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[[古墳時代]]には既に拓けていたと考えられており、立石様のある立石八丁目の周辺には南蔵院裏古墳([[明治]]時代に破却)や熊野神社古墳といった[[古墳]]跡の存在が確認されている<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000058/1002752/1002869/1003140.html 葛飾区公式サイト 葛飾区の歴史 古墳時代]</ref>。</br>立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており<ref>谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.92</ref>、このころ千葉県[[鋸山 (千葉県)|鋸山]]付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には'''立石'''付近を横断していた古代の官道([[東海道]])の道標として転用されていたと考えられている<ref>谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.94</ref><ref>[[葛飾区郷土と天文の博物館]] 「Ⅰ-2 立石様にまつわる歴史的な環境」『立石遺跡Ⅳ』 2010、p.5</ref>。
[[古墳時代]]には既に拓けていたと考えられており、立石様のある立石八丁目の周辺には南蔵院裏古墳([[明治]]時代に破却)や熊野神社古墳といった[[古墳]]跡の存在が確認されている<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000058/1002752/1002869/1003140.html 葛飾区公式サイト 葛飾区の歴史 古墳時代]</ref>。<br />立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており<ref>谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.92</ref>、このころ千葉県[[鋸山 (千葉県)|鋸山]]付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には'''立石'''付近を横断していた古代の官道([[東海道]])の道標として転用されていたと考えられている<ref>谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.94</ref><ref>[[葛飾区郷土と天文の博物館]] 「Ⅰ-2 立石様にまつわる歴史的な環境」『立石遺跡Ⅳ』 2010、p.5</ref>。


[[室町時代]]の[[1398年]]([[応永]]5年)に記された「[[葛西御厨]]田数注文」に地名としての'''立石'''が初めて登場する<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/8_2%E7%AB%A02%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』 第2章2節 p.86、2017]</ref>。
[[室町時代]]の[[1398年]]([[応永]]5年)に記された「[[葛西御厨]]田数注文」に地名としての'''立石'''が初めて登場する<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/8_2%E7%AB%A02%E7%AF%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』 第2章2節 p.86、2017]</ref>。
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また同時期に工業化も進み、[[1914年]](大正3年)には現在の渋江公園の位置で、千種セルロイド工場が操業を始めた。これがこの地域における[[玩具]]産業の嚆矢となり、その後多くの[[セルロイド]]工場が立石、四つ木地域に集まってきた。現在でも、玩具産業の割合が高いのがこの地域の工業の特色の一つとなっている。更に中川の水が利用できたことから、江戸友禅を中心に[[染色]]工業なども発達した<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/10_3%E7%AB%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.154、2017年]</ref>。
また同時期に工業化も進み、[[1914年]](大正3年)には現在の渋江公園の位置で、千種セルロイド工場が操業を始めた。これがこの地域における[[玩具]]産業の嚆矢となり、その後多くの[[セルロイド]]工場が立石、四つ木地域に集まってきた。現在でも、玩具産業の割合が高いのがこの地域の工業の特色の一つとなっている。更に中川の水が利用できたことから、江戸友禅を中心に[[染色]]工業なども発達した<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/10_3%E7%AB%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.154、2017年]</ref>。


[[1932年]]([[昭和]]7年)10月の[[東京市]]への編入、[[葛飾区]]の誕生により本田町は近隣の4町2村と合併した。それまで本田町内にあった各地域(以前の大字)はそれぞれ本田立石町、本田梅田町などと「本田」を冠して呼ばれるようになった。区役所は当初、現在の立石図書館付近にあった旧本田町役場を使用していたが、[[1937年]](昭和12年)、本田立石町365<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/keikaku/reiki_int/reiki_honbun/g1230001001.html 葛飾区の事務所の位置変更に関する条例]</ref>の現在の[[かつしかシンフォニーヒルズ]]の位置に新築移転した。</br>
[[1932年]]([[昭和]]7年)10月の[[東京市]]への編入、[[葛飾区]]の誕生により本田町は近隣の4町2村と合併した。それまで本田町内にあった各地域(以前の大字)はそれぞれ本田立石町、本田梅田町などと「本田」を冠して呼ばれるようになった。区役所は当初、現在の立石図書館付近にあった旧本田町役場を使用していたが、[[1937年]](昭和12年)、本田立石町365<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/keikaku/reiki_int/reiki_honbun/g1230001001.html 葛飾区の事務所の位置変更に関する条例]</ref>の現在の[[かつしかシンフォニーヒルズ]]の位置に新築移転した。<br />
[[第二次世界大戦]]中の葛飾区の被害は東京都区部の他の地域に比べ少なかったと言われる中、[[1945年]](昭和20年)2月19日午後の空襲で葛飾区役所やその周辺の寺院、家屋や葛飾小学校(現・[[青戸]]1-3)が全焼または半焼している<ref> 葛飾区 『葛飾区史 下巻』 p.1406、1970年</ref>。3月10日の[[東京大空襲]]の際には、大きな被害はなかったが立石の婦人会が数日間[[荒川]]を超えてきた被災民の救護にあたったという<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/10_3%E7%AB%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.174、2017年]</ref>。
[[第二次世界大戦]]中の葛飾区の被害は東京都区部の他の地域に比べ少なかったと言われる中、[[1945年]](昭和20年)2月19日午後の空襲で葛飾区役所やその周辺の寺院、家屋や葛飾小学校(現・[[青戸]]1-3)が全焼または半焼している<ref> 葛飾区 『葛飾区史 下巻』 p.1406、1970年</ref>。3月10日の[[東京大空襲]]の際には、大きな被害はなかったが立石の婦人会が数日間[[荒川]]を超えてきた被災民の救護にあたったという<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/pdf/10_3%E7%AB%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E6%8E%B2%E8%BC%89%E7%94%A8.pdf 葛飾区 『葛飾区史』p.174、2017年]</ref>。



