |
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: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第5大隊~第8大隊 |
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; 近衛小銃擲弾兵({{lang|fr|Fusiliers-Grenadiers}} de la Garde Impériale)<ref>[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101], Accessed March 16, 2006</ref> |
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==== 新規近衛隊 ==== |
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: フュジリエ擲弾兵連隊は1807年に結成された中堅近衛歩兵連隊である。フュジリエ猟歩兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。 |
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[[ファイル:Napoleon-imperial-guard.png|サムネイル|273x273px|近衛隊の閲兵]] |
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: フュジリエ擲弾兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ猟兵連隊と共に近衛フュジリエ兵旅団の一部として戦闘に参加した。フュジリエ猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再編制されなかった。 |
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新規近衛隊({{lang|fr|Jeune Garde}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には大半が経験の浅い召集兵と志願兵からの選抜者になった。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。 |
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: 服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は[[シャコー帽|円筒帽]]で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。 |
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: 近衛狙撃歩兵第1連隊~第16連隊 |
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; 近衛海兵({{lang|fr|Marins de la Garde}} de la Garde Impériale) |
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: 近衛選抜歩兵第1連隊~第16連隊 |
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: 近衛海兵隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、[[イギリス海峡]]を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、近衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートや[[艀|バージ]]あるいはその他の船の操船にあたった。 |
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: 近衛海兵大隊 |
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: 制服は金のレース飾りのついたネイビーブルーの[[ユサール]]風ドルマンジャケットと、やはり金のレース飾りのついたネイビーブルーの[[ハンガリー]]風ズボンだった。帽子は Gold Guard と刺しゅうされた円筒帽だった。<ref>[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>武器は歩兵と同様で、シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような[[拳銃]]も持っていた。 |
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: 近衛哨戒擲弾兵連隊 |
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; 近衛狙撃歩兵({{lang|fr|Tirailleurs}} de la Garde Impériale) |
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: 近衛哨戒猟歩兵連隊 |
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: 1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を新規近衛隊の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中堅近衛隊から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。 |
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: 近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊 |
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: 制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。 |
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: 近衛猟騎兵連隊の第5大隊~第10大隊 |
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; 近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde Impériale) |
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: 皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊 |
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: 新規近衛隊の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃擲弾兵連隊と同様だが、士官は古参近衛隊から、下士官は中堅近衛兵から編制替えされた。 |
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: 近衛軽槍騎兵第1連隊の第9大隊+第10大隊 |
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: 制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。さらに赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。 |
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: 近衛軽槍騎兵第2連隊の第5大隊~第10大隊 |
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=== 近衛騎兵 === |
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近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(''{{lang|fr|Chasseurs-à-Cheval}}'')と騎馬擲弾兵連隊(''{{lang|fr|Grenadiers-à-Cheval}}'')の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(''{{lang|fr|Gendarmes}}'')大隊および[[マムルーク]](''Mamelukes'')大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(''{{lang|fr|Régiment de Dragons de la Garde Impériale}}''、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド[[槍騎兵]]連隊(''Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais''、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスと[[オランダ]]の新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊(''2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale'')あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。1812年には第三の軽槍騎兵連隊が創設され、また、偵察兵連隊は1813年の末に創設された。 |
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: 近衛偵察騎兵第2連隊+第3連隊 |
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: 近衛名誉国防騎兵第1連隊~第4連隊 |
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: 近衛徒歩砲兵第2連隊 |
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: 近衛騎乗砲兵連隊の第3大隊 |
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近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は[[胸甲騎兵]]と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。 |
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==== 近衛歩兵 ==== |
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; 近衛擲弾兵({{lang|fr|Grenadiers-à-Pied de la Garde Impériale}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_impgren.html Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref><ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_grenadiers.html Foot Grenadiers in the Imperial Guard], Accessed March 16, 2006</ref> |
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[[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|354x354px|近衛擲弾兵]] |
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: 執政親衛隊内の2個大隊を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。1807年のポーランド遠征の中でナポレオンから「不平屋」という渾名を付けられたが、これは皇帝の前でも愚痴をこぼす事を許された彼らの特権を示すものでもあった。彼らはフランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵であり、その中には20回以上の方面作戦に参加した者もいた。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。近衛擲弾兵はナポレオンの最後の切り札とされ、他の近衛兵ほど戦闘に参加する機会はなかったが一度参戦したときは称賛に値する戦果を上げた。その後も増員され1806年に新編成された第2連隊は1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年にはオランダ近衛隊を元にした第3連隊が発足したがこれは1813年に一時解散した。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編成された。装備品は銃剣付き[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と歩兵用小剣であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。 |
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: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。 |
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; 近衛猟歩兵({{lang|fr|Chasseurs-à-Pied de la Garde Impériale}}) |
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:執政親衛隊内の1個大隊を起源とするエリート歩兵団であり、近衛擲弾兵と双璧をなして戦場では共に連携して戦う位置付けだった。1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年には第2連隊が新編成された。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。 |
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: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。銀の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。 |
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; 近衛海兵(Marins''''' ''de la Garde Impériale''') |
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:[[ファイル:Napoleon Guard Marine by Bellange.jpg|サムネイル|236x236ピクセル|近衛海兵]]1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個集団(一つの艦船の乗組員集団)で構成された。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶、ボートや[[艀|バージ]]などの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。 |
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: 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった<ref>[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。 |
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; 近衛小銃猟歩兵({{lang|fr|Fusiliers-Chasseurs}}''''' ''de la Garde Impériale''') |
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:[[ファイル:Napoleon Fusilier grenadier by Bellange.jpg|サムネイル|281x281px|近衛小銃擲弾兵]]1806年に近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde Imperiale)第1連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。当初は古参近衛隊の補欠扱いで、1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属した。続いて1810年頃に中堅近衛隊が創設されるとそこに昇格する形となった。彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下でも再建される事はなかった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛小銃擲弾兵({{lang|fr|Fusiliers-Grenadiers}}''''' ''de la Garde Impériale''')<ref>[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101], Accessed March 16, 2006</ref> |
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: 1806年に近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde Imperiale)第2連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃擲弾兵連隊に改称された。彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵連隊と同じ様な経歴を辿った。猟歩兵の相方に対して彼ら擲弾兵の方が後番になってるのは、軽歩兵を主とし戦列歩兵を従とするナポレオンの新しい戦術構想が反映されてのものだった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛狙撃歩兵(Tirailleurs''''' ''de la Garde Impériale''') |
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:[[ファイル:French attack in 1812 in Russia.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|近衛狙撃歩兵]]1809年に狙撃擲弾兵(Tirailleurs-Grenadiers)として組織され、翌年に狙撃歩兵と改称された。まず2個連隊が編成され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が優先的に入隊した。次々と連隊が新設され1814年には16個連隊が存在した。古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって編入され、新規近衛兵たちを鍛えて戦場に導く形となった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛選抜歩兵(Voltigeurs''''' ''de la Garde Impériale''') |
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: 1809年に狙撃猟歩兵(Tirailleurs-Chasseurs)として組織され、翌年に選抜歩兵と改称された。まず2個連隊が編成され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を敷き共に連携して戦った。散開する軽歩兵の比率が高い近衛歩兵隊はその散兵線の広さが特徴だった。 |
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: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。 |
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'''近衛哨戒擲弾兵(Flanqueurs-grenadiers de la Garde Impériale)''' |
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:[[ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg|サムネイル|294x294ピクセル|近衛哨戒擲弾兵と近衛哨戒猟歩兵]]ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。 |
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: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの赤い羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。 |
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'''近衛哨戒猟歩兵(Flanqueurs-chasseurs de la Garde Impériale)''' |
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: ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。 |
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: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑色の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。 |
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==== 近衛騎兵 ==== |
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; 近衛騎馬擲弾兵({{lang|fr|Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale}}) |
; 近衛騎馬擲弾兵({{lang|fr|Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale}}) |
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:「神」(''Gods'')とも「巨人」(''Giants'')とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの近衛騎兵連隊の中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。 |
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:[[ファイル:Guard Grenadier at Eylau.jpg|サムネイル|253x253ピクセル|近衛騎馬擲弾兵]]執政親衛隊内の1個大隊を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。 |
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: すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。 |
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:近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵連隊は、近衛軽槍騎兵第1連隊と共に騎兵戦闘において一度も負けた事がない近衛騎兵であった。 |
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: この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア軍近衛騎兵を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘は[[アイラウの戦い]]の時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて兵達は退避場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシア軍の戦列になだれ込んだ。皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない近衛騎兵連隊であった。 |
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:制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。 |
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: 制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。 |
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; 近衛猟騎兵({{lang|fr|Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale}}) |
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:重騎兵用のサーベルと騎銃、拳銃で武装しており、皇帝近衛軍の全部隊と同様に、彼らも戦闘時には予備隊として控え、勝利を確実にするここぞという時にだけ戦場に出ており、擲弾騎兵の最も有名な2つの攻撃がアウステルリッツの戦いでロシア胸甲騎兵連隊を敗走に追い込んだ事とアイラウの戦いで再び、ロシア軍と交戦した事である。 |
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[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|235x235px|近衛猟騎兵]] |
[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|235x235px|近衛猟騎兵]] |
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; 近衛猟騎兵({{lang|fr|Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale}}) |
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:1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵中隊を編成しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは後に執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の短い間に2個目の連隊も作られていた。 |
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:「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽近衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊のひとつと言える。 |
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:近衛猟騎兵は隊形を重視せず高度に連携の取れた戦いをした。彼らは最優秀の斥侯であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。アウステルリッツの戦いで武勲を挙げたが、スペインの戦場ではイギリス騎兵の奇襲で大きな被害を出した。だが概ね活躍してその戦歴を飾りワーテルローの戦いでも勇敢な戦いぶりを見せた。 |
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: フランス革命の1796年、ナポレオンは[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア遠征]]に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽騎兵に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵の創設を命じた。<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_guides1796.html By Order of the Commander-in-Chief: the Origin of the Guides-a-cheval], Accessed March 16, 2006</ref>この時の200名の護衛が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。 |
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:彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い外套をマントの様に羽織り、金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(''colpack'')をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。 |
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: 部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した。[[半島戦争|半島方面作戦]]では、1808年のベナヴェンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。 |
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; 近衛精鋭憲兵(Gendarmes d'élite de la Garde impériale) |
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: 騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。 |
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:[[ファイル:Gendarme d'élite au quartier général de l'Empereur.jpg|サムネイル|251x251ピクセル|近衛精鋭憲兵]]執政親衛隊時代から2個大隊(escadron)が存在した。更に徒歩精鋭憲兵の1個大隊(bataillon)もあった。皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵達から畏怖される存在であった。皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つと共に、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は戦闘に参加する機会も増え、1809年の[[アスペルン・エスリンクの戦い|アスペルン=エスリンクの戦い]]におけるドナウ橋の防衛戦で名を馳せた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵隊からの者もいた。 |
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:; 近衛[[マムルーク]]({{lang|fr|Escadron de Mamalukes}}) |
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: 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった。 |
|||
:: 砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊。元々は皇帝近衛猟騎兵連隊所属の中隊(あるいは半大隊)であった。 |
|||
; 近衛マムルーク騎兵(Mamelouks de la Garde impériale) |
|||
:: ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官はフランス人であり、下士官は[[エジプト]]人や[[トルコ]]人ばかりでなく、[[ギリシア]]人、[[グルジア]]人、[[シリア]]人、[[キプロス]]人なども含まれていた。 |
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:[[ファイル:Mamelouks au défilé.JPG|サムネイル|246x246ピクセル|近衛マムルーク騎兵]]ナポレオンは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し独自の軍旗を獲得して古参近衛隊所属の独立大隊に昇格した。1813年には第二のマムルーク中隊が新規近衛隊に新編成された。この両部隊は近衛猟騎兵と連携して1815年の百日天下を戦った。 |
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:: 1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には古参近衛隊の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され新規近衛隊に所属した。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。 |
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: 彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い[[シャムシール|三日月刀]]と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。 |
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:: 制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った[[シャムシール|三日月刀]]に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。 |
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; 皇后竜騎兵({{lang|fr|Dragons de l’Impératice}}) |
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; 近衛精鋭憲兵({{lang|fr|Gendarmerie d’Elite}}) |
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:[[ファイル:Officier des dragons de la Garde impériale.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|皇后竜騎兵]]1806年に近衛竜騎兵(Dragons de la Garde Impériale)連隊として創設されたが翌年に改称された。儀仗兵となる機会が多かった。実質3番目の近衛騎兵隊である彼らは、その装備品から見ても中騎兵的位置付けだった。この連隊も最後までナポレオンと共に戦った。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。 |
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: 滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目を果たした。ジャンダルムは大陸軍の[[憲兵]]であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し<ref name=":0" />、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。 |
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: 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。 |
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: 1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスペルン=エスリンクでの[[ドナウ川|ドナウ]]橋の防衛で有名である。 |
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; 近衛軽槍騎兵({{lang|fr|Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale}})<ref>[http://www.napoleonseries.org/military/organization/frenchguard/c_polishlancers1.html Napoleon's Polish Lancers], Accessed March 16, 2006</ref> |
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: 制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。 |
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:実質4番目の近衛騎兵隊であり、ナポレオンはポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])を高く評価して、1810年以降の騎兵編成にはこの槍を用いるポーランド式が最も多く取り入れられていた。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いており、それがポーランド流儀であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃を携行していた。 |
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; 皇妃竜騎兵({{lang|fr|Dragons de l’Impératice}}) |
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: 1807年に皇帝近衛竜騎兵連隊(''{{lang|fr|Regiment de Dragons de la Garde Impériale}}'')として創設され<ref name=":0" />、翌年皇妃[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョセフィーヌ]]に敬意を表して改称された。 |
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: この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の近衛連隊からの志願者も編入を認められた。 |
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: この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので<ref name=":0" />、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、古参近衛隊と新規近衛隊の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。 |
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; 近衛軽槍騎兵({{lang|fr|Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_polishlancers1.html Napoleon's Polish Lancers], Accessed March 16, 2006</ref> |
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:; 第1連隊(ポーランド) |
:; 第1連隊(ポーランド) |
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:: 1807年にナポレオンがポーランド軽騎兵の近衛連隊を創設することを承認した。フランス人の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽騎兵を側近に置き、翌年の[[ソモシエラの戦い]]では、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の古参近衛隊と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。古参近衛隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊と同じく、敵に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ヴィスツラ・ウーラン(''1e Vistula Uhlans'')というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。 |
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:: [[ウーラン]]槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は珍しくなく、ここによく表されている。フランス人に教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となり、彼らの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。 |
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: 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。 |
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:; 第2連隊( |
:; 第2連隊(フランス=オランダ) |
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:: 1810年にフランス人とオランダ人が中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵(''Les Lanciers Rouges'')と呼ばれた。 |
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:[[ファイル:Lanciers rouges de la Garde impériale.JPG|サムネイル|222x222ピクセル|赤い槍騎兵]]1810年にオランダの3個部隊を元にして編成された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(Les Lanciers Rouges)と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後まで槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。 |
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:: この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた。連隊は1813年に再編制され、その最初の4個大隊は古参近衛隊で構成されたために強力になり、さらに新規近衛隊から6個大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも参加した。 |
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:制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。 |
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:; 第3連隊( |
:; 第3連隊(ポーランド) |
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: 1812年に |
:: 1812年に新規近衛隊の一部として編制された。士官や下士官は古参兵であり、兵卒はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で、熱烈ではあるがまだ経験が足りない者たちで構成された。 |
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:: 訓練が足りないままにロシア戦役に投入され、1812年の遅く、コサックとユサールによって包囲され[[スロニム]]で崩壊した。 |
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: 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。 |
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; 近衛 |
; 近衛儀仗騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale) |
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: 1813年に新設された彼らは、ナポレオンが新しく考案したサポート専門の騎兵であり、近衛騎兵の各連隊に随伴して、様々な支援任務をこなすことを求められた。これを儀仗兵(Gardes d'honneur)に例えた。新しく徴集した富裕層子弟中心の青年騎兵から選ばれた者たちで4個連隊が編制された。これを発展させて高度なスカウト任務も与えられた者たちが、近衛偵察騎兵になった。 |
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: 第六次対仏大同盟の結成で予期される諸外国の大規模な侵攻に備える為に、ナポレオンの指示で1813年に新設された。主に上流家庭と富裕家庭出身の20歳から26歳の子弟、約15,000名を半ば強制採用して4個連隊が編成された。彼らは「人質」と暗に呼ばれていたという。彼らの家庭が持つ財産は帝国の権威の下で保証されていたので、その理由もあって駆り出されていた。馬と装備品の費用も自腹だった。彼らの戦闘技術は明らかに近衛騎兵の水準ではなかったが、その身分と立場上の理由から皇帝近衛隊に加えられた。彼らは軽騎兵科であり、他の近衛部隊に随伴して支援任務を担当した。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。 |
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: 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの外套をマントの様に羽織っていた。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。 |
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; 近衛偵察騎兵({{lang|fr|Eclaireurs de la Garde Impériale}}) |
; 近衛偵察騎兵({{lang|fr|Eclaireurs de la Garde Impériale}}) |
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: モスクワからの惨憺たる退却中、ナポレオンは数多くのコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝近衛隊の再編制期間中に、彼らを参考として新しい騎兵旅団を創設した。そして各1,000名から成る3個連隊が創設されて既存の連隊に付けられた。第1連隊はクロード・テスト・フェリColonel-Major(皇帝近衛隊限定の[[上級大佐|名誉大佐称号]])が指揮した。(1814年[[3月14日]]にクラオンヌの戦場で彼は負傷し、ナポレオン自身から[[男爵]]の称号を授かった) |
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:[[ファイル:Sous-officier des éclaireurs-grenadiers, 1814.jpg|サムネイル|287x287ピクセル|近衛偵察騎兵]]ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編成された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。彼らは1814年のフランス防衛戦に参加したが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。 |
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: 第1連隊第1大隊の制服は黒い毛皮高帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。 |
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=== 近衛砲兵 === |
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;近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde impériale) |
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:この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は当初3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で、重砲4門または軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核にした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて、新規近衛隊の支援砲兵になり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は、近衛徒歩砲兵第1連隊を形成して、古参近衛隊の支援砲兵になる他、皇帝直率の予備砲兵になった。 |
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;近衛騎馬砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde impériale) |
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: 制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。 |
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:近衛騎馬砲兵の採用には、最高に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は、徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は、全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。3個大隊構成で、各大隊は2個中隊を擁しており、各中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。 |
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; 近衛騎乗砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde Impériale) |
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:[[ファイル:Artillerie a cheval garde tanconville.jpg|サムネイル|264x264ピクセル|近衛騎乗砲兵]][[ファイル:Napoleon Guard Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|295x295ピクセル|近衛砲車牽引兵と近衛砲兵]]前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年からこの大変な経費を必要とする近衛騎乗砲兵中隊の増設に力を注ぎ連隊規模まで拡張した。最終的な近衛騎乗砲兵連隊は3個大隊で構成され各大隊は2個中隊を擁していた。各中隊は6ポンド砲6門を保有した。近衛騎乗砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。その動きを目の当たりにした[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]公は「彼らはまるで拳銃を撃つように大砲をぶっ放している!」と記している。近衛騎乗砲兵連隊は徒歩と騎乗双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も超一流のものが選ばれており巨大で怪力の黒い馬が必須条件とされた。もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎乗砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。 |
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: 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの外套をマントの様に羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。 |
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; 近衛砲車牽引兵(Train d’artillerie de la Garde Impériale) |
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:皇帝近衛隊は独自の砲車牽引兵を持っており、近衛砲兵中隊が増設されるにつれて近衛砲車牽引兵中隊も増やされ、大隊(bataillon)から最終的には連隊(régiment)で管理されるようになった。増員のピークは1813年から1814年にかけてで第1連隊は12個中隊を一括管理し古参近衛隊に所属した。第2連隊は15個中隊を一括管理し新規近衛隊に付いて大砲運搬を支援した。割り当ては一つの砲兵中隊(batterie)に一つの砲車牽引兵中隊(compagnie)が付くというものだった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997</ref>。 |
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== 騎兵 == |
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皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。1個騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、各大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「精鋭」と称され、最高の兵士と馬があてられた。 |
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”La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。この言葉の解釈は様々だが、戦闘前の騎兵偵察はナポレオンが特に重視した分野であり、作戦中の司令官は軽騎兵からのレポートを逐一受け取り幅広い現状把握に努めるべきだと考えていた。また重騎兵による肉弾突撃を今まで以上に多用したのもナポレオン戦術の特徴であり、結果として敵のみならず味方騎兵の被害をも拡大する事になった。ナポレオンは騎兵との連携を必須とし、なるべく二割以上の騎兵比率を維持するよう各軍に指示していた。 |
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フランス革命の流れの中で、封建制度([[アンシャン・レジーム]])の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。 |
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役割に応じて重騎兵と軽騎兵に分けられた。 |
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騎兵は直線的な白兵戦を専門とする'''重騎兵'''(Cavalerie lourde)と柔軟な機動任務を専門とする'''軽騎兵'''(Cavalerie légère)の二つの兵科があった。これらは二つのランクに分ける事ができた。カービン騎兵と胸甲騎兵は重騎兵の一線級であり竜騎兵は二線級だった。ユサール騎兵は軽騎兵の一線級であり猟騎兵は二線級だった。槍騎兵はポーランド式騎兵を高く評価したナポレオンが後年に導入したもので、正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵だった。 |
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=== 重騎兵 === |
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; [[胸甲騎兵]](''{{lang|fr|Cuirassiers}}'')<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編|date=|year=|publisher=創元社|pages=}}</ref><ref name=":1">{{Cite book|和書|title=図解 ナポレオンの時代武器防具戦術大全|date=|year=|publisher=レッカ社|pages=}}</ref><ref name=":6" /><ref name=":3" /><ref name=":2" /><ref name=":5" /> |
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; [[胸甲騎兵]](''{{lang|fr|Cuirassiers}}'') |
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: 胸甲騎兵は中世の[[騎士]]の如く重い真鍮や鉄製の兜に胴体を包む胸当てと背当ての組み合わせの胴鎧(胸甲)を着け、斬撃も出来るが、刺突により向いており、統制のとれた突撃では切っ先を使って刺突する事が多かった長くて重い直刀型サーベル(サーベルは騎兵の主要武器であり、その形状は兵科により様々であり、重騎兵は長くて重い直刀型サーベルを好み、軽騎兵は軽量の曲刀型サーベルを好んだ<ref name=":1" />)と1対の拳銃、[[カービン]]銃で武装していたが、ほとんどの胸甲騎兵はすぐに騎銃を持たなくなった。フランス胸甲騎兵はナポレオン時代の最強の重騎兵であり<ref name=":6">{{Cite book|title=戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編|date=|year=|publisher=学研|pages=11}}</ref>、彼らは戦場ではほぼ無敵であり、アイラウやボロジノの戦いでその真価を見せつけた。戦場ではほぼ激突攻撃だけに用いられ、突撃任務において特別な能力を持っていたが<ref name=":3">{{Cite book|title=近世近代騎兵合同誌|date=|year=|publisher=サークル騎兵閥|pages=41,40,42,43}}</ref>、自前のピストルを使用した散兵戦もある程度は行えた。1812年の装備改定にて胸甲騎兵もカービン銃を装備するようになった<ref name=":3" />。兜と胸甲は銃弾とサーベルと騎兵槍に対する十分な防御効果を持っていた。また、彼らは敵の前進に対する効果的な反撃部隊としても使う事ができ、もし彼らが縦隊や横隊の歩兵を発見し、側面や背後を襲撃する事が出来れば、重騎兵が隊列に突進して、歩兵を斬る、馬の蹄で踏みつけるといった攻撃で、敵を壊滅させられた<ref name=":1" />。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。 |
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:[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|サムネイル|221x221ピクセル|胸甲騎兵]]彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、重量の胸甲を身に着け、鉄と真鍮製の兜をかぶり、直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にはカービン銃も装備品となったが多くの者が持つのを嫌ったという。胸甲騎兵は当初25個連隊が編成されたが、適格とされた上位12個連隊に選別され残りは竜騎兵に転向させられた。最終的には16個連隊となった。力の強い大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し、しばしば戦いの流れを変える決定打となった。何があっても突撃する事を義務付けられた胸甲騎兵には大きな勇気が必要であり、代わりに高い名誉が与えられた。彼らの胸甲はマスケット銃には無力だったが、遠くからの拳銃と流れ弾ならばはね返す事は出来た。何より胸甲は白兵戦の中で大きな防護効果を発揮し、刀剣と槍の打撃から身を守り続けた。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う重い胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量編成と補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用して、それが大陸軍の強さにつながった。 |
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: 騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。彼らの着けている甲冑や武器の重量のために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出した。胸甲騎兵は精鋭とし<ref name=":2">{{Cite book|title=兵士の歴史大図鑑|date=|year=|publisher=創元社|pages=158,159,160}}</ref>ての自覚を持ち、多数の竜騎兵を含む騎兵の予備部隊の中核をなし、予備の騎兵は勝敗を決する決定的な時期にのみ、熟慮の末に投入され、大集団で運用された<ref name=":2" />。重騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンの近衛騎兵だと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍([http://www.london-tower.info/Horse-Guards/horse-guard.jpg Horse Guards])にも採用しようとした。 |
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: 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。 |
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:ナポレオンの胸甲騎兵の運用思想は、敵を総崩れにさせられる地点を戦場で見つけ、騎兵突撃の圧倒的な威力を投入するというものだった<ref name=":2" />。理論上は騎兵突撃開始前に砲兵が準備砲撃を実施しておき、砲撃で弱体化した敵に速度を徐々に上げた騎兵が突入する事になっていた<ref name=":2" />。速歩から始まる胸甲騎兵の突撃は、やがて駆歩へと速度を速め、そして敵陣から150mの位置に迫った時に襲歩へと移行し始め、最後の50mは全速力で疾走する事になる<ref name=":2" />。だが、現実にはフランス軍の司令官は胸甲騎兵に密集隊形をとらせるのを好んだために、理論通りの急激な速度変更は難しかった<ref name=":2" />。司令官たちは胸甲騎兵に大群で緊密な隊形を組み、将兵のブーツ同士が触れるほどになるように命じたが、密集陣形を維持するのは難しく、実際には速度を上げるのは不可能であり、当然のことながら、個々の騎兵が自主性を発揮する機会は奪われた<ref name=":2" />。しかし、このような運用により、胸甲騎兵部隊の前進を阻止するのはほぼ不可能になり、敵騎兵の隊列を崩し、緊密な陣形を組めない歩兵を蹄とサーベルで粉砕できるようになった<ref name=":2" />。だが、それでも胸甲騎兵は、銃剣を装着した歩兵の緊密な方陣、例えば、ワーテルローの戦いに見られたようなものを突破できる戦術を持たず、また、密集隊形での突撃は照準を的確に行う敵砲兵に対して脆弱性をさらす事にもなった<ref name=":2" />。しかし、カトル・ブラの戦いやその後のワーテルローの戦いで、フランス胸甲騎兵の突撃を持ちこたえた強靭なイギリス方陣のイメージは全ての歩兵大隊は方陣を組むべきで、方陣は騎兵攻撃に耐えられるという誤った印象を与えるが、これは間違った考え方であり、ナポレオン戦争時のイギリス歩兵は、当時の最強歩兵であり、彼らの士気と訓練は他に類を見ないもので、実際にナポレオン戦争ではフランス騎兵も同盟国側の騎兵も歩兵の方陣を崩しており、単にある隊形を組むだけでは騎兵突撃を撃退する事は出来ず、頑健な精神に並外れた訓練、冷静な勇気がなければ、押し寄せてくる重騎兵の攻撃を前にして、歩兵方陣を断固として持ちこたえる事は出来ない<ref name=":1" />。その全てがあっても部隊が圧倒される事もあり、イギリス歩兵がカトル・ブラとワーテルローで成し遂げた事はとてつもない偉業である<ref name=":1" />。 |
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:この時代の多くはそれぞれ侮りがたい騎兵部隊を保持しており、フランス革命戦争では列強の騎兵はほぼ互角だったが、ナポレオンが1805年の征服戦役で大陸軍を立ち上げると、フランス騎兵は世界最強の存在となり、なかでも胸甲騎兵はナポレオン戦争において支配的な部隊であり、イギリスのスコッツ・グレイズ(第二竜騎兵連隊)やロシアの近衛騎兵など同様の力量がある精鋭部隊は他国にもあったが、全体として見ると1800年から1812年までのフランス重騎兵は無類の存在だった。しかし、ロシア戦役においてフランス騎兵部隊が崩壊し、その後の1813年と1814年の戦役ではフランス騎兵は以前の様に交戦相手を支配する事が出来なかった。オーストリア軍とロシア軍とプロイセン軍にも胸甲騎兵の連隊はあったが、彼らはフランス胸甲騎兵の技量と豪胆さにはとても太刀打ち出来ず、いつも負かされており、実のところ、同盟軍の多くの騎兵は、重さと鞍の上での動きの問題があるという理由で、胸甲を廃止すらしており、1809年までにオーストリア軍は胴体の前だけ覆いがあり、脇と背中はそのままの半胸甲を胸甲騎兵に支給し始めており、この半胸甲は胸甲騎兵を軽量化し、戦役における馬の負担を減らしたが、フランス重騎兵との混戦では攻撃されやすくもなった。ナポレオンは胸甲騎兵について以下の言葉を残している<ref name=":1" />。 |
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:「胸甲騎兵は他の全ての騎兵よりはるかに役に立つ。この兵科は……十分に教育する必要がある。胸甲騎兵こそ、馬に乗る兵の知識が最高度に達していなければならないのだ」 |
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:重騎兵でも軽騎兵でも力点が置かれるのは激突戦術で、火器はサーベルや槍に次ぐ補助的な武器であり、ほとんどの騎兵は拳銃を携帯しており、中には騎銃を持つ者もおり、重騎兵は敵の方陣を攻撃する時によく拳銃を使い、それは決着を着ける武器ではなく、敵に苛立ちを起こす武器であった<ref name=":1" />。攻撃する騎兵は常に動いているために、一度、拳銃を発射したら襲歩で駆けている騎兵が再装填する事はほぼ不可能であり、拳銃は騎兵同士の混戦でも使う事が出来たが、接戦においては常に、誤射の可能性が高く精度の低い単発の拳銃よりサーベルが好ましかった。また、ナポレオン戦争が進むにつれ、騎銃は騎兵の武器の中で重要度を増していった。 |
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; [[ドラグーン|竜騎兵]]({{lang|fr|Dragons}})<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref name=":2" /> |
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; カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval) |
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: 重騎兵とも思われていたが、竜騎兵と槍騎兵(オーストリア軍とプロイセン軍のウーラン)は重騎兵と軽騎兵の混合であり<ref name=":1" />、竜騎兵は胸甲騎兵の様な防具を身に着けていなかったために、銃弾を掻い潜りながら、突撃する任務には適していなかったが、代わりに軽装備で機動性に優れており、敵をけん制して隊列を崩す、偵察をこなすなど胸甲騎兵とは別の分野で活躍した。フランスの騎兵で最も数が多かったのが竜騎兵であり、ナポレオン戦争の初期には、竜騎兵が胸甲騎兵と共に戦果をあげる事が多く、重騎兵の一種の補助兵力として機能していた<ref name=":2" />。 |
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:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から選抜されたエリート部隊であり2個連隊が編成された。赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履き、大きな黒馬にまたがる姿は近衛騎馬擲弾兵とよく似ていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。 |
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: 彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的な直刀型サーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗だけでなく歩兵のように徒歩でも戦えるようになっていた。その融通性は歩兵としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎兵のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎兵に適した馬を見つけることも大変であった。騎兵馬欠乏の際にはしばしば歩兵士官の乗用馬が提供させられたので、ステータスである騎乗を断念させられた歩兵将校の中には、竜騎兵に対して反感を持つ者もいたようである。 |
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: 当初25個連隊、後に30個連隊あったが、1815年の「[[百日天下|百日]]」の時はわずか15個連隊しかできなかった。 |
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; カービン銃騎兵(Carabiniers-à-Cheval)<ref name=":0" /> |
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; [[ドラグーン|竜騎兵]]({{lang|fr|Dragons}}) |
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: その前身は、フランス国王軍の精鋭騎兵隊である。カービン銃騎兵は、胸甲の防御に頼らない素早い剣さばき技術と、馬上射撃技術の伝統部隊であった。もっとも当時のヨーロッパ諸国の重騎兵の多くは重量胸甲を身に着けていなかったので、こちらの方が標準である。ナポレオン軍独特の胸甲騎兵が無謀な突撃を多用していたのに対して、カービン銃騎兵は馬上射撃と分別ある切り込み白兵戦を専門にしていた。 |
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:[[ファイル:Battle of Jena.jpg|サムネイル|258x258ピクセル|竜騎兵]]彼らは重騎兵に区分されるが用途的には中騎兵として認識されており、正面戦闘の構成員となって白兵戦を挑む他、前哨戦や遭遇戦の小競り合い、哨戒と偵察の任務にも当たった。彼らは二線級の重騎兵として扱われたが多芸で汎用な存在でもあった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。なお、竜騎兵の為の軍馬調達の努力が怠られていた訳ではなく、必要ならば軍の指示で歩兵将校達の乗用馬を提供させる事もあった。これは竜騎兵の格式を示すのと同時に、歩兵将校達に竜騎兵への反感を持たせる事にもなった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組されたが、これは槍武装に対応出来ると見込まれた故での指示でもあった。そして1815年には軍馬の欠乏から15個連隊まで規模縮小されていた。 |
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:1812年にナポレオンは彼らにも鉄の胸甲を着けるように命令した。胸甲を着用しないことを誇りにしていた彼らは大いに口惜しがったが、ローマ帝国風の金色胸甲を着用したカラビニエは、フランス帝国式の銀色胸甲を着用するキュラシエとの、ファッションの対象をなした。フランス胸甲騎兵と騎馬騎銃兵という装甲騎兵はヨーロッパの戦場を支配する舞台となり、同盟軍の悩みの種となった。重騎兵としてナポレオン自身が散兵任務を行わせない様に厳命していたが、騎馬騎銃兵も必要に応じて散兵戦を行った<ref name=":3" />。 |
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: 制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。 |
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=== 軽騎兵 === |
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; [[ユサール]] |
; [[ユサール]] ({{lang|fr|Hussards}})<ref name=":1" /> |
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: ユサールは全軍の中でも最も優れた騎乗技術と剣術の精鋭たちで、危険な任務も恐れない命知らずたちであった。 |
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:[[ファイル:9e Hussards, par Victor Huen.jpg|サムネイル|ユサール騎兵]]この高速度の精鋭騎兵は各司令官の目となり耳となって軍隊の針路を決定した。ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は特に敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯兵を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは、軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、その中で特に目覚しい働きを見せていたのがユサール騎兵だった。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であった。30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主であると言われた。1804年に10個連隊が編成され、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊となった。 |
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: 曲刀型サーベルとピストルを携帯して任務にあたり、ユサールの行軍速度はフランス軍の中でも最速で、彼らはその機動力を活かして偵察隊としてのパトロールや敵を撹乱するための襲撃や味方の動きを察知されない様に警戒幕を構成して敵の目から隠した<ref name=":2" />。 |
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: ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は黒い毛皮高帽だった。 |
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: 1804年には10個連隊、最盛期には14個連隊あった。銃剣を装備する様に命じられた記録もあるが、実戦で彼らが、銃剣を使用したか、あるいは所持し続けたかどうかはわからない<ref name=":4">{{Cite book|title=ナポレオンの軽騎兵 華麗なるユサール|date=|year=|publisher=新紀元社|pages=14-15,25,38}}</ref>。また、非常に変則的で稀な武装形態として騎兵槍もあった<ref name=":4" />。 |
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; [[猟騎兵]](Chasseurs-à-Cheval) |
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:「30歳までに死ななかったユサールは下衆野郎だ」という言葉も残されており、死傷率は高かった。 |
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:[[ファイル:Grande Armée - 1st Regiment of Chasseurs à Cheval.jpg|サムネイル|201x201ピクセル|猟騎兵]][[ファイル:Napoleon French Lancer by Bellange.jpg|サムネイル|259x259ピクセル|槍騎兵]]彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで、偵察、哨戒、斥侯、奇襲、遊撃、援護、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年には24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊は外国人部隊でありベルギー人、スイス人、イタリア人、ドイツ人で構成された。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く、訓練も簡素で短い事がその規模拡張を容易にしていた。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけの事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。同様の理由で1815年には15個連隊まで規模縮小されていた。 |