2017年12月29日 (金) 00:01時点における版

日本 > 東京都 > 葛飾区 > 立石 (葛飾区)
立石
立石全景(国土画像情報 カラー空中写真 国土交通省)
立石全景(国土画像情報 カラー空中写真 国土交通省)
立石の位置(東京23区内)
立石
立石
立石の位置
北緯35度44分22.7秒 東経139度51分20.2秒 / 北緯35.739639度 東経139.855611度 / 35.739639; 139.855611
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 葛飾区
地域 立石・四つ木地域
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 23,076人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
124-0012[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 足立
※座標は立石様付近
京成立石駅
立石様
玉垣の中の立石様

立石(たていし)は、東京都葛飾区の地名。現行行政地名は立石一丁目から八丁目。郵便番号は124-0012[2]

地理

葛飾区中西部、中川の西岸に位置し、亀有の約3km南方にある。葛飾区役所の所在地でもあり、葛飾区の行政の中心地を担っている。町域は西は国道6号を、南西部は東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)を境に四つ木に接している。南は奥戸街道を境に東立石に、東は中川を境に奥戸にそれぞれ接している。町の北東にある京成本線青戸との町界になっている。

町域内を京成押上線が貫いており、その中間付近に京成立石駅がある。駅前は現在、立石仲見世商店街の他、立石駅前通り商店街、スーパーマーケットイトーヨーカドー立石店)などがひしめく状態であるが、周辺の路地は車の通行が困難なほど狭く、駐車スペースもほとんどない。一方、建物の老朽化などの観点より京成押上線の高架化に合わせた駅前の大規模再開発も検討されている。

町内の商業エリアとしてはこのほか、区役所周辺(ホームピックサミットコジマなど)、奥戸街道沿いなどがある。周辺は、もともとは中小の工場が多い土地柄であったが、近年はその跡地を利用したマンション建設が盛んである。

町内には葛飾区役所、葛飾税務署、葛飾警察署かつしかシンフォニーヒルズ(文化会館)、葛飾エフエム放送などの公共施設が集中しており、葛飾区の行政上の中心地である。町名の由来となった立石様、安倍晴明が勧請したと伝えられる立石熊野神社などの史跡がある。

一方、東立石は中川湾曲部に囲まれた袋状の地域で、町内には本田消防署(ほんでんしょうぼうしょ)、渋江公園などがある。

なお、現在の立石・東立石・四つ木・東四つ木・宝町を合わせた地域は、1965年から1966年住居表示が実施されるまで本田(ほんでん)と呼ばれていた。消防署の名はこれに由来している。

地価

住宅地の地価は、2014年平成26年)1月1日公示地価によれば、立石5-23-2の地点で30万4000円/m2となっている。[4]

歴史

江戸名所図会 19巻 立石村 立石
『上代の東京と其周囲』に掲載されている立石祠の写真[5]
浜野繊維工業の跡地にある記念碑(東立石児童遊園内)
葛飾区総合庁舎

古墳時代には既に拓けていたと考えられており、立石様のある立石八丁目の周辺には南蔵院裏古墳(明治時代に破却)や熊野神社古墳といった古墳跡の存在が確認されている[6]
立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており[7]、このころ千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている[8][9]

室町時代1398年応永5年)に記された「葛西御厨田数注文」に地名としての立石が初めて登場する[10]

江戸時代西葛西領のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する向島地域とともに本田筋に区分されていた[11][12]。この時代、この地域はやその他の農産物を江戸に供給する農村地帯であった。また本田ウリ[13]と呼ばれるウリが当地の特産物であった[14]

明治に入り、行政上、東京府南葛飾郡に属することとなる。1889年(明治22年)4月、町村制施行によって江戸時代より続く立石村、梅田村、川端村、原村、中原村、淡之須村、篠原村、渋江村、四ツ木村、宝木塚村の十カ村を合わせて南葛飾郡立石村が成立した[15]。この際、合併前の村名は大字名として存続した。その後立石村は1890年(明治23年)に本田村と改称したのち、1928年昭和3年)3月1日には町制を施行し、本田町となった[16]

一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。1912年大正元年)には京成電気軌道が開業し、京成立石駅が開設されたことで、東京市部との移動が容易になった。また、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災では本所深川浅草などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した。なお現在でも、立石二丁目や三丁目には方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは1922年(大正11年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である[17]

また同時期に工業化も進み、1914年(大正3年)には現在の渋江公園の位置で、千種セルロイド工場が操業を始めた。これがこの地域における玩具産業の嚆矢となり、その後多くのセルロイド工場が立石、四つ木地域に集まってきた。現在でも、玩具産業の割合が高いのがこの地域の工業の特色の一つとなっている。更に中川の水が利用できたことから、江戸友禅を中心に染色工業なども発達した[18]

1932年昭和7年)10月の東京市への編入、葛飾区の誕生により本田町は近隣の4町2村と合併した。それまで本田町内にあった各地域(以前の大字)はそれぞれ本田立石町、本田梅田町などと「本田」を冠して呼ばれるようになった。区役所は当初、現在の立石図書館付近にあった旧本田町役場を使用していたが、1937年(昭和12年)、本田立石町365[19]の現在のかつしかシンフォニーヒルズの位置に新築移転した。
第二次世界大戦中の葛飾区の被害は東京都区部の他の地域に比べ少なかったと言われる中、1945年(昭和20年)2月19日午後の空襲で葛飾区役所やその周辺の寺院、家屋や葛飾小学校(現・青戸1-3)が全焼または半焼している[20]。3月10日の東京大空襲の際には、大きな被害はなかったが立石の婦人会が数日間荒川を超えてきた被災民の救護にあたったという[21]

立石の戦後復興は早く、ほどなく駅周辺の空き地に闇市が自然発生的に現れた。また、低湿地帯に属する立石地域は過去幾度もの洪水に見舞われる地域でもあった。その災害史の中でよく知られるのが1947年(昭和22年)に発生したカスリーン台風による被害であり、このときは町域の多くが水没した。

1960年(昭和35年)になると、京成電鉄都営地下鉄1号線(現・浅草線)との相互直通運転を開始し、浅草国鉄駅(浅草橋駅)への鉄道での直接アクセスが可能になった。また、1963年(昭和38年)6月には葛飾区内初のスーパーマーケットであるイトーヨーカドーがオープンしている[22]

1962年(昭和37年)5月には、葛飾区総合庁舎(葛飾区役所、区議会議事堂など)が落成した。跡地は一旦、区体育館などになった。

1966年(昭和41年)、住居表示の実施により、従前の本田梅田町、本田町、本田立石町、本田中原町などの区域をもって現行の立石一丁目から八丁目が成立した。また、前年の1965年(昭和40年)には従前の本田原町、南立石町、本田川端町などの区域をもって東立石一丁目から四丁目が成立した。

地名の由来

地名は、立石八丁目にある立石様という石に由来する。この立石様は、現在児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様、千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説、明細帳、江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたこと、また地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
立石一丁目 1,071世帯 1,990人
立石二丁目 1,460世帯 2,835人
立石三丁目 1,211世帯 2,272人
立石四丁目 1,347世帯 2,685人
立石五丁目 1,476世帯 2,996人
立石六丁目 1,670世帯 3,431人
立石七丁目 996世帯 1,841人
立石八丁目 2,658世帯 5,026人
11,889世帯 23,076人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[23][24]

丁目 番地 小学校 中学校
立石一丁目 全域 葛飾区立本田小学校 葛飾区立本田中学校
立石二丁目 全域 葛飾区立梅田小学校 葛飾区立大道中学校
立石三丁目 全域 葛飾区立立石中学校
立石四丁目 全域
立石五丁目 1~9番 葛飾区立大道中学校
10〜12番 葛飾区立立石中学校
その他 葛飾区立清和小学校
立石六丁目 全域
立石七丁目 全域
立石八丁目 全域 葛飾区立葛飾小学校

交通

鉄道

京成立石駅は高架化が予定されている。京成押上線京成立石駅を中心とした生活エリアをまとめて立石または京成立石(けいせいたていし)と呼ぶこともある。この場合、行政上の町名でいえば立石や東立石などがほぼ該当する[要出典]