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; [[猟騎兵]](Chasseurs-à-Cheval)<ref name=":1" /> |
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:猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。 |
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: 上記のユサールと武装や役割が似た軽装騎馬隊だが、騎銃を装備し、状況によっては徒歩で戦う点を除けば、ユサールと同じ様なものだった<ref name=":2" />。銃器を部隊に多く配備されていた為に猟騎兵は銃器をもって行う騎馬散兵戦や騎兵幕の形成を得意としているが、突撃が出来ないわけではない<ref name=":3" />。ただし、上述の皇帝近衛猟騎兵連隊や歩兵の類似部隊とは異なり、特権的なものもなく、精鋭でもなかった。しかし、最も数の多い部隊であり、1811年に31個連隊あった。このうち6個連隊は非フランス人部隊であり、[[ベルギー人]]、[[スイス]]人、イタリア人、ドイツ人で構成された。 |
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; [[槍騎兵]]({{lang|fr|Lancers}}) |
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: 制服は色遣いが少なく、歩兵とおなじような円筒帽(ユサールの目立つ熊毛帽と対照)、緑の上着、緑の乗馬用ズボンと短い長靴だった。 |
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:[[ファイル:Lancer.jpg|サムネイル|237x237ピクセル|ポーランド槍騎兵]]かねてよりポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])の強さに感銘を受けていたナポレオンは、ロシア遠征に備えて1811年から6個の竜騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編成当初は全隊列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド流戦術の正しさが証明されると、後列の槍騎兵には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、先の6個連隊の方は急造による不慣れと訓練の不足からロシア遠征では苦戦を強いられる事が多かった。てこ入れとして本場である同盟国ポーランドから2個の槍騎兵連隊が追加された。更にドイツ人猟騎兵連隊から改組された槍騎兵連隊も加えられた。 |
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; [[槍騎兵]]({{lang|fr|Lancers}})<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref name=":3" /><ref name=":2" /><ref name=":5" /> |
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: 制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。 |
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: 細長い騎兵槍をメインウェポンとし、曲刀型サーベルと拳銃をサブウェポンとして装備、胸甲とヘルメットも装備<ref name=":5">{{Cite book|title=ナポレオンの軍隊 近代戦術の視点からさぐるその精強さの秘密|date=|year=|publisher=光人社NF文庫|pages=83,82}}</ref>、時には騎銃(カービン銃)も加えて武装する騎兵<ref name=":3" />。雨天でマスケット銃が湿る場合は槍が敵歩兵に対して効果的だったが、騎兵同士の乱戦では槍はサーベルに対し、不利だった。<ref name=":5" /> |
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=== 歩兵 === |
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:古代から中世の戦場において、騎兵たちの主要武器は常に槍であり、槍を装備した騎兵たちの突撃は高い攻撃力を誇り、戦場の花形として活躍していたが、17世紀には東欧を除くヨーロッパの戦場では騎兵槍はほとんど使われなくなっていた<ref name=":3" />。16世紀半ばにピストルが発明され、ピストルと剣を主力武器とする騎兵のコストパフォーマンスの良さとピストルの槍を上回る射程、投射武器や歩兵の槍による脅威度の上昇により重武装、重装甲化を始めたことにより、16世紀頃には12世紀の軽快さを失っていた事、重装過ぎる騎兵の槍による突撃戦法は長槍を装備した歩兵の前では効果は薄く、また、火薬を得て更に強力になった投射武器の前では近づく事も困難であった事が原因であり、西欧において、兵科としての槍騎兵は一旦の滅亡を迎えた<ref name=":3" />。しかし、東欧においては事情が異なり、長槍、後にマスケット銃を装備した歩兵の密集陣形が主流であった西欧とは違い、東欧各国が正対した脅威は短い槍や火縄銃(後にフリントロックマスケット)などを装備したオスマン軍の各種近接歩兵の波状攻撃であり、十分に騎兵が運動し、迂回などが容易に出来る戦場であった<ref name=":3" />。これらの歩兵には依然として騎兵による突撃戦法が必要で、正面突撃こそ頻度が減ったものの、槍騎兵の迂回突撃は十分に決定的な突撃となり得るものであった<ref name=":3" />。重装な槍騎兵というものは火力の上がる戦場において生存が難しくなっていたが、軽装な槍騎兵は戦場で活躍する余地が十分に残されており、また、軽装化した槍騎兵は重要性が上がる軽騎兵任務において使用が可能であるという利点も存在し、この様な土壌と、民族的要因による槍騎兵復興の運動が合致し、槍騎兵復興運動の萌芽が生まれた<ref name=":3" />。ナポレオン戦争期における槍騎兵の復興運動はこの様な文脈の上に存在した<ref name=":3" />。 |
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”Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite. ”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。 |
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:ナポレオン戦争時のフランス槍騎兵は突撃兵科である重騎兵ではなく、偵察、哨戒、捜索、騎兵幕の作成などを行う軽騎兵として編成された。各国の槍騎兵の編成も重騎兵ではなく、中騎兵や軽騎兵の編成を取る事が多かった<ref name=":3" />。しかし、軽騎兵的な運用が主であるとは言え、会戦に投入されることもままあった<ref name=":3" />。特に槍は突撃において曲刀に優っており、対騎兵戦闘で有利とされ、また、方陣に対し、銃剣よりもリーチで優る槍は対歩兵において曲刀や直剣より効果的であったとされ、一種の「万能騎兵」的な側面があったが、ただし、これは槍騎兵に限った話ではなく、他の軽騎兵でも同様であった<ref name=":3" />。当時の騎兵マニュアルにおいて、騎兵がサーベルで攻撃する際は銃剣をパリィするという動作があるのに対し、槍騎兵の章では省かれており、また、歩兵に対する攻撃のみならず、歩兵に対する追撃においても槍は威力を発揮した<ref name=":3" />。追撃されている歩兵は騎兵を回避する為に伏せる行為を行ったが、槍は伏せている人間を突くことも出来た<ref name=":3" />。しかしながら、いくら歩兵に対して強力であろうとも、歩兵が組んだ方陣には限定的な効果しかなく、事例としては、シウダッド・レアル、ドレスデン、カツバッハなどの事例にて槍騎兵は歩兵の方陣を崩す事に成功しているが、カツバッハの戦いは大雨であったために、歩兵が発砲する事が出来なかった<ref name=":3" />。また、方陣を崩す事に成功した場合よりも、方陣を崩すことに失敗、あるいは断念した場合の方が圧倒的に多く、槍の優位性を以てしても、歩兵の方陣を崩す事は困難であり、それらの攻略には諸兵科連合による攻撃か重騎兵が必要であった<ref name=":3" />。 |
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:騎馬戦においては槍の突撃における衝撃能力の高さは広く認知されていたものの、白兵戦においての取り回しの悪さが懸念となっていた<ref name=":3" />。戦績を見ると軽騎兵との戦闘においては多くの勝利を収めており、突撃に成功した場合は槍騎兵は軽騎兵に撃退されることがほとんどなく、また、竜騎兵などの中騎兵に対しても、突撃を行った場合は勝利を収める可能性が高いが、フリーラントの様に最終的に白兵戦にて敗北した例も存在する<ref name=":3" />。各種親衛隊騎兵や胸甲騎兵や騎馬騎銃兵などの重騎兵に対しての不利は存在し、ほとんどの戦闘が槍騎兵の敗北に終わっている<ref name=":3" />。また、槍はひしゃげたり折れたり敵に突き刺さったままに抜けなくなる場合があり、少なくともこれらの欠点はどの国もある程度は事実であると考えていたために、全ての国の槍騎兵は予備の武器としてサーベルを携帯した<ref name=":3" />。 |
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:騎兵槍は使いこなすことが難しく、槍を使いこなすには熟練が必要で、人によっては、それに加えある種の才能が必要とまで考えた。<ref name=":3" />訓練を行わず、槍を使いこなせない槍騎兵は非常に戦力的な価値が低い事も知られており、ワーテルロー戦役に参加したある将校は「悪い槍使いは悪い剣使いよりも使い物にならない」と述べている<ref name=":3" />。 |
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:槍騎兵は重騎兵の攻撃力と軽騎兵の機動力を兼ね備えた非常に攻撃的な兵科であり、騎兵との乱戦では槍の長さが邪魔になる事も少なくなかったが、こうした場合には槍を捨てて、サーベルに持ち替える事で対応でき、追撃戦では重騎兵よりも有利に戦う事が出来た。騎兵同士の乱戦では槍は扱いにくく、邪魔になり、サーベルに敵わなかったために、槍騎兵連隊では一部の兵士に騎兵槍を装備させず、騎兵槍を持つ騎兵をサーベルを持つ騎兵が援護する様にした<ref name=":2" />。逆に言えば、槍は歩兵相手に戦う時は必要不可欠であり、槍騎兵は簡単に歩兵を刺し貫く事ができ、槍は方陣隊形の歩兵に対して有効に使える白兵戦武器であった。また、隊形が崩れた歩兵や退却する敵縦隊に対して、あるいは追撃中の敵輜重縦列の中にいる時などは、槍騎兵に敵うものはなく、彼らは大暴れする事が出来た。おそらく、槍の使用と歩兵の方陣隊形の有効性を最も明確に実証している戦闘は、1815年夏に行われたカトル・ブラの戦いであろう<ref name=":1" />。また、意のままに襲撃を加える槍騎兵は、小競り合いにも有効だった<ref name=":2" />。 |
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:総合して見ると、槍騎兵は他の兵科に対して圧倒的優位であるとは言う事が出来ないものの、突撃を行える多くの状況で優位であった<ref name=":3" />。しかし、会戦において大きな戦果を上げた槍騎兵部隊の殆どは各国の親衛隊の騎兵であり、猟騎兵が散兵戦に秀でており、ユサールが奇襲を得意とした様に、通常の槍騎兵は突撃と追撃が得意であった<ref name=":3" />。 |
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:フランス騎兵の槍は、ポーランド騎兵が持つものよりやや短く、やや重かった<ref name=":1" />。フランスの槍騎兵連隊はナポレオン戦争の最後の戦役ですばらしい評判を獲得した<ref name=":1" />。 |
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{{-}} |
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<gallery widths="180" heights="150" class="center"> |
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Napoleon Carabiner of 1812 by Bellange.jpg|カラビニエ |
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8e hussards 1804(fr).jpg|[[ユサール]] |
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Lancer.jpg|ヴィスツラ・[[ウーラン]] |
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</gallery> |
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== 歩兵 == |
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ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は大陸軍の主要構成員として戦いの帰趨を決定する存在ではあるが、地味で工夫の無い存在でもあり彼らに劇的な戦闘展開を期待する事は難しかった。歩兵は密集隊形で戦う'''[[戦列歩兵]]'''(''{{lang|fr|Infanterie de Ligne}}'')と、散開して戦う'''軽歩兵'''(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')の二つの兵科に分けられていた。 |
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[[ファイル:MuseeMarine-ShakoMarine.jpg|thumb|221x221px|19世紀のフランス海軍の円筒帽]] |
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歩兵はたぶん大陸軍で最も魅力的な戦闘をしたわけではないが、ほとんどの戦闘で矛先となり、その成果が勝敗を分けることになった。 |
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歩兵は大きく2つに分けられた。1つは[[戦列歩兵]](''{{lang|fr|Infanterie de Ligne}}'')であり、もう1つは軽歩兵(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')であった。 |
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==== 戦列歩兵 ==== |
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[[ファイル:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|サムネイル|戦列歩兵]] |
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戦列歩兵(''{{lang|fr|Infanterie de Ligne}}'')は大陸軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科であった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。 |
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=== 戦列歩兵 === |
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ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に改称した1803年当時は、89個の戦列歩兵連隊(''{{lang|fr|Régiments de Ligne}}'')が存在した。これはフランス国内の県とほぼ同じ数であり、革命戦争時代にそれぞれの県が一つの半旅団を組織していた事になる。その後も新しい連隊が作られ最終的には156個となった。 |
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戦列歩兵は大陸軍の大部分を占めていた。1803年、ナポレオンは連隊という言葉を復権させた。フランス革命中のことば半旅団(''{{lang|fr|demi-brigade}}''、2個で1個旅団となり王立という意味合いがなかった事実による)は、暫定的な部隊や補助部隊にのみ使われるようになった。大陸軍の創設時、89個戦列歩兵連隊(''{{lang|fr|Régiments de Ligne}}'')があったが、この数はフランスの県の数であった。最終的には156個連隊となった。 |
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戦列歩兵連隊は |
戦列歩兵連隊はナポレオン戦争中にその規模が変わったが、基本的な構成要素は大隊であった。1個歩兵大隊は約840名であり、これが大隊の定員となり、ほとんどどの隊も変わらなかった。ほかに400名から600名の大隊もあった。1800年から1803年にかけては、戦列歩兵大隊には8個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、7個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵(''{{lang|fr|Voltigeur}}'')中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、4個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵中隊が所属していた。 |
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; [[フュージリアー|小銃兵]]({{lang|fr|fusilier}}) |
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; 小銃兵(Fusilier) |
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[[File:LineInfantry1812.jpg|thumb|284x284px|前線に立つフェジリエ(1812年頃)]] |
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:[[ファイル:199 - Austerlitz 2015 (23705957414).jpg|サムネイル|小銃兵]]小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”La première vertu d'un soldat est l' endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力は大陸軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。 |
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: フュジリエ(火打石銃兵)は歩兵大隊の大部分を占めており、大陸軍の典型的な歩兵と考えてよい。武器は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と銃剣であった。訓練は行軍速度と持続時間に重点が置かれ、接近戦や白兵戦での個々に狙いを定めた射撃が続いた。このことはヨーロッパの敵国の大多数と異なるところであり、他国ではきちんとした隊形で動き一斉射撃を行うことに重点が置かれた。 |
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: ナポレオン戦争初期のフランス軍の勝利は、長い距離を素早く移動できる能力にあり、その能力は歩兵に課された訓練の賜物だった。1803年から1個大隊は8個フュジリエ中隊となり、1個中隊はおよそ120名であった。1805年にフュジリエ中隊の1つを改組して1個選抜歩兵中隊を創設した。1808年、ナポレオンは歩兵大隊を9個中隊から6個中隊に変えた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個はフュジリエ中隊、1個は擲弾兵中隊、残る1個は選抜歩兵中隊であった。 |
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: 帽子は[[二角帽子]]であり、1807年に円筒帽に変わった。制服は白のズボン、白の外衣と濃青の上着(1812年まではハビットロング、その後はハビットベスト)に白の襟章を着け、赤の襟と袖口であった。帽子には色のついた[[ポンポン]]を着けていた。このポンポンの色は中隊毎に異なっていた。1808年以後の編成替えで、第1中隊は濃緑のポンポン、第2中隊は空色の、第3中隊は橙色の、第4中隊はすみれ色のポンポンという按配だった。 |
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[[ファイル:Napoleon Grenadier of 1808 by Bellange.jpg|thumb|284x284px|擲弾兵(左)と選抜歩兵(右)]] |
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; 擲弾兵 |
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: 擲弾兵はナポレオン戦列歩兵の精鋭であり、敵に打撃を与える部隊として古参兵で占められた。新しく作られた大隊には擲弾兵中隊が無かった。ナポレオンは、2回の方面作戦に参加させた後に最強で勇敢で背の高いフュジリエを擲弾兵中隊に昇格させ、大隊の中には2個以上の擲弾兵中隊ができたものもあった。 |
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: 擲弾兵の新兵の条件は連隊の中でも背が高く恐ろしげであり、しかも口ひげを生やしているということになった。これに加えて帽子が熊毛になり上着には赤の肩章を着けた。1807年以後熊毛帽は赤い線と赤の羽毛のついた円筒帽に置き換えられた。しかし多くの者が熊毛帽を好んだ。標準のシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣に加えて擲弾兵は短いサーベルを帯びた。これは接近戦で使うためであるが、焚き火の木を切る道具となってしまった。 |
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: 擲弾兵中隊は通常最も伝統的栄誉ある場所として隊列の右端に位置した。作戦行動中、擲弾兵中隊は擲弾兵大隊を形成したり、時には連隊や旅団を形成することもあった。この配置はより大きな戦闘隊形の前衛に置かれた。 |
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; 選抜歩兵(Voltigeurs、意味合いからは飛び上がる者) |
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:選抜歩兵選抜歩兵は戦列連隊のエリート軽歩兵であった。1805年、ナポレオンは戦列大隊の中で背は小さいが敏捷な者を選んで選抜歩兵中隊を作るよう命じた。この中隊は大隊の階層の中では擲弾兵中隊に次ぐものである。その名前はもともとの使命からきている。選抜歩兵中隊は敵の騎兵に対し馬に飛び上がって戦うというもので、風変わりなアイデアだったが戦闘ではうまくいかなかった。それにも拘わらず、選抜歩兵は重要な任務をこなし、散兵戦や各大隊の偵察などを行った。その訓練では射撃技術や素早い動きに重点が置かれた。 |
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: 帽子は二角帽で黄と緑あるいは黄と赤の大きな羽毛が付いていた。1807年以後、円筒帽に変わり黄の線と同様な羽毛が付いた。上着には緑の線のある黄の肩章と黄の襟が付いた。もともとの武器は短い竜騎兵用マスケット銃であったが、実際にはシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣を装備した。擲弾兵と同様に、接近戦用に短いサーベルを帯びたがやはりあまり使われなかった。各選抜歩兵中隊はまとめられ、軽歩兵連隊や旅団を作ることがあった。1808年以後戦列の左端に位置した。この位置は伝統的に戦列戦闘の2番目に栄誉あるものであった。 |
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=== 軽歩兵 === |
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; 擲弾兵(Grenadier) |
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戦列歩兵が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽歩兵(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')も重要な役割を果たした。軽連隊は35個連隊を超えることはなかった(戦列歩兵の155連隊と対照)。また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を執れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。 |
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:[[ファイル:Napoleon Grenadier of 1808 by Bellange.jpg|サムネイル|284x284px|擲弾兵と選抜歩兵]]擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。擲弾兵になれるのは大柄で背の高い歴戦の勇士に限られていた。新設大隊には擲弾兵中隊は存在せず、その大隊が二回以上の方面作戦(campagne)に参加した後に始めて一つの擲弾兵中隊の創設を許される事となり、勇敢かつ精強で背の高い兵士が選ばれて入隊し晴れて擲弾兵となった。擲弾兵中隊の位置は大隊戦列の右端と定められており、これは伝統的に最も名誉ある位置だった。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵大隊が編成される事があり、時には擲弾兵連隊や擲弾兵旅団が編成される事もあった。この強力な部隊はたいてい大規模戦闘隊形の前衛に配置された。 |
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: 擲弾兵は威圧感を持つように全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。これは白兵戦の為であったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。 |
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; 選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者) |
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: 1803年に軽歩兵連隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵連隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。連隊の中から特に敏捷で身のこなしに優れた者が選ばれて入隊し、素早い装填と正確な射撃技術を持つ彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされた。1808年から選抜歩兵の待遇は上げられ、彼らの位置は伝統的に二番目の名誉ある位置である大隊戦列の左端と定められた。各選抜歩兵中隊はまとめられて選抜歩兵大隊や選抜歩兵連隊を編成する事があり、司令官の中には擲弾兵よりも選抜歩兵部隊を好んで用いる者もいた。 |
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: 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は銃身の短い竜騎兵用マスケット銃とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣を腰に帯びたがもっぱら薪割りの道具となった。 |
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軽歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽歩兵連隊は多くの戦闘に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽歩兵に任務を任せることが多く、軽歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽歩兵は戦列歩兵よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。 |
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==== 軽歩兵 ==== |
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[[ファイル:Une compagnie d'infanterie légère française dans les bois.jpg|サムネイル|軽歩兵]] |
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近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の前面と側面に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数はずっと少なく、156個連隊が存在した戦列歩兵とは対照的に軽歩兵連隊は35個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編成が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編成が可能だった。 |
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軽歩兵大隊の構成は戦列歩兵大隊のものそのものであったが、擲弾兵、フュジリエ、選抜歩兵については異なった種類の部隊があてられた。 |
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軽歩兵連隊は3個大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。 |
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軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けていた。装飾的な制服と凛とした態度で知られており、選抜扱いの誇りから高い団結心を持っていた。高い技量の持ち主である彼らは指揮官に信頼されて哨戒などの様々な任務をまかされるのが常だった。大柄が美徳とされる軍隊世界において軽歩兵の価値観は一線を画す事が許されており、小柄さの長所と利点が強調されていた。これは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。 |
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; 猟歩兵({{lang|fr|Chasseurs}}) |
; 猟歩兵({{lang|fr|Chasseurs}}) |
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: 猟兵は軽歩兵大隊のフュジリエである。これが大隊の大部分を占めた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であったが、接近戦用の短いサーベルも帯びていた。ナポレオン軍に共通することだが、この武器もすぐに焚き火の木を切る道具となってしまった。 |
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: 1803年からは、各大隊に8個猟兵中隊があった。1個中隊は約120名であった。1808年、ナポレオンの命令で各大隊が9個中隊から6個中隊に編制替えされた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個中隊は猟兵中隊であった。 |
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: 彼らは濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]が付いた。 |
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: 猟兵の制服はフュジリエよりも華美なものであった。1806年までは円筒帽に濃緑の大きな羽と白の紐が付いていた。制服は戦列歩兵よりも暗い青で小競り合いのときのカムフラージュにもなった。上着は戦列歩兵と同じだったが、折り返しと袖口は濃青だった。また濃青と赤の肩章を付けていた。ズボンは濃青で靴は騎兵のような長いものだった。1807年以降円筒帽は標準の円筒帽に置き換えられたが白の飾り紐は着いていた。 |
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; カービン歩兵({{lang|fr|Carabiniers}}) |
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: 戦列フュジリエと同様、帽子には色のついたポンポンを着けていたが、その色は連隊ごとに異なるものだった。 |
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:[[ファイル:Napoleon Voltigeur and Carabinier by Bellange.jpg|サムネイル|225x225px|選抜歩兵とカービン歩兵]]この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。二回以上の方面作戦(campagne)を経験し、勇敢かつ精強で背の高い猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。 |
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: 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。 |
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; 選抜歩兵({{lang|fr|Voltigeurs}}、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者) |
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: 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。彼らの身長は160cmを越える事は無かった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。ナポレオンの命名であるVoltigeurには敵騎兵の背後から「飛び上がって」攻撃する対騎兵用の歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編成されるようになった。 |
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: 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄+緑色の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(''colpack'')をかぶり、1807年からは黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。銃身がやや短い竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。 |
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; カービン銃兵({{lang|fr|Carabiniers}}) |
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=== 砲兵 === |
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: 騎銃兵は軽歩兵大隊の擲弾兵である。2回の方面作戦参加を経験し、背が高く勇敢な猟兵が憲兵中隊に選ばれた。彼らは大隊の精鋭部隊であった。擲弾兵と同様に口ひげを蓄えることを要求された。 |
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”Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)<ref name="artillery">Mas, M.A. M., p.81.</ref> 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。大陸軍の砲兵には'''徒歩砲兵'''(''Artillerie a Pied'')と'''騎乗砲兵'''(''Artillerie a Cheval'')の二つの兵種があった。更に行軍時の大砲の運搬を専門に行う'''砲車牽引兵'''(''{{lang|fr|Train d’artillerie}}'')が存在した。 |
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: 武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣、および短いサーベルであった。帽子は高い熊毛帽だった(1807年に赤の縁のある円筒帽で赤の羽毛の付いたものに置き換えられた)。 |
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: 制服は猟兵と同じだが、赤の肩章だった。騎銃兵中隊はより大きな騎銃兵部隊を構成することがあり、突撃を要するような作戦に使われた。 |
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; 選抜歩兵({{lang|fr|Voltigeurs}}) |
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: 特別兵は戦列歩兵大隊のものと同じ任務であったが、さらに敏捷性と射撃の腕を求められた。 |
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: 制服はフュジリエと同様であったが、黄と緑の肩章であり、1806年より前に毛皮製高帽(''colpack'')が円筒帽に取って代わった。毛皮製高帽には赤の上に黄の大きな羽毛と緑の紐が付いていた。1807年以降、円筒帽に変わり黄の大きな羽毛と黄の紐だった。この選抜歩兵中隊も必要に応じて大きな部隊を構成することがあった。 |
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== 砲兵 == |
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大砲の集中運用を重視するナポレオンは、それまでは半旅団(連隊)ごとに置かれていた砲兵を軍隊中央で一元管理するように変更しフランスの全砲兵を約200個の砲兵中隊(batterie)に再組織した。そして状況に応じて各砲兵中隊を各地の師団司令部と軍団司令部に貸し出す仕組みにした。徒歩砲兵中隊は兵員120名にカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門が配備された。騎乗砲兵中隊は同程度の兵員にカノン砲6門が配備された。中隊の構成員には金属部品、木工品、毛皮用品などの加工職人も含まれていた。彼らは大砲、台車、荷馬車の修理に当たり輓馬の世話と火薬の保管も行った。1809年から再び連隊単位の大砲配備が重視され始めると、砲兵中隊は柔軟に分割運用されて、そこから出された分遣隊(大砲2門)を配属した歩兵連隊も存在するようになった。 |
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皇帝は砲兵士官の出身であり、次のように言ったと伝えられている。「砲兵が良ければ神が味方する」<ref name="artillery">Mas, M.A. M., p.81.</ref> ここで期待されているように、フランスの大砲は大陸軍の基幹であり、三軍の中でも大きな火力を有し、少ない時間で敵に大きな打撃を与える可能性があった。フランスの大砲はしばしば集中砲火(大砲兵大隊)に用いられ、歩兵や騎兵が接近戦を挑む前に敵の戦列を乱した。砲兵部隊の絶妙な訓練によって、ナポレオンは高速でその武器を動かし、弱っている防衛線を支援したり、敵の戦列を破る道具にした。 |
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絶妙な訓練以外にもナポレオンの砲兵隊は多くの戦術的な改良によって戦力を上げた。王政時代に[[ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル]]が設計した[[グリボーバル・システム|フランス砲]]は軽く早く移動でき照準を合わせやすく、また台車を強化したり口径を標準化したりした。通常の[[野戦砲]]は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]があったが、戦争後期には4ポンド砲と8ポンド砲は[[オーギュスト・マルモン]]が設計した[[共和暦11年システム|共和暦11年式]]6ポンド砲に置き換えられた。砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製で<ref>[[青銅砲]]とされる場合もあるが、いわゆる青銅([[銅]]と[[錫]]の合金)に加え、[[真鍮]](銅・[[亜鉛]]合金)、[[砲金]](ガンメタル、銅・錫・亜鉛合金)製のものも含め青銅(ブロンズ)と呼ぶことがあるためである。</ref>、砲架、車輪、および[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。砲兵を歩兵や騎兵の部隊とうまく融合させて、互いに支え、時には単独で行動することもできた。砲兵隊には2つの分類、徒歩砲兵隊(''Artillerie a Pied'')と騎乗砲兵隊(''Artillerie a Cheval'')があった。 |
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徒歩砲兵連隊(régiment)は当初22個砲兵中隊(batterie)で構成された。騎乗砲兵連隊の構成は当初6個砲兵中隊、後に8個砲兵中隊だった。なお砲兵連隊は、歩兵連隊ないし騎兵連隊とは性格が異なり、単に軍政面の管理上の組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団司令部か軍団司令部に配属されていた。師団に配属された砲兵中隊は'''師団砲兵'''と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎乗砲兵が割り当てられた。軍団には1個ないし2個の砲兵中隊が配属され'''軍団砲兵'''となった。軍団砲兵とその配下師団の師団砲兵はたいてい合併して運用された。師団、軍団による大砲の一括管理は効果的な集中砲火を可能にした。 |
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<gallery widths="180" heights="120"> |
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Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg|戦争前期の[[12ポンドグリボーバル野砲|グリボーバル12ポンドカノン砲]] |
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砲車牽引兵の各中隊(compagnie)は各砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した。砲車牽引兵大隊は5個程度の中隊を擁し、砲兵連隊と同様に軍政面の管理上の組織でもあったが、それだけでなく軍団砲兵と共に行動して配下師団の集結地点における各砲兵中隊の交通整理と円滑な配置展開を指揮する役割も持っていた。<gallery widths="180" heights="150" mode="packed"> |
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Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|グリボーバル6インチ榴弾砲]] |
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Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|戦争後期の[[:en:Canon de 6 système An XI|Canon de 6 système An XI]] |
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ファイル:Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|グリボーバル6インチ榴弾砲]] |
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ファイル:Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|[[:en:Canon de 6 système An XI|共和暦11年式6ポンドカノン砲]] |
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</gallery> |
</gallery> |
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;徒歩砲兵 |
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==== 大砲 ==== |
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:この名前が示唆するように、砲兵は大砲の横に行軍し、大砲はもちろん馬で曳かせた。このために行動速度は歩兵の速度に準じ遅かった。1805年には8個連隊、後に10個連隊があり、さらに近衛連隊に2個連隊あった。しかし騎兵や歩兵の連隊とは異なり、これらは軍政的な後方管理組織であった。前線での行動単位は、120名からなる中隊である。従軍時(遠征時)は、中隊別に各師団や各軍団に編入され、前者は師団砲兵として師団長の指揮下に、後者は軍団砲兵として軍団長の指揮下に入った。 |
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: 旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。[[ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル]]が考案した[[グリボーバル・システム]]の下で製造された大砲は軽量かつ運搬が容易で照準を合わせやすく、また台車を強化し砲身口径の大きさも標準化されていた。通常の[[野戦砲]]は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]があった。1803年にナポレオンはこのシステムを更に改定し、4ポンド砲と8ポンド砲は[[オーギュスト・マルモン]]が設計した[[共和暦11年システム|共和暦11年式]]6ポンド砲に置き換えられた。 |
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:; 師団砲兵 |
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: 砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製であった。[[青銅砲]]ともされるがこれは慣例上、[[真鍮]]製の物も含めて[[青銅砲]]と呼ばれたからである。砲架、車輪、および[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。 |
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:: 歩兵師団の師団砲兵は1個徒歩砲兵中隊、騎兵師団の師団砲兵は1個騎馬歩兵中隊が標準とされた。1個中隊には通常カノン砲6門と榴弾砲2門の計8門が配備された。 |
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==== 徒歩砲兵 ==== |
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:; 軍団砲兵 |
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:[[ファイル:French foot artillery 1809.jpeg|サムネイル|277x277px|徒歩砲兵]]彼らは一般的かつ普通の砲兵だった。1805年には8個の徒歩砲兵連隊があり、後に10個に増えた。制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。 |
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:: 軍団砲兵は、1個徒歩砲兵中隊と1個騎馬歩兵中隊のペアが標準とされた。軍団砲兵にはよく重砲が配備された。 |
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:砲兵中隊は、砲車牽引中隊とペアを組んで従軍するのが常で、このペアは砲兵分団(''division d’artillerie'')と呼ばれた。当時の''division''には”師団”と”中隊ペア”の二通りの意味があるので混乱を招いている。後者は大隊の分割フォーメーション用語として使われていた。砲兵分団には砲兵、下士官、士官の他に、金属加工、木工、毛皮などの加工作業者も随伴していた。彼らは予備品を作ったり、大砲、台車、弾薬箱、馬車の維持・修理にあたり、馬の世話や軍需品の保管も行った。 |
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;騎馬砲兵 |
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:騎兵は騎乗砲兵隊の素早い動きと素早い砲撃に支援された。この部隊は騎兵と砲兵の組み合わせであり、馬や台車に乗って戦闘に参加した。 |
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:前線に非常に近く活動するために、士官や砲兵は竜騎兵のように接近戦用の武器を携え訓練も施されていた。一度配置につくや、彼らは素早く下馬し、大砲を据え、照準を定め敵に集中砲火を浴びせた。さらに大砲をまた台車に載せ新しい場所に素早く移動した。このことを成し遂げるために訓練を積んでいたので砲兵の中でもエリート部隊であった。 |
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:近衛騎乗砲兵隊は全速で駆けてきて最初の砲弾を放つまでに1分とかからなかった。そのような動きを目にして驚いた[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]将軍は次のように記している「かれらは拳銃を撃つように大砲をぶっ放している」。 |
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:管理上の連隊は6個、さらに近衛兵に1個あった。ナポレオンは各軍団に最低1個の騎馬砲兵中隊を、また可能ならば各師団にも騎馬砲兵中隊を割り当てようとした。その能力は十分高かったものの、その結成と維持にかかる費用もかなりのものであった。そのために、騎乗砲兵隊の数は徒歩砲兵隊の数より少なく、構成比は5分の1程度であった。皇帝が騎乗砲兵隊の兵士すべての名前を覚えているなどという自慢たらたらの冗談もあったくらいである。 |
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:積まれた訓練、馬、武器や装備以外にも、彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵隊は徒歩砲兵隊の2倍、近衛砲兵隊の3倍の費用を要した。 |
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;砲車牽引兵 |
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:砲車牽引隊(''{{lang|fr|Train d’artillerie}}'')はボナパルトによって1800年1月に創設された。その機能は砲車を曳く馬を御する御者であった。<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997</ref> それまでのフランスでは民間の御者を雇っていたが、彼らは戦火の中では大砲を放棄して自分達や価値ある馬の命を守ろうとした。<ref name="Elting2">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997</ref> |
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:砲車牽引隊の要員は、以前の民間人とは異なり、武装し、訓練を施され、兵士と同じように制服を与えられた。閲兵の時の見栄えもさることながら、このことは軍隊としての規律を守り、攻撃されれば反撃することも可能にした。御者はカービン銃と歩兵と同じ型の短い刀および拳銃を携行した。彼らはそれらの武器を使う機会はほとんど無かったが、賭け事や、喧嘩その他各種の遊びごとで確かに評判をとった。 |
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:彼らの制服と上着は灰色であり、その頑丈な外観をさらに強めていた。しかし、彼らが戦闘可能ということはコサックやスペイン人また[[チロル]]のゲリラに襲われたときに有効であることが証明された。 |
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:砲車牽引大隊は、当初5個中隊で構成された。第1中隊はエリートと看做され、騎乗砲兵中隊のペアにされた。中間の3個中隊は徒歩砲兵中隊のペアにされ、予備品箱、物資用荷車の管理や屋外での鍛冶なども担当した。最後の1個中隊は予備役で、新兵や馬の訓練を行った。1800年の方面作戦に続いて、砲車牽引隊は8大隊に編成替えされ、それぞれ7個中隊を擁した。ナポレオンが砲兵隊を増強するにつれ、大隊が追加されて1810年には14個大隊を数えた。1809年、1812年および1813年には最初の13個大隊が倍増され27個大隊となった。さらに1809年以降、戦利品で急増した大砲数の余裕から連隊砲兵も登場し、歩兵連隊付き砲兵用の砲車牽引中隊も創設されることがあった<ref name="Elting2"/>。 |
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==== 騎乗砲兵 ==== |
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:[[ファイル:Detaille - Artillerie à cheval de la Garde Imperiale.jpg|サムネイル|268x268ピクセル|騎乗砲兵]]騎乗砲兵は騎兵と砲兵の高度な融合であり、軍馬および大砲を載せた荷馬車に乗って戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す彼らは近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し照準を定めて敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて新しい場所に素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らはフランス砲兵科の精鋭であった。 |
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: 1807年には騎乗砲兵連隊は6個存在した。1810年に7個目の連隊が追加された。騎乗砲兵中隊はもっぱら騎兵師団の支援砲兵となり、軍団にも1個程度が付けられる事があって貴重な戦力となり、歩兵師団に割り当てられた際は非常に重宝された。騎乗砲兵は極めて優秀な戦力となったが、その編成と維持に掛かる費用もかなりのものであり、兵員数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎乗砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり、皇帝は騎乗砲兵全員の名前を覚えているという誇らしげの冗談もあった程である。高度な技術を兼ね備えた彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵は徒歩砲兵の2倍の弾薬を支給されており、皇帝近衛隊の騎乗砲兵に到っては3倍の量を与えられていた。 |
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: 制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。 |
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:近衛兵は独自の牽引隊を持っており、近衛砲兵隊が増えるにつれて近衛牽引中隊も増加したので、当初の牽引大隊から牽引連隊に格上げされた。頂点は1813年から1814年にかけてで、近衛古参砲兵隊は12個牽引中隊に、近衛若年砲兵隊は16個牽引中隊に支援され、砲兵中隊と牽引中隊がそれぞれペアを組んだ<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997</ref>。 |
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==== 砲車牽引兵 ==== |
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:[[ファイル:Gribeauval artillery train.jpg|サムネイル|180x180px|大砲運搬の砲車]][[ファイル:Napoleon Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|238x238ピクセル|砲車牽引兵と砲兵]]1800年1月に創設された彼らの役割は、大砲を乗せた荷車(砲車)を輓馬(牽引する馬)と共に運搬して砲兵部隊の円滑な行軍を支援する事だった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997</ref> 。それまでのフランス軍は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を捨てて我が身と自分の馬を守ろうとした<ref name="Elting2">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997</ref>。砲車牽引兵は以前の民間人とは異なり、一定の訓練を施されて規律を持ち兵士と同様に制服を与えられた。彼らの制服は灰色基調でその頑丈そうな外観を引き立てていた。砲車牽引兵はカービン銃と拳銃と歩兵用小剣で武装して運搬中の大砲を守り、後年の遠征中に頻発したコサック騎兵、スペイン人ゲリラ、[[チロル]]人ゲリラの襲撃にもよく対抗出来た。 |
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: 1805年には10個の砲車牽引兵大隊があり、各大隊は5個中隊で構成された。彼らは大砲運搬だけでなく弾薬箱の修繕、荷車の補修、鍛冶作業なども担当した。1808年に8個の大隊に再編成され、各大隊は6個中隊構成となった。その後も増員され1810年に14個大隊、1813年には27個大隊となった。1809年以降、砲兵中隊から分遣隊(大砲2門)を歩兵連隊に配属させるケースが出始めると、砲車牽引兵大隊も自身の分遣隊をその都度柔軟に編成して歩兵連隊の大砲運搬を支援する様になった<ref name="Elting2" />。 |
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== |
== 工兵 == |
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騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの工兵がいた。 |
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=== 技師 === |
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騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの軍事技師がいた。 |
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大陸軍の橋 |
大陸軍の架橋工兵(''{{lang|fr|Pontonniers}}'')はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に[[艀]](はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。架橋工兵の技術によって川を敵が予想していない意外な地点で渡って敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時の[[ベレジナ川]]渡河では全滅の危機から自軍を救うことができた。 |
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工兵が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは架橋工兵の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つ[[ジャン=バティスト・エブレ|ジャン・バプティスト・エーブレ]]工兵将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋のさまざまな部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個工兵中隊で80杯のはしけの橋(長さは120mから150m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。 |
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橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木[[工兵]]の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝が[[ |
橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木[[工兵]](''Sapeurs'')の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝が[[アッコ包囲戦 (1799年)]]など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設には正面から攻撃するよりもできれば回避し孤立化させた方がよいと考えるようになったため、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。また、都市攻城戦でのトンネル掘りを専門に行う坑道工兵(''Mineurs'')の中隊もあった。 |
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ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(''{{lang|fr|jeu de mot}}'')と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる[[ジン (アラブ)|精霊]](''Genie'')にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が [[:fr:Génie militaire|'''Génie''' militaire]] と呼ばれるのはこの名残と思われる。 |
ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(''{{lang|fr|jeu de mot}}'')と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる[[ジン (アラブ)|精霊]](''Genie'')にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が [[:fr:Génie militaire|'''Génie''' militaire]] と呼ばれるのはこの名残と思われる。 |
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== 後方支援部門 == |
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;輜重兵 |
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ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の[[兵站]]の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、''La Maraude'')で日々を暮らしていくことを勧めていた。 |
ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の[[兵站]]の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、''La Maraude'')で日々を暮らしていくことを勧めていた。 |
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兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えば[[ニコラ・アペール]]が発明した今日の[[缶詰]]につながる保存食の技術であった。 |
兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えば[[ニコラ・アペール]]が発明した今日の[[缶詰]]につながる保存食の技術であった。 |
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;医療関係者 |
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[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|thumb|221x221px|傷ついて戦場を去る胸甲騎兵]] |
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[[ファイル:Ambulance of the French Army.jpg|サムネイル|救急馬車]] |
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医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。[[衛生]]や[[抗生物質]]に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。[[麻酔]]とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。 |
医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。[[衛生]]や[[抗生物質]]に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。[[麻酔]]とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。 |
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負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば[[義肢]]も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。 |
負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば[[義肢]]も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。 |
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;情報通信 |
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以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。 |
以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。 |
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[[ファイル:Tour du telegraphe Chappe Saverne 02.JPG|thumb |
[[ファイル:Tour du telegraphe Chappe Saverne 02.JPG|thumb|シャップの腕木通信塔]] |
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大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で[[伝書鳩]]を伝令に採用し、また観測用[[熱気球]]を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかし[[クロード・シャップ]]によって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置([[腕木通信]])という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。 |
大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で[[伝書鳩]]を伝令に採用し、また観測用[[熱気球]]を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかし[[クロード・シャップ]]によって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置([[腕木通信]])という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。 |
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== 外国人部隊 == |
== 外国人部隊 == |
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[[ファイル:Napoleon Polish troops by Bellange.jpg|thumb| |
[[ファイル:Napoleon Polish troops by Bellange.jpg|thumb|229x229px|ポーランド兵]] |
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多くのヨーロッパ諸国が外国人部隊を採用したが、ナポレオンのフランスも例外ではなかった。ナポレオン戦争中の大陸軍で、外国人部隊は重要な役目を果たし、特徴ある戦い方をした。ほとんどすべてのヨーロッパ諸国はさまざまな段階で大陸軍の一部となった。戦争末期には、数万名の兵士が従軍した。 |
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1805年 |
1805年には、[[ライン同盟]]の35,000名の部隊が情報通信線と本隊の側面を守るために使われた。 |
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1806年、27,000名が追加され同じ用途に使われた。さらに20、000名のサクソン人部隊はプロイセンに対する掃討作戦に使われた。 |
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1806年の対プロイセン、ロシア戦役でも同様の目的でライン同盟から27,000名が動員された。更に[[ザクセン王国|ザクセン]]から20、000名の兵員が召集され、彼らはプロイセン軍に対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季作戦ではドイツ諸国、ポーランド人、スペイン人の部隊がフランス軍の左翼を担い、[[バルト海]]に面した[[シュトラールズント]]と[[グダニスク|ダンツィヒ]]の港の占領を助けた。1807年にロシア軍と決戦した[[フリートラントの戦い]]では、外国人部隊が初めて会戦における主要な役割を演じる事になった。ジャン・ランヌ元帥率いる第5軍団の構成員の大半はポーランド人、ザクセン人、オランダ人で占められていたが、彼らは目立った働きを見せてフランス軍の勝利に貢献した。 |
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1806年から1807年にかけての冬季方面作戦では、ドイツ、ポーランド、およびスペインが大陸軍の左翼を担い、[[バルト海]]に面した[[シュトラールズント]]と[[グダニスク|ダンツィヒ]]の港の占領を助けた。 |
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1809年の対オーストリア戦役ではフランス軍の約3分の1がライン同盟の兵士だった<ref name="Elting01b">Elting, John R. ''Swords Around A Throne''. Da Capo Press, 1997. Pg.387.</ref>。またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人で構成されていた。そして1812年、最大規模に膨れ上がったナポレオン軍はロシア遠征を開始するが、その総勢60万を数える侵攻軍のおよそ4割はドイツ圏を中心とする外国人兵士たちであり、彼らの出身国は20ヶ国に渡っていた。 |
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1807年の[[フリートラントの戦い]]では、ランヌ元帥の軍団はかなりの数がポーランド、[[ザクセン王国|ザクセン]]、[[オランダ]]の兵で占められた。このときは外人部隊が初めて戦闘における主要な役割を演じ、目だった働きをした。 |
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== 大陸軍の階級 == |
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[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|サムネイル|勲章を授けるナポレオン]] |
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封建制度の軍隊とは異なり、大陸軍での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。”Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の[[元帥杖]]が入っている)とはナポレオンの言葉であり、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る可能性がある事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。 |
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1809年のオーストリア方面作戦では、大陸軍のおよそ3分の1がライン同盟の兵士だった。<ref name=Elting01b>Elting, John R. ''Swords Around A Throne''. Da Capo Press, 1997. Pg.387.</ref> またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人だった。 |
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大陸軍の最高階級は師団将軍(Général de division)であった<ref>John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997</ref>。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥 (Maréchal d’Empire)、大将(Colonel-Général)、軍団将軍(Général en chef commandant une armée)の栄典、役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。'''帝国元帥'''の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。'''大将'''は旧体制の称号をナポレオンが引っ張り出してきたもので、元々は各兵科最先任の将官を意味する役職であったが<ref>「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年</ref>大陸軍ではただの名誉称号となり、もっぱらナポレオンの取り巻きが叙任されて彼らの箔付けに使われた。'''軍団将軍'''は複数の師団長を指揮する権限を与えられた役職だった。師団数の増加により設置されたが、ロシア遠征で兵力を失った1812年に廃止された。 |
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1812年大陸軍の頂点を迎えた時、ロシアに侵攻した部隊の半分以上はフランス人以外でありオーストリアやプロシアを含み20か国に上った。 |
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'''師団将軍'''(Général de division)は旧体制の中将(Lieutenant-Général)に、'''旅団将軍'''(Général de brigade)は旧体制の少将(Maréchal de camp)に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。ただし、1814年に両階級とも旧体制の階級呼称に戻され、これは1848年2月18日まで続いた。蛇足ながら、少将の呼称をMajor-Généralとしていなかったのは、当時は参謀長を意味していたことによる<ref>「華麗なるナポレオン軍の軍服」7頁</ref>。旧体制の准将(Brigadier des armées du roi)は革命時に廃止されたままとなった。'''将軍副官'''(Adjudant-commandant)は階級ではなく旅団、師団司令部スタッフとしての役職名であり大佐(Colonel)と中佐(Major)の中から任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされる事が多かったという。 |
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== 大陸軍の階級 == |
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ナポレオンは1803年の命令書で、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長(Chef de brigade)を大佐(Colonel)に戻させ、更に革命時に廃止された中佐(Major/又はgros-majorとも呼ばれた)を再設して各連隊に置くよう指示した<ref>Tome huitieme "Correspondance de Napoleon I", p452, "ttp://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ"</ref>。中佐は専ら連隊の運営事務を担当した。大佐と中佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(Colonel en second)は各連隊に一名置かれ副連隊長の役目を果たし、1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊を率いる事になった。少佐=大隊長(Chef de bataillon)の補佐に任命された大尉は副官勤務大尉(Capitain adjudant-major)と呼ばれ一つ上のランクに扱われたが、これは階級でなく役職としての地位だった。大佐=連隊長の副官大尉は(Capitain adjudant-chef)と呼ばれた。准尉(Adjudant sous-oficier)は連隊内全下士官の監査役となり中佐の業務を補佐した。 |
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{{see also|大陸軍軍人一覧}} |
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封建制度や他の君主政治の時の軍隊とは異なり、大陸軍の昇進制度は社会的な階級や富よりも能力に重点をおいて成された。ナポレオンは彼の軍隊が実力社会であることを欲し、どの兵士でもその生まれによらず、成した業績によって(もちろん、彼らがあまりに高く、あるいはあまりに急速に昇進していなければ)指揮官の最上級まで急速に上り詰めることができた。概してこの目的は達せられた。 |
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大尉(Capitaine)は中隊長であり、中尉(Lieutenant)は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。少尉(Sous-lieutenant)は副中隊長の次席だった。兵科と兵種によって違いはあるが中隊には二名から四名の軍曹(Sergent)がいて、それぞれが二人の伍長(Caporal)を管理し、伍長は約10名の兵士をまとめた。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。曹長(Sergent-major)は中隊の物資全般を管理し、給養係伍長(Caporal-Fourrier)は中隊の食糧を管理した。 |
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なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引兵、輜重兵)での呼称である。 |
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その能力を発揮できる場を与えられれば、能力のある者は数年間で頂点まで辿り着けた。他の軍隊であれば数十年掛かったであろう。身分の低い兵士ですら彼の軍嚢に[[元帥杖]]を持てるといわれた。下の表は現在の米陸軍と対照した階級のリストである。またギャラリーには頂点まで登った人物を示す。なお、当時のフランス軍では1788年に[[准将#歴史|准将]](仏:{{lang|fr-FR|''Brigadier des armées du roi''}})が廃止されたため、将官は少将と中将の二階級のみである。 |
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! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級 |
! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級 |
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|帝国元帥 {{lang|fr-FR|('''Maréchal d’Empire''')}}<ref> 帝国元帥([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Maréchal de l'Empire''}})は階級ではない。師団将軍で傑出していると認められた者の名誉称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(仏:{{lang|fr-FR|''General de division''}})である。 {{lang|en|Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.}} </ref>||[[元帥]]{{lang|en-US||(General of the Army)}} |
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|帝国元帥 {{lang|fr-FR|('''Maréchal d’Empire''')}}※||[[元帥]]{{lang|en-US||(General of the Army)}} |
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|中将 |
|中将 |
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*[[上級大将#フランス|大将]]{{lang|fr-Fr|('''Colonel-Général''')}}<ref>各兵科最先任の将官に対する名誉称号(『華麗なるナポレオン軍の軍服 134頁、上級大将として記述。』 マール社 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子監修翻訳 2014年10月20日。)であり階級ではない。帝国元帥にもなった者を除いてはルイ・ボナパルト{{lang|fr-Fr|('''Louis Bonaparte''')}}、ジュノー{{lang|fr-Fr|('''Jean Andoche Junot''')}}、ディリエ{{lang|fr-Fr|('''Louis Baraguey d'Hilliers''')}}などが叙任された。</ref> |
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*大将{{lang|fr-Fr|('''Colonel-Général''')}}※ |
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*[[上将]]{{lang|fr-Fr|('''[[軍団将軍|Général en chef]]''')}}<ref>軍団長としての地位であり階級ではない。1812年廃止。その後1814年に復活するも、1848年に再び廃止された。但し階級章(四つ星)自体は軍団長たる師団将軍(仏 : {{lang|fr-FR|''Général commandant de corps d'armée''}})のものとして使用された。 [[:en:Général|Général]] または [[:en:General-in-chief|General-in-chief]] 参照。</ref> |
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*上将{{lang|fr-Fr|('''Général en chef''')}}※ |
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*{{lang|fr-FR|('''Général de division''')}} |
*{{lang|fr-FR|('''[[師団将軍|Général de division]]''')}}<ref>旧体制及び1814~1848年は中将([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Lieutenant-Général''}})</ref> |
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| [[少将]]<ref>アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。</ref> |
| [[少将]]<ref>アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。</ref> |
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*[[大将]]{{lang|en-US|(General)}} |
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*{{lang|en-US|(Major general)}} |
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|少将 {{lang|fr-FR|('''Général de brigade''')}} || [[准将]] {{lang|en-US|(Brigadier general)}} |
|少将 {{lang|fr-FR|('''[[旅団将軍|Général de brigade]]''')}}<ref>旧体制及び1814~1848年は陣地総監(=少将)([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Maréchal de camp''}})</ref> || [[准将]] {{lang|en-US|(Brigadier general)}} |
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|将軍副官 {{lang|fr-FR|('''Adjudant-commandant''')}}<ref>将軍付き幕僚としての地位であり階級ではない。大佐([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Colonel''}})または中佐([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Major''}})が任じられた。序列は少将([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Général de brigade''}})と大佐([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Colonel''}})の間とされる事が多かった。</ref> || [[大佐]] {{lang|en-US|(Staff Colonel)}} |
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|将軍副官 {{lang|fr-FR|('''Adjudant-commandant''')}}※|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Staff Colonel)}} |
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|大佐 {{lang|fr-FR|('''Colonel''')}}|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Colonel)}} |
|大佐 {{lang|fr-FR|('''Colonel''')}}<ref>1793~1803年は半旅団長([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Chef de brigade''}})</ref> || [[大佐]] {{lang|en-US|(Colonel)}} |
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|中佐 {{lang|fr-FR|('''Major''')}} || [[中佐]] {{lang|en-US|(Lieutenant Colonel)}} |
|中佐 {{lang|fr-FR|('''Major''')}} || [[中佐]] {{lang|en-US|(Lieutenant Colonel)}} |
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|少佐 {{lang|fr-FR|('''Chef de bataillon'''}} または {{lang|fr-FR|'''Chef d'escadron''')}}<ref name="Elting">{{lang|fr-FR|Chef d'escadron}}は騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の大隊長</ref> || [[少佐]] {{lang|en-US|(Major)}} |
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|副官勤務大尉 {{lang|fr-FR|('''Capitaine adjudant-major''')}} || [[大尉]] {{lang|en-US|(Staff Captain)}} |
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|曹長 {{lang|fr-FR|('''Sergent-major'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal-des-logis-major''')}} || [[曹長]] {{lang|en-US|(Sergeant-Major)}} |
|曹長 {{lang|fr-FR|('''Sergent-major'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal-des-logis-major''')}}<ref name="Elting9">後者は騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の呼称</ref> || [[曹長]] {{lang|en-US|(Sergeant-Major)}} |
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|軍曹 {{lang|fr-FR|('''Sergent'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal des logis''')}} || [[軍曹]] {{lang|en-US|(Sergeant)}} |
|軍曹 {{lang|fr-FR|('''Sergent'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal des logis''')}}<ref name="Elting9"/> || [[軍曹]] {{lang|en-US|(Sergeant)}} |
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|給養係伍長 {{lang|fr-FR|('''Caporal-Fourrier'''}} または {{lang|fr-FR|'''Brigadier-Fourrier''')}} || 中隊書記/補給係軍曹 {{lang|en-US|(Company clerk / supply Sergeant)}} |
|給養係伍長 {{lang|fr-FR|('''Caporal-Fourrier'''}} または {{lang|fr-FR|'''Brigadier-Fourrier''')}}<ref name="Elting9"/> || 中隊書記/補給係軍曹 {{lang|en-US|(Company clerk / supply Sergeant)}} |
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|伍長 {{lang|fr-FR|('''Caporal'''}} または {{lang|fr-FR|'''Brigadier''')}} || [[伍長]] {{lang|en-US|(Corporal)}} |
|伍長 {{lang|fr-FR|('''Caporal'''}} または {{lang|fr-FR|'''Brigadier''')}}<ref>フランス軍の {{lang|fr-FR|Caporal}} および {{lang|fr-FR|Brigadier}} は、上等兵であることが多いが[[フランス第一帝政|第一帝政]]では下士官であり、その後[[1818年]]までは下士官である。</ref> || [[伍長]] {{lang|en-US|(Corporal)}} |
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|兵士 {{lang|fr-FR|('''Soldat''')}} または騎兵 {{lang|fr-FR|('''Cavalier''')}} または砲兵 {{lang|fr-FR|('''Canonnier''')}} || [[一等兵]] {{lang|en-US|(Private)}} |
|兵士 {{lang|fr-FR|('''Soldat''')}} または騎兵 {{lang|fr-FR|('''Cavalier'''}}、英:{{lang|en|Cavalry)}} または砲兵 {{lang|fr-FR|('''Canonnier'''}}、英:{{lang|en|Artillery)}} || [[一等兵]] {{lang|en-US|(Private)}} |
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最高位まで昇進を果たした軍人たち |
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Jean Baptiste Bernadotte.jpg|[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ベルナドット]] |
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louisberthier1.jpg|[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]] |
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ファイル:Jean Baptiste Bernadotte.jpg|[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ベルナドット]] |
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Louis nicolas davout.jpg|[[ルイ=ニコラ・ダヴー]] |
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Jean lannes.jpg|[[ジャン・ランヌ]] |
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Etienne-Jacques-Joseph-Alexandre MacDonald.jpg|[[ジャック・マクドナル]] |
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Viesse-de-marmont.jpg|[[オーギュスト・マルモン]] |
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ファイル:Murat2.jpg|[[ジョアシャン・ミュラ]] |
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andremassena1.jpg|[[アンドレ・マッセナ]] |
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ファイル:Marechal Ney.jpg|[[ミシェル・ネイ]] |
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Murat2.jpg|[[ジョアシャン・ミュラ]] |
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Marechal Ney.jpg|[[ミシェル・ネイ]] |
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Prince Jozef Poniatowski.jpg|[[ユーゼフ・ポニャトフスキ]] |
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Nicolas Jean de Dieu Soult.jpg|[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]] |
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Louisgabrielsuchet.JPG|[[ルイ=ガブリエル・スーシェ]] |
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== 陣形および戦術 == |
== 陣形および戦術 == |
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ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、さらに[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の斜角陣形([[ロイテンの戦い]]で使われた)や、革命の初期に[[国民皆兵]](''Levee en masse'')軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。 |
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18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。 |
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ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列(''Linear'')戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後の[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェンの戦い]]で実践された)、自軍の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。 |
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ナポレオンは常に彼の近衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。 |
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より有名で広く使われ、効果的かつ興味ある陣形や戦術を下記に示す。 |
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[[フランス革命]]で誕生した[[国民皆兵|総動員軍隊]](Levée en masse)は素人の集まりゆえに練度面は劣っていたものの圧倒的人数を誇り、また愛国心を持つ彼らのモラルと責任感は高かった。その特徴を生かした大量の兵士が一斉突入する群衆戦術は革命戦争の中で確立されて大きな威力を発揮し、ナポレオンもまたそれを踏襲した。彼らが実戦経験を積んだ後はモラルの高さゆえに複雑な隊列運動をまかせる事も可能となった為、ナポレオンはこの長所を存分に活かして高度に柔軟な陣形戦術を駆使し、固定的な戦術しか使えない封建軍隊を圧倒していった。その代表例は敵陣形の端に陽動攻撃を仕掛けるか、又は自軍の一部を囮にして敵部隊を釣り出し、敵の予備兵が出払った隙に一気に中央突破を図るというものだった。これは[[アウステルリッツの戦い]]などで用いられており戦争の芸術と称えられた。 |
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[[ファイル:Weisserberg.jpg|サムネイル|戦闘隊形]] |
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戦場の基本行動単位は[[大隊]](bataillon)であり、その人数は800名から1,000名であった。戦闘隊形はこの大隊ごとに組まれていた。戦場は戦闘隊形の幾何学模様で埋め尽くされ、それぞれの隊形が移動し衝突して疎と密の混在状態を作り出し、ある隊形は突破されて崩壊し、またある隊形は包囲されて消耗し、最終的により多くの戦闘隊形の秩序を保ち続けた側が勝利した。優れた戦術とは状況に応じた適切な戦闘隊形の選択と巧みな機動および連携行動の組成物であった。当時の代表的な戦闘隊形は以下の通りだった。 |
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; [[横隊]]({{lang|fr|Ligne}}) |
; [[横隊]]({{lang|fr|Ligne}}) |
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: 基本的な3階層の横隊を組んだ陣形。歩兵や騎兵が一斉射撃を行ったり、正面攻撃を行うときに適していたが、動きが比較的鈍く、側面からの攻撃に弱かった。 |
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:[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|横隊]]横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。 |
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; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}}) |
; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}}) |
||
: 軍隊の急な動きや持続する移動、および正面攻撃には最善の隊形であったが、集中できる火力が少なく、側面攻撃や待ち伏せ、砲撃および突入には弱かった。 |
|||
: 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。射撃には向かず、また大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。 |
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; |
; V字形隊形({{lang|fr|Colonne de Charge}}) |
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: 鏃(やじり)あるいは槍の穂先の形をした騎兵の陣形。急速に接近したり敵の戦列を破るために考案された。歴史的にもよく使われ効果のあった陣形であり、今日でも戦車隊が使っている。しかし突進が止められた時やタイミングを失った時にその側面への反撃に弱い。 |
|||
: いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出して全ラインの視界に入り、全員が進行方向を確認出来たので柔軟な高速移動が可能だった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。 |
|||
; 攻撃 |
; 攻撃縦隊({{lang|fr|Colonne d'Attaque}}) |
||
: 歩兵の広い縦隊であり、戦列と縦隊の組み合わせであった。軽装歩兵の散兵線で敵を混乱させたり、縦列での前進を排斥するために用いられた。縦隊が接近すると散兵が側面を防御し、縦隊が一斉射撃と銃剣による攻撃を行った。通常の薄い戦列陣形には効果的な陣形であった。攻撃縦隊はフランス革命初期のフランス軍が使った「群衆」あるいは「大群」戦術から発展した。その欠点は火力の集中度が劣り、大砲の攻撃に弱いことだった。 |
|||
: やや広めの縦隊を組む戦列歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。突入用の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら精密射撃をして敵隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の戦列歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はそのまま縦隊の側面を守った。革命戦争時代に群衆戦術の中でよく用いられた。やや火力が劣り、また大砲にも弱かった。 |
|||
; 混成 |
; 混成陣形({{lang|fr|Ordre Mixte}}) |
||
: ナポレオンの好んだ歩兵隊形である。複数の部隊(多くは連隊か大隊)が戦列陣に配置され、その背後や間に縦列攻撃部隊を配するものだった。これは戦列の火力と速度を組み合わせ、縦列攻撃部隊の行う混戦や散兵戦に利点をもたらした。多少の欠点もあったが、この戦術を成功させるためには、砲兵や騎兵の支援が特に重要だった。 |
|||
: 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。 |
|||
; [[散兵]] |
; [[散兵]]({{lang|fr|Ordre Ouvert}}) |
||
: 歩兵や騎兵が部隊毎にあるいは個兵毎に散開する戦術。この戦術は軽装の部隊や散兵部隊には効果的だった。この戦術では丘や森のある荒れた地形では特に移動速度が速く、散開しているので敵の攻撃に対しても防御面で有効だった。その欠点は一斉射撃のような手段がなく、接近戦の場合は特に騎兵に弱かった。 |
|||
: 各員が散開する隊形。軽歩兵は専らこれで戦った。銃撃と砲撃の被害を減らせるので、戦列歩兵も大砲で狙われた時に用いたが一定の訓練が必要だった。各員が散らばってるので白兵戦には弱く、敵の密集隊形に突入されると為す術が無かった。 |
|||
; [[方陣]]({{lang|fr|Carre}}) |
; [[方陣]]({{lang|fr|Carre}}) |
||
: |
: 騎兵に対する歩兵の古典的防御陣形。兵士が中空の四角形を構成し、1辺は3層ないし4層とする。士官や砲兵、騎兵が中に入る。歩兵にとっては最も防御に適した陣形であり、特に丘の頂上や下り坂に面している時、有効だった。 |
||
: この陣形では動きが緩慢になり、固定された目標とされることがあった。その密度を濃くすると大砲の攻撃に弱く、それほどまでではないにしても歩兵の銃撃にも弱かった。この陣形がいったん壊れると完敗に終わる傾向があった。 |
|||
; |
; 空飛ぶ砲兵大隊({{lang|fr|Batterie Volante}}) |
||
: フランス砲兵の移動性能と訓練を生かした隊形。一つの大隊が戦場のある地点に移動し、短時間で鋭い砲撃を行い、続いてまた荷車に積んで別の地点に移動し、攻撃を加え、といった操作を繰り返すものであった。 |
|||
: 戦闘隊形ではないが砲兵の運用法の一つ。砲兵部隊が移動を繰り返して場所を変えながら砲撃した。騎乗砲兵はこれを専門とする兵種だった。徒歩砲兵も移動速度は大幅に遅かったが実践した。 |
|||
: 多くの大隊がこの攻撃を組み合わせ集積していくことで、敵の戦列に壊滅的な打撃を与えた。騎乗砲兵隊はこの戦術に特に適していた。ナポレオンは初期の方面作戦でこの戦術を使い、大きな成果を得た。この戦術の柔軟性で、攻撃を加えたい目標に素早く攻撃を集中できた。この戦術は特別の訓練を必要とし、また砲兵と馬が整然と行動できるように密接な指揮と連携を必要とした。 |
|||
; 大 |
; 大砲兵大隊({{lang|fr|Grande Batterie}}) |
||
: もう一つの砲兵戦術であり、空飛ぶ砲兵大隊が使えない時に用いられた。 |
|||
: 戦闘隊形ではないが砲兵の運用法の一つ。いわゆる大砲の集中運用であり、一箇所に多くの大砲を並べた砲列を敷いて集中砲火を実現したが、同時に敵砲兵の反撃にも弱く敵騎兵への対策も必要だった。戦闘開始時に用いられ、しばらくすると分割されて複数の機動砲列と化し銘々の場所に移動する事が多かった。しかし砲兵の練度が低い場合は大型砲列のまま運用が続けられた。 |
|||
: 大砲を単一の急所となる地点(多くは敵の中央)に集中するものである。敵が恐怖に捕らわれたり、陣形が崩れると大きな損害を与えられた。ただし、敵の情報が不足したままで単一の地点に多くの砲火を合わせることには細心の注意を払わなければならなかった。いったん砲門を開き目標が明確になると、照準を合わせ直すことで上記のことを回避できた。この戦術は敵の大砲からの反撃に弱く、騎兵の攻撃に対する防御も必要だった。これがフランス砲兵の最も良く知られた戦術であったが、ナポレオンは空飛ぶ砲兵大隊の方を好み、この戦術を使う必要のある時、あるいは使った方が成功の機会が増えると思われた時のみに、この戦術を使った。戦闘の開始時点で、ナポレオンは多くの砲兵大隊をさらに大きな大砲兵大隊にして、集中砲火を浴びせ、その後にそれを解いて空飛ぶ砲兵大隊に変えた。 |
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: 初期の方面作戦ではあまり使われなかったが、大陸軍の馬の数や砲兵の質が落ちてくると、この戦術を使う機会を増やさざるを得なかった。 |
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; イノシシの頭({{lang|fr|Tete du Sanglier}}) |
|||
: 複合した陣形であり、混成陣形に似ているところもあるが、三軍(歩兵、騎兵、砲兵)がV字形のような方形に組むもので、集中攻撃や防御の場面で使われた。歩兵が最前線で短く何層にも厚く隊形を組み、これをイノシシの鼻とした。その後ろに2組の砲兵隊を置き、イノシシの目とした。側面と最後尾は斜角陣で縦列、横列、方形陣の歩兵がイノシシの顔を作った。さらに側面と後ろを守るのが2組の騎兵隊であり、イノシシの牙の役目を果たした。 |
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: 高度に複雑な陣形であり、容易にまた急速に組めるものではなかった。いったん組まれると、牙を除いて、動きは緩慢であった。しかし、伝統的な方形陣よりも動きが速く、砲兵や歩兵の攻撃に対しても防御が堅かった。牙は強い攻撃能力も持っていた。 |
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: 後の[[1830年代]]と[[1840年代]]に行われた[[北アフリカ]]制圧ではこの戦術が効果的に用いられ、[[1920年代]]まで使われていた。 |
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== 戦歴 == |
== 戦歴 == |
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=== 1804年 - 1806年 === |
=== 1804年 - 1806年 === |
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[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|thumb|250px|レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン]] |
[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|thumb|250px|レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン]] |
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大陸軍は当初、大西洋岸軍(''{{lang|fr|L'Armee des cotes de l'Ocean}}'')として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、[[1803年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]の港に集結した。しかし[[1804年]]のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して[[第三次対仏大同盟]]が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさま[[ライン川]]を渡り南[[ドイツ]]に入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍して[[ウルム]]の要塞で[[カール・マック]]将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれた[[ウルム戦役]]では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月には[[ウィーン]]が占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。[[1805年]]12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]で数的には劣勢であった大陸軍が[[アレクサンドル1世]]の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日の[[プレスブルクの和約]]が結ばれ、翌年、[[神聖ローマ帝国]]は解体された。<ref name="year">Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' p. 36-54</ref> |
大陸軍は当初、大西洋岸軍(''{{lang|fr|L'Armee des cotes de l'Ocean}}'')として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、[[1803年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]の港に集結した。しかし[[1804年]]のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して[[第三次対仏大同盟]]が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさま[[ライン川]]を渡り南[[ドイツ]]に入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍して[[ウルム]]の要塞で[[カール・マック]]将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれた[[ウルム戦役]]では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月には[[ウィーン]]が占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。[[1805年]]12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]で数的には劣勢であった大陸軍が[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日の[[プレスブルクの和約]]が結ばれ、翌年、[[神聖ローマ帝国]]は解体された。<ref name="year">Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' p. 36-54</ref> |
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中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟]]が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イェナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲で[[ベルリン]]に最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。<ref name="enemy">Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74</ref> |
中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟]]が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イェナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲で[[ベルリン]]に最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。<ref name="enemy">Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74</ref> |
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[[ポルトガル]]が[[大陸封鎖令]]に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く[[半島戦争]]の始まりとなり、[[フランス第一帝政]]の資源と人を浪費させることになった。フランスは[[1808年]]に[[スペイン]]を占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、[[ブルゴス]]の要塞を占領し、[[ソモシエラの戦い]]で[[マドリッド]]への道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスの[[ムーア]]軍に鉾先を向け、[[1809年]]1月16日の[[コルナの戦い]]で英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍を[[イベリア半島]]から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。<ref name="Spain">Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209</ref> |
[[ポルトガル]]が[[大陸封鎖令]]に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く[[半島戦争]]の始まりとなり、[[フランス第一帝政]]の資源と人を浪費させることになった。フランスは[[1808年]]に[[スペイン]]を占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、[[ブルゴス]]の要塞を占領し、[[ソモシエラの戦い]]で[[マドリッド]]への道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスの[[ムーア]]軍に鉾先を向け、[[1809年]]1月16日の[[コルナの戦い]]で英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍を[[イベリア半島]]から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。<ref name="Spain">Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209</ref> |
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一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。[[フランツ2世|オーストリア皇帝フランツ1世]]の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンが[[パリ]]から到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍は[[エックミュールの戦い]]に敗れ、[[ドナウ川]]を越えて逃亡し、[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]の要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続く[[アスペルン・エスリンクの戦い]]に敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたる[[ヴァグラムの戦い]]で勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は[[第五次対仏大同盟]]を終わらせ、10月に[[シェーンブルンの和約]]が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い<ref name="changes">Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144</ref>、ようやくナポレオンに屈服した。 |
一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|オーストリア皇帝フランツ1世]]の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンが[[パリ]]から到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍は[[エックミュールの戦い]]に敗れ、[[ドナウ川]]を越えて逃亡し、[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]の要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続く[[アスペルン・エスリンクの戦い]]に敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたる[[ヴァグラムの戦い]]で勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は[[第五次対仏大同盟]]を終わらせ、10月に[[シェーンブルンの和約]]が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い<ref name="changes">Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144</ref>、ようやくナポレオンに屈服した。 |
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=== 1810年 - 1812年 === |
=== 1810年 - 1812年 === |
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同盟軍は数を増し、フランス軍を[[ライプツィヒ]]で包囲した。有名な3日間の[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]が行われ、橋が時期尚早に壊されたために、[[白エルスター川|エルスター川]]の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、{{仮リンク|ハナウの戦い|en|Battle of Hanau}}でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立した[[バイエルン王国|バイエルン]]軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。<ref name="hanau">Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287</ref> |
同盟軍は数を増し、フランス軍を[[ライプツィヒ]]で包囲した。有名な3日間の[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]が行われ、橋が時期尚早に壊されたために、[[白エルスター川|エルスター川]]の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、{{仮リンク|ハナウの戦い|en|Battle of Hanau}}でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立した[[バイエルン王国|バイエルン]]軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。<ref name="hanau">Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287</ref> |
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「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは[[1813年]]の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍は[[ピレネー山脈]]から、北[[イタリア]]平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンが{{仮リンク|ラ・ロシエールの戦い|en|Battle of La Rothière}}で敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。[[1814年]]の |
「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは[[1813年]]の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍は[[ピレネー山脈]]から、北[[イタリア]]平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンが{{仮リンク|ラ・ロシエールの戦い|en|Battle of La Rothière}}で敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。[[1814年]]の[[六日間の戦役]]で30,000名のフランス軍が[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]の散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、{{仮リンク|カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク|en|Karl Philipp, Prince of Schwarzenberg}}を{{仮リンク|モントローの戦い|en|Battle of Montereau}}で破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、[[ランの戦い|ラン(Laon)の戦い]]と{{仮リンク|アルシス=シュル=アウベの戦い|en|Battle of Arcis-sur-Aube}}でのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、{{仮リンク|パリの戦い (1814年)|en|Battle of Paris (1814)|label=パリの戦い}}で同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、[[1814年]]4月4日、皇帝に退位を迫り認めさせた。<ref name="abdicate">Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297</ref> |
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[[1815年]]2月[[エルバ島]]から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(''L'Armee du Nord'')は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、[[ベルギー]]にいる[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]やブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日には[[リニーの戦い]]でプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。[[エマニュエル・ド・グルーシー]]が対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、[[ワーテルローの戦い]]でウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。<ref name="army">Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312</ref> |
[[1815年]]2月[[エルバ島]]から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(''L'Armee du Nord'')は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、[[ベルギー]]にいる[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]やブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日には[[リニーの戦い]]でプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。[[エマニュエル・ド・グルーシー]]が対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、[[ワーテルローの戦い]]でウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。<ref name="army">Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312</ref> |
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== 関連項目 == |
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* [[ナポレオン戦争]] |
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== 参考文献 == |
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* ''Swords Around a Throne: Napoleon's Grande Armee'', John Robert Elting. 784 pages. 1997. ISBN 0306807572 |
* ''Swords Around a Throne: Napoleon's Grande Armee'', John Robert Elting. 784 pages. 1997. ISBN 0306807572 |
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* ''Napoleon's Line Infantry'', Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 085045512X |
* ''Napoleon's Line Infantry'', Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 085045512X |
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* ''Napoleon's Light Infantry'', Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 0850455219 |
* ''Napoleon's Light Infantry'', Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 0850455219 |
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* ''Campaigns of Napoleon'', David G. Chandler. 1216 pages. 1973. ISBN 0025236601 |
* ''Campaigns of Napoleon'', David G. Chandler. 1216 pages. 1973. ISBN 0025236601 |
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* Fisher, Todd & Fremont-Barnes, Gregory. ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' Oxford: Osprey Publishing Ltd., 2004. ISBN 1-84176-831-6 |
* Fisher, Todd & Fremont-Barnes, Gregory. ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' Oxford: Osprey Publishing Ltd., 2004. ISBN 1-84176-831-6 |
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* ''Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 1 - Infantry - History of Line Infantry (1792-1815), Internal & Tactical Organization; Revolutionary National Guard, Volunteers Federes, & Compagnies Franches; and 1805 National Guard.'', Nafziger, George. 98 pages. (https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM) |
* ''Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 1 - Infantry - History of Line Infantry (1792-1815), Internal & Tactical Organization; Revolutionary National Guard, Volunteers Federes, & Compagnies Franches; and 1805 National Guard.'', Nafziger, George. 98 pages. (https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM) |
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* [http://www.wtj.com/articles/napart/ ''Napoleonic Artillery:Firepower Comes Of Age'', James Burbeck. ''War Times Journal''] |
* [http://www.wtj.com/articles/napart/ ''Napoleonic Artillery:Firepower Comes Of Age'', James Burbeck. ''War Times Journal''] |
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* ''Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815'', Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714 |
* ''Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815'', Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714 |
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== 関連項目 == |
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* [[ナポレオン戦争]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.fusiliers.com/vitrine8.html Uniforms of Napoleon's Guard] |
* [http://www.fusiliers.com/vitrine8.html Uniforms of Napoleon's Guard] |
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[[Category:ナポレオン戦争]] |
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2024年12月20日 (金) 09:07時点における最新版
La Grande Armée 大陸軍 | |
---|---|
活動期間 | 1805–1815 |
国籍 | フランス帝国 |
兵力 |
685,000名 (1812年6月) |
主な戦歴 | |
指揮 | |
現司令官 |
ナポレオン ミュラ ランヌ ベルティエ ネイ ダヴー ベルナドット スールト マッセナ スーシェ ヴィクトル オージュロー ルフェーヴル モルティエ ベシェール ウディノ マルモン |
大陸軍(だいりくぐん、フランス語: Grande Armée、グランダルメまたはグランド・アルメ、英語: The Great Army)あるいは大陸連合は、1805年にナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、イギリス侵攻のためにイギリス海峡に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方のオーストリアおよびロシアに対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、1806年から1807年、1812年、および1813年から1814年の各作戦においてもこの名称が使われており、19世紀初頭にナポレオンが作戦を実行するために自らの勢力圏の国々から召集した多国籍軍の総称である。[1]フランス語のarméeという語には「陸軍」とともに「軍隊」という意味もあり、「大軍隊」と日本語訳することも可能である。
最初の大陸軍はナポレオン麾下の陸軍元帥(Maréchal)と上級の将軍の指揮下にある6個軍団で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの覇権がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年の夏にロシア遠征を始めた時がその最大であり、兵力は700,000名を数えた。
ロシアでの壊滅後もナポレオンは兵力を再編し、1813年のライプツィヒでの諸国民の戦い、1814年のすさまじいフランス防衛戦および1815年のワーテルローの戦いで新しい軍隊を率いたが、ナポレオン軍は1812年6月の大陸軍の高みまで戻ることはなかった。
組織
[編集]大陸軍の成功の最も重要な要因のひとつは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1個軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団(Corps d'Armée)はそれぞれに、下記のような各兵種と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の行程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥、軍団陸将(Général en chef、上将)または師団陸将(Général de division、中将)によって指揮された。
ナポレオンは彼の軍団の指揮官を大変信頼しており、彼の戦略目標の範囲内で行動し、協働してそれを達成するのであれば、通常は広い範囲で指揮官達に行動の自由を与えた。仮に指揮官達が失敗して彼を満足させることができなかった場合は、躊躇することなく叱責あるいは解任し、多くの場合彼自身がその軍団の指揮を執った。1800年にジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりであった。これは一時的な分け方であり、1804年までにナポレオンが恒久的な組織とした。ナポレオンは個々の軍団に騎兵を設け、歩兵によって動きが鈍くならないよう素早い離合集散を図った。
軍団 - 師団 - 旅団 - 連隊 - 大隊 - 中隊
軍団は、1812年に騎兵予備集団が分割されて騎兵軍団ができたことから、従来の軍団は歩兵軍団と呼ばれるようになった。軍団(歩兵軍団)は通常「3個の歩兵師団+1個の軽騎兵師団+軍団砲兵」とされた。騎兵軍団は通常「1個の重騎兵師団+1個の軽騎兵師団」とされた。軍団砲兵は、1個徒歩砲兵中隊+1個騎馬砲兵中隊が標準だった。
歩兵師団(4000~6000名)は通常「3~6個の歩兵連隊+師団砲兵」とされた。騎兵師団は通常「2~4個の騎兵連隊+師団砲兵」とされた。歩兵師団砲兵は1個徒歩砲兵中隊、騎兵師団砲兵は1個騎馬砲兵中隊が標準だった。歩兵連隊は2~6個大隊とされた。騎兵連隊は1~4個大隊とされた。戦場での基本行動単位は大隊である。歩兵大隊は平均500名くらいで、騎兵大隊は平均150騎くらいだった。連隊は通常の大隊管理組織であり、旅団は戦場での大隊指揮組織であった。
旅団は、実質的には師団長配下の旅団長とその副官数名であり、旅団長は、予め割り当てられた連隊の各大隊の戦場指揮をまかされる役職だった。師団は0~3個の旅団を持った。例えば歩兵師団下連隊の全大隊は、戦場では左翼旅団と右翼旅団に編制されるなどした。旅団長が各大隊を動かす場合の連隊長は、自連隊の第1大隊を率いた。旅団を持たない師団では、連隊長が配下大隊を戦場指揮した。騎兵連隊の各大隊は、従軍時の消耗による人馬の数の変動が激しかったので、会戦時は騎兵旅団というカバー単位による再編成を必要とした。騎兵大隊は2個中隊だった。歩兵大隊は1807年まで9個中隊で、1808年から6個中隊になった。中隊は100名くらいと考えてよい。
皇帝近衛隊
[編集]フランスの皇帝近衛隊 (Garde Impériale) は当時の精鋭部隊であり、執政親衛隊 (Garde des Consuls, Garde Consulaire) から発展した。これはそれ自体が軍団(Corps d'Armée)であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは近衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。歩兵が戦闘に参加することは希であったが、近衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。
近衛隊の規模の変遷 | |
---|---|
年 | 兵士数 |
1800 | 3,000 |
1804 | 8,000 |
1805 | 12,000 |
1810 | 56,000 |
1812 | 112,000 |
1813 | 85,000(ほとんどが新規近衛隊) |
1815 | 28,000 |
- 古参・中堅・新規近衛隊
- 1804年のナポレオン皇帝即位から発足した近衛隊は、1809年の新規近衛隊の創設に伴ない、古参近衛隊と呼ばれるようになった[2]。1810年には中堅近衛隊が新設された[3]。それぞれの経験と能力の評価に従って、近衛歩兵は連隊別に、近衛騎兵は大隊別に分かれて、古参・中堅・新規近衛隊のいずれかに所属した。
- 古参近衛隊(Vieille Garde)- 近衛擲弾兵、近衛猟歩兵、近衛精鋭憲兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛猟騎兵の古参大隊、皇后竜騎兵、近衛軽槍騎兵の古参大隊、近衛徒歩砲兵の古参、近衛騎馬砲兵
- 中堅近衛隊(Moyenne Garde)- 近衛小銃猟歩兵、近衛小銃擲弾兵
- 新規近衛隊(Jeune Garde)- 近衛狙撃歩兵、近衛選抜歩兵、近衛海兵、近衛猟騎兵の新参大隊、近衛軽槍騎兵の新参大隊、近衛徒歩砲兵の新参
近衛歩兵
[編集]- 近衛擲弾兵(Grenadiers-à-Pied de la Garde Impériale)[4][5]
- 皇帝近衛擲弾歩兵連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年のポーランド方面作戦では、ナポレオン自身によって「不平屋」(les grognards)という渾名を付けられた。
- 構成員は近衛兵の中でも最も経験を積んだ勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、読み書きができ、勇猛さで表彰され、しかも身長が178 cm以上である必要があった。
- 皇帝近衛擲弾歩兵連隊は中堅近衛兵や新規近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝近衛擲弾歩兵は4個連隊に拡張された。新しい連隊すなわち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝近衛擲弾歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中堅近衛隊と呼ばれた。
- ワーテルローでイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロイセン軍と戦った。皇帝近衛擲弾歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着て、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。
- 近衛猟歩兵(Chasseurs-à-Pied de la Garde Impériale)
- 皇帝近衛猟歩兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。
- 猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4個連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中堅近衛兵連隊と共に、ワーテルロー会戦の最終段階で近衛隊突撃に加わった。皇帝近衛擲弾歩兵第1連隊と同様に猟歩兵第1連隊もプランスノアの戦いに参加した。
- 猟歩兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑が縁の赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも近衛歩兵と同様に、猟歩兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。[6]
- 近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde Impériale)
- フュジリエ(火打石銃兵)猟兵は1806年に中堅近衛歩兵の連隊として創設された。中堅近衛隊のすべての兵士は2ないし3回方面作戦に参加した古参兵であり、戦列連隊の下士官に任命された。全近衛隊の中でも問題なく優秀な歩兵であるフュジリエ猟兵連隊猟兵は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ擲弾兵連隊(下記)と共に近衛フュジリエ旅団の一部として戦闘に参加した。
- フュジリエ猟兵連隊は広範な作戦行動に参加し、繰り返しその存在価値を示し続けたが、ナポレオンの退位に続く1814年に解散し、1815年のワーテルロー方面作戦に向けて再編制されることはなかった。
- 制服は赤の折り返しのある濃青のハビット(上着)を着用し、赤い縁で緑の肩章と白の襟章を着けていた。上着の下は白のチョッキと青か茶色のズボンだった。帽子は円筒帽で、白の紐が着き、緑に重ねた赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。
- 近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde Impériale)[7]
- フュジリエ擲弾兵連隊は1807年に結成された中堅近衛歩兵連隊である。フュジリエ猟歩兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。
- フュジリエ擲弾兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ猟兵連隊と共に近衛フュジリエ兵旅団の一部として戦闘に参加した。フュジリエ猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再編制されなかった。
- 服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は円筒帽で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。
- 近衛海兵(Marins de la Garde de la Garde Impériale)
- 近衛海兵隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、イギリス海峡を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、近衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートやバージあるいはその他の船の操船にあたった。
- 制服は金のレース飾りのついたネイビーブルーのユサール風ドルマンジャケットと、やはり金のレース飾りのついたネイビーブルーのハンガリー風ズボンだった。帽子は Gold Guard と刺しゅうされた円筒帽だった。[8]武器は歩兵と同様で、シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような拳銃も持っていた。
- 近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde Impériale)
- 1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を新規近衛隊の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中堅近衛隊から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。
- 制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。
- 近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde Impériale)
- 新規近衛隊の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃擲弾兵連隊と同様だが、士官は古参近衛隊から、下士官は中堅近衛兵から編制替えされた。
- 制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。さらに赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。
近衛騎兵
[編集]近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs-à-Cheval)と騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-à-Cheval)の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(Gendarmes)大隊およびマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(Régiment de Dragons de la Garde Impériale、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊(2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。1812年には第三の軽槍騎兵連隊が創設され、また、偵察兵連隊は1813年の末に創設された。
近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。
- 近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale)
- 「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの近衛騎兵連隊の中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。
- すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。
- この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア軍近衛騎兵を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘はアイラウの戦いの時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて兵達は退避場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシア軍の戦列になだれ込んだ。皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない近衛騎兵連隊であった。
- 制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。
- 重騎兵用のサーベルと騎銃、拳銃で武装しており、皇帝近衛軍の全部隊と同様に、彼らも戦闘時には予備隊として控え、勝利を確実にするここぞという時にだけ戦場に出ており、擲弾騎兵の最も有名な2つの攻撃がアウステルリッツの戦いでロシア胸甲騎兵連隊を敗走に追い込んだ事とアイラウの戦いで再び、ロシア軍と交戦した事である。
- 近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale)
- 「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽近衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊のひとつと言える。
- フランス革命の1796年、ナポレオンはイタリア遠征に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽騎兵に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵の創設を命じた。[9]この時の200名の護衛が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。
- 部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した。半島方面作戦では、1808年のベナヴェンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。
- 騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。
- 近衛マムルーク(Escadron de Mamalukes)
- 砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトはエジプト遠征で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊。元々は皇帝近衛猟騎兵連隊所属の中隊(あるいは半大隊)であった。
- ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官はフランス人であり、下士官はエジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人、グルジア人、シリア人、キプロス人なども含まれていた。
- 1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には古参近衛隊の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され新規近衛隊に所属した。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。
- 制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った三日月刀に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。
- 近衛精鋭憲兵(Gendarmerie d’Elite)
- 滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目を果たした。ジャンダルムは大陸軍の憲兵であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し[10]、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。
- 1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスペルン=エスリンクでのドナウ橋の防衛で有名である。
- 制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。
- 皇妃竜騎兵(Dragons de l’Impératice)
- 1807年に皇帝近衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Impériale)として創設され[10]、翌年皇妃ジョセフィーヌに敬意を表して改称された。
- この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の近衛連隊からの志願者も編入を認められた。
- この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので[10]、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、古参近衛隊と新規近衛隊の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。
- 近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale)[11]
-
- 第1連隊(ポーランド)
- 1807年にナポレオンがポーランド軽騎兵の近衛連隊を創設することを承認した。フランス人の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽騎兵を側近に置き、翌年のソモシエラの戦いでは、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の古参近衛隊と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。古参近衛隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊と同じく、敵に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ヴィスツラ・ウーラン(1e Vistula Uhlans)というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。
- ウーラン槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は珍しくなく、ここによく表されている。フランス人に教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となり、彼らの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。
- 第2連隊(フランス=オランダ)
- 1810年にフランス人とオランダ人が中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵(Les Lanciers Rouges)と呼ばれた。
- この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた。連隊は1813年に再編制され、その最初の4個大隊は古参近衛隊で構成されたために強力になり、さらに新規近衛隊から6個大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも参加した。
- 第3連隊(ポーランド)
- 1812年に新規近衛隊の一部として編制された。士官や下士官は古参兵であり、兵卒はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で、熱烈ではあるがまだ経験が足りない者たちで構成された。
- 訓練が足りないままにロシア戦役に投入され、1812年の遅く、コサックとユサールによって包囲されスロニムで崩壊した。
- 近衛儀仗騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale)
- 1813年に新設された彼らは、ナポレオンが新しく考案したサポート専門の騎兵であり、近衛騎兵の各連隊に随伴して、様々な支援任務をこなすことを求められた。これを儀仗兵(Gardes d'honneur)に例えた。新しく徴集した富裕層子弟中心の青年騎兵から選ばれた者たちで4個連隊が編制された。これを発展させて高度なスカウト任務も与えられた者たちが、近衛偵察騎兵になった。
- 近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde Impériale)
- モスクワからの惨憺たる退却中、ナポレオンは数多くのコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝近衛隊の再編制期間中に、彼らを参考として新しい騎兵旅団を創設した。そして各1,000名から成る3個連隊が創設されて既存の連隊に付けられた。第1連隊はクロード・テスト・フェリColonel-Major(皇帝近衛隊限定の名誉大佐称号)が指揮した。(1814年3月14日にクラオンヌの戦場で彼は負傷し、ナポレオン自身から男爵の称号を授かった)
近衛砲兵
[編集]- 近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde impériale)
- この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は当初3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で、重砲4門または軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核にした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて、新規近衛隊の支援砲兵になり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は、近衛徒歩砲兵第1連隊を形成して、古参近衛隊の支援砲兵になる他、皇帝直率の予備砲兵になった。
- 近衛騎馬砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde impériale)
- 近衛騎馬砲兵の採用には、最高に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は、徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は、全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。3個大隊構成で、各大隊は2個中隊を擁しており、各中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。
騎兵
[編集]皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。1個騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、各大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「精鋭」と称され、最高の兵士と馬があてられた。
フランス革命の流れの中で、封建制度(アンシャン・レジーム)の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。
役割に応じて重騎兵と軽騎兵に分けられた。
重騎兵
[編集]- 胸甲騎兵(Cuirassiers)[10][12][13][14][15][16]
- 胸甲騎兵は中世の騎士の如く重い真鍮や鉄製の兜に胴体を包む胸当てと背当ての組み合わせの胴鎧(胸甲)を着け、斬撃も出来るが、刺突により向いており、統制のとれた突撃では切っ先を使って刺突する事が多かった長くて重い直刀型サーベル(サーベルは騎兵の主要武器であり、その形状は兵科により様々であり、重騎兵は長くて重い直刀型サーベルを好み、軽騎兵は軽量の曲刀型サーベルを好んだ[12])と1対の拳銃、カービン銃で武装していたが、ほとんどの胸甲騎兵はすぐに騎銃を持たなくなった。フランス胸甲騎兵はナポレオン時代の最強の重騎兵であり[13]、彼らは戦場ではほぼ無敵であり、アイラウやボロジノの戦いでその真価を見せつけた。戦場ではほぼ激突攻撃だけに用いられ、突撃任務において特別な能力を持っていたが[14]、自前のピストルを使用した散兵戦もある程度は行えた。1812年の装備改定にて胸甲騎兵もカービン銃を装備するようになった[14]。兜と胸甲は銃弾とサーベルと騎兵槍に対する十分な防御効果を持っていた。また、彼らは敵の前進に対する効果的な反撃部隊としても使う事ができ、もし彼らが縦隊や横隊の歩兵を発見し、側面や背後を襲撃する事が出来れば、重騎兵が隊列に突進して、歩兵を斬る、馬の蹄で踏みつけるといった攻撃で、敵を壊滅させられた[12]。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。
- 騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。彼らの着けている甲冑や武器の重量のために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出した。胸甲騎兵は精鋭とし[15]ての自覚を持ち、多数の竜騎兵を含む騎兵の予備部隊の中核をなし、予備の騎兵は勝敗を決する決定的な時期にのみ、熟慮の末に投入され、大集団で運用された[15]。重騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンの近衛騎兵だと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍(Horse Guards)にも採用しようとした。
- ナポレオンの胸甲騎兵の運用思想は、敵を総崩れにさせられる地点を戦場で見つけ、騎兵突撃の圧倒的な威力を投入するというものだった[15]。理論上は騎兵突撃開始前に砲兵が準備砲撃を実施しておき、砲撃で弱体化した敵に速度を徐々に上げた騎兵が突入する事になっていた[15]。速歩から始まる胸甲騎兵の突撃は、やがて駆歩へと速度を速め、そして敵陣から150mの位置に迫った時に襲歩へと移行し始め、最後の50mは全速力で疾走する事になる[15]。だが、現実にはフランス軍の司令官は胸甲騎兵に密集隊形をとらせるのを好んだために、理論通りの急激な速度変更は難しかった[15]。司令官たちは胸甲騎兵に大群で緊密な隊形を組み、将兵のブーツ同士が触れるほどになるように命じたが、密集陣形を維持するのは難しく、実際には速度を上げるのは不可能であり、当然のことながら、個々の騎兵が自主性を発揮する機会は奪われた[15]。しかし、このような運用により、胸甲騎兵部隊の前進を阻止するのはほぼ不可能になり、敵騎兵の隊列を崩し、緊密な陣形を組めない歩兵を蹄とサーベルで粉砕できるようになった[15]。だが、それでも胸甲騎兵は、銃剣を装着した歩兵の緊密な方陣、例えば、ワーテルローの戦いに見られたようなものを突破できる戦術を持たず、また、密集隊形での突撃は照準を的確に行う敵砲兵に対して脆弱性をさらす事にもなった[15]。しかし、カトル・ブラの戦いやその後のワーテルローの戦いで、フランス胸甲騎兵の突撃を持ちこたえた強靭なイギリス方陣のイメージは全ての歩兵大隊は方陣を組むべきで、方陣は騎兵攻撃に耐えられるという誤った印象を与えるが、これは間違った考え方であり、ナポレオン戦争時のイギリス歩兵は、当時の最強歩兵であり、彼らの士気と訓練は他に類を見ないもので、実際にナポレオン戦争ではフランス騎兵も同盟国側の騎兵も歩兵の方陣を崩しており、単にある隊形を組むだけでは騎兵突撃を撃退する事は出来ず、頑健な精神に並外れた訓練、冷静な勇気がなければ、押し寄せてくる重騎兵の攻撃を前にして、歩兵方陣を断固として持ちこたえる事は出来ない[12]。その全てがあっても部隊が圧倒される事もあり、イギリス歩兵がカトル・ブラとワーテルローで成し遂げた事はとてつもない偉業である[12]。
- この時代の多くはそれぞれ侮りがたい騎兵部隊を保持しており、フランス革命戦争では列強の騎兵はほぼ互角だったが、ナポレオンが1805年の征服戦役で大陸軍を立ち上げると、フランス騎兵は世界最強の存在となり、なかでも胸甲騎兵はナポレオン戦争において支配的な部隊であり、イギリスのスコッツ・グレイズ(第二竜騎兵連隊)やロシアの近衛騎兵など同様の力量がある精鋭部隊は他国にもあったが、全体として見ると1800年から1812年までのフランス重騎兵は無類の存在だった。しかし、ロシア戦役においてフランス騎兵部隊が崩壊し、その後の1813年と1814年の戦役ではフランス騎兵は以前の様に交戦相手を支配する事が出来なかった。オーストリア軍とロシア軍とプロイセン軍にも胸甲騎兵の連隊はあったが、彼らはフランス胸甲騎兵の技量と豪胆さにはとても太刀打ち出来ず、いつも負かされており、実のところ、同盟軍の多くの騎兵は、重さと鞍の上での動きの問題があるという理由で、胸甲を廃止すらしており、1809年までにオーストリア軍は胴体の前だけ覆いがあり、脇と背中はそのままの半胸甲を胸甲騎兵に支給し始めており、この半胸甲は胸甲騎兵を軽量化し、戦役における馬の負担を減らしたが、フランス重騎兵との混戦では攻撃されやすくもなった。ナポレオンは胸甲騎兵について以下の言葉を残している[12]。
- 「胸甲騎兵は他の全ての騎兵よりはるかに役に立つ。この兵科は……十分に教育する必要がある。胸甲騎兵こそ、馬に乗る兵の知識が最高度に達していなければならないのだ」
- 重騎兵でも軽騎兵でも力点が置かれるのは激突戦術で、火器はサーベルや槍に次ぐ補助的な武器であり、ほとんどの騎兵は拳銃を携帯しており、中には騎銃を持つ者もおり、重騎兵は敵の方陣を攻撃する時によく拳銃を使い、それは決着を着ける武器ではなく、敵に苛立ちを起こす武器であった[12]。攻撃する騎兵は常に動いているために、一度、拳銃を発射したら襲歩で駆けている騎兵が再装填する事はほぼ不可能であり、拳銃は騎兵同士の混戦でも使う事が出来たが、接戦においては常に、誤射の可能性が高く精度の低い単発の拳銃よりサーベルが好ましかった。また、ナポレオン戦争が進むにつれ、騎銃は騎兵の武器の中で重要度を増していった。
- 竜騎兵(Dragons)[10][12][15]
- 重騎兵とも思われていたが、竜騎兵と槍騎兵(オーストリア軍とプロイセン軍のウーラン)は重騎兵と軽騎兵の混合であり[12]、竜騎兵は胸甲騎兵の様な防具を身に着けていなかったために、銃弾を掻い潜りながら、突撃する任務には適していなかったが、代わりに軽装備で機動性に優れており、敵をけん制して隊列を崩す、偵察をこなすなど胸甲騎兵とは別の分野で活躍した。フランスの騎兵で最も数が多かったのが竜騎兵であり、ナポレオン戦争の初期には、竜騎兵が胸甲騎兵と共に戦果をあげる事が多く、重騎兵の一種の補助兵力として機能していた[15]。
- 彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的な直刀型サーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗だけでなく歩兵のように徒歩でも戦えるようになっていた。その融通性は歩兵としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎兵のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎兵に適した馬を見つけることも大変であった。騎兵馬欠乏の際にはしばしば歩兵士官の乗用馬が提供させられたので、ステータスである騎乗を断念させられた歩兵将校の中には、竜騎兵に対して反感を持つ者もいたようである。
- 当初25個連隊、後に30個連隊あったが、1815年の「百日」の時はわずか15個連隊しかできなかった。
- カービン銃騎兵(Carabiniers-à-Cheval)[10]
- その前身は、フランス国王軍の精鋭騎兵隊である。カービン銃騎兵は、胸甲の防御に頼らない素早い剣さばき技術と、馬上射撃技術の伝統部隊であった。もっとも当時のヨーロッパ諸国の重騎兵の多くは重量胸甲を身に着けていなかったので、こちらの方が標準である。ナポレオン軍独特の胸甲騎兵が無謀な突撃を多用していたのに対して、カービン銃騎兵は馬上射撃と分別ある切り込み白兵戦を専門にしていた。
- 1812年にナポレオンは彼らにも鉄の胸甲を着けるように命令した。胸甲を着用しないことを誇りにしていた彼らは大いに口惜しがったが、ローマ帝国風の金色胸甲を着用したカラビニエは、フランス帝国式の銀色胸甲を着用するキュラシエとの、ファッションの対象をなした。フランス胸甲騎兵と騎馬騎銃兵という装甲騎兵はヨーロッパの戦場を支配する舞台となり、同盟軍の悩みの種となった。重騎兵としてナポレオン自身が散兵任務を行わせない様に厳命していたが、騎馬騎銃兵も必要に応じて散兵戦を行った[14]。
軽騎兵
[編集]- ユサール (Hussards)[12]
- ユサールは全軍の中でも最も優れた騎乗技術と剣術の精鋭たちで、危険な任務も恐れない命知らずたちであった。
- 曲刀型サーベルとピストルを携帯して任務にあたり、ユサールの行軍速度はフランス軍の中でも最速で、彼らはその機動力を活かして偵察隊としてのパトロールや敵を撹乱するための襲撃や味方の動きを察知されない様に警戒幕を構成して敵の目から隠した[15]。
- 1804年には10個連隊、最盛期には14個連隊あった。銃剣を装備する様に命じられた記録もあるが、実戦で彼らが、銃剣を使用したか、あるいは所持し続けたかどうかはわからない[17]。また、非常に変則的で稀な武装形態として騎兵槍もあった[17]。
- 「30歳までに死ななかったユサールは下衆野郎だ」という言葉も残されており、死傷率は高かった。
- 猟騎兵(Chasseurs-à-Cheval)[12]
- 上記のユサールと武装や役割が似た軽装騎馬隊だが、騎銃を装備し、状況によっては徒歩で戦う点を除けば、ユサールと同じ様なものだった[15]。銃器を部隊に多く配備されていた為に猟騎兵は銃器をもって行う騎馬散兵戦や騎兵幕の形成を得意としているが、突撃が出来ないわけではない[14]。ただし、上述の皇帝近衛猟騎兵連隊や歩兵の類似部隊とは異なり、特権的なものもなく、精鋭でもなかった。しかし、最も数の多い部隊であり、1811年に31個連隊あった。このうち6個連隊は非フランス人部隊であり、ベルギー人、スイス人、イタリア人、ドイツ人で構成された。
- 制服は色遣いが少なく、歩兵とおなじような円筒帽(ユサールの目立つ熊毛帽と対照)、緑の上着、緑の乗馬用ズボンと短い長靴だった。
- 槍騎兵(Lancers)[10][12][14][15][16]
- 細長い騎兵槍をメインウェポンとし、曲刀型サーベルと拳銃をサブウェポンとして装備、胸甲とヘルメットも装備[16]、時には騎銃(カービン銃)も加えて武装する騎兵[14]。雨天でマスケット銃が湿る場合は槍が敵歩兵に対して効果的だったが、騎兵同士の乱戦では槍はサーベルに対し、不利だった。[16]
- 古代から中世の戦場において、騎兵たちの主要武器は常に槍であり、槍を装備した騎兵たちの突撃は高い攻撃力を誇り、戦場の花形として活躍していたが、17世紀には東欧を除くヨーロッパの戦場では騎兵槍はほとんど使われなくなっていた[14]。16世紀半ばにピストルが発明され、ピストルと剣を主力武器とする騎兵のコストパフォーマンスの良さとピストルの槍を上回る射程、投射武器や歩兵の槍による脅威度の上昇により重武装、重装甲化を始めたことにより、16世紀頃には12世紀の軽快さを失っていた事、重装過ぎる騎兵の槍による突撃戦法は長槍を装備した歩兵の前では効果は薄く、また、火薬を得て更に強力になった投射武器の前では近づく事も困難であった事が原因であり、西欧において、兵科としての槍騎兵は一旦の滅亡を迎えた[14]。しかし、東欧においては事情が異なり、長槍、後にマスケット銃を装備した歩兵の密集陣形が主流であった西欧とは違い、東欧各国が正対した脅威は短い槍や火縄銃(後にフリントロックマスケット)などを装備したオスマン軍の各種近接歩兵の波状攻撃であり、十分に騎兵が運動し、迂回などが容易に出来る戦場であった[14]。これらの歩兵には依然として騎兵による突撃戦法が必要で、正面突撃こそ頻度が減ったものの、槍騎兵の迂回突撃は十分に決定的な突撃となり得るものであった[14]。重装な槍騎兵というものは火力の上がる戦場において生存が難しくなっていたが、軽装な槍騎兵は戦場で活躍する余地が十分に残されており、また、軽装化した槍騎兵は重要性が上がる軽騎兵任務において使用が可能であるという利点も存在し、この様な土壌と、民族的要因による槍騎兵復興の運動が合致し、槍騎兵復興運動の萌芽が生まれた[14]。ナポレオン戦争期における槍騎兵の復興運動はこの様な文脈の上に存在した[14]。
- ナポレオン戦争時のフランス槍騎兵は突撃兵科である重騎兵ではなく、偵察、哨戒、捜索、騎兵幕の作成などを行う軽騎兵として編成された。各国の槍騎兵の編成も重騎兵ではなく、中騎兵や軽騎兵の編成を取る事が多かった[14]。しかし、軽騎兵的な運用が主であるとは言え、会戦に投入されることもままあった[14]。特に槍は突撃において曲刀に優っており、対騎兵戦闘で有利とされ、また、方陣に対し、銃剣よりもリーチで優る槍は対歩兵において曲刀や直剣より効果的であったとされ、一種の「万能騎兵」的な側面があったが、ただし、これは槍騎兵に限った話ではなく、他の軽騎兵でも同様であった[14]。当時の騎兵マニュアルにおいて、騎兵がサーベルで攻撃する際は銃剣をパリィするという動作があるのに対し、槍騎兵の章では省かれており、また、歩兵に対する攻撃のみならず、歩兵に対する追撃においても槍は威力を発揮した[14]。追撃されている歩兵は騎兵を回避する為に伏せる行為を行ったが、槍は伏せている人間を突くことも出来た[14]。しかしながら、いくら歩兵に対して強力であろうとも、歩兵が組んだ方陣には限定的な効果しかなく、事例としては、シウダッド・レアル、ドレスデン、カツバッハなどの事例にて槍騎兵は歩兵の方陣を崩す事に成功しているが、カツバッハの戦いは大雨であったために、歩兵が発砲する事が出来なかった[14]。また、方陣を崩す事に成功した場合よりも、方陣を崩すことに失敗、あるいは断念した場合の方が圧倒的に多く、槍の優位性を以てしても、歩兵の方陣を崩す事は困難であり、それらの攻略には諸兵科連合による攻撃か重騎兵が必要であった[14]。
- 騎馬戦においては槍の突撃における衝撃能力の高さは広く認知されていたものの、白兵戦においての取り回しの悪さが懸念となっていた[14]。戦績を見ると軽騎兵との戦闘においては多くの勝利を収めており、突撃に成功した場合は槍騎兵は軽騎兵に撃退されることがほとんどなく、また、竜騎兵などの中騎兵に対しても、突撃を行った場合は勝利を収める可能性が高いが、フリーラントの様に最終的に白兵戦にて敗北した例も存在する[14]。各種親衛隊騎兵や胸甲騎兵や騎馬騎銃兵などの重騎兵に対しての不利は存在し、ほとんどの戦闘が槍騎兵の敗北に終わっている[14]。また、槍はひしゃげたり折れたり敵に突き刺さったままに抜けなくなる場合があり、少なくともこれらの欠点はどの国もある程度は事実であると考えていたために、全ての国の槍騎兵は予備の武器としてサーベルを携帯した[14]。
- 騎兵槍は使いこなすことが難しく、槍を使いこなすには熟練が必要で、人によっては、それに加えある種の才能が必要とまで考えた。[14]訓練を行わず、槍を使いこなせない槍騎兵は非常に戦力的な価値が低い事も知られており、ワーテルロー戦役に参加したある将校は「悪い槍使いは悪い剣使いよりも使い物にならない」と述べている[14]。
- 槍騎兵は重騎兵の攻撃力と軽騎兵の機動力を兼ね備えた非常に攻撃的な兵科であり、騎兵との乱戦では槍の長さが邪魔になる事も少なくなかったが、こうした場合には槍を捨てて、サーベルに持ち替える事で対応でき、追撃戦では重騎兵よりも有利に戦う事が出来た。騎兵同士の乱戦では槍は扱いにくく、邪魔になり、サーベルに敵わなかったために、槍騎兵連隊では一部の兵士に騎兵槍を装備させず、騎兵槍を持つ騎兵をサーベルを持つ騎兵が援護する様にした[15]。逆に言えば、槍は歩兵相手に戦う時は必要不可欠であり、槍騎兵は簡単に歩兵を刺し貫く事ができ、槍は方陣隊形の歩兵に対して有効に使える白兵戦武器であった。また、隊形が崩れた歩兵や退却する敵縦隊に対して、あるいは追撃中の敵輜重縦列の中にいる時などは、槍騎兵に敵うものはなく、彼らは大暴れする事が出来た。おそらく、槍の使用と歩兵の方陣隊形の有効性を最も明確に実証している戦闘は、1815年夏に行われたカトル・ブラの戦いであろう[12]。また、意のままに襲撃を加える槍騎兵は、小競り合いにも有効だった[15]。
- 総合して見ると、槍騎兵は他の兵科に対して圧倒的優位であるとは言う事が出来ないものの、突撃を行える多くの状況で優位であった[14]。しかし、会戦において大きな戦果を上げた槍騎兵部隊の殆どは各国の親衛隊の騎兵であり、猟騎兵が散兵戦に秀でており、ユサールが奇襲を得意とした様に、通常の槍騎兵は突撃と追撃が得意であった[14]。
- フランス騎兵の槍は、ポーランド騎兵が持つものよりやや短く、やや重かった[12]。フランスの槍騎兵連隊はナポレオン戦争の最後の戦役ですばらしい評判を獲得した[12]。
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カラビニエ
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ヴィスツラ・ウーラン
歩兵
[編集]歩兵はたぶん大陸軍で最も魅力的な戦闘をしたわけではないが、ほとんどの戦闘で矛先となり、その成果が勝敗を分けることになった。
歩兵は大きく2つに分けられた。1つは戦列歩兵(Infanterie de Ligne)であり、もう1つは軽歩兵(Infanterie Légère)であった。
戦列歩兵
[編集]戦列歩兵は大陸軍の大部分を占めていた。1803年、ナポレオンは連隊という言葉を復権させた。フランス革命中のことば半旅団(demi-brigade、2個で1個旅団となり王立という意味合いがなかった事実による)は、暫定的な部隊や補助部隊にのみ使われるようになった。大陸軍の創設時、89個戦列歩兵連隊(Régiments de Ligne)があったが、この数はフランスの県の数であった。最終的には156個連隊となった。
戦列歩兵連隊はナポレオン戦争中にその規模が変わったが、基本的な構成要素は大隊であった。1個歩兵大隊は約840名であり、これが大隊の定員となり、ほとんどどの隊も変わらなかった。ほかに400名から600名の大隊もあった。1800年から1803年にかけては、戦列歩兵大隊には8個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、7個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵(Voltigeur)中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、4個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵中隊が所属していた。
- 小銃兵(fusilier)
- フュジリエ(火打石銃兵)は歩兵大隊の大部分を占めており、大陸軍の典型的な歩兵と考えてよい。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であった。訓練は行軍速度と持続時間に重点が置かれ、接近戦や白兵戦での個々に狙いを定めた射撃が続いた。このことはヨーロッパの敵国の大多数と異なるところであり、他国ではきちんとした隊形で動き一斉射撃を行うことに重点が置かれた。
- ナポレオン戦争初期のフランス軍の勝利は、長い距離を素早く移動できる能力にあり、その能力は歩兵に課された訓練の賜物だった。1803年から1個大隊は8個フュジリエ中隊となり、1個中隊はおよそ120名であった。1805年にフュジリエ中隊の1つを改組して1個選抜歩兵中隊を創設した。1808年、ナポレオンは歩兵大隊を9個中隊から6個中隊に変えた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個はフュジリエ中隊、1個は擲弾兵中隊、残る1個は選抜歩兵中隊であった。
- 帽子は二角帽子であり、1807年に円筒帽に変わった。制服は白のズボン、白の外衣と濃青の上着(1812年まではハビットロング、その後はハビットベスト)に白の襟章を着け、赤の襟と袖口であった。帽子には色のついたポンポンを着けていた。このポンポンの色は中隊毎に異なっていた。1808年以後の編成替えで、第1中隊は濃緑のポンポン、第2中隊は空色の、第3中隊は橙色の、第4中隊はすみれ色のポンポンという按配だった。
- 擲弾兵
- 擲弾兵はナポレオン戦列歩兵の精鋭であり、敵に打撃を与える部隊として古参兵で占められた。新しく作られた大隊には擲弾兵中隊が無かった。ナポレオンは、2回の方面作戦に参加させた後に最強で勇敢で背の高いフュジリエを擲弾兵中隊に昇格させ、大隊の中には2個以上の擲弾兵中隊ができたものもあった。
- 擲弾兵の新兵の条件は連隊の中でも背が高く恐ろしげであり、しかも口ひげを生やしているということになった。これに加えて帽子が熊毛になり上着には赤の肩章を着けた。1807年以後熊毛帽は赤い線と赤の羽毛のついた円筒帽に置き換えられた。しかし多くの者が熊毛帽を好んだ。標準のシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣に加えて擲弾兵は短いサーベルを帯びた。これは接近戦で使うためであるが、焚き火の木を切る道具となってしまった。
- 擲弾兵中隊は通常最も伝統的栄誉ある場所として隊列の右端に位置した。作戦行動中、擲弾兵中隊は擲弾兵大隊を形成したり、時には連隊や旅団を形成することもあった。この配置はより大きな戦闘隊形の前衛に置かれた。
- 選抜歩兵(Voltigeurs、意味合いからは飛び上がる者)
- 選抜歩兵選抜歩兵は戦列連隊のエリート軽歩兵であった。1805年、ナポレオンは戦列大隊の中で背は小さいが敏捷な者を選んで選抜歩兵中隊を作るよう命じた。この中隊は大隊の階層の中では擲弾兵中隊に次ぐものである。その名前はもともとの使命からきている。選抜歩兵中隊は敵の騎兵に対し馬に飛び上がって戦うというもので、風変わりなアイデアだったが戦闘ではうまくいかなかった。それにも拘わらず、選抜歩兵は重要な任務をこなし、散兵戦や各大隊の偵察などを行った。その訓練では射撃技術や素早い動きに重点が置かれた。
- 帽子は二角帽で黄と緑あるいは黄と赤の大きな羽毛が付いていた。1807年以後、円筒帽に変わり黄の線と同様な羽毛が付いた。上着には緑の線のある黄の肩章と黄の襟が付いた。もともとの武器は短い竜騎兵用マスケット銃であったが、実際にはシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣を装備した。擲弾兵と同様に、接近戦用に短いサーベルを帯びたがやはりあまり使われなかった。各選抜歩兵中隊はまとめられ、軽歩兵連隊や旅団を作ることがあった。1808年以後戦列の左端に位置した。この位置は伝統的に戦列戦闘の2番目に栄誉あるものであった。
軽歩兵
[編集]戦列歩兵が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽歩兵(Infanterie Légère)も重要な役割を果たした。軽連隊は35個連隊を超えることはなかった(戦列歩兵の155連隊と対照)。また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を執れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。
軽歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽歩兵連隊は多くの戦闘に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽歩兵に任務を任せることが多く、軽歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽歩兵は戦列歩兵よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。
軽歩兵大隊の構成は戦列歩兵大隊のものそのものであったが、擲弾兵、フュジリエ、選抜歩兵については異なった種類の部隊があてられた。
- 猟歩兵(Chasseurs)
- 猟兵は軽歩兵大隊のフュジリエである。これが大隊の大部分を占めた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であったが、接近戦用の短いサーベルも帯びていた。ナポレオン軍に共通することだが、この武器もすぐに焚き火の木を切る道具となってしまった。
- 1803年からは、各大隊に8個猟兵中隊があった。1個中隊は約120名であった。1808年、ナポレオンの命令で各大隊が9個中隊から6個中隊に編制替えされた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個中隊は猟兵中隊であった。
- 猟兵の制服はフュジリエよりも華美なものであった。1806年までは円筒帽に濃緑の大きな羽と白の紐が付いていた。制服は戦列歩兵よりも暗い青で小競り合いのときのカムフラージュにもなった。上着は戦列歩兵と同じだったが、折り返しと袖口は濃青だった。また濃青と赤の肩章を付けていた。ズボンは濃青で靴は騎兵のような長いものだった。1807年以降円筒帽は標準の円筒帽に置き換えられたが白の飾り紐は着いていた。
- 戦列フュジリエと同様、帽子には色のついたポンポンを着けていたが、その色は連隊ごとに異なるものだった。
- カービン銃兵(Carabiniers)
- 騎銃兵は軽歩兵大隊の擲弾兵である。2回の方面作戦参加を経験し、背が高く勇敢な猟兵が憲兵中隊に選ばれた。彼らは大隊の精鋭部隊であった。擲弾兵と同様に口ひげを蓄えることを要求された。
- 武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣、および短いサーベルであった。帽子は高い熊毛帽だった(1807年に赤の縁のある円筒帽で赤の羽毛の付いたものに置き換えられた)。
- 制服は猟兵と同じだが、赤の肩章だった。騎銃兵中隊はより大きな騎銃兵部隊を構成することがあり、突撃を要するような作戦に使われた。
- 選抜歩兵(Voltigeurs)
- 特別兵は戦列歩兵大隊のものと同じ任務であったが、さらに敏捷性と射撃の腕を求められた。
- 制服はフュジリエと同様であったが、黄と緑の肩章であり、1806年より前に毛皮製高帽(colpack)が円筒帽に取って代わった。毛皮製高帽には赤の上に黄の大きな羽毛と緑の紐が付いていた。1807年以降、円筒帽に変わり黄の大きな羽毛と黄の紐だった。この選抜歩兵中隊も必要に応じて大きな部隊を構成することがあった。
砲兵
[編集]皇帝は砲兵士官の出身であり、次のように言ったと伝えられている。「砲兵が良ければ神が味方する」[18] ここで期待されているように、フランスの大砲は大陸軍の基幹であり、三軍の中でも大きな火力を有し、少ない時間で敵に大きな打撃を与える可能性があった。フランスの大砲はしばしば集中砲火(大砲兵大隊)に用いられ、歩兵や騎兵が接近戦を挑む前に敵の戦列を乱した。砲兵部隊の絶妙な訓練によって、ナポレオンは高速でその武器を動かし、弱っている防衛線を支援したり、敵の戦列を破る道具にした。
絶妙な訓練以外にもナポレオンの砲兵隊は多くの戦術的な改良によって戦力を上げた。王政時代にジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが設計したフランス砲は軽く早く移動でき照準を合わせやすく、また台車を強化したり口径を標準化したりした。通常の野戦砲は4ポンド、8ポンド、12ポンドのカノン砲と6インチの榴弾砲があったが、戦争後期には4ポンド砲と8ポンド砲はオーギュスト・マルモンが設計した共和暦11年式6ポンド砲に置き換えられた。砲身は真鍮(黄銅)製で[19]、砲架、車輪、および前車はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。砲兵を歩兵や騎兵の部隊とうまく融合させて、互いに支え、時には単独で行動することもできた。砲兵隊には2つの分類、徒歩砲兵隊(Artillerie a Pied)と騎乗砲兵隊(Artillerie a Cheval)があった。
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戦争前期のグリボーバル12ポンドカノン砲
- 徒歩砲兵
- この名前が示唆するように、砲兵は大砲の横に行軍し、大砲はもちろん馬で曳かせた。このために行動速度は歩兵の速度に準じ遅かった。1805年には8個連隊、後に10個連隊があり、さらに近衛連隊に2個連隊あった。しかし騎兵や歩兵の連隊とは異なり、これらは軍政的な後方管理組織であった。前線での行動単位は、120名からなる中隊である。従軍時(遠征時)は、中隊別に各師団や各軍団に編入され、前者は師団砲兵として師団長の指揮下に、後者は軍団砲兵として軍団長の指揮下に入った。
- 師団砲兵
- 歩兵師団の師団砲兵は1個徒歩砲兵中隊、騎兵師団の師団砲兵は1個騎馬歩兵中隊が標準とされた。1個中隊には通常カノン砲6門と榴弾砲2門の計8門が配備された。
- 軍団砲兵
- 軍団砲兵は、1個徒歩砲兵中隊と1個騎馬歩兵中隊のペアが標準とされた。軍団砲兵にはよく重砲が配備された。
- 砲兵中隊は、砲車牽引中隊とペアを組んで従軍するのが常で、このペアは砲兵分団(division d’artillerie)と呼ばれた。当時のdivisionには”師団”と”中隊ペア”の二通りの意味があるので混乱を招いている。後者は大隊の分割フォーメーション用語として使われていた。砲兵分団には砲兵、下士官、士官の他に、金属加工、木工、毛皮などの加工作業者も随伴していた。彼らは予備品を作ったり、大砲、台車、弾薬箱、馬車の維持・修理にあたり、馬の世話や軍需品の保管も行った。
- 騎馬砲兵
- 騎兵は騎乗砲兵隊の素早い動きと素早い砲撃に支援された。この部隊は騎兵と砲兵の組み合わせであり、馬や台車に乗って戦闘に参加した。
- 前線に非常に近く活動するために、士官や砲兵は竜騎兵のように接近戦用の武器を携え訓練も施されていた。一度配置につくや、彼らは素早く下馬し、大砲を据え、照準を定め敵に集中砲火を浴びせた。さらに大砲をまた台車に載せ新しい場所に素早く移動した。このことを成し遂げるために訓練を積んでいたので砲兵の中でもエリート部隊であった。
- 近衛騎乗砲兵隊は全速で駆けてきて最初の砲弾を放つまでに1分とかからなかった。そのような動きを目にして驚いたウェリントン将軍は次のように記している「かれらは拳銃を撃つように大砲をぶっ放している」。
- 管理上の連隊は6個、さらに近衛兵に1個あった。ナポレオンは各軍団に最低1個の騎馬砲兵中隊を、また可能ならば各師団にも騎馬砲兵中隊を割り当てようとした。その能力は十分高かったものの、その結成と維持にかかる費用もかなりのものであった。そのために、騎乗砲兵隊の数は徒歩砲兵隊の数より少なく、構成比は5分の1程度であった。皇帝が騎乗砲兵隊の兵士すべての名前を覚えているなどという自慢たらたらの冗談もあったくらいである。
- 積まれた訓練、馬、武器や装備以外にも、彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵隊は徒歩砲兵隊の2倍、近衛砲兵隊の3倍の費用を要した。
- 砲車牽引兵
- 砲車牽引隊(Train d’artillerie)はボナパルトによって1800年1月に創設された。その機能は砲車を曳く馬を御する御者であった。[20] それまでのフランスでは民間の御者を雇っていたが、彼らは戦火の中では大砲を放棄して自分達や価値ある馬の命を守ろうとした。[21]
- 砲車牽引隊の要員は、以前の民間人とは異なり、武装し、訓練を施され、兵士と同じように制服を与えられた。閲兵の時の見栄えもさることながら、このことは軍隊としての規律を守り、攻撃されれば反撃することも可能にした。御者はカービン銃と歩兵と同じ型の短い刀および拳銃を携行した。彼らはそれらの武器を使う機会はほとんど無かったが、賭け事や、喧嘩その他各種の遊びごとで確かに評判をとった。
- 彼らの制服と上着は灰色であり、その頑丈な外観をさらに強めていた。しかし、彼らが戦闘可能ということはコサックやスペイン人またチロルのゲリラに襲われたときに有効であることが証明された。
- 砲車牽引大隊は、当初5個中隊で構成された。第1中隊はエリートと看做され、騎乗砲兵中隊のペアにされた。中間の3個中隊は徒歩砲兵中隊のペアにされ、予備品箱、物資用荷車の管理や屋外での鍛冶なども担当した。最後の1個中隊は予備役で、新兵や馬の訓練を行った。1800年の方面作戦に続いて、砲車牽引隊は8大隊に編成替えされ、それぞれ7個中隊を擁した。ナポレオンが砲兵隊を増強するにつれ、大隊が追加されて1810年には14個大隊を数えた。1809年、1812年および1813年には最初の13個大隊が倍増され27個大隊となった。さらに1809年以降、戦利品で急増した大砲数の余裕から連隊砲兵も登場し、歩兵連隊付き砲兵用の砲車牽引中隊も創設されることがあった[21]。
- 近衛兵は独自の牽引隊を持っており、近衛砲兵隊が増えるにつれて近衛牽引中隊も増加したので、当初の牽引大隊から牽引連隊に格上げされた。頂点は1813年から1814年にかけてで、近衛古参砲兵隊は12個牽引中隊に、近衛若年砲兵隊は16個牽引中隊に支援され、砲兵中隊と牽引中隊がそれぞれペアを組んだ[22]。
工兵
[編集]騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの工兵がいた。
大陸軍の架橋工兵(Pontonniers)はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に艀(はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。架橋工兵の技術によって川を敵が予想していない意外な地点で渡って敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナ川渡河では全滅の危機から自軍を救うことができた。
工兵が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは架橋工兵の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つジャン・バプティスト・エーブレ工兵将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋のさまざまな部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個工兵中隊で80杯のはしけの橋(長さは120mから150m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。
橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木工兵(Sapeurs)の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝がアッコ包囲戦 (1799年)など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設には正面から攻撃するよりもできれば回避し孤立化させた方がよいと考えるようになったため、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。また、都市攻城戦でのトンネル掘りを専門に行う坑道工兵(Mineurs)の中隊もあった。
ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(jeu de mot)と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる精霊(Genie)にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が Génie militaire と呼ばれるのはこの名残と思われる。
後方支援部門
[編集]- 輜重兵
ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の兵站の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、La Maraude)で日々を暮らしていくことを勧めていた。
補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」といわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。
兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えばニコラ・アペールが発明した今日の缶詰につながる保存食の技術であった。
- 医療関係者
医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。衛生や抗生物質に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。麻酔とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。
ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍のドミニック・ジャン・ラリー男爵の提唱になるいわゆる空飛ぶ救急システムである。戦場でフランス軍空飛ぶ砲兵隊が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、野戦病院の組織を改善することにより、現代の移動陸軍外科病院の原型を作った。
負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば義肢も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。
- 情報通信
以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。
大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で伝書鳩を伝令に採用し、また観測用熱気球を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかしクロード・シャップによって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置(腕木通信)という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。
シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(regulateur)と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。
シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。
外国人部隊
[編集]多くのヨーロッパ諸国が外国人部隊を採用したが、ナポレオンのフランスも例外ではなかった。ナポレオン戦争中の大陸軍で、外国人部隊は重要な役目を果たし、特徴ある戦い方をした。ほとんどすべてのヨーロッパ諸国はさまざまな段階で大陸軍の一部となった。戦争末期には、数万名の兵士が従軍した。
1805年には、ライン同盟の35,000名の部隊が情報通信線と本隊の側面を守るために使われた。
1806年、27,000名が追加され同じ用途に使われた。さらに20、000名のサクソン人部隊はプロイセンに対する掃討作戦に使われた。
1806年から1807年にかけての冬季方面作戦では、ドイツ、ポーランド、およびスペインが大陸軍の左翼を担い、バルト海に面したシュトラールズントとダンツィヒの港の占領を助けた。
1807年のフリートラントの戦いでは、ランヌ元帥の軍団はかなりの数がポーランド、ザクセン、オランダの兵で占められた。このときは外人部隊が初めて戦闘における主要な役割を演じ、目だった働きをした。
1809年のオーストリア方面作戦では、大陸軍のおよそ3分の1がライン同盟の兵士だった。[23] またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人だった。
1812年大陸軍の頂点を迎えた時、ロシアに侵攻した部隊の半分以上はフランス人以外でありオーストリアやプロシアを含み20か国に上った。
大陸軍の階級
[編集]封建制度や他の君主政治の時の軍隊とは異なり、大陸軍の昇進制度は社会的な階級や富よりも能力に重点をおいて成された。ナポレオンは彼の軍隊が実力社会であることを欲し、どの兵士でもその生まれによらず、成した業績によって(もちろん、彼らがあまりに高く、あるいはあまりに急速に昇進していなければ)指揮官の最上級まで急速に上り詰めることができた。概してこの目的は達せられた。
その能力を発揮できる場を与えられれば、能力のある者は数年間で頂点まで辿り着けた。他の軍隊であれば数十年掛かったであろう。身分の低い兵士ですら彼の軍嚢に元帥杖を持てるといわれた。下の表は現在の米陸軍と対照した階級のリストである。またギャラリーには頂点まで登った人物を示す。なお、当時のフランス軍では1788年に准将(仏:Brigadier des armées du roi)が廃止されたため、将官は少将と中将の二階級のみである。
大陸軍の階級 | 現代の米陸軍で相当する階級 |
---|---|
帝国元帥 (Maréchal d’Empire)[24] | 元帥 (General of the Army) |
中将
|
少将[28] |
少将 (Général de brigade)[29] | 准将 (Brigadier general) |
将軍副官 (Adjudant-commandant)[30] | 大佐 (Staff Colonel) |
大佐 (Colonel)[31] | 大佐 (Colonel) |
二等大佐 (Colonel en second) | 中佐 (Senior lieutenant colonel) |
中佐 (Major) | 中佐 (Lieutenant Colonel) |
二等中佐 (Major en second) | 少佐 (Senior Major) |
少佐 (Chef de bataillon または Chef d'escadron)[32] | 少佐 (Major) |
副官勤務大尉 (Capitaine adjudant-major) | 大尉 (Staff Captain) |
大尉 (Capitaine) | 大尉 (Captain) |
中尉 (Lieutenant) | 中尉 (First Lieutenant) |
少尉 (Sous-lieutenant) | 少尉 (Second Lieutenant) |
准尉 (Adjudant) | 准尉 (Chief Warrant Officer) |
准尉 (Adjudant sous-oficier) | 准尉 (Warrant Officer) |
曹長 (Sergent-major または Maréchal-des-logis-major)[33] | 曹長 (Sergeant-Major) |
軍曹 (Sergent または Maréchal des logis)[33] | 軍曹 (Sergeant) |
給養係伍長 (Caporal-Fourrier または Brigadier-Fourrier)[33] | 中隊書記/補給係軍曹 (Company clerk / supply Sergeant) |
伍長 (Caporal または Brigadier)[34] | 伍長 (Corporal) |
兵士 (Soldat) または騎兵 (Cavalier、英:Cavalry) または砲兵 (Canonnier、英:Artillery) | 一等兵 (Private) |
陣形および戦術
[編集]ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、さらにフリードリヒ大王の斜角陣形(ロイテンの戦いで使われた)や、革命の初期に国民皆兵(Levee en masse)軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。
ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列(Linear)戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後のリュッツェンの戦いで実践された)、自軍の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。
ナポレオンは常に彼の近衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。
より有名で広く使われ、効果的かつ興味ある陣形や戦術を下記に示す。
- 横隊(Ligne)
- 基本的な3階層の横隊を組んだ陣形。歩兵や騎兵が一斉射撃を行ったり、正面攻撃を行うときに適していたが、動きが比較的鈍く、側面からの攻撃に弱かった。
- 行軍縦隊(Colonne de Marche)
- 軍隊の急な動きや持続する移動、および正面攻撃には最善の隊形であったが、集中できる火力が少なく、側面攻撃や待ち伏せ、砲撃および突入には弱かった。
- V字形隊形(Colonne de Charge)
- 鏃(やじり)あるいは槍の穂先の形をした騎兵の陣形。急速に接近したり敵の戦列を破るために考案された。歴史的にもよく使われ効果のあった陣形であり、今日でも戦車隊が使っている。しかし突進が止められた時やタイミングを失った時にその側面への反撃に弱い。
- 攻撃縦隊(Colonne d'Attaque)
- 歩兵の広い縦隊であり、戦列と縦隊の組み合わせであった。軽装歩兵の散兵線で敵を混乱させたり、縦列での前進を排斥するために用いられた。縦隊が接近すると散兵が側面を防御し、縦隊が一斉射撃と銃剣による攻撃を行った。通常の薄い戦列陣形には効果的な陣形であった。攻撃縦隊はフランス革命初期のフランス軍が使った「群衆」あるいは「大群」戦術から発展した。その欠点は火力の集中度が劣り、大砲の攻撃に弱いことだった。
- 混成陣形(Ordre Mixte)
- ナポレオンの好んだ歩兵隊形である。複数の部隊(多くは連隊か大隊)が戦列陣に配置され、その背後や間に縦列攻撃部隊を配するものだった。これは戦列の火力と速度を組み合わせ、縦列攻撃部隊の行う混戦や散兵戦に利点をもたらした。多少の欠点もあったが、この戦術を成功させるためには、砲兵や騎兵の支援が特に重要だった。
- 散兵(Ordre Ouvert)
- 歩兵や騎兵が部隊毎にあるいは個兵毎に散開する戦術。この戦術は軽装の部隊や散兵部隊には効果的だった。この戦術では丘や森のある荒れた地形では特に移動速度が速く、散開しているので敵の攻撃に対しても防御面で有効だった。その欠点は一斉射撃のような手段がなく、接近戦の場合は特に騎兵に弱かった。
- 方陣(Carre)
- 騎兵に対する歩兵の古典的防御陣形。兵士が中空の四角形を構成し、1辺は3層ないし4層とする。士官や砲兵、騎兵が中に入る。歩兵にとっては最も防御に適した陣形であり、特に丘の頂上や下り坂に面している時、有効だった。
- この陣形では動きが緩慢になり、固定された目標とされることがあった。その密度を濃くすると大砲の攻撃に弱く、それほどまでではないにしても歩兵の銃撃にも弱かった。この陣形がいったん壊れると完敗に終わる傾向があった。
- 空飛ぶ砲兵大隊(Batterie Volante)
- フランス砲兵の移動性能と訓練を生かした隊形。一つの大隊が戦場のある地点に移動し、短時間で鋭い砲撃を行い、続いてまた荷車に積んで別の地点に移動し、攻撃を加え、といった操作を繰り返すものであった。
- 多くの大隊がこの攻撃を組み合わせ集積していくことで、敵の戦列に壊滅的な打撃を与えた。騎乗砲兵隊はこの戦術に特に適していた。ナポレオンは初期の方面作戦でこの戦術を使い、大きな成果を得た。この戦術の柔軟性で、攻撃を加えたい目標に素早く攻撃を集中できた。この戦術は特別の訓練を必要とし、また砲兵と馬が整然と行動できるように密接な指揮と連携を必要とした。
- 大砲兵大隊(Grande Batterie)
- もう一つの砲兵戦術であり、空飛ぶ砲兵大隊が使えない時に用いられた。
- 大砲を単一の急所となる地点(多くは敵の中央)に集中するものである。敵が恐怖に捕らわれたり、陣形が崩れると大きな損害を与えられた。ただし、敵の情報が不足したままで単一の地点に多くの砲火を合わせることには細心の注意を払わなければならなかった。いったん砲門を開き目標が明確になると、照準を合わせ直すことで上記のことを回避できた。この戦術は敵の大砲からの反撃に弱く、騎兵の攻撃に対する防御も必要だった。これがフランス砲兵の最も良く知られた戦術であったが、ナポレオンは空飛ぶ砲兵大隊の方を好み、この戦術を使う必要のある時、あるいは使った方が成功の機会が増えると思われた時のみに、この戦術を使った。戦闘の開始時点で、ナポレオンは多くの砲兵大隊をさらに大きな大砲兵大隊にして、集中砲火を浴びせ、その後にそれを解いて空飛ぶ砲兵大隊に変えた。
- 初期の方面作戦ではあまり使われなかったが、大陸軍の馬の数や砲兵の質が落ちてくると、この戦術を使う機会を増やさざるを得なかった。
- イノシシの頭(Tete du Sanglier)
- 複合した陣形であり、混成陣形に似ているところもあるが、三軍(歩兵、騎兵、砲兵)がV字形のような方形に組むもので、集中攻撃や防御の場面で使われた。歩兵が最前線で短く何層にも厚く隊形を組み、これをイノシシの鼻とした。その後ろに2組の砲兵隊を置き、イノシシの目とした。側面と最後尾は斜角陣で縦列、横列、方形陣の歩兵がイノシシの顔を作った。さらに側面と後ろを守るのが2組の騎兵隊であり、イノシシの牙の役目を果たした。
- 高度に複雑な陣形であり、容易にまた急速に組めるものではなかった。いったん組まれると、牙を除いて、動きは緩慢であった。しかし、伝統的な方形陣よりも動きが速く、砲兵や歩兵の攻撃に対しても防御が堅かった。牙は強い攻撃能力も持っていた。
- 後の1830年代と1840年代に行われた北アフリカ制圧ではこの戦術が効果的に用いられ、1920年代まで使われていた。
戦歴
[編集]1804年 - 1806年
[編集]大陸軍は当初、大西洋岸軍(L'Armee des cotes de l'Ocean)として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、1803年にブローニュの港に集結した。しかし1804年のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して第三次対仏大同盟が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさまライン川を渡り南ドイツに入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍してウルムの要塞でカール・マック将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれたウルム戦役では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月にはウィーンが占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。1805年12月2日、アウステルリッツの戦いで数的には劣勢であった大陸軍がアレクサンドル1世の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日のプレスブルクの和約が結ばれ、翌年、神聖ローマ帝国は解体された。[35]
中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、1806年の第四次対仏大同盟が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、イェナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。ルイ=ニコラ・ダヴー将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲でベルリンに最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。[36]
1807年 - 1809年
[編集]ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、1807年2月7日から8日にかけてのアイラウの戦いでは事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、ベニグセンのロシア部隊は6月14日のフリートラントの戦いで完敗した。ロシアもついに屈服し、7月にフランスとロシアの間でティルジット条約が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。[37]
ポルトガルが大陸封鎖令に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く半島戦争の始まりとなり、フランス第一帝政の資源と人を浪費させることになった。フランスは1808年にスペインを占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、ブルゴスの要塞を占領し、ソモシエラの戦いでマドリッドへの道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスのムーア軍に鉾先を向け、1809年1月16日のコルナの戦いで英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍をイベリア半島から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。[38]
一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。オーストリア皇帝フランツ1世の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンがパリから到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍はエックミュールの戦いに敗れ、ドナウ川を越えて逃亡し、ラティスボンの要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続くアスペルン・エスリンクの戦いに敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたるヴァグラムの戦いで勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は第五次対仏大同盟を終わらせ、10月にシェーンブルンの和約が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い[39]、ようやくナポレオンに屈服した。
1810年 - 1812年
[編集]スペインを除いてヨーロッパでは一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外交的な緊張関係が高まり、1812年の戦争につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するために、これまでにない最大規模の軍隊を結成した。新しい大陸軍はそれまでと変わっていて、士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。ポーランドとオーストリアの部隊を除いてすべての部隊はフランスの将軍の指揮下に入った。
巨大な多国籍軍は1812年6月23日にネマン川を越え東方に進軍し、ロシアはその前に後退していった。ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ軍とピョートル・バグラチオン軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、大陸軍には苛立ちが溜まっていった。スモレンスクを占領し、モスクワを守るための最後の防衛戦として9月7日にボロジノの戦いが行われた。その結果は、大陸軍が勝ったものの犠牲が多く引き合わない勝利だった。ボロジノの戦いでの勝利の7日後の9月14日、ナポレオンと大陸軍の大部分はついにモスクワに到着した。だが、そこはすでにもぬけの殻で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの守りも強いられた。しかも、これまでのロシア軍との死闘と病気(主にチフス)で夏の間にすでに兵士の半分を失っていたうえに、ロシアの焦土作戦によって大陸軍が確保できる食糧は無かった。フランス皇帝が無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンと大陸軍はモスクワで1ヶ月以上を無駄に過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、遂に西方への退却を開始した。退却は侵攻以上に悲惨を極め、寒さと飢えと病気に悩まされ、集まってくるコサックやロシア軍に繰り返し襲撃された。ミシェル・ネイが殿軍を引き受けロシア軍との間の分離を図ったが、大陸軍は事実上壊滅し、およそ400,000名が死に、ベレジナ川に到着したのはわずか数万名のやつれきった兵士達だった。[40]それでもベレジナの戦いの結果とジャン=バティスト・エブレの技師達によるベレジナ川に橋を架ける必死の作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。
軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。[41]この大遠征は、今まで大陸軍が積み上げてきた数々の勝利を突き崩すに十分たる大敗北という結果に終わった。
1813年 - 1815年
[編集]ロシアにおける壊滅的損害はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。第六次対仏大同盟が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンはすぐさま新しい軍隊を立ち上げ戦端を開き、リュッツェンの戦いとバウツェンの戦いで連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦期間を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場は苦しいものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間のドレスデンの戦いでフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側のトラチェンブルク計画の採用により、フランスはカッツバッハの戦い、クルムの戦い、グロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦いと負け続けた。
同盟軍は数を増し、フランス軍をライプツィヒで包囲した。有名な3日間の諸国民の戦いが行われ、橋が時期尚早に壊されたために、エルスター川の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、ハナウの戦いでフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立したバイエルン軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。[42]
「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは1813年の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍はピレネー山脈から、北イタリア平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンがラ・ロシエールの戦いで敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。1814年の六日間の戦役で30,000名のフランス軍がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルクをモントローの戦いで破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、ラン(Laon)の戦いとアルシス=シュル=アウベの戦いでのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、パリの戦いで同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、1814年4月4日、皇帝に退位を迫り認めさせた。[43]
1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(L'Armee du Nord)は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。[44]
脚注
[編集]- ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997
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- ^ Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
- ^ Foot Grenadiers in the Imperial Guard, Accessed March 16, 2006
- ^ Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
- ^ FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101, Accessed March 16, 2006
- ^ Grand Tenue - Marins de la Garde, Accessed March 16, 2006
- ^ By Order of the Commander-in-Chief: the Origin of the Guides-a-cheval, Accessed March 16, 2006
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『図解 ナポレオンの時代武器防具戦術大全』レッカ社。
- ^ a b 戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編. 学研. pp. 11
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 近世近代騎兵合同誌. サークル騎兵閥. pp. 41,40,42,43
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- ^ a b c d ナポレオンの軍隊 近代戦術の視点からさぐるその精強さの秘密. 光人社NF文庫. pp. 83,82
- ^ a b ナポレオンの軽騎兵 華麗なるユサール. 新紀元社. pp. 14-15,25,38
- ^ Mas, M.A. M., p.81.
- ^ 青銅砲とされる場合もあるが、いわゆる青銅(銅と錫の合金)に加え、真鍮(銅・亜鉛合金)、砲金(ガンメタル、銅・錫・亜鉛合金)製のものも含め青銅(ブロンズ)と呼ぶことがあるためである。
- ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
- ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
- ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
- ^ Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
- ^ 帝国元帥(仏:Maréchal de l'Empire)は階級ではない。師団将軍で傑出していると認められた者の名誉称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(仏:General de division)である。 Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.
- ^ 各兵科最先任の将官に対する名誉称号(『華麗なるナポレオン軍の軍服 134頁、上級大将として記述。』 マール社 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子監修翻訳 2014年10月20日。)であり階級ではない。帝国元帥にもなった者を除いてはルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte)、ジュノー(Jean Andoche Junot)、ディリエ(Louis Baraguey d'Hilliers)などが叙任された。
- ^ 軍団長としての地位であり階級ではない。1812年廃止。その後1814年に復活するも、1848年に再び廃止された。但し階級章(四つ星)自体は軍団長たる師団将軍(仏 : Général commandant de corps d'armée)のものとして使用された。 Général または General-in-chief 参照。
- ^ 旧体制及び1814~1848年は中将(仏:Lieutenant-Général)
- ^ アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。
- ^ 旧体制及び1814~1848年は陣地総監(=少将)(仏:Maréchal de camp)
- ^ 将軍付き幕僚としての地位であり階級ではない。大佐(仏:Colonel)または中佐(仏:Major)が任じられた。序列は少将(仏:Général de brigade)と大佐(仏:Colonel)の間とされる事が多かった。
- ^ 1793~1803年は半旅団長(仏:Chef de brigade)
- ^ Chef d'escadronは騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の大隊長
- ^ a b c 後者は騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の呼称
- ^ フランス軍の Caporal および Brigadier は、上等兵であることが多いが第一帝政では下士官であり、その後1818年までは下士官である。
- ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 36-54
- ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74
- ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92
- ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209
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- ^ Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee
- ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171
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- ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297
- ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312
参考文献
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- Napoleon's Light Infantry, Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 0850455219
- Campaigns of Napoleon, David G. Chandler. 1216 pages. 1973. ISBN 0025236601
- Fisher, Todd & Fremont-Barnes, Gregory. The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. Oxford: Osprey Publishing Ltd., 2004. ISBN 1-84176-831-6
- Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 1 - Infantry - History of Line Infantry (1792-1815), Internal & Tactical Organization; Revolutionary National Guard, Volunteers Federes, & Compagnies Franches; and 1805 National Guard., Nafziger, George. 98 pages. (https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
- Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 2 - Infantry - National Guard after 1809; Garde de Paris, Gendarmerie, Police, & Colonial Regiments; Departmental Reserve Companies; and Infantry Uniforms., Nafziger, George. 104 pages. (https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
- Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 3 - Cavalry - Line, National Guard, Irregular, & Coastal Artillery, Artillery & Supply Train, and Balloon Companies., Nafziger, George. 127 pages.
- Royal, Republican, Imperial, a History of the French Army from 1792-1815: Vol 4 - Imperial Guard, Nafziger, George. 141 pages. (https://archive.is/20121220114621/http://home.fuse.net/nafziger/NAFNAP.HTM)
- 1812: Napoleon's Fatal March on Moscow, Adam Zamoyski, ISBN 0007123752
- Blundering to Glory: Napoleon's Military Campaigns (2nd edition) Owen Connelly. 254 pages. 1999. ISBN 0842027807
- Napoleon on the Art of War, Jay Luvaas. 196 pages. 1999. ISBN 0684851857
- The Bridges That Eble Built: The 1812 Crossing Of The Berezina, James Burbeck, War Times Journal.
- With Napoleon in Russia, Armand-Augustin-Louis de Caulaincourt, , Duc de Vicence, Grosset & Dunlap, 1959
- Dictionary of the Napoleonic Wars, David Chandler London 1979.
- Who Was Who in the Napoleonic Wars, Phillip Haythornthwaite, London, 1998.
- The Revolutionary Flying Ambulance of Napoleon's Surgeon, Capt. Jose M. Ortiz.
- The Encyclopedia Of Military History: From 3500 B.C. To The Present. (2nd Revised Edition 1986), R. Ernest Dupuy, and Trevor N. Dupuy.
- Memoirs of the Duke Rovigo
- The Journal of the International Napoleonic Society
- Supplying War: Logistics From Wallenstein to Patton, 2nd Edition, Martin van Crevald. 2004. ISBN 0521546575
- Napoleonic Artillery:Firepower Comes Of Age, James Burbeck. War Times Journal
- Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815, Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- French website displaying flags of the Grande Armee
- Soldiers of Fortitude: The Grande Armee of 1812 in Russia by Major James T. McGhee
- French Heavy and Light Cavalry (Lourde et Legere Cavalerie)[リンク切れ]
- French article on Chappe telegraphs, Les Telegraphes Chappe, l'Ecole Centrale de Lyon
- Uniforms of Napoleon's Guard