路線バス

立石周辺のバス路線

都営バス京成タウンバス京成バスの各バス路線がある。京成バス新小53系統を利用した新小岩駅亀有駅からの所要時間はいずれも15-30分程度である。

道路・橋梁

道路

橋梁

  • 奥戸橋
  • 本奥戸橋
  • 平和橋

施設

区役所等
  • 葛飾区総合庁舎(区役所、都税事務所、区議会議事堂など)
国、都の施設
集会施設
  • 立石地区センター
文化施設
医療・福祉施設
  • 立石休日応急診療所(葛飾区医師会館)
  • 葛飾区保健所
  • シニア活動支援センター
  • 勤労福祉会館
  • ウィメンズパル(男女平等推進センター、消費生活センター、障害者就労支援センター)
  • 葛飾赤十字産院
  • 社会福祉法人原町成年寮
保育園
  • 本田保育園
  • 梅田保育園
  • 立石駅前保育園
幼稚園
小学校
  • 葛飾区立本田小学校
  • 葛飾区立梅田小学校
  • 葛飾区立清和小学校
中学校
  • 葛飾区立石中学校
高等学校
銀行
スーパーマーケット
  • イトーヨーカドー立石店
  • サミット葛飾区役所前店
家電量販店
産業振興
  • 葛飾区伝統産業館
商店街
  • 立石駅通り商店会
  • 立石大通り商店会
  • 立石勉強会
  • 立石中央通り商店会
  • 立石仲見世共盛会
  • 立石2丁目ハッピー商店会
  • 本田商栄会
  • 立石すずらん通り商店会
  • 区役所通り商店会
  • 立石西町商栄会
  • 立石通り商和会
  • 立石デパート商店会

その他

  • かつての立石を舞台として、つげ義春忠男兄弟が漫画を描いている。
  • かつては日本製薬葛飾工場が存在しており、血液製剤の製造が行われていた。この原料確保のために売血が実施されており、売血制度が廃止される1990年まで売血目的に訪れる人も絶えなかった。
  • 立石七丁目は玩具メーカーのタカラトミーの本社所在地である。2006年2月までは同地はトミーの、隣町の青戸タカラの本社所在地であった。
  • イトーヨーカドー立石店は6号店であり、創業の地(1号店)であったザ・プライス千住店(足立区千住、北千住駅前)が2016年4月10日に閉店して以降は現存最古のイトーヨーカドーとなった。
  • 2003年より、毎年9月の第1土曜日に「立石サンバカーニバル」(2007年に「立石フェスタ」と名称を変更)を開催している。これは京成立石駅周辺の商店会が協力して開催しているものであり、立石地域最大のイベントである。

立石にちなむ作品

関連項目

参考文献

  • 葛飾区郷土と天文の博物館編 『かつしかの地名と歴史』 葛飾区郷土と天文の博物館、2005年3月。

外部リンク

脚注

  1. ^ a b 葛飾区の世帯と人口”. 葛飾区 (2017年12月1日). 2017年12月18日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月18日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月18日閲覧。
  4. ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
  5. ^ 鳥居竜蔵『上代の東京と其周囲』1927、p.160
  6. ^ 葛飾区公式サイト 葛飾区の歴史 古墳時代
  7. ^ 谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.92
  8. ^ 谷口榮 「大嶋郷と交通」『古代交通研究』 第8号 1998、p.94
  9. ^ 葛飾区郷土と天文の博物館 「Ⅰ-2 立石様にまつわる歴史的な環境」『立石遺跡Ⅳ』 2010、p.5
  10. ^ 葛飾区 『葛飾区史』 第2章2節 p.86、2017
  11. ^ 葛飾区 『葛飾区史』p.113、2017年
  12. ^ "寺島と柳島 隅田川が育んだ村の伝承"、墨田区ホームページ
  13. ^ 喜多村信節嬉遊笑覧』成光館出版部、1932年、p.319
  14. ^ "葛飾の伝統野菜" 葛飾区ホームページ
  15. ^ 本田町編 『本田町誌』p.5、1929年
  16. ^ 本田町編 『本田町誌』p.7、1929年
  17. ^ 本田町編 『本田町誌』p.363、1929年
  18. ^ 葛飾区 『葛飾区史』p.154、2017年
  19. ^ 葛飾区の事務所の位置変更に関する条例
  20. ^ 葛飾区 『葛飾区史 下巻』 p.1406、1970年
  21. ^ 葛飾区 『葛飾区史』p.174、2017年
  22. ^ 葛飾区 『葛飾区史』 p.197、2017年
  23. ^ 葛飾区小学校通学区域一覧”. 葛飾区 (2015年12月16日). 2017年12月18日閲覧。
  24. ^ 葛飾区中学校通学区域一覧”. 葛飾区 (2015年12月16日). 2017年12月18日閲覧